2013年4月30日火曜日

めめめのくらげ

村上隆が映画を撮るという話は知っていたし、初披露のニュースなんかも耳に挟みはしていたが、まさかこんなに早く公開されるのだとは識らなんだ。

4月からは仕事のサイクルがガラリと変わり、休日や時間のとれる曜日も変わり、慣れるのに数ヶ月かかるかと思っていたが、有形な(?)忙しさだと自覚的にやりくりできるし、ここ数年の無形な(?)忙しさ(というか、実際は忙しくないのに気忙しさがつきまとうという負荷)による精神的疲弊に比べれば、身体的な疲労などむしろ「充実」という勲章を日々授かっているような気すらする。たとえ僅かばかりとはいえ、納得のいく一日の終わりには、がらんと空いた時間や体力が残されずとも、ほんのちょっとの隙間に濃縮リフレッシュ。というわけで、土曜は出勤なのに金曜が休みという微妙なサイクルも、アグレッシヴに活かそうとする余裕・・・が、今のところはまだあったり、という嬉しい誤算。ただ、いつまで保つかは甚だ不安。

ここ数年の間に、「映画ファン」にとっての金曜日の位置づけは明らかに変わっていたのだな。などと、実際に金曜休みの予定を立て始めてから気づいたという4月。初日かつ平日、という積極性と消極性を同時に満たせる観賞日和、金曜日。初日観賞などなかなか挑めぬ無精な私もしばらくは、初日にふらっと観に行っちゃえる生活とかできるだろうか。

というわけで、大型連休(NHK風)直前の4月26日、金曜日。翌日から朝一回の上映(しかも9時前から上映開始で11時前に終映って、どんだけ捨て枠なんだか)になってしまうベルトルッチの『孤独な天使たち』をチネチッタで観ようと思い立ち、ついでなので川崎で一日ハシゴ(しかも、朝はゆっくり寝て、昼頃から出かけるコースで)を画策してるうち、「折角川崎まで行くんだから」という根拠で選んだ3本は、いずれも「兼ねてからは観るつもりがなかった」ラインナップになってしまった。(ちなみに、他には『カルテット』と『藁の楯』。後者は個人的に相当級な享受で楽しんだ。後日感想書くつもり。)

その1本目が『めめめのくらげ』だったのだ。その日が公開初日だということも実は、前日にTOHOシネマズのサイトを覗いて初めて知ったのだった。村上隆本人および創作物に関しては、個人的興味皆無で、情報的補完義務を些か感じる程度。ただ、そんな彼でも「映画界に進出」となればやはりスルーはし難いもので、物語も私的好物ジュブナイルものっぽくもあり、食指が微動を始めつつ。公式サイトを見ると、「なぜいま映画を撮ろうと思ったんですか?」との問いに対して、「とにかく映画を撮りたい!という。そういう世代なんです」という感服すべき潔き名答!こうなれば、いよいよ村上君と「フレンド」になれるかも!?おまけに、キャストを確認すれば、窪田正孝・染谷将太・斎藤工という日本映画の今を賑わす面々結集。(実際に、その三人はそれほど本筋に絡まないけど) 観てみるか!

結果。目くじらたてる駄作でもないかわりに、目頭がちっとも熱くならない。魂入れ忘れた仏、画竜点睛を欠く。CGはバリバリ本気の、実写の人間二の次状態。物語などどうでも好くって、画が「何となく好い」な出来栄えとして絶妙。時代はいま、「ゆる」強度。だけど、それって映画でやる意味あるの?

正直、芸術家っていうのは皆、「完璧主義」という不治の病に罹っている人間のことを言うのだとばっかり思っていたので、村上隆という人物にそもそも感じていた胡散臭さ(主観全開による印象)の根源を見事に確認できたという意味では、至極すっきりした観後。だけど、いくら畑違いとはいえ、「世界の」らしいアーティストが、このような児戯に己の名を冠して出せるという神経は、感服に値するのかもしれない。勿論、半分は皮肉で書いているけれど、正直残り半分は、そういう臆面不知なマイ・ウェイ・マイ・ライフな行き方こそが、「時代を画する」人間には必要な資質なのかもしれないという学び。

でも、やっぱり。インスタレーションにしては長すぎない?
(おまけに、続編まで制作中[エンドロール後に予告ついてます]だっていうんだからね。相当な享楽玩具を手に入れたんだね、村上隆。)



ちなみに、本作の「対象者」って想定されてたりするのだろうか。初日(平日)昼間の場内は、中高年の一人客3人、大学生風の男1・女1、親子連れ一組。冒頭およびラストのテロップに、常用漢字外そうな漢字にも「ふりがな」はない。メイン劇場が六本木だし、村上隆に関心もつ層からしても、オトナのカルチャー人を取り込む魂胆がありそうながら、中身はまさにコドモ欺し向け。その辺の中途半端というか、そもそも「受け手」の情緒なんて想定しないしない夏って感じが、個人的にはやたらと不誠実に思えてしまったのが現実。

2013年4月29日月曜日

イタリア映画祭2013 (2)

2日目には個人的には最も期待していた一本が早くも登場。近年のベロッキオ作品における魅惑の撮影を担当しているダニエーレ・チプリ監督最新作『それは息子だった』(単独で監督するのは初らしい)。昨年のヴェネツィアでは、彼が撮影を担当したベロッキオの『眠れる美女』と共に2作がコンペに参加。(その2作は、音楽・編集・美術なども、同じスタッフが双方に関わっていたりもする。)『それは息子だった』では金のオゼッラ賞(撮影賞)を受賞。また、主人公(トニ・セルヴィッロ)の息子タンクレディを演じたファブリツィオ・ファルコ(『眠れる美女』にも出演)がマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞してもいる。

パレルモの貧困地区に住む一家の娘が、マフィアの抗争に巻き込まれ死亡。マフィアの犠牲者へ多額の賠償金を支払うという政府の制度を知った父は、申請。しかし、受け取るまでに随分と時間がかかるうち、高利貸から借金してしまい、受け取った大金も利子の支払いに相応分が割り当てられ、残った金で買ったものというのが・・・黒のベンツ。

見事に決まった「画」のひとつひとつが御伽噺的な空気を演出。錆びた喜劇とでも言いたくなるような、ザラつく感覚がまとわりつく被膜の向こうに聞こえる哄笑。しかし、諷刺といった趣の大上段は其処にはなく、悲哀を滑稽に描くだけの悪戯でもない。郵便局のロビーで身の上話を語る「ストーリーテラー」としての男が進行役を引き受けながら、何処か夢想であるような浮遊感で進むお話は次第に、過剰に現実的だった人間たちこそが夢想的に刹那の享楽に溺れていたという皮肉を露わにする。そこで犠牲になる無辜なる無垢。大きな世界の歪みはしわ寄せの果て、必ず個人の犠牲を強いに来る。

マフィアの暗躍の影には、国家との「共犯」が。国家の背後には当然、国際関係上の「事情」がある。(冷戦時、アメリカは反共勢力としてのマフィア復活を図ったとも言われている。)マフィアの犠牲者への賠償金は、償いなのか、謝礼なのか。後者の様相を裏付けるかのように、父は娘を悼まずベンツの傷みに痛みを覚え。そして今、家族は集団保障の生贄に、無垢なる存在を差し出してしまう。社会の不条理は、より大きな世界でも、より小さな世界でも、蝕む一途。

たびたび現れる三角螺旋階段。序盤にタンクレディと向き合い諭す男(誰だったか失念)との間に現れる、父。「三人」が並んだり歩いたりする場面もしばしば。多数決が可能となる「3」。どう足掻いても「1」の側に勝ち目はない。国家とマフィアが組めば、一般市民に勝ち目はないし、社会が「正常」を選んだら「異常」に反論の権利はない。



家の主たち』も未知数の期待に溢れ、臨んだ一本。監督のエドアルド・ガッブリエッリーニは22歳でパオロ・ヴィルズィに見出され(2008年の「Ovosodo」がデビュー作のよう)、役者として活躍。ヴィルズィ作品のみならず、最近では『ミラノ、愛に生きる』でティルダ・スウィントンが恋に落ちる息子の友人シェフを好演。2003年に初監督作を発表していたが、そちらは主演も兼ねていたようで、10年近くぶりにメガホンをとった『家の主たち』でいよいよ本格的な監督業に進出といった印象。おまけに、主役の職人兄弟をヴァレリオ・マスタンドレアとエリオ・ジェルマーノが演じ、彼らが招かれる豪邸の主人役は大御所歌手のジャンニ・モランディ、その妻をヴァレリア・ブルーニ・テデスキが演じるという豪華な出演陣。ちなみに、来日ゲスト団のなかで最年少(1975年生まれ)の彼は、座談会ではやたらと剽軽で(上映後のQ&Aでは、落ち着いた「監督然」だったが)、中座したかと思えばガム(?)などを他の登壇者に配り始めたり、『ミラノ~』でしか知らなかった故に余計ギャップが新鮮だった。

さて、作品自体は正直それほど魅了されぬままあっさり幕切れ。テーマはありがちとは言え、繰り返し語られるべきものだし、それを成立するための場所や空気もそれなりに醸成されてはいたものの、あまりにメイン4人の存在感が大きすぎた為か、もう一つの軸となるべき地元の村人たちの「表現」が妙に稀薄というか軽薄にすら思えてしまい、そんなアンバランスさが「あるべき窒息」に漏れを生じさせてしまう。

『M★A★S★H マッシュ』の「Suicide Is Painless」を使用したのは敬愛するロバート・アルトマンに対するリスペクトの気持ちを表したかったからと語っていたし、ロケハンの前にデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」を観ていたから似たような場所を探したとも言っていた。どうやらアメリカのインディペンデント系作家が好きなようだ。私も観ながらどことなく『ファーゴ』を想起したりもしたし。

確かに、クライマックスのモランディのライブと「噴出」が交錯するシークエンスがもつ(潜在的)最高潮は、アルトマンの群像劇でしばしば見受けられる高揚感に似ている(を模している)気がしなくもないし、閉じ方やその後の「花火」などには、「現代映画」としてのアメリカ映画が示す矜持の刻印的収斂と通ずるものを感じたり。そうした趣向が彼自身のオリジナリティとの充実した結合なり融和が可能となれば、今後が楽しみかもしれない。
 

2013年4月28日日曜日

LOVE展

六本木ヒルズ・森美術館10周年記念展として一昨日から始まった「LOVE展-アートにみる愛のかたち:シャガールから草間彌生、初音ミクまで」を覗いて来た。今月末までのチケットが手元にあったのと、イタリア映画祭の観賞作品の合間を埋めるため。

基本的に美術館には平日の空いていそうな時間帯を狙って赴き、まったりじっくり徘徊するのが我が慣例ながら、「LOVE展」はむしろ色んな人たちで賑わってる中で観て廻る方が「正しい」気もしたし。

それにしても、「10周年記念」でこの展覧会はないよな。おまけに、9月1日まで開催ってさ・・・夏休み終わるまでやってるんだよ。既視感にとらわれる作品のみならず、実際既視な作品も少なくないし(日本国内の美術館所蔵品もかなりある)、テーマがテーマだけに(大きすぎる故に)、何でもあてはまる=都合好く掻き集められる=とりあえず集められたものにもっともらしい言い訳考える・・・そんな素人パッチワークな失笑展覧会。「ネーム」的な不足感もさることながら、展示されている作品の実に面白くないこと、この上なし。元来、そうした傾向がなくもなかった「展望台に来た人のオプション」的色合が顕著になる一方の、森美術館

2008年に国立新美術館で開催された「アヴァンギャルド・チャイナ-〈中国当代美術〉二十年-」で観たジャン・シャオガンの画に再会したのは嬉しかったし(その時にはなかったかもしれぬ、沖縄県立博物館・美術館の所蔵作品はよかった)、唐突に心許なく置かれているロダンの「接吻」は「いつもの上野」から出張してきた場違い感が相対化の鮮度をアップ。草間彌生の新作「愛が呼んでいる」は、「撮影可」を謳っているものだから、ここぞとばかりに(観賞よりも)撮影にばかり精を出している観覧者が面白い。

見終わって残るのはLOVEじゃなく、むしろ虚無感、それも0(ラブ)。
 

2013年4月27日土曜日

イタリア映画祭2013 (1)

世間じゃ連休一日目。私は朝早うから、お仕事疾風怒濤お昼まで。何とか切り上げ、いざ有楽町。向かう車中じゃ転た寝上等。座り心地の悪さは折り紙付きの、有楽町朝日ホールで疲労と睡魔の昏睡観賞・・・。そんな幕開け情けない、今年のイタリア映画祭。

1本目は、『綱渡り(Gli equilibristi)』。オープニングから、まさに「綱渡り」しているかのように浮遊するカメラ。屋内を遊泳した後に、屋外へ出ると上空高くより真下を見下ろす眼差しは、まさに綱渡り。前を向いているうちには気づかぬし、気づかぬからこそ知らぬが仏。楽観こそは健全足許、悲観の兆しは踏み外しまでのカウントダウン。

上映後、イヴァーノ・デ・マッテオ監督は「綱渡りとはまさに、現代社会における我々のおかれた状況だ」と語っていた。「その下にはネット(社会福祉)があるから、一見落ちても大丈夫に思えるが、その網の目は実に粗く、その穴から更に奈落へ落ちぬとは限らない」

ドキュメンタリー畑で経験を積んできた監督らしい、折り目による作劇よりも流れについてくる展開。なかなか興味深い語り口ながら・・・そういった作風に前述の通りの疲弊で臨むとなると、当然無謀。いやはや、観る側もまさに「綱渡り」をしていた感じ。いつ(寝に)落ちるかわからぬスリリング。たとえ寝たとしてもスッキリしない朝日ホールの椅子クオリティ。朝日ホールじゃなきゃ、割り切った転た寝だって出来たかもしれないけれど、あの椅子で両隣にも人が居るとなると、転た寝すらままならない。


2本目は、『素晴らしき存在(Magnifica presenza)』。前作『あしたのパスタはアルデンテ』が日本でもスマッシュヒットとなった、フェルザン・オズペテク監督最新作。『ぼくたちの生活』ではカンヌで男優賞も受賞したエリオ・ジェルマーノが主演。序盤は場内も和やかな笑いにしばしば包まれて、背景を蔽ったベールがめくれてゆくにつれ、しっとりとして静寂に包まれる。モスクワ国際映画祭では観客賞を受賞しているらしく、なかなかポピュラリティも備わっていそう。が、しかし。個人的には乗り切れないまま終了。主人公の造形にいまいち入ってゆけず・・・と自覚していたつもりだが、正直物語を十分咀嚼できてる自信もない。やっぱり、今日は観賞に耐えうるコンディションじゃなかったのかも。それでなくとも、映画祭での観賞には通常より緊張感が強いられる(日頃、混み混みのなかで映画観ることほとんど皆無なもので)。おまけに、有楽町朝日ホールとなれば、身体的なコンディションも相当な状態が求められるというもので。


イタリア映画祭は、日本で数ある映画祭や特集上映のなかでも、私のなかではかなり上位に位置する優良映画祭。その主因は客層の穏やかさや上品さ、従って落ち着いてみられる雰囲気が約束されている。のはずだったのに、今日は1本目で、後ろの客にたびたび背もたれキックされるので、振り返ってみると、報復するかの如き強打をされるという悲劇に遭った。怒りというよりも、イタリア映画祭なのにこんな下卑た客が・・・という哀しみに。そんな寂しさが尾を引いたりもしてしまったのかも。

明日は気を取り直して、リスタート(リセット?)したいもの。

※そうそう、今年もやっぱりフィルム上映が基本みたい。今日の2本もフィルム上映。
    いまや稀少で貴重なフィルム上映を堪能できるのも、イタリア映画祭の醍醐味になっている。

※フィルム上映といえば、もうひとつ嬉しいニュース。
   イタリア映画祭会場に、ベロッキオの『眠れる美女』のチラシがあった。
   そして、チラシの作品情報欄には「35mm」の文字が!フィルムでの観賞が叶いそう!
   (昨年の東京国際映画祭では残念画質のデジタル上映。
     暗い場面が多く、フィルムで観てこそな作品。エスパース・サロウ、信用できる!)
 

2013年4月26日金曜日

桜並木の満開の下で

公開前から気になっていたのに、識らぬ間に公開が始まっており、一日複数回の上映があるのは2週間のみで、週末からはレイトショーのみ。同時期に『桜、ふたたびの加奈子』なんていう混同しそうな映画があったりして(「桜」しか同じじゃないんだけどね)、「そっちじゃないな」と思っていたら「こっちは終わってた」的な展開、ギリギリセーフ。

何故気になっていたのかといえば、監督の舩橋淳の処女長編『echoes』を東京国際映画祭で観ていたという事実が引き金かとは思うんだけど(その際には本人も登壇)、その『echoes』劇場公開時のチラシがなかなか好きで、いまだに自室の壁に貼ってあったりすることの影響も大きいかもしれない。

ところが一方で、彼のフィルモにしっかり伴走しているかといえばそうでもなく、『谷中暮色』は見逃したままだし、『フタバから遠く離れて』は観に行こうと思ってるうちにWOWOWで放映してたから録画して・・・そのまま。だから、実は最初の二作しか観ていない。しかも、両方とも大して気に入ってなかったんだという事実を、本作を観ながら想い出すという・・・ほどの模糊たる記憶。

それでも、「4作品連続、ベルリン国際映画祭に招待される快挙!」らしいし(映画祭出品・受賞歴とかに弱い自分ではあるが、こういう半端な実績を前面に出されると興醒めだったりする自己都合)、オフィス北野のバックアップは長きに渡っているようだし、確たる実力の持ち主なのだと思います。が、私の主観にはやっぱり響いて来ずで。

本作のプロデューサーは市山尚三で、製作や配給にはオフィス北野が参加。いわゆるフィルメックス系(?)な作品。フィルメックスのコンペには、そのユニークさが興味深い作品と興醒めの作品が混交状態といった印象なのだけど、本作はまさに後者のタイプ(あくまで私的結論ながら)。ただ、後述するように、異文化というフィルターを通すと見事に除去される野暮やら粗末があって、むしろ滋味やら機微が滲んで来たりもするのかなぁ・・・などと思いながら、それ的狙いを感じる「風景」を重ねては緩慢さに含意余白を期待してる企図が透けて見えるような気がしたり。



物語の舞台は、震災後の茨城県日立市。震災の(というか、原発事故の)影響を受けつつも、何とか立ち直りつつあった町工場で働いてた夫婦(臼田あさ美、高橋洋)。夫の技術は信頼と評価を得つつあり、「そろそろ子供も欲しいね」などと語らっていた矢先、夫は事故で他界。その事故を招いたとされる若き工員は、故人の穴を埋めるべく、夫を亡くした妻と同じ職場で働き始めるが・・・。

設定も展開も「推して知るべし」の域は勿論出ぬが、それはそれで地に足ついてる印象ながら、地に足つけてるからって安心し過ぎ(やや雑)な印象も拭いきれない場面や設定が散見されて、細部に宿った説明放棄が、共感を物語から遠ざける。例えば、工場には「ただのチンピラ」にしか見えない粗暴な連中がいたりするのだが、なかでも社会性皆無な若造は、最初から最後まで一貫して「そういう奴」というキャラ設定だけで書割的配置。「彼が何故この工場にいられるのか」といった説得が多少は試みられてもよさそうなものなのに。もしかして、地方の小さな町工場では「そのくらいの寛容」は常識なのかもしれないが、それがわかる程度には描いて欲しいし、それにしたって乱暴すぎる。暴れるしかない馬鹿と許容するしかない阿呆、のよう。

そうした、のっぺりとしたステレオタイプは全編を埋め尽くしており、取引先(ヒエラルキーでは一つ上)の事務所に行くと、社員は全員マスクをしてる。町工場の人間は誰一人マスクをしてない。雑。なんか失礼。それが現実!? たとえ、だったとしても。

主演の二人(臼田あさ美、三浦貴大)はそれなりに好演してると思うけど、バイト的な端役の面々の棒読み垂れ流しには正直付き合いきれないし、かといって柳憂怜や諏訪太朗の演技にそれらをリカバリーするほどの引き締め成分が配合されているわけでもない。むしろ、棒読みとの対照がオーバーアクト感増長。

本当に些末なことかもしれないけど、直前のカットで埋もれていたコートの袖が、何もせずに急に全部出ていたりするという凡ミスに、いちいち気をとられているようでは、俺の方がインディペンデント映画に向いていないだけなのだろうか。あと、「適正」な上映時間(独断では90分)にまとめられなかった2時間という上映時間は明らかに、インディペンデントの甘えの象徴に思えたり。(『横道世之介』や『舟を編む』の2時間超は逆に、インディペンデントからの贈りものといった趣で、心地好い横断感を味わえたけど。)

シネスコを活かした光景には魅せられたりする瞬間もありはするけれど、それが物語と有機的に活かされているかとなると些か疑問。ただ、エンドロールで映像の仕上げ(?)に携わった人のクレジットがかなりいたように思えたが(韓国のスタッフのよう)、確かに技術的な面での映像の質はなかなか高いように感じたのも事実。

私が観た平日夜の回、テアトル新宿の劇場内に観客は6・7名。大抵、どんな作品でもそこそこ入っているイメージの劇場で、そのような閑散状況に遭遇する新鮮さこそが、本作観賞の一番の醍醐味だったかもしれない。

2013年4月25日木曜日

フランス映画祭2010

今年は6月21日(金)~24日(月)に開催されるフランス映画祭2013。オープニング作品は、フランソワ・オゾン「Dans la maison(In the House)」。今秋に日本でも劇場公開が決まっているようだけど、折角なので駆けつけたい。オゾン、来日したりしないかな。

さて、今週の早稲田松竹ではジャック・オディアール監督作が2本立で上映されており、『君と歩く世界』でようやくオディアール・ワールドに開眼した私は、何はともあれ当然必然駆けつける。

『真夜中のピアニスト』はスクリーンで観るのは初めて、『預言者』はフランス映画祭2010で観て以来。前者の魅力も粋ながら、やはり後者に感じる突き抜け飛翔感にはただただ感服しっぱなし。

実は、『預言者』をフランス映画祭2010で観た際には正直、咀嚼しきれぬまま2時間半が眼の前を流れて言ってしまった印象だった。或る意味、『君と歩く世界』においても同様の「読み」しか試みられなかったものの、実はそうした「流れ」こそが興奮の止め処ない源泉であることを発見し、淀みない陶酔へと誘われた官能。そんな体験を経て再会した『預言者』の再発見は、事件級の興奮で全身を貫いた。

帰宅後、『預言者』を初めて観たフランス映画祭2010のガイドブックを開いてみると、この年の上映作品が傑作秀作のオンパレード。アルノー・デプレシャンの『クリスマス・ストーリー』、ブリュノ・デュモンの『ハデウェイヒ』、ローラン・カンテの『パリ20区、僕たちのクラス』、ラデュ・ミヘイレアニュの『オーケストラ!』、そしてミア・ハンセン=ラブの『あの夏の子供たち』。他にも、ギャスパー・ノエやジャン=ピエール・ジュネの新作なんかも上映されて、とんでもない豪華さだった(劇場公開決定済の作品が中心ではあるものの)という事実を再確認。おまけに、この年はゲストも超豪華で、『クリスマス・ストーリー』からはデプレシャンのみならず、マチュー・アマルリック、アンヌ・コンシニまでが登壇。ブリュノ・デュモンも、ローラン・カンテも、ラデュ・ミヘイレアニュも、ジャン=ピエール・ジュネも来日。ミア・ハンセン=ラブにも会えたっけ。関連企画としてユーロスペースでは、アラン・レネ全作上映があって、『風にそよぐ草』の初上映を観たのもそこでだったな(勿論、満席立見)。

その翌年(2011年)から有楽町朝日ホールに会場が変更されることが決まっていたところ、東日本大震災があり、その影響かどうかは定かではないがやや寂しいラインナップになったのが一昨年。(それでも、イオセリアーニが来日してくれたりしたのは嬉しかった。)

話を『預言者』に戻すと・・・だから、私が『預言者』を初めて観たのはTOHOシネマズ六本木の7番スクリーンだったわけだけど、早稲田松竹で観た方が何となく堪能できた気がしてしまった。勿論、客席の状況(映画祭は当然混み混み、早稲田松竹では空いててゆったり)の違いもあるとは思うけど、やっぱり作品によってスクリーン(劇場)との相性というのもあるのかも。ま、ただ単に早稲田松竹という劇場が個人的に好きだったりすることもあるんだろうけど、彼処で観るフィルム上映は何故か格別な気がしてしまう。デジタル上映ばかりになってからは尚更。おそらく映写室とスクリーンと客席との位置関係なんかが絶妙だったりするのかな。あと、自分の好みの座席からの眺めがまたかなりの好みだったりとか。でも、デジタル未導入の早稲田松竹が今後踏ん張っていけるかの心配が尽きないのも正直なところながら、フィルム上映オンリーで粘り続けつつ、濃密なラインナップに唸らせられ続けていたいとも思ってる。

2013年4月24日水曜日

Bianca Come Il Latte Rossa Come Il Sangue

youtubeで偶々オススメされた予告編。(ベロッキオの『眠れる美女』の予告を観たかららしい。)

主役の青年をどこかで観たことある気がしたら、『ブルーノのしあわせガイド』でデビューしたシンデレラ・ボーイ(友人のオーディションに付き添いで来てたら・・・という定番パターン)、フィリッポ・シッキターノだった。今週末より開催されるイタリア映画祭2013では、彼が主演したフランチェスカ・コメンチーニ最新作(昨年のベネチア・コンペに選出)『ふたりの特別な一日(Un giorno speciale)』が上映される。髪は短い方が、好いね。

イタリアでも今月4日に公開されたばかりの新作らしい、「Bianca Come Il Latte Rossa Come Il Sangue」。主人公が恋する赤毛のベアトリス(Gia Weissが美しすぎる)は白血病。ベストセラー小説の映画化のようで、セカチュー的展開はいまや全世界定番定型。まもなく日本でも公開される『17歳のエンディングノートNow is Good)』なんかもある。(それにしても、『17歳のエンディングノート』って邦題、巧いのかもしれんが、個人的には嘔吐級に受けつけない。原作の邦題が『16歳。死ぬ前にしてみたいこと』[死ぬまでにしたい10のこと、意識?]なのに「17歳」なのは、『17歳のカルテ』とか『17歳の肖像』とかを意識して?それより「エンディングノート」って・・・)

友人役のシルビア(Aurora Ruffino)がこれまた可憐に切なさ全開そうだし、主人公の人生水先人として登場する教師(ルカ・アルジェンテロ)も好い奴そうだし、目新しさ皆無のベタ・パラダイスだったとしても楽しめそう。と、無根拠妄想。

予告を観る限りでは、とにかくイタリア映画特有の鮮やかな色彩が幾分憂をたたえつつ、赤と青に胸がしめつけられそうな予感。(そういえば、今年のイタリア映画祭で上映されるジュゼッペ・ピッチョーニ(『もうひとつの世界』は傑作!)最新作のタイトルは『赤鉛筆、青鉛筆』。)

映画祭やら批評やらで高評価されるようなタイプじゃなさそうだし、来年のイタリア映画祭あたりで運よければ上映されるかな。とりあえず、二人の女優には今後注目の予感大。

2013年4月23日火曜日

フレンチ・フィーメイル・ニューウェーブ

現在シアター・イメージフォーラムにて、フレンチ・フィーメイル・ニューウェーブと題して気鋭のフランス女性監督による三作品を上映している。先日『ベルヴィル・トーキョー』を観て、全作の観賞完了。個人的には『グッバイ・ファーストラブ』は文句なしの傑作、『スカイラブ』は愛おしい秀作、『ベルヴィル・トーキョー』は極めて苦手定番な作風、という結果。



『グッバイ・ファーストラブ』は、日仏学院で昨年組まれた「フランス女性監督特集」で上映された際に観た。平日に2回のみの上映だったのだが、初見で全身を射貫かれた私は、気づけば翌日の上映にも足を運んでいたし、海外盤ブルーレイも発売早々に注文してしまったほど。ちなみに、2012年に観た非劇場公開作品のなかではベスト。先日のブログでも触れたけど、同じくステファーヌ・フォンテーヌが撮影を手がけた『君と歩く世界』が同時期に劇場公開されている奇遇、奇跡。ステファーヌ・フォンテーヌの傑出した映像に全身委ね、包まれて。フランス映画の新たな地平を辿る軌跡を体感。




『スカイラブ』も同特集で観た。ウェットにならずもドライじゃない、センチじゃないけどノスタルジック。懐古はしても、回顧で終わらない。過去を背負いながら前方凝視で前のめりにぐんぐん進む『グッバイ・ファーストラブ』とは対照的に、目を細めつつ後ろをゆったり眺めながらもゆったり前進みたいな君のいた夏。瑞々しさの成分を一切蒸発させないで、だけど窮屈じゃなく凝縮。多幸感とかいう言葉じゃ軽すぎて、幸福なんて完了感は物足りない。ジュリー・デルピーの脂の乗り方は今、究極の旨味到達。




『ベルヴィル・トーキョー』も日仏での特集上映(一昨年の「第15回カイエ・デュ・シネマ週間」)に選定されていながらも、見逃していた一作。同特集では、ヴァレリー・ドンゼッリの「宣戦布告」(『わたしたちの宣戦布告』として昨年劇場公開)に余りに感応してしまったが故に、その後に上映が予定されていた『ベルヴィル~』は観るのを止めてしまったのだった。(主演が同じ二人だったということもあり)

そうして満を持しての今回の観賞となった。当時の評判はあまり芳しくなく、今回公開後の反応も概ね微妙(一部熱狂)だったので、「好悪どっちかに転んで終わるんだろうな」的腹づもりで見始めると、見事に離れゆく心。物語内容(特にジェレミー・エルカイム演じるジュリアンに対する苛立ちをよく耳にする)にのれないといった拒絶感想が多いようなのだが、私的には「作風」自体(全体?)が完全に受容不可能な空気で充満してた。

日本のインディペンデント作品(特に映画学校の卒業制作や、映画学校で講師と生徒が作ったようなタイプに多い)が放つ、極めて映画的な世界を極めて安っぽい枠内で構築しようとしたイビツ。おそらく優劣の問題ではなく、向き不向きな問題であると私は認識するのだが(などと言うと必ず、「いや、おまえがわかってないだけだよ」的報復に遭うことしばしばなのが、日本のインディペンデント映画語りサークルの苦手なところ)、こういうのって日本だけじゃないんだねって痛感したり。最近では、初めから「無理」そうなものは観賞予定から外すものの、必見臭を嗅いでしまうと引き下がれないシネフィル憧憬病から抜けきれない自分としては、最近も『あれから』を観て撃沈。夏目漱石の『それから』も、大江千里の『これから』も好きだけど、篠原誠の『あれから』は全然・・・好評価を随所で見かけただけに凹みもしたが。(ちなみに、きわめて静寂に満ちた映画なのだが、私が観賞した際のオーディトリウム渋谷では、ロビーでのスタッフ歓談による笑い声が何度か場内まで聞こえてきて極めて遺憾。美学校が入ってからのキノハウスはちょっと苦手な雰囲気が日に日に増してる気がしてる。)

話を『ベルヴィル・トーキョー』に戻すと、作品内容から少し離れてしまうが、生粋のシネフィルがメガホンをとっただけあって、純度の高い「映画的」を追究しようとする姿勢は其処彼処。ただし、デジタルで撮る映像に、フィルムだからこそ活きてきた「映画的」を求めるのは御門違い。陰影に語らせることなど難題なのに、ベッタリのっぺりな暗く黒い画面が継起する。フィルムで錬磨したベテランが、デジタルで「ならでは」を嬉々として駆使したり享受したりするのとは、実に対照的。ちなみに、同じような傾向は、前述の苦手な日本のインディー作品群にも当てはまる。アコギとエレキじゃ表現できる世界は違う。フィルムとデジタル、然りでしょ。

あと、そういった作風の映画におけるもう一つの苦手ポイントが、画調の安っぽさ(これは見せ方次第では特長にだってなり得ると思う)に演技の精巧さというアンバランス。フィルムの格調に安っぽい演技(かつてしばしば遭遇してた、テレビタレントが映画に出てる時の場違い感)の逆ヴァージョン。

主人公マリーの仕事は、エリーズ・ジラール監督自身の投影なのだろうけど、物語において機能しているようにも思えなければ、必然性よりもファッション性ばかりが鼻につく。固有名詞の出し方にしても、何となく浮いてしまいがち(妙な強調感がある)な気がする。

とはいえ、全く以て主観的な苦手意識に包まれての観賞なので、半ば言いがかりかも。


この企画自体の観客動員はどうなのだろう。『ベルヴィル~』は平日初回で一桁だった。『グッバイ・ファーストラブ』なんて、単品で劇場公開されないこと自体がショックだったりもしたのだが、『あの夏の子供たち』を恵比寿で観たときも場内寂しかったしね。一部で活況を取り戻しているかに見えるミニシアター事情。こちらにも「格差」の波とやらが押し寄せて来てたりするのかな。

『グッバイ・ファーストラブ』の動員が好調だったりしたら、ミア・ハンセン=ラヴの三部作がセットで上映される日が来たりする!?(昨年の日仏では実際にあったものの、「すべてが許される」は日本語字幕付の上映はまだない・・・同作も素晴らしすぎるデビュー作なのに!) それに、ローラ・クレトン主演のオリヴィエ・アサイヤス最新作『5月の後』の劇場公開を早いとこ実現させるためにも、ローラ・クレトン主演の『グッバイ・ファーストラブ』にもっと観客押し寄せろ!

ちなみに、『グッバイ・ファーストラブ』を観賞される際には、必ずJonny Flynn & Laura Marling"The Water"を音楽プレーヤーに入れてゆくのをお忘れなく。(マムフォード・アンド・サンズのマーカスとライブで共演した「The Water」なんてのもあるんだね。)
 

2013年4月22日月曜日

GLORIOUS 39

WOWOWのジャパン・プレミア(日本劇場未公開作の初放送枠)で観た『ブラック・レコード~禁じられた記録~Glorious 39)』は、以前から秘かに観たかった一作でもあった。というのも、『ミスター・ノーバディ』で主役二人の思春期を演じたジュノー・テンプルとトニー・レグボが揃って本作に出演していると知ったからである。本作でその二人は、全く直接関わらない(そもそも二者が属する時代には70年の隔たりが)けれど、『ミスター・ノーバディ』での好演同様の存在感。ちなみに、この二人、『アバター』と『アリス・イン・ワンダーランド』のアート・ディレクションで二度のアカデミー賞に輝くロバート・ストロンバーグ初監督作「Maleficent」(実写版「眠れる森の美女」、姫がエル・ファニングで魔女がアンジェリーナ・ジョリー)にも揃って出演するらしい。

おそらく英国男子好きな映画ファン大興奮な贅キャスティング。ビル・ナイやクリストファー・リー、デイヴィッド・テナント(『ドクター・フー』10代目ドクター)といった超お馴染みの面々に、エディ・レッドメインがかなり重要な役どころ。しかも、エディは自慢の歌声を(一瞬ながら)披露。『レ・ミゼラブル』よりも美味しく聞こえる(『レ・ミゼラブル』では、録音のせいか、あまり巧く聞こえなかったが、本作における美声の格調は見事に上質)。

主演のロモーラ・ガライは難役ながら、的確な奮闘演技。作品自体が精巧に仕上がっていたら、女優としての評価を更に上げていた気もする。

序盤こそ、英国郊外の優雅な光景も手伝って魅了されそうな気配が漂うも、中盤にダレ始めると、後半の失速がハンパなく、トンデモ臭が立ち籠め始めた終盤には観ているこちらこそが拉致られ気分になってくる。いまやトム・フーパーの片腕的カメラマンであるダニー・コーエンの撮影も、最初のうちには「映画的!」なシネスコ使いに胸高鳴るも、トム作品同様「あざとさ」が続きすぎれば胃もたれ状態。エイドリアン・ジョンソンのスコアも大仰さだけで押し切る単調さにやっぱり胃もたれ。テレビ畑での仕事が長いエディターは、映画的緩急つけきれず。

アメリカでも劇場未公開に終わったようで、劇場公開はイギリスとアイルランドだけのよう。納得。


2013年4月19日金曜日

アントン・コービン/伝説のロック・フォトグラファーの光と影

昨年のベルリンで初公開された「Anton Corbijn Inside Out」が、こんなに早く、しかも劇場公開されるとは望外至福。アントン・コービンは、音楽界における写真やビデオでの仕事では名実共に最高峰。しかし、私の魅了に拍車がかかったのは明らかに映画界に進出してからだ。『コントロール』、そして『ラスト・ターゲット』。彼の実績からすれば当然な、洗練されつくした画と音のテクスチャー。しかし、作品が放つ美意識はそうしたヴィジュアルに限られたものではなく寧ろより内省的な息づかいがヒリヒリとジリジリ迫ってくる感傷を伴った静謐な語りに、私の魂は完全に魅入られた。

そんなこともあり、最近ちょっとばかり苦手なシアター・イメージフォーラムながら、足を運ばぬわけにはいかぬ。平日の昼下がり、場内には数名の観客。そんな空気と見事に共鳴するように、孤絶した穏やかな情熱は、オランダの光につつまれながら淡々とした眈々で、被写体に眼を凝らし、自らが被写体となると目を伏せる。

証言者たるミュージシャンの言葉に垣間見られる、アントンの芸術家肌とは異なる性質。「大抵の写真家は自分の世界観にはめようとするんだが、アントンは違う」。しかし一方で、アントン自身は言う。「完璧な写真からは息吹が消える。しかし、私の写真は違う。私の呼吸が入ってしまう。」

タイトルが示唆するように、本作はプライベートの側面から切り込んだり掘り下げたりするバイオグラフィーというよりは、アントン自身の内面に寄り添いながら共に沈潜するような作りになっている。アントンの寡い言葉ひとつひとつは深長に、それを補うように彼の動きを静観し、遠くから身体ごと見届ける。そして、そうした存在を包み込む「風景」までをも彼の世界として収めようとする試み。フィルムで撮影されたかのような(実際はどうなんだろう?)ぬくもりある美しさに溢れた映像。「デジタルは嫌いだ」と断言するアントンが映る画にふさわしい丹精な映像にこだわる丹念。アントンの精神生活を外化(可視化)させようとでもしているかのよう。監督のクラーチェ・クイラインズ(Klaartje Quirijns)は、女性ならではの非分析的眼差しでアントンの素顔をじっと待つ。オランダ人同士であることや、アントンが母語(オランダ語)で語れることは、本作における決定的な「核」を保証する。

父をはじめ親戚に牧師が多かったという家庭。プロテスタントの影響が色濃く出ていると自覚する作風。家族の証言、彼への心配。仕事中毒からの脱却、転機、模索、挑戦。自分から出向く仕事から、自分のところへ来てもらう仕事へ。初めて自分のスタジオを構えようと思うんだ。そう語るところで、ひとまず物語は終わる。いや、「つづく」。

彼の作品に関する分析や批評をたっぷり浴びたい人には物足りないかもしれないが、「ドラマ」として呈示されることの多い芸術家の肖像とは一味違う、芸術を仕事にしている人間が日々を述懐する時間。彼の言葉の個人的浸透度が異様なまでに高かった私には、共感や共鳴よりも後を引く、共振の感覚がいつまでも続いてる。


2013年4月18日木曜日

42

先週末の全米興収において歴代野球映画最高オープニング興収(初の2,000万ドル台)をたたき出したということで話題の『42』。主役が黒人の映画はヒットしないジンクスがある日本だけれど、ハリソン・フォードも出てるし、ワーナー映画だし、興行・批評共に上々みたいだから日本での公開も決まるかな。

そして、その『42』の監督・脚本を務めているのが、ブライアン・ヘルゲランド。『L.A.コンフィデンシャル』でオスカー(脚色賞)を手にする前日にラジー賞を受賞(『ポストマン』の脚本で)したという「稀代」の実力派脚本家でもある彼は、その後も脚本家として名匠達とコラボを重ねる。イーストウッドの『ブラッド・ワーク』や『ミスティック・リバー』、トニー・スコットの『マイ・ボディガード』や『サブウェイ123 激突』、ポール・グリーングラスの『グリーンゾーン』、リドリー・スコットの『ロビンフッド』。

一方、ブライアン自身もメガホンをとっており、メル・ギブソン主演の『ペイバック』で長編映画監督デビューを飾ると、ヒース・レジャー主演の『ROCK YOU!』『悪霊喰』を監督。続く『ペイバック』(2006)の続編は劇場公開を果たせなかったようで(ビデオスルー)、『42』は実に久々の監督作となるようだ。(劇場公開作となると、『悪霊喰』以来だから実に10年ぶり。)ヒース・レジャーの死の影響もあったのだろうか。

『42』で個人的に楽しみなのが、マーク・アイシャムの音楽。かつての精細や一時期の安定からは最近やや遠ざかりつつある彼だけど、本作のような感動実話のサクセスストーリーは彼にしては珍しいジャンルだし、ブレイクスルーしてたりするか!?そもそもトランペット奏者だった彼の得意な憂愁なペットの彷徨えるロングトーンも好きだけど、『42』では天高く突き抜けるファンファーレ的なラッパが響くのだろうか。


2013年4月17日水曜日

メイド・イン・ハンガリー

昨年のEUフィルムdaysで上映された『メイド・イン・ハンガリー(Made in Hungária)』が、BSスカパー!にて放映される。「スカパー! シネマアワーTHE PRIZE」というこの枠は、世界の映画祭で受賞した作品の中から劇場未公開作(DVD未発売のものもある)を毎週1本ずつ紹介する(全部で3回放映あり)なかなか貴重なプログラム。ここ2回は、先頃東京でも大盛況だったジョアン・ペドロ・ロドリゲスのレトロスペクティヴで上映された『男として死ぬ』と『オデット』が放映されたりというタイムリーさも。「スカパー!」に1チャンネルでも加入していれば見られるという無料放送。(もしくは、「2週間お試し体験」を利用するとその後も約1年間無料で見られるとのこと。)

アイルランドの事件簿』(DVDでのタイトルは、『ザ・ガード/西部の相棒』)が上映されるというので駆けつけたフィルムセンターで、その次の回に上映されたのが、『メイド・イン・ハンガリー』。監督も来日しQ&Aもあるというので、折角なのでついでに観た。そしたら、好かった!冷戦中の東欧に無邪気に射し込む麗らかな陽光を、ハリウッド帰りの監督が奇を衒うことなく王道ミュージカルで直球勝負。そうした成立事情に、あらゆる野暮が慈しむ心をくすぐり始めてしまう。

エンドロールにはモデルとなった歌手自身のコンサート映像も出てくる(お約束!)。そこで歌われるのが、「メイド・イン・ハンガリー」!アップテンポな中に哀愁と垢抜けない真面目さが滲む歌謡曲風味が何とも言えず好い味なのだ。(Q&Aの司会を務めた田中千世子さんが、この曲についての感慨を述べると、監督があっさりと「僕自身は、こういった湿っぽい歌謡曲は好きじゃないんだけどね」って淡々と返しているのが面白かった。その時の記事。)

ハンガリーの映画人といえば、最近ではタル・ベーラが真っ先に思い浮かんだりするが、本作はそうした芸術街道とは無縁のフリーウェイ。気軽に観ながら、素直な人間賛歌によろしく哀愁。

2013年4月16日火曜日

トマス・ヴィンターベア EN MAND KOMMER HJEM

『偽りなき者』絶賛公開中のトマス・ヴィンターベア監督作で日本未公開作。ハリウッドへ渡って『アンビリーバブル(It's All About Love)』撮るもパッとせず、盟友ラース・フォン・トリアーによる脚本で『ディア・ウェンディ』撮るも何処か迷走気味だった彼が、デンマークに戻って撮った本作。そのタイトルもまさに、「When A Man Comes Home」。



この予告からして、明らかに『セレブレーション』や近作のトマス・ヴィンターベア監督作とは全く趣の異なった映画であることは明らか。本篇も冒頭からいきなりショスタコーヴィチの『ジャズ組曲第2番』のワルツが流れてくる。同曲は本篇で度々流される。しかも、舞台となるのは寂寞漂う寒色風景ではなく、暖かな光溢るる黄金色の牧歌的郊外。『スラムドッグ$ミリオネア』でオスカーも受賞した盟友アンソニー・ダッド・マントルによる撮影も従来の臨場感とは些か無縁な流麗さ。

主人公セバスチャンは、幼い頃に父親が自殺。母親は女性と結婚。彼は吃音になってしまう。

そんな彼の父親、実は死んではおらず、有名なオペラ歌手になっていて、街の「セレブレーション」のためにやって来る。母親から真相を聞かされたセバスチャンは、自身が厨房で働くホテルに宿泊している父親と「交流」の機会を得る。

このあたり(冒頭30分過ぎ)までは実に「爽やか」「ほのぼの」な空気も漂っているのだが、後半にさしかかってくると、トマス・ヴィンターベア作品らしい(?)アイロニカルな展開が待っている。

観ながらふと思った。本作は「父と息子」の物語が中心にあるわけだが、本作の後に撮った2本(『光のほうへ』『偽りなき者』)においてもそれは引き継がれてる。そう考えると、「父と息子」三部作とか呼びたくなりもするけれど、3作をまとめて捉えるのはさすがに無理があるほど本作はやっぱり明るくて、笑いも辛辣も適度というより半端な印象。ただ、リラックスしながらリハビリしてる本作は、主人公セバスチャンの自分探し的キャラクターとトマス自身が優しくシンクロしている感じ。

オペラ歌手の父親を演じるのは、先日のブログでも取りあげたトマス・ボー・ラーセン。主人公セバスチャンを演じた俳優は、IMDbによると本作しか出演情報がないが、新人?素人?

輸入盤DVDで観たのだが、珍しく(?)本篇以外に何の特典も入っていなかった。ちなみに、DVDのジャンル表記は「コメディ」。
 

2013年4月15日月曜日

君と泳ぐ世界/Stéphane Fontaine の眼差し

『君と歩く世界』を観ながら僕は、言葉が正しく失われていった。

『グッバイ・ファーストラブ』を観ながら僕は、言葉を発する隙間がない。

輝きと傷みが重なり合った、めくるめく世界の躍動する沈潜。ステファーヌ・フォンテーヌのカメラは、重力を確かに感じつつ、世界を掻き分け泳いでく。シネスコの画面において、これほどダイナミックな奥行、見たことない。切り取ってきた世界がいつも、残してきた世界に包まれる。







最新作は、アルノー・デプレシャンの「Jimmy Picard」。エリック・ゴーティエを凌ぐかもしれない。
 

2013年4月12日金曜日

若き警官 Le Petit Lieutenant

アンスティチュ・フランセ東京にて開催中の特集上映「都市の映画、パリの映画史」にて、グザヴィエ・ボーヴォワ監督作「若き警官(Le Petit Lieutenant)」を観た。俳優としても活躍しているグザヴィエは、寡作ながら監督としての評価も高く、カンヌでグランプリ受賞の『神々と男たち』は日本でも劇場公開された。東京国際映画祭(ワールドシネマ部門)で初めてみた同作を、震災直後のシネスイッチ銀座で再見したときの慄然にも似た感応は、今もって私のなかで格別に特別な体験として焼きついている。

日本でなかなか紹介される機会の少ないグザヴィエ・ボーヴォワの監督作が上映されるとあらば、英語字幕だろうが観に行かずにはいられない。本作の前作にあたる『マチューの受難(Selon Matthieu)』も不思議な浸透度で迫ってきた作品だったが、それにも似た、ちょっとだけの独特さが強烈な独特さに積み重なってゆく時間の堆積に魅了が未了な深化を遂げる。

本作でセザール賞を受賞したナタリー・バイの静かなる哀しみに包まれた存在感が抜群なる浸潤。いわゆる「抑えた演技」などとは異質の、既にありったけの哀しみ(という感情)が絞り取られた後の精神世界が濛々と立ち籠めているかの如き佇まい。脇を固める面々もまた同様に機微すらこらえた寡黙な表情で、劇的な展開を際立たせる沈黙を守り続けている。『マチューの受難』にも似た終盤の突如たる疾走が、離陸的カタルシスとしてアンビバレントな昂揚を遂げるラストは、グザヴィエ・ボーヴォワ監督作ならではの確かな刻印に思えてくる。

私が観た彼の3作品はいずれも、言葉に拠らずに身体で語る場面に強く心を揺さぶられた。『マチューの受難』ではラストの暴走と抱擁。『神々と男たち』では「白鳥の湖」が流れる、最後の晩餐。そして、本作ではナタリー・バイが電話で報せを受けて卒倒する瞬間。体内を蠢く感情が身体から滲み出てくるとき、そこには映画的破壊力の最たるものが宿ってる。



撮影は、グザヴィエ・ボーヴォワとは長編第二作目から継続して組んできているカロリーヌ・シャンプティエ。今やフランスを代表する撮影監督の一人となった彼女は、公開中の『ホーリー・モーターズ』でも撮影を担当している。ちなみに、本作にはカロリーヌ自身も出演。ナタリー・バイと「若き警官」が列車で移動する際に、彼が所持する拳銃を見て一瞬驚く女性客の役を演じていたようだ。(ちなみに、セーヌ川から上がった遺体を見に行こうとしている野次馬少年二人は、グザヴィエ・ボーヴォワの息子らしい。)

本作のプロデューサーは、マルティーヌ・カシネッリパスカル・コシュトゥー。そう、ジャック・オディアール作品のプロデューサー・コンビ。偶々、前日に『君と歩く世界』を観たこともあり、奇遇。Why Not Productions作品でおなじみのパスカルは、ボーヴォワやオーディアール以外にも、ケン・ローチ(『エリックを探して』『ルート・アイリッシュ』)やアルノー・デプレシャン(『クリスマス・ストーリー』『Jimmy Picard(今年公開予定の新作)』)等々の作品を手がけている最注目プロデューサーの一人。

「若き警官」を観た今日は、前の回でジャン・ユスターシュの傑作『ママと娼婦』(狂喜乱舞!)が上映され、次の回にジャン・ルノアール『ランジュ氏の犯罪』が上映されるという、とんでもない3本立てに酩酊し通しの一日だった。が、『ママと娼婦』は満席近くなり、『ランジュ氏の犯罪』では立ち見まで出る盛況ぶりながら、「若き警官」の観客は20名程度。シネフィル・トーキョーの或る種の傾向顕著な一日。
 

2013年4月11日木曜日

Gia Coppola/フランシス・フォード・コッポラの息子の娘

フランシス・フォード・コッポラの孫娘ジア・コッポラが今年、映画監督デビューするらしい。タイトルは『Palo Alto』。一癖ある青春物といった趣が予想される同作だが、キャストが実に魅力的で、ジェームズ・フランコ(彼の短編小説を原作にジーアが脚本を書いたみたい)、エマ・ロバーツ、ヴァル・キルマーといった面々に加え、Dlifeでも放映した『プリティ・リトル・ライアーズ』(観たことないけど、ティーン版「デスパレートな妻たち」とも呼ばれているとのこと)のトビー役キーガン・アレンや、傑作との呼び声高い日本未公開作「Terri」のオリヴィア・クロチッチアも出演している。(オリヴィアは、2004年から始まったテレビドラマ『レスキュー・ミー~NYの英雄たち』[9.11で活躍した消防士ったちのその後を描いたヒューマン・ドラマ]に放映当初からシーズン7[最終シーズン?]まで出演。主人公の娘役だったのか、6年前はこんな。)スタッフにも、ハーモニー・コリン作品で編集を担当したこともあるLeo Scottが参加していたり、前述の「Terri」やミランダ・ジュライの『the Future』にも参加したSara Beckum Jamiesonがプロダクション・デザインを担当していたりと、気鋭のクリエイターたちが結集している模様。どんなケミストリーが織りなされるか、楽しみ。

ジア・コッポラは、叔母(!)のソフィア・コッポラ『SOMEWHERE』では衣裳アシスタントとして参加。祖父のフランシス・フォード・コッポラ『Virginia/ヴァージニア』の現場にも参加していたよう。(どうやらメイキングを撮っていたらしい。後述の通り、同作には彼女にとっても「重要」な要素が含まれているだけに、どのように物語られているか、興味深い。日本版のDVD・Blu-rayにも収録されているようなので、是非観てみなくては。)1987年生まれの26歳。ちなみに、『ニュー・ヨーク・ストーリー』のコッポラ篇には赤ん坊の頃に出演し、『ゴッド・ファーザー PARTⅢ』でもコニー(タリア・シャイア)の孫として出ているとか。


ソフィア叔母さんとそっくりに見える。

ベスト・コーストの名曲「When I'm With You」にのせてお送りするレインスプーナー(アロハシャツのブランド)のPV。(どうでもいいけど、「アロハシャツ」よりも「ハワイアンシャツ」の方が一般的な呼称なんだとか。「アロハシャツ」がかつて商標登録されてしまっていたらしく。)


さて、見較べてみちゃいましょう。(「When I'm With You」のオフィシャルMVです!)




作風としてはソフィア叔母さんの影響大な印象ですが、次のショート・フィルムなんかではロマン叔父さんにも通じそうなセンスが(特に後半)垣間見られたり。



昨年日本でも公開されたフランシス・フォード・コッポラの『Virginia/ヴァージニア』にはボート事故で子供を亡くすシーンがあるのだが、フランシス自身も実際にボート事故で息子を亡くしているという事実を昨年の同作公開時の記事で私は初めて知った。22歳で亡くなったその息子ジャン・カルロこそがジアの父親なのだという。そして、ジャン・カルロはジアが生まれる前に亡くなったのだという。そんなことを思うと、ソフィアやロマンとは違う感性がジアには育まれてきたのかもしれない。未知数、コッポラ一家の最終(?)兵器ジア。デビュー作の完成が楽しみ、楽しみ。

最後に、ジアが手がけたユナイテッド・アローズの「トレンチ・トリップ」を。主演は水原希子!



この、全てがキレイかわいい感じ、気恥ずかしさをそっと超え、なかなか好きです。

こちらは、メイキング。

2013年4月10日水曜日

ニュースルーム

『ソーシャル・ネットワーク』の脚本家が贈る 報道の裏側をスリリングに描いた社会派ドラマ

それが、WOWOWで放送が始まったアメリカのドラマ『ニュースルーム』(HBO)のコピー。当然、「アーロン・ソーキン」推しなわけで、観れば納得の「アーロン・ソーキン」節全開。ただし、なかなか強力なスタッフが、堅実ながらも新味にやや欠ける脚本を見事にアシスト。

第1話の監督を務めたのは、。『スーパーバッド 童貞ウォーズ』『アドベンチャーランドへようこそ』『宇宙人ポール』のグレッグ・モットーラ。彼はプロ-デューサーにも名を連ね、シーズン1では他にも第3話と第10話(最終話)で監督を務めている。確かに「社会派」「ジャーナリズム」といったキーワードに関心を示しそうな層にアピールするフィルモの持ち主じゃなかろうが、旬な人だけにスルーするのはもったいない。

更に注目は第7話の監督、ジョシュア・マーストン。『そして、ひと粒のひかり』が多くの映画祭(ベルリンでは女優賞)・映画賞(アカデミー主演女優賞ノミネートなど)で高い評価を得た後、オムニバス映画『ニューヨーク、アイラブユー』にも参加。2011年のベルリン国際映画祭脚本賞を受賞した『The Forgiveness of Blood』(クライテリオンからBlu-rayも発売!)も高評価を得た気鋭。

トーマス・ニューマンによるテーマ曲は映画的高揚感をさりげなく演出し、『スラムドッグ$ミリオネア』の彼(フリーダ・ピントとまだ付き合ってるのだろうか)が出てたり、プロデューサー陣にスコット・ルーディンの名を見つけたり、私のようなミーハーな映画ファンにも気軽にウキウキできる適度な仕様。登場人物の恋愛模様的展開や、人間ドラマ的スパイスも随所に効かせられそうで、HBO制作のドラマにしては珍しく(?)爽快な「軽やかさ」を以て毎回見終えられそうなシリーズ。


2013年4月9日火曜日

『偽りなき者』に出てきたメガネ/MONOQOOL

『偽りなき者』で、マッツ・ミケルセン演じる主人公の告発リーダーである園長先生(?)グレテ(スーセ・ウォルド)がかけているメガネに驚嘆!デンマークのアイウェア・ブランド「MONOQOOL」だったのだ!

同ブランドの看板アイテムの代表格が、一度見たら忘れられないスプリングヒンジ!


これ、デザインはデンマークながら、製造は日本で行っているのです!
私も1本所有しているのですが、ちゃんと「Hand Made in Japan」と記載されてます。
まさに北欧デザインと日本伝統職人芸(匠の技!)のコラボレーション!

この動画だと、その特異性が更にわかりやすい。



ちなみに、私は自分でMONOQOOLをばらしたり組み立てたりしたことはありません。
ic!Berlinならたまにバラして遊んだり(?)、踏みつけてバラけたりしますが・・・。
その点、アイシーの頑丈さは心強い。二度ほど思いっきり全体重で踏んだのに無傷だった。

デンマークには他にもリンドバーグプロデザインフライ等々、日本でも人気のアイウェア・ブランドが多数。などと語っておきながら、にわかメガネ語りな私には、マッツ・ミケルセンがかけていたメガネのブランドまではわかりません・・・。

ちなみに(どうでも好い話ですが)、私の視力は中途半端に悪い(好い?)0.6とか0.7とかいった値なので、映画を観るときには必ずメガネをかけるものの、自宅にいる時は基本裸眼だし、仕事中でもデスクワークならメガネはかけません。最近は裸眼の「ちょうど好い見えなさ」が心地好く(?)、終始裸眼で仕事も生活も通していたりするのですが。
 

2013年4月8日月曜日

360

レイチェル・ワイズ、ジュード・ロウ、そしてアンソニー・ホプキンスといった一般層でも知っていそうな豪華キャストに、『クィーン』『フロスト×ニクソン』『ヒアアフター』のピーター・モーガンによる脚本を、『シティ・オブ・ゴッド』『ナイロビの蜂』『ブラインドネス』のフェルナンド・メイレレスが監督。普通なら日本でも劇場公開されそうながら、Rotten Tomatoesでは散々な腐り様の本作。一昨年のトロントで御披露目されるも、劇場公開は昨夏になって漸く(そのまえに、アメリカではVODで公開されたみたいだし)。当然ながら(?)日本でも劇場未公開。WOWOWにて先月初放映され、来月にはDVDが発売予定。

というわけで、下げに下げたハードルが奏功してか、サンデー・トワイライトのうらぶれた胸中に程良い中途半端感だったからか、意外にもしっとりしっくり浸れた小品。まぁ、相当数の人物を交錯させまくろうとした群像劇なのに、観賞後に残る印象が「小品」って時点で失敗なのだろうけど(通常なら、そうしたところに違和なり欠乏を感じたりもするのだろうけど)、自宅で日没と共に眺めるにはもってこいのアンニュイさがちょっとお気に入り。

丹念に丹精なアドリアーノ・ゴールドマンの撮影は抜かりなく、静謐な昂奮の残り香が画面全体に漂い続けてる。『闇の列車、光の旅』『ジェーン・エア』等での見事な仕事ぶりに続き、ロバート・レッドフォードの最新作ジョン・クローリー(『BOY A』)の新作で撮影を担当。更には、メリル・ストリープとジュリア・ロバーツが主演を務めるという(他のキャストも超豪華!)「August : Osage County」(ピューリッツァー賞受賞戯曲で、舞台版はトニー賞受賞という強力原作で、プロデューサーはジョージ・クルーニー!)にも大抜擢。

そんな繊細な画づくりは微かな緊張感を持続させ、脚本も適度な緊張感を適度な間隔で注入する努め。ただ、時折綻ぶ緊張感が、心地好い弛緩と言うよりも、放り出された(ばら撒かれた)散漫さとして映ってしまう懸念もなくはない。固唾を飲むほどではない、そんな半端なサスペンスをどう捉えるかによって評価(というか好み)は大きく分かれそう。

『ヒアアフター』で挑んだ群像劇的ストーリーテリングを自分なりに発展進化させようとしただろうピーター・モーガンの企みは、成功しているとは言い難いものの、『ヒアアフター』にも流れていた「ぎこちなさリアリティ」がつかず離れずという交錯ドラマに独特の機能を果たしていることは確か。つまり、大きなことは起こらなくても、小さなことは起き続けてて、だから小さなことが起ってくる。何かが足りない「惜しさ」が終始拭えないながら、その不足感が物語における各人の「満たされなさ」とリンクしているように映ったとき、語りのもどかしさに物語がすっぽりと収まりだしたりもする。

キャスティングがハマり過ぎてて、その魅力に依存しすぎた気もするほどで、ジュード・ロウなんか久々に「今の彼」適正魅力を発揮していたり、ベン・フォスターが醸す空気は見事な「体現」。

個人的に注目だった男優は、娼婦派遣業を営む男を演じたオーストリアの俳優ヨハネス・クリシェ。彼はゲッツ・シュピールマン監督作「Revanche」に主演。同作はベルリン国際映画祭はじめ数々の映画祭や映画賞で高く評価され、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。私も輸入盤(クライテリオンからBlu-rayが出てる!)で観賞したが、日本未公開なのが誠に遺憾な必見佳作。ちなみに、同じくオーストリアの俳優出身監督であるカール・マルコヴィックスの初監督作「Atmen(Breathing)」も同様に必見佳作。個人的にはかなり好きな作品群。最近の中欧・東欧映画は日本になかなか紹介されないものの、必見なものが多い。北欧映画もそこそこな数が紹介されているようだけれども、ジャンルに偏りがある気もする。「Revanche」や「Atmen」に関しては、そのうちちょっとした紹介記事でも書きたいとは思っている。ちなみに、「Atmen」は何と「なら国際映画祭2012」の新人コンペティションに参加していたらしく、カール・マルコヴィックスも来日していたとか。しかも、フィルム上映だったようで、知っていたなら遠征も辞すべきじゃなかった級の個人的ツボ映画。ちなみに、IMDbのトリビアによると、『360』でヨハネスが演じた役は当初カールが演じる予定だったが、スケジュールの都合で交代になったのだとか。

女優陣も皆好い味出しているのだけれど、中でも抜群にツボだったのが、娼婦の妹役ガブリエラ・マルチンコワ。彼女は、昨年公開されたマッツ・ミケルセン主演のアクション映画「Move On」に出演している。デンマークとドイツの共同制作で、監督はアスガー・レス(ドキュメンタリー畑出身で、『崖っぷちの男』の監督に大抜擢!)。脚本は『コントロール』や『ノーウェアボーイ』のマット・グリーンハルシュ。マッツ人気に乗じて(ソフト化でも放映でも好いから)日本でも公開を!


さて、そのガブリエラ・マルチンコワ演じるアンナは読書好きで、そんな彼女が読んでいるのは『アンナ・カレーニナ』。(先頃公開されたジョー・ライトによる映画版には、本作に出ているジュード・ロウが出てる!という斜め上なつながり!)そして、そんな二つの「アンナ」が呼び寄せたのが、マフィアのボス(?)の用心棒に嫌気がさしはじめているロシア人・セルゲイ(ヴラディミール・ヴドヴィチェンコフ)。この二人によるラスト・シークエンスは、天気雨が去った後の清々しさそのもの。ささやかでやわらかな幸福を両手でそっとすくってみるような。そこに流れるMedeski Martin & Woodの「Old Paint」が絶妙に心地好い"atmosphere"で包んでくれる。(セルゲイはその朝、妻から離婚話をもちかけられるのだが、そんな彼が心を通わせる相手が何となく妻と似ているアンナだというところが観客自由度高めな行間を創出してくれる。)

4月に入って仕事に心身を侵食されまくりな連日。ヨーロッパを旅するカメラ、多国籍多様な人々の往来、それらに束の間でもひたって叶うエスケイプ。現実に潜む地道な誠実とささやかな奇跡が、私たちを活かしてくれるのだとそっと背中を押してくれてる気がしたり。弱ってる証拠をかみしめるのも、強くなるための充電小休止。
 

 

2013年4月5日金曜日

Josh Ritter / The Beast In Its Tracks (2013)

映画を観るようになったのは大学生活も後半にさしかかろうかといった頃だし、その後も時折「ほとんど観ない時期」が訪れたりもした為、せいぜい実質10年やそこらしか映画を観ていない私だが、音楽を聴くという営みは、物心ついた時から一貫して生活の一部。しかし、映画を見始めてもそうだったように、史眼を持ちあわせられるような体系的な知識も謙虚な勤勉さにも欠け、ひたすら体感的に主観に響くか否かだけを基準に選別してしまう性向ゆえに、音楽について「語る」ための背景も語彙もない自分ではありますが(映画の場合だって基本的にはパッチワークと印象感慨に尽きるけど)、あくまでマイ・iTunesを都合好く編集して「披瀝」めくだけに過ぎない内容ながら、たまには音楽についても取りあげてみたいと思います。(以上、冗長前口上御免。)

最近気づくとよく選んでしまうのが、Josh Ritterの新作「The Beast In Its Tracks」。

もとも知っていたわけでもないし、男性SSWが以前から特に好きだったりするわけでもなく、そもそも自分がピアノから音楽に入ったこともあってギター系には多少の羨望と根本的な嫉妬があって複雑な(?)僻み根性が知らぬうちに根を下ろしがち。ところが最近、年のせいか、むしろ自分史の周縁にこそ愛情を注ぎたい衝動が自然とわいてくる。二週間だけギターを握り、驚異の成長(自称)で弾き語ってみせるも、生来の小さな掌と習得済鍵盤(といってもテキトーで鈍な腕だけど)への逃げからあっけなく逃亡したという暗い過去を払拭すべく、ギターそのものは手にせぬかわりにギターから紡がれる物語に静かに耳を傾けたい昨今。

アルバム全体を愛する、というかアルバム全体で語られる世界に寄り添おうとすることもできぬ、単発で楽曲の摘まみ食いに興ずることしかできなかった稚拙なリスナーから卒業したいという積年の課題。今年は何とか幾許かはクリアできるかな。

この「The Beast In Its Tracks」もアルバム全体で一つの流れが静かな緩急をもちながら、あくまで中心となる歌とギターに、必要よりは些か「プラス・アルファ」気味にスパイスされて、耳に適度な安らぎと心地好い遊びを届けてくれる。





新作しか聴いたことがないのだが、旧作へも近いうち辿ってゆきたい気持ち。
ミュージック・ビデオを見てみても、シンプルながらも滋味なる絵心を感じたり。


この曲は、エミルー・ハリスとのセッション動画もyoutubeにアップされていたりする。

次のモノクロによるシンプルなビデオも味わい深い。



そして、さりげなくも凝りに凝った愛らしいビデオが音の愛らしい美しさと見事に調和。



そうだ。彼の音楽の「手触り」とはまさに紙のそれなんだ。ちょっとザラザラだけど心地好い、それ。
 

2013年4月4日木曜日

トマス・ボー・ラーセン/Thomas Bo Larsen

『偽りなき者』の余韻というか、不穏な残照がなかなか消えない。

ハリウッド進出が事実上失敗に終わったトマス・ヴィンターベアだったが、そのことによって向かった回帰が見事な更新として作用し、ここ2作(前作『光のほうへ』、そして『偽りなき者』)における傑出した才能の再確認はスリリングな頼もしさに満ちている。

『偽りなき者』では序盤から、マッツ・ミケルセンの抗いがたい魅力が余すところなく画面から溢れ出て来ていたが、実は彼の親友役を演じたトマス・ボー・ラーセンの複雑な内面ながらも「表情」に還元することを耐えねばならぬ感情表現の深奥があってこそ、あの作品の豊かな多層構造が可能になったのだと思う。

最初は主人公の親友役を演じているのがトマス・ボー・ラーセンだとは全然気づかず(髭のせいもあるが)、気づいてからは益々その演技の奥深さに魅入ってしまったものだ。(ヴィンターベアの出世作であり傑作『セレブレーション』におけるボー・ラーセンの存在感は絶品で、あの作品に見事な「破壊」をもたらしていた。)

彼は、トマス・ヴィンターベアとは旧知の盟友。(そして、ふたりとも「トマス」なんだよな。)ヴィンターベアがデンマーク国立映画学校時代に撮った「最後の勝負(Last Round)」にも出演している。また、ヴィンターベアの長編第1作「偉大なヒーローたち(The Greatest Heros)」では主役の一人を演じているらしい。

ヴィンターベアがデンマークに戻って撮った最初の作品「A Man Comes Home」でも主要キャストとして出演している。



トマス・ボー・ラーセンは、そのプロフィールが興味深い。1963年の彼は15歳で学校を辞め、パン屋に見習いとして入る。肉体労働者として働いた後、軍隊に入隊。1984年にガラス職人の資格を得た後、世界一周の旅に出る。そして、1987年にオーデンス演劇学校に入学。(『セレブレーション』のパンフレットより)

彼の独特な存在感や滲み出る人間臭は、身体に刻まれた記憶によるものなのかもしれない。

予告を観る限り、ポピュラリティもそこそこ高そうな「A Man Comes Home」。『偽りなき者』のソフト発売なりBS放映(おそらくWOWOW)なりのタイミングで、何とか日本で紹介されたりしないものだろうか。
 

2013年4月3日水曜日

恐怖が排除の暴力を助長する映画2本

昨年のカンヌ国際映画祭でマッツ・ミケルセンが男優賞を授与された『偽りなき者』は、前評判以上の賞賛の声があちこちから聞こえてきて、個人的に敬愛する映画監督のなかでも日本初公開作(『セレブレーション』)から監督作をリアルタイムで観て来られている貴重な映画作家の一人であるトマス・ヴィンターベアの新作だけに、硬直レベルの期待で観賞計画が過剰に慎重吟味だったここ数週間。遂に観た。しかも、満を持しただけの環境で。

作品に関しては、そう容易く口を開くことを許さないほどの多層な含意にただただ翻弄され圧倒される。(比較対象が誤ってる気がしないでもないが)ハネケやトリアーが「悪意」の病巣に分け入るのとは異なって、あくまでも善意と善良がもつ副作用とは名ばかりの「正」作用について正面から凝視する。しかも、そこに「悪戯」などという言い訳めいた作劇の妙を仕掛けたりしない真摯さに、トマス・ヴィンターベアにとってのドグマ95が単なる実験でも示威でもなく、通過点よりも終着点として標榜していたのだろうと改めて思えてくる。

Bunkamuraル・シネマでの公開と同時に上映開始となったのが109シネマズ川崎。施設的にも客層的にも大の苦手なル・シネマで上映される作品を、(同じ東急系だからか)上映するシネコンとして重宝してきた109シネマズ川崎。大抵そういった作品を上映する際は小さめの箱で、上映回数も限定的に公開されることが多い。ただ、そういった扱いだけに、1回のみの上映になった際に大きめの劇場で上映されることになったりも。とりわけ、学校などが長期休暇になる時期は、子供向け映画の上映が夜にない分、大箱で上映という好機に巡りあう確率も上がったりする。そして、今、109シネマズ川崎では、夜1回の上映ながら、定員246名の大きめ劇場(IMAXを除くと2番目に大きいシアター)で上映されている。ただ、上映開始は21時50分。そして、終映は23時55分。

さすがに、そんな上映時間の設定もあってか、私が観たとき(平日)の観客は全部で4人。作品が作品なだけに、その閑散さが醸す空気、はりつめた静寂、そして大劇場で観ている違和感が不思議と映えに変わりゆき、シネスコ作品であることもあって、作品から強要される苦悶の壮大さも増幅の一途で身を屈めてた。やはり、作品との出会いの場をコーディネートすることもまた、自分にとっては重要な観賞の一部なのだと再確認。

109シネマズ川崎では来週も同じ「シアター1」で上映予定。しかも、今度は20:00上映開始なので終映も22:05。これならば健全な映画ファンでも、お勤め帰りに(&翌日お勤めでも)観られるお時間。

ちなみに、私はその日、『偽りなき者』観賞前に川崎でもう1本映画を観た。それが、『パラノーマン ブライス・ホローの謎』。こちらは、TOHOシネマズ川崎のシアター7(240名)に観客が全部で5名。(ちなみに、この日観た2本の観客合計9名はいずれも1人客だった。)評判通りの素晴らしい出来映えだったが、確かに閑古鳥が鳴いている。日本における映画興行に忸怩たる思いを禁じ得ぬ口惜しさを噛み締める。『シュガーラッシュ』が好調なだけに(こちらも実に巧く、面白い映画だと感心しきりではあったけど)、こちらのヤッツケ公開感が際立ちもして、育てる気のないところに花は咲かぬのだなと痛感したり。

3D観賞の価値に懐疑的になりつつある観客も増え、そうした一般的傾向は私自身にもあてはまるものながら、それでも可能性はまだまだあると思えるし、可能性を見事に活かした作品に出会った時の感動はやはり唯一無二な(3Dならではの)もの。そして、私が3Dで観ることに惹かれるのは明らかに実写よりもアニメであり、更には絵によるアニメよりも断然、物によるストップ・モーション・アニメ!『コララインとボタンの魔女』を観た際にも覚えた3D最適感。動きにおける立体感で愉しませようとする実写に比べれば、明らかに瞬発的な躍動感に欠けるかもしれないが、さすがは「ストップ」と「モーション」で動きをつくっているだけに、連続する存在ひとつひとつにじっくりとその質量を噛み締めることができるのだ。更に、どんなにCG技術が発展しようとも、物質として存在するモノが放つ実在感には勝てない。とにかく、ストップ・モーション・アニメにおける「在る(有る)」感の幸せを正しく拡張してくれる技術、それが3D。だからもう、そうした画を眺めているだけでもう幸福なのだ。そんな童心還りの享楽中、精緻なパズルも巧緻なウィットも必要ない。そこには、ただただ純朴に失敗した人間と、後悔する人間、期待をあきらめない人間と通うことを願う人間が、ただただ活きていれば好い。そこから生まれる苦しみを、そこから得られる喜びを、整理なんかせず、ただただ語ってくれれば好い。

ピクサーはじめ最近の高品質アニメを大人が観賞する際に浴びる「示唆」のシャワーに比べれば、『パラノーマン』のそれは実に恬淡として、インパクトもコンパクト。しかし、こんなにも大上段が見当たらず、登場人物たちと同じ地平で語ろうとする作り手たちの声がゆるやかながらも着実にしみ入ってくる「物語」はなかなか無い。

ジョン・ブライオンによるスコアの一貫した愛らしさは、人間の醜より美に想いを馳せ続けようとする作品の精神を見事に体現し続ける。作品を素敵にコーディネートする80年代風シンセ・スコアの上質な安っぽさも新鮮だが、儚き郷愁の永続を謳う彼ならではの旋律は、春夜の胸騒ぎにより沁みる。

来週の上映スケジュールではどこでも回数激減な『パラノーマン』。TOHOシネマズ川崎でも1回のみの上映だが、19:30開映。こちらも仕事帰りでも頑張れば・・・。しかも、来週もそこそこなサイズ(240名定員)のシアター6。

『パラノーマン』で望外の幸福がしみ渡ってしまったが故に、この後に『偽りなき者』を観るのか・・・という些かの戸惑いもあったのだが、続けて観ると、期せずして同様のテーマが通い合ったりも。「不可知な(異形なる)者」への恐怖から来る暴力とそれらがもたらす排除の現実。アプローチも異なれば、眼差しも語りも異なる2作であるが故に、その2本の糸(意図)はより複雑に、だからこそより自由に、結んでみたり解いたり。何から何まで贅沢な、二つの映画体験を味わった夜。

ちなみに、私は川崎には映画以外に大した縁故もございません・・・。交通費は往復1,000円以上かかるしね。それでも、足を運ばざるを得ない、都心のミニミニシアターでは叶わぬ何かがあるシネコン・ターミナル。

2013年4月2日火曜日

エメランスの扉

WOWOWでは最近劇場未公開作の放映にも注力しているのですが、「W座からの招待状」枠で放映される劇場未公開作を全国各地のミニシアターで限定的に劇場公開するという「旅するW座」なる企画を昨秋より始めています。その1作目がクリストフ・オノレ監督の最新作『愛のあしあと(Les bien-aimés)』だったりという、映画ファンにとって垂涎企画としてスタート。その第2弾として上映&放映されたのが『エメランスの扉』。ハンガリーとドイツの共同制作で、本国でも一年ほど前に公開された新作が早くも観られるというプレミア感も嬉しい。

(WOWOWのサイトより)

《解説》
アカデミー外国語映画賞に輝く「メフィスト」や「ミーティング・ヴィーナス」「太陽の雫」などのサボー監督が、2012年に発表したばかりの最新作。ミレンが演じる、悲しい過去を持って心の扉を閉ざした家政婦エメランスと、彼女を雇った小説家マグダ(原作者マグダ・サボーがモデルらしい)が織りなす、交流と友情の物語。サボー監督のもと、ミレンは複雑なエメランスの役を魅力的に熱演。歴史的背景もヨーロッパ作品ならではの深みがある。共演は「マーサの幸せレシピ」「善き人のためのソナタ」のM・ゲデック。

《あらすじ》
1960年代、ブダペスト。女性作家マグダは夫ティボルと引っ越した先の近所に住む老婦人エメランスを家政婦として雇う。エメランスは奇行が多く、何より20年以上も自宅のドアの中に誰も入れてこなかったという変わり者だが、優れた仕事ぶりと正直な性格をマグダは気に入る。ある日、エメランスはマグダにだけ、自分の複雑な過去を明かす。しかしそれだけがエメランスが自宅に誰も入れない理由ではなく、他にもある秘密が……。



監督のイシュトヴァン・サボー(István Szabó)は、『メフィスト』でアカデミー外国語映画賞、『連隊長レドル』ではカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞するなど、キャリア・評価共にハンガリーを代表する映画作家の一人。(『カサブランカ』でアカデミー賞監督賞を受賞したマイケル・カーティスに次ぐ二人目のハンガリー出身のオスカー受賞者らしい。)

私が映画を見始めた頃(だったかな)にも、彼の監督作『太陽の雫』が劇場公開されていた記憶があります。今はなきシネ・ラ・セット(HTC有楽町の入っているビルの場所にあったと記憶)での上映だった気がします。地味な作品ながらも日本で劇場公開されたのもイシュトヴァン・サボーの実績によるものだったのかな、などと今更ながら気づいてみたり。

1991年の『ミーティング・ヴィーナス(Meeting Venus)』(ヴェネツィア・コンペ出品)の制作には日本も参加していた(IMDbには「フジサンケイ・コミュニケーション・インターナショナル」とある)が、ステラン・スカルスガルドがヴィルヘルム・フルトヴェングラー(20世紀を代表する指揮者)を演じた「Takeing Sides」(共演は、ハーヴェイ・カイテル、モーリッツ・ブライブトロイ等)は日本未公開のようで残念。2004年の『華麗なる恋の舞台で(Being Julia)は、アネット・ベニングがアカデミー賞で主演女優賞にノミネートされたこともあってか、日本でも劇場公開。原作は、サマセット・モームの『劇場』。モームは医者であり作家であり、そしてスパイでもありました。MI6に所属して諜報活動を行っていたこともあるという。イシュトヴァン・サボーのプロフィールにも裏の顔がのぞいていたりして、事実はよく解さぬものの、そういった事実(があったのかもしれぬという想像)に想いを馳せて本作を見始めると、本作のタイトル(原題)「The Door」や鍵を握る「秘密」「信条」「信仰」などといったテーマが、不明瞭ながらもむしろその曖昧さに漠なる重みを感じ始めたりするものです。

原作はハンガリーを代表する女性作家マグダ・サボーによる同名小説。彼女の人生もまた、社会と個人の関係について洞察を促される壮絶なもの。おそらく主人公のマグダと家政婦のエメランスの双方に、自らの人格や思想の二面性をそれぞれ担わせたのだろうかなどと思えもします。

タイトルからすると、扉の向こうに真実めいたものへと結びつく「何か」が待ち受けているのだろうと想像しますが、そうしたミステリーに関する演出は意外にもあっさりとしています。いや、むしろ謎が「解けた」という感覚がないまま幕を下ろされる気さえするのです。「明かされた」後もまた、それがすべて明らかなことであるのかさえ覚束ない。それはおそらく、その「事実」を主人公マグダが自分の中でどう受けとめるべきかに逡巡し続けているからだろうと思います。そして、それは彼女自身わからぬまま、そして観客自身も宙づりのまま、時間は無情に流れ事態は変わる。個人の葛藤などに社会が興味を示さぬように。しかし、エメランスという私人に惹かれてやまぬ詩人こそがマグダであり、隣人の面々。『オーケストラ!(Le concert)』で描かれた「共産主義の光と影」が本作にも見え隠れしているように思われます。あちらほど前面には出ていませんが、コミュニズムにしろナチズムにしろ、政治思想として集団によって利用される「主義」には常に排外的な結末が待ち受け、しかし個人の信条として胸に抱く信仰や思想は常に受容への模索を止められない。

扉は閉ざすにしろ、開けるにしろ、そこには責任と覚悟が必要です。勇気などという臆病へのエクスキューズは単なる痛み止めに過ぎません。閉ざすなら閉ざすなりに、隠すことへの信条が必要となるでしょう。開けるなら開けた後への責任(そしてそれは二度と「閉める」ことを許されぬ恒久的なものであるという覚悟)が主体に課せられていることを自認し続けねばならぬのではないでしょうか。窓の開閉が単なる眺めの獲得に留まるのに対し、扉の開閉には侵略と支配の誘惑がつきまとうものなのですから。

2013年4月1日月曜日

三度目の「Bonjour!」

 今日から4月。新年度。暦の上でも、実際の天候的にも、春は到来してはいたものの、半分冬眠気味に愚図っていた自分に突きつけられる出発の日。しかし、4月1日という響きは、1月1日とはどこか違った期待と不安が、まさに「蠢く」ようにときめきを連れて来る気がします。

 4月に向けての心構えや迎え方、4月の始め方も人それぞれと思います。自分の今が好きになれずに離れる(遠ざける)ことばかりにひたすら執心していた思春期には、とにかく自分を大きく変革する好機のような気がしてました。学校に通っている頃であれば、クラス替えや授業が変わり、周囲の環境の変化を口実に自らのキャラクターを造形し直すことが可能な気がしたからです。そうした変身願望は、年齢を重ねると共に薄れはしたものの、いまだに何処かにくすぶっているものです。おそらく、そうした「薄れ」にしても、自分が抱えている今(つまり、過去に根をもち、そこから自然に育った結果)からは所詮離れることなど出来ぬという現実への諦念がもたらした作用に過ぎないのかもしれません。

 そんな変身願望の、ささやかな現実的(実利的?)抵抗として、自分のなかで新年度恒例の試みがあります。それは、新しい言語習得を夢見ることです。4月開講のラジオ講座なりテレビ講座なりのテキストを数冊、購入するのです。ただ、数ヶ月と続いた試しはありません。テキスト購入のみで、一度も聴かずに終わることも珍しくないのが実際です。しかし、例外なく「今年こそは」という(自分なりの)強い決意が時折瞬発的に燃え上がりつつ4月を迎える、ここ数年。

 当然、今年も「今年こそは」な始まりを迎えた訳です。今年はフランス語とイタリア語をかじってみたいと思っています。フランス語を学ぼうとするのは三度目です。大学時代に「第三外国語」として履修登録しましたが、途中で出席しなくなってしまいました。映画に興味をもつ前の話で、フランス映画など数本観たか観ないか程度の頃。私の通っている大学では、文系学部の学生であるにも関わらず理系科目の必修枠があり、その代替科目として第二外国語の応用科目か第三外国語の科目を履修することが認められていた為に、その為だけに履修をしたのですが、他に多数登録していた(当時、登録は無制限)「保険」の科目で容易く目処がたってしまった為に「切る」という実につまらないdie学生的発想に堕してしまったものでした。

 そして、数年前。折角、英語圏以外の映画もしばしば観たりするのだから、少しくらいその言語がわかったら、観賞における体験はより豊かなものになるのではないだろうか。などという実に聞こえの好い大義名分を掲げつつ、フランス語のラジオ講座を聴き始めてみたものの、習慣は定着しないまま、梅雨入りを待たずにテキスト購入すらしない状況に。ラジオで聴く(つまり、リアルタイムで追いかける)ことが困難だった為、Web上で一週遅れでアップされるものを聴くようにしていたのですが、そうするとそれが更新される直前に一週間分まとめて聴くという、中高一貫一夜漬け体質をなぞるような学習しかできぬ情けなさ。そして、それも、一箇所でもできた綻び(完遂できずに生じた部分)を理由に「潔く」退却するという我が旧弊で幕を閉じる結果になったのです。

 今年。NHKラジオはネットでも聴くことができるようになりました。いわゆる「radiko」のようなものです。自宅に居ずとも、ラジオを携帯しておらずとも、聴くことが出来るようになったのです。そして、それはより「リアルタイムで聴く」ことを可能にしてくれる気がします。「毎日」ということこそが大切なのだと(頭では)わかっている自分にとって(講座のタイトルも「まいにち〇〇語」ですし)、それを心にしみる程度まで習慣化してみたいという長年の悲願をいよいよ叶える時が来たように思います。しかし、メディアやツールの利便性向上が必ずしも人間のキャパシティ拡張に直結するとは限らないというのは現実(いや、真実、いや、当然)で、制限の解除は強制力の除去として、より強い主体性が求められる状況を生むことでしょう。だからこそ、より強い決意とより定着させた習慣を保持し続けぬ限り、完遂などいよいよ夢の又夢の話になるような気もしています。

 現に初日から朝の放送を聞き逃し(というより起床できぬという為体)、再放送に何とか「飛び乗る」という有様。身体にしみついた夜型体質を朝型に変えるという悲願成就も、実はこのプロジェクトに託されている以上、何としても降りられない。降りたくない。

 調子に乗ってイタリア語講座(まいにちイタリア語)も聴こうと思っていたのですが、期せずして個人的興味鷲掴みの内容が「応用編(木・金曜)」に。イタリア映画祭などでもお馴染みの岡本太郎氏が講師を務める「スクリーンが映し出すイタリアの現在」。今月取りあげる映画は、『ブルーノのしあわせガイド』、『ゴモラ』、『海と大陸』、『ある海辺の詩人-小さなヴェニスで-』の4本。『ゴモラ』以外は昨年のイタリア映画祭で上映され、いずれも現在公開中(あるいは、もうすぐ公開される)作品。私は既に4本とも観賞済みですが、いずれもがイタリア文化の特色をそれぞれ見事に浮き彫りにしている作品で、とりわけ『ゴモラ』と『海と大陸』は個人的にもかなり思い入れの強い作品。この応用編を存分に享受するためだけにでも、「入門編(月曜~水曜)」を真面目に聞き続けたいと思います。好きこそものの上手なれ。