2014年12月30日火曜日

2014年のベスト20-

昨年は年間ベストを、順位をつけず、本数の縛りも儲けず、挙げて絞って残った十数本(なので、「ベスト10+(プラス)」と題した)を列挙した。今年も同じ方式でやったら十数本というより二十数本になりそうだったので、ちょっとストイック(か?)になって20本弱にした。よって、今年はベスト20-(マイナス)。2014年に劇場で観た、新作(一応、一般的な劇場公開が初なら新作扱い)を対象に。(ちなみに、今年の劇場公開作でも、昨年観たものは昨年の方に入れてあります。)

まずは、タイトル列挙。観た順。


湖の見知らぬ男 (第17回カイエ・デュ・シネマ週間)

LIFE!

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (イタリア映画祭2014)

グレート・ビューティー/追憶のローマ (イタリア映画祭2014)

プリズナーズ

ウィズネイルと僕

インサイド・ルーウィン・デイヴィス

彼の見つめる先に (SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2014)

ムーンライティング

ジャージー・ボーイズ

ジェラシー

金の鳥籠 (第9回UNHCR難民映画)

ツーリスト (第27回東京国際映画祭)

ワイルド・ライフ (第27回東京国際映画祭)

Living is easy with eyes closed (第11回ラテンビート映画祭)

6才のボクが、大人になるまで。

マップ・トゥ・ザ・スターズ (第15回東京フィルメックス)

ゴーン・ガール

ヴェラの祈り


以下、短評というか寸感。
というより、作品内容そっちのけの単なる思い出のアルバムです。


湖の見知らぬ男 (2013/アラン・ギロディー)
今年のシネマライフは、アンスティチュ・フランセ東京通いから始まった。
実は、本作も上映された「第17回カイエ・デュ・シネマ週間」では、新作よりも「ジャン・グレミヨン特集」が面白く、数本は観られなかったものの、(スニークプレビュー含め)多くのグレミヨン作品を観ることができたことは今年の映画体験における「事件」級。その一本一本が異彩ながらも、どこか通底するグレミヨン的な映画の興奮は、年始という時期に自分なりの映画とのつきあいを原初に還す「詣」な時間。おかげで、しばらく新作映画への興味が減退してしまったのも事実。
そんな中で観る映画においてエキサイトするには当然、普遍的な「新しさ」がスクリーンに充満していなければならない訳で、この人この映画は、それ以外の何ものでもなかった結果。

LIFE! (2013/ベン・スティラー)
きっと今年の拡大系公開作では図抜けて多くの映画好きから愛されてそうな、或る意味異形作。実はかなり正面からジャーナリスティックだったり形而上的なテーマをつきつけてくる衒いの無さは、グレミヨン後遺症的な消極的映画離れに陥っていた自分を、いくらかばかりか健全化させてくれた気もする、ちょっとだけ記念碑。ショーン・ペンが出てくるシーンの、映っている光景、交わされる言葉、そのすべてが今春身の上に起こったささやかな惜別による寂寥を、「くすみ」から「きらめき」へと転化してくれた、人生のミラクル。

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (2013/ジャンフランコ・ロージ)
優れたドキュメンタリーは劇より劇的で、優れたドラマは至ってドキュメンタリー。そして、軸足はどちらの地盤も離れ、もはや壊さず上から眺めるジャンルの「壁」。すべての自然は人為(作為)を内包し、すべての人為も自然から生まれる。今年の私的テーマ(今年最もはまった書物は、『種の起源』)へつながる起点がここにあったかも。

グレート・ビューティー/追憶のローマ (2013/パオロ・ソレンティーノ)
過去とは、服従するまでもなく従わねばならず、支配するまでもなく掌握せずにはいられない。逃れたり手放せればどれだけ楽か。往かず還らず、乗り越えない。朝が来るという事実、河は流れるという現実、とりあえず人生は続くという切実。イタリア映画は芸術を生活(人生)から切り離さずに語るという信頼。『レクイエム・フォー・ドリーム』で背筋を冷ややかになでたクロノス・クァルテットの弦が、十数年後には優しく頬をなぜてくれるという軌跡。追憶の浪漫。

プリズナーズ (2013/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、作家として惹かれるって印象は持てないけれど、一作一作惹かれはする不思議な監督。『複製された男』は、『渦』のごとく執拗(不必要)なこだわりにまみれた小品的仕上がりが好みではあったものの、ジョゼ・サラマーゴの原作が個人的に面白すぎた弊害として(読後直後に観たものだから)印象が薄くなってしまった不幸。しかし、本作は匠が集結し、その各々がけっして打ち消し合わぬ理想的なコラボの教科書。ヨハン・ヨハンソンの音楽、ロジャー・ディーキンスの画、ジョエル・コックスとゲイリー・ローチによるつなぎ。究極の分業、総合の愉しみ。

ウィズネイルと僕 (1987/ブルース・ロビンソン)
今年の悲しい出来事のひとつ、吉祥寺バウスシアターの閉館。電車に乗らずに通ってた唯一の映画館、消失。レイトで観ることが多かったから、ゆったりとした映画時間にくるまれたまま、てくてく歩いたり、自転車で風を感じたり、雑踏経ず余韻にひたったまま帰宅。そうした場所が、そうした場所然とした空気を醸したまま閉じた。悲しかったり寂しかったりするけれど、一方で最後まで「僕の知ってる」場所のままだった証左としての『ウィズネイルと僕』。時代への最大かつ最上の抵抗とは「無視」であり、壮大な雄弁とは「沈黙」なんだろう。矜持で降ろされた幕は、その場にとっても、場を愛する者にとっても、憂愁をつきぬける有終の美。
終盤には満席も続く盛況ぶりのようだったけど、僕が見た五月半ばの平日昼下がりは、場内も場外も本作を観るためにあるかのような貌してた。勝手にそう思えてしまっただけかもしれないけれど、そんなどこまでも「自分にひきつけて見回してしまう」ことが許される場所でもあった。
5月末から6月にかけて大きく体調を崩してしまったり仕事がたてこんだこともあり、ラストの爆音映画祭はチケットの多くを無駄にしてしまったけど、本作をバウスで、フィルムで、シアター1で、観られたことは悔いのない卒業式になりました。

インサイド・ルーウィン・デイヴィス (2013/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
今年、最も観賞本数が少なかった6月。『グランド・ブダペスト・ホテル』と本作を観られたから「いいや」になったのかとも思えるほど、本作の「満たしてくれた」度合いは本当に縦横無尽。しかも、全身を駆け巡る的ではなく、いつまでも体内をたゆたいつづける瑕のよに。
私が映画を見はじめた頃、コーエン兄弟は既にステータス的存在のシンボルだったけど、個人的には素直にハマることもなく、口だけで「好いよね」と強がっていた。だから、ほろ苦くても甘酸っぱさとは無縁な存在で、ずっと門外漢な場違い意識をひきずり新作にかけつけていたという史(私)実。けど、前作『トゥルー・グリット』ではストレートに自分に届き、本作では完全に身を任せ。互いに一周して、互いに年とって。ずっと待ってた場所に辿り着いた、そんな風に思える映画。
ボブ・ディラン、カポーティを歌う。オン・ザ・ストリート。片隅から片隅へ。爪弾くたびに始まる世界。

彼の見つめる先に (2014/ダニエル・ヒベイロ)
今年も通ったSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。コンペ12作品のうち10本を観た。例年通り(いや、「増して」かも)充実のラインナップだったし、私の嫌いな映画祭臭とは無縁でピースフルに映画と向き合える場なのも変わらずで。グランプリの『約束のマッターホルン』もベスト級に素晴らしい必見作だったけど(公開決まらないかな・・・うまく宣伝すればなかなかなポテンシャルある作品だと思う)、個人的にあえて1本に絞ると本作かな。
今年のIDCFはなぜか、「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」延長戦というか番外編というか、そうした要素が前面・後景・潜在している多様な作品群が並んでた。ただ、そのどれもが、渋谷や青山の喧噪や緊迫のなかで観るよりも、川口でまったりと観る方がしっくりくる面々。映画を観ることが半ば義務化というか日常化し過ぎてしまったウォッチャー(含む自分)たちの集いでは生まれ得ない、映画のなかの物語と誠実に向き合う、まっすぐと直接向き合う観客が醸す包容力。監視でも看視でもない、あたたかい環視。注視の共有。でも、どうみるかを導こうとする〈気〉は漂わず。映画を観るという体験には、やはり場所は重要だ。そして、場所のもつ力が作用する映画体験を、僕はやっぱり信じてる。

ムーンライティング (1982/イエジー・スコリモフスキ)
まさに「隠れた名作」といった存在で、きっと関係各所じゃ既に発掘済みなのだろうけど、こうして広く目に触れる形で公開の運びとなったのも、近年のポーランド映画祭大盛況の賜物だろう。でも、晩秋のイメフォとは大違いで、今夏のシネマート新宿はそれほどの熱狂が立ち籠めてはいなかった気も。その分、フリパ乞食でごった返すイメフォとは違った、一作入魂な観客にきちんと愛されてたスコリモフスキの旧作群。どれも好きだったけど、やっぱり本作は新鮮と納得と意外と意中の厳かな弁証法。だけど、ぜったい止揚はしない。みたいな、心地好い寸止め寸劇、砂上の楼閣。真剣勝負ほど痛く美しいものはない。

ジャージーボーイズ (2014/クリント・イーストウッド)
本作を観る前の月(8月)、丸の内ルーブルの「さよなら興行」で『マディソン郡の橋』を初めて観た。大きめの劇場、しかもフィルム、おまけに観客まばらな平日昼下がり。昼メロ的なイメージをもった我が稚拙な先入見を猛省。映画を知り尽くし、知り尽くせぬ映画の魅力を弁えたイーストウッドの巧みが隈無く遍在。
新作でもそれは健在かつ更新。というよりイーストウッド、方向とか決めない最強さ。テンポやリズム、語りや騙り、そのすべてが風まかせ。よほどの確信と自信がなきゃ出来ない歩み。決して走らぬ、豊かな歩み。テンポを落とすほどに滑らかにすべってゆく不思議。多幸とか書きたくない、量化しない幸福の時間。
余談ながら(といっても、さっきから余談がメイン)、本作を私が観たのは郊外シネコンの400席弱の大箱ながら、なんと観客は私一人。ゆえに、歌い踊りながらの観賞となった(嘘)。申し訳なさや或る種の残念さはありつつも、本作を貸切の大劇場で観られるなどという有り難い体験は、今年の映画生活の一大事。

ジェラシー (2013/フィリップ・ガレル)
ガレルの新作を、映画館で見せてくれる人々に感謝。(イメフォ苦手な自分としては、できればそろそろイメージフォーラム以外でも観たいけど。)
ガレルは、頭使って映画観るようになる(今でもたいして使えてない上に、最近は使わないのが善的な姿勢になりつつあるけど)以前から、何故か相性が好いというか、自然に好きという。いわゆるヌーヴェルヴァーグな作品群とかは、油断してたら「わかんなぁーい」とか「あぁ、眠った眠った」とか言っちゃいそうな自分でも、なぜかガレルは面白がれる。
きっと、語るべき苦しみを描けるのが巨匠なのだろうけど、苦しみから語る作家にこそ寄り添いたい自分の性がそうさせる。

金の鳥籠 (2013/ディエゴ・ケマダ=ディエス) 
毎年のことながら、10月11月における映画祭シーズンは時間のやりくりやスケジュール調整が難儀というか面倒で、ともすると丸投げしたくなる頻度が年々上昇。前売券を購入するタイプはまだ強制力が(自分に)働くからいいものの、そうでない場合は休日に(もしくは、仕事上がりに)わざわざ出かけてゆかねばならぬ大儀を厭わずにはいられぬ我が性情。しかし、そんな無精な自分でも、他では味わえぬ感銘を受けて就く帰路に、やっぱり出向いてよかった肯定感。それが、次なる億劫との対決を生む・・・。(って、年とるごとに映画観に行くのが面倒になっているというただの報告なのですが。)
というわけで、今年の難民映画祭では本作一本のみ観賞。主要人物の年齢が下がる分、『闇の列車、光の旅』(かなり好き)が更に「愚直」になったかのような本作。自分に嘘つく余裕がある者は一人もいない。でも、だからこそ、そこで暴れる排除の力も、そこに立ち現れる不意の温情も、すべてがすべて、迫真ならぬ真の味。世界は語られるべき物語と、語らずにはいられない者たちであふれてる。

ツーリスト (2014/リューベン・オストルンド) Force Majeure
今年も東京国際映画祭では20本ほど映画を観たが、個人的に図抜けた傑作といった出会いがなかった半面、どれもが見応えを感じる充実した一週間だった。
本作は、個人的な好みからすればやや外れる要素を随所に感じつつも、それでいて実は観ながら心のど真ん中を何度も突かれた望外強度。傑作と呼ぶに値する力強さが確実にある。いろいろと語り尽くしたい一作でもある。テーマと手法と美学が、幸福な渾然一体を見せている。
来年、劇場公開もされるとか。

ワイルド・ライフ (2014/セドリック・カーン)
セドリック・カーンはそんなに好きな作家ではなかったのだけれど、前作(『よりよき人生』)が意外にも個人的に気に入って、その方向性と重なるように本作ではダルデンヌ兄弟がプロデューサー。主演がマチュー・カソヴィッツだったり、撮影がブリュノ・デュモン作品でおなじみのイヴ・カペだったりと、実は好きな要素がつまっていた本作。そんなことも意識にないまま、時間を埋めるように選んだ一作だっただけに、マイハート鷲掴みの不意打ちは同日その後の観賞に支障を来しまくった。
パコ(マチュー・カソヴィッツ)の二人の息子のうち、弟の方(の青年期)を演じる役者の顔に見おぼえがあり、観ながらずっと気になっていたら、ロマン・グーピル監督作『ハンズ・アップ!』に出ていた少年であることが後から判明。グーピルの新作がコンペに入った今年のTIFFでは、もう一つの『ハンズ・アップ!』な再会が待っていた。
ということからも、キャストの魅力は歴然ながら、やっぱりセドリック・カーンの新たな地平をダルデンヌ兄弟がサポートした本作は、その双方が欲する相手を得たような作品。何らかの形で再会の機会を与えて欲しい貴重な秀作。

Living Is Easy with Eyes Closed (2013/ダビド・トルエバ)
今年最も泣いた映画。でも、おそらく、本作のなかでは誰も(実際に涙をみせて)泣いてはいない。という記憶(間違ってるかも)。観客は皆、とめどなく涙があふれていただろうけど、何故だかそれはどこまでも静かに流れ、場内を終始埋め尽くす静謐。そんな事実こそが、本作が誘う涙の特別を、顕著に語っているだろう
ラテンビート映画祭でたまにある、本拠地(新宿バルト9)で上映がないタイプの本作を、横浜ブルク13まで足をのばして観に行った。以前も、ラテンビート遠征を敢行したことはあったけど、明らかに新宿よりも好い雰囲気で観られて満足だった記憶、今年も上書き。
映画自体がもつ滋味が場内に伝播したこともあるだろうけど、年間最優秀場内賞と言いたいくらい、言葉にならない(勿論、音なんかを通して伝わることなんかはないんだけれど)映画につつまれ映画をつつむ優しいまなざしが交錯しあう至福の劇場体験だった。
ラテンビートのチラシに「提供:松竹メディア事業部」とあるので、またきっとどこかで観られる機会もあるかと思うけど、大切に公開されることを切に願う一作。

6才のボクが、大人になるまで。 (2014/リチャード・リンクレイター)
オープニング。コールドプレイの「イエロー」のイントロ、ギターの音。Look at the stars・・・空を見上げる少年の顔。学生時代に聴いた「イエロー」、武道館で聴いた「イエロー」、そして本作で聴く「イエロー」。そんな時の重なりだけで、既に本作でこれから重ねられてゆくであろう時の重みと飛躍に全身スタンバイ。
それこそ十年前に本作を観ていたら、情緒的な感動はさほどなかったかもな。なぜなら、本作が描く時間は長かったり重かったりする半面、実はその「短さ」にあると思うから。瞬く内に、というか、瞬く度に。光陰矢の如し。そして、実は軽重など存在しない一つ一つの出会いと別れ。フレームに留まり続けるものだけが実存を支える訳じゃなく、全過去から現在が生まれるように、すべての出会いを呼吸しながら今が在る。
メインはサブやサイドを削るけど、サブやサイドにはメインが宿る。いや、核にあるのはあらゆる些事で、それらが常に離合集散した結果。リンクレイターが得た語りの自由は、僕らに語りの自由を与えてくれた。

マップ・トゥ・ザ・スターズ (2014/デヴィッド・クローネンバーグ)
東京フィルメックスのクロージングで観たときは、何だか緊張と疲れで茫然してた。(クローネンバーグは、朝日ホールで観るもんじゃないな、と実感。でも、ガラガラのなかでまったりと観た初期作『ステレオ/均衡の遺失』『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』は実に実に興味深かった!しかも、どちらもフィルム上映!)後日、郊外シネコンのレイトショーでゆったり観賞。
本作はクローネンバーグ初のアメリカロケ作品とか。従って、今までよりも「風通し」が好いはずだし、実際に映っている画は確かに「風通し」が好い雰囲気・・・なんだけど、それがより一層不気味さを際立たせるという、不穏の神様のようなデヴィッド様。本作における最もスキャンダラスな部分が露見するに従って何故か安堵の道を往くというアンビバレントな倒錯の旅。トリック抜きのトリップ三昧。生者と死者、虚像と実像、幻影と実存・・・すべてが地続きな世界に、微塵の解放感もゆるさずに、それでいて何らの束縛もかけぬ究極並置な全面圧力。トランポリンで飛び跳ねた後の、自力のジャンプのようなエンドの星空。手に届きそうだと思っていたことの方が現実に思えて来る、覚醒。

ゴーン・ガール (2014/デヴィッド・フィンチャー)
こちらのデヴィッドも中毒度高い曲者で、しかもクローネンバーグの中毒性は反復が鮮度を増す一方、フィンチャーはもう初見から反復の只中にいるような錯覚起こすほど、反復帝国展開中。
ドラマとしての面白さの手法や手腕は彼なりの常套ながら、形而上的テーマの具現化は年々上等化している気も。ラスト、ニック(ベン・アフレック)の壁ドンならぬ壁ダン(?)には、観る者もエイミーも見事に震撼。ただし、エイミーは凍った背筋が愛おしくてたまらないという・・・。観念が肥大化した現代人の現実が、観念に支配されてゆく。去りゆくのは少女のみならず。

ヴェラの祈り (2007/アンドレイ・ズビャギンツェフ)
年の瀬にこのような作品(しかも、群!)を公開するの、やめてほしい。あと、こんだけ待たされると、鮮度が落ちるどころか一周回って強烈鮮度が炸裂するし、こんだけ公開されないと既にソフトを取り寄せちゃったりしているし!
本作は一度DVDで観始めたものの、その画力に圧倒されて、「この画をスクリーン以外で観ていいわけがない!」と思い立ち、停止ボタンを押したまま、いつか劇場で観られる日を夢に見てきた一作だけに、悲願中の悲願と呼ぶに値する本作の感傷。
作品のすべてが自らの期待にいちいち応え、凌駕し、裏切り、共振し続ける。画のみならず、音の雄弁さは単なる饒舌のみならず、世界が「言葉」にあふれていることを識る。そして、掬いきれない個人の狭窄した視界に途方に暮れる。識れば識るほど、広がる世界。
惜しむらくは、本作の画質。フィルム撮影による画力をフィルム上映で余すところなく体感したい、などという贅沢は言わないまでも(でも、言いたい!)、せめて(現況における)標準的なデジタル上映画質で観たかった。とはいえ、おそらく2007年制作となると、デジタル上映のマスターが元々存在したわけでもなかったろうし、ソフト発売もDVDだけだから、おそらくそのマスターからDCPをつくったのではないかと思われる。確かに、輸入DVDの画質は、DVDながら健闘したものだったけど、やっぱり『エレナの惑い』の画質と比べると差は歴然。(つまり、二本続けて観るなら、ヴェラの次にエレナという流れが好いかと。ま、制作年的にも、登場人物の世代的にもその順だしね。)
上映のデジタル化は、コストダウンを可能にし、それゆえにミニシアター系作品の公開本数も盛り返してきている(ズビャギンツェフ旧作公開もその恩恵のもとにある気もするが)のは事実だろうけど、作品にとっての明暗はタイミングと共に悲喜こもごもだなぁ、などと痛感したりもしたな。
とはいえ、それでも劇場で必見であるには違いない二本。『ヴェラの祈り』をフィルムで観るなどというのは叶わぬ願いだろうが、いつか『ヴェラの祈り」のちゃんとしたデジタルマスターが出来、万全の画で観られたら・・・と、夢想の更なる更新と二度目の実現に想いを馳せる。


今年は全然ブログも書けず、個人的にもしっかり記すなどあまりできていなかったこともあり、情けないほど(いつも以上に)「内容のない」感想に堕してしまったことをお詫びする。誰に?自分に。

とはいえ、やはり映画を「映画館で」観るという行為においては、その一回性に宿った記憶こそに価値があるという視点だって重要に思えてならない。というか、そう思わないと、面倒くさい劇場観賞にこだわり続けていられない(笑)

20本近くも挙げておいて、それでも「もれてしまった」と言わせてもらう映画たちは・・・

『6才のボク~』のせいで、ついつい忘れがちになってしまう『ビフォア・ミッドナイト』。前二作に比べると、自分が「通ってない」分、まだ身の丈に合ってないことが些か残念。

今年も気を吐きまくったマシューの3本。『ダラス・バイヤーズ・クラブ』、『MUD』、『インターステラー』(でも、正直、『インター~』は個人的にのれない側面も多分にあったけど、クリストファー・ノーランの気狂いっぷりは、水平化する映画界においてやっぱり重要に思えてしまう)。

『エヴァの告白』のラストシーンは目に焼きついてるし、『8月の家族たち』のラストソングはいつまでも心に鳴り響いていたものです。

これまで頭で唸ることはあっても、心が震えることがなかったアスガー・ファルハディ作品で始めて興奮、しかも終始着地を許さぬ昂揚で時間が流れた、『ある過去の行方』。

『鉄西区』で打ちのめされて以来、個人的にも重要な作家だったワン・ビンながら、正直近作は個人的にあまり素直に享受できない状況が続いてた。でも、『収容病棟』は『鉄西区』を観たときのように心をえぐられた。

『プロミスト・ランド』を観たのは、札幌の夜。ディノスシネマズ札幌のレイトショー、たった三人の観客。旅先ではあまり映画を観ないけど、今作は場所と旅の記憶と共にあることでより多くより深く語りかけられた。

『物語る私たち』の仕掛けほど、必要と誠実に満ちた仕掛けを私は知らない。(大袈裟)

東京国際映画祭は前述の通り、充実した観賞体験に溢れていたけれど、なかでも『十字架の道行き』と『白夜と配達人』は己の奥深くまで届いた重要作だった。形式への拘泥や服従が、やがて内容の遙かなる跳躍をうむ。

今年のフィルメックスは随分と粒ぞろいで、恒例の大いなるハズレとは無縁でちょっと寂しかったけど(笑)、なかでも最後に観た『プレジデント』は、「荒削りのよさ」を踏みにじる重厚さが胸にいつまでも残る名作の風格に魅せられた。おかげでコンペで観た良作の数々(『生きる』『ディーブ』『数立方メートルの愛』等)が霞んでしまったほどだったりもして。

フィルメックスの勢い(というか、余力?)で参加したフィンランド映画祭。期待値すら設定していなかったが為か、不意をつかれた好みの一作『コンクリートナイト』。色彩豊かな表現力に充ちたモノクロ的映像美に、女流作家と女流監督による少年期の揺らぎは新鮮な違和感を持続させ、いつまでも見終わらないような世界が展開されていた。

『自由が丘で』は、来年見直します。寝不足と疲労と昼下がりで、幾度も微睡みながら観てしまった初見ゆえ。でも、その微睡みと作品の佇まいが見事に融け合って、第三の作品が生まれたかのような夢現な体験は、特筆に値する・・・自己正当化(笑)


我ながら上記のベスト選出を眺めてみると、偏りや固まりが年々強まってるなぁ、と。
でも、まぁ、それも年を取ることの弊害であり、特権であり、ひとつの知恵かとも。

ただ、気づくのは、日本映画はもとよりアジア映画さえ1本もないということ。
これは、今年、それらに接する機会が少なかったことも影響しているとは思うけど、接することが少ないという事実自体、気持ち的に遠ざかりつつあるという気がしなくもない。

日本映画で好かったのは、『ホームレス理事長』『0.5ミリ』『紙の月』くらいかな。
いやぁ、本当に日本映画観てないのかな、今年。

アジア映画だと、『ドラッグ・ウォー』『昔のはじまり』『メルボルン』『TATSUMI』『西遊』『西遊記』かな。アジア映画は明らかに見逃した良作が多かった気がする。特に韓国映画。

大作系やアクション映画も変わらず好物なんだけど、こういう場で名を出す気分ではなくなりつつある保守化する老いる自我(笑)『ハンガー・ゲーム2』は、シリーズまるごと大好き宣言したくなる素晴らしさだったし、『ラッシュ/プライドと友情』だって興奮の坩堝。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の完成度は期せずしてゆえ受け止めきれなかった気がするし、評判悪かった『トランセンデンス』だってあれこれ考えながら楽しんだ。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』とか『イントゥ・ザ・ストーム』とかの一気呵成は劇場で味わってこそ。『GODZILLA』や『トランスフォーマー/ロスト・エイジ』はちゃんと初日に駆けつけて、IMAXでも再見しましたよ。ただね、今の自分にとって「大きな映画」はどうやらサイドな気分。

触れられなかった映画祭、イメージフォーラム・フェスティバル。今年も私的に充実観賞の連続で、『マナカマナ』『闇を呪う呪文』『ハレー』いずれも全く違うアプローチで全く違う琴線に触れまくり。

旧作を積極的に観ようとしないシネフィル失格な僕ですが、マルコ・ベロッキオ特集は嬉しくて仕方なく、未見だった『エンリコ四世』と『肉体の悪魔』はどちらも最高で、だからこそ『エンリコ四世』の残念すぎるVHS並の画質が悔やまれる。

春にはハル・ハートリー、夏にはダニエル・シュミットにベルイマン、秋にはジョン・フォード。
異才、奇才、名匠、巨匠。初めてだろうが再会だろうが、確実に邂逅がいつでも待ち受けるレトロスペクティヴ。そういえば、今年はビートニク映画祭なる素敵な企画もあった。オーディトリウム渋谷はなくなったけど。ロバート・フランクが撮った映画を二本(『チャパクア』『キャンディ・マウンテン』)を映画館で観られるなんて。『キャンディ・マウンテン』、本当に好きだった。


今年も本当にいろんな映画と出会えた一方で、映画をとりまく環境には今年も色んな「さよなら」つきまとい・・・。新宿ミラノもあと一日か。ミラノ1の大劇場も好きだったけど、シネマスクエアとうきゅうでは濃厚な出会いが幾度もあったっけ。ひとつの文化が消えるときっていうのは、消える運命ゆえに散り際もそれほど華々しくはないんだね。(と言いつつも、ここ数日の歌舞伎町は賑わっているのだろうが。)その一方で来年にはTOHOシネマズが新宿にもできて、恵比寿にはガーデンシネマが復活。容易く映画文化リバイバルになるとは思えないけど、このサバイバルは見守り続けよう。正直、映画から離れたがってる自分もいなくはないんだが(というより、別の方に興味の矛先がいきがち昨今)、産業的な「映画」が分岐点に来ているように、自分なりの「映画生活」もより自由に柔軟に見直してはしなやかに付き合っていきたいと思っています。そんななか、ブログをもうすこし身近にできれば好いんだけど・・・。

※旧ブログは移転しました(単純に移しただけです)。URLは以下の通り。
    http://blog.goo.ne.jp/imaginary_possibilities