2014年12月30日火曜日

2014年のベスト20-

昨年は年間ベストを、順位をつけず、本数の縛りも儲けず、挙げて絞って残った十数本(なので、「ベスト10+(プラス)」と題した)を列挙した。今年も同じ方式でやったら十数本というより二十数本になりそうだったので、ちょっとストイック(か?)になって20本弱にした。よって、今年はベスト20-(マイナス)。2014年に劇場で観た、新作(一応、一般的な劇場公開が初なら新作扱い)を対象に。(ちなみに、今年の劇場公開作でも、昨年観たものは昨年の方に入れてあります。)

まずは、タイトル列挙。観た順。


湖の見知らぬ男 (第17回カイエ・デュ・シネマ週間)

LIFE!

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (イタリア映画祭2014)

グレート・ビューティー/追憶のローマ (イタリア映画祭2014)

プリズナーズ

ウィズネイルと僕

インサイド・ルーウィン・デイヴィス

彼の見つめる先に (SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2014)

ムーンライティング

ジャージー・ボーイズ

ジェラシー

金の鳥籠 (第9回UNHCR難民映画)

ツーリスト (第27回東京国際映画祭)

ワイルド・ライフ (第27回東京国際映画祭)

Living is easy with eyes closed (第11回ラテンビート映画祭)

6才のボクが、大人になるまで。

マップ・トゥ・ザ・スターズ (第15回東京フィルメックス)

ゴーン・ガール

ヴェラの祈り


以下、短評というか寸感。
というより、作品内容そっちのけの単なる思い出のアルバムです。


湖の見知らぬ男 (2013/アラン・ギロディー)
今年のシネマライフは、アンスティチュ・フランセ東京通いから始まった。
実は、本作も上映された「第17回カイエ・デュ・シネマ週間」では、新作よりも「ジャン・グレミヨン特集」が面白く、数本は観られなかったものの、(スニークプレビュー含め)多くのグレミヨン作品を観ることができたことは今年の映画体験における「事件」級。その一本一本が異彩ながらも、どこか通底するグレミヨン的な映画の興奮は、年始という時期に自分なりの映画とのつきあいを原初に還す「詣」な時間。おかげで、しばらく新作映画への興味が減退してしまったのも事実。
そんな中で観る映画においてエキサイトするには当然、普遍的な「新しさ」がスクリーンに充満していなければならない訳で、この人この映画は、それ以外の何ものでもなかった結果。

LIFE! (2013/ベン・スティラー)
きっと今年の拡大系公開作では図抜けて多くの映画好きから愛されてそうな、或る意味異形作。実はかなり正面からジャーナリスティックだったり形而上的なテーマをつきつけてくる衒いの無さは、グレミヨン後遺症的な消極的映画離れに陥っていた自分を、いくらかばかりか健全化させてくれた気もする、ちょっとだけ記念碑。ショーン・ペンが出てくるシーンの、映っている光景、交わされる言葉、そのすべてが今春身の上に起こったささやかな惜別による寂寥を、「くすみ」から「きらめき」へと転化してくれた、人生のミラクル。

ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (2013/ジャンフランコ・ロージ)
優れたドキュメンタリーは劇より劇的で、優れたドラマは至ってドキュメンタリー。そして、軸足はどちらの地盤も離れ、もはや壊さず上から眺めるジャンルの「壁」。すべての自然は人為(作為)を内包し、すべての人為も自然から生まれる。今年の私的テーマ(今年最もはまった書物は、『種の起源』)へつながる起点がここにあったかも。

グレート・ビューティー/追憶のローマ (2013/パオロ・ソレンティーノ)
過去とは、服従するまでもなく従わねばならず、支配するまでもなく掌握せずにはいられない。逃れたり手放せればどれだけ楽か。往かず還らず、乗り越えない。朝が来るという事実、河は流れるという現実、とりあえず人生は続くという切実。イタリア映画は芸術を生活(人生)から切り離さずに語るという信頼。『レクイエム・フォー・ドリーム』で背筋を冷ややかになでたクロノス・クァルテットの弦が、十数年後には優しく頬をなぜてくれるという軌跡。追憶の浪漫。

プリズナーズ (2013/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、作家として惹かれるって印象は持てないけれど、一作一作惹かれはする不思議な監督。『複製された男』は、『渦』のごとく執拗(不必要)なこだわりにまみれた小品的仕上がりが好みではあったものの、ジョゼ・サラマーゴの原作が個人的に面白すぎた弊害として(読後直後に観たものだから)印象が薄くなってしまった不幸。しかし、本作は匠が集結し、その各々がけっして打ち消し合わぬ理想的なコラボの教科書。ヨハン・ヨハンソンの音楽、ロジャー・ディーキンスの画、ジョエル・コックスとゲイリー・ローチによるつなぎ。究極の分業、総合の愉しみ。

ウィズネイルと僕 (1987/ブルース・ロビンソン)
今年の悲しい出来事のひとつ、吉祥寺バウスシアターの閉館。電車に乗らずに通ってた唯一の映画館、消失。レイトで観ることが多かったから、ゆったりとした映画時間にくるまれたまま、てくてく歩いたり、自転車で風を感じたり、雑踏経ず余韻にひたったまま帰宅。そうした場所が、そうした場所然とした空気を醸したまま閉じた。悲しかったり寂しかったりするけれど、一方で最後まで「僕の知ってる」場所のままだった証左としての『ウィズネイルと僕』。時代への最大かつ最上の抵抗とは「無視」であり、壮大な雄弁とは「沈黙」なんだろう。矜持で降ろされた幕は、その場にとっても、場を愛する者にとっても、憂愁をつきぬける有終の美。
終盤には満席も続く盛況ぶりのようだったけど、僕が見た五月半ばの平日昼下がりは、場内も場外も本作を観るためにあるかのような貌してた。勝手にそう思えてしまっただけかもしれないけれど、そんなどこまでも「自分にひきつけて見回してしまう」ことが許される場所でもあった。
5月末から6月にかけて大きく体調を崩してしまったり仕事がたてこんだこともあり、ラストの爆音映画祭はチケットの多くを無駄にしてしまったけど、本作をバウスで、フィルムで、シアター1で、観られたことは悔いのない卒業式になりました。

インサイド・ルーウィン・デイヴィス (2013/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
今年、最も観賞本数が少なかった6月。『グランド・ブダペスト・ホテル』と本作を観られたから「いいや」になったのかとも思えるほど、本作の「満たしてくれた」度合いは本当に縦横無尽。しかも、全身を駆け巡る的ではなく、いつまでも体内をたゆたいつづける瑕のよに。
私が映画を見はじめた頃、コーエン兄弟は既にステータス的存在のシンボルだったけど、個人的には素直にハマることもなく、口だけで「好いよね」と強がっていた。だから、ほろ苦くても甘酸っぱさとは無縁な存在で、ずっと門外漢な場違い意識をひきずり新作にかけつけていたという史(私)実。けど、前作『トゥルー・グリット』ではストレートに自分に届き、本作では完全に身を任せ。互いに一周して、互いに年とって。ずっと待ってた場所に辿り着いた、そんな風に思える映画。
ボブ・ディラン、カポーティを歌う。オン・ザ・ストリート。片隅から片隅へ。爪弾くたびに始まる世界。

彼の見つめる先に (2014/ダニエル・ヒベイロ)
今年も通ったSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。コンペ12作品のうち10本を観た。例年通り(いや、「増して」かも)充実のラインナップだったし、私の嫌いな映画祭臭とは無縁でピースフルに映画と向き合える場なのも変わらずで。グランプリの『約束のマッターホルン』もベスト級に素晴らしい必見作だったけど(公開決まらないかな・・・うまく宣伝すればなかなかなポテンシャルある作品だと思う)、個人的にあえて1本に絞ると本作かな。
今年のIDCFはなぜか、「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」延長戦というか番外編というか、そうした要素が前面・後景・潜在している多様な作品群が並んでた。ただ、そのどれもが、渋谷や青山の喧噪や緊迫のなかで観るよりも、川口でまったりと観る方がしっくりくる面々。映画を観ることが半ば義務化というか日常化し過ぎてしまったウォッチャー(含む自分)たちの集いでは生まれ得ない、映画のなかの物語と誠実に向き合う、まっすぐと直接向き合う観客が醸す包容力。監視でも看視でもない、あたたかい環視。注視の共有。でも、どうみるかを導こうとする〈気〉は漂わず。映画を観るという体験には、やはり場所は重要だ。そして、場所のもつ力が作用する映画体験を、僕はやっぱり信じてる。

ムーンライティング (1982/イエジー・スコリモフスキ)
まさに「隠れた名作」といった存在で、きっと関係各所じゃ既に発掘済みなのだろうけど、こうして広く目に触れる形で公開の運びとなったのも、近年のポーランド映画祭大盛況の賜物だろう。でも、晩秋のイメフォとは大違いで、今夏のシネマート新宿はそれほどの熱狂が立ち籠めてはいなかった気も。その分、フリパ乞食でごった返すイメフォとは違った、一作入魂な観客にきちんと愛されてたスコリモフスキの旧作群。どれも好きだったけど、やっぱり本作は新鮮と納得と意外と意中の厳かな弁証法。だけど、ぜったい止揚はしない。みたいな、心地好い寸止め寸劇、砂上の楼閣。真剣勝負ほど痛く美しいものはない。

ジャージーボーイズ (2014/クリント・イーストウッド)
本作を観る前の月(8月)、丸の内ルーブルの「さよなら興行」で『マディソン郡の橋』を初めて観た。大きめの劇場、しかもフィルム、おまけに観客まばらな平日昼下がり。昼メロ的なイメージをもった我が稚拙な先入見を猛省。映画を知り尽くし、知り尽くせぬ映画の魅力を弁えたイーストウッドの巧みが隈無く遍在。
新作でもそれは健在かつ更新。というよりイーストウッド、方向とか決めない最強さ。テンポやリズム、語りや騙り、そのすべてが風まかせ。よほどの確信と自信がなきゃ出来ない歩み。決して走らぬ、豊かな歩み。テンポを落とすほどに滑らかにすべってゆく不思議。多幸とか書きたくない、量化しない幸福の時間。
余談ながら(といっても、さっきから余談がメイン)、本作を私が観たのは郊外シネコンの400席弱の大箱ながら、なんと観客は私一人。ゆえに、歌い踊りながらの観賞となった(嘘)。申し訳なさや或る種の残念さはありつつも、本作を貸切の大劇場で観られるなどという有り難い体験は、今年の映画生活の一大事。

ジェラシー (2013/フィリップ・ガレル)
ガレルの新作を、映画館で見せてくれる人々に感謝。(イメフォ苦手な自分としては、できればそろそろイメージフォーラム以外でも観たいけど。)
ガレルは、頭使って映画観るようになる(今でもたいして使えてない上に、最近は使わないのが善的な姿勢になりつつあるけど)以前から、何故か相性が好いというか、自然に好きという。いわゆるヌーヴェルヴァーグな作品群とかは、油断してたら「わかんなぁーい」とか「あぁ、眠った眠った」とか言っちゃいそうな自分でも、なぜかガレルは面白がれる。
きっと、語るべき苦しみを描けるのが巨匠なのだろうけど、苦しみから語る作家にこそ寄り添いたい自分の性がそうさせる。

金の鳥籠 (2013/ディエゴ・ケマダ=ディエス) 
毎年のことながら、10月11月における映画祭シーズンは時間のやりくりやスケジュール調整が難儀というか面倒で、ともすると丸投げしたくなる頻度が年々上昇。前売券を購入するタイプはまだ強制力が(自分に)働くからいいものの、そうでない場合は休日に(もしくは、仕事上がりに)わざわざ出かけてゆかねばならぬ大儀を厭わずにはいられぬ我が性情。しかし、そんな無精な自分でも、他では味わえぬ感銘を受けて就く帰路に、やっぱり出向いてよかった肯定感。それが、次なる億劫との対決を生む・・・。(って、年とるごとに映画観に行くのが面倒になっているというただの報告なのですが。)
というわけで、今年の難民映画祭では本作一本のみ観賞。主要人物の年齢が下がる分、『闇の列車、光の旅』(かなり好き)が更に「愚直」になったかのような本作。自分に嘘つく余裕がある者は一人もいない。でも、だからこそ、そこで暴れる排除の力も、そこに立ち現れる不意の温情も、すべてがすべて、迫真ならぬ真の味。世界は語られるべき物語と、語らずにはいられない者たちであふれてる。

ツーリスト (2014/リューベン・オストルンド) Force Majeure
今年も東京国際映画祭では20本ほど映画を観たが、個人的に図抜けた傑作といった出会いがなかった半面、どれもが見応えを感じる充実した一週間だった。
本作は、個人的な好みからすればやや外れる要素を随所に感じつつも、それでいて実は観ながら心のど真ん中を何度も突かれた望外強度。傑作と呼ぶに値する力強さが確実にある。いろいろと語り尽くしたい一作でもある。テーマと手法と美学が、幸福な渾然一体を見せている。
来年、劇場公開もされるとか。

ワイルド・ライフ (2014/セドリック・カーン)
セドリック・カーンはそんなに好きな作家ではなかったのだけれど、前作(『よりよき人生』)が意外にも個人的に気に入って、その方向性と重なるように本作ではダルデンヌ兄弟がプロデューサー。主演がマチュー・カソヴィッツだったり、撮影がブリュノ・デュモン作品でおなじみのイヴ・カペだったりと、実は好きな要素がつまっていた本作。そんなことも意識にないまま、時間を埋めるように選んだ一作だっただけに、マイハート鷲掴みの不意打ちは同日その後の観賞に支障を来しまくった。
パコ(マチュー・カソヴィッツ)の二人の息子のうち、弟の方(の青年期)を演じる役者の顔に見おぼえがあり、観ながらずっと気になっていたら、ロマン・グーピル監督作『ハンズ・アップ!』に出ていた少年であることが後から判明。グーピルの新作がコンペに入った今年のTIFFでは、もう一つの『ハンズ・アップ!』な再会が待っていた。
ということからも、キャストの魅力は歴然ながら、やっぱりセドリック・カーンの新たな地平をダルデンヌ兄弟がサポートした本作は、その双方が欲する相手を得たような作品。何らかの形で再会の機会を与えて欲しい貴重な秀作。

Living Is Easy with Eyes Closed (2013/ダビド・トルエバ)
今年最も泣いた映画。でも、おそらく、本作のなかでは誰も(実際に涙をみせて)泣いてはいない。という記憶(間違ってるかも)。観客は皆、とめどなく涙があふれていただろうけど、何故だかそれはどこまでも静かに流れ、場内を終始埋め尽くす静謐。そんな事実こそが、本作が誘う涙の特別を、顕著に語っているだろう
ラテンビート映画祭でたまにある、本拠地(新宿バルト9)で上映がないタイプの本作を、横浜ブルク13まで足をのばして観に行った。以前も、ラテンビート遠征を敢行したことはあったけど、明らかに新宿よりも好い雰囲気で観られて満足だった記憶、今年も上書き。
映画自体がもつ滋味が場内に伝播したこともあるだろうけど、年間最優秀場内賞と言いたいくらい、言葉にならない(勿論、音なんかを通して伝わることなんかはないんだけれど)映画につつまれ映画をつつむ優しいまなざしが交錯しあう至福の劇場体験だった。
ラテンビートのチラシに「提供:松竹メディア事業部」とあるので、またきっとどこかで観られる機会もあるかと思うけど、大切に公開されることを切に願う一作。

6才のボクが、大人になるまで。 (2014/リチャード・リンクレイター)
オープニング。コールドプレイの「イエロー」のイントロ、ギターの音。Look at the stars・・・空を見上げる少年の顔。学生時代に聴いた「イエロー」、武道館で聴いた「イエロー」、そして本作で聴く「イエロー」。そんな時の重なりだけで、既に本作でこれから重ねられてゆくであろう時の重みと飛躍に全身スタンバイ。
それこそ十年前に本作を観ていたら、情緒的な感動はさほどなかったかもな。なぜなら、本作が描く時間は長かったり重かったりする半面、実はその「短さ」にあると思うから。瞬く内に、というか、瞬く度に。光陰矢の如し。そして、実は軽重など存在しない一つ一つの出会いと別れ。フレームに留まり続けるものだけが実存を支える訳じゃなく、全過去から現在が生まれるように、すべての出会いを呼吸しながら今が在る。
メインはサブやサイドを削るけど、サブやサイドにはメインが宿る。いや、核にあるのはあらゆる些事で、それらが常に離合集散した結果。リンクレイターが得た語りの自由は、僕らに語りの自由を与えてくれた。

マップ・トゥ・ザ・スターズ (2014/デヴィッド・クローネンバーグ)
東京フィルメックスのクロージングで観たときは、何だか緊張と疲れで茫然してた。(クローネンバーグは、朝日ホールで観るもんじゃないな、と実感。でも、ガラガラのなかでまったりと観た初期作『ステレオ/均衡の遺失』『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』は実に実に興味深かった!しかも、どちらもフィルム上映!)後日、郊外シネコンのレイトショーでゆったり観賞。
本作はクローネンバーグ初のアメリカロケ作品とか。従って、今までよりも「風通し」が好いはずだし、実際に映っている画は確かに「風通し」が好い雰囲気・・・なんだけど、それがより一層不気味さを際立たせるという、不穏の神様のようなデヴィッド様。本作における最もスキャンダラスな部分が露見するに従って何故か安堵の道を往くというアンビバレントな倒錯の旅。トリック抜きのトリップ三昧。生者と死者、虚像と実像、幻影と実存・・・すべてが地続きな世界に、微塵の解放感もゆるさずに、それでいて何らの束縛もかけぬ究極並置な全面圧力。トランポリンで飛び跳ねた後の、自力のジャンプのようなエンドの星空。手に届きそうだと思っていたことの方が現実に思えて来る、覚醒。

ゴーン・ガール (2014/デヴィッド・フィンチャー)
こちらのデヴィッドも中毒度高い曲者で、しかもクローネンバーグの中毒性は反復が鮮度を増す一方、フィンチャーはもう初見から反復の只中にいるような錯覚起こすほど、反復帝国展開中。
ドラマとしての面白さの手法や手腕は彼なりの常套ながら、形而上的テーマの具現化は年々上等化している気も。ラスト、ニック(ベン・アフレック)の壁ドンならぬ壁ダン(?)には、観る者もエイミーも見事に震撼。ただし、エイミーは凍った背筋が愛おしくてたまらないという・・・。観念が肥大化した現代人の現実が、観念に支配されてゆく。去りゆくのは少女のみならず。

ヴェラの祈り (2007/アンドレイ・ズビャギンツェフ)
年の瀬にこのような作品(しかも、群!)を公開するの、やめてほしい。あと、こんだけ待たされると、鮮度が落ちるどころか一周回って強烈鮮度が炸裂するし、こんだけ公開されないと既にソフトを取り寄せちゃったりしているし!
本作は一度DVDで観始めたものの、その画力に圧倒されて、「この画をスクリーン以外で観ていいわけがない!」と思い立ち、停止ボタンを押したまま、いつか劇場で観られる日を夢に見てきた一作だけに、悲願中の悲願と呼ぶに値する本作の感傷。
作品のすべてが自らの期待にいちいち応え、凌駕し、裏切り、共振し続ける。画のみならず、音の雄弁さは単なる饒舌のみならず、世界が「言葉」にあふれていることを識る。そして、掬いきれない個人の狭窄した視界に途方に暮れる。識れば識るほど、広がる世界。
惜しむらくは、本作の画質。フィルム撮影による画力をフィルム上映で余すところなく体感したい、などという贅沢は言わないまでも(でも、言いたい!)、せめて(現況における)標準的なデジタル上映画質で観たかった。とはいえ、おそらく2007年制作となると、デジタル上映のマスターが元々存在したわけでもなかったろうし、ソフト発売もDVDだけだから、おそらくそのマスターからDCPをつくったのではないかと思われる。確かに、輸入DVDの画質は、DVDながら健闘したものだったけど、やっぱり『エレナの惑い』の画質と比べると差は歴然。(つまり、二本続けて観るなら、ヴェラの次にエレナという流れが好いかと。ま、制作年的にも、登場人物の世代的にもその順だしね。)
上映のデジタル化は、コストダウンを可能にし、それゆえにミニシアター系作品の公開本数も盛り返してきている(ズビャギンツェフ旧作公開もその恩恵のもとにある気もするが)のは事実だろうけど、作品にとっての明暗はタイミングと共に悲喜こもごもだなぁ、などと痛感したりもしたな。
とはいえ、それでも劇場で必見であるには違いない二本。『ヴェラの祈り』をフィルムで観るなどというのは叶わぬ願いだろうが、いつか『ヴェラの祈り」のちゃんとしたデジタルマスターが出来、万全の画で観られたら・・・と、夢想の更なる更新と二度目の実現に想いを馳せる。


今年は全然ブログも書けず、個人的にもしっかり記すなどあまりできていなかったこともあり、情けないほど(いつも以上に)「内容のない」感想に堕してしまったことをお詫びする。誰に?自分に。

とはいえ、やはり映画を「映画館で」観るという行為においては、その一回性に宿った記憶こそに価値があるという視点だって重要に思えてならない。というか、そう思わないと、面倒くさい劇場観賞にこだわり続けていられない(笑)

20本近くも挙げておいて、それでも「もれてしまった」と言わせてもらう映画たちは・・・

『6才のボク~』のせいで、ついつい忘れがちになってしまう『ビフォア・ミッドナイト』。前二作に比べると、自分が「通ってない」分、まだ身の丈に合ってないことが些か残念。

今年も気を吐きまくったマシューの3本。『ダラス・バイヤーズ・クラブ』、『MUD』、『インターステラー』(でも、正直、『インター~』は個人的にのれない側面も多分にあったけど、クリストファー・ノーランの気狂いっぷりは、水平化する映画界においてやっぱり重要に思えてしまう)。

『エヴァの告白』のラストシーンは目に焼きついてるし、『8月の家族たち』のラストソングはいつまでも心に鳴り響いていたものです。

これまで頭で唸ることはあっても、心が震えることがなかったアスガー・ファルハディ作品で始めて興奮、しかも終始着地を許さぬ昂揚で時間が流れた、『ある過去の行方』。

『鉄西区』で打ちのめされて以来、個人的にも重要な作家だったワン・ビンながら、正直近作は個人的にあまり素直に享受できない状況が続いてた。でも、『収容病棟』は『鉄西区』を観たときのように心をえぐられた。

『プロミスト・ランド』を観たのは、札幌の夜。ディノスシネマズ札幌のレイトショー、たった三人の観客。旅先ではあまり映画を観ないけど、今作は場所と旅の記憶と共にあることでより多くより深く語りかけられた。

『物語る私たち』の仕掛けほど、必要と誠実に満ちた仕掛けを私は知らない。(大袈裟)

東京国際映画祭は前述の通り、充実した観賞体験に溢れていたけれど、なかでも『十字架の道行き』と『白夜と配達人』は己の奥深くまで届いた重要作だった。形式への拘泥や服従が、やがて内容の遙かなる跳躍をうむ。

今年のフィルメックスは随分と粒ぞろいで、恒例の大いなるハズレとは無縁でちょっと寂しかったけど(笑)、なかでも最後に観た『プレジデント』は、「荒削りのよさ」を踏みにじる重厚さが胸にいつまでも残る名作の風格に魅せられた。おかげでコンペで観た良作の数々(『生きる』『ディーブ』『数立方メートルの愛』等)が霞んでしまったほどだったりもして。

フィルメックスの勢い(というか、余力?)で参加したフィンランド映画祭。期待値すら設定していなかったが為か、不意をつかれた好みの一作『コンクリートナイト』。色彩豊かな表現力に充ちたモノクロ的映像美に、女流作家と女流監督による少年期の揺らぎは新鮮な違和感を持続させ、いつまでも見終わらないような世界が展開されていた。

『自由が丘で』は、来年見直します。寝不足と疲労と昼下がりで、幾度も微睡みながら観てしまった初見ゆえ。でも、その微睡みと作品の佇まいが見事に融け合って、第三の作品が生まれたかのような夢現な体験は、特筆に値する・・・自己正当化(笑)


我ながら上記のベスト選出を眺めてみると、偏りや固まりが年々強まってるなぁ、と。
でも、まぁ、それも年を取ることの弊害であり、特権であり、ひとつの知恵かとも。

ただ、気づくのは、日本映画はもとよりアジア映画さえ1本もないということ。
これは、今年、それらに接する機会が少なかったことも影響しているとは思うけど、接することが少ないという事実自体、気持ち的に遠ざかりつつあるという気がしなくもない。

日本映画で好かったのは、『ホームレス理事長』『0.5ミリ』『紙の月』くらいかな。
いやぁ、本当に日本映画観てないのかな、今年。

アジア映画だと、『ドラッグ・ウォー』『昔のはじまり』『メルボルン』『TATSUMI』『西遊』『西遊記』かな。アジア映画は明らかに見逃した良作が多かった気がする。特に韓国映画。

大作系やアクション映画も変わらず好物なんだけど、こういう場で名を出す気分ではなくなりつつある保守化する老いる自我(笑)『ハンガー・ゲーム2』は、シリーズまるごと大好き宣言したくなる素晴らしさだったし、『ラッシュ/プライドと友情』だって興奮の坩堝。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の完成度は期せずしてゆえ受け止めきれなかった気がするし、評判悪かった『トランセンデンス』だってあれこれ考えながら楽しんだ。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』とか『イントゥ・ザ・ストーム』とかの一気呵成は劇場で味わってこそ。『GODZILLA』や『トランスフォーマー/ロスト・エイジ』はちゃんと初日に駆けつけて、IMAXでも再見しましたよ。ただね、今の自分にとって「大きな映画」はどうやらサイドな気分。

触れられなかった映画祭、イメージフォーラム・フェスティバル。今年も私的に充実観賞の連続で、『マナカマナ』『闇を呪う呪文』『ハレー』いずれも全く違うアプローチで全く違う琴線に触れまくり。

旧作を積極的に観ようとしないシネフィル失格な僕ですが、マルコ・ベロッキオ特集は嬉しくて仕方なく、未見だった『エンリコ四世』と『肉体の悪魔』はどちらも最高で、だからこそ『エンリコ四世』の残念すぎるVHS並の画質が悔やまれる。

春にはハル・ハートリー、夏にはダニエル・シュミットにベルイマン、秋にはジョン・フォード。
異才、奇才、名匠、巨匠。初めてだろうが再会だろうが、確実に邂逅がいつでも待ち受けるレトロスペクティヴ。そういえば、今年はビートニク映画祭なる素敵な企画もあった。オーディトリウム渋谷はなくなったけど。ロバート・フランクが撮った映画を二本(『チャパクア』『キャンディ・マウンテン』)を映画館で観られるなんて。『キャンディ・マウンテン』、本当に好きだった。


今年も本当にいろんな映画と出会えた一方で、映画をとりまく環境には今年も色んな「さよなら」つきまとい・・・。新宿ミラノもあと一日か。ミラノ1の大劇場も好きだったけど、シネマスクエアとうきゅうでは濃厚な出会いが幾度もあったっけ。ひとつの文化が消えるときっていうのは、消える運命ゆえに散り際もそれほど華々しくはないんだね。(と言いつつも、ここ数日の歌舞伎町は賑わっているのだろうが。)その一方で来年にはTOHOシネマズが新宿にもできて、恵比寿にはガーデンシネマが復活。容易く映画文化リバイバルになるとは思えないけど、このサバイバルは見守り続けよう。正直、映画から離れたがってる自分もいなくはないんだが(というより、別の方に興味の矛先がいきがち昨今)、産業的な「映画」が分岐点に来ているように、自分なりの「映画生活」もより自由に柔軟に見直してはしなやかに付き合っていきたいと思っています。そんななか、ブログをもうすこし身近にできれば好いんだけど・・・。

※旧ブログは移転しました(単純に移しただけです)。URLは以下の通り。
    http://blog.goo.ne.jp/imaginary_possibilities
 

2014年10月23日木曜日

2014東京国際映画祭 1日目

『ロス・ホンゴス』(Los hongos



監督は、オスカル・ルイス・ナビア()。長編二作目にあたるとのこと。コロンビア・フランス・ドイツ・アルゼンチンの共同製作ということからもわかるように、映画祭を中心に地道に活躍している若手気鋭監督のようで、一作目もベルリン国際映画祭などなどで上映され、本作も今年のロカルノ国際映画祭でワールドプレミア(東京国際映画祭では、アジアンプレミア)。新人のコンペ(第一回or第二回監督作が対象)で審査員特別賞を受賞していたりもする。

落ち着きがあるんだか無いんだかハッキリしない作風に、どことなく所在なさを覚え、自分の中の仕舞うべきフォルダが見つからないまま淡泊に眺め続けた90分。しかし、最後の最後のシークエンスで心の空隙鷲掴み。それまでのあらゆる要素が共鳴、反響。

上映後のQ&Aで登壇した監督も、随分と誠実な好青年といった趣ながら、信条と信念を落ち着きながらも溌剌と淀みなく語る姿が頗る好印象。あらゆるものを吸収したい、そしてあらゆるものを呼吸したい。そんな想いが滲み出る表情は、映画のもつ表情として反芻された。

本作は、監督の祖母が癌で亡くなったことを一つの契機とし、《LIFE》をめぐる監督なりの想いがひとつの形となって生まれた作品のよう。作中に出てくるカルヴィンの祖母役は、監督の実際の祖母の姉妹が演じ、カルヴィンの父親役は、監督の実父だったりするらしく、そうしたところにも監督にとっての本作への思い入れが感じられる。また、主役二人はプロの役者ではなく、地元の高校で900人以上の面接(監督曰く「ディープ・インタビュー)を行い、厳選したという二人。確かに、ヴィジュアルや佇まい、或る種のアウラも見事に本作を生きるに唯一無二なものを持つ。というか、監督が言うには、「彼らは彼らとして作品に存在している(意訳)」し、それが監督なりの「語り方」なのだという。(役名は、彼らの実名でもある。)

〈現実〉とは、いまこの瞬間に世界のどこかで誰かが殺されているかもしれないということであり、いまこの瞬間に此処にいる人たちが想い想いに思いを巡らしていたりするということ。つまり、無数のユニヴァースが無数のまま在ること。そのように監督は語っていたように思う。そして、そうした〈現実〉観でもって、映画もつくりたいとも語ってた。なるほど、確かに、本作においては、あらゆる要素は全くもって「統御」の力から自由である。オープニングもエンディングも、クレジット画面においてはフィルムの「損傷」のような傷みや歪みが施され、意図的な破壊はしないけど、自然の重力には逆らわない、そんな整然の虚を突く無礙なる表明。

主人公の二人がのめりこむグラフィティは、反抗とか抵抗とかといった大仰な自己実現などではない。勿論、全くそうした意識が皆無なわけでもない。冒頭で、主人公の一人は活動家のポスターの顔をペンキで塗りつぶすのだが、それが壁づたいをあるくときの自然な「手ざわり」のように為されるという〈意識〉がそれを象徴しているようにも思う。ただ、大きな物語はあくまで後景なのだろう。途中、カルヴィンの祖母がアルバムをめくりながら過去を語るのだが、それはコロンビアの、ある町の過去であると同時に、祖母自身の過去であり、それらの過去はあくまで祖母自身(個人)が起点で在り終点である。そして、それは自らの外部にある「背景」をまといながら、どこまでも自らの内部で育まれ刻まれ遺った物語。

作中で描かれるグラフィティも、プロテストなどの意志よりも、彼らの夢見る世界の展開だ。

水中革命。途中、想い想いの夢見る世界が集合した「壁画」。それらが実現するかのごとき、水中遊戯の「現実」感。水との戯れ、そして大木との時間。平面にとじこめられた、描くだけの動きに飽かぬ先、待ち受けた悠然たる身体の安らぎと躍動と沈潜。

ラストに出てくる大木は、監督によると「サマン」という樹齢200年以上の木なのだとか。「この木何の木?」の日立の樹はモンキーポッドというが、学名に「サマン」が入ってる。おそらく同属な木なのかも。にしても、あのフォトジェニックには抗し難い自然の説得力。しかし、彼らの描いた木も負けてはいない。なぜなら、彼らを閉じ込めた、彼らが閉じこもってた「壁」からいよいよはみ出し、「越境」の合図となったのだから。人間の内部の自然が解放されるとき、自然は人間に開放されている。


監督の一作目(「El vuelco del cangrejo」)も観てみたい。

2014年1月13日月曜日

Damsels in Distress ダムゼル・イン・ディストレス

ノア・バームバック監督の最新作『フランシス・ハ()』では脚本も共同で担当し、女優としても数多くのノミネーションを受けるなど、いま最も注目される若手女性映画人の一人、グレタ・ガーウィグ(IMDb)。彼女主演の地味すぎる一作。

グレタは、昨年の東京国際映画祭のコンペでも上映され好評だった『ドリンキング・バディーズ』(『フランシス・ハ』と共にタランティーノのお気に入り2013に選出)のジョー・スワンバーグ(IMDb)監督と共同で、『』という作品を監督していたりもする。(彼女のスクリーン・デビューが、スワンバーグ監督作の「LOL」のようだ。)彼女は、やはり劇場未公開の(しかし、ソフトは昨秋リリースされた)『29歳からの恋とセックス(Lola Versus)』(音楽を担当しているのが、Fall On Your Sword!)でも主演。相手役は、『イージー・マネー』シリーズで人気沸騰後、新『ロボコップ』で主役に大抜擢されたジョエル・キナマン(IMDb)。同作は、来月WOWOWおよびスターチャンネルで初放映。評判は芳しくないものの、90分未満だし観ておこう。

本作はソフト販売およびレンタルは無く(ちなみに、ホイット・スティルマン監督の全作品が日本では未DVD化の模様)、配信のみでのリリース。私はスターチャンネルでの放映で最近ようやく観賞(初放映は半年ほど前みたい)。一般受けはしそうにないし、かといってシネフィル熱狂の王道とも違う、でも何処か惹かれて止まない滋味すぎる一作。

「フィルム・コメント」誌が選ぶ2012年のベスト50(劇場公開作篇)では、36位にランクイン。本作のそばには、『父、帰る』のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督作「Elena」(前作の「The Banishment」に続いて日本では未公開・・・)や、昨年のマイベストにも選んだベン・リヴァースの「湖畔の2年間」があり、このセレクション(順位的よりラインナップとして)はなかなか好み。

「damsel」は「少女(特に、身分の高い出自の)」、「distress」は「苦悩」や「窮地」といった意味で、「ダムゼル・イン・ディストレス」という言い方は常套句らしい

スターチャンネルWebサイトに掲載されている作品解説では、「キャンパス内の男性優位の風潮を何とか変えようとがんばる女子大生3人組の奮闘を描く、風変わりな青春ラブコメディ」と書かれてて、別に間違ってはいないけど、この文句で最も強調すべきフレーズは「風変わり」。

以下、ストーリー解説から引用。「“自殺予防センター”の運営など、大学のキャンパスで弱者を助ける運動にいそしむバイオレット、ローズ、ヘザーの3人組。彼女たちは、自殺願望者にタップダンスを勧めたり、欝気味の学生には香水の香りを嗅ぐよう勧めたりと、ユニークなアドバイスを行っていた。新学期、編入してきたリリーと仲良くなった3人は、いくつかの恋の始まりや終わりを共に経験し、成長していくが・・・。」

とにかくビートは刻まれず、かといってスウィングが流れるわけでもない。控えめにしようと図っているわけではないのだろうが、恬淡な空気で埋め尽くされる。こちらの手をひっぱったりしない安堵の持続。いつしか彼女たちのすぐそばにチョコンと座る自分。他では味わえない心地好さがある一方、苦悩だって描かれる。しかし、その傷みは、物語の演出に従事するのではなく、あくまで物語る人物たち自身に従属してる。

弱者でも強者でもない、しかしメインストリームにも縁遠い、お気楽すぎには抵抗あるが、がむしゃらになるのもどうかと思う。自分なりの意固地な信条唱えつつ、だけど内心いつでも不安。そんな普遍的機微の一襞一襞が丁寧に描かれる。だから、登場人物達の時に奇抜な発想や行動も、結果の不可解さよりも原因の部分で共有できるのだ。どんな珍妙さにも、好奇な眼差しを一切混入させない。賢明よりも懸命を信じてる。

中盤、失意のヒロインが寮を飛び出しモーテルに泊まる。翌朝、彼女に希望の想いが込み上げて来る。彼女をそんな気持ちにさせたのは・・・石鹸。「この石鹸(ソープ)が私に希望(ホープ)をくれたのよ」。世界はきっと、素晴らしい。

ラストではカーテンコールよろしく、フレッド・アステアの1937年『踊る騎士(A Damsel in Distress)』(音楽は『踊らん哉(Shall We Dance)』同様、ガーシュイン兄弟が担当)より「Things Are Looking Up」をキャンパスで皆で唱って踊って、最後は・・・優美さと、ゆるさ。全篇通して言えることだけど、狙ったり計算したりした狡猾巧緻な「ゆるふわ」じゃなく、真摯に生きることで生まれる「ゆるゆる(直線的には進めない蛇行な私たち)」や「ふわふわ(しっかり踏ん張ろうとするけど浮き足だっちゃうの)」。

主演のグレタは勿論のこと、中心となる四人の各々が見事に独自の魅力にあふれてる。普通はタイプが分かれると、思い入れが誰かに集中しそうなものの、本作の四人は違う。皆が皆、不完全の愛おしさ。そして、アンサンブルによって生まれる「完全」。女優陣はヴィジュアルも見事に個性を際立たせている一方で、男性主要キャスト二人が(知らない男優だったこともあってか)終盤まで見分け困難だったという事実も・・・ただ、そんな混同もむしろ御伽噺のいたずらのようで戯れがいはあったけど。

冒頭では主演のグレタ・ガーウィグの話題に終始してしまったが、本作の監督・脚本を務める(プロデューサーでもある)ホイット・スティルマンは、米インディペンデント映画ではちょっとした伝説の人物のようで、13年ぶりとなる本作は2011年のベネチア国際映画祭のクロージング作品に選ばれている

これを機にスティルマンの過去作(といっても3本しかないし)を全て観てみたいと思っても、前述の通り、日本ではVHSしか出ておらず。しかし、アメリカでは昨夏にクライテリオンから『メトロポリタン/ニューヨークの恋人たち』と『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』のブルーレイが発売されていることを知る。気張ってそちらに手を出すか、向こうでのBD発売が日本での放映等につながることを祈るか・・・。米インディペンデント系の映画って、一部の熱心な固定ファンが(既に)ついている作家のものくらいしか紹介されず、案外ヨーロッパやアジアの映画作家よりも日本に入って来にくい現状に陥ってる気がして寂しい。


2014年1月11日土曜日

マッドネスに首ったけ

昨日取り上げたRed Light Companyの元ヴォーカルは地味に(?)音楽活動を継続しているようで、個人的にもこよなく愛する名曲「夜の囁き(In The Air Tonight)」(by フィル・コリンズ)の女性ヴォーカル(Lucy Mason)によるカヴァーをプロデュースしてたりするみたい。そのLucy Mason嬢ですが、なかなか聴かせるオリジナルも唱っていました。



それにしても、このギターを弾く男性がイチローに見えて仕方ない(笑)

もう一発。こちらは何とMuse「Madness」のアコースティック・カヴァー!




「マ・マ・マ・・・マッドネス」のコーラスがギターだと物足りないという方には、こちら。




それにしても、海の向こうの学校では出し物のレベルも段違い。
こちらはMuseメドレーを振り付きで。




ナッシュビルの葉加瀬太郎&森高千里による(喩えが雑過ぎ)「Madness」もなかなか味がある。




お次の「Madness」では、自然と親しむ爽やかアウトドア系CMソングみたいに聞こえる!?




ついでに。
超絶クール!になり損ねたけど、オーケストレーションとの相性抜群ってことだけは十二分に伝わる「Knights of Cydonia」。コメントにもあるけど、序盤のトランペットが断末魔・・・。
 
 
それにしても、「カヴァー」文化が市民レベルで桁違い、というか根っこが違う。根自体も、その深さ・広がりも。何をカヴァーするかより、誰がカヴァーするか。カヴァーする相手(他者)はあくまで、自分の本領を発揮するための器として借りるだけ。でも、その結果、その相手が今まで見たこともない輝きを放ったり。「権利」とか「自由」とか「個性」とかってものが、語彙レベルじゃなしに体感として日常として根づいてる感が充満してる。漱石が説いた「自分本位」を想い出す。

2014年1月10日金曜日

Scheme Eugene

今日までユーロスペースでレイトショー上映されていた『消えたシモン・ヴェルネール』。
2011年のフランス映画祭で観た同作が、今になって不意に劇場公開というので驚いた。

そして、『桐島、部活やめるってよ』に言及する感想が洩れ聞こえてきたりすると、『桐島』を観る前年に観ていた自分の印象とはだいぶ違うような気もして、「通過する」ことで見えてくること見えなくなることってあるんだな、と実感。『消えた~』には『エレファント』の顕著な影響(模倣)を見出してしまって入り込めなかった私だが、『桐島』ではほとんど『エレファント』のことは頭をよぎらなかったりもしたし、通過してても人それぞれではあるんだろうけれど。

で、久しぶりに『桐島』のこと想い出したりしてた矢先に、ちょっと前のプレイリストとか眺めていたら、5年前の冬のマイ・ヘビロテ・ソングにしみじみ。Red Light Companyというデビューしたてのバンドの3枚目のシングル。そのミュージック・ビデオが、今見直すとまさに『桐島』と重なるところがあったので。



ハマったのはこの曲くらいだったんだけど、そういえばその後全然名前聞かないな・・・と思って調べてみれば、アルバム1枚で解散してたんだね。2009年のサマソニに出たりもしたらしいけど、その時の映像を観ると文化祭レベルで閉口・・・。この時期のUKバンドってアルバム1・2枚で解散しちゃうバンドが多かったよな。The Upper Roomとか、Boy Kill Boyとか、Mumm-Raとか・・・。と思ったら、Mumm-Raって去年復活したみたい

それでは、再結成を祝して。


2014年1月8日水曜日

13日終了の展覧会

13日(月曜というか祝日)で終了してしまう展覧会で、とても心に残ったふたつ。

一ヶ月前に行った時には、(平日の昼~夕方)とはいえ見事なまでの閑散具合がむしろ神秘的にすら感じられた「ジョセフ・クーデルカ展」(国立近代美術館)。昨日(7日)の夕方に行くと、随分と賑わっておりました。駆け込みなのか、口コミなのか。そんな盛況ぶり(?)もあってか、図録も売り切れ。自分用には先月購入済ながら、もう一冊必要になったので買って帰ろうと思ったのに残念・・・と思いきや、予約販売なるものが。その場で図録の代金(2,200円)を払い、送り先を記入した用紙を渡すと、後日郵送してくれるのだとか。しかも、送料無料(美術館負担?)。ただし、「10日ほどお時間を頂く」とのこと。その予約販売は際限なく実施するのかは不明だが、とりあえず昨日の閉館時刻にはミュージアムショップでそこそこの人数が申し込んでおり、私は70番台だった。
いやぁ、しかし、本当にこれはしっかりと言葉を残しておきたくなる、おくべき展覧会だと改めて感じ入り、そう記すことでセルフ・プレッシャー。昨年の写真展ではマリオ・ジャコメッリ写真展と並ぶ、胸いっぱいの愛。

もう一つは実に地味だし、随分と小ぶりな展覧会ではありますが、サントリー美術館で開催中の「天上の舞 飛天の美」。どんな内容かと言うと・・・Webサイトの展覧会概要よりそのまま転載すれば、「空を飛び、舞い踊る天人は「飛天」と呼ばれ、インドで誕生して以来、優美で華麗な姿で人々を魅了し続けてきました。本展覧会では、地域・時代を超えて展開 した飛天の姿を、彫刻・絵画・工芸の作品によってたどります。中でも、京都・平等院鳳凰堂の修理落慶に先立ち、堂内の国宝 《雲中供養菩薩像》を特別に公開 いたします。さらに、国宝 《阿弥陀如来坐像光背飛天》を寺外初公開し、鳳凰堂内の絵画・工芸表現とともに、平安時代の飛天舞う浄土空間を立体的に展示いたします。屈指の名品を間近に鑑賞できるたいへん貴重な機会をお見逃しなく。」

サントリー美術館には昨年の「谷文晁」展が抜群にエキサイティングな内容で、爾来異様にお気に入りの空間となり、今回の展示における「場」が放つ神秘もたまらない。とにかく、そもそも魅力的な空間(空気)である上に、一点一点を「浮かび上がらせる」照明の妙。2013年最優秀ライティング賞。そして、このテーマ、このイメージを今浴びる意義。それは、まさしく『かぐや姫の物語』の「再生」。あの世界観を自ずから反芻せざるを得ない、語り合い。「雲中供養菩薩像」等は、実際に平等院鳳凰堂で展示(?)されている場合は、かなり上の方を見上げる形で眺めねばならないようなのだが、今回の展示では間近でじっくりと視ることができ、その一体一体が放つ個性や自由に胸躍る。

一般の当日券は1,300円。この展示だけでは正直割高感に思えなくもない価格設定な気もするが、サントリー美術館のメンバーズ・クラブというのがあり、年会費5,000円で一年間入館フリーパス(同伴者1名も無料)。他にも色々サービスがあるみたいだし、昨年から高まった私の日本の古美術愛好熱もあいまって、入会してしまったよ。しかも、閉館1時間前になろうかという頃に着いて申込手続きをしたものだから(余裕もって行かずにすみません)、受付を担当してくれたスタッフの方は随分と気を遣ってくださり、細やかな配慮も適宜な中、優雅ながらもスムーズに手続を進めて下さいました。好感、そして多謝。ここは(というか、日本の古美術系展覧会全般に概ね言えそう)、入館者の鑑賞態度というか雰囲気も実に落ち着いているし、六本木のオアシスとしてもこれから重宝しそう。

2014年1月6日月曜日

ハンガー・ゲーム2 〈序〉

2014年の映画初め。盆と正月は映画を観ない主義。主義といっては大袈裟だけど、個人的儀礼として定着してる習慣。そこから見えてくる映画の私的位置づけは、それが半ば「義務」や「仕事」としての色を帯びてきているということだろう。ただ、それがまさにモロ義務であったり仕事そのものであるなら問題はシンプルで、内面に複雑な事情を感じたり(拵えたり)する余地もない。ところが・・・これでは新年早々、信念粗相。とりあえず、映画を取り巻く環境(撮る側も観る側も)が激変したこの数年、それだけが実際上主原因かどうかはさておき、付き合い方というか捉え方を見直したい熱にうなされ続けているのは事実。ただ、これまでと違うのは、一般的というか客観的な理想なり答えなりを希求するではなしに、あくまで個人的な在り方を問い直しているという実感。というわけで、今年(こそ)は観賞本数が「自然」に減ることを祈願して(来年は「自然」から括弧が外れるレベルを目指し・・・って、「目指してる」時点で・・・)、一週間強の映画断食を終えた映画ハンガーが向かった戦場は、TOHOシネマズ六本木。東京国際映画祭以外でTOHOシネマズ六本木で映画を観るなど、今や年に一度あるかないかの珍事。そんな私にとっての愚計も新年ならば、ちょっとは粋な椿事に変わる!?

とはいっても、そこにはどうしても合理を求めた思考もあるわけで。終了間近となったサントリー美術館の展覧会(「天上の舞 飛天の美」)を観ておきたいから六本木に行かなくちゃ、わざわざ六本木にまで出て直帰はもったいない、ならばシネマート六本木で何か観る?でも、新年だしパーッと景気よく(場所も作品も)いきたいところ(って、そういうところは柄でもなく、おまけに日頃疎む因習慣習重視型!?)。そういえば年末公開映画を早いところ捕まえなくちゃ。余所見してたら正月洋画の炎は消える。でも、そもそもシネコンでの初日から『ハンガー・ゲーム2』冷遇が焦りを焦らす。ところが、TOHOシネマズ六本木での上映は時間も場所(5番シアター)も最適だ。でも、いくら不入りが噂される『ハンガー・ゲーム2』とはいえ、(土地柄として)六本木だし(作品性質的に)六本木だからこそ、それなりに混んでたりする?と思って、Webで予約状況見てみると、開始3時間前で埋まっているのは実質3席。というわけで、映画ハンター、六本木で映画ハンガーより脱す。の巻。

それにしても、タイトルって難しい。特に、翻訳の必要性がある場合。本作は特別に「訳した」わけではないけれど、アルファベットがカタカナに置き換わるだけで印象が変わる。原題「The Hunger Game : Catching Fire」。カタカナとして日本語に定着した「ハンガー」は「hanger」だから、音で認識する場合はどうしてもそちらに引きずられてしまうわけ。「ハンガー(hunger)・ゲーム」を知らない人にとっては「ハンガー(hanger)を使う遊びかな」程度の認識で通り過ぎてしまうかも。おまけに、キービジュアルの色使い等々が(日本における一般的趨勢的に)切実さよりも遊戯的劇的効果を期待したような見た目だし、「識らない」「特に知ろうと思わない」層に向けての訴求力はとにかく望めない。端から「望んでない」のか、そもそも「望めない」のか、あえて「望まない」のか。実に難度の高い案件ゆえに、宣伝部等の苦労話を聞いてみたくもなる。きっと、好くも悪くも真面目そうな宣伝部。決着をつけとくべき一作目の公開時、ノー・モア・トワイライトの決意もないままに、同一轍を更なる深みや泥濘に。本国大ヒットでも、今の日本で(とりわけ若年層に向けて)洋画は完全アウェイ(って、元来理の当然)。ただ、『TIME/タイム(In Time)』がちょっと前(『ハンガー・ゲーム』公開と同年)に日本でスマッシュヒットとなった好例(例外、かも)があっただけに、もうちょっと「打つ手」をあれこれ思案しても好かったのでは、とも思ったり。

とはいえ、『ハンガー・ゲーム:キャッチング・ファイヤー』(もしくは、『ハンガー・ゲーム:(日本語等の副題)』)という(日本人には一見続編だと認識し難い)タイトルではなく、潔く(?)『ハンガー・ゲーム2』という「続編モロ出し」邦題を選択したところには、誠意を感じる。が、それは新規顧客を見込んでいないことも同時に意味してる。確かにゴールデンタイムに全国ネットで一作目を放映してもらうだけの「後ろ盾」もないだろうし(テレ東で平日の昼間に放映されていた・・・)、原作にしろキャストにしろブレイクの端緒になりそうな要因も見当たらない(そもそも翻訳小説全般、外タレ全般において追い風無風or逆風のなか、ではあると思うけど)。だけど、手薬煉引いて待ってる客に矢を売るだけなら、宣伝は単なるマーケティグの奴隷では?弓すら持ってない人、でもキッカケすらあれば弓を持っちゃうし矢も引いちゃう、そんな人にさりげなく手薬煉塗りつけるくらいの至芸が「映画の宣伝」においてもみてみたい。確かに、『アベンジャーズ』はじめ、『レ・ミゼラブル』やら『テッド』やらの洋画ヒット(予想を上回る規模の)は宣伝の功績だと思う。(特に『テッド』なんかは本当に巧くやったな、と思う。)でも、そもそも一定の潜在需要が見込める潤沢手薬煉組を見事に狙い撃ちしたり、別に映画じゃなくたって面白いものなら手薬煉塗っても構わなくってよ組を強引に口説いたりした結果。新規開拓、そしてそこから生まれる継続や定着。それこそがマーケットの縮小を食い止める、あわよくば拡大再生産的サイクルを指向し得る、本当の金脈なのではないだろうか。

一作目の公開時に何処からともなくやたらと取りあげられた『バトル・ロワイアル』との「酷似」。実際に見てみると、類似こそあれ、両作を観れば浮かび上がる対照性は各作品の個性を際立たせもしそうなもので、なぜそれを巧く使わないのだろう。そんな疑問を感じつつ、邦画ではラノベ的映画群が一定の訴求力を見せていた現実(これを利用したのが『TIME/タイム』だったのかな)を思うと、『ハンガー・ゲーム』の不戦敗が残念でならなかった。『リアル鬼ごっこ』なんて映画が5つ、テレビドラマまで作られてるっていうのに。(と言いつつ、「映画が3つ」くらいまでしか知らなかったけど・・・)

カットニスが放つ矢とは大きく異なって、私の話はまた逸れる。いつもはおちゃらけた印象の留学生(from ドイツ)が先日、「日本の若者は、会話がテレビと彼氏彼女の話題にばかり終始してる」と嘆いていた。それは私にとって「かつて」の印象だったので、「相変わらず」「いまだに」なのか「いま再び」なのか解らないが、そうした傾向が体感レベルで残っている事実に納得しつつもやっぱり焦燥してしまう。確かに、日本人は日常的な会話で真面目な話題を持ち出すことが苦手だし、慣習的にも好まれない。そのくせ、天候ネタのようにする政治おしゃべりは厭わない。だから、いつまでたっても世間的な、極めて具体的(つまり身近な)「社会」に留まろうとしてしまう。そんな日本人にとって社会を考える恰好の素材こそが〈物語〉だったのだろうし、その必要性はいまだに変わらない。と、私は思っているのだが、実際はあまりそれを必要としない人が増え、そのかわりに情報に飢え情報に翻弄され情報に蝕まれ、語らず騙ってばかりいる人間が増殖中。私自身、その渦中にいないとも抜け出したとも言い切れない。いや、渦中にいるのだろうし、これからも居続ける。人の間で生きる人間ならば仕方がない。でも、だからこそ、そんな世界を眺めるために「鏡」が必要になるのだろう。それが歴史であり、物語。そんなの日本でだって太古から伝統だったはず。

私が「ハンガー・ゲーム」シリーズを愛して止まない(のだろうと、この度痛感)のは、たとえそれがどんなにチープだろうが(いや、チープだからこそ)、思索に開放的な「俯瞰した社会」がそこに見えるから。それは娯楽を目的にしているからこそ残される可能性と言ってもいい。『太陽を盗んだ男』とか『新幹線大爆破』とかを熱く語る日本の映画ファンは数も質も根強いながら、「ハンガー・ゲーム」を大真面目に過熱気味に語り合っちゃうシネフィルの根は育つだろうか(とりわけ若年に)。

「映画」とは一体何なのか。そんな途方も無いテーマを掲げるつもりはない。なんてことはなく、気づけば「映画」の独自性を探ってしまっている私。殊に、「映画でなければならない」理由を欲する理由は沢山あるだけに。そんな妄想が新年暴走遂げた今、いよいよ『ハンガー・ゲーム2』を語りだす。(映画本篇に倣った冗長と幕切!)

2014年1月4日土曜日

アントニオ・サウラ 《大群衆》

 国立西洋美術館(上野)で明日まで開催されている「ソフィア王妃芸術センター所蔵 内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」展。出品数14点という小規模さのみならず、テーマや作家の「位置」的にも随分と似合ってしまう皮肉な処遇が展開されていた。私が足を運んだのは年末(後から知ったが、年内開館最終日だったよう)、平日の昼下がりながら美術館前のチケット売り場にはちょっとした行列ができている。が、それは「みんな大好き」モネ展に参詣する人々であり、常設展の一画(とはいえ、「入り口」として置かれ、フィーチャー感はそれなりに十分)でひっそりと佇む本展にまで足を向ける人は半数もいないのでは。(終始閑散として、快適だったのも事実。)
 私は端から本展目当てで赴き直行したのだが、たった14点とはいえ、西洋美術館のゆったりとしたスペースでじっくり落ち着いて鑑賞できる環境もあってか、合計小一時間近く留まってしまっていたかもしれない。何しろ、アントニオ・サウラの《大群衆》を目の前にして30分近くさ迷っていた気がするし。
 
 本展は、スペイン出身の四人の作家による作品で構成されている。いずれも、アンフォルメル(不定形)な芸術を志向した作家でありながら、フランコ体制下にあったスペインからアメリカへ亡命したホセ・ゲレーロとエステバン・ビセンテ、スペインに留まったアントニオ・サウラとアントニ・タピエスという、スペインの闇を「内と外」から描いた芸術家たちを対比させつつ(「内」と「外」は必ずしも一定ではないような示唆がある)対話させようという企画。それゆえに、2対2で浮かび上がってくる対照性もあれば、そうしてグループ化してみるからこそ浮かび上がる差異、分けてみたからこそ結びつく共通点等々、作品が具象的抽象表現であるが故に放つ原初の「叫び」が喚起する感動は破壊的に再生を反復して止まない。
 ソフィア王妃芸術センター館長のマヌエル・ボルハ=ビリェルも図録に寄せた文章において、次のように語っている。「彼らの絵画については、国内亡命地〔スペイン〕/国外亡命地〔アメリカ合衆国〕の分離を前提に両者の共通項をやたらに求めるのでなく、各作品の表現に国内亡命地/国外亡命地の対話として読み直すべきであろう。というのも、双方(スペイン国内の美術家とアメリカ合衆国で活躍したスペイン美術家)の美術動向は絶えず交流し、未来への展望を共有していたのみならず、それぞれに活路を必死に模索し、地方性を真剣に探求していたからである。」「画家の名前のない本展のタイトルは問題の提起として解読可能になる。誰が内に、誰が外にいたのか?20世紀美術についても尚、地理的な帰属や環境は支配的な要素と考えられるのか?あるいは四人の作品は、美術のみに実現可能な、目に見えない、国境を越えた共同体の所産として捉えられるのであろうか?」

  《大群衆》

 とにかく魅せられて止まなかったアントニオ・サウラの《大群衆》は、彼が繰り返し挑んだ「群衆」のモチーフ(全部で11作品あるらしい)のなかでも最大スケールの一作(3枚のカンヴァスをつなぎ合わせた、横幅515cmという巨大な作品)。向き合う時間、向き合う角度、向き合う位置により、浮かび上がる貌はめくるめく。ジャクソン・ポロックが余白による「奥」の宇宙であるとするならば、アントニオ・サウラは埋め尽くされた蠢く「迫」。しかし、どちらにも共通する刹那に宿った永遠性。
 
 引用されているアントニオ・サウラの言葉には、次のようなものがあった。
「絵画とは、まず何よりも白い表面であり、そこを何かによって埋めなければならないものである。カンヴァスは果てしなき戦場である。画家はそれを前にして、悲劇的であり、官能的なものを格闘しながら作り出し、命泣く横たわる素材を身振りによって激烈なる竜巻に変え、宇宙の果てまで常に光り輝くエネルギーを付与するのである。
 色彩、構図、素材は質感、意味、美や醜、バランスが取れているか取れていないか、そうした問題を私は気にしない。必要に応じて、何色であれ要求が生じた時に身近にある色で自分を満足させるのである。素材は使うためならどんな素材であれ―今現在は他の問題を避けるために光と影であるところの白と黒を使うが―用いるだろう。それでもし描くことができないのであれば私自身を表現するためにはどんな手段でも用いる。たとえそれが壁に穴をあけることであれ、単に叫ぶことであれ、チューイングガムをかむことであれ。
 具象か抽象か、また純粋主義か狂信主義か、美的か理論的か、そうした芸術に関するあらゆる不毛な議論を超越したところに、叫び、表面を埋め尽くし、足跡を残さんとする押さえがたい必要性がある。それは、精気に満ちた存在の可能性を目覚めさせる表現の必要性であり、それが女性の身体の愛に満ちた、または破壊的なイメージを通じてであれ、無またはすべて、絶望または強烈な空腹、拡張する全体または収斂する力学を通じてであれ、同じである。」

 ちなみに、映画監督として現在も活躍するカルロス・サウラは、アントニオ・サウラの弟。図録には、サウラ兄弟とルイス・ブニュエルが一緒に映っている写真も掲載されている。カルロス・サウラの映画は主要なものを全然観られていないのだが、『タンゴ』と『フラメンコ・フラメンコ』では、舞踏のもつ華麗さが精神性から醸造されることを知らしめられて打ちのめされた記憶が未だに鮮明。特に前者は、ル・シネマでの公開中に全く食指が動かぬ青二才であった私の背中を蹴り飛ばしてくれた先輩(バイト先の映画館で一緒だった)のおかげで、何とか劇場で観ることができた思い出深い作品。(ちなみに、私が観たのはル・シネマではなく、開館当初のワーナーマイカル・シネマズみなとみない[当時]。大手配給会社からの制裁によって、封切作品を回してもらえないなどという「大人の事情」があったシネコン黎明期、苦肉の策でかけていたミニシアター作品群の一作。『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』とか『遠い空の向こうに』とか観に行った。どの作品も観客が数名だった。)

 アントニオ・サウラの《大群衆》は1963年の作品なのだが、彼は1965年と67年に、クエンカのアトリエで各100点にも及ぶ作品を焼却していたらしい。そしてその後は1969年から1978年にかけて油彩の制作をやめ、紙作品の制作と執筆に専念したという。そうした事実からも、《大群衆》および当時の「群衆」シリーズが放つ魂の叫びが或る意味で「絶頂」にあったことがわかる。今回の展示では、油彩制作中断後の油彩作品(《磔刑》1979年)も展示されており、メタフォリカルな表現がより進化していて興味深い。しかし、私は《大群衆》の剥き出しの絶唱に全身が縛られた。

 アントニオ・サウラには《映画 1番》というドローイングにコラージュを組み合わせた作品もあるらしく、画一的に埋め尽くされた映画館の観客席の群衆と、奥のスクリーンにコラージュで貼り付けられた女性の写真が対比的に表されているものなんだとか(図録ではモノクロで参照画像が小さく掲載されている)。最近では「映画」そのものよりも、「映画をみる」という行為(とりわけ「劇場でみる」という行為)について論考したがりな自分にとって、豊かな考察の礎を与えてくれそうなシリーズ(?)ではないか!図録に寄稿された松田健児氏の文章(細やかな調査が親切に整理されていて興味津々しがいがある)によると、日本で個展も開かれ著作の邦訳も出版されたアントニ・タピエスに比べると、アントニオ・サウラ作品の日本への紹介は随分と「まだまだ」なようである。日本の美術館でアントニオ・サウラの作品を所蔵しているのは、長崎県美術館と国立国際美術館のみだとか。(だから、本展は長崎県美術館へ巡回[1月17日~3月9日]するんだね。)本展(は、「日本スペイン交流400周年」事業の一環でもあるらしいし)を足がかりにし、アントニオ・サウラ作品の本格的な日本への紹介が実現してくることを大切望。松田氏の文章でも十全に証明されていたスペイン・アンフォルメルと日本の伝統および前衛芸術の親和性からしても、必然かつ必要な回顧かと。

 さて、無知蒙昧にも関わらず「アート語り」から始めてしまうという無謀に出た新年。映画を語ることに自信をなくし、すべてが騙りにしか思えなくなってしまった昨年。まずはリセット、いつでもリセット。そんな気軽さを深遠さとはき違え、今年は行きます、往ってみます。最後に、図録に引用されていたホセ・ゲレーロの言葉を引用。

「思い出せる記憶の初めには、黒がそこにあった。人生の一部として。群衆の、風景の、そして孤独の中に。それは絶え間なく動いている何かであり、死ではなく生を表す叫びのようであった。時には、通り過ぎては消えてゆく黒い衣服の人物であり、またある時は、空の青と灰色を、大地の赤と黄土色を覆う雲の黒さであった。時には黒の不在が、それがそこに在ったことを私たちに思い出させるのだった。」

 この「黒」って、映画における闇、映画館における暗闇にも思えてしまう。