2013年7月8日月曜日

真青の方程式

問題には必ず答えがある。方程式には必ず解がある。しかし、現実の「方程式」は止まったままでは在り得ない。人間が解を求めている間にも、係数は常に変化し続ける。辿り着いたと思ったその解は、既に過去のものでしかなかったり。そんな科学的徒労にも、読み解くべき価値がある。「割り切れる」ことが科学の美であるならば、「割り切れない」ことこそ、その「余り」にこそ文学の美はあるのかも。科学者が最も「美しい」とき、それは科学の恩寵を確かめるときよりも、科学の無力を痛感できるとき、つまり人間であることを実感できるとき。

米国で隆盛を極めたCSI等の科学捜査が中心となる犯罪ドラマにおいても、日本で時間をかけてヒット作の仲間入りを果たした「相棒」シリーズにしても、主軸となる論理の明晰さ自体に惹きつけられるというよりも、その限界を突破するために非論理的な直感や実利無視な行動が一役買うという展開にこそ溜飲を下げ、どこか安堵に似た満足を得たりする。科学の支配にウンザリしつつも依存から抜け出せず、それでもどこかで抵抗したい「人間」性の顕れかもしれない。

映画版ガリレオの前作は、科学者による「献身」が描かれた。科学者であれば身体よりも精神で勝負したいところだろうが、精神(理性)よりも身体(感情)が動いてしまう姿に、多くの「人間」が動かされたりもしたのだろう。謎解きを主眼とした連続ドラマを見ていた私は、『容疑者Xの献身』における徹底したメロドラマ感を劇場で目の当たりにし戸惑いながらも、そのメロス(旋律)が間断なく無防備な琴線に触れ続けたことを憶えている。それ故に、連ドラ第2弾の退屈を経ようとも(結局、全部観てしまったという根っからのドラマっ子、というシネフィル禁断の本性)、本作に寄せる期待は決して低くなく、いやむしろ上がり続けるハードルに躊躇いながらの「再会」となったのだ。

『アンダルシア 女神の報復』で失地回復後、『任侠ヘルパー』で手腕への評価が飛躍を見せた西谷弘監督。ただ、その巧さは「手堅さ」ゆえに大衆的な軽妙(というか軽薄)からは遠ざかってしまう傾向もあり、それは離乳食的娯楽色を消失させもして、予告編からですら手頃なワクワク感が込み上げぬという、ドラマ映画に不可欠な前提を度外視した規格に奔り過ぎてる気がしてしまう。映画ファンからの熱い支持と反比例してしまう興行収入の実績にそれは顕著であるが、本作はどうなることだろう。本作が映画として「実に面白い」だけに、実に心配だ。

ただ、本作は極めて充実した映画体験を味わわせてもらいながらも、個人的には後半の失速という印象が拭えない。実は、それは私が受ける西谷作品の印象に共通してもいる。おそらく、それは「失速」ではなく「転調」なのかもしれいし、「停滞」ではなく「沈潜」なのかもしれない。とはいえ、前半の抑制の効いた疾走という独特のテンポが心地好い私としては、そこに加えられるブレーキにもどかしさを覚えるのも、また事実。とりわけ本作は、前半部の縦横無尽な広がり(空間的にも空から海底へ、そしてシネスコをはみ出さんとする地平線や稜線)につつまれて繰り広げられる小さなドラマの大きな伏線が、高鳴る胸を急き立てまくり、ワンシーン毎にロケットスタート状態なのだ。そのパラダイス感に東京(都会・文明・権力)が混入し始めることで歪みは生じ、現在に過去が染み始めることで半透明な世界へ変わる。その変調は巧みで確かなものではあるものの、過ぎゆく夏の如く名残ばかりが去来する。

とはいえ、そうした寂寥感こそが終盤の「回帰」を昂奮させたとも言えなくはない。少年の中から後退し始めたジュブナイルが決定的な消散を迎えようとしたその時、今以て残存し得た一欠片のジュブナイルが喚起された歓びを語る湯川の言葉。「楽しかったな」。喜びも悲しみも、過去も未来も、正しさも過ちも、その全てが「ひとつ」であることを教わる少年。それは、きっと私(観客)でもある。(そうして、福山雅治主演の今秋公開作『そして父になる』に架かる見事な橋。)

真夏の方程式。アイドル歌謡のような冴えないタイトルが、いじらしい響きで迫ってくる。「夏の終わり」を告げる物語でもある本作、どこか底冷えする夏が終わった時、それでも熱い夏だったことを想い出す。8月最終週に観るべき映画リスト入り。

全篇通して色んな貌で魅せる「あお」。青も、蒼も、碧もある(でも、けっしてブルーはない)。かといって、「あお」につつまれる訳じゃない。「あお」は其処此処に差し込んでくる。色褪せた記憶にも鮮明に残る「あか」を消そうとして。しかし、真青の方程式の解はそれでも赤なのだ。

科学にとっては「どこに行くか」が重要だが、人生にとって重要なのは「どう行くか」。「行き先」を教えてくれる映画はつまらない。そんな映画は、在り得ない。「生き方」こそが、面白い。実に面白い。人の数だけあるそれは、非論理的で非科学的。客観性の無意味こそ、人間の真実。