2013年7月5日金曜日

夏目漱石の美術世界展

終了間近(7月7日迄)に駆け込みで観てきた。後悔。二ヶ月近くも開催されていたのに、今頃になってのこのこと・・・あぁ、後悔。隙間の時間で駆けつけたものだから、1時間ちょっとしか観られなかったことも、大後悔。そう、実に面白い。見事に興味深い!

この展覧会は、漱石および漱石作品にまつわる美術のさまざまが一堂に会した玩具箱的漱石芸術祭。最初の展示室で、『坊っちゃん』で語られる「ターナーの画にありそうな松」の画(本物!)に出会ってしまうから驚き。こういった展開で展覧される文学と美術の知的かつ総合芸術的饗宴は、右脳と左脳を横断刺激!テート・モダンから借りてきた画をはじめ、ターナーの絵画はおそらく今秋開催されるターナー展用のものだったのかなとも思うけど、こういう正しき流用こそ知的財産圏。

同じくテート・モダンからのブリトン・リヴィエアー「ガダラの豚の奇跡」は、『夢十夜』「第十夜」のイメージ源泉だとされるだけあって、とんでもない怪力で迫ってくる。そもそも、「漱石が、この画を見た記憶からうまれた作品」に心酔し、その作品の源泉が現前に在るという興奮。時空を超えて地続きにさせる、物質力。そう、これは「データ」「デジタル」の時代ではもたらし得ない質量絵巻。

漱石の興味関心が高かった日本の古美術作品の展示も充実していたが、作品との連動企画のなかには新作まである。『虞美人草』に登場する「銀屏」を甦らせた(?)のだ。作者(酒井抱一)のコメントが粋である。「今は新品の銀屏だが、完成はこれから百年の経年で示されよう。」 素晴らしき哉、時間旅行。

漱石にさほど詳しくなくとも大興奮なのは、日本において最多読了数(推定)を誇る文学長編作品『こころ』にまつわる二つの展示。まずは、渡辺崋山による「邯鄲」の画。崋山が自刃する直前、「この画を描くために死期を繰り延べた」というエピソードを、「先生」は自らの状況と重ねて筆を置こうとしていたのだが、まさにその画が今ここにある・・・。そして、その『こころ』の漱石直筆原稿も展示されている。実際に見られるのは、最後の一枚(「下(先生と遺書)」の最後の最後)だけなのだが、デジタル化の大波に呑まれまくってる昨今だけに、その直筆が放つオーラには心地好い眩暈。

漱石自身による画や書も多数展示されていたりする。丹念に描かれた画には、「憧れ」が溢れている。技術的には丁寧な努力の痕が際立っており、ということは才気横溢な気配は乏しく、それがより一層「言葉による芸術」の創造主としてとんでもない高みへ昇らせたように思えてくる。書もやはり秀作どまり的な印象しか受けないが、漱石の愛した陶淵明「帰去来辞」を揮毫した書は至上の感動。私も「帰去来辞」は隈無く好きな詩で、書の全篇をこの眼で見たかった(巻物の一部のみが見られるようになっていた展示だったので)。

2010年に国立西洋美術館で開かれた「フランク・ブラングィン展」でも紹介されていたが、漱石の『それから』の中でブラングィンの名が言及されている。今回の展覧会でも彼の画が一点展示されていたが、「働く男」を描いた画が特に好きだったという漱石の嗜好が興味深く、今回の展示で漱石の美意識が(あくまで個人的に、自分の中で、ではあるが)より鮮明になりつつあるように思えても来た。明らかに「華美」なものには近寄らず、かといって老荘的な境地に逃げるわけでもなく、時代と対峙する矜持と現実に絡め取られぬ幻夢の世界、それらを自由に行き来する精神で、古今東西有名無名問わず、「共感者」として美の探求に切磋琢磨できる存在との出会いに貪欲であり続けたのだろう。新聞小説という通俗と、長編小説の芸術を、両立させた類い希なる(いや、唯一無二の)真の文豪による真実の眼差しの背景を少しだけ垣間見られた気がした。

尚、東京で終了の後は静岡県立美術館で7月13日から8月25日まで開催されるようだ。図録を隅々まで熟読し、静岡遠征しようかな。