2014年1月13日月曜日

Damsels in Distress ダムゼル・イン・ディストレス

ノア・バームバック監督の最新作『フランシス・ハ()』では脚本も共同で担当し、女優としても数多くのノミネーションを受けるなど、いま最も注目される若手女性映画人の一人、グレタ・ガーウィグ(IMDb)。彼女主演の地味すぎる一作。

グレタは、昨年の東京国際映画祭のコンペでも上映され好評だった『ドリンキング・バディーズ』(『フランシス・ハ』と共にタランティーノのお気に入り2013に選出)のジョー・スワンバーグ(IMDb)監督と共同で、『』という作品を監督していたりもする。(彼女のスクリーン・デビューが、スワンバーグ監督作の「LOL」のようだ。)彼女は、やはり劇場未公開の(しかし、ソフトは昨秋リリースされた)『29歳からの恋とセックス(Lola Versus)』(音楽を担当しているのが、Fall On Your Sword!)でも主演。相手役は、『イージー・マネー』シリーズで人気沸騰後、新『ロボコップ』で主役に大抜擢されたジョエル・キナマン(IMDb)。同作は、来月WOWOWおよびスターチャンネルで初放映。評判は芳しくないものの、90分未満だし観ておこう。

本作はソフト販売およびレンタルは無く(ちなみに、ホイット・スティルマン監督の全作品が日本では未DVD化の模様)、配信のみでのリリース。私はスターチャンネルでの放映で最近ようやく観賞(初放映は半年ほど前みたい)。一般受けはしそうにないし、かといってシネフィル熱狂の王道とも違う、でも何処か惹かれて止まない滋味すぎる一作。

「フィルム・コメント」誌が選ぶ2012年のベスト50(劇場公開作篇)では、36位にランクイン。本作のそばには、『父、帰る』のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督作「Elena」(前作の「The Banishment」に続いて日本では未公開・・・)や、昨年のマイベストにも選んだベン・リヴァースの「湖畔の2年間」があり、このセレクション(順位的よりラインナップとして)はなかなか好み。

「damsel」は「少女(特に、身分の高い出自の)」、「distress」は「苦悩」や「窮地」といった意味で、「ダムゼル・イン・ディストレス」という言い方は常套句らしい

スターチャンネルWebサイトに掲載されている作品解説では、「キャンパス内の男性優位の風潮を何とか変えようとがんばる女子大生3人組の奮闘を描く、風変わりな青春ラブコメディ」と書かれてて、別に間違ってはいないけど、この文句で最も強調すべきフレーズは「風変わり」。

以下、ストーリー解説から引用。「“自殺予防センター”の運営など、大学のキャンパスで弱者を助ける運動にいそしむバイオレット、ローズ、ヘザーの3人組。彼女たちは、自殺願望者にタップダンスを勧めたり、欝気味の学生には香水の香りを嗅ぐよう勧めたりと、ユニークなアドバイスを行っていた。新学期、編入してきたリリーと仲良くなった3人は、いくつかの恋の始まりや終わりを共に経験し、成長していくが・・・。」

とにかくビートは刻まれず、かといってスウィングが流れるわけでもない。控えめにしようと図っているわけではないのだろうが、恬淡な空気で埋め尽くされる。こちらの手をひっぱったりしない安堵の持続。いつしか彼女たちのすぐそばにチョコンと座る自分。他では味わえない心地好さがある一方、苦悩だって描かれる。しかし、その傷みは、物語の演出に従事するのではなく、あくまで物語る人物たち自身に従属してる。

弱者でも強者でもない、しかしメインストリームにも縁遠い、お気楽すぎには抵抗あるが、がむしゃらになるのもどうかと思う。自分なりの意固地な信条唱えつつ、だけど内心いつでも不安。そんな普遍的機微の一襞一襞が丁寧に描かれる。だから、登場人物達の時に奇抜な発想や行動も、結果の不可解さよりも原因の部分で共有できるのだ。どんな珍妙さにも、好奇な眼差しを一切混入させない。賢明よりも懸命を信じてる。

中盤、失意のヒロインが寮を飛び出しモーテルに泊まる。翌朝、彼女に希望の想いが込み上げて来る。彼女をそんな気持ちにさせたのは・・・石鹸。「この石鹸(ソープ)が私に希望(ホープ)をくれたのよ」。世界はきっと、素晴らしい。

ラストではカーテンコールよろしく、フレッド・アステアの1937年『踊る騎士(A Damsel in Distress)』(音楽は『踊らん哉(Shall We Dance)』同様、ガーシュイン兄弟が担当)より「Things Are Looking Up」をキャンパスで皆で唱って踊って、最後は・・・優美さと、ゆるさ。全篇通して言えることだけど、狙ったり計算したりした狡猾巧緻な「ゆるふわ」じゃなく、真摯に生きることで生まれる「ゆるゆる(直線的には進めない蛇行な私たち)」や「ふわふわ(しっかり踏ん張ろうとするけど浮き足だっちゃうの)」。

主演のグレタは勿論のこと、中心となる四人の各々が見事に独自の魅力にあふれてる。普通はタイプが分かれると、思い入れが誰かに集中しそうなものの、本作の四人は違う。皆が皆、不完全の愛おしさ。そして、アンサンブルによって生まれる「完全」。女優陣はヴィジュアルも見事に個性を際立たせている一方で、男性主要キャスト二人が(知らない男優だったこともあってか)終盤まで見分け困難だったという事実も・・・ただ、そんな混同もむしろ御伽噺のいたずらのようで戯れがいはあったけど。

冒頭では主演のグレタ・ガーウィグの話題に終始してしまったが、本作の監督・脚本を務める(プロデューサーでもある)ホイット・スティルマンは、米インディペンデント映画ではちょっとした伝説の人物のようで、13年ぶりとなる本作は2011年のベネチア国際映画祭のクロージング作品に選ばれている

これを機にスティルマンの過去作(といっても3本しかないし)を全て観てみたいと思っても、前述の通り、日本ではVHSしか出ておらず。しかし、アメリカでは昨夏にクライテリオンから『メトロポリタン/ニューヨークの恋人たち』と『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』のブルーレイが発売されていることを知る。気張ってそちらに手を出すか、向こうでのBD発売が日本での放映等につながることを祈るか・・・。米インディペンデント系の映画って、一部の熱心な固定ファンが(既に)ついている作家のものくらいしか紹介されず、案外ヨーロッパやアジアの映画作家よりも日本に入って来にくい現状に陥ってる気がして寂しい。


2014年1月11日土曜日

マッドネスに首ったけ

昨日取り上げたRed Light Companyの元ヴォーカルは地味に(?)音楽活動を継続しているようで、個人的にもこよなく愛する名曲「夜の囁き(In The Air Tonight)」(by フィル・コリンズ)の女性ヴォーカル(Lucy Mason)によるカヴァーをプロデュースしてたりするみたい。そのLucy Mason嬢ですが、なかなか聴かせるオリジナルも唱っていました。



それにしても、このギターを弾く男性がイチローに見えて仕方ない(笑)

もう一発。こちらは何とMuse「Madness」のアコースティック・カヴァー!




「マ・マ・マ・・・マッドネス」のコーラスがギターだと物足りないという方には、こちら。




それにしても、海の向こうの学校では出し物のレベルも段違い。
こちらはMuseメドレーを振り付きで。




ナッシュビルの葉加瀬太郎&森高千里による(喩えが雑過ぎ)「Madness」もなかなか味がある。




お次の「Madness」では、自然と親しむ爽やかアウトドア系CMソングみたいに聞こえる!?




ついでに。
超絶クール!になり損ねたけど、オーケストレーションとの相性抜群ってことだけは十二分に伝わる「Knights of Cydonia」。コメントにもあるけど、序盤のトランペットが断末魔・・・。
 
 
それにしても、「カヴァー」文化が市民レベルで桁違い、というか根っこが違う。根自体も、その深さ・広がりも。何をカヴァーするかより、誰がカヴァーするか。カヴァーする相手(他者)はあくまで、自分の本領を発揮するための器として借りるだけ。でも、その結果、その相手が今まで見たこともない輝きを放ったり。「権利」とか「自由」とか「個性」とかってものが、語彙レベルじゃなしに体感として日常として根づいてる感が充満してる。漱石が説いた「自分本位」を想い出す。

2014年1月10日金曜日

Scheme Eugene

今日までユーロスペースでレイトショー上映されていた『消えたシモン・ヴェルネール』。
2011年のフランス映画祭で観た同作が、今になって不意に劇場公開というので驚いた。

そして、『桐島、部活やめるってよ』に言及する感想が洩れ聞こえてきたりすると、『桐島』を観る前年に観ていた自分の印象とはだいぶ違うような気もして、「通過する」ことで見えてくること見えなくなることってあるんだな、と実感。『消えた~』には『エレファント』の顕著な影響(模倣)を見出してしまって入り込めなかった私だが、『桐島』ではほとんど『エレファント』のことは頭をよぎらなかったりもしたし、通過してても人それぞれではあるんだろうけれど。

で、久しぶりに『桐島』のこと想い出したりしてた矢先に、ちょっと前のプレイリストとか眺めていたら、5年前の冬のマイ・ヘビロテ・ソングにしみじみ。Red Light Companyというデビューしたてのバンドの3枚目のシングル。そのミュージック・ビデオが、今見直すとまさに『桐島』と重なるところがあったので。



ハマったのはこの曲くらいだったんだけど、そういえばその後全然名前聞かないな・・・と思って調べてみれば、アルバム1枚で解散してたんだね。2009年のサマソニに出たりもしたらしいけど、その時の映像を観ると文化祭レベルで閉口・・・。この時期のUKバンドってアルバム1・2枚で解散しちゃうバンドが多かったよな。The Upper Roomとか、Boy Kill Boyとか、Mumm-Raとか・・・。と思ったら、Mumm-Raって去年復活したみたい

それでは、再結成を祝して。


2014年1月8日水曜日

13日終了の展覧会

13日(月曜というか祝日)で終了してしまう展覧会で、とても心に残ったふたつ。

一ヶ月前に行った時には、(平日の昼~夕方)とはいえ見事なまでの閑散具合がむしろ神秘的にすら感じられた「ジョセフ・クーデルカ展」(国立近代美術館)。昨日(7日)の夕方に行くと、随分と賑わっておりました。駆け込みなのか、口コミなのか。そんな盛況ぶり(?)もあってか、図録も売り切れ。自分用には先月購入済ながら、もう一冊必要になったので買って帰ろうと思ったのに残念・・・と思いきや、予約販売なるものが。その場で図録の代金(2,200円)を払い、送り先を記入した用紙を渡すと、後日郵送してくれるのだとか。しかも、送料無料(美術館負担?)。ただし、「10日ほどお時間を頂く」とのこと。その予約販売は際限なく実施するのかは不明だが、とりあえず昨日の閉館時刻にはミュージアムショップでそこそこの人数が申し込んでおり、私は70番台だった。
いやぁ、しかし、本当にこれはしっかりと言葉を残しておきたくなる、おくべき展覧会だと改めて感じ入り、そう記すことでセルフ・プレッシャー。昨年の写真展ではマリオ・ジャコメッリ写真展と並ぶ、胸いっぱいの愛。

もう一つは実に地味だし、随分と小ぶりな展覧会ではありますが、サントリー美術館で開催中の「天上の舞 飛天の美」。どんな内容かと言うと・・・Webサイトの展覧会概要よりそのまま転載すれば、「空を飛び、舞い踊る天人は「飛天」と呼ばれ、インドで誕生して以来、優美で華麗な姿で人々を魅了し続けてきました。本展覧会では、地域・時代を超えて展開 した飛天の姿を、彫刻・絵画・工芸の作品によってたどります。中でも、京都・平等院鳳凰堂の修理落慶に先立ち、堂内の国宝 《雲中供養菩薩像》を特別に公開 いたします。さらに、国宝 《阿弥陀如来坐像光背飛天》を寺外初公開し、鳳凰堂内の絵画・工芸表現とともに、平安時代の飛天舞う浄土空間を立体的に展示いたします。屈指の名品を間近に鑑賞できるたいへん貴重な機会をお見逃しなく。」

サントリー美術館には昨年の「谷文晁」展が抜群にエキサイティングな内容で、爾来異様にお気に入りの空間となり、今回の展示における「場」が放つ神秘もたまらない。とにかく、そもそも魅力的な空間(空気)である上に、一点一点を「浮かび上がらせる」照明の妙。2013年最優秀ライティング賞。そして、このテーマ、このイメージを今浴びる意義。それは、まさしく『かぐや姫の物語』の「再生」。あの世界観を自ずから反芻せざるを得ない、語り合い。「雲中供養菩薩像」等は、実際に平等院鳳凰堂で展示(?)されている場合は、かなり上の方を見上げる形で眺めねばならないようなのだが、今回の展示では間近でじっくりと視ることができ、その一体一体が放つ個性や自由に胸躍る。

一般の当日券は1,300円。この展示だけでは正直割高感に思えなくもない価格設定な気もするが、サントリー美術館のメンバーズ・クラブというのがあり、年会費5,000円で一年間入館フリーパス(同伴者1名も無料)。他にも色々サービスがあるみたいだし、昨年から高まった私の日本の古美術愛好熱もあいまって、入会してしまったよ。しかも、閉館1時間前になろうかという頃に着いて申込手続きをしたものだから(余裕もって行かずにすみません)、受付を担当してくれたスタッフの方は随分と気を遣ってくださり、細やかな配慮も適宜な中、優雅ながらもスムーズに手続を進めて下さいました。好感、そして多謝。ここは(というか、日本の古美術系展覧会全般に概ね言えそう)、入館者の鑑賞態度というか雰囲気も実に落ち着いているし、六本木のオアシスとしてもこれから重宝しそう。

2014年1月6日月曜日

ハンガー・ゲーム2 〈序〉

2014年の映画初め。盆と正月は映画を観ない主義。主義といっては大袈裟だけど、個人的儀礼として定着してる習慣。そこから見えてくる映画の私的位置づけは、それが半ば「義務」や「仕事」としての色を帯びてきているということだろう。ただ、それがまさにモロ義務であったり仕事そのものであるなら問題はシンプルで、内面に複雑な事情を感じたり(拵えたり)する余地もない。ところが・・・これでは新年早々、信念粗相。とりあえず、映画を取り巻く環境(撮る側も観る側も)が激変したこの数年、それだけが実際上主原因かどうかはさておき、付き合い方というか捉え方を見直したい熱にうなされ続けているのは事実。ただ、これまでと違うのは、一般的というか客観的な理想なり答えなりを希求するではなしに、あくまで個人的な在り方を問い直しているという実感。というわけで、今年(こそ)は観賞本数が「自然」に減ることを祈願して(来年は「自然」から括弧が外れるレベルを目指し・・・って、「目指してる」時点で・・・)、一週間強の映画断食を終えた映画ハンガーが向かった戦場は、TOHOシネマズ六本木。東京国際映画祭以外でTOHOシネマズ六本木で映画を観るなど、今や年に一度あるかないかの珍事。そんな私にとっての愚計も新年ならば、ちょっとは粋な椿事に変わる!?

とはいっても、そこにはどうしても合理を求めた思考もあるわけで。終了間近となったサントリー美術館の展覧会(「天上の舞 飛天の美」)を観ておきたいから六本木に行かなくちゃ、わざわざ六本木にまで出て直帰はもったいない、ならばシネマート六本木で何か観る?でも、新年だしパーッと景気よく(場所も作品も)いきたいところ(って、そういうところは柄でもなく、おまけに日頃疎む因習慣習重視型!?)。そういえば年末公開映画を早いところ捕まえなくちゃ。余所見してたら正月洋画の炎は消える。でも、そもそもシネコンでの初日から『ハンガー・ゲーム2』冷遇が焦りを焦らす。ところが、TOHOシネマズ六本木での上映は時間も場所(5番シアター)も最適だ。でも、いくら不入りが噂される『ハンガー・ゲーム2』とはいえ、(土地柄として)六本木だし(作品性質的に)六本木だからこそ、それなりに混んでたりする?と思って、Webで予約状況見てみると、開始3時間前で埋まっているのは実質3席。というわけで、映画ハンター、六本木で映画ハンガーより脱す。の巻。

それにしても、タイトルって難しい。特に、翻訳の必要性がある場合。本作は特別に「訳した」わけではないけれど、アルファベットがカタカナに置き換わるだけで印象が変わる。原題「The Hunger Game : Catching Fire」。カタカナとして日本語に定着した「ハンガー」は「hanger」だから、音で認識する場合はどうしてもそちらに引きずられてしまうわけ。「ハンガー(hunger)・ゲーム」を知らない人にとっては「ハンガー(hanger)を使う遊びかな」程度の認識で通り過ぎてしまうかも。おまけに、キービジュアルの色使い等々が(日本における一般的趨勢的に)切実さよりも遊戯的劇的効果を期待したような見た目だし、「識らない」「特に知ろうと思わない」層に向けての訴求力はとにかく望めない。端から「望んでない」のか、そもそも「望めない」のか、あえて「望まない」のか。実に難度の高い案件ゆえに、宣伝部等の苦労話を聞いてみたくもなる。きっと、好くも悪くも真面目そうな宣伝部。決着をつけとくべき一作目の公開時、ノー・モア・トワイライトの決意もないままに、同一轍を更なる深みや泥濘に。本国大ヒットでも、今の日本で(とりわけ若年層に向けて)洋画は完全アウェイ(って、元来理の当然)。ただ、『TIME/タイム(In Time)』がちょっと前(『ハンガー・ゲーム』公開と同年)に日本でスマッシュヒットとなった好例(例外、かも)があっただけに、もうちょっと「打つ手」をあれこれ思案しても好かったのでは、とも思ったり。

とはいえ、『ハンガー・ゲーム:キャッチング・ファイヤー』(もしくは、『ハンガー・ゲーム:(日本語等の副題)』)という(日本人には一見続編だと認識し難い)タイトルではなく、潔く(?)『ハンガー・ゲーム2』という「続編モロ出し」邦題を選択したところには、誠意を感じる。が、それは新規顧客を見込んでいないことも同時に意味してる。確かにゴールデンタイムに全国ネットで一作目を放映してもらうだけの「後ろ盾」もないだろうし(テレ東で平日の昼間に放映されていた・・・)、原作にしろキャストにしろブレイクの端緒になりそうな要因も見当たらない(そもそも翻訳小説全般、外タレ全般において追い風無風or逆風のなか、ではあると思うけど)。だけど、手薬煉引いて待ってる客に矢を売るだけなら、宣伝は単なるマーケティグの奴隷では?弓すら持ってない人、でもキッカケすらあれば弓を持っちゃうし矢も引いちゃう、そんな人にさりげなく手薬煉塗りつけるくらいの至芸が「映画の宣伝」においてもみてみたい。確かに、『アベンジャーズ』はじめ、『レ・ミゼラブル』やら『テッド』やらの洋画ヒット(予想を上回る規模の)は宣伝の功績だと思う。(特に『テッド』なんかは本当に巧くやったな、と思う。)でも、そもそも一定の潜在需要が見込める潤沢手薬煉組を見事に狙い撃ちしたり、別に映画じゃなくたって面白いものなら手薬煉塗っても構わなくってよ組を強引に口説いたりした結果。新規開拓、そしてそこから生まれる継続や定着。それこそがマーケットの縮小を食い止める、あわよくば拡大再生産的サイクルを指向し得る、本当の金脈なのではないだろうか。

一作目の公開時に何処からともなくやたらと取りあげられた『バトル・ロワイアル』との「酷似」。実際に見てみると、類似こそあれ、両作を観れば浮かび上がる対照性は各作品の個性を際立たせもしそうなもので、なぜそれを巧く使わないのだろう。そんな疑問を感じつつ、邦画ではラノベ的映画群が一定の訴求力を見せていた現実(これを利用したのが『TIME/タイム』だったのかな)を思うと、『ハンガー・ゲーム』の不戦敗が残念でならなかった。『リアル鬼ごっこ』なんて映画が5つ、テレビドラマまで作られてるっていうのに。(と言いつつ、「映画が3つ」くらいまでしか知らなかったけど・・・)

カットニスが放つ矢とは大きく異なって、私の話はまた逸れる。いつもはおちゃらけた印象の留学生(from ドイツ)が先日、「日本の若者は、会話がテレビと彼氏彼女の話題にばかり終始してる」と嘆いていた。それは私にとって「かつて」の印象だったので、「相変わらず」「いまだに」なのか「いま再び」なのか解らないが、そうした傾向が体感レベルで残っている事実に納得しつつもやっぱり焦燥してしまう。確かに、日本人は日常的な会話で真面目な話題を持ち出すことが苦手だし、慣習的にも好まれない。そのくせ、天候ネタのようにする政治おしゃべりは厭わない。だから、いつまでたっても世間的な、極めて具体的(つまり身近な)「社会」に留まろうとしてしまう。そんな日本人にとって社会を考える恰好の素材こそが〈物語〉だったのだろうし、その必要性はいまだに変わらない。と、私は思っているのだが、実際はあまりそれを必要としない人が増え、そのかわりに情報に飢え情報に翻弄され情報に蝕まれ、語らず騙ってばかりいる人間が増殖中。私自身、その渦中にいないとも抜け出したとも言い切れない。いや、渦中にいるのだろうし、これからも居続ける。人の間で生きる人間ならば仕方がない。でも、だからこそ、そんな世界を眺めるために「鏡」が必要になるのだろう。それが歴史であり、物語。そんなの日本でだって太古から伝統だったはず。

私が「ハンガー・ゲーム」シリーズを愛して止まない(のだろうと、この度痛感)のは、たとえそれがどんなにチープだろうが(いや、チープだからこそ)、思索に開放的な「俯瞰した社会」がそこに見えるから。それは娯楽を目的にしているからこそ残される可能性と言ってもいい。『太陽を盗んだ男』とか『新幹線大爆破』とかを熱く語る日本の映画ファンは数も質も根強いながら、「ハンガー・ゲーム」を大真面目に過熱気味に語り合っちゃうシネフィルの根は育つだろうか(とりわけ若年に)。

「映画」とは一体何なのか。そんな途方も無いテーマを掲げるつもりはない。なんてことはなく、気づけば「映画」の独自性を探ってしまっている私。殊に、「映画でなければならない」理由を欲する理由は沢山あるだけに。そんな妄想が新年暴走遂げた今、いよいよ『ハンガー・ゲーム2』を語りだす。(映画本篇に倣った冗長と幕切!)

2014年1月4日土曜日

アントニオ・サウラ 《大群衆》

 国立西洋美術館(上野)で明日まで開催されている「ソフィア王妃芸術センター所蔵 内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」展。出品数14点という小規模さのみならず、テーマや作家の「位置」的にも随分と似合ってしまう皮肉な処遇が展開されていた。私が足を運んだのは年末(後から知ったが、年内開館最終日だったよう)、平日の昼下がりながら美術館前のチケット売り場にはちょっとした行列ができている。が、それは「みんな大好き」モネ展に参詣する人々であり、常設展の一画(とはいえ、「入り口」として置かれ、フィーチャー感はそれなりに十分)でひっそりと佇む本展にまで足を向ける人は半数もいないのでは。(終始閑散として、快適だったのも事実。)
 私は端から本展目当てで赴き直行したのだが、たった14点とはいえ、西洋美術館のゆったりとしたスペースでじっくり落ち着いて鑑賞できる環境もあってか、合計小一時間近く留まってしまっていたかもしれない。何しろ、アントニオ・サウラの《大群衆》を目の前にして30分近くさ迷っていた気がするし。
 
 本展は、スペイン出身の四人の作家による作品で構成されている。いずれも、アンフォルメル(不定形)な芸術を志向した作家でありながら、フランコ体制下にあったスペインからアメリカへ亡命したホセ・ゲレーロとエステバン・ビセンテ、スペインに留まったアントニオ・サウラとアントニ・タピエスという、スペインの闇を「内と外」から描いた芸術家たちを対比させつつ(「内」と「外」は必ずしも一定ではないような示唆がある)対話させようという企画。それゆえに、2対2で浮かび上がってくる対照性もあれば、そうしてグループ化してみるからこそ浮かび上がる差異、分けてみたからこそ結びつく共通点等々、作品が具象的抽象表現であるが故に放つ原初の「叫び」が喚起する感動は破壊的に再生を反復して止まない。
 ソフィア王妃芸術センター館長のマヌエル・ボルハ=ビリェルも図録に寄せた文章において、次のように語っている。「彼らの絵画については、国内亡命地〔スペイン〕/国外亡命地〔アメリカ合衆国〕の分離を前提に両者の共通項をやたらに求めるのでなく、各作品の表現に国内亡命地/国外亡命地の対話として読み直すべきであろう。というのも、双方(スペイン国内の美術家とアメリカ合衆国で活躍したスペイン美術家)の美術動向は絶えず交流し、未来への展望を共有していたのみならず、それぞれに活路を必死に模索し、地方性を真剣に探求していたからである。」「画家の名前のない本展のタイトルは問題の提起として解読可能になる。誰が内に、誰が外にいたのか?20世紀美術についても尚、地理的な帰属や環境は支配的な要素と考えられるのか?あるいは四人の作品は、美術のみに実現可能な、目に見えない、国境を越えた共同体の所産として捉えられるのであろうか?」

  《大群衆》

 とにかく魅せられて止まなかったアントニオ・サウラの《大群衆》は、彼が繰り返し挑んだ「群衆」のモチーフ(全部で11作品あるらしい)のなかでも最大スケールの一作(3枚のカンヴァスをつなぎ合わせた、横幅515cmという巨大な作品)。向き合う時間、向き合う角度、向き合う位置により、浮かび上がる貌はめくるめく。ジャクソン・ポロックが余白による「奥」の宇宙であるとするならば、アントニオ・サウラは埋め尽くされた蠢く「迫」。しかし、どちらにも共通する刹那に宿った永遠性。
 
 引用されているアントニオ・サウラの言葉には、次のようなものがあった。
「絵画とは、まず何よりも白い表面であり、そこを何かによって埋めなければならないものである。カンヴァスは果てしなき戦場である。画家はそれを前にして、悲劇的であり、官能的なものを格闘しながら作り出し、命泣く横たわる素材を身振りによって激烈なる竜巻に変え、宇宙の果てまで常に光り輝くエネルギーを付与するのである。
 色彩、構図、素材は質感、意味、美や醜、バランスが取れているか取れていないか、そうした問題を私は気にしない。必要に応じて、何色であれ要求が生じた時に身近にある色で自分を満足させるのである。素材は使うためならどんな素材であれ―今現在は他の問題を避けるために光と影であるところの白と黒を使うが―用いるだろう。それでもし描くことができないのであれば私自身を表現するためにはどんな手段でも用いる。たとえそれが壁に穴をあけることであれ、単に叫ぶことであれ、チューイングガムをかむことであれ。
 具象か抽象か、また純粋主義か狂信主義か、美的か理論的か、そうした芸術に関するあらゆる不毛な議論を超越したところに、叫び、表面を埋め尽くし、足跡を残さんとする押さえがたい必要性がある。それは、精気に満ちた存在の可能性を目覚めさせる表現の必要性であり、それが女性の身体の愛に満ちた、または破壊的なイメージを通じてであれ、無またはすべて、絶望または強烈な空腹、拡張する全体または収斂する力学を通じてであれ、同じである。」

 ちなみに、映画監督として現在も活躍するカルロス・サウラは、アントニオ・サウラの弟。図録には、サウラ兄弟とルイス・ブニュエルが一緒に映っている写真も掲載されている。カルロス・サウラの映画は主要なものを全然観られていないのだが、『タンゴ』と『フラメンコ・フラメンコ』では、舞踏のもつ華麗さが精神性から醸造されることを知らしめられて打ちのめされた記憶が未だに鮮明。特に前者は、ル・シネマでの公開中に全く食指が動かぬ青二才であった私の背中を蹴り飛ばしてくれた先輩(バイト先の映画館で一緒だった)のおかげで、何とか劇場で観ることができた思い出深い作品。(ちなみに、私が観たのはル・シネマではなく、開館当初のワーナーマイカル・シネマズみなとみない[当時]。大手配給会社からの制裁によって、封切作品を回してもらえないなどという「大人の事情」があったシネコン黎明期、苦肉の策でかけていたミニシアター作品群の一作。『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』とか『遠い空の向こうに』とか観に行った。どの作品も観客が数名だった。)

 アントニオ・サウラの《大群衆》は1963年の作品なのだが、彼は1965年と67年に、クエンカのアトリエで各100点にも及ぶ作品を焼却していたらしい。そしてその後は1969年から1978年にかけて油彩の制作をやめ、紙作品の制作と執筆に専念したという。そうした事実からも、《大群衆》および当時の「群衆」シリーズが放つ魂の叫びが或る意味で「絶頂」にあったことがわかる。今回の展示では、油彩制作中断後の油彩作品(《磔刑》1979年)も展示されており、メタフォリカルな表現がより進化していて興味深い。しかし、私は《大群衆》の剥き出しの絶唱に全身が縛られた。

 アントニオ・サウラには《映画 1番》というドローイングにコラージュを組み合わせた作品もあるらしく、画一的に埋め尽くされた映画館の観客席の群衆と、奥のスクリーンにコラージュで貼り付けられた女性の写真が対比的に表されているものなんだとか(図録ではモノクロで参照画像が小さく掲載されている)。最近では「映画」そのものよりも、「映画をみる」という行為(とりわけ「劇場でみる」という行為)について論考したがりな自分にとって、豊かな考察の礎を与えてくれそうなシリーズ(?)ではないか!図録に寄稿された松田健児氏の文章(細やかな調査が親切に整理されていて興味津々しがいがある)によると、日本で個展も開かれ著作の邦訳も出版されたアントニ・タピエスに比べると、アントニオ・サウラ作品の日本への紹介は随分と「まだまだ」なようである。日本の美術館でアントニオ・サウラの作品を所蔵しているのは、長崎県美術館と国立国際美術館のみだとか。(だから、本展は長崎県美術館へ巡回[1月17日~3月9日]するんだね。)本展(は、「日本スペイン交流400周年」事業の一環でもあるらしいし)を足がかりにし、アントニオ・サウラ作品の本格的な日本への紹介が実現してくることを大切望。松田氏の文章でも十全に証明されていたスペイン・アンフォルメルと日本の伝統および前衛芸術の親和性からしても、必然かつ必要な回顧かと。

 さて、無知蒙昧にも関わらず「アート語り」から始めてしまうという無謀に出た新年。映画を語ることに自信をなくし、すべてが騙りにしか思えなくなってしまった昨年。まずはリセット、いつでもリセット。そんな気軽さを深遠さとはき違え、今年は行きます、往ってみます。最後に、図録に引用されていたホセ・ゲレーロの言葉を引用。

「思い出せる記憶の初めには、黒がそこにあった。人生の一部として。群衆の、風景の、そして孤独の中に。それは絶え間なく動いている何かであり、死ではなく生を表す叫びのようであった。時には、通り過ぎては消えてゆく黒い衣服の人物であり、またある時は、空の青と灰色を、大地の赤と黄土色を覆う雲の黒さであった。時には黒の不在が、それがそこに在ったことを私たちに思い出させるのだった。」

 この「黒」って、映画における闇、映画館における暗闇にも思えてしまう。