2014年1月6日月曜日

ハンガー・ゲーム2 〈序〉

2014年の映画初め。盆と正月は映画を観ない主義。主義といっては大袈裟だけど、個人的儀礼として定着してる習慣。そこから見えてくる映画の私的位置づけは、それが半ば「義務」や「仕事」としての色を帯びてきているということだろう。ただ、それがまさにモロ義務であったり仕事そのものであるなら問題はシンプルで、内面に複雑な事情を感じたり(拵えたり)する余地もない。ところが・・・これでは新年早々、信念粗相。とりあえず、映画を取り巻く環境(撮る側も観る側も)が激変したこの数年、それだけが実際上主原因かどうかはさておき、付き合い方というか捉え方を見直したい熱にうなされ続けているのは事実。ただ、これまでと違うのは、一般的というか客観的な理想なり答えなりを希求するではなしに、あくまで個人的な在り方を問い直しているという実感。というわけで、今年(こそ)は観賞本数が「自然」に減ることを祈願して(来年は「自然」から括弧が外れるレベルを目指し・・・って、「目指してる」時点で・・・)、一週間強の映画断食を終えた映画ハンガーが向かった戦場は、TOHOシネマズ六本木。東京国際映画祭以外でTOHOシネマズ六本木で映画を観るなど、今や年に一度あるかないかの珍事。そんな私にとっての愚計も新年ならば、ちょっとは粋な椿事に変わる!?

とはいっても、そこにはどうしても合理を求めた思考もあるわけで。終了間近となったサントリー美術館の展覧会(「天上の舞 飛天の美」)を観ておきたいから六本木に行かなくちゃ、わざわざ六本木にまで出て直帰はもったいない、ならばシネマート六本木で何か観る?でも、新年だしパーッと景気よく(場所も作品も)いきたいところ(って、そういうところは柄でもなく、おまけに日頃疎む因習慣習重視型!?)。そういえば年末公開映画を早いところ捕まえなくちゃ。余所見してたら正月洋画の炎は消える。でも、そもそもシネコンでの初日から『ハンガー・ゲーム2』冷遇が焦りを焦らす。ところが、TOHOシネマズ六本木での上映は時間も場所(5番シアター)も最適だ。でも、いくら不入りが噂される『ハンガー・ゲーム2』とはいえ、(土地柄として)六本木だし(作品性質的に)六本木だからこそ、それなりに混んでたりする?と思って、Webで予約状況見てみると、開始3時間前で埋まっているのは実質3席。というわけで、映画ハンター、六本木で映画ハンガーより脱す。の巻。

それにしても、タイトルって難しい。特に、翻訳の必要性がある場合。本作は特別に「訳した」わけではないけれど、アルファベットがカタカナに置き換わるだけで印象が変わる。原題「The Hunger Game : Catching Fire」。カタカナとして日本語に定着した「ハンガー」は「hanger」だから、音で認識する場合はどうしてもそちらに引きずられてしまうわけ。「ハンガー(hunger)・ゲーム」を知らない人にとっては「ハンガー(hanger)を使う遊びかな」程度の認識で通り過ぎてしまうかも。おまけに、キービジュアルの色使い等々が(日本における一般的趨勢的に)切実さよりも遊戯的劇的効果を期待したような見た目だし、「識らない」「特に知ろうと思わない」層に向けての訴求力はとにかく望めない。端から「望んでない」のか、そもそも「望めない」のか、あえて「望まない」のか。実に難度の高い案件ゆえに、宣伝部等の苦労話を聞いてみたくもなる。きっと、好くも悪くも真面目そうな宣伝部。決着をつけとくべき一作目の公開時、ノー・モア・トワイライトの決意もないままに、同一轍を更なる深みや泥濘に。本国大ヒットでも、今の日本で(とりわけ若年層に向けて)洋画は完全アウェイ(って、元来理の当然)。ただ、『TIME/タイム(In Time)』がちょっと前(『ハンガー・ゲーム』公開と同年)に日本でスマッシュヒットとなった好例(例外、かも)があっただけに、もうちょっと「打つ手」をあれこれ思案しても好かったのでは、とも思ったり。

とはいえ、『ハンガー・ゲーム:キャッチング・ファイヤー』(もしくは、『ハンガー・ゲーム:(日本語等の副題)』)という(日本人には一見続編だと認識し難い)タイトルではなく、潔く(?)『ハンガー・ゲーム2』という「続編モロ出し」邦題を選択したところには、誠意を感じる。が、それは新規顧客を見込んでいないことも同時に意味してる。確かにゴールデンタイムに全国ネットで一作目を放映してもらうだけの「後ろ盾」もないだろうし(テレ東で平日の昼間に放映されていた・・・)、原作にしろキャストにしろブレイクの端緒になりそうな要因も見当たらない(そもそも翻訳小説全般、外タレ全般において追い風無風or逆風のなか、ではあると思うけど)。だけど、手薬煉引いて待ってる客に矢を売るだけなら、宣伝は単なるマーケティグの奴隷では?弓すら持ってない人、でもキッカケすらあれば弓を持っちゃうし矢も引いちゃう、そんな人にさりげなく手薬煉塗りつけるくらいの至芸が「映画の宣伝」においてもみてみたい。確かに、『アベンジャーズ』はじめ、『レ・ミゼラブル』やら『テッド』やらの洋画ヒット(予想を上回る規模の)は宣伝の功績だと思う。(特に『テッド』なんかは本当に巧くやったな、と思う。)でも、そもそも一定の潜在需要が見込める潤沢手薬煉組を見事に狙い撃ちしたり、別に映画じゃなくたって面白いものなら手薬煉塗っても構わなくってよ組を強引に口説いたりした結果。新規開拓、そしてそこから生まれる継続や定着。それこそがマーケットの縮小を食い止める、あわよくば拡大再生産的サイクルを指向し得る、本当の金脈なのではないだろうか。

一作目の公開時に何処からともなくやたらと取りあげられた『バトル・ロワイアル』との「酷似」。実際に見てみると、類似こそあれ、両作を観れば浮かび上がる対照性は各作品の個性を際立たせもしそうなもので、なぜそれを巧く使わないのだろう。そんな疑問を感じつつ、邦画ではラノベ的映画群が一定の訴求力を見せていた現実(これを利用したのが『TIME/タイム』だったのかな)を思うと、『ハンガー・ゲーム』の不戦敗が残念でならなかった。『リアル鬼ごっこ』なんて映画が5つ、テレビドラマまで作られてるっていうのに。(と言いつつ、「映画が3つ」くらいまでしか知らなかったけど・・・)

カットニスが放つ矢とは大きく異なって、私の話はまた逸れる。いつもはおちゃらけた印象の留学生(from ドイツ)が先日、「日本の若者は、会話がテレビと彼氏彼女の話題にばかり終始してる」と嘆いていた。それは私にとって「かつて」の印象だったので、「相変わらず」「いまだに」なのか「いま再び」なのか解らないが、そうした傾向が体感レベルで残っている事実に納得しつつもやっぱり焦燥してしまう。確かに、日本人は日常的な会話で真面目な話題を持ち出すことが苦手だし、慣習的にも好まれない。そのくせ、天候ネタのようにする政治おしゃべりは厭わない。だから、いつまでたっても世間的な、極めて具体的(つまり身近な)「社会」に留まろうとしてしまう。そんな日本人にとって社会を考える恰好の素材こそが〈物語〉だったのだろうし、その必要性はいまだに変わらない。と、私は思っているのだが、実際はあまりそれを必要としない人が増え、そのかわりに情報に飢え情報に翻弄され情報に蝕まれ、語らず騙ってばかりいる人間が増殖中。私自身、その渦中にいないとも抜け出したとも言い切れない。いや、渦中にいるのだろうし、これからも居続ける。人の間で生きる人間ならば仕方がない。でも、だからこそ、そんな世界を眺めるために「鏡」が必要になるのだろう。それが歴史であり、物語。そんなの日本でだって太古から伝統だったはず。

私が「ハンガー・ゲーム」シリーズを愛して止まない(のだろうと、この度痛感)のは、たとえそれがどんなにチープだろうが(いや、チープだからこそ)、思索に開放的な「俯瞰した社会」がそこに見えるから。それは娯楽を目的にしているからこそ残される可能性と言ってもいい。『太陽を盗んだ男』とか『新幹線大爆破』とかを熱く語る日本の映画ファンは数も質も根強いながら、「ハンガー・ゲーム」を大真面目に過熱気味に語り合っちゃうシネフィルの根は育つだろうか(とりわけ若年に)。

「映画」とは一体何なのか。そんな途方も無いテーマを掲げるつもりはない。なんてことはなく、気づけば「映画」の独自性を探ってしまっている私。殊に、「映画でなければならない」理由を欲する理由は沢山あるだけに。そんな妄想が新年暴走遂げた今、いよいよ『ハンガー・ゲーム2』を語りだす。(映画本篇に倣った冗長と幕切!)