2013年12月30日月曜日

2013年の映画ベスト10+

昨年末のベスト10記事では、今年はあまり映画観られないかも発言してたくせして、結局それほどのペースダウンもせずに淡々と(実際は眈々!?)映画観てました。強いて減らした方面があるとすれば、劇場公開作のうちの拡大系ものかな。春から仕事内容が(ここ数年と比べて)ガラッと変わったので、仕事の仕方とか姿勢とかに慣れるのに予想通り時間も労力も費やしたけど、その分《映画を観る》という「日常」を軸足にすることで、ブレがち揺れがちな生活方針を時折軌道修正できたりも。そういった意味では、映画祭等の前売購入&日時指定といったフィックス観賞の方が都合好かったりして、映画祭で積極的に「観て(おいて)しまう」ようになったかな。(以前は、公開決まっている作品は後回しか観ないかにしてたけど)

昨年までは洋邦分けたり、劇場公開作と映画祭上映作品を分けたりし、それぞれでランキングつくったりしてたけど、とりあえず今年は全部まとめて「ベスト」を選出。ただ、劇場で初めて観た新作(一般公開が初めてという作品は対象)から。ちなみに、今年の劇場観賞本数は300本強。1日1本弱ってことなんだけど、感慨的には「そんなに観てたっけ?」って印象なので、そこそこ「我ながら適正」の付き合い方ができ始めたのかな、と楽観視。

以下、今年観たマイベストな映画たち。(観賞順)

 湖畔の2年間

 横道世之介

 アントニオ・カルロス・ジョビン

 ザ・マスター

 Oh Boy

 風立ちぬ

 マイルストーンズ

 エリ

 トム・アット・ザ・ファーム

 北(ノルテ)―歴史の終わり

 42 世界を変えた男

 ILO ILO

 かぐや姫の物語

 オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ


『湖畔の2年間(Two Years At Sea)』は、恵比寿映像祭の上映プログラムの一本。展示にも参加していたベン・リヴァースによる映像叙事詩。恵比寿で二回上映され、二回とも観に行った。貴重なフィルム上映でもあった。今年も二回観た『Playback』の三宅唱監督も観に来ていてゴキゲンだった(ように見えた)。更に、今年の爆音映画祭でも上映され(こちらはデジタル上映)、そちらにも足を運び、海外amazonからDVDを購入し・・・とにかく、はまりまくった1本。

『横道世之介』は、ここ数年何本も映画化されている吉田修一原作もの。とはいえ、それらの群からは見事に逸れ、小説と映画という異なる表現が素敵なめぐり逢い。ラストで流れるアジカンの、イントロ聞こえるドラムの音は、ノスタルジック前のめり。ヒット作に恵まれぬ(特に映画で)高良健吾(すごく好きな俳優だ)に、このうえない代表作が生まれた幸福。『蛇とピアス』の二人が全く頭によぎらない・・・という傑作の証明。記憶は哀ではない。記憶は愛である。(盗作)

『アントニオ・カルロス・ジョビン』は、有楽町で二回観た。ブルーレイも買・・・うつもり。今年は日常(特に仕事)で心身疲れる日々だったゆえ、映画はあくまで「気分転換」「享楽」をモットーに接した一年。左脳停止、右脳開放、身も心も委ねてしまえ。そんな私のお誂え向き。ボサノバの心地好さ、語らず醸し続ける絵巻。

『ザ・マスター』は公開初日に観たものの、終始圧巻で圧倒しきり。何が何だかわからぬままに見終えて茫然自失にさようなら。晩秋、悲願のフィルム上映で再会したマスターピース。つかめないことの正しさが確信できれば、もう何度でも酔う覚悟。

『Oh Boy』は、来年シアターイメージフォーラムで『コーヒーをめぐる冒険』として劇場公開される。とってもファニーで豊かにタイニー、だけど最後はファンキー・シリアス。スイーツ大好きな僕だけど、コーヒーは苦味全開銘柄限定。そんな僕の極上一杯。

『風立ちぬ』は、というか宮﨑駿の映画は、人生のランドマーク的存在。実は、初めて映画というものに圧倒された体験は、地元の市民会館大ホールで観た『風の谷のナウシカ』だったと記憶する。それからもずっと傍にあったけど、大学入学、就職、再就職という人生の節目に決まって公開されてきた宮﨑駿の映画はもはや、やっぱり重大事件。そして、今の仕事に就いて十年目、第二のスタート的な今年に公開された『風立ちぬ』、そして引退宣言。ただの偶然を必然として語りたくなるほどの存在って時点で既に、染みつくというより棲み着いているんだね。

『風立ちぬ』で始まった今年の夏休みは、ジョン・ダグラス&ロバート・クレーマーの『マイルストーンズ』で終わりを告げた。冥界へ「来て」と呟こうとした可憐な祈りが「生きて」に変わって始まった夏。命の誕生に立ち会うラストで手を振った夏。

『エリ』は、ラテンビート映画祭で観たメキシコ映画。監督のアマ・エスカランテは、(本作のプロデューサーにも名を連ねる)カルロス・レイガダスの作品への参加経験もあり、作風も明らかに「傘下」にありながら、単なる賛歌に堕すこともなく、頼もしすぎる師弟関係の垣間見にホクホクゾクゾク。(来年はなんとレイガダス作品初の劇場公開が!ユーロスペースで『闇の後の光』が公開されるみたい。全作品に日本語字幕あることだし[オムニバスで参加した映画もラテンビートで上映されたし]、併せて回顧上映も期待したい。全て再見したい!)

『トム・アット・ザ・ファーム』は、堅実なワクワクやドキドキが多勢を占めた今年の東京国際映画祭にあって、その他の作品全部を足しても叶わぬ華麗なる戦慄。実は、満を持したまま未だ観ぬ『わたしはロランス』。グザヴィエ・ドランのフィルモで唯一のミッシング・ピースとなった同作は、2014ベスト当確一番乗りなことだろう。真にローカルなものこそが、正にユニバーサルだという事実。それをセクシャリティにおいて挑む新たな地平には、きっと豊饒な大地が待ってるはずだ。

『北(ノルテ)―歴史の終わり』は、超長尺作品ばかりな故に映画祭での上映すらままならぬラヴ・ディアス最新作。彼の作品群では短めな250分。休憩なしでの上映だったので、『旅芸人の記録』や『花を摘む少女と虫を殺す少女』の休憩なし上映を上回る自己新記録。という記念も込みではあるけれど、TIFFでの評判が思ったより芳しくない印象ながら(カルロス・レイガダス特集の時にも同様のムードを感じたな)、個人的には未刺激心酔ポイントを連打され続けた4時間超。ラブ・ラヴ・ディアス。

『42 世界を変えた男』は、もしかしたら映画祭疲れに絶好恰好の慰労剤だったからかもしれぬが、それでもここまで厳かで穏やかなブライアン・ヘルゲランドの正攻法には、約束された魅了が確かにあった。黒と白の架け橋が、赤ではなく青であった美しさ。まだまだ青い僕には眩く輝くシルヴァー・ライニング。

『ILO ILO』をフィルメックスで観る直前、同作の監督であるアンソニー・チェンの会見に参加したのだけれど、すぐ目の前でユーモアを交えつつも理路整然と語る好青年な姿は、昨今の日本映画(とりわけインディペンデント)に感じる閉鎖性や閉塞感とは実に対照的で、プロデュースやアピールという外向きな力が見事に前向きで、それでいてどれだけ外を向いても空洞化しない堅牢無比な内面がそこはかとなく滲みもしてる。そんな自信と他信に裏打ちされた慈愛の語りには、衒いからは断じて生まれ得ぬ溌剌とした機微が氾濫してた。

『かぐや姫の物語』の終盤、かぐや姫が月に還ってゆく場面。場内に、女の子の泣き声が響きわたった。声の感じからは小学校低学年くらいだろうか。その哀咽に、悲しみが正しく愛おしさの裏返しであるという事実を改めて知らしめられた大人たち。そんな大人たちに降り積もっていた緊迫や退屈や冗長や興奮は、すべてがやさしさに包まれて、エンドロールが終わるまで、空気すべてが微動だにせず。「映画を観る」とは、どういうことか。とりわけ、自分にとって。そんな問いかけがいつしか常駐テーマとなった今年の後半。おまけに、和の芸術表現にみるみる惹きつけられていった私的文化潮流も今年の大きな変化。そんな私にとって、僥倖が凝縮したかのような邂逅の体験。すべての一瞬が千載一遇であり、すべての一瞬は一期一会。

『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を、クライスマス・イヴの昼下がり、絶妙な寂れ具合の吉祥寺バウスシアターで観た。シアター1の大きなスクリーンとスカスカな客席、今や昔ながら的存在感となった非常口誘導灯。すべてが愛しき今此処感。身を委ねられるものならば、心は当然持ってかれ・・・。目と耳がひたすら吸い寄せられてたゆたい続け、己のオールを掴む気はない。全権委譲の至上の幸福、至福時間はエンドレス。ヴァンパイアにとって人間の一生が一瞬であるように、私にとっての本作は、瞬き忘れた瞬きのとき。


昨年までは区分だとか順位とかを決めてたし、自分以外を意識した「配慮」的な思考も絡んでたように思う年間ベスト。今年は、区分や順位をやめたこともあり、より自由に選出できた気も。(勢い余って本数もちょっと無視したり・・・10本のつもりで10数本になっちゃいました。)そもそも、こうして「発表」とかした瞬間は、他人の眼にさらされるし他人の眼が何か言ってくれたりもするけれど、結局何年も経って振り返ってくれるのは自分だけだろうし(笑)、だったらそんな未来の自分にとって価値ある「ベスト」こそがまさにベストなんではないかな、と。2013年の自分が何を想って生きてたか。そんなことを垣間見せてくれる並びにしようかと。

上記の14本にしぼるまえ、書き出した映画は他に12本。

拡大系では、『クラウド・アトラス』(2回観に行っちゃいました)と『ゼロ・グラビティ』(初日に2回観に行っちゃいましたし、その3日後にも観に行っちゃいましたし、もう1回くらい観に行っちゃいそうです)。

中規模・ミニシアター系では、『汚れなき祈り』、『偽りなき者』、『君と歩く世界』、『コン・ティキ』。どれも観賞直後の感触は確実に年間ベスト級。2013年の自分にとってのスペシャリティがもしかしたら些か不足してたのかもな。

イメージフォーラム・フェスティバルで観たジョナス・メカスの『ウォールデン』、『リヴァイアサン』も是非入れたかったのだけど、何となくはみ出てしまったという無念。

個人的には小粒揃いながらも着実に幸福続きだった東京国際映画祭観賞作品では、コンペで観た『エンプティ・アワーズ』がしみじみと忘れがたき一本に。

東京フィルメックスのコンペでは『ハーモニー・レッスン』に心酔し(後半は個人的に大失速)、『鉄くず拾いの物語』でダニス・タノヴィッチの飽くなき探究心と屈強チャレンジングにただただ感服。

アンスティチュ・フランセ東京で観たアラン・レネの新作『あなたはまだ何も見ていない』が誘う魅惑ラビリンスには、何度となく迷い込みたい気分。豪華キャストにだまされて、勢いで公開決まったりしないかな・・・(岩波ホールでもいいからさ)


今年はブログに全然記事化してなかったこともあるし、備忘録的にももっとしっかり回顧しておきたいところなんだけど、長くなりすぎたので、ここらでグッバイ2013。来年早々気が向いたらプレイバック2013、かも。来年は、気軽に頻繁更新目指します・・・たぶん。正直、今年はブログにしてもツイッターにしても、付き合い方というか向き合い方というか、混迷に混迷って感じで「遠ざかる」ことで暫時解決貪ってた気がします。何事も自分なりのスタイルを見つけたり確立したりするのって難しいものですね。2014年は則天去私のオラシオン。よいお年をお迎え下さい。

2013年11月24日日曜日

スウェーデン映画祭2013の注目作

洋画の興行不振と軌を同じくして(?)、映画祭の濫立に拍車がかかる近年。映画祭の季節は取捨選択と自問自答、そんな往復反復常住坐臥の嬉し恥ずかし悲しき性よ。

今年の11月から12月にかけての数週間は重なりすぎて「犠牲」とかの概念すら吹き飛ぶ感じ。ここまで来るとカラダもココロも一つでありがとう!などと天に感謝を始めてしまいそう(ただの「つよがり」とも呼ぶ)。

そんな中、今年から始まる(で合ってる?)スウェーデン映画祭。「トーキョーノーザンライツフェスティバル」からのスピンオフ(?)みたいだし、別に優先順位あげとかなくても好いかな、などとラインナップを気負いなく覗いてみると・・・

救済は忘れた頃にやってくる。劇場観賞を個人的に願って止まなかった『セッベ』が上映されるではないですか!!! ブログを始め、初めて劇場未公開作について記事を書いてみたのが、その『セッベ』。もう二年半以上まえのこと。この記事がそうなんだけど、物語全篇を追いながら書いているので、観賞予定の方は(もし読んで頂ける場合は)「途中まで」を参考にして頂ければと思います。

閲覧回数など僅少だし、検索して辿り着かれる方など極めて稀だったけど、ノーザンライツに勝手にラブコールしてみたりした甲斐がありました。(全然、無関係です、実際は。)

しかも、3回の上映のうち、2回には監督の舞台挨拶まである(追記:中止になったとのこと。残念・・・)というではないですか!必見!

監督のババク・ナジャフィは、『セッベ』の後に、ヨエル・キナマン主演で『イージー・マネー』の続編を撮っていたりするんだけど、そちらは未見なので、一作目と併せてWOWOWあたりで放映してくれないだろか。『イージー・マネー』一作目はダニエル・エスピノーサ(『デンジャラス・ラン』)が監督を務め、ザック・エフロン主演でのハリウッド・リメイクも決まったらしいし。(もしかしたら、ノーザンライツでの上映があったりする!?)

ついでに、ノーザンライツでの上映希望を勝手につぶやいとくと、個人的に大好きで大注目なヨアキム・トリアーとか紹介してください!今年9月に原宿VACANTで開催されてたイベント「ノルウェージャン・アウトレット」内で「Oslo, 31. august」の日本初上映があったと思うから(行けなかったけど・・・)、日本語字幕もあることだろうし、彼の処女作「Reprise」も絶対紹介しておいて損はない(というか、イベントにも後々箔が付くはず!)。と、今頃、しかもこんな片隅の片隅でつぶやいても意味ないけどね。最近はジャンルものやクラシックなんかも充実させてて興味深いイベントながら、作家性やや強めな新進気鋭監督作なんかの枠も設けて欲しいというのが個人的最重要望。

とりあえずスウェーデン映画祭2013は『セッベ』を上映してくれるとわかった日から、「通う」ことを心に誓ったことだし、なるべく観られるだけ観たいと思う。というわけで、今年もポーランド映画祭とは一切無縁で終わりそう。(だって、中国インディペンデント映画祭2013は絶対に見のがせないからね。本当に大充実な上に映画祭の神髄が宿ってる屈指の映画イベントだと思ってます。前回の感想などはこちら。)

2013年11月18日月曜日

スリー・モンキーズ(21日深夜放映)

先月の東京国際映画祭ではレハ・エルデム2本立という物好きコースに酩酊な夜を味わった映画ファンも少なくなかったことだろう。各国の映画祭で地道に長らく注目を集め続けるトルコ映画。ここ日本の映画祭においても地味ながら根強いファンを獲得して来ている気がする。東京国際映画祭でもSkipシティDシネマ映画祭でも新しいトルコ映画を見せてもらえるし。ただ、一般公開となるとやはりハードルは高く、一昨年のセミフ・カプランオール「ユスフ三部作」(2011年のマイ・ベスト)以来、劇場公開の念願成就はなかなか叶えられることがない。

現代トルコ映画において世界的評価を牽引してきたヌリ・ビルゲ・ジェイラン。カンヌ常連の彼(グランプリ2回、監督賞1回という高実績)は、東京国際映画祭やSkipシティDシネマ映画祭のコンペにも参加(及び受賞)経験があり、日本でも映画祭での作品上映は(コンペ以外でも)そこそこ恵まれてはいるものの、劇場公開作が一本もないのは残念でならない。確かに、作風としては劇場公開には圧倒的に不向きかもしれないが、明らかに「ならでは」の魅力をもつ彼の作品は、「出会う機会を与えてみて、まずはそれから」的アプローチも必要。革新や確信からはやや遠ざかり、核心も曖昧だったりする微かなドラマとドラマチック過ぎる冗長画力は、セミフ・カプランオールがユスフ三部作で見せた深遠なる自然の囁きとは一味も二味も違う、伝統と近代化における内部分裂的デカダンス。デジタル撮影という新たなパレットにより、ヌリ・ビルゲ・ジェイランは自らの世界を一刷毛にまで投影してる。

『昔々、アナトリアで』が一昨年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭オープニング作品として一回限り上映されたものの、その後は彼の作品を(劇場で)観る機会には恵まれなかったが、今夏にアンスティチュ・フランセ東京で開催された地中海映画祭2013で『五月の雲』を観られた喜びも束の間(?)、思いがけず今度はBSスカパー!で『スリー・モンキーズ』が放映されるという奇跡的幸福。しかも、ちゃんとHD画質。デジタル撮影ということもあってか、デジタル放送とも相性の好い「画」な気がしたり。シネスコなので、画面右上に表示される「見事な存在感」のロゴもうまく隠せば(といっても布とか掛けてという意味です)画を邪魔しない。DVDは持っていたけれど、こんな高画質で見せてもらえるとは今年のマイベスト放映かも。

当ブログでも何度か紹介してきた「スカパー!シネマアワー THE PRIZE」は本当に侮れない(どころか注目の)ラインナップで、そのくせボーッとしてるとついつい見逃してしまうという要注意枠。確か先日も(といっても何ヶ月も前だけど)エリア・スレイマンの『D.I.』とか放映してたりしたし。ただ、何故かこの枠は「オリジナル・タイトル」をつける癖(?)があり、『D.I.』も別のタイトルだった気が。おまけに、監督の表記とかもオリジナルだから、気づきにくかったりヒットしなかったりな事例も多数。DVDスルーの作品から放映されることもあれば、映画祭上映作品からの流用的ラインナップもあったり、いずれにしても自力ではHD画質で観られないものがHD画質で観られたりすることも結構あって(SD画質のこともあるけれど)、実に貴重な枠なのです。あのロゴさえなければもっと素敵なんだけど・・・。

『スリー・モンキーズ』(東京国際映画祭では上映されたんだよね、観てないけど・・・)の放映は、あと一回。21日木曜深夜。トルコ映画ファン、必見。

ちなみに、アンスティチュでの『五月の雲』上映は35mmだったんだけど、2000年の地中海映画祭(国際交流基金フォーラムで開かれてて、私もほんの数本だけど観に行った記憶が)で上映されたフィルムで上映されていた。そして、2000年以来上映される機会がほとんどなかったのだろうか、見事に鮮やかなプリントだった。ああいうフィルムを活かせる(そして、出会える)「場」がもっとあれば好いのになぁ、などと切に思ったりもした。


2013年10月8日火曜日

アンドレス・バイス

明日から始まるラテンビート映画祭は例年より遅めの開催で、例年より早め(?)開催の東京国際映画祭とのインターバル一週間強。後者は木曜始まりの金曜終わりだし、一般的な休日にあたるたったの二日間(土日)の上映スケジュール見ても微妙だし、もう「一般の映画好き」とか門前払いオーラを放ちまくってて・・・それに比べれば平日夜と三連休をうまい具合にスケジューリング、但し、フライングなゲスト情報で釣っては恒例のキャンセル告知というピンポンダッシュ作戦(?)は相変わらず(ここまで常套だともはや微笑ましい?)なラテンビート映画祭。

いろいろな注目作はあるものの、俄然目下最注目株急浮上なのがアンドレス・バイス監督作。先日WOWOWで初めて観た『ヒドゥン・フェイス』に今更興奮したのが全ての始まり。一年前にシアターN渋谷で劇場公開されたらしいも、迂闊ながらノーチェック。というわけで、事前情報なしで不意に見始めたのも奏功してか、無性に楽しかった90分。AクラスなB級といった如才なさで駆け抜け切るかと思いきや、終盤のある場面ではアントニオ・ロペスの有名な大作『バリェーカスの消防署の塔から見たマドリード』と驚くほどそっくりな「画」が突如現れるという素敵な仕掛け。あれ、同じ場所じゃないよね・・・。でも、「赤い手すり」にしても、その向こうに見える光景にしても、本当そっくり。

そのアンドレス・バイス監督作が何と2作も観られる第10回ラテンビート映画祭

『ヒドゥン・フェイス』の前に撮った長編一作目『ある殺人者の記録Satanás)』。



最新作となる『暗殺者と呼ばれた男Roa)』。



昨年劇場公開された監督二作目の『ヒドゥン・フェイス』に続き、ラテンビート映画祭で一作目と三作目が上映されるアンドレス・バイス監督。奇しくも早くもフィルモ制覇の御膳立て。ちょっと好い機会。彼の監督作は三本とも90分台。それも、好い。
 

2013年8月30日金曜日

マン・オブ・スティール



前半のノーラン・コントロールにおける「ザックのこだわりグッとこらえて物語る」チェック&バランス的緊張感はなかなか好ましく、プロデューサーとしてのクリストファー・ノーラン及び監督としてのザック・スナイダーの新境地に邂逅できた幸せいっぱいで帰路に就くのだとばっかり思ってた。しかし、どうやら前半の真っ当さは後半でやりたい放題させてもらうための「取引」によるものだったのか!?

前半にはノーランらしい哲学的・倫理的・社会的テーマが(ややあからさまに)埋め込まれており、この手の作品のそうした「おしつけがましさ」は嫌いでない自分にとって、それらの要素がどのように回収され結実してゆくのかを楽しみに見守っていたのだが、後半(特に終盤)はただひたすらバトルを見せたい(撮りたい)だけの欲求が暴発炸裂状態で、「見方を変えねば・・・」と思っているうちに気持ちの整理はつかぬまま(=アニメ的CG擬似実写アクションを適正に享受することもできずに)、今夏二度目の(まさかの)マイケル・ベイ待望メンタリティに陥るという悲劇。でも、最後の最後ではちゃんと「現実」に戻ってきてくれて、クラーク(ヘンリー・カヴィル)の眼鏡とロイス(エイミー・アダムス)のベタ台詞は、ビギンズのエンディングを適正補正。まぁ、それもこれも厳かさと躍動をたっぷり吸い込んだハンス・ジマーのスコアあっての出来事ではありますが。

ノーランお得意の「人間(社会)を試す」ようなアプローチが序盤に用意されていて、例えば「人間は支配できないものを恐れる」といったクラークの(人間の方の)父(ケヴィン・コスナー)の言葉などを聞けばつい「スーパーマン=原子力」なんて思ったり。そして、それに人間は一体どう対峙するのか(すべきなのか)を物語を通して問いかけるつもりなのかな、とか。カルの(クリプトンの方の)父(ラッセル・クロウ)は、「(操作によって予め新生児の役割が限定されるクリプトンの実態に異を唱え)新しく生まれてくる命には選択(choice)と可能性(chance)が与えられて然るべきだ」と主張。これも、人間による近代文明(秩序・管理・統制を求める社会)に対するアンチテーゼというか警鐘というか。人間の不確定性というか流動性というか獣性(?)みたいなものに可能性や自由を求める着地を目指すのかなぁ、なんて思って見始めたり。

更には、ゾッド将軍(マイケル・シャノン)が「進化した者こそが勝利するというのは歴史が証明している」と言い放つと、「進化とは何か」という揺さぶりからの「歴史の意義」「過去の価値」という考察の深化が始まった!(今までのノーランは同時代的考察が強すぎる気もしていたので)・・・と小躍りするも、せいぜいそこに添えられた答えなものは情緒的葛藤というハンデ(?)による演出(スーパーマンの刹那の逡巡と直後の雄叫びのみ)で、それとてそれが克服なのか受容なのか創造的葛藤なのかすら示されず、関心の全てはあっさりと戦闘へ(葛藤、即リセット)。

語るより描きたいザックと、描くより語りたいクリス。そんな二人の弁証法は、止揚半ばで墜落しちまった・・・けど、終始鳴り響き続けるハンスの音楽がいつ何時も心を高揚させるから、結局地面に打ち付けられる(ダメージ受ける)ことないまま一気に完走してしまうという映画的力業の勝利。初日初回大スクリーン(勿論、シネスコ!)、周りの観客から醸される待望と緊張と興奮の坩堝の只中、といったアドバンテージも当然ありはしたけれど。

IMAX上映のある作品は必ずIMAXで観るように、3D上映のある作品は必ず3Dで観るように。それが以前の私的慣習だったのだけど、最近では臨機応変で(というか個人的展望というか欲望に応じて)観賞スタイルは流動的。今回も、初日にIMAX3Dで観ようと思ってはいたものの、予約開始即座にベスポジ付近が物凄い勢いで完売してて、ひとまず断念。来週の平日にでもゆっくりまったり観るかと思いつつ、何となく8月中に片付けたい(笑)気がふつふつと。そこで初日初回のUC豊洲10番2D字幕版で観ることに。その後にIMAX撮影なしだと知って内心「だったら別にIMAXじゃなくても好かったかもね」と思いきや、新宿ミラノ1での上映がフィルム上映(撮影もフィルム)と知り、しまった・・・と思ったものの、観てみればCG尽くしの画ばかり故に、まいっか。それため、3Dで観た人よりも楽しさ半減してるかもしれないし、フィルムで観るよりも味わいが減じているかもしれないけれど(でも、ワーナーは字幕のフォントをちゃんと劇場仕様的な旧来の字体にしてくれるから、デジタル上映でも「映画館で観てる感」が減退しないで済むのが好いね)、やりたい放題バトルシーンはやっぱり大スクリーンで観ればその価値は十分あるし、繊細なピアノの音も和太鼓みたいな怒濤のドラミングも大きな空間に大きな音で響くのを聞く価値は十二分。豊洲10番はスクリーン自体はあまり綺麗ではない(汚れがやや目立つ)けれど、フィルム撮影の作品なら(デジタル上映であっても)それが気になりにくい。

3Dで観なかったもう一つの私的な理由(極めて些末)は、IMAXで観た予告での3D演出が「後付」感全開だったり、個人的に最も嫌いなタイプの3D使用(奥の人物が手前の人物の肩越しに見えてる場合、その手前の人物をやたら浮き上がらせるといったパターン)が目についたりしたこともある。そういう手法だと、画面のなかで階層は見事に出来上がるけど、それぞれの階層が異様にのっぺり(2D以上に2D的に)見えてしまう気がしてしまうので、個人的にはそうした使い方が好きではない。まぁ、予告観ただけなので、本編ではもっと面白い3D演出が施されている可能性は十分あるとは思うけど、「画の暗さ(IMAXならだいぶ解消されるけど)」と「速い動きへの対応困難」といった現状への不満と、出尽くした感と見馴れた感による鮮度低下は、個人的3D離れを根強く後押ししてしまう。とはいえ、先日観た『スタトレ』みたいなアトラクション(に徹した)ムービーの場合なんかでは、IMAXにしろ3Dにしろ遺憾なく威力を発揮してくれてたし、3Dという技術がこれからもっと幸せな活用に向かうことを期待したい。(当初はSFやアクションといったダイナミズムに映える技術だと思っていたけれど、実はアート系でこそ新たな地平を切り開けそう。ヴェンダースは期待外れだったけど、ゴダールはどうなるのかな。)

夏休みの宿題を夏休み中に片付けたような達成感。学生時代に決して叶わなかった計画性と余裕な成就。って、たかがねぇ・・・。とはいえ、今夏に毎週公開された(いずれも期待値高めな)大作5本は、好悪は様々ながら各々それなりに見応えあった。ちなみに、そうした大作群のうちローランド・エメリッヒを除く4人はいずれも60年代の生まれ。ゴア・ヴァービンスキーとギレルモ・デル・トロは1964年生まれ、J.J.エイブラムスとザック・スナイダーは1966年生まれ、そしてマーク・フォースターは1969年生まれ。みんな40歳代。まさに働き盛りって感じと同時に、いずれも「不惑」を謳歌している感じが存分に(マークは未遂だったようだけど)。とはいえ、自身の「やりたいこと」と周囲(及び社会[というか観客?])から「求められること」とのバランス感覚に、各々の生き方(生き様)や哲学が明確に出ていた気がして興味深かった。ちなみに、クリストファー・ノーランは彼らの誰よりも若く、1970年生まれ。そんなこといったら、チャニング・テイタムの盟友リード・カロリン(『ホワイトハウス・ダウン』でプロデューサー)なんて1982年生まれなんだよね。彼は『マジック・マイク』では脚本を担当していたり(端役で出演してたけど、役者も向いてそうな印象だった)、面白い存在になりそうな予感。
 

そういえば、スクールバスの一件とか聖職者に自身の役割を説かれたりとか、『サイモン・バーチ』を勝手に想い出したりもした。「特別」であることに変わりはないね。

2013年8月24日土曜日

ダニス・タノヴィッチの劇場未公開作

現在開催中の第19回サラエボ映画祭今年のコンペ審査委員長は、ダニス・タノヴィッチ。彼の初長編作品『ノー・マンズ・ランド』はカンヌでの脚本賞を皮切りに、実に多くの賞に輝いたが、批評家と観客の双方から賞賛されるという稀有な結果が作品のもつ普遍性が傑出したものであることを証明しているように思う。オムニバス『セプテンバー11』への参加を経て撮り上げた二作目『美しき運命の傷痕(L'enfer)』は、キェシロフスキによる原案だったが、大河でメロなドラマの華麗なる収斂ぶりに、キェシロフスキ自身が撮るよりもよかったのではないかとさえ思ってしまったものだ。(キェシロフスキ脚本をトム・ティクヴァが監督した『ヘヴン』を観た時も、実は同様の感想を抱いたりもした。)

個人的にも新作を楽しみに(というか絶大な信頼をもって期待)したい監督の一人となったダニス・タノヴィッチだったのだが、その後、新作公開の話が全然入ってこず、今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ&男優賞)に輝いたとの報に驚く。その「An Episode in the Life of an Iron Picker()」は上映時間も75分と小品のようだが、ロマの家族に起こる悲劇を社会的背景と絡めつつ力強い問題提起がなされていそうでまたもや傑作の予感。






日本での劇場公開は見送られてしまったものの、タノヴィッチはその「An Episode in the Life of an Iron Picker」の前に長編を二作撮っている。そのうちの一本、「Triage」(2009)は『戦場カメラマン 真実の証明』として日本でもDVD発売され、WOWOWでも放映された。録画したまま永らく放置してしまった私だが、ようやく観てみると実に素晴らしい。従来のダノヴィッチ作品に比べると派手さはないし、戦争映画としての声高な主張も回避されており(戦争という事象より、人間という存在に焦点)、確かに地味な作品ながら、複雑な当事者性が錯綜しながら描かれる矛盾と葛藤は、個人の尊厳の根幹に分け入ることを決して辞さぬ。欧米における戦争映画は、自虐と自戒という受け皿以外で受容されることは難しいのかもしれない。つまり、「わからない」ことを「わからない」まま描くことはタブーなのだろう。是非に関わらず、判定、裁定、そして断罪、贖罪。そのいずれにも逃げない語り手と向き合うとなれば、赦しなきまま問題を見つめ続けることが求められてしまう。そして、本作における主人公に迫られた覚悟こそが、まさにそれなのだ。

原題にもなっている「トリアージ」とは、多数の負傷者が発生した際、現場で傷の程度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。主人公のマークと親友のデイビッドは取材で訪れたクルディスタンで、トリアージを日々目の当たりにする。そして、治療のための優先順位から外される「青い札」の存在を知る。青の札が置かれた(ここでは)手の施しようのない負傷者は、「安楽死」ために、銃殺される。医師自身の手によって。そうした現実に対する疑問はやがて、自らの激しい苦悶の日々に重くのしかかる。マーク(コリン・ファレル)が負傷し帰国するまでに、一体何があったのか。何が彼を苦しめ、何が彼を追い詰めるのか。真相を小出しにするようなギミックではなく、主人公の深層に観客が入り込むのを焦ることなく待っている。やがてマークの恋人エレーナ(パス・ベガ)の祖父(クリストファー・リー)が水先案内人として現れると、正面から扉を開ける手助けをしてくれる。しかし、極めて上質な「省筆」が慎重に選択されており、そこにはいくらでも書き込む余地がある。「経験していないことを責める経験者」マークが責めていたのは、結局「経験している自分」だったというパラドクス。経験をもたない外部の者(傍観者)は、当事者に何ができるだろうか。

◆主人公のマーク・ウォルシュは写真集を出版していたことがあり、そのタイトルは「ALONE」。恋人の祖父がそれを捲る場面がある。マークがかつてシンパシーを描いた心象風景にシンクロした現在。孤独に幽閉された彼を救おうとする恋人もその祖父も、あるいは彼の親友もその妻も、皆が皆、孤独であるという事実が刻まれていている。相対的な悲哀も寂寞もそこにはなく、だからこそ主人公だけが悲劇の渦中にいるわけではない。生きている人間は等しく「渦中に生きる」のだ。映画の最後に浮かび上がるプラトンの言葉。It is only the dead who have seen the end of war.

◆マークの恋人エレーナは、彼を救うために祖父ホアキンを呼び寄せる。ホアキンはかつて、フランコ独裁政権の手先となった者たちを「治療」した経験があるようで、エレーナはそのこと自体に耐えられず、祖父のことも赦してはいなかった。ホアキンの仕事をエレーナは「beautify(美化)」と呼び、ホアキン自身は「purify(浄化)」であると弁明する。相手の言い分にも真実が宿っていることに各々気づいている。それが彼らの対話には滲み出ている。祖父の「赦し」を、孫は許せないが、祖父の「赦し」は相手に与えているものではない。同時代を生きた者同士としての自責の共有であり、肩を貸しているに過ぎないのかもしれない。そして、それは自らが背負わずに済んだことに対する罪悪感に対する処方だったのかもしれない。世代間にうまれる歴史認識の齟齬。それは軋轢や不継承に発展させるためのものではなく、それがあってこそ可能になる過去との対話。常に異質であるはず(べき)の過去。互いに許容される範囲で、許容をベースとしながら、対話を始めたところで過去とは向き合えない。それは主人公マークの背負った「過去」にも通じることで、ホアキンはマークに言う。「他人に赦しを求めても、痛みはかかえ続けるしかない。それが生きるということだ。」

◆マークが眠っているベッドの傍らにいたホアキンが、目覚めたマークに言う。「随分と安らかな寝顔をしていたよ。」「それは好い傾向だろ?」というマークに対し、「いや、むしろ悪い兆候だ」と答えるホアキン。平穏(peace)な寝顔は悪い兆候。悲劇からは目を背け、現実には目を瞑り、平和な眠りを貪る者たちは、無自覚のまま犠牲を強いる。

◆終盤の会話のなかで出てくる、カメラをもつことで被写体との間に境界線(「国境」ともかけている)ができるという喩え。そのことで、対象が現実(ファインダーの向こうにだけあるものではなく、自ら実際に働きかけてくる力をもった)であることを忘れ、死にもつながると捉えるマークに対し、ホアキンは「それが身を守る」こともあるのでは?と告げる。いずれにせよ、どちらも自己防衛のための境界線であることを示唆しているように思う。しかし、自己防衛こそが自滅へのシナリオを裏書きしているという真実をも含蓄した言葉にも思えてしまう。

◇ファイン・ヤング・カニバルズの「Johnny Come Home」が流れるのだが、これはもしかして『ジョニーは戦場へ行った(Johnny Got His Gun)』を意識しての選曲だったりする?

◇本作のエンドロールで灯る「アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックに捧ぐ」の文字に胸が熱くなる。つい先日、彼らが製作した不遇の傑作『マーガレット』(存命中に完成せず、訴訟も経ながら一昨年にようやく日の目をみた)を観たこともあり(当然、こちらにも同様の言葉が)、奇しくも同年(2008年)に亡くなった彼らの存在の大きさを噛み締めつつ激しく惜しむ。とりわけ、アンソニー・ミンゲラは享年54歳。監督としての矜持を持ちながら、プロデューサーとしての領分を弁えた二人の仕事はきっともっと傑作を産み出し続けられたはずだろう。

◇役者のアンサンブルが実に好い。主役のコリン・ファレルは例の「流出」で大変な時期だったのだろうか。最近では出演作の質量ともに充実し始め完全復活しているが、この時期の彼もなかなかだ。スキャンダルがなければ本作ももっと世に出ていけたかもしれない等とすら考えてしまう。恋人役のパス・ベガ(ニコール・キッドマンがグレース・ケリーを演じる「Grace of Monaco」ではマリア・カラスを演じる)の抑制の効いた愛情の震動は確かな波動だし、彼女の祖父役クリストファー・リーの説得力たるやまさに神がかり的。親友の妻を演じるケリー・ライリー(「犯罪捜査官アナ・トラヴィス」!最近だと『フライト』でも好演してました)の存在感が適材感。序盤で僅かな出演ながら抜群の存在感を残すクルディスタンの戦場の医師役ブランコ・ジュリッチ。『ノー・マンズ・ランド』で主演した彼は、ロックバンドや劇団も主宰する才人で、もうすぐ公開のアンジェリーナ・ジョリー初監督作『最愛の大地』にも出演していたりする。

原作の内容について詳しく描かれた記事があった。是非、読んでみたい内容だ。映画が劇場公開されていたら、日本でも出版されていたかもしれない・・・

2013年8月18日日曜日

ホワイトハウス・ダウン

The pen is mightier than the sword.
(ペンは剣よりも強し。)

そんな言葉をこの手の映画で決め台詞に持って来ちゃうところが、エメリッヒ&ヴァンダービルトって感じがして、「堅いなぁ~」と苦々しくも微笑ましい。ただの思わせぶりや未回収の伏線もどきも無くは無いけど、むしろ律儀な回収ジョブにいちいち減速しがちなとこも。とはいえ、序盤の「ポリティカル・サスペンス内に何とか留まろうとする」流れから後半の「破れかぶれ」に突入すれば、そこそこ気楽におんぶにだっこ。日曜夜のテレ朝で(勿論、吹替で)観たい気分に充たされながら、それを初日初回に駆けつけて特大スクリーン(シネスコだし!)で観てるという豪快バカの贅沢は、それはそれで醍醐味なのだ。

とか言いながら・・・前日深夜に本作のCMを観て予約してた事実を想い出し、あわてて寝たという曖昧な事前期待。ここのところ、『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』と初日初回観賞で変な達成感をおぼえた(私自身、初日に観ること自体が極めて稀有なので)上に、お盆時期には映画館に足を運ばない習慣もあって、まさか世間的にも夏休みクライマックスの週末に映画を観に行くなどと思いもしなかった・・・って、自分で早々に予約していたくせに。

学生時代、シネコンでアルバイトしてた頃、盆と正月の劇場の混雑具合は凄まじかった。映画の観客動員が上昇を続けていた時期、シネコン飽和になる前で、バイト先のシネコンでも日中は連日全作全回満席の勢い。ネット予約もなければ、そもそも指定席ですらなかった。入場前の行列整理、座席への誘導も重要ミッション。自分が客なら大の苦手状況ながら、接客する側としては双方向ワクワクな夏祭り。そんな中にありながら、スタジオジブリ作品にも関わらず、絶対に満席にならなかった(実際は何度か満席になってバイト一同感嘆の声をあげたこともあった)『ホーホケキョ となりの山田くん』の偉大さ、潔さ。『かぐや姫の物語』は更に壮絶な予感。当時体感し損ねた高畑勲の怪物っぷりを、今年はしっかりと全身震撼。(ちなみに、『ホーホケキョ となりの山田くん』の英題って「My Neighbors The Yamadas」なんだ。『となりのトトロ』の英題が「My Neighbor Totoro」だからね。ジブリの両雄は、本当におもしろい。)

さて、話をWHDに戻して。

本作の本国興行では、莫大な制作費(といっても、VFXのショボさ[随分と没頭を妨げられた]には明らかな節約仕様を感じたけどね)に比して成績不振との情報を耳にした気がしたのだが、怪獣やゾンビが出てくる映画よりもよっぽど手堅い娯楽作だったし、当然キモサベ・ムービーの偏執ぶりには遠く及ばず、日本でお盆真っ只中の公開は奏功なんではなかろうか。新味もなければ、豪快不足な折り目正しき頭の悪さ。弛緩と疲れの夏バテ脳には、まことにやさしく沁みるのだ。目の前でさっきまで全世界秩序崩壊寸前が展開されていたというのに、ハラハラを微塵も残さずに劇場を去れる爽快感。ランチ享受に即スタンバイ。観ながら頭を過ぎった不満のいろいろまでを忘却させる軽薄の妙、軽妙。活かしきれてない要素が散らばりまくっているにもかかわらず、そのへんはセルフ補完ってことだよね的寛容は、夏の魔法のせいかしら?

監督の趣味全開確信犯の『ローン・レンジャー』や『パシフィック・リム』が興行的に苦戦するのは納得できるけど、エメリッヒの趣味全開ってあくまで確信犯だから、せめてヒットくらいはさせてあげたい気持ちになったりもする。とはいえ、アメリカじゃ不振だったようだけど、確かに自分がアメリカ人(しかも、この時代に)だとしたら、気安く楽しめる設定でもない気がしたし、構造から来る危機にもかかわらず、(表面的には好転したように描かれてるが)実際は何ら構造は変わらぬまま終わりを迎えるために、相克からの解放感を味えることもない。しかも、これまでは「米国史上最悪の危機=世界の終わりカウントダウン」だったのに、本作では「米国史上最悪の危機=米国の終わりの始まり(見ようによっては下克上絶好機)」として描かれているようにも感じられる為、「危機を楽しむ」ことが困難なのだろう。強い人間が自分の強さをアピールするために一旦負け始めると、その後の勝利の味が格別!という従来の手法を無視しているようにも思えたが、その傾向は一つ前の大作『2012』でも同様で(前作『もうひとりのシェイクスピア』では更なる自我の目覚めを経験し)、ドイツ人のローランド・エメリッヒの或る種「面目」躍如の結果かも。とはいえ、劇中での大統領の信条に素直にシンクロできるアメリカ国民はまだまだマイノリティにも思えるし、かといって敵側のロジックも散漫カオスで感情移入は困難だから、当事者としてのアメリカ人の大半は心の置き場を失してしまうのかもね。

『マジック・マイク』観た後だと、チャニングの活躍はついつい「微笑ましく見守る」姿勢で観てしまう。ジェイミー・フォックスも『ジャンゴ』で「リンカーン」やった訳だし、妙なしっくり感をおぼえたり。マギー・ギレンホール(ジレンホールの方が好いのかな・・・というか、ギンレイホールに見えるんだよね)は相変わらず絶対不萌ながら絶対品格が漂うお約束。

主人公ジョン・ケイル(チャニング・テイタム)の娘エミリーを演じるジョーイ・キングの売れっ子ぶりは止まらない。『ラモーナのおきて』で主演済みの彼女は、『ラブ・アゲイン』でスティーヴ・カレルの娘役を、『ダークナイト・ライジング』でマリオン・コティヤールの幼少期を演じてる。でも、早くもちょっと演技が鼻につき始めて来た気がしないでもない。ただ、あの「ドヤ振り」は自身の役割に自信たっぷりな彼女ならではだよね。

個人的に終始好い味出してたと思ったのが、ホワイトハウス見学ツアーのガイドを演じるニコラス・ライト。コメディ要素を一番巧く結実させてた印象。(そういえば、劇場内がもうちょっと自然に笑いがもれる状況だったら、コメディ色がもっと強まって迫ってきたかもな・・・などと思いながら観ていた。)カナダの俳優みたいだけど、これからハリウッド大作なんかにもちょくちょく顔を出しそうな予感。

脇役といえば、ケヴィン・ランキン。人質ルームで調子づいてる敵チームの頭弱そうなアイツです。本作にはテレビドラマでよく見る顔がたくさん出演しているらしいのだけど、海外ドラマ初心者の私には当然把握できる由もなし。ただ、彼はWOWOWで放映されていた『アンフォゲッタブル/完全記憶捜査』でメインキャストの一人だったりもしたので気づけましたよ。でも、だいぶ経ってからだけど(役どころが全然異なっていたからね)。

脚本を担当しているジェームズ・ヴァンダービルト。説明不能の魅力が蠢く私的好物『ゾディアック』の脚本家。毛色は全く異なるが、よくわからないまま気づけば終わってる感はやや近似。


 
 
今夏公開の洋画大作観賞もいよいよ大詰め。先鋒(『ローン・レンジャー』)がまさかの連戦連勝。このままでは今夏の主役はロッシーニ。
 

2013年8月16日金曜日

チャット~罠に墜ちた美少女~

この邦題じゃ、明らかに微エロB級クライムムービー色。でも、原題は「Trust」。出演はクライヴ・オーウェン、キャスリン・キーナー、ジェイソン・クラーク、ヴィオラ・デイヴィスほか。そう聞けば自ずと明らかに。地に足つけて人間を描くドラマだってこと。

邦題から勝手に想像すると、主人公の「美少女」の堕落ぶりと底無しの悲劇を悪辣な手法も辞さずに大味な展開と勢いで突っ切りそうだけど、実際は違う。そもそも主人公は「美少女」として描かれないし、本人は「美少女」でないことにコンプレックスを抱き、そういった精神状態がドラマの鍵でもある。そして、事件は早々に起こり、あっけなく描かれる。14歳の主人公がチャットで熱を上げていた(同年代だと思っていた)相手は嘘をついており、「実は20歳」「実は25歳」と訂正を重ね、実際に会ってみれば20代でないどころか・・・。しかし、二人は「デート」をし、モーテルで「結ばれる」。本作が語るべきドラマはそこからいよいよ始動する。その事実を知る主人公の親友が学校にそれを報せ、そこから警察へ。似たようなケースがこれまでも発生している(当然州をまたいでいる)のでFBIがやって来て、レイプ事件として捜査を始める。動揺と困惑、絶望に呆然とする両親。「私はレイプされたんじゃない」と、大人に対して反抗し苛立ち続ける主人公の少女。そういった状況を淡々と、抑制の効いた逡巡を積み重ね、信頼(trust)の起源と行方を凝視する。また、信頼の土壌たる自信(confidence)をもそっと掘り下げる。個々のアイデンティティについて分け入りながらも、最終的には家族という形態を通して「信」のありかたを確かめる。(しかし、最後の最後に映し出される「悪戯」は観る者に再審を要求してもいるようなのだが。)ちなみに、「信」という漢字は、「言っていること」と「その人」が違わない状態のことを意味し、それを字で表したものとされる。本作における皮肉と真実を体現する一字でもある。

昨年末にDVDが発売された劇場未公開作。WOWOWにて今月初放映。

監督は、『フレンズ』のロス役でおなじみ(同作では演出を担当することも)のデヴィッド・シュワイマー。テレビドラマの演出を手がける一方、『ラン・ファットボーイ・ラン 走れメタボRun Fatboy Run)』で劇場映画初監督。続く二本目が本作ということになる。

クライヴとキャサリンは共に「出演してる映画の気に入る確率が頗る高い」個人的絶大信頼俳優コンビ。さすが役者出身の監督だけあって、彼らを面白おかしく壊したり荒らしたりすることなく、むしろ彼らが培ってきた信頼(実績)を活かした演技設計で直球勝負。(変化球が多めな二人なだけに、むしろ新鮮)

主人公アニーを演じるリアナ・リベラトは、昨年劇場公開されたジョエル・シューマカー監督作『ブレイクアウト』(ニコラス・ケイジ、ニコール・キッドマン)や今年劇場公開されたフィリップ・シュテルツェル監督作『ザ・ターゲット/陰謀のスプレマシー』(アーロン・エッカート、オルガ・キュリレンコ)に出演しているらしいが、私は観ておらず。彼女は本作によって、2010年シカゴ国際映画祭の女優賞を授与されている。(ちなみに同年の同映画祭では、『夏の終止符』がグランプリを、『終わりなき叫び』が脚本賞と男優賞を授与されている。)

出演作(『ゼロ・ダーク・サーティ』『欲望のヴァージニア』『華麗なるギャツビー』そして『ホワイト・ハウス・ダウン』)が今年日本でも立て続けに公開されているジェイソン・クラークも出演しているし、『ダウト』と『ヘルプ』でアカデミー賞(助演女優賞)にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスも安心二重丸。そして、主人公のチャット相手「チャーリー」のキモいじゃ済まされない不気味さは必見。あの「着こなし」(ただのコーディネートだけでなく、重ね方やその見え方)は虫唾が全力疾走。(衣裳はアダム・サンドラー組のEllen Lutter。本領発揮、面目躍如。)

脚本を担当しているアンディ・ベリンは、アマンダ・サイフリッド(セイフライド?)がリンダ・ラブレースを演じることでも話題の「Lovelace」の脚本も書いているらしい。同作の監督は、ジェームズ・フランコがアレン・ギンズバーグを演じた「Howl」の監督コンビ(ロバート・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン)。ロバートは傑作ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』の監督でもある。「Howl」も興味深いアプローチだっただけに、「Lovelace」がどんな仕上がりか今から楽しみ。

ただ、役者が個々にもアンサンブルとしても実に好い味をもっているだけに、脚本が幾分弱いように感じてしまったのも事実。序盤、アニーが「チャーリー」に会ってから「墜ちる」までの流れを、大学入学の晴れやかな飛躍を遂げる兄の様子と交互に見せる編集は、その執拗さが実に好い。精神の破綻を迎えながらもどこか独特な抑制感が漂うドラマは、編集の妙が産んでいるのかも。編集を担当しているダグラス・クライズDouglas Crise)は、ソダーバーグ組にも参加経験があり、『21グラム』『バベル』やディエゴ・ルナ監督最新作にも参加。最近では、『スプリング・ブレーカーズ』の編集も担当している。


2013年8月11日日曜日

ワールド・ウォーZ

人類存亡の危機に直面し、男が家族を守るため命をかけて戦う感動ヒューマンドラマ。として宣伝していることを疑問視・問題視する声も聞こえてくる本作。私も観るまではせこい宣伝と思っていたが、実際に観てみると、ゾンビ映画色は控えめで、配給会社はある程度「正しい」判断だったのかもしれない気さえしてきてしまった。それに、今夏の拡大公開系作品って洋邦共に俗に言う「ヒューマンドラマ」系が皆無に等しい状態で、そうした作品を求める層に対する訴求力も期待した一方、そういった作品が供給されないアンバランスな状況を補完する結果をもたらせることも想定したのかと。でも、結局は作品自体の訴求力こそ大きな鍵を握るのが観客動員。『テッド』で内容とは無関係に集客を成功(私見)させた東宝東和とはいえ、さすがに今回もそう上手くはいかないだろう。多少の夏休み特需には与るだろうが。

事前に事実確認や背景知識の補充が求められる作品は別として、私は観賞前には積極的に情報収集したりしない。むしろシャットアウト傾向にある為(予告はまともに[真剣に]見ない/流し見な感じ)、実は本作の宣伝戦略に関しても指摘が飛び交うのを見かけるまでは全然気づかなかったほど。とはいえ、興行成績と共に大まかな評判なんかは聞こえてくるので、『ローン・レンジャー』が売上・批評共に最悪だとか、本作は売上・批評共に大成功だとかという認識で夏を迎えたわけだけど、やっぱり自分の眼で見るまでは何事もわからんね。百聞は一見に如かず。

『ローン・レンジャー』にシビれまくりアガりまくりモエまくりな2時間半は、潔いほどのジャンル偏愛と様式美に充ちるが故の賜だったのだろう。しかし、だからこそ、そうしたマニア指向はどうしても大衆の賛同は得にくいのが実態。正反対なのが本作で、ジャンルへの偏愛や様式美に唸る準備で胸膨らませるマニアの前を、「ちょっと失礼」と澄まし顔で素通りするスマートさ。その姿勢はあまりにクレバーで、「いえいえ、どうぞどうぞ」と無意識に快諾しながら快く見遣っていれば、「あれ?もしかして終わる?終わった!?」という。見事は見事かもしれないが(2時間弱を何らの負担もなく一息に過ごさせてくれるからね)、その絶妙な匙加減(褒める気にはならないくせに、怒る気にもなれない脱力感)は一体何なんだろう。

「マーク・フォスターが創りたいもの」が私にはよくわからない。監督作を全部観ているわけではないが、適当な(「適度」じゃないのがむしろ厄介)技術と適度な(「適当」じゃないのが残念)想像力。語りたいものがあるようでない、ないようである。ないならないで好いんだけれど、あるふりするのは止めてくんない?みたいな。とはいえ、ラストを巡って主演(のみならずプロデューサー)のブラッド・ピットと正面衝突したらしいから(不仲説が前面に出てくるくらい)、やっぱり信条はあるんだろうね。でも、あるならあるでそれが伝わって来て欲しいし、そこがいつまで経ってもブラックボックスで居心地が悪すぎる。しかも、観ている間は別に気にならないというところも非常に質が悪い。だまされた気が(勝手に)してしまう。いやいや、別にだまされるならだまされるで好い。むしろ、だまされてるとわかっていて益々信じちゃうワンダーを僕らは映画に求めてる。でも、そういうのが、ない。あぁ、その点、本当に『ローン・レンジャー』という大嘘つきの超絶リアリティは心地好すぎて罪深い。(『ローン・レンジャー』『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』を三日連続で観たもので)

作品のトーンというか方向性が急変するラストシークエンスは、撮り終えたものに変更が求められ、まるで異なった展開(場所も話も)で別に撮ってくっつけたらしいのだけど、確かにそれ故のまとまりのなさは吃驚したものの、力業すぎて映画で語られているメッセージ風の内容とやってることの乖離(というかむしろ相反)が余りにヤケクソに満ちていて実はちょっと可笑しみを覚えもした。ところが、本当の驚愕はエンドロールに待っていた。

本作のテレビCMで流れるMuseの「Follow Me」。彼らの曲は最近映画の予告編でよく使われるけど(『ナイト&デイ』や『ツーリスト』)、本編やエンドロールで実際に流れることがないのもこれまた多い(『ツーリスト』ではMuseが流れるが別の曲)。よって、今回もどうせ単なるCM用のタイアップなんだと思っていた。すると本編でMuseの別の曲が使われていたので、「もしや?」と思い始めたり。でも、そもそもMUSEは本作のワールド・プレミアでパフォーマンスしていたり(花道が「Z」!)、今回の参加は普通に話題になっていたみたいで(日本の公式サイトにも監督と同列で紹介されてるという好待遇)、単なる私の情報不足だったみたいだけど。とはいえ、父親が家族のもとを離れて奔走し始めた時点で「フォロー・ミー」じゃないよな・・・と諦めていたら、なんとエンドロールで「Follow Me」が流れ始めるではないですか!しかし!なんと!!カラオケ!!!

ところが、Muse関連(厳密にはMuse絡みではないが)ではもっと恐ろしい出来事がっ!なんと、映画本編上映前(予告の一番最後)に、鉄拳とスガシカオのコラボによるエスカップのCMがフルで流れたのだ(ユナイテッド・シネマ豊洲にて)。検索したらユナイテッド・シネマWebサイトに案内告知がありました・・・。これもやっぱりMuseつながりなのだろうか。(参考:「振り子」/「Follow Me(鉄拳Version)」)

あのパラパラ漫画を巨大スクリーンで見るという「異様」さは、最初こそほんのちょっと面白味を感じたが、如何せん長い。5分弱。『風立ちぬ』の予告も最後の頃は正直ちょっと鬱陶しかったけど、でもあれは映画の予告だし、自分次第では本編前のウォームアップ的高揚促進剤になり得たけれど、何で栄養ドリンクのコマーシャルを5分近くも、それも本編直前に見させられねばならんのか・・・ちなみに、動画にアップされている内容まんまだからね。映画館用に編集されることもなく、終盤のエンドロール仕様の気持ち悪い手書き文まで見せられるし、勿論ロゴやらキャンペーンやらの絵もじっくり、ねっとりと。内容も実に凡庸で、深夜にパソコンの液晶でまったり見る分には好いのかもしれないが、映画館でかけるものではない。ま、鉄拳だって企業側のあれやこれやの要望きかなきゃいけなくて、当たり障りのないつまらないものにしか仕上がらなかったのだろう。本格的な誰得!?コラボ。ま、UC豊洲&としまえんは小遣い稼げてるのかもしれないが。(個人的には、その両劇場には素敵な観賞環境をご提供頂いておりますので感謝はしておりますが・・・)

というわけで、本作同様、個人的な観賞体験もやや場外乱闘気味ですが、以下本編に関する雑感を(ネタバレ含む)。

◆冒頭から前半の過剰なスピーディ展開はなかなか見所濃縮で、この夏『風立ちぬ』に唯一対抗できるモブ!やはり大スクリーンに映える画や動きを大スクリーンで観る快感こそ映画的醍醐味だし、自宅でまったり観てると冷めてしまいそうなご都合主義だって、映画館のスクリーンを眺める群集をグイグイ引っ張っていくようなアドレナリンを存分に大放出。そんな高揚感に安心感(そこが、マーク・フォスターの良くも悪くもなところかも。「大丈夫?」って不安と「やってくれるに違いない」って期待がせめぎ合いながら蛇行する感じが個人的には好み。)

◆警官があっさり職務放棄してたり、市民は守らなくても美術品は守ったりする「人間的」な権力の在り方をさらりと見せたりするところも好き。あと、評価分かれそうだけど、大統領が既にあっけなく死んでいるという事実をいいことに、政治がほとんど無力というか機能不全状態になっているのも話をシンプルにして好かったのかも。但し、その反動としてのアナーキーな無秩序が慄然として描き出されないところには物足りなさも感じたり。そう、総じて助走(合理性)と飛躍(破綻)の往来によって生じる興奮成分が足りなかったな。(観てる間は自然と見入っていたけれど)

◆子供の扱いの投げやり感。娘が喘息だって設定も、序盤のドラッグストアで終了。たまたま匿ってくれた家族の長男がブラピ一家と共に脱出する(ブラピは映画のなかでも養子を引き取る!)感動エピソードも、以後活かされず。(あの少年の活躍を密かに期待してしまったよ・・・なかなか好い眼してたしさ。)というか、映画のなかでは主人公がアメリカを発ってからの家族は物語的に大して機能するわけでもないのだから、むしろラストまで隠しておいた方が存在感が増しただろうに。ちょくちょく挿入されると気が散るし、実際禍因を招いたりもするわけだし。画面に出したとしても、連絡とれないままの方がスリリング。

◆自分たちを匿ってくれた家族にブラピが「Movement is Life」みたいなことを語ってて、「これは映画のテーマに違いない!」と勝手に脳裏に刻んだものの、それはただの期待に過ぎなかったという話。あれだけ頭から動きまくってたんだから、もっと最後まで動きまくって欲しかった。

◆北朝鮮は全国民の歯を抜くことで感染を鎮めた・・・なんて話が確か出てきたと思う。そうか、「噛みつく」っていうのは「革命」的な行為なんだよね。つまり、ゾンビにもそうしたメタファーがあるってことか。例えば、「不死」を憧憬する「反死」(「死」の存在を遠ざける)な人類に対して、「非死(Undead)」による逆襲が展開されるという。虐げられた「死」からの復讐であり、闇雲に貪欲に希求する「生」の反乱でもある。

◆陪審員制度の正当性(「俺は10番目の男だ」)やらシートベルトによる安全性(飛行機墜落前にシートベルト締めるブラピ)、「No Pepsi No Life」というこれ見よがし。とにかく、いろんな宣伝が入りすぎ、しかも見得切り的過ぎる。流れや意識の断絶が起こってしまう、

◆イスラエルで壁の中になるべく人間を入れようとする策の理屈「人間を一人救えば、ゾンビが一体減る」って発想は好いなって思ってたのに、それも大して活かされず。ま、でも、そんな理想にちょっぴりジーンとさせておいて、お祭り騒ぎで浮かれていたら、その音がゾンビたちを呼んだり奮い立たせちゃったりするって「自業自得」感(しかも、悲壮感をむやみに漂わせないところは面白い)は好い。

◆「人類の危機」映画においては、長らく人類(文明)の勝利がお決まりの結末(あるべき結論)とされて来ていたが、最近では『地球が静止する日』や『2012』のように原因が解明できなかったり手の施しようがなかったりして「とにかく逃げる(遠ざかる)」という結論が新たな趨勢となってきていたように思う。それは、大戦から冷戦へと「戦争」こそが平和だった時代から、別の手段を模索する国際社会の情勢と連動するものなのであろうけど。本作が興味深かったのは、「自業自得」感を根底に置きながら(前日公開の『パシフィック・リム』も同じだし、最近は「自戒」モードを前提にすることが多い)、ついに「負けるが勝ち」という方向性に向かい始めたというところ。「生物は、弱さを強さと偽ろうとする。そして、実は弱さこそが強さにもなり得るものなのだ。」これも、もっと活かせる主張だったのに、と私は思う。

◆「自業自得」感といえば、今まで散々命を救い平和を生み出してきたはずの銃が、本作では身を破滅させるものになるというのは興味深い。銃を撃つと、その音で獲物を見つけ出すゾンビ。死という圧倒的絶対的静寂を厭う文明人は、とにかく音のなかに身を置き誤魔化そうとする。そして、静寂によって初めて騒ぎ出す「内なる声」が聞こえ出すことを防ぐ。他方、外からの刺激(音)がないなかでは目的(対象)を失うゾンビたち。彼らには静寂の中で聞こえるはずの「内なる声」がない。つまり、人間の生死(人間であるか否か)を決めるのは、身体が動くか否か、あるいは感覚器官が機能するか否かの問題なのではないということか。人間とは何か。それは数多のゾンビ映画で提示されているテーマでもあると思うが、本作においてもそうした考察は可能。本作を包む静寂の意味は、そういったところにあるのかもしれない。

◆同様の観点からは、病を遠ざけることこそが至上命令であり続けてきた近代文明への批判、革命としての「病の注入」こそ、排除から共存へのシナリオの一部だったりする。そんな主張がこめられているのかも。


あれこれ考えているうちに、色々と面白く振り返られてしまったみたい(笑)

そういえば、本作の音楽はマルコ・ベルトラミが担当しているのだが、実は本作で最も印象に残るのは前述のMuseとThis Will Destroy You。This~の楽曲は、『マネーボール』でも随分と印象的にフィーチャーされてたし、ブラッド・ピットのお気に入りだったりするのかな。ま、俺も好きなので今後もうまく使ってください。(このあたりのチョイスは、 『28日後...』の選曲に通ずるというか重なるものを感じたな。あ、でも、どうやら『ウォーキング・デッド』でもThis~はフィーチャーされてるらしいので、そこ由来という線もあるのかな)

World War Z × Muse

2013年8月10日土曜日

パシフィック・リム

いつもは澄まし顔でスカしたこと書いてるくせに、実際はこの手の祭りに浮かれてしまう。「東映まんがまつり」に興奮してた男子なメンタル健在。三つ子の魂百まで(仮)。

休みなのをいいことに、朝一の回と昼下がりの回を早々に予約してしまっている自分に戸惑うくらい。あれ、俺ってこの手の映画に事前からこんなにも興奮するタイプだったっけ?ってね。でも、よくよく考えると、文学的(と呼べるかどうかは別として)にも芸術的にも(つまり文芸的な)ルーツのすべては幼少期に好んで見たアニメや漫画にあるような気がしてしまう。なかでも意識的自覚的にコミットし始めた漫画(『キン肉マン』『キャプテン翼』『ドラゴンボール』など)以前の、鮮明には思い出せないながら確実に洗礼を受けているであろう自覚のある戦隊ものやロボものは、有無も言わさずに血となり肉となったような気さえする。そんな影響のせいか、この手の作品の公開に際しては、抗いがたい胸の高鳴りを覚えてしまう。アメコミ物に何だかんだ吸い寄せられるのも同様な所以だろう。

本作をIMAX3Dで観賞することは絶対必須だと心に決めていた。一方、3Dを字幕で観るのが本当に苦手な自分にとって3Dは吹替で観ることが必定。となれば、(2回のうち)1回は2D字幕!のはずを、ちょっとミスって2D吹替で観てしまい、今日は結局2回とも吹替版。特に目当ての役者がいたわけでもなかったので、気が緩んでました(笑)まさか菊地凛子も非本人吹替とは知らず・・・。とはいえ、菊地凛子が演じる森マコの吹替は綾波レイでおなじみの(とか言いながらギレルモ同様(笑)ヱヴァには詳しくありません)林原めぐみ。他にも、「アムロ・レイ」の古谷徹(メカに乗る役ではないですが)と「シャア・アズナブル」の池田秀一が共に吹替キャストにいたり(二人とも60歳代というのに声の艶やかなこと・・・声優ってすごいね)、「上杉達也」の三ツ矢雄二が最近のキャラにもやや通ずる役どころで出ていたり。玄田哲章や浪川大輔といった俺でも知っている名前(海外ドラマの吹替なんかも多くやってるからね)もあって、サービス精神旺盛&豪華&堅実な吹替版に仕上がっている(と思う)。パンフも吹替関連記事を載せてくれても好かったのに。あ、でも、パンフはそこそこ「頑張ってる(©『桐島』前田涼也)」ほうです。

以前は3D上映があるなら絶対3Dで観る方針だった俺だけど、最近では2D観賞で済ますことも増えてきた。理由としては、「3D効果(演出)がマンネリ気味」「3Dの字幕版が個人的にはNGながら、キャストによっては絶対字幕版が好い場合もある」「画面が暗くなったり小さく感じたりする」等が挙げられる。気に入ることがそもそも目に見えてたり、観た結果気に入ったりすると、仕様を変えてリピート観賞してしまったりもするけれど(思うツボ)、とはいえ基本的に食傷傾向にある3D上映。そんな俺が今回、同じ作品で2Dと3Dを同日観賞した結論。本作は断然3Dがオススメ!但し、IMAX版に限る・・・かもしれない。

2D版でも全然堪能できると思うし、2D版ならではの楽しみ方もあるとは思うけど、何せ本作のバトルは大半が夜の場面。つまり、全体的に暗い。ならば、3Dなら更に見えづらくなるだろう・・・って?確かに。ただ、2D版とIMAX3Dを見較べただけだと、後者が断然見やすかったのだ。全体的に暗い(黒い)画面のなかで、少しでも3D加工が施されることによって画面内の動きが見えやすくなったのではないかと推測。何しろ、ギレルモ・デル・トロによれば、最初から3Dで制作した場面が45分程度あるらしいので、そういったことも「見やすさ」には貢献してるかも。但し、対戦シーンにおける場面転換は激しいし、寄り過ぎ(私見)な画で展開する時間も多めなので、スクリーン全体を或る程度余裕をもって見渡せる位置が好いのではないかな、とは思う。「いつも」よりやや後ろ、くらいが丁度好いかと。まぁ、そのあたりは好みかな。IMAXではない通常の3Dだと、もしかしたら暗さが増して見にくい(見づらい)ってこともあるかもしれません。

などとミッションコンプリートに浮かれ気分でいるようですが、実は個人的には心置きなく存分に楽しめたって感じでもなかったんですよね・・・

そのあたりの原因というか背景みたいなもの(あくまで私的な)を確かめるうえで、キネマ旬報に掲載されていた三池敏夫氏と佛田洋氏の対談が大いに役立った。(前半は『パシフィック~』を巡っての感想が中心だけど、後半はほとんど日本の特撮に関するこれまでの流れと現在の趨勢に関する話題が中心。その手の情報に詳しい人にとっては目新しい内容はないかもしれないけれど、その方面に明るくない自分にとっては「わかりやすい」と同時に面白く読める内容だった。ちなみに、ギレルモ[キネ旬は「キジェルモ」表記]のインタビュー記事も好かった。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)への敬意なんかは読んでいて胸を打たれた。)まぁ、その辺に関する感想はまた次の機会にでも。(あるかわからないけど)

最後にこじつけ的感慨。放射能や原子力が当然(?)出てくる本作が、長崎に原爆が投下された8月9日公開となったという奇遇。勿論、本作における原子力は「平和利用」されている訳ですが、だからといってハリウッド映画にありがちな蒙昧描写だけでもない。ちゃんと被爆だってしてるし、(『ゴジラ』へのオマージュとして?)「KAIJU(怪獣)」が出現した理由も人間による自然環境の破壊にある。おまけに、冒頭で「命の壁」が怪獣によって容易く破壊される映像は、多くの日本人にとってスーパー堤防の無力さ(文明の卑小さ)を想起させるに違いない。勿論、そうした観点から本作を眺めれば、粗も疑問も浮かんでくるが、それでも単純なだけで終わらせまいとする気概は伝わってくる。そんなこと考えながら観る映画でないことは重々承知(って言う場合は、大概実質不承知・・・)しているが、もしかしたらタイトル(とりわけ「パシフィック」)には平和への祈りも込められているのかも(「pacific」はそもそも「平和にする」の意)。
 

2013年8月9日金曜日

米田知子「暗なきところで逢えれば」

「日本を代表する写真家の一人である」らしい米田知子の個展。東京都写真美術館で開催中(9月23日迄)。

展覧会のタイトル「暗(やみ)なきところで逢えれば」は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の一節(We Shall meet in the place where is no darkness.)から。主人公ウィンストンの夢の中でオブライエンが語った言葉。同作にはちょっとした思い入れもある。大学時代に課題図書だったのだ。しかも、原書で読むことが義務づけられていた・・・はずなのに、大学の生協には大量の訳本が平積みだったけど。今となっては、自分がどの程度原書で読んだかすら忘れてしまっているが(試験前に慌てて読むという不真面目さゆえに)、きちんと原書で読んでおけばよかったという後悔が爾来まとわりついていることだけは確か。そんなやや複雑な想いと共にある作家ジョージ・オーウェル。贖罪(?)からか、彼の著作は古本でかなり買い集めたが、いまや免罪符のための免罪符が欲しいくらいに積読状態。それでもたまに広げる彼の本にはいつも、正しい絶望の在り方がある。

ジョージ・オーウェルの文章はきわめて男性的に思えるが、米田知子の写真はそういうわけでもない。かといって別にフェミニンというわけでもない。込み上げる企図を厳粛に抑圧しながら息をひそめて焼きつける。そんな誠実さがリアルな「客観」をとじこめる。ジャーナリズムがしばしば陥る客観幻想とは別次元の、誰の眼にも与しない私小説のような矛盾の在り方を心得る。

事実(客観的)は記憶に刻まれて、そこから生まれる真実(主観的)が歴史となる。時間をもたぬ写真は現在しか写せぬが、しかし実際のそれは常に過去である。しかし、それを見るものには常に現在が生じ続けるし、人間が持てるものは過去と現在だけである。それさえあれば描ける未来。それからしか描けぬ未来。現在は常に過去へと変換されて、記憶として記録されてゆく。実在の客観性は認知と共に脆くも消滅し、逞しき主観に実存として刻印される。そこに生じる「誤差」を、懐疑するでも制圧するでもなく、「正差」として位置づける。そうした前提がある限り、個人の主観に課せられた責任に言い訳の余地はない。そんな対峙が求められている。私はそう受け取った。

暗なきところで逢えれば。祈りにも近いその願い。永遠に祈り続けるその願い。暗がなければ明もない。闇なきところに光なし。絶望の正しい在り方。オーウェルが語り続けた言葉と共鳴する写真。


◇夜間開館の時間帯、同日に「世界報道写真展」も見たのだが、終了間近のそちらは随分と賑わっており、早々に米田知子の展示へ移動。こちらは展示毎に独りでじっくり見られる余裕の場内。映像作品の上映スペースからもれ聞こえる轟音が、会場全体に不穏の膜を張りめぐらして、日常から遮断する。報道写真展の「センセーショナルなドラマチックを見せつけられては感受を強要されている」場に流れる神妙と義務と慈愛。そこで感じた居心地の悪さが浮力となって、轟音響きわたる過剰な「静寂」に感応できた。ダイジェスト的散漫さと、断続的な断片としての各展示に物足りなさを感じつつ、だからこそ生じる間隙が、能動的な再構築を促しもする。二度目には一度目と別の写真が眼の前にある。現在が過去になった証左。記憶と向き合いながら、眼前を記憶する。円環構造で巡回可能な会場にすべき展示と思うのだけど、そうなっていないのが残念だ。(逆流すれば可能だし、展覧会ではいつもそうする私だが。いや、待てよ。もしかしたらそうした「逆流」こそを求めているのかも。なぜなら、記憶とは常に「遡る」しかできぬのだから。)
 

2013年8月8日木曜日

さよなら渓谷

原作本(新潮文庫)の解説を、映画監督の柳町光男が書いている。その結びで柳町氏は、「『さよなら渓谷』は映画監督を刺激する小説」と言い、「小説を読んだ映画監督たちは、それぞれが様々な映像を頭の中で編み上げることだろう」と語る。そして、それは「吉田修一がこれまで観てきた数多くの映画が彼の血となり肉となって」いるからだと論じて終わる。共感できる。確かに、吉田修一の小説はきわめて映画向き。というより、作者のなかにうまれた映画をノベライズしているような印象すら受ける。そのためか、私にとって極端なまでに読みやすい作者の一人でもある。吉田修一のなかでうまれた映画を読者は受け取っている。だから、そうした「原作」の映画化は実は最初からリメイク的宿命を負っている。「オリジナルとの訣別」という覚悟から始めなければならない。

近年映画化された吉田修一の作品はいずれも、原作既読で観賞に臨んできた。上から目線の一言感想述べるなら、『パレード』は健闘、『悪人』は無難、『横道世之介』は愉楽、そして『さよなら渓谷』は堅牢。

今年に入ってから、特に好みでもなかった監督や苦手意識の強かった監督の新作を心底楽しむという僥倖が続いた。『横道世之介』に始まり、(当初は観ることすら躊躇った)『舟を編む』や『真夏の方程式』。この傾向、実は昨年末の『ふがいない僕は空を見た』から始まっていたような気がする。そして、その『ふがいない~』の撮影が実は、大森組の大塚亮であることを観る直前に知る。

撮影は16mmらしい。35mmよりも可動だけれどもデジタルよりも重厚、そんな具合が本作の落ち着きと落ち着きのなさを好い塩梅で同居させているのかも。ただ、そういった印象は別に画からだけ受けるものでもなかたようだ。私が直感的に極度に苦手を意識し続けて来た大森立嗣という監督とは、ひとつめのボタンからかけ違えるような相性なのだと改めて認識した。

批評的にも世間的にも随分と好評を博しているという事実は知っているし、それに異議を表明したいとか、ましてや覆してやろうとかいう気概もないけれど、強烈な違和感の捌け口として以下愚痴る。

まず、役者および演技が全く以て設計違い。あくまで、私の主観のそれとだが。とりわけ尾崎俊介役の大西信満が不可解。スターダスト所属で若松孝二の寵愛をうけるという、とんでもない「実力」者らしいのだが、はっきり言って吹替希望。まぁ、表情も気恥ずかしい学芸会だけど、懸命さを感じられる分だけ耐えられる。しかし、「棒読みのお手本」みたいな話し方のどこが好いのかわからない。男根を感じさせなければならない役柄で、終始大根、全力少年。彼に比すれば、たわわな胸の分だけは、いささか重みは生じるものの、真木よう子だって吹替希望。一本調子な盲進入魂ぶりには辟易してくるし、それ以前に何言ってるかわからんよ。方向性以前の問題。本作はモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を授与されたらしいけど、確かに字幕で観た方が好いかもしれない。

一方の大森南朋(監督の実兄)や鈴木杏は、いつも以上にちゃんと演じてる印象。特に、鈴木杏は『軽蔑』の悪夢を払拭してくれるポテンシャルの香り。鶴田真由はきっと「唯一『普通』に近い存在」として置物的に機能させたかったのだろう。まぁ、役目果たしてますよ。三浦誠己とか井浦新とか好きな役者は少ないながらも出番を楽しめたし、画も音楽もなかなか好み。

だから、本作が立派であることは認めるが、大森監督とは根源的に合わないようだ。本作が小説の映画化で、原作を既読で臨んだ故に、それがより明らかに実感できた。原作の映画化とは、原作の解釈を呈示することでもあるので、大森監督の解釈(もしくは、そこから読み取れる考え方)が本作には露わになっており(脚本も共同で書いている)、そうした部分で特に感じる「すれ違い」が驚くほど鮮明に。(以下、物語の内容に思いっきり踏み込んで書きます。)

最も顕著だったのは、映画版においては主役の二人を加害者と被害者として明瞭に位置づけている点。私の読みに限ったことかもしれないが、原作ではその線引きを如実に避けていたように受け取った。なぜなら、尾崎俊介は「事件」のその時にはっきりと強姦であるという自覚がなかったように読めるから。それは感覚の麻痺としてではなく、相手が自分に少なからず好意をもっているという自認があったからで、実は相手(夏美)の方の「事件」発生以前の好意の自覚がさりげなく強調されているようにも思えて読んだ。そして、そうした描き方が二つのテーマを浮かび上がらせているように私は読んだ。

まずは、吉田修一の作品を貫く「マルチ・バース(『パレード』で語られる、人は結局のところ各々の宇宙内で生きているという世界観)」の孕む問題が、いつも通り通底してる。本作にはそこに、「社会」という文脈が横たわる。男の傲慢や都合の好い妄想が加わって、加害もやむなし的に社会に「許される」男(それに甘える男や、気づかぬ男もいるし、そこに違和感をおぼえる男=尾崎俊介もいる)。一方、依然社会的弱者である女はといえば、被害者であってもその誘因を問われてしまい、社会はけっして「許さない」。後者の傷みや苦しみはしばしば描かれる内容ながら、前者のような視点は些か新鮮だった。また、そうした二者は通常、分断・対立させることで相関や対照性を問題にする。しかし、この小説ではその二者が互いにミッシングピースとして「機能」する。そこに真実を見出そうとする。二者を対立させないかわりに、社会という次元と個人という次元を峻別してる。社会に「許される」なら、個人の罪悪感も拭われるのか。社会が「許さない」なら、個人はひきずり続けるしかないか。そうした問に答えるために、二人は暮らす。ただ、俊介が自らのマイナス(ネガ)を相殺するためにマイナス(ネガ)の夏美と暮らそうとしたのに対し、女はマイナス(ネガ)の夏美と訣別するためにプラス(ポジ)の「かなこ」(強姦を免れた方の名前)で生きようとした。プラスの「かなこ」なら、いくらマイナスの俊介と交わってもプラスに転じることはない。俊介がプラスに転じるなど許せない。しかし、俊介はマイナスの夏美を抱いて、自らのマイナス(ネガ)が束の間プラス(ポジ)に転じる夢を見る。それは違うと必死に思ってきた夏美だが、「かなこ」ではなく夏美として心身が俊介と交わり始めることを識る。そんな現実が意味するところに耐えられない。俊介の煩悶は随分具に語られる一方、夏美の想いはどこまでもグレイ。夏美自身も解りかねた想いは当然、俊介も読者も量りかねたまま。しかし、その灰色こそが、白黒しかないシステム(社会的制裁の場となる裁判)からこぼれ落ちたまま「解決」してもらえない罪の性根。自らの黒を認めたくないのか認められないのかすら判然としない俊介は、自らの内に白の存在を認めてしまうことだけは確かだし、もう真っ白とは思えない夏美は自らのどこに黒を認めて好いかすらわからない。結局二人は互いにグレイ。そんな存在を世間は勿論のこと、自分自身ですらも持て余す。ならば二人して交わって、正真正銘のグレイになれば好い。禊ぎのない沐浴、終わりのない贖罪。

ところが映画では、前述の通り「被害/加害」の立場や色分けが随分と明瞭にされている。そうした意図は、強姦の場面そのものを直接映していることから明らかだ。その様子は明らかに肉欲のままに犯している男と、その犠牲となる女の構図。これは、以後観客には「加害者:俊介」「被害者:夏美(かなこ)」として観てもらうための要請で、贖罪と赦しの物語としての宣言にも思えてしまう。確かにその方がわかりやすいし、ドラマ性も十分だ。被害者オーラの大西と加害者オーラの真木という、たすき掛けなキャスティングも絶妙になる。そして実際、それらの思惑は見事に成功してる。しかし、私は同じ原作に全く異なるテーマを読み、全く異なる問題意識で臨んでいた。そんなものは単なる差異に過ぎず、それは当然の現象だ。でも、そこから私は、大森監督が見る人間の現実と私のそれが見事に乖離していることを痛感した。『ゲルマニウムの夜』を観たときの決定的な違和感は、本当だった。それに納得できた。不満ではない、すっきり感。或る種の解放感。

大森監督との「すれ違い」をはっきり感じたもう一点は、強姦事件でその場にいた後輩・藤本の描き方。原作での藤本は、純粋に「無邪気」であり「無垢」なのだ。そして、それは「健全」を建前とする社会においてはスムーズに許容どころか受容され、本人も至って「前向き」なのだ。御曹司ゆえの鷹揚さというエクスキューズを隠れ蓑に、社会が限定発行している(しかも、いくつもの等級をもつ)免罪符をちらつかせる重要な脇役(社会においては主役だが)の藤本は、物語の屋台骨を支えている存在として印象深かった。ところが、映画版で新井浩文演じる藤本が見せる屈託のなさは、無神経の産物のようにカリカチュア。やはり大森監督は、グレイを黒と白が混じり合い重なり合ったものとして描くより、黒と白のせめぎあいをグレイとして魅せようとするやり方なのだろう。

他にも、渡辺(大森南朋)が原作では主役と同程度にメインで描かれており(彼の過去なども語られる)、彼の眼を通して二人を観ることで生じる或る種の共感や自戒が物語の奥行や余韻を生みだしていたのだが、そうした「軸」が取り払われていたのも残念だった。

一方で、細かな描写や演出には確かに唸らせられる瞬間が何度も訪れた。画面に映るものすべてに奇妙な実在感があり、それは異様に美しい青をみせる扇風機から、室内の弱い光でこそ「存在」する埃まで。夜のグラウンドに侵入する場面では、大学生たちが情欲から女子高生にフェンスを乗り越えさせた(過去)という真相を、渡辺(大森南朋)が施錠されていない扉を開ける(現在)ことでさりげなく示唆。繊細そうで実は直截な呈示にはたびたびハッとさせられる。

ただ、時折それがやや下品に感じるというか、過剰な直截表現で残念なこともある。(例えば、尾崎たちが所属していた大学野球部のサイトのトップページに部訓(?)として「因果応報」のデカイ文字があったりとか。) 最大の「やりすぎ」はやはり、真木よう子の唄だろう。しかも、ラストのあの場面の直後に流れてくるという無神経。歌詞が物語に補完や奥行を与えるならまだしも、「人はいつも坂道の途中期待を抱え上がり下がり」とか「今日は何かいいことがありそう」などと夏美が歌うのだ。人生を謳ってしまうのだ。これまた海外の観客の方が「恵まれて」いる一例(歌詞もわからないし、歌うのが「夏美/かなこ」であるとわからないだろうから)。

「すれ違い」ばかりを確認してきてしまった感想ながら、実は「ぴったり」だったところがある。それは、二人が温泉に入った後に寛いでいる場面。原作を読みながら私が思い浮かべていた場所(もえぎの湯)がまさに、本作でのロケ地だったのだ。そして、あの吊り橋もおそらく私が思い浮かべた橋と同じはず。一度しか訪れたことのない場所ながら、原作での描写から私の頭に浮かんだ光景は、まさに本作のそれだった。(まぁ、実際、原作の描写からそもそもあそこが想定されてたようにも思うので、当然の帰結なのかもしれないが。)


◇苦手な監督の新作であった為、また原作が積読状態だった為、当初は観賞予定に入れていなかった本作。それでもやはり観る気になるも、その頃には観たかった劇場での上映はなくなりかけていて・・・そんななか、吉祥寺バウスシアターでのレイトショーが始まった。しかも、シアター1。夏の夜、バウスのシアター1でまったりゆったり観る映画。初めてアサイヤスの映画を観たのがやっぱりそんな状況だったし、ブログ始めたばかりの頃に観たソダーバーグの2作(『ガールフレンド・エクスペリエンス』と『BUBBLE』)も同様。そして、この『さよなら渓谷』も、夏の夜の吉祥寺バウスシアター1で観るにはもってこいの逸品だった。作品自体に不満はあれど、観賞体験そのものは実に愛おしい極私的理想型の一種。夏に観るレイトショーってなんか好い。終わった後の閑散とした街の空気も好い。昼間に生命力ありすぎる夏だから、夜は毎日祭りのあと。映画終わった後の内的世界とシンクロする感覚。
 

2013年8月7日水曜日

リメイク版『めぐり逢ったが運のつき』

原題「Wild Target」、邦題『ターゲット』でDVDが発売されていた仏映画『めぐり逢ったが運のつき』の英国リメイク作。先日、WOWOWで初放映。観た。なかなか好かった。が、やっぱりオリジナルを観たくなった。けど、『めぐり逢ったが運のつき』の方はソフト販売なし。というか、ビデオは発売されていたらしいが、DVD化はされなかったらしい。劇場公開時の配給はアルバトロス。僕が観たのはテレビでだけど。しかも、たしかMXテレビでやってたのを録画して。えらく気に入ってテープのツメ折ったけど、今でもあれ(VHS)観られるのかな。

まずは、オリジナルの方の話。

『めぐり逢ったが運のつき(Cible émouvante)』は、ピエール・サルヴァドーリ(Pierre Salvadori)の長編一作目。プロデューサーを務めたのは、フィリップ・マルタン(Philippe Martin)。この人、この後もサルヴァドーリ作品をプロデュースしていく一方、ラリユー兄弟(「運命のつくりかた」等)やセルジュ・ボゾン(「フランス」等)、そしてミア・ハンセン=ラブといった僕が極めて好き好きな気鋭監督たちと継続的に仕事をして来ている御方。そんな事実を改めて確認すると、『めぐり~』が尋常じゃなく好みだったことに今更至極納得したり。そういえば、セルジュ・ボゾンの「フランス」について描いた自分の記事で、本作について触れてたりした。

オリジナルのメインキャストは、ジャン・ロシュフォール、マリー・トランティニャン、ギョーム・ドパルドュー。ジャンの「これぞフレンチ・コメディー!」な洒脱な滑稽さに優雅な笑い心地好く、ギョームの瑞々しさがボケボケキャラと抜群融和。エスプリよりもファニーを優先、オシャレしたってスマートじゃない。今ふと思い出したけど、『シューティング・フィッシュ』(自分のなかで「同枠」の映画)とか本当好きだったな。熱狂でも絶賛でも心酔でもないけど、いっつもどこか心の片隅で疼いてくれるお気に入りってポジションが最近空席気味な気がするな。それはきっと、映画とか音楽とかとの付き合い方に堅さというか肩肘張りな傾向が出てきたからかもね。もうちょっと自由さ、柔軟さ、風通しよくしてかなきゃ。

さてさて、リメイク版の話。



そんな秘かに大好き作品のリメイク版だから、正直あまり期待してなかったのに、これがなかなかどうして、オリジナルをちゃんと尊重したリメイクで、「フランス人って素敵だね。でも、ぼくはフランス人になれないし・・・でも、ならないのも素敵だよ!」みたいな(どんなだよ)爽快な加工貿易していたよ。オリジナルに敬意を表しつつ、自分たちにできることも模索する、リメイクの良計成果を発揮していて痛快。フレンチ・フレーバーを漂わせつつ、英国真摯も忘れない。ジャン・ロシュフォールのおとぼけと通ずるようで異なる魅力をばっちり忍ばせたビル・ナイの適度なメソッド。エイミー・ブラントがキュートすぎないところがキュートという意外。最も懐疑の眼でみはじめたルパート・グリントがこれまた思いの外、好い。「ハリー・ポッター」シリーズは序盤で観賞離脱してしまった自分にとって、こんなに味のある俳優になっているとは思いもしなかった。改めてフィルモ眺めてみれば、日本での公開作はほとんどないものの、ハリポタと並行してなかなか好い仕事(修行)を重ねてきたみたい。今年のベルリンでコンペに出品された「The Necessary Death of Charlie Countryman」(キャスト、豪華・・・)にも出演してる。脇役も、日本で馴染みの深いキャストが多く、ルパート・エヴェレット(昨秋『アナザー・カントリー』がリバイバル上映されてたな)やマーティン・フリーマン(英国ドラマ『SHERLOCK』のワトソン君)がとぼけた敵役を伸び伸びと演じているし、個人的にはグレゴール・フィッシャーがひたすら愉快。

オリジナルを丁寧になぞりながらも、英国流にしっかり仕上げた脚本を手がけたルシンダ・コクスン(Lucinda Coxon)は、ギレルモ・デル・トロの次回(?)作「Crimson Peak」に参加するみたい。ジェシカ・チャステイン、ミア・ワシコウスカ、ベネディクト・カンバーバッチという映画界屈指の絶好調最高潮キャスティング。ギレルモ組のチャーリー・ハナムも入ってる。

監督のジョナサン・リンはテレビ畑の人みたいだけど、イギリスのテレビドラマ・ディレクターって本当堅実人材の宝庫だね。昨年の秘かなお気に入り枠の一本『マリリン 7日間の恋』も確かテレビ畑の監督(サイモン・カーティス)だったよな。あのケン・ローチだってテレビの仕事から始めたし、そこでの経験が随分と糧になったようなことをしばしば語ってるし、BBCの豊かな歴史を感じます。

音楽もゴキゲンで、フレンチ・テイストも盛り込んだスコアの盛りつけ方も適量なら、要所要所でかかる既成曲も適材。アップルのCMでおなじみのヤエル・ナイムの「ニュー・ソウル」なんかも見事にしあわせな関係。他にも、レジーナ・スペクターやイメルダ・メイなどのフィメール・ヴォーカルで色とりどり。

ところで、本作はドリパス一夜限りの劇場上映が実現するのだとか。シネマート新宿の大きい方なら、なかなか好環境だと思うけど、上映素材がBlu-rayという不安。ブルーレイ上映も努力次第ではそこそこの質が求められるようだけど、今年あそこで観た『マーサ、あるいはマーシー・メイ』はちょっと残念だったからな・・・作品自体はかなり好かったんだけど。

それにしても、始まった当初はすぐに消えると思っていたドリパスが、今やなかなか定着しそこそこ進化している様相で些か驚き。ヤフーが買収したらしいけど、うまいこと行ってるのかな。今回の『ターゲット』上映の観賞料金は2,000円均一(でも、実際はドリパスのシステム使用料で210円徴収されるから、実質2,210円均一)。確かに貴重な劇場上映になるとはいえ、一昨年DVD発売され、WOWOWでも今月複数回放映され、しかもブルーレイでの上映。なかなかいい商売してますね。これで上下黒帯での上映だったら泣けるよな・・・。ま、観に行くつもりのない俺があーだこーだ言うのも筋違い。ドリパスに限らず、最近またこの手のビジネスモデル(ソフト販売の前後に劇場で限定上映)って堅調だよね。CDの売上落ちてもライブ動員堅調っていう音楽業界と一見似てるようだけど、僕としては懸念が上回る。最初は速効性のあるニッチ産業的旨味はあるとは思うけど、映画(特に外国映画)マーケットのマニア化を促進してしまいそうだから。というか、マニアのなかでも分断されていく気もするし。現に、その手のビジネスにノレる人と(僕のように)ノレない人がいるわけで、前者だけを見込んだビジネスに浮かれてる姿は、後者の人間にしてみたら寂しさを覚えるもので・・・ま、狭量で偏屈な人間の僻み的ボヤキかもしれないけどね。

あ、でも、一夜限りの『めぐり逢ったが運のつき』劇場上映とかあったら、たとえ素材がDVDレベルであったとしても駆けつけちゃうかも!(そう、人間は矛盾な生きものなのです。) ってか、アルバトロスはやっぱりフィルム棄てちゃったかな・・・
 

2013年8月3日土曜日

『風立ちぬ』の予告編をつくった人

荒井由実の「ひこうき雲」がフルで流れる4分の予告編。上映のタイミングが問題(話題?)になったこともあるが、その完成度に唸る声もしばしば聞かれ、本編を観賞しても尚(いや、だからこそ?)予告編を支持する声も多数。今では予告編制作者の名がエンドロールに登場することも珍しくないようだが、そのきっかけとなったのもジブリ作品だったようで、その「初登場」となったのがジブリ作品の予告編を長年手がけてきた(『風の谷のナウシカ』からずっと)板垣恵一氏のよう。近年では映画本編の編集も手がけ(というか、かつても手がけていたらしく、『ぼくらの七日間戦争』『帝都大戦』などの編集も)、『剱岳 点の記』では日本アカデミー賞編集賞まで受賞したんだとか。もともとは映画予告編制作会社最大手のガル・エンタープライズに所属していたが、現在はフリーランス? その板垣恵一氏が『風立ちぬ』の予告編もつくっている。(今回もエンドロールにちゃんと名前がありました。)

こちらのインタビュー記事も面白いが、スタジオジブリ広報部長(当時)の西岡純一氏(現在は、ジブリ美術館の事務局長みたい)の動画でその「板垣さん」について詳しく語られていて興味深い。(これらの動画は『借りぐらしのアリエッティ』公開を控えた頃のもの。)

予告編を作った板垣恵一さんについて



板垣さんに聞く予告編の制作について


 

2013年8月2日金曜日

都市の無意識

東京国立近代美術館(竹橋)に足を運ぶときのささやかな楽しみは、小企画。現在は「プレイバック・アーティスト・トーク」という壮絶な手抜き企画展がメインとなっているが、同会期で開催中の小企画「都市の無意識」の方がやっぱり断然の見応えだった。とはいっても、やはりあの小スペースなので、扱っている(目指している)テーマに比べて物足りなさは否めぬが、いずれこのテーマで本格的な企画展を開催しようと目論んでのちょっとした実験というか準備の一環なのではないかと勝手な憶測してみたり。

「アンダーグラウンド」「スカイライン」「パランプセスト」という三つのテーマで、写真を中心に構成されている。最初の「アンダーグラウンド」の部屋では、1966年の岩波映画「東京もぐら作戦」(25分)が上映されている。その「実録」的な映像によって喚起され想起する〈都市〉が秘めたるさまざまな貌。溝(どぶ)は表面から消え、地下(裏面)に潜る。人間の営みによって生まれる〈廃〉は地上から姿を消し、地下へと匿われ、私たちがそういった現実を日々の生活で目の当たりにすることはなくなってゆく。都市化とは、現実の空洞化によって得られる虚構の充満化なのだろう。

畠山直哉の「川の連作」。数枚単位で見たことはあったが、今回のように9枚が横に連なっている展示は更に見応えがある。「意識的な自我」と「無意識な自我」に分裂してゆく様と符合するかのように都市が見え始めると語る畠山。各々が「等価」であるかのごとき二等分でありながら、縦の配置によって生じる「天地」「上下」の関係がそこにはある。下(水面)には上(街)の姿が映し出されている。どちらが意識で、どちらが無意識なのか。もはや区別も領分もないのだろうか。いや、それらはちょうど鉄道のように、「相互乗り入れ」があちこちで起こって来ているものなのかもしれない。

「スカイライン」の部屋では、スティーグリッツの小さな写真から始まり、火野葦平『アメリカ探検記』の挿絵として関野準一郎が描いた「墓とニューヨーク」が都市の再考に立ち止まらせる。ロサンゼルスに行ったとき、私はサンタモニカのビーチで、週末のたびに砂浜に並べられる数多の十字架を目撃した。イラクなどで亡くなったアメリカの軍人たちを悼むため、ボランティアがビーチに十字架を並べていたらしい。当初は亡くなった数だけ並べていたが、その数が余りにも厖大になり続けるために、一定の数を並べるように変更したという。週末にだけ砂浜に並べられる十字架は、その都度植えては片付けられる。そのすぐ向こうには観覧車があり、メリーゴーランドがあり(『スティング』に出てくる)、家族連れからカップルまで大勢で賑わい週末を楽しんでいた。そんな光景と余りにも重なり合う画に(しかも、それが東海岸と西海岸という見事な合わせ鏡のように)潜在を顕在化させることで闇を葬り去ろう(駆逐しよう)とする〈都市〉の自虐な自律に自浄な事情を思わせもした。

続く久保田博二(マグナム・フォト正会員でもある)の「ニューヨーク市、ニューヨーク州」(1989)に目を奪われる。黒いシルエットのビル群に差し込む幾筋かの赤色陽光が、まるで地割れによって浮かび上がろうとするマグマを思わせる。夜明け前の都市の静寂がもつ不穏に耳をすますとき、破滅への胎動が聞こえてくる?

勝又公仁彦の「Skyline」シリーズは都市の権威を優しく美しく諫めてくれる。画面の九割超を占める空(そら)。地上のどんなに高いビルでも、ほんの数センチという誤差の世界。映画でも、最近この構図に頻繁に出会う。『風立ちぬ』でも執拗なまでに用いられていた(今までの宮崎作品などで象徴的に用いられたりした記憶が私にはない)「不自然」による自然への回帰。

最後の部屋は「パランプセスト(Palimpsest)」。ここには、普段は常設展にある佐伯祐三の「ガス灯と広告」があり、常設よりも本領発揮の居場所に活き活きして見える。また、高梨豊の写真は、同美術館で2009年に開かれた彼の個展「光のフィールドノート」でも展示されていた「都市のテキスト 新宿」シリーズから。

やはり、扱うテーマに対してこのスペースは、この作品数では物足りない。しかし、そうした飢餓感は、次なる本格展への期待へと高まってゆく。〈都市〉をテーマに絵画・彫刻・写真は勿論、映像の記録や映像作品なども含め、音響などによる演出やコラボまでも駆使し、世界史的な都市と日本史的な都市の変遷と現在を浮かび上がらせる。そんな企画展が近い将来開かれる、そんな期待を秘かに膨らます。

※メイン企画の「プレイバック・アーティスト・トーク」は、大盛況だったベーコン展の反動かのような粗末さながら、入場者は文庫サイズの小冊子(出品者のトークを文章化したものを集めている)をもらえたりする(免罪符なのか!?)ので、650円とお安い設定でもあるし、一応そちらも見てから常設展と小企画を観るって流れもありかと。ちなみに、メイン企画も小企画もあと二日で終了で、最終日の8月4日は常設展と小企画は無料観覧日に当たるとか。

2013年8月1日木曜日

執行者/The Excutioner

2009年の韓国映画。「韓国映画ショーケース2009」で上映された作品が、今年1月にDVDで発売。私は先日、WOWOW放映で観た。同ショーケースでは、『素晴らしい一日』や『昼間から呑む』など劇場公開がその後決まった作品も上映されていたが、本作は残念ながら劇場公開には至らなかった模様。実際に観てみるとそれも納得だったりもするのだが。

監督は本作が初長編となるチェ・ジンホ。主演は、ユン・ゲサン(アイドルグループgodの元メンバーで、『プンサンケ』で主演)、チョ・ジェヒョン(キム・ギドク初期作の常連)というキム・ギドクに縁のある二人であり、かつテーマも重厚であるはずながら、本作の仕上がりは至って生ぬるく感傷的。

韓国では死刑制度が存続してはいながらも、1997年12月に23人が執行されたのを最後に、刑の執行は行われてないらしい。そうした事実を背景として、「12年ぶりに死刑が執行される」というフィクションから死刑制度を問う物語をうみだした。とはいえ、制度に対する疑念から社会機構への「信頼」を揺さぶろうとするというよりは、タイトルにあるように「執行する者」が人間として個人として味わう葛藤を主軸に「ドラマ」が展開される。懐疑と諦念の彼方に佇むベテラン、職務遂行と遵守への過剰な使命感に浸る中堅、臆病から倨傲そして陶酔へと変容する新人、そうした三人の刑務官と彼らの背景を職務と絡ませつつ、クライマックスの〈執行〉へ感情が収束してゆく構成だ。

新人刑務官(ユン・ゲサン)は公務員試験の受験を控えた恋人がいるのだが、彼女から妊娠を告げられる。もうすぐクリスマス。そのまえには死刑の執行が・・・。命の出入り、降誕、昇天、いくつもの生と死のドラマを交錯させようとしたシナリオ。成功していれば極めて深遠さをたたえた映画に仕上がっていただろうが、各要素は見事に編まれる事なく、羅列的確認で進行してしまう残念。

技巧と情緒の堅固な結託に「鷲掴み」を余儀なくされる韓国映画の数々。一時期の粗製濫造から見事に復調の兆し(どころか隆盛!?)を感じる昨今。本作が少し前の作品だからか、それとも劇場公開作と未公開作に実は明確な落差があるからか、ここ最近観た韓国映画の濃密と堪能からは程遠い手緩さにガッカリしながらも半ば安堵(?)。韓国映画にも、(日本映画と同様に)メロドラマ的センチメンタリズムに堕してしまう傾向ってあるんだな、という。ただ、そういった「つくり」(とりわけ、エモーショナルなスコアや心情吐露的な台詞に顕著)は基本失意に流れてしまいがちながら、時折直球過ぎてよけられないままグッと来てしまう場面もあったりする。ただ、複雑な問題に挑みつつも、不都合な議論を回避する用意がなされているかのような半端な蛇行はやはり、初志を懐疑せざるを得ない結果に陥ってしまっている気がしてしまう。同じ傾向は邦題にも引き継がれてしまったのかも。(『死刑執行人』でよいではないか)


2013年7月31日水曜日

終戦のエンペラー

浪人時代に通っていた予備校で最も興味深い授業の一つに日本史(近現代史)があった。正直、前近代の授業は誰が教えてたのかすら憶えていない程だが、近現代の授業で聞いたエピソードの数々はいまだに鮮明に憶えていたりする。講師の話(し方)が面白かったということもあるが、彼が語る人物像が実に「立体的」であり、そのためにも中心(観点)は常に多様かつ移動するものだった。そこでほんの少しだけ、歴史が物語であることを実感できていたかもしれない。(その講師はよく授業を延長していて、職員が「早く終わってください」的プレッシャーを度々かけに来たり、終いには冷房が止められたり等々、そういった熱意からも実に「伝わる」「届く」ものが産み出されていたんだとも思う。)

美談や懐古に陥らぬ「戦争映画」が作られなくなって久しいように思う。遠ざかるほど冷静に、客観的になれる。そう一般的には思われがちだが、そこには忘却という「都合の好い改変」が潜んでいるという事実は計算外。いや、むしろ折り込み済ゆえに、過去よりも真実に到達しているはずの現在を肯定するためのロジック(実際はマジック)として援用されがちなのだろう。

マシュー・フォックス演じるフェラーズ准将は、「天皇を戦犯として裁くか否か」の決定に必要な証拠や証言を集めてゆくなかで、どうしても日本人の精神性を理解することができず、そうした思いから日本人の精神性を「ミステリアス」と評していた。私はその時ふと、「mysterious」を何故か「myth-terious」のようにイメージしてしまった。「mystery」と「myth」はいずれも「神」に関連する表現をルーツにもつのかと想像してしまったからで、実際には語源は同じではないようだ。しかし、そこで「myth」の語源がギリシャ語の「話、言葉」を意味する語であることを知る。そうすると益々、戦中の日本が「ミス(myth)テリアス」ゆえの「ミス(mys)テリアス」を孕んでいたような気がしてきた。

勿論、統治のために「神話」を大いに活用したという点で十分「myth」なのだけれども、それ以上にまさに「お話」という「もうひとつの世界」が現実世界以上にリアリティを持ってしまっていた時代が戦中の日本なのかとも思えて来た。現実は、近代化により合理精神で駆動すべき世界になっていたし、事実そう動かされていたはずなのに、国民の精神世界においては前近代のさまざまな精神が残存どころか増殖して強固なものへと培養されていったのだ。そして、その原動力としての絶対的支配的原理こそが「天皇制」というフィクションだったのだろう。それはまさに「お話」なだけに、実証は不可能であり、そもそも実証を試みること自体がナンセンス。近代化した社会にとって、そうしたフィクションが力を持ち得ること自体が不可思議なはずでありながら、現実世界(物質世界)より「もうひとつの世界(精神世界)」こそにリアリティを見出していた国民にとっては、至極自然な感覚だったのかもしれない。

常に数字やデータで可視化され数量化される実証的フィクションとしての経済。近代社会における現状認識の指標。それすらも無視し、というより意識すらすることなく、桁違いの国力を有した列強に平然と(悠然とすら)戦いを挑んだ小国日本。そこには、精神世界がもつ無限の力(それは人間の「美しさ」の象徴とも呼べる)を見出すこともできるだろう。肯定的な懐古の眼差しで大東亜戦争を回顧してしまう「向き」が払拭できない理由も其処にあるかもしれない。それはそれで、ひとつの正当性を持つとは思う。しかし、そこに必ず貼り付いている裏面(代償・犠牲)と切り離さずにそれを認めることは極めて難しい。(大抵、裏面を見ずして認めてしまう。)

「もうひとつの世界」を壊され(それでも、戦前に植え付けられた人達のなかには息づいていることと思う)、引き換えに植え付けられた「もうひとつの世界(西洋への憧れ・追随)」も急速に消滅し、もはや「もうひとつの世界」の核となるものを見失いつつある現在。今の日本人にとって世界とは、現実世界(物質世界)だけになりつつあるだろうか。それとも、それだけでは耐えられないから新たな「もうひとつの世界」を膨らませつつあるのだろうか。

フェラーズ准将の言う「ミステリアス」に共感するか、それとも「ミステリアス」な日本人に共感するか。世代やイデオロギーによっても大きく異なるだろう。え?私?私はそのどちらでもないようでいて、どちらでもある・・・美しい日本の私とも言い切れぬ、あいまいな日本の私。


2013年7月30日火曜日

パリ猫ディノの夜

どれだけ自分なりにアンテナ張りめぐらしてても、結局そこにはセルフ・フィルタリング(?)みたいなものが働いてしまい、知らず識らずのうちに取捨選択してしまったりしているのだろう。本作も、公開情報すら把握しておらず、更にはレコメンドの声も「私には」届いていなかった。ところが、公開されると次第に不意に見かける好評の声。おまけに、何と本作はフィルム上映だというではないか!これはもう苦手シネコン筆頭の新宿ピカデリーでの上映とはいえ、駆けつけないわけにはいくまい・・・ということで。

一昨年のフランス映画祭で上映された本作(そのときの邦題は「パリ猫の生き方」)は、その存在は知っていたし、アカデミー賞にノミネートされたのも知っていたけれど(だから、そのうちWOWOWあたりで放映するかな、とは思ってた)、まさかこのタイミングで(本国公開は2010年12月)日本で劇場公開されるとは予想だにせず。しかも、これまで大して背中おされるようなレコメンドも(たまたまかもしれないが)耳に入ってこなかったもので、最初は「上映中」の報を耳にしても観賞リストに入る予定はなかったのだが、前述の通りの成り行きで観ることにして・・・本当好かった!自分で観る気にならないタイプであるからこそ得られる感応に至福のとき!アニメ、フィルム、フランス、それらの素敵さが見事につまった逸品に、豊潤づくしの70分!

アニメに関しては詳しくない私だが、最近観た三本(『モンスターズ・ユニバーシティ』『SHORT PEACE』『風立ちぬ』)から「自分がアニメに求めるもの」がより鮮明になった気がしたばかり。実写に勝るとも劣らぬ写実性をもはや手中におさめたアニメーション。しかし、そうした技術の進歩は必ずしも表現力の向上や観る者の幸福感をもたらす一方でもない気がしてしまう昨今。アニメにおける立体感やリアリティの増長はむしろ、アニメのもつイリュージョンの減退につながり、それはすなわちイマジネーションの稀薄にもつながるのではないだろうか。より「平面的」であったり、より「抽象的」であったりする「画」の力を感じるとき、「アニメでなければならない」「アニメだからこそ」な世界に魅了される幸福を想い出させてくれるという事実。

アイロニーやエスプリをプティ効かせつつ、キュビズム的な画は3Dに逆行するようにみせかけて挑発し凌駕しようとし、スクリーンを手前にも奥にもくねらせる。そして、ヨーロッパの蒼い夜空の美しさがアニメでフィルムに焼きつけられている不思議な芸術感。昔ながらの「コマ」を感じさせつつも流麗さも併せもつ、心地好い「ひっかかり」を忘れぬモーションがいちいち愛おしい。そして、ジャジーな雰囲気を演出するナンバーと、独創的な画との共犯に心酔してしまう絶妙なスコアが本作の「映画」感を更に演出してくれる。

猫好きにはたまらない本作らしいが、どの人物にも悲哀と屈折を注入した人物造形にヨーロッパ映画好きはニヤリとするし、とにかく屋根から屋根へ飛んだり跳ねたりするアクションの連続に活劇ファンは堪能必至。フィルムの質感が色彩のまろやかさを、フィルムの音がスコアの包容力を増幅させると同時に、本作のもつ「コマ」感はきっとフィルムで投影されることで完成されるのかも、などとまで思えてしまう。

実に魅力的で、元来それほど好みなタイプに思えない私でも再見したくなっている本作。セザール賞ではアニメ部門でノミネートされながらも受賞を逃していたので、納得いかず(笑)に確認すれば、同年の受賞は『イリュージョニスト』。それは相手が悪かった・・・が、本作も方向性こそ違えど、アニメが放つ魅惑でいえば、勝るとも劣らない。


2013年7月29日月曜日

ノーベル殺人事件/アンチュ・トラウェ

WOWOWのジャパン・プレミアにて放映され、DVDも来月発売予定。スウェーデン版「ミレニアム」三部作のスタッフが送る、ベストセラー・シリーズ映像化作品第2弾。制作は「ミレニアム」シリーズのイエローバード。テレビやビデオ作品が中心のプロダクションのようで、『刑事ヴァランダー』なども手がけるイエローバードは、この「アニカ・ベングッソン」シリーズ(作者は、ジャーナリスト出身でベストセラー作家のリサ・マークルンド)8作中6作の権利を取得し、映像化(残り2作は既に他所で映像化済みの模様)。同シリーズ6作目を原作とする『ノーベル殺人事件』(原題は「Nobels testamente(英題:Nobel's Last Will)」)を2012年3月に劇場公開した後は、他のシリーズ作品を同年の7月から8月にかけて連続でソフトを発売したみたい。(つまり、一作目で様子見の結果、ビデオスルーが決定したということ?それとも一作目の劇場公開はプロモーション?) そうした背景からもわかるように、「新聞記者アニカ・ベングッソンの事件簿」的2時間ドラマなつくり。

「ミレニアム」三部作は、リスベットの強烈なキャラクター(及び演じたノオミ・ラパスの存在感)や主人公とのケミストリー、そして背後に張り巡らされた陰惨胡散な伝統と巨大システム化した現代社会の諸相がもつ醜態性、それらの絶妙なブレンドが安っぽい「大河」感を結果的に演出した幸運なシリーズだったように思う。批評興行共に優秀だったシリーズだが、個人的には正直ヴォリュームたっぷりの(だから見応えはある)堅実映像化作品程度だった。一応、一作目だけは原作を読み、作者スティーグ・ラーソンの数奇な運命も手伝ってか、見事にハマった小説だったことも影響してるかも。(ちなみに、フィンチャー版は大好きです。)

そして、本作も予想通りの出来。ドラマシリーズのパイロット版として吹替で気軽に観るならそこそこ楽しめるかなレベルの仕上がり。タイトルにもなっている「ノーベルの遺志」など(原作では掘り下げがあるのかもしれないが)この「テレビドラマ」版では火サス「断崖上の告白」程度すらも機能しない。小説だと違うのかもしれないが、とにかく主人公のアニカ・ベングッソンにさしたる魅力を見出せない。演じるマリク・クレピン(Malin Crépin)もパッとしない。が、スナイパー役のアンチュ・トラウェ(Antje Traue)にワクワク魅惑!ドイツ出身の彼女は、ポール・W・S・アンダーソン製作(確かに、アンチュはミラ・ジョヴォビッチ系だし)の『パンドラム』で世界デビュー、続いてレニー・ハーリンの『5デイズ』に出演。ここまでは先行不安というか心配なフィルモだったのだが、もうすぐ公開の『マン・オブ・スティール』にファオラ=ウル役で出演!どうやら、冷徹な悪役美女のようで、本作を観る限りでもかなり期待できそう。(マイケル・シャノン演じるゾッド将軍の手下(?)のようで、彼と共にインタビューに答える動画[その1その2その3その4その5、こういうの見ると改めて「プロモーションって大変」「インタビュアーって重要」って思う]があった。)



本作で監督を務めたピーター・フリント(Peter Flinth)の次回作は「Beatles」。原作は、ラーシュ・ソービエ・クリステンセンのベストセラー(1984)。ラーシュ・ソービエ・クリステンセンは、最近だと『孤島の王』の原案を担当。「Beatles」は、ビートルズに憧れる少年達を描いた作品のようだが、音楽はグネ・フルホルメン(2010年に解散したa-haのメンバーだった)が担当し、プロデューサーは『コン・ティキ』のヨアヒム・ローニングとエスペン・サンドベリ!(彼らが監督するといった情報も見かけたので、もしかしたら当初はその予定だったものの、『コン・ティキ』の成功で『パイレーツ・オブ・カリビアン』新作の監督に抜擢され、監督がピーターに替わったのかなと想像) こちらは楽しみ!

2013年7月27日土曜日

台湾アイデンティティー

現在ポレポレ東中野で公開中の(ちなみに、沖縄の桜坂劇場でも)『台湾アイデンティティー』。来月からは関東でも群馬埼玉神奈川で順次公開。

酒井充子監督の一作目『台湾人生』の続編というか第二弾というか姉妹編とも言うべき本作。しかし、『台湾人生』を観ておかねばならぬ必要性は全くない。ただ、観ていると浮かび上がる必然性は其処彼処。『台湾人生』は初監督作であったり、扱うテーマが孕む複雑性もあってか、「大きな物語」への律儀さをのぞかせていたように思う。勿論そのことで、歴史として物語として過去に入ってゆける仕掛けが見事に機能していたが、語られる個の人生が「大きな物語」のなかに浮かぶ「小さな物語」として〈翻弄〉に帰してしまうという「まとまり」を持ってしまっていたようにも思う。それはそれで、それだからこそ、私のなかにも未だに消えぬ(そして、こうして本作を観ようとする)深い感銘を受けるに至ったが、本作においては葛藤しながらも芽生えた信念に従って「物語」は編まれてゆく。ひとつひとつの「小さな物語」をそのままに、その背後にある「大きな物語」を聞き手(観客)が自ら発見し読み始めようとするための、静粛な探照灯。

本作では6人の「台湾人」(という括り方は相応しくないかもしれぬが)の話に耳を傾けている。撮影は監督とカメラマンが語り手と向き合って行っているようだ。時折、監督自身の問いかけの声が聞こえるし、そこには明らかに監督の意図も意志も読めるのだけれど、そこに本作を支配し統合を図ろうとする力などを感じることはない。むしろ、同行者として観始めた私たちは、「それ、僕も訊きたかった」とか「それを訊きたいのはわかるけど」などと隣で一緒に聴く者としての連帯感が深まってしまう。インドネシアの残留日本兵である男性に、「何人(なにじん)として死んでいくんでしょうか」という問を発した監督は、後悔や反省を述懐している。確かに、そこに違和感をおぼえる観客もいると思うし、それはそれで至極当然とも思うが、私は何故かそうしたところに「信頼できる何か」を感じてしまうのだ。観察に徹しきれないながら、懸命に耳を澄まそうとし、しかし堪えきれない逸る想い。しかし、そんなすれ違いでしか叶わない巡り合いがあるよな気もしてしまう。そして、それこそが疎通を図る意思の現実で、それこそが個をみつめるドキュメンタリーには必要だと思うから。

『台湾人生』では、「日本人として」知らねばならぬ事実を手渡されたが、『台湾アイデンティティー』には「人として」学ぶべき真実が佇んでいる。「生きた教訓」に、時代も国も民族もない。いや、時代にも国にも翻弄され抑圧されてきたからこそ、それでもなお在り続ける矜持に人間の美しさが宿っている。人間の醜さに屈さずも殺されずに生きるには、どんなに押しつぶされても棄てぬ「美しさ」が必要だった。そこに残酷さしか生まれないことがあることも、彼らはよく知っている。僕らはまだ、(いや、これからも?)知らない。ただ、彼らが「語る」ことを選んでいるという事実に、私たちは敬意以上のものを払う覚悟をもつべきなのだということだけは、わかる。

台湾のアイデンティティー、台湾とアイデンティティー。いずれも、単純には済まぬ矛盾をはらんだ表現。矛盾や拮抗や葛藤でしか真実に近づけない現実が人間にあるとしたら、アイデンティティー(同一性)を奪われた彼らを貫く「人間」性に、社会が個人を埋め尽くすことはできない証左を見る。


2013年7月25日木曜日

グランドイリュージョン/Now You See Me

先日、丸の内ピカデリーで『ベルリンファイル』を観た際に初めて予告を観た。そこで初めて邦題が『グランドイリュージョン』だと知ったが、予告もなかなかキャッチ・マイ・アイズな仕上がりで、今夏の松竹東急系(でいいのか?今も)作品に人がそこそこ入れば今秋のスマッシュ・ヒットも見込めるかも!?とは淡い期待?有楽町マリオンは明らかに明と暗が真っ二つになりそうな、今夏。『モンスターズ・ユニバーシティー』『ポケモン』『真夏の方程式』の日劇に対して、ピカデリーはこれからだって『ローン・レンジャー』(これも本当は大いに期待されてたはずだったんだけど)という微妙な爆弾と『終戦のエンペラー』という手堅いながらも頭打ち確定な動員作。『パシフィック・リム』や『マン・オブ・スティール』はカルト的な人気は約束されながらも、メジャー感を演出しきれずに終わるのが目に見える・・・スタトレは今回なかなか本気出してるし、『ワールド・ウォーZ』もポテンシャル高そうだから、やっぱり今夏のマリオンの明暗はこのまま行ってしまうかも。

その『グランドイリュージョンNow You See Me)』、全米では6月初旬に公開され、2週目の『ワイルド・スピード EURO MISSION』には及ばずも、同週末に公開の『アフター・アース』には僅差で勝利するというスマッシュ・ヒット。正直、キャストもスタッフもその布陣を眺めてるだけでニヤけて来てしまう。

まず、キャスト。ラスベガスのステージでテクノロジー駆使の派手派手イリュージョニスト集団「フォー・ホースメン」のメンバーには、ジェシー・アイゼンバーグ、アイラ・フィッシャー、ウディ・ハレルソン、デイヴ・フランコ(ジェームズ・フランコの弟、『21ジャンプストリート』で準主役)。その強盗集団に立ち向かうFBI特別捜査官をマーク・ラファロが演じ、メラニー・ロランはインターポール!しかも、更には脇をマイケル・ケインとモーガン・フリーマンという『ダークナイト』の名重鎮コンビが固めるという!一般的にも豪華だけれど、個人的にも胃もたれ級なハイパー豪華キャスト!老若男女四方八方東西南北好き好きキャスト!!!

なんでこんな(豪華かつ私的極上俺得)キャスティングが可能かといえば、ソダーバーグ作品の近作(『コンテイジョン』『エイジェント・マロリー』『マジック・マイク』ほか!)におけるゴージャス・キャスティングの仕掛け人カルメン・キューバ(Carmen Cuba)がキャスティング・ディレクター。至極納得!

監督はルイ・レテリエ。『トランスポーター』の共同監督としてデビューし、続編では単独メガホン。『トランスポーター』シリーズは正直あまり好きではないが、その2作の合間に彼が監督した『ダニー・ザ・ドッグ』はかなり好き。そして前々作の『インクレディブル・ハルク』も大好き(前作にあたるのは『タイタンの戦い』・・・)なので、彼のフィルモでは一作おきに気に入るという法則。というわけで、今回は気に入る番!

ちなみに、ルイ・レテリエが撮った『インクレディブル・ハルク』でハルクを演ったエドワード・ノートンは『アベンジャーズ』では降板したものの、変わってハルクを演じたマーク・ラファロが『グランドイリュージョン』でルイ・レテリエとも組むという巡り合わせが何だか素敵。

IMDbでは7点台ながら、Rottenでは批評家50%未満の観客70%強。正直出来に関しては不安材料なくもないけど、そんな中でも期待を優先させたいのが脚本に参加しているボアズ・イェーキンの存在。彼は昨年随一の快作『SAFE/セイフ』の監督、そして脚本家!(ちなみに、今更認識したんだけど、彼は『タイタンズを忘れない』や『アップタウン・ガールズ』の監督でもあるのか。信頼できる!)

音楽はアクションやヒーローもので昨今安定の高揚演出家ブライアン・タイラー。彼の公式サイトを初めて訪れたけど、まさに映画音楽界の貴公子だ・・・UCLAとハーバードで学び、若くして(多分)デビュー、そして近年益々精力的に活躍、おまけにイケメン。『スカイライン-征服-』の製作に名を連ねていたりする(exective producer)なんてとこまで抜け目ないプロフィール、クール。

撮影はこれまでもルイ・レテリエと仕事をしているミッチェル・アムンドセン(Mitchell Amundsen)。数多の大作に関わってきた彼は、あの『ウォンテッド』(大好きなんです、スミマセン)の撮影も担当していた大好きカメラマン(のはず)。更には、ザック・スナイダーとタッグを組んできた(『SUPER 8』も手がけた)ラリー・フォン(Larry Fong)も撮影を担当してるらしい。これはアクロバティックなカメラワークにドキドキしちゃう(きっと)!

あと気になるのが「line producer」として記載されている「Yuki Suga」という日本人名。

何だか過剰な期待で早くも不安が増幅し始め中。日本公開までは未だ三ヶ月もあるんだね。観られる頃には長袖か。今年の東京国際映画祭最終日(10月25日金曜)に公開されるのか。ということは、特別招待作品とかの枠で「有料試写会」やるのかな。メラニー・ロランが来るならTIFFで観ちゃうかも。でも、そりゃないな。来るとしたらジェシーかな(2010年のTIFFオープニングが『ソーシャル・ネットワーク』で、その時にはゲストで来日してたっけ)。でも実際、『グランドイリュージョン』がオープニング作品になる可能性は低くなかったりするのかも。なぜなら、今年からTIFFのチェアマンには角川書店取締役相談役の椎名保が就任してるから(『グランド~』の配給は角川書店)。一昨年はチェアマンの依田巽(当時)がCEOを務めるギャガ配給の『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』がオープニング作品だったという最低な「実績」もあることだし(この年もオープニング上映が一般公開の一週間前というタイミング。そう考えると、10月25日公開というのも、そうしたシナリオの一部として決まった日付だったりするのだろうか)。ちなみに依田巽ってエイベックスの創業者(の一人?)でもあったんだね。元来は映画界のエイベックス的存在だったギャガの社長になるという展開も見事に「わかりやすい」。でも、そんな人が東京国際映画祭のヘッドだったのかと思うと、やっぱり「おかしくなる」のは宿命だったのかと今更痛感。せめて六本木開催だけはやめて欲しいものなんだが・・・。

と、話が逸れに逸れてしまったが、それでも楽しみ、『グランドイリュージョン』!


2013年7月24日水曜日

欲望のバージニア/LAWLESS

『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』とか『ジャッキー・コーガン』とか、そして本作みたいな映画を僕は映画館(と呼ぶに値するシアター)でもっと観たい。『ジャッキー~』は正直至極退屈ではあったけど。2時間前後、暗闇でシートに身を埋めては固唾を呑んで見つめるスクリーン、それが映画という体験。ならば、鎮まる心が退屈の海にのまれるか、無限のビートを刻み始めるか、それは紙一重。そんなリスキーなギャンブルが映画という体験。だから、退屈を恐れずつくられた映画を、退屈を厭わずに観ていきたい。『ジェシー・ジェームズの暗殺』を、平日昼間ガラガラの、今はなきチネ・グランデ観た記憶。至福の映画体験、その典型。映画も俺も、まどろむ浪漫。暗闇の白日夢。

旧き良きなオーラをまとい、ニューシネマなムードも漂わせ、それらが融け合いいちゃつくような、そんな「ささやかなご都合」が好都合。アートスクール時代からの仲というジョン・ヒルコート(監督)とニック・ケイヴ(音楽、そして脚本!)の知己知己BANG!BANG!上機嫌!そんな現場ゆえ、仕上がりも統率はやや欠けてるが、なんてったってLAWLESSよ。ラストの「最近じゃ世の中も随分と静かになっちまったもんだ・・・」って語りに箔付けるには、終始ざわざわしてなきゃなんねぇわけだ。安心して観てられる登場人物が誰一人いないディスオーダー。なのに、いいや、だからこそ、安心して身をまかせてしまうスペクタクル。まさに、台詞と画がついたニック・ケイヴのミュージック。

禁酒法の時代、それをカリカチュアライズした過去で終わらせない。むしろ、現代と地続きであることを強調する。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを歌うカントリーシンガー。歴史が更新の連続と同じくらい、反復の継起である諸相。様式美の踏襲。クラシックによる更新。今は昔、昔は今。

「恐い物知らず」にとって最も大切なもの、それは恐怖心。無敵じゃないけど、不死身の理由。



私が観たのは郊外のシネコン朝一の回。上映開始間近に入場すると、目の前にシルバーなレディ3人連れがゆったりと場内に入ったところ。手元のチケットに眼を遣りながら、座席を探し始めるが、近くのシルバー男性が「いっぱい空いてるから、どこでも好きなとこに座ればええんじゃ」と声をかけ、「そりゃそうだ」とばかりに「ここ空いとるから、ここにしようかね」と徐に腰を下ろすお三方。なんだか、上映前から早速素敵な和みを頂き、劇場観賞醍醐味享受。

そして、上映終了後のシルバー・レディ・トリオ。「好い映画だったわねぇ~」「好い映画!」「『欲望』って感じだったわよねぇ~」「ヨ・ク・ボ・ウ!」と、それはもう御堪能オーラ全開で嬉しそうに語らいながら、劇場を後にしていった。懸命に脳へと埋め込んだリテラシー・チップを遙かに凌駕する、自然に育まれた見る眼・感じる心・自由な体感。夢や希望や憧れが健在だった頃の現実を生きた世代。発露させるからこそ衝突も後悔も享受もできた、「欲望」の時代。自己完結型欲望は、いつしかひたすら抑望の世代。無法地帯の輝きは、強大な権威や秩序の副産物。秩序なき時代の無法はただの埋没するしかない日常。

2013年7月23日火曜日

IDCF2013 コンペ(後篇)

地元の人達が、「なんだか映画のお祭りやってるらしいわよ」なノリでふらっとやってくるSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。面白かったり楽しかったりしたときに充満するウェルカム感は好いものだ。でも、最も感心というか安心できるのは、たとえ「キョトーン」な作品を観てもあくまで「ふーん」や「へぇ~」で貫かれる友好感。沸点の低い好戦都会とは無縁の空気。だからこそ、娯楽性や話題性にひきずられず、作品選定ができるのだろう。勿論、だからといって観客度外視ではないし、土日上映には「相応しい」作品の選定がなされてはいるのだけれど、一方で他の映画祭や特集上映では観られないような(受け皿の無い)タイプの作品も積極的に選出してくれているのが嬉しいところ。

今年で言えば、『アメリカから来た孫』や『隠されていた写真』、そして『ぼくと叔父さんとの事』。(『アメリカから来た孫』はスケジュール上困難で残念ながら観られなかった。)

『隠されていた写真(Zdjecie)』は、ポーランドのマチェイ・アダメク(Maciej Adamek)監督による82分の小品ながら、変わった見応えのある作品だった。ドキュメンタリーや短篇などの作品では一定の評価を得てきたアダメク監督の初長編。ドキュメンタリー的な雰囲気を残しつつも、明らかに劇映画たろうとする緊張感もそこはかとなく漂う不思議なドラマ。短篇をそのまま並置したような親切な澄まし顔に最初やきもき、次第に諦念。そんな頃合いに、心にしっくり来るか何も落ちてこないかは、観る者によってだいぶ違いそう。東欧の映画、とりわけポーランド映画からイメージする「堅さ」や「冷たさ」はよりローカル的な深まりを見せ、ついつい捜してしまいがちなメッセージ色はさほど見当たらないという先入観との齟齬に何処か戸惑いを感じながら、時の歩みが異なることを知る。



自分の〈過去〉を探るために旅に出た主人公アダム、17歳。しかし、それはいつしか両親の〈過去〉を調査することで、自らのルーツを精査しようという〈現在〉の空洞化。そこに訪れる恋の予感。いや、実感。そう、痛感。アダムは何かにつけハンディカメラで眼前の光景を記録するのだが、そこに人間が混入することを何処かで避ける想いが強かった。しかし、そんな彼の記録にやがて、人間が入って来る。いや、人間を記録しようとカメラを持つ。そのとき、彼が見つけた母親の写真に記録された可視世界の背後に広がる不可視な記憶がもつ意味を、彼は知ったのかも知れない。列車のなかのラストシーン。アダムが一枚の写真を母親に手渡す。凝縮される軌跡。觝触せぬ奇跡。語られなかった寡黙な時間が、雄弁な緘黙の時間に変わる。過去を追い抜いた今がある。追いつかんとする未来もある。


『ぼくと叔父さんとの事(LUV)』は、その邦題からは想像もつかぬハードな人間交差点。それに、劇場公開はおろか最近ではソフト化やCS放映すら激減してる印象のブラック・ムービー(黒人映画)。ここまで黒人オンリーでドラマが進む映画を劇場で観ているというだけで新鮮。ただ、そんな刺激的な体験であるはずの本作の観賞が、見事に爆睡映画祭に化してしまったことをここに告白・・・。だって、連日睡眠数時間で朝一の仕事終えて川口に駆けつけて昼食とった直後・・・ということで、お許しを(って、誰への懺悔?)。とはいえ、断片的に傍観してたなかでもやはり、あまりにも懸け離れすぎた現実が展開されるドラマには、どうしても取つき端がみつからず、そんな没入拒否な印象が更なる睡魔へ導いて(責任転嫁)、だけどラストの希望と絶望がないまぜの場面は好きよ。それしか言えない・・・。

ただ新鮮だったのは、それだけ黒人映画で下層の現実を描いていながらも、ヒップホップなBGMがほとんど聞こえてこなかったこと。シガー・ロスとか流れたり、スコアもシューゲイザー的。Q&Aでちょうどその辺を監督に質問してくれた方がいて、そうした選択は「監督の趣味」であると同時に「ステレオタイプに陥りたくない(描く現実を一つのパターンとして受け取って欲しくなかった)」という意図でもあったとか。面白い。けど、個人的には正直ちょっと違和が強めに残ってしまったな。



ラストシーンから勝手に読みとったメッセージとしては、The pen is mightier than the sword(ペンは剣よりもつよし)。(以下ネタバレ) 主人公の少年は手にした大金を森の木の根元に埋めて隠すのだが、そのときに目印に用いたのは鉛筆なのだ。最初は、鉛筆を突き立てるなんて目立つし、外れたら見つけ難いし・・・と思っていたが、銃による恐怖と暴力でサバイブしてきた少年に残された希望の証(兆し)として、「鉛筆」が用いられたのかなと思い直してみることに。とはいえ、『アウトレイジ』の加瀬亮みたいなタイプに仕上がってしまうという線もあるわけで(笑)、正直もうすこし可能性の示唆が欲しかったりもした。(というか、「その点」を個人的に求めてしまう性向なんだと最近自認。ケン・ローチの『天使の分け前』に戸惑ったのも似た観点からだったかも。)

これまでIDCFで観たコンペ作品はヨーロッパやアジアの映画ばかりだったので、アメリカ映画しかも黒人の監督が登壇というのは新鮮だった。監督のシェルドン・キャンディス(Sheldon Candis)は今作が長編2作目の若手。実は日本とは既に縁があり、「The Dwelling」(隅田川沿いで生活するホームレスを撮っている)という短編ドキュメンタリーを制作していたり。それ観て行けば(そして、監督に質問すれば)好かったなぁ。短篇「The Walk」もここにある。


当初は観る予定から外してしまっていたチェコ映画『オールディーズ・バット・ゴールディーズ-いま、輝いて-(Vrásky z lásky)』。2本観る予定だった金曜に、朝一の仕事を終え直ぐさま駆けつければ観られることが判明して急遽滑り込む!初めての多目的ホールでの観賞(これまでは毎年全回「映像ホール」で観賞してきたので)だったが、これは断然「映像ホール」で観た方が好いですな。いわゆるパイプ椅子が並べられているタイプの会場ですからね。でも、本作のような映画なら、そうした観賞環境がむしろちょっとした「ムード」を演出してくれた気さえする。平日の11時からの上映と言えば、一般的な社会人は最も観られぬ設定ながら、会場には大勢の観客が・・・。そう、オールディーズでぎっしり、大盛況。雰囲気出過ぎでちょっぴり複雑・・・。(いや、本当にいわゆる「若者」にみえる人が皆無に等しいという場違い感[自分を若者にカウントしてる疑惑・・・気のせいですよ])



全く期待していなかったのが奏功してか、これが随分と沁みた!設定はちょっと奇抜ながらも(往年の名女優[今は忘れ去れてしまっているが]に眼の手術を控えた男が、彼女が入所している老人ホームに会いに行き、彼女がプラハでオーディションを受けるために共に旅(?)に出るというお話)、奇を衒うこと無く、それぞれの人物を色分けすることも無く、淡々ながらも実に丁寧に多面のまま人間を描こうとする誠実さ。それは、「老い」を衰えや諦観で括らず、ノスタルジーや直向きだけで塗さず、静かな覚悟でもってそっとじっと見つめる眼差し。

主演の二人(イジナ・ボフダロヴァーとラドスラフ・ブルゾボハティー)は何とかつて実際に夫婦だったとか。1960年代には数多くの作品で共演したチェコを代表する役者の二人は、やがて結婚するも、憎しみのなかで離婚。以後30年もの間、彼らは共演を頑なに拒み続けてきたそうで、そんな彼らが共演する(しかも主演、かつ往年の彼らの間柄を想起させるような関係性も含みつつ)ということで、脇役にもチェコのテレビ・映画界の一線で活躍する役者が結集したとのこと。確かに、役者たちのアンサンブルには安定感と適度なケミストリー。そして、そうした作品の背景が大きな力となって本作を温かく「抱擁」し続ける。オタを演じたラドスラフは本作が初めて上映された直後に亡くなった。しかし、最後の最後に輝けた、まさに「映画みたい」な物語。

オタの愛車(いまやオンボロ)が思いっきりスクラップにされる場面から始まる本作。その容赦なき過去の否定から始まるからこそ、過去から生まれる前向きの輝きがラストの彩りに意義を生む。

監督は「子供と動物はつかうのが大変だから」子供や若者は出演させなかったんだと冗談交じりに答えていたが、子供や若者を出すことでうまれる対照性から「老い」を定義づけるような野暮を回避したかったのかも。彼ら二人のなかに蓄積されたものから眼を逸らさずに、老いることの痛みと喜びを静観することに成功している気がした。監督はまだ39歳。本国でも若者に観てもらいたいという願いは叶わなかったとのことだが、ファンタジーではないがリアリティだけでもない「ドラマ」を呈示した彼の問題意識はきっと、自らの立ち位置に誠実な作品作りの表れかもしれない。

監督のイジー・ストラフ(Jirí Strach)は10代から俳優の仕事を始めていたらしく(20代後半から監督業を始めたみたい)、フリートークはそんなに得意そうではないものの、非常に見栄えのする好青年。本当、この映画祭に来日し登壇する監督陣は、なぜこうも感じが好く、友好的かつ和やかなのか。それはおそらく川口という適度な周縁感と、開催時期(サマー・ヴァケーション!)からしてオフを利用し観光がてらちょっくら仕事もしちゃうかな的スタンスで日本行きを決めた面々なのでは!?などと勝手に(半ば失礼な)推測をしてみたり。まぁ、でも、政治的な駆け引きや探り合いも横行する「大きな」映画祭に比べれば、自分のつくった映画を遠く離れた日本で悠長に寛げるなかで観てもらうって体験は、或る種の稀少性をもっているかもね。(しかも、既に本国での公開や映画祭巡りが一通り終わった後という安堵感もあるだろうし。)


プレミア感や権威のオーラが皆無だろうと、別次元でひきつけられる魅力をもったIDCF。ある面では進化や深化を求めたいけれど、真価は変わらず続けばいいな。そして、僅かずつでも映画ファンの間に健やかなる浸透がうまれれば。とりあえず、今年も見応えのある作品に出会えたことに感謝です。
 

2013年7月22日月曜日

IDCF2013 コンペ(前篇)

今年で10回目を迎えたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭だが、私が参加するのは3回目。昨年同様、「コンペ作品フリーパス」(前売限定3,000円で長編・短篇コンペ作品すべてが観られる)を購入し、のべ4日間8作品を観賞。やはり今年も短篇プログラムの上映を観ることはできなかったし、長編コンペに出品された日本映画を観ることもできず、長編コンペ12本中9本の外国映画のうち8本を観るという選択に。

フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』に関しては感想を記事にしたものの、その他の作品についても軽く振り返っておきたいと思う。

まずは、最優秀作品賞を受賞した『チャイカChaika)』。スペインの新鋭ミゲル・アンヘル・ヒメネス(Miguel Ángel Jiménez)監督による長編2作目。個人的には最も楽しみにしていたのが本作であり、今回のコンペ観賞作の中で最も魅了されたのも本作。昨年同様、極私的審査結果と審査員が出した結果が一致した形だが、今年の場合はグランプリのみならず、上位3作品が見事に一致(監督賞に『フロントライン・ミッション』、脚本賞に『セブン・ボックス』)。ポピュラリティやメッセージ性からすれば断然他の2作に軍配が上がるだろうが、そこはやはり「芸術性を競う」映画祭の宿命(?)からか、無難ながらも納得のグランプリ。(『フロントライン・ミッション』はもう既に十分な評価を各所で得ているし、『セブン・ボックス』は何か賞を絶対あげたい作品ながらグランプリはちょっと違う感じだったので、そうした「事情」を鑑みても妥当かと。)



『チャイカ』は映画祭映画的な側面が際立つ、いわゆるアート系な映画でありながら、当初は「狙った」のであろう多国籍感(本作は、スペイン・グルジア・ロシア・フランスによる合作)が、自然と「滲み出る」無国籍性へと少しずつなだれ込む。しばらくするとワンパターンにも思えて来る映像美が、何の躊躇いも無く反復を続けることによって醸成される心地好いマンネリとその微かな変容がもたらす無量無辺。荒涼とした大地をデジタルがフラットにとらえる画には、自然の慈しみも厳しさも廃されて、徹頭徹尾「そこに在る」という事実だけを刻むかのよう。だから、それらの光景が湛えている美しさは、決して人間をやさしく包んでくれたりすることはないし、彼らがそうした美しさとシンクロを見せてゆくわけでもない。寡黙な物語ゆえ、叙事の裏に潜む懊悩の暴発が時折訪れる。そして、そのときようやく彼ら(登場人物)は自覚し、僕ら(観客)も気づく。誰もが欲する、「ここではないどこか」について。

とにかく耽美主義的な眼差しに終始する画の連続は、単なる心地好さを求めているわけではなく、自然(空と大地)や文明(列車や建造物)の壮麗さに必ず人間の卑小さを刻印してる。それは、彼らの心がまさに精「神」として、人知を離れ、神のみぞ知るかの如き迷走を繰り返す様と見事に重なりもする。海から始まるこの物語において、冒頭で船を下りた二人にとっての動かぬ大地での暮らしはきっと、終わりの約束された逗留だったのだ。動き出す列車を見るとき、宿命が動き出すとき。移ろいゆくなかで、留まる者と動く者。離れてゆく者、見送る者。


セブン・ボックス7 cajas)』の上映は、コンペ作品中最高潮の盛り上がり。土曜昼という絶好のスケジュールもあってか、場内は満席近い大盛況。105分の上映時間も90分弱の体感で疾走する緩急抜群(「緩」は数割程度だけどね)な、空回らぬ意気込みの心地好さ。これまで20本しか制作されていないというパラグアイ映画の分水嶺になり得る、可能性の宝庫。これまでCMなどの制作を手がけて来たというフアン・カルロス・マネグリア(Juan Carlos Maneglia)監督は、映画を専門に学んだことはなく、映像制作の仕事のなかで習得した知識や技術を映画制作に結実したと語っていた。上映後のQ&Aで、「韓国映画や香港映画を思わせるアジア映画的な要素を垣間見られるが、意識したのか」といった質問が出るも、「パラグアイではそういった映画を観ることができないので・・・」という返答。いろいろな映像作品につながる想起が連続しながらも、何処かコピーの気配がしない鮮度が保たれていたのは、そんな「無垢」の産物だったのかも。

パラグアイ社会がかかえ闇を屋台骨に展開する物語でありながら、善きも悪きもそれらの構造に従順に組み込まれる事ない現実が、人間の滑稽さと逞しさを皮肉り、それでも賛歌。「大きな物語」が失われようとも、小さな小さな物語の連綿は社会をやがて映し出す鏡。社会がどんなに個人を駆逐しようとも、むしろ個人を駆動する。朗らかながらも強靱な志を感じさせるフアン・カルロス・マネグリア監督の人柄にも魅了され、遠い国で芽吹いた希望の予感を共有させてもらった気がしてみたり。



『セブン・ボックス』は審査員特別賞でも監督賞でも好い気がしたが(勿論、脚本賞であることに異論はないよ)、クレジットを見てみると、監督はタナ・シェムボリ(Tana Schembori)と共同ながら、脚本はマネグリア監督が中心になって書かれたようで、そんな配慮(?)もあったりしたのかな。(個人的には、台詞やプロットというより「あの手この手」で試された映像アプローチこそが本作の語りの肝だとも思ったので、監督賞でも好かった気がしたもので。)


『チャイカ』は劇場公開は難しいかもしれないけれど(でも、字幕は太田直子氏が担当してました)、ラテンビート映画祭あたりでの上映可能性はある!?(ただ、ロシア語で舞台も・・・だし、監督がスペイン人だってだけじゃ無理か。) 『セブン・ボックス』こそラテンビート映画祭で上映されたりするかもね。劇場公開のポテンシャルもありそう。
 

2013年7月19日金曜日

完成度と感性度の反比例

『モンスターズ・ユニバーシティー』を観た翌日に、ミゲル・ゴメス(Miguel Gomes)の長編処女作『自分に見合った顔(A Cara que Mereces)』を観た。抜群の完成度に唸った前者だが、余白も余地も残さぬ巧みには、もはや感性が入り混む隙は無い。完成度度外視な後者に戸惑いと朦朧の最中で僕は、荒ぶる全天候型感性に、どこから手をつけていいか、わからない。

ポエジーをひとかけら、ください。

そもそも舞台を「大学」に設定したというのを知ったとき、厭な予感が過ぎった『MU』。全く作品内容に切り込まない抽象礼賛躍ったコメント見かけては、懸念高まるMG一作目。M(ものすごく)U(優秀)な『モンスターズ・ユニバーシティー』、M(ものすごく)G(自慰)だった『自分に見合った顔』。結局どちらにもどこか勝手におぼえる「敗北」感。

ポエジーないは、僕のほう?

完成度を見極める客観性、感性度を決める主観性。どちらも自信がない僕は、どんな映画を観れば好い?好きな映画を観れば好い。好きに映画を観れば好い。だけど、クールに分析したい!やっぱり、シネフィル気取りたい!それでも誰もが、ラタトゥイユ
 


2013年7月18日木曜日

狼が羊に恋をするとき

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品2本目の観賞。台北駅近くの南陽街という予備校が多く集まっているという一角が舞台。地味に滋味な群像的書割に、ミュージックビデオ風味の青少年たちが右往左往。ごちゃごちゃ玩具箱な渋滞は、解消が予告されてるかのような布石感に溢れ返っていたりもするものの、アジア映画らしさをこってり吸収し尽くした台湾娯楽映画の今がある!?

私が本作を観たのは日曜夕方の回だったのだが、その前の『フロントライン・ミッション』が終わって外に出ると、入場待ちの列が出来ている・・・。ちなみに、この映画祭は全席自由席(前売も当日券も)で、整理番号などもない。が、大抵、開場前に待っている人など僅かだったりするので、続けて観る場合でも、ブラブラしてきて開場時刻前後に戻ってくるのがいつもの私的流儀だが、ちょっと心配になってしまい、出来てる列の後につく。(開場までもそんなに時間なかったし。)監督による映像チェックに時間がかかり、実際に開場は遅れたものの、暑さや怪しい雲行きもあって、とりあえずロビーに入れるだけ入らせてくれた上で開場待ち。誘導スタッフはおそらくボランティアが中心なので、地に足の付いた配慮に自然と寛ぎおぼえたり。開場が遅れることに関しても、「監督がなかなか映像にご納得いただけないようでして、少し調整に手間取っております故・・・」という正直なアナウンスは、イベントのプロなのだとしたら規準に適わぬかもしれないが、ボランティアならではの醍醐味(?)として癒し効果を発揮する。

後から知ったのだが、本作の主演男優クー・チェンドン(柯震東)は『あの頃、君を追いかけた』に主演してたんだとか。昨年の東京国際映画祭で上映され、あちこちから絶賛の声が聞こえてきて、いよいよ9月14日から二本でも劇場公開される同作は、台湾での社会現象的大ヒットのみならず、香港でも『カンフー・ハッスル』の記録を塗り替えて中国語映画の歴代興収ナンバーワン記録を樹立。というわけで、いつもの場内の客層とは異なった女性勢(アジア映画ファンと思しき面々)が映画祭の雰囲気に華を添えてくれていた。チケット代は大した額では無いので、動員如何でどうこうというのはそこまで意識しないのかもしれないが、話題性としては「この手の作品」もコンペに何作か入れても好いのかも。(でも、そういう「色気」が見事にみえないところも、この映画祭の好いところではあるんだけどね。)

で、カラフルポップな本作に色めきときめきウキウキしたか・・・というと、正直序盤から全然ノレなかった。決して作り手が拙劣な訳ではなく、あくまで個人的な趣味というか波長とというか、そういったものが本作のウキウキ成分を全くキャッチできなかった・・・という印象が終始。つくりがつくりなので、飽きも退屈もしないのだけど、ハイボルテージになるべき場面で「ふむふむ、そうするんだね」的俯瞰スタンスな構えになっちゃう悪循環。もしかしたら、カチャカチャ計算してる感が画面から伝わってきて(あくまで、勝手にそれを嗅ぎ取って)しまうからだったのかも。

とはいえ、終盤の疾走感あふれるドラマチック・クライマックスでは、「あれ?あれれれれ!?」というくらいの高揚感が私にも充満っ!と思いきや、やっぱり「俺のリズム」をとことん狂わす流れ、アプローチ。ま、やっぱり趣味の問題なのだろか。

とはいえ、予備校の授業風景なんかは懐かしく、そうした「ちょいキュン」はぼんやり持続してたかな。上映前に登壇した映画祭のディレクターが、「かつての駿河台を思い出す」なんてコメントしてたのも至極納得で、まさに受験が戦争めいてた時代の風景。私の頃には、最大のピークは越えていたとはいえ、それでも私が通っていた駿河台にあった予備校の大教室は、本作に出てくるように浪人生でびっしり。しかも、狭っ苦しいスペースに詰められまくり。瀧沢ディレクターも同じ光景を想起したのかな。

上映後のQ&Aでも出てきた話題だが、本作は予備校街を舞台にしてはいるものの、予備校生自体が物語の主要な登場人物という訳では無い。ただ、物語の「背景」としては魅力的な機能を果たしてはいる。ホウ・チーラン監督としては、「夢を追いかけつつも、そこには成否の分岐が待ち受けており、やがては皆そこから巣立ってゆく場所」という空間の魅力を、既にそうした時代を過ぎた大人たちのドラマと重ね合わせながら見られることを願っていたようだ。アジアの青春映画で最近流行の、現在と過去を往来するタイプの或る種変型とも言えるかも。適度な閉塞感(実際の撮影はどうか知らないが、確かに「街の一角」のみで進行するミニマムさがある)は、若者の「閉じこもりたい」けど「出てゆきたい」な内面とは巧くマッチしてるかな。

ポピュラリティは十分だから、(字幕つけたわけだし)そのうち劇場公開ありそうだ。全く個人的な推測だけど。(そうすると、「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭出品」という併記で、少しは映画ファンのなかで映画祭の認知が高まるかも!なぜか、勝手に応援団メンタリティ。)


原題は「南方子羊牧場」で、英題が「When a Wolf Falls in Love with a Sheep」。
ジエン・マンシュー演じるヒロインは予備校の職員で、彼女は主人公が働く印刷所に出す試験の問題用紙の隅にボランティアで(勝手に)イラストを描いている(イラストレーター志望)。というか、そもそもあんなこと許されるものなのか・・・。で、そこにいつも登場するキャラクターが羊。で、主人公と「その場」をつかってのコミュニケーション(恋愛的駆引)が始まって・・・という展開。
 

2013年7月16日火曜日

フロンロライン・ミッション

※追記:日本版DVDが発売された(8/30)。

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品で最初の観賞となった『フロントライン・ミッションRock Ba-Casba)』(タイトルは、アラブ人とユダヤ人が戯れるミュージックビデオが印象的なThe Clash「Rock the Casbah」に由来)は、イスラエルとフランスの共同制作による作品。監督・脚本のヤリブ・ホロヴィッツ(Yariv Horowitz)は、ミュージックビデオやテレビの演出や、国外でのCM制作、短篇ドキュメンタリーの監督なども務めてきたという。(ここで彼の仕事がいろいろと見られる。)長編監督1作目となる本作は、今年のベルリン国際映画祭パノラマ部門に出品され、C.I.C.A.E.賞(国際アートシアター連盟賞)を授与された。

舞台は1989年のパレスチナ・ガザ地区。そこに派遣された若きイスラエル兵達の苦悩を通して、衝突や矛盾のかかえる凄惨と陰鬱と不毛と懊悩が浮き彫りにされてゆく。派遣後間もなく、反発する地元の若者が屋上から落とした洗濯機によって一人のイスラエル兵が絶命する。いきなり突きつけられた現実に、虚脱と葛藤の日々が始まる。「支配者」としてのイスラエル兵の横暴、抵抗だけが尊厳の術かのようなガザの民。時に愚かで時に聡明な貌を、どちらの側も錯雑と淡々に繰り返す。

まず何よりも新鮮(?)だったのが、地元民による投石の怖ろしさ。監督によると、「ユダヤ人にただ(無料)で石を投げつけられる」とあって、パレスチナの人々も嬉々としてエキストラに参加したんだとか(笑)・・・なるほど。その迫力は確かに伝わる(※)。驚くことに、銃撃戦の何倍も怖ろしい映像なのだ。それはきっと、銃は撃ったことも撃たれたこともないが、石なら投げたことがあるし、ぶつかったこともあるからだろう。それに、銃弾は(その弾道が)目に見えないし、弾自体の重みは稀薄である(それ故の怖ろしさはありつつも、それゆえにどこか形而上的でもある)故に、質量も「弾道」もはっきり体感できてしまう石の重みは激しさを喚ぶ。

また、地元民はとにかく屋上から物を落として攻撃しようとするのだが、その位置関係がもたらす恐怖も厖大で、これは武器をもたぬ民のせめてもの「凌駕」なのかもしれないが、それを更なる規模と間接(無意識)で大量に投下する残虐こそが、空襲というものなのだ。銃撃が傷みをどこか抽象化してしまったように、空襲もおそらく同様の「効果」を孕んでる。銃撃や空襲のもつ残虐性をより「具体」的に見せられることで、戦闘の文明化が、増殖する犠牲の痛みを隠蔽している事実に気づかされたり。

そうした意味では、敵と味方が空間的に分かたれた通常の戦場とは異なった、敵と味方が隣り合い、時に交流を試みてはその度に避けられぬ衝突とすれ違いに対峙し続ける「戦場」において、戦争の深層を浮上させようとする試みは、ジャンル的な戦争映画とは一線を画しているようにも思える。俯瞰で集団を眺めるより、個人に寄り添い凝視するからこそかもしれない。

しかし、最後の最後ではやはり、個人は負ける。仲間を殺した敵を殺すことは私怨の為せる業のようでいて、殺しを躊躇う個人を容易くつぶす集団性の圧制なのだ。個人では固持できるはずの良心や尊厳も、強大な社会のお墨付きを得てしまった「正当」性には目が眩み、大義に隠蔽されてしまう。戦争の怖ろしさとは暴力それ自体よりも、それを制御する可能性の殲滅にあるのかもしれない。


※監督は、「アラブ人とユダヤ人が破壊という戦争ではなく、映画制作という創造のために共同できたことに可能性を感じた」とも語ってくれた。
 

2013年7月15日月曜日

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013

2004年に始まり、今年で10回目を迎えるIDCF(International Digital Cinema Festival)。2003年にオープンしたSKIPシティ(埼玉県川口市)で毎年開催されてきた。SKIPシティの「SKIP」とは、「Saitama Kawaguchi Inteligent Park」の略なんだとか。川口駅から、ほぼ20分おきに無料バスが出ており、所要時間は約12分。(帰りのバスも、同様。)川口までも遠いし、そこから更にバス!?という時点で、怠惰で中央集権的(笑)な私としては参加を検討すらしたことなかったが(そもそも、始まった頃は最も映画から遠ざかる生活をしていた時期でもあったし)、一昨年のオープニング作品がヌリ・ビルゲ・ジェイランの『昔々、アナトリアで』ということを知って駆けつけみると、他の映画祭や特集上映などとは全く異質な空気につつまれて、映画祭のイメージが変わった(というより、広がった)貴重な体験に。海外の映画祭についてしばしば語られる地域密着型という表現を初めて日本で(というか、首都圏で、か)体感できた新鮮さ。「シネフィル」大集合に充満するギスギスやピリピリとは無縁の、東京よりも些か空も広めの、ちょっとだけ周縁な、厭なとこをちょこっとスキップ、そんな川口で過ごす和やかのんびりフェスティバル。

というわけで、爾来3年連続で参加することにしたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。繁忙期真っ只中、三連休も三連勤、怪物大学も野性速度も観られていないまま、それでも時間を捻出し、まずはとりあえず二本観て来た日曜日。

何とか昼に仕事場を抜け出して、昼食もとらずにSKIPシティに駆け込むと、まずは「あるはず」だったファミリーマートを捜してみるが・・・無い。周辺には何も(といったら怒られるか)ないので、こいつは困った・・・と思ったら、ファミマがあった場所が休憩所になっており、そこには手作りパンの出張販売が。(ちなみに、タリーズも奥にはあったりする。)そこで、折角だし(?)その休憩所でランチを素早くとることに。サンドイッチとパンを買い、缶コーヒー飲みながら、おだやかな昼食。「ザ・簡易」といった趣のその休憩所には、来日中の監督や通訳の方なんかも昼食をとっていて、相変わらずのIDCFらしさを体感。

客層は中高年(とくに年配の方)が多めだったりするのもIDCFの特色。しかし、イタリア映画祭のややハイソ的シルバー層やフランス映画祭の有閑マダムとは違った様相で、年に一度のお祭りを楽しみにしている&青春時代に娯楽の王様だった映画への憧れに今一度胸躍らせてやって来る地元の方々が主だったりする。始まるまえの情報交換も、観賞後の感想も、至って気さくな即興曲。衒学始終騒とは無縁の空気に、深呼吸(笑)

観賞料金も良心的で、コンペ1本が800円(前売だと600円)。コンペ3回券は2,100円(前売だと1,500円)。前売だけで販売されてるフリーパスはなんと3,000円(長編12作品と短篇4プログラムがいずれも観られる)。主催している埼玉県および川口市からの相当な助成によって運営されているのではあろうが、そんな価格設定も地元民からの支持との相関関係だったりするのかも。(とか余所者は思ってみても、実際は地元民の大勢は何とも思ってないor疎ましがってるってこともあるのかもしれないけどね。)

前述のファミマ消失と並んで、でもこちらは嬉しい変化だが、今年はシネスコ作品の上映がスクリーン拡張で上映されている!(ということは、座る位置[個人的ベスポジ]が変わるということでもある。) 昨年までは、作品によってはスクリーン拡張によるシネスコ上映もあるにはあったが、基本的にはビスタサイズに上下黒帯で投影するパターンがほとんどだった。椅子の形状に関しては、個人的にはちょっと難ありな気がするものの(背もたれがほんのちょっとね・・・でも、全然普通の劇場椅子レベル)、画質含め上映環境は極めて良好な映像ホール。(実は、もう一方の会場である多目的ホールでの上映は観たことがない。)スクリーン拡張によるシネスコ上映はなかなかの迫力あり。但し、シネスコ作品で画面の外に字幕が出るタイプのものもあるようで、その場合は上下黒帯タイプでの上映かもしれません。

とりあえず今週の平日は仕事も一段落し、何度か川口まで足を運べそうなので、初めてのMOVIX川口にも足を伸ばしてみようかと。(川口駅より徒歩8分らしい) 他にも川口駅前には川口市立中央図書館メディアセブンなんかも入っているキュポ・ラというビルがあり、のんびりまったり文化的に過ごす休日には恰好な街にも思えます。あ、ちなみにSKIPシティ彩の国ヴィジュアルプラザにも映像ミュージアムや映像公開ライブラリーなんかもあって、巧いことやれば有意義に時間がつぶせそうだし、SKIPシティにある川口市立科学館にはプラネタリウム(平日は投影がないみたいだけど)もあったりします。

というわけで、何故か川口に何の縁もない私が宣伝部員のようになっている(気づけば「です・ます」調になっている)・・・ことからもわかる通り、なかなか居心地の好い町そして映画祭。初日(私にとっての)には、『フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』を観てきましたが、感想は改めて。

2013年7月12日金曜日

世界遺産から外れるという選択

富士山が世界文化遺産に登録されて云々で、何かと話題にのぼる「世界遺産」の話。先日、クローズアップ現代を見ていたら(というか、オンデマンドで見たんだけどね)、興味深いエピソードが紹介されていた。

富士山は今回の世界文化遺産の認定に際して、いろいろな「目標」というか「規準」が示され、要は注文というか努力目標と引き換えに認定を戴けたような形になっているらしく、それらが遵守というか達成されないと、今後は登録抹消もあり得るよ・・・的な流れで紹介されたエピソード。

それは、ドイツ東部にあるドレスデン・エルベ渓谷

2004年に世界遺産に登録されたのだが、その翌年早くも登録抹消の危機に直面してしまう。それは、街の中心部と住宅地を結ぶ橋の建設計画が持ち上がり、世界遺産委員会から「橋を建設すれば(世界遺産としての認定に値する景観が損なわれるので)登録を抹消する」との警告を受けたのだ。

しかし、長年の慢性的な交通渋滞(とりわけ朝夕の通勤時)に悩まされ続けて来た住民にとって、街の中心部と住宅地を結ぶ橋の建設は周辺住民の悲願でもあった。そこで、建設の是非を巡って住民投票が行われることに。

結果は、67.92%が橋の建設に賛成。

橋の建設計画は住民投票を受けて続行され、ドレスデン・エルベ渓谷は登録からわずか5年で世界遺産のリストから除外されること。(背景は異なるものの、先日小平で行われた住民投票とは色んな点で、随分違った様相を感じたりもした。)

ただ、ドレスデンの市民は「橋の建設」を選んだというだけで、効用が歴史を駆逐することを是認したわけではなく、歴史的な建造物の補修工事は継続中。但し、「世界遺産の保全」として政府が拠出してくれることを見込んでいた8億円は取り消され、市民からの寄付などを中心に進められていることもあり、計画からは大幅な遅れが生じてはいるとのこと。
 

2013年7月9日火曜日

アウト・イン・ザ・ダーク

先週末から始まった第22回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて観賞。実は、初めて足を運んだ同映画祭。故にちょっとだけ緊張(?)したが、他の映画祭にはないフランクさやお祭りムードが漂っていたりもして、微妙な上映環境も手作り感が何となくカバーしてくれたり(くれなかったり)。実際、LGFFへの参加を躊躇っていたのも、映画館での上映ではないという点だったりもして(でも、新宿バルト9で一部開催された年もあったよな)、最近では積極的に「参加しない理由」ばかり探しては安息を貪ることに精出しがちな私としては、今年も参加は見送るはずだった・・・けど、ドイツ映画特集でドイツ文化センター@青山一丁目に行く予定だったので、東京ウィメンズプラザホール@表参道が心的急接近!本作の予告編とか観たら行きたくなって、東京ウィメンズプラザホールの写真をみたら段差のある座席!ドイツ文化センターの平面床に椅子並べ状態で観ることに早くも疲弊し始めた脆弱根性も手伝って、急遽駆けつけてみることに。(本作の上映は18:35開始だったのだが、ドイツ文化センターで18時過ぎに終わる映画を観てから行ったので、なかなかハードな移動になりました。)

観賞のきっかけとしては、度々見かける受賞実績の影響がありつつも、やはり二つの「壁」(パレスチナ問題と同性愛)をどのように描いているのかが興味深かったということと、個人的にイスラエル映画と相性が好いということ。2010年の東京国際映画祭コンペでのグランプリ受賞作『僕の心の奥の文法(Hadikduk HaPnimi)』は個人的にもグランプリだったりしたし(劇場公開はおろか、ソフト化もBS・CS放映も一切ないとはどういうことか・・・)、昨年の東京フィルメックスでグランプリを受賞した『エピローグ(Hayuta and Berl)』もやはり個人的グランプリだった。他にも昨年では、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭で観た『レストレーション~修復~(Boker tov adon Fidelman)』も実に味わい深かった。(その『レストレーション』の監督ヨッシ・マドモニーの新作には、本作でロイを演じるMichael Aloniが出演している。)国家としてのイスラエルも、イスラエルの良心代表的なアモス・ギタイも、正直苦手だが、そうした声高な自己主張とは別種の淡々とした清澄さで魅了してくれる上記作品群は極めて好みだし、そういった作品たちを日本にもっと紹介して欲しい。今年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭に出品される『フロントライン・ミッションRock Ba-Casba)』というイスラエル映画も楽しみ。)

物語は、パレスチナ人の学生ニメルがテルアビブのクラブでイスラエル人の弁護士ロイと出会い、恋に落ちるところから始まる。ニメルは大学で心理学を学び、テルアビブの大学で講義を受けるために通行許可証を手にできたのだが、それがある事情により失効してしまう。

ニメルは自身がゲイであることを家族にも隠している(知られれば「村八分」になってしまう)が、ロイは家族にもカミングアウト済。予告なく恋人であるニメルを夕食に招いたりするほどだが、それでも両親は「いい加減、まともになったら?」的な対応で彼の本性への理解は極めて乏しい。社会的地位のあるロイの父親はまさに「イスラエル」、そして父親を失ったニメルの家族はまさに「パレスチナ」。結局、背景は違えども、どこまでも張り巡らされている壁。社会の許可なしに通行できぬ境界を、個人が乗り越えられるのか。最後に愛は勝つ?それは境界を破壊することでも、無視することでもなく、利用することなのかもしれない。負けるが勝ち。いや、闘争こそが壁を生む。ならば逃走こそが壁を消す?

タイトル通り、夜の場面が多いし、そのうえ光はあまり射し込まず、わずかな灯りが点綴している光景が続く。会場内は真っ暗とは言い難い(非常口のランプが多く、明るい)環境だったりもして、画面が見づらかった為、映像への没入が削がれて正直残念だったりもした。とはいえ、画面の方が闇につつまれているという状況も、それはそれで意味深に思えて来たりもして、普段は体験できぬ「薄明」のなかでも観賞は、独特の感傷をもたらしもしてくれたかも。


2013年7月8日月曜日

真青の方程式

問題には必ず答えがある。方程式には必ず解がある。しかし、現実の「方程式」は止まったままでは在り得ない。人間が解を求めている間にも、係数は常に変化し続ける。辿り着いたと思ったその解は、既に過去のものでしかなかったり。そんな科学的徒労にも、読み解くべき価値がある。「割り切れる」ことが科学の美であるならば、「割り切れない」ことこそ、その「余り」にこそ文学の美はあるのかも。科学者が最も「美しい」とき、それは科学の恩寵を確かめるときよりも、科学の無力を痛感できるとき、つまり人間であることを実感できるとき。

米国で隆盛を極めたCSI等の科学捜査が中心となる犯罪ドラマにおいても、日本で時間をかけてヒット作の仲間入りを果たした「相棒」シリーズにしても、主軸となる論理の明晰さ自体に惹きつけられるというよりも、その限界を突破するために非論理的な直感や実利無視な行動が一役買うという展開にこそ溜飲を下げ、どこか安堵に似た満足を得たりする。科学の支配にウンザリしつつも依存から抜け出せず、それでもどこかで抵抗したい「人間」性の顕れかもしれない。

映画版ガリレオの前作は、科学者による「献身」が描かれた。科学者であれば身体よりも精神で勝負したいところだろうが、精神(理性)よりも身体(感情)が動いてしまう姿に、多くの「人間」が動かされたりもしたのだろう。謎解きを主眼とした連続ドラマを見ていた私は、『容疑者Xの献身』における徹底したメロドラマ感を劇場で目の当たりにし戸惑いながらも、そのメロス(旋律)が間断なく無防備な琴線に触れ続けたことを憶えている。それ故に、連ドラ第2弾の退屈を経ようとも(結局、全部観てしまったという根っからのドラマっ子、というシネフィル禁断の本性)、本作に寄せる期待は決して低くなく、いやむしろ上がり続けるハードルに躊躇いながらの「再会」となったのだ。

『アンダルシア 女神の報復』で失地回復後、『任侠ヘルパー』で手腕への評価が飛躍を見せた西谷弘監督。ただ、その巧さは「手堅さ」ゆえに大衆的な軽妙(というか軽薄)からは遠ざかってしまう傾向もあり、それは離乳食的娯楽色を消失させもして、予告編からですら手頃なワクワク感が込み上げぬという、ドラマ映画に不可欠な前提を度外視した規格に奔り過ぎてる気がしてしまう。映画ファンからの熱い支持と反比例してしまう興行収入の実績にそれは顕著であるが、本作はどうなることだろう。本作が映画として「実に面白い」だけに、実に心配だ。

ただ、本作は極めて充実した映画体験を味わわせてもらいながらも、個人的には後半の失速という印象が拭えない。実は、それは私が受ける西谷作品の印象に共通してもいる。おそらく、それは「失速」ではなく「転調」なのかもしれいし、「停滞」ではなく「沈潜」なのかもしれない。とはいえ、前半の抑制の効いた疾走という独特のテンポが心地好い私としては、そこに加えられるブレーキにもどかしさを覚えるのも、また事実。とりわけ本作は、前半部の縦横無尽な広がり(空間的にも空から海底へ、そしてシネスコをはみ出さんとする地平線や稜線)につつまれて繰り広げられる小さなドラマの大きな伏線が、高鳴る胸を急き立てまくり、ワンシーン毎にロケットスタート状態なのだ。そのパラダイス感に東京(都会・文明・権力)が混入し始めることで歪みは生じ、現在に過去が染み始めることで半透明な世界へ変わる。その変調は巧みで確かなものではあるものの、過ぎゆく夏の如く名残ばかりが去来する。

とはいえ、そうした寂寥感こそが終盤の「回帰」を昂奮させたとも言えなくはない。少年の中から後退し始めたジュブナイルが決定的な消散を迎えようとしたその時、今以て残存し得た一欠片のジュブナイルが喚起された歓びを語る湯川の言葉。「楽しかったな」。喜びも悲しみも、過去も未来も、正しさも過ちも、その全てが「ひとつ」であることを教わる少年。それは、きっと私(観客)でもある。(そうして、福山雅治主演の今秋公開作『そして父になる』に架かる見事な橋。)

真夏の方程式。アイドル歌謡のような冴えないタイトルが、いじらしい響きで迫ってくる。「夏の終わり」を告げる物語でもある本作、どこか底冷えする夏が終わった時、それでも熱い夏だったことを想い出す。8月最終週に観るべき映画リスト入り。

全篇通して色んな貌で魅せる「あお」。青も、蒼も、碧もある(でも、けっしてブルーはない)。かといって、「あお」につつまれる訳じゃない。「あお」は其処此処に差し込んでくる。色褪せた記憶にも鮮明に残る「あか」を消そうとして。しかし、真青の方程式の解はそれでも赤なのだ。

科学にとっては「どこに行くか」が重要だが、人生にとって重要なのは「どう行くか」。「行き先」を教えてくれる映画はつまらない。そんな映画は、在り得ない。「生き方」こそが、面白い。実に面白い。人の数だけあるそれは、非論理的で非科学的。客観性の無意味こそ、人間の真実。
 

2013年7月5日金曜日

夏目漱石の美術世界展

終了間近(7月7日迄)に駆け込みで観てきた。後悔。二ヶ月近くも開催されていたのに、今頃になってのこのこと・・・あぁ、後悔。隙間の時間で駆けつけたものだから、1時間ちょっとしか観られなかったことも、大後悔。そう、実に面白い。見事に興味深い!

この展覧会は、漱石および漱石作品にまつわる美術のさまざまが一堂に会した玩具箱的漱石芸術祭。最初の展示室で、『坊っちゃん』で語られる「ターナーの画にありそうな松」の画(本物!)に出会ってしまうから驚き。こういった展開で展覧される文学と美術の知的かつ総合芸術的饗宴は、右脳と左脳を横断刺激!テート・モダンから借りてきた画をはじめ、ターナーの絵画はおそらく今秋開催されるターナー展用のものだったのかなとも思うけど、こういう正しき流用こそ知的財産圏。

同じくテート・モダンからのブリトン・リヴィエアー「ガダラの豚の奇跡」は、『夢十夜』「第十夜」のイメージ源泉だとされるだけあって、とんでもない怪力で迫ってくる。そもそも、「漱石が、この画を見た記憶からうまれた作品」に心酔し、その作品の源泉が現前に在るという興奮。時空を超えて地続きにさせる、物質力。そう、これは「データ」「デジタル」の時代ではもたらし得ない質量絵巻。

漱石の興味関心が高かった日本の古美術作品の展示も充実していたが、作品との連動企画のなかには新作まである。『虞美人草』に登場する「銀屏」を甦らせた(?)のだ。作者(酒井抱一)のコメントが粋である。「今は新品の銀屏だが、完成はこれから百年の経年で示されよう。」 素晴らしき哉、時間旅行。

漱石にさほど詳しくなくとも大興奮なのは、日本において最多読了数(推定)を誇る文学長編作品『こころ』にまつわる二つの展示。まずは、渡辺崋山による「邯鄲」の画。崋山が自刃する直前、「この画を描くために死期を繰り延べた」というエピソードを、「先生」は自らの状況と重ねて筆を置こうとしていたのだが、まさにその画が今ここにある・・・。そして、その『こころ』の漱石直筆原稿も展示されている。実際に見られるのは、最後の一枚(「下(先生と遺書)」の最後の最後)だけなのだが、デジタル化の大波に呑まれまくってる昨今だけに、その直筆が放つオーラには心地好い眩暈。

漱石自身による画や書も多数展示されていたりする。丹念に描かれた画には、「憧れ」が溢れている。技術的には丁寧な努力の痕が際立っており、ということは才気横溢な気配は乏しく、それがより一層「言葉による芸術」の創造主としてとんでもない高みへ昇らせたように思えてくる。書もやはり秀作どまり的な印象しか受けないが、漱石の愛した陶淵明「帰去来辞」を揮毫した書は至上の感動。私も「帰去来辞」は隈無く好きな詩で、書の全篇をこの眼で見たかった(巻物の一部のみが見られるようになっていた展示だったので)。

2010年に国立西洋美術館で開かれた「フランク・ブラングィン展」でも紹介されていたが、漱石の『それから』の中でブラングィンの名が言及されている。今回の展覧会でも彼の画が一点展示されていたが、「働く男」を描いた画が特に好きだったという漱石の嗜好が興味深く、今回の展示で漱石の美意識が(あくまで個人的に、自分の中で、ではあるが)より鮮明になりつつあるように思えても来た。明らかに「華美」なものには近寄らず、かといって老荘的な境地に逃げるわけでもなく、時代と対峙する矜持と現実に絡め取られぬ幻夢の世界、それらを自由に行き来する精神で、古今東西有名無名問わず、「共感者」として美の探求に切磋琢磨できる存在との出会いに貪欲であり続けたのだろう。新聞小説という通俗と、長編小説の芸術を、両立させた類い希なる(いや、唯一無二の)真の文豪による真実の眼差しの背景を少しだけ垣間見られた気がした。

尚、東京で終了の後は静岡県立美術館で7月13日から8月25日まで開催されるようだ。図録を隅々まで熟読し、静岡遠征しようかな。
 

2013年7月4日木曜日

Playback

光陰矢の如し。しかし、それは物理の時間、人間の外に流れる時間。人間の内に流れる時間は決して一方向でも一次元でもないはずで、幾重でも幾層でも幾許もない。立ち止まって反芻してても時間は流れるが、流れた時間が内に溜まった時間とは限らない。人間は記憶を持ち始めたとき、生まれ変わる。「はじめて」しかなかった生から、記憶と常に対話する「再生」へ。

三宅唱監督による本作は、オーディトリウム渋谷でのファーストラン(しかも、ロングラン)時に2回観た。前作『やくたたず』との運命的(と勝手に感じた)出会いを経た再会は、本作をたとえもう二度と観られなかったとしても、一生自分のなかで再生され続けるであろうことを確信をさせる「永劫回帰」への確約だった。しかし、それは反復でも反芻でもなく、解けない宿題との安らかな戯れ。穏やかな葛藤を包み込む、緩慢な一瞬。こんなにも「終わり」が描かれ続けているはずなのに、そこに起ち上がってくるのはむしろ久遠の彼方と此方の抱擁で。死の対極に生があるわけでもなければ、生の対極に死があるわけでもない。モノクロは白と黒のせめぎ合いなどではなく、白と黒の連繋であり、光と影の調和。

そもそも「影」とは光であり、影である。そして、光と影がうみだす物の形も「影」ならば、私たちが心に浮かべる姿も「影」なのだ。つまり、モノクロ映画とは徹頭徹尾「影」なのだ。白と黒で象られた世界とは、眼で見る形を捉えつつ、眼では見られぬ姿を浮かべてる。光が際立ちは、影の際立ち。具体だからこそ起ち上がる捨象と抽象。

そして、『Playback』が見せるのは、影にまみれた光でも光にうもれた影でもなくて、光にあふれた影なのだ。だからこそ、この映画は白一色で終わる。そのラストのラストには、生きた証が刻まれる。フィルムの宿命としての傷みが映し出されるその瞬間に、たった一度が繰り返されるという幸福な矛盾から生まれる「再生」の喜びをかみしめる。


下高井戸シネマで7月5日金曜まで。18:45上映開始。35mm上映。

ソフト化の予定はないそうだけど、やがてソフト化して欲しいけど、ソフトで(ということはデジタルで)「再生」することの価値も意義もあるとは思うけど、「いまここ」でしか立ち会えないフィルムとの出会いの一回性に感じ入る体験は、いまだからこそ抱きしめておくべきだと思うのです。

そして、渋谷の円山町よりも本作が遙かに似合う下高井戸の町。薄明へと向かう中で劇場に入り、ひっそり訪れた夜の入口に劇場を出る。観るべき場所、観るべき時間。

本作のパンフは制作されていないが、劇場には二つ折りのチラシがある。数種のチラシやフリーペーパーを見た記憶はあるが、今回の劇場でもらったチラシは初めて見た。内側の見開きに掲載されているのは、所謂コメント集なのだが、その面子が興味深いのみならず、そこに並んだ言葉の慎重さと深長さが余韻を助長。観賞後に是非。

昨年の日本映画ベストワンにしなかった猛省として、今年の日本映画ベストワン、いやオールタイムベストに大訂正。
 

2013年6月28日金曜日

フランス映画祭2013

横浜時代の華々しさに比べると、ややこぢんまりな六本木時代、そして縮小傾向で迎えた有楽町時代はいよいよ映画祭から先行上映会に!? そんな危惧も高まりつつあった昨今のフランス映画祭。今年も公開決定済の作品がズラリとならんだ上映作品群。上映される11プログラム(新作実写)のうち、実に8つが劇場公開決定済。とはいえ、今年はゲストが(ここ数年では最も)華やかな印象で、かつての輝きをやや取り戻した感はややあるかもしれない(「濁し」ワード頻発しすぎ・・・)。

オープニング作品は、昨年のサン・セバスチャン国際映画祭でグランプリを受賞したフランソワ・オゾンの新作(最新作は、今年のカンヌに出品)。色んな映画祭でちょくちょくちょこっと受賞してきたりはしたものの、一等賞のご褒美は初めて!?ということもあり、どんな作品に仕上がっているか、興味津々(彼の場合は、数パターンの作風というか方向性があって、どのタイプかによって私的嗜好との相性が多少変わってくるので、実際観るまで妙な緊張感)。などという以前に、映画を観るようになったのが遅かった(大学に入ってしばらくしてから)自分にとって、初期の段階からリアルタイムで作品を観て来られたお気に入り監督はそれほど多くなく、そうした稀少で貴重な存在であるフランソワ・オゾン本人が登壇するということ(そして、それを拝める!ということ)がこのうえない達成感を予め約束してくれてはいたのだが。

ただ、フランス映画祭の前売券発売当日は仕事が入っており、購入できたのが昼過ぎだったもので、残念無念の最後列・・・。しかし、そんな寂しい気持ちを『In the House(Dans la maison)』の主人公クロード(生徒の方)が労ってくれたりしたのだった。そう、彼は「いつでも最後列に座る」設定。まさに、最後列で観るべき映画(と勝手に思い込む療法)。

序盤から傑作の香りが立ちこめていたものの、オゾン色ともいえるキッチュな寓話性が次第に高尚さを帯び始める気配を感じ、後半はやや戸惑いながら観ていた気もするが、如何せんこの日は疲労の蓄積がハンパなく、そのための「朦朧」だったかもしれず・・・

直後のレイトで上映され、あちこちで「傑作!」の声があがりまくりのギョーム・ブラックの『遭難者』『女っ気なし』もウトウトしながら半分意識とびながら観てしまったからね・・・或る意味、そういった状態が「適当」な作風ではあったんだけど、いやはや不覚。幸運にもユーロスペースでの公開が決まっているし、早く観直し(?)たい。でも、公開が秋らしいんだけど、(ちゃんと観てないくせに、こんなこと言う資格ないかもしれないけど)これは夏のレイトショーで観たいなぁ~としみじみ思ったり。

2日目も昼過ぎまで仕事だし、このままだとフランス映画祭は爆睡映画祭と化してしまいそうな予感があったので、夕方のジャック・ドゥミ長編処女作『ローラ』を観に行く前に仮眠。昨年はエナジードリンクに依存気味になりかけたものの、仮眠に比べればレッドブルもモンスターも気休め程度(当人比)。そして、頭クリアで臨んだ『ローラ』に完全魅了の洗礼済めば、上映後に登壇した秦早穂子氏のトークに感動しきり(昨年のフィルメックスで審査員を務められた際のインタビューでの話にも心揺さぶられたのは記憶に新しい。『影の部分』を未読であることを猛省)。ヌーヴェルヴァーグという華麗なる物語が、極めて現実的な葛藤や相克の上にかろうじて僅かばかりの花を咲かせた結果(一握りの栄光)であるという真実を、冷めることなき情熱で冴えまくる彼女の言葉に、観客はどこまでも醒めまくる。

『ローラ』を初めて観たときの状況(ゴダールらも同じ試写室で観たとか)を熱く語り、観た直後の様子を司会者に聞かれると、「そりゃぁ、皆、無言ですよ」。「最近の試写は本当に好くない。観終わるとすぐに『どうでした?』なんて聞いてくる」と、胸がすくような真実の人。映画を、特に素晴らしい映画を観終わったあとは、しばらく一人で色々と考えたい。その時間こそが大切。そう彼女は語っていたが、私も(便乗するのも烏滸がましいが)まさしく同感で、私が映画を独りで観るのも、知り合いを見かけても極力隠れる(笑)のも、そうした理由だったりすることを再認識。

作品のみならず、上映後のトークまでが魅了に充ちた時間だった故、レイトの『テレーズ・デスケルウ(Thérèse Desqueyroux)』を観るのに些か気が引けた。しかし、観ればそこには別種の充実底力。クロード・ミレールの遺作となった、モーリアック原作の映画化。クスリともしない、魂を抜かれた女の沈黙の断末魔、オドレイ・トトゥの新境地。文学の映画化というより、映画版文学。日劇の大画面で観られることの必然性に震えてしまう、画の言葉。是非劇場公開して欲しい。そして、原作を読んでから再見したい。

3日目は、昨年の極私的最熱狂作家ラウル・ルイスの遺志を継ぎ、彼の妻であるバレリア・サルミエントが監督を務めた『ウェリントン将軍~ナポレオンを倒した男~(仮)』。昨年日本でも公開された『ミステリーズ 運命のリスボン』にも通ずる乱舞するクロニクル群像劇であったりもして、ラウル・ルイス仕様のつくりではあるものの、決定的に本家とは異質な模造品的仕上がりにがっかり。次から次へと感嘆の連続でつながれる美麗な画が一向に心に突き刺さらない。ちなみに、仮題である邦題は絶対に変えるべき(というか、さすがに変えるだろう)。ウェリントン将軍が主役でないどころか、脇役ですらないし、原題は「Linhas de Wellington(英題:Lines of Wellington)」。つまり、ウェリントン将軍の戦いにおける「前線にいる者たち」の生き様や死に様を描く物語。

『アナタの子供』は、前回記したように、見事な映画的幸福に完全降伏。

だからこそ、レイトの『黒いスーツを着た男(Trois mondes)』は観ないで帰れば好かったな・・・でも、前売を買ってしまっていたもので。これも邦題が好くない。響きは好いよ。でも、この邦題だとノワール的なイメージを与えるし、そうしたスリルだったりダンディズムに魅せられに行く作品と勘違いしそうになるだろう。というか、実際てっきりそうした「物語」だと思ったら、原題(三つの世界)が表すように(とはいえ、リサーチ不足で後から知ったけど)、ひき逃げ事件の三者三様(加害者・目撃者・被害者家族)を滋味あふるる丁寧さでもって交錯させる人間ドラマ。邦題によるミスリーディングという副作用もあったものの、個人的にピンとこない語りだったようにも思う。主演のラファエル・ペルソナ(ペルソナーズ表記は誤りとのアナウンスからQ&Aはスタート)は、憂いをたたえ続けることで味わいが増し続ける薄幸ハンサムさんだけど、登壇した本人は善人オーラ全開で好印象な半面やや拍子抜けというか・・・アラン・ドロンとは作品の中だけでしか会ってきてないのが好かったのかな、なんて。でも、きっと役者としての真摯さは相当なもののようだし、好い作品に出会って大きく飛躍するかもしれないな。

ちなみに、『黒いスーツを着た男』のQ&Aで通訳を担当された女性が驚愕の危険運転でとにかく冷や冷や、いやイライラ。直前回(ドワイヨン登壇)の通訳が福崎裕子さんだっただけに、余計。(福崎さんの仕事は、本当にいつもいつも最上の架け橋で、毎回しきりに感謝感服しっぱなし。)

今年はなぜか最終日が月曜(平日)という開催期間の変則。たまたまスケジュール的に観ることのできた『椿姫ができるまで(Traviata et nous)』。粗筋は知りながらも、舞台(オペラ)自体は観たことのない『椿姫』。今秋にシアターイメージフォーラムで公開予定だが、必ず『椿姫』の内容は予習しておいた方が好いし、できればオペラも観ておくと好いと思う。その辺は「わかってる」ことを前提につくられている、というか、それでこそ『~できるまで』をじっくり味わえるのだろうと思うから。

上映後には監督のフィリップ・ベジアと、演出家のジャン=フランソワ・シヴァディエが登壇してQ&A。いつもと違った客層(有閑マダム中心)ということもあって、妙な和やかさと寛容が漂うなか、リラックスした語りで充実した話が聞けた。その内容を踏まえて、もう一度観たい(観るべき)作品だと再確認。今度は、オペラも通して観た上で臨みたい。(オープニングの雰囲気から、フレデリック・ワイズマンの「シアターもの」のような印象をもってしまい、そうした「接し方」で決めてかかったことで失敗観賞になってしまったきらいがあるもので。)

ちなみに、演出家のジャン=フランソワ・シヴァディエが以前に作・演出を手がけた「イタリア人とオーケストラ」という舞台では、オペラのリハーサルを描いていたらしく、そのオペラこそが『椿姫』だったとか。そして、彼が今度は実際に『椿姫』の演出を手がけることになったという「運命」もこの作品が誕生する重要な端緒となったよう。

原題は直訳すると「椿姫と私たち」とでもなるのだろうか。ただ、「nous」という一人称複数は意味内容(範囲)を文脈から読み解かねばならぬ語であるようで、そもそも「私」が誰で、その「私」を含む「達」はどこまでか。折角だからQ&Aで尋ねてみればよかったかな(笑) ちなみに英題は「Becoming Traviata」。これも、なかなか意味深長(?)