2013年5月27日月曜日

はじめて、たったひとりで映画を観る。

といっても、映画館へは基本的にいつも独りで赴いてます。では、なぜ「はじめて」なのかと言えば、それは劇場内に「たったひとり」だったから。それほど珍しくもなく度々経験されてる方もいるようですが、「空いてる劇場マニア」であるこの私であっても、実は今まで一度も体験したことのなかった貸切(状態)観賞。ついに、悲願成就であります!

ちなみに、記念すべき第1作(というか、次もあるのか?)は、今月公開されたリメイク版『死霊のはらわた』。公開してしばらく経った平日、夕方の回。郊外のシネコン。そこでは、公開1週目であっても観客数名のことは珍しくなく(2桁いると「おぉ!」という印象)、これまでも「2人鑑賞(もちろん、もうひとりは他人です)」は年に数回ありましたし、今年で言えば、『横道世之介』も『ジャンゴ』も400席程の劇場に「3人鑑賞(もちろん、皆さん互いに他人です)」だったりもしましたが、そんなところでも、さすがに「たったひとり」になったことは今までありませんでした。(予告の間に「もしや?」は何度かありました。)

いくら一度は経験してみたかった貸切(状態)観賞とは言え、よりによって『死霊のはらわた』で叶わなくたって・・・と、半ば戦きながら本篇開始。ところが、同作が演出する恐怖は背筋が凍る類のものではなくて、瞬発的に総毛立つ絶叫マシン型。そうなると杞憂であったばかりか、盛り上がらないことこの上ない・・・。勿論、他に観客がいたとしても、そこの劇場におけるいつもの客層なら「ワーキャー」いったりする事態にはならぬだろうが、それでもやはり「気配」はある。恐怖に限らない。場内にたちこめる「空気」、それも誰かが発する何かしらの波動が共鳴したり弾けたり。確かに、微かに、劇場には観ている者たちが放つ喜怒哀楽の匂いがする。そして、それがあって完成する「映画館でみるということ」。

『ラスト・スタンド』を平日昼間に観た某シネコンは、小箱になってて縮みシネスコでガッカリな上、両隣の中高年男性が終始鼻づまりでステレオ全開。ウゼェ~と思っているうちに、スヤスヤしてしまうダメ自分。

『アイアンマン3』は個人的に全然ノレなかったけど、川崎のIMAXなのに久々に上質な客層だった。隣のカップルとかも微動だにせず、微音すら発さず、反対の隣の男性は飲み物おくときすら音をたてぬよう気を遣っていたりした。そんな彼らと共に醸造した「緊張感」は、たとえ個人的に愉しみポイント刺戟されぬ同作でさえ、否が応でも「入りこませてくれる」演出の快い虜。

『朝食、昼食、そして夕食』では久々のK'sシネマ。客層が随分上品で、やや苦手な劇場への印象が変わり、安堵とともにスヤスヤ・・・。あの「やさしく見守る」感が漂う場内では、睡魔に襲われた私も心安らかに・・・(責任転嫁)。

『リンカーン』では、隣の女性のしめやかな落涙にこちらの涙腺まで刺激され、『ジャッキー・コーガン』における絶対的退屈の強度に負けぬ観客の退屈塊感は異常なまでにサスペンスフル。

映画館で映画を観る意義って、もしかして、「ひとりじゃない」ことなのかもしれない。読書の単独とも、ライブの共同とも異なる享受の体験。素敵な客でもムカつく客でも、そのとき観た映画の記憶を彩ってくれている。劇場という場の力。それは、ハードに因るものよりも、そこに集う人が産み出す「空間(空気の間柄)」の力かも。だから、施設設備的こだわりの強い私であっても、香りが好みであれば足が向くし、臭いに辟易すれば避けがちになってしまう、映画館。

2013年5月24日金曜日

きっと、うまくいく/3 idiots

インドで歴代興収の新記録を樹立したという本作は2009年の映画。おなじみのボリウッド製ミュージカル映画とはやや異なったヴィジュアルで、未踏の愉しみに触れられそうなワクワク胸に、ちょっと遠征してみたり。インド映画としては珍しい小規模ながらも拡大公開(去年の『ロボット』とかもそうかな)となった本作ゆえに、シネコンの大スクリーンでボリウッド堪能したい熱。チネチッタでの一週目は、個人的にはチネチッタで最も好きな11番スクリーンでの上映ということもあり、行って来ました。本拠地(?)シネマート新宿では平日でもかなり混雑してるといった情報が聞こえて来てもいたので、いつもはゆったり観賞できるチネチッタでのミニシアター系作品とは状況が違うかもという覚悟のもとに入ってみると・・・客層は違うものの(独り客と二人連れとが同数くらい)、いつも通りのゆったり(平たく言えばガラガラなんだけど。平日の夕方だからね)で快適贅沢に観賞終了。

あの大画面で大音量でインド映画観られてるって状況だけで満悦気分にひたれはするものの、本作に充満するハッピー成分は適度過ぎるほどの正しい配合で、確かに飽きることも緩むこともなく余裕で一息170分。ただ、そのサクサク感はインド映画の定石は抑えつつも、ボリウッド特有のトゥー・マッチな喜怒哀楽(とりわけ、怒や哀には余計に熱量割かれたりする)が見受けられることなく、ボリウッド・ミーツ・ハリウッド的なテイストを感じたり。

本作のあらすじを知ったとき、「なぜ、こういった作品が大衆から広範な支持を集めたのだろう」と思いもしたが(主人公の三人組は超エリートの理系大生というのだから)、実際に観てみれば、ただ単にエリートを憧憬するでも茶化すでもなく、競争や序列といった社会のシステムを再考するための舞台として設定されている。そして、明らかに(?)カースト制の根強さとその呪縛から解放を願う民衆の切なる祈りが投影された物語が展開されているように思う(だからこその、歴代興収No.1)。

インドが全世界的にみてもIT業界においてトップクラスの人材を数多く輩出しているという事実は、従来のカースト制に該当するカテゴリーのない「新しい職業」として誰もが挑戦できる分野であったことに起因するという話をよく聞くが、それが権威となった今、エンジニアといった職業も一つの名誉ある「カースト」になり得たということだろう。そして、三者三様の呪縛からの解放。自由への渇望。学長への度重なる反抗は、社会的な権力や因襲といった外圧となる大きな既存の権威への懐疑から生まれるものながら、本作が掘り下げるのはむしろ内的な枷の自覚にある。だからこそ、社会を変えるよりも自分が変わることが重要であり、それでこそはじめて「すべてうまくいく」気分を味わえる。どの社会にも共通する幸福必定思想ではあるが、とりわけインドのような社会においては勇気づけられる「生き(往き)方」なのだとも思う。

本作の原題は、「3 idiots」。ある辞書によれば、「idiot」とは「官職につけない人」という意味のギリシャ語に由来しているという。なるほど、彼らはまさに官職(既存秩序の枠組を維持する立場)につくような人間ではない。闘争による革命ではなく、セルフ革命による幸せ探し。国家に個人(の自由)を認めさせるヨーロッパとは異なった、そもそも個人の自由は所与であるという自然。しなやかな個人を社会が埋め尽くすことはできないのだろう。


2013年5月22日水曜日

サマー~あの夏の記憶~

WOWOWのジャパン・プレミアにて日本初紹介となった2008年の作品(原題:Summer)。エンドロールを見ていると、ケン・ローチ作品のプロデューサーであるレベッカ・オブライエンの名を見つけ、終いには制作にSixteen Filmsが参加している事実まで。主演の二人が、ロバート・カーライル(『リフ・ラフ』『カルラの歌』)も、スティーヴ・エヴェッツ(『エリックを探して』)も、ケン・ローチの作品で主演を務めた俳優だったし、テイストもやや近いものをそこはかとなく感じながら観てたけど、どうりでね。

にしても、清々しいほど地味な小品で、WOWOWでの放映とはいえ、日本に紹介されたのが意外。これって、ロバート・カーライルが主演だったから?ケン・ローチ関連推しはしてないみたいだし。偉大なる、フル・モンティ。いや、トレインスポッティング・フォーエヴァーか。というより、あの頃のUKフィルムのゴキゲンさ(個人的にはそこまでもれなく好きなタイプの作品群ではないけれど)は日本でのミニシアター作品に一定のファッション性(しかも、親しみやすい)を与えてくれてもいたなぁ、なんてノスタルジー。

本作は、幼なじみの二人の男の「もつれた絆」を、現在と過去とを往来しながら描いてく。そして、最後にわだかまったきっかけの真相が明かされ・・・。ありがちなプロットながら、ストイックなまでに起伏を起伏にしようとせずに、昂揚に恬淡な澄まし顔で物語は進んでく。監督のケニー・グレナーンはテレビの仕事を多く手がけているようだし、映画となったら「より映画的」な語りにこだわったのかもしれないなどと勝手な憶測してみたり。

こういった映画の、劇場でまったりと観てこそな心地好い脱力で帰路につける不思議な贅沢感覚が懐かしい。渋谷のミニシアター(しかも、多少オシャレ感のあった・・・かつてのシネマライズ、シネアミューズ、シネセゾン渋谷のように)、真夏のレイトショーで観た帰り、腕にあたる生ぬるい風にヒンヤリ成分を一瞬感じたり・・・みたいな観賞体験を妄想してみたり。

エンドロールで流れてくるKing Creosote「Home In A Sentence」がもたらす清涼安堵感も、ありがち以外のなにものでもない「パターン」でありながら、愁傷をやさしく癒やす、ひだまりの詩。



2013年5月21日火曜日

ニュートン・フォークナー@渋谷 duo music exchange

先週末にはGREENROOM FESTIVALにも出演したニュートン・フォークナー。たったひとりで奏でる遙かな宇宙。野外で広がる声と音の世界を堪能してみたかった。そう思わずにはいられない、穏やか和やか嫋やか艶やか伸びやか鮮やか、万有引力。

2ヶ月前、ルーファス・ウェインライトの弾き語りコンサートにも魅了されはしたものの、ルーファスが豪奢なスポットライトなら、ニュートンは包み込むよなサンシャイン。ピアノは弾けてもギターは弾けぬ自分にとって、一心同体の如きギターとの「デュエット」はまさに羨望と別次元の憧憬と陶酔。そして、ニュートンのスタイルはまさに声とギターが微笑みながら見事に相乗。融け合う寸前の極度の際立ちが双方を互いに引き立てる。

今日のセットリストにもおなじみのカバーが3曲あったが(マッシヴ・アタック「Teardrop」、スティービー・ワンダー「Superstition」、そしてクィーン「Bohemian Rhapsody」)、それらはオリジナルが放つ楽曲のオーラをまといながらも、ニュートンの体内に吸収されつくした後の新たな息吹として放たれる。彼が抱いてるギターの中に、音は音楽は一端吸い込まれ、そこから彼の宇宙でビッグバン。

CDで聴くよりも遙かに厚みをもった歌声は、ハーモニックス・スペーシー。CDでも聞こえてくるギターの息づかい。腕を、手を目の当たりにできる「その場」では、ニュートンの全身がギターの全身とラブ・アフェア。だけど、そこにあるのは純粋な、愛と愛の物語。

向こう4日間のための溌剌が倍加されたような月曜の夜。ライフ・ゴーズ・オンはうれしい、たのしい、大好きさ。


「あと2曲だよ。でも、次の曲はめっちゃ長いかんね」と言って、この曲唱い始めたよ。

2013年5月20日月曜日

The Cinema Guild

イメージフォーラム・フェスティバル2013で上映された「リヴァイアサン」。冒頭で見覚えのあるロゴにニヤリとしてしまう。CINEMA GUILD。最近、米国Amazonから取り寄せたソフトでたびたびお目にかかる、その社名。しかも、「昔々、アナトリアで」や『ニーチェの馬』、オリヴェイラの「The Strange Case of Angelica」(アンゲロプロス『時の翼』といい同作といい、フランス映画社配給作品の劇場公開の行方やいかに・・・)といった極私的極上フィルムに限って(おまけに、いずれもBlu-rayを出してくれている)。

そのThe Cinema Guildは、ソフト販売は勿論、米国で作家性の強い外国語映画を数多く配給しているようだ。そのラインナップを見れば、フランスからはジャック・リヴェット、アニエス・ヴァルタ、ブノワ・ジャコ、アラン・コルノー、グザヴィエ・ボーヴォワなどの作品を紹介し、ラウル・ルイスからクリスティアン・ペツォールトやジョアン・ペドロ・ロドリゲス、タル・ベーラやアレクサンドル・ソクーロフ、ヌリ・ビルゲ・ジェイランの監督作なども配給してる。更には、ジャ・ジャンクーやホン・サンスといったアジア勢の作品まで積極的に取り上げてもいれば、勿論アメリカのインディペンデント作品の配給にも意欲的な姿勢が窺える。今年の私的ベスト・フィルムの1本であるベン・リヴァース『湖畔の二年間(Two Years at Sea)』(恵比寿映像祭で2回観て、爆音映画祭でも観る予定!)まで配給しているようだし、やっぱり私的相性もかなり好さそうな、The Cinema Guild。

現在公開中(米国で)の中には、ラウル・ルイスの遺作「向かいにある夜」があったり、「リヴァイアサン」があったりするのだが、未見の二作品への興味が高まる。

Shilton Ha Chok(The Law in These Parts)


O som ao redor(Neighboring Sounds)

とりわけ、「Neighboring Sounds」は是非観たい。早く観たいけど、今年のラテンビート映画祭で上映してくれそうな来もするし。ロッテルダムで国際批評家連盟賞を受賞するなど、昨年の映画祭ではあちこちで注目を集めた一本のよう。監督はブラジルのレシフェ生まれで、映画ジャーナリスト出身だとか。短編は数多く発表してきたものの、同作が初長編監督作。


ところで、The Cinema Guildが配給しているアラン・コルノー監督作は、「Stupeur et tremblements(Fear and Trembling)」。この作品、日本では劇場未公開ながら、フランス映画祭2003で上映されたらしい。それにしても、この年も来日ゲストが実に豪華(やはり横浜時代は盛大だったんだね・・・)。同作は、日本が舞台で、シルヴィー・テスチュがセザール賞を獲得していたりするものの、その内容からか日本の配給会社に買い手はなかったようで。そういうパターン、多すぎる気もする。日本万歳的なものは即座に食いつくくせに。(ま、どの国でも同じような傾向はあったりするのかな。)

2013年5月19日日曜日

リヴァイアサン

今年のイメージフォーラムフェスティバルでも最注目作品だった『リヴァイアサン』。「ハーバード大学の感覚人類学研究所に所属する映像作家兼人類学者の二人(ルシアン・キャステイン=テイラー、ヴェレーナ・パラヴェル)による、漁船漁業の様子を極小カメラで捉えたドキュメンタリー」という説明だけで、興奮のやり場がない悦楽。



(本作は87分だが、最新作は360分らしい・・・)

「見たことのない映像」といった場合、そこには仕掛けの「大きさ」による圧倒がある。しかし、本作における「見たことのなさ」はむしろ足下にこそ転がっていたりする。その、近すぎる遠さこそが畏ろしく、麗しい。

人為による斬新に狎れた鑑賞眼も、剥き出しの生命が跋扈する様には興奮引き回しの刑に処せられる。喜んで。

無軌道の動線が遠近法を無化してくれる。この世界にはアングルが無数あること。そんな当然を自然に帰しもする。

画面に人間が映り込んだ瞬間、その画は凡庸と化す。見馴れ過ぎた人間の退屈さから、見ずに来た自然の生命を待望し続ける。安穏とした悦楽から遠く離れた未知なる領域での、彷徨。方向を見喪って初めて叶う、自然への奉公。見えない(見てない)ものにこそ潜む怪物(リヴァイアサン)が誘い出す神聖なる畏怖する気持ち。未踏は不可侵、未到の世界が見とうなる。

人間の視点(主体)からは捉えられぬ対象(客体の姿)が横溢するフレーム内。そこから沸き立つ無限のフレーム外。主体性の心地好い崩壊は、主体が世界へと没入する過程。蓄積されたパターンが無意味となる無力な類推。そこに円滑な認識はないが、円滑でなくてよい認識を許された精神は自由な享楽に耽るだろう。

2013年5月17日金曜日

トム・ティクヴァ 《3》

ウォシャウスキー姉弟と共同監督を務めた『クラウド アトラス』が月に公開されたトム・ティクヴァの2010年作品。ヴェネツィアのコンペにも出品されたが、日本では劇場未公開。コアなファンが多くいるタイプでもなければ、メジャーとは程遠い微妙な「ネーム」のトム・ティクヴァとしては、その「名」頼みでは公開困難だとしても、下世話な興味をひきそうなプロットだし、そのうち日本にも紹介されるかと期待して待ち続けるも、そのような気配は全く立ち籠めず、結局自力でDVD観賞(予告しか特典映像なくて残念)。英語字幕で観たので、台詞の妙とかほとんど味わえきれちゃいないけど、それでも好きを痛感したよ、トム・ティクヴァ。

『パフューム ある人殺しの物語』『ザ・バンク 墜ちた巨像』といった「大きな」作品が続いた後、しかもドイツ(語)で撮る久々の長編とあって、かつての垢抜けすぎないスタイリッシュという映画オタク(映画館で映写や作品選定を担当してた)出自を遺憾なく発揮する、全編ティクヴァ節。『ラン・ローラ・ラン』のような若さの迸りも愉しかったけど、色々経験して落ち着きながらも遊び盛りな悪戯好きティクヴァもなかなか好いね。初期の『マリアの受難』や『ウィンタースリーパー』(『ラン~』のヒットで劇場公開されたんだよね。前者はイメフォ、後者はシネ・アミューズ。ミニシアターが若者で賑わってた時代[遠い目・・・])なんかで感じた洒脱な陰鬱さが心地好い。ペイル・ブルーな雰囲気が全体を蔽いつつ、時折挿入されるアクセント(白バックに黒装束の三人がダンスをしたり、顕微鏡がとらえる卵子の映像や、アニメ風の影絵調な画だったり)が微かな転調を施して、2時間ほどの上映時間も一息で。

キャストでは、アダムを演じたデーフィト・シュトリーゾフ(Devid Striesow)が『ヒトラー~最後の12日間~』や『ヒトラーの贋札』にも出演していたらしく(『東ベルリンから来た女』の監督・主演コンビによる「イェラ」にも)、見覚えある気がしたものの、他のキャストは馴染みがないし、とりたてて華があるタイプもいない。ただ、シモンを演じたセバスティアン・シッパーは『ギガンティック』の監督だったと後で知る。同作は、ティクヴァ作品に出演していたシッパーが、ティクヴァの後ろ盾を得て(彼がプロデューサーを務めてもいる)監督した作品だとか。ちなみに、シッパーはこれまで本の映画を監督。2本目はダニエル・ブリュール主演の「僕の友達」(ドイツ映画祭2007で上映)。
最も「魅惑」であるべきアダムですら、眉目麗しさを敢えて抑えたキャスティングにも思えるが、年齢設定的にも、それが自然なのかもしれない。それは作品世界を外見で構築するよりも、内面(つまり、演技)で醸成させる覚悟にも思えたり。

スタッフは、音楽・撮影・編集・美術などいずれもティクヴァ組の面々。ということは、大作系での経験を活かしつつも、それらでの制約などからの解放感を噛み締めつつの仕事だったのだろうか等と推察。なかでも、ティクヴァ作品の劇伴制作チームの仕事が脂乗り過ぎで胃もたれ気味・・・だけど、その「鳴りすぎ」感がティクヴァ好きにはたまらない(はず)。それを中和するかのように、既成曲の使用が見事なアクセント。

ドビュッシーが完成させた唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』の音楽がたびたび用いられるのだが(コミカルな演出との小粋なケミストリー!)、モーリス・メーテルリンクによるその物語は、王太子ゴローの妻メリザンドとゴローの異父弟ペレアスの禁断の愛を描いたもの。心憎い選曲だ。

そして本作における選曲といえば、デビッド・ボウイの「スペイス・オディティ」。(ベルトルッチの『孤独の天使たち』での大フィーチャーに続いて、本作でも序盤に2回[サビ前で寸止め]流れ、エンドロールではフルで流れる。)この曲で月面着陸をする宇宙飛行士の名はまさに、トム!

キーヴィジュアルから明らかなように、本作は男2・女1の三角関係を描いた恋愛ドラマ・・・だと思って見始めると、斜め45度な心地好い裏切りに酔い始め・・・。まぁ、よーく見てみれば、女性が男性に挟まれているのではなく、その列びや向きから一筋縄でいかぬのは瞭然。

付き合い始めて20年になるハンナとシモン。婚姻もまだなら、子供も本格検討に至らずじまい。そんななか、シモンの母が癌で他界。そして間もなくシモンも患っていた癌のために手術(睾丸を一つ摘出するのだが、その手術シーンがさりげなく「モロ」だったりする・・・)。その間に、職場で知り合ったアダムと一夜の快楽に身を任せてしまったハンナ。一方、シモンは退院後、プールで会ったアダムと「熱い絆」を感じてしまい・・・。ちなみに、そのアダムは付き合っている青年(職場での助手?)がいる一方、バツイチでもあり息子がいる。という無茶苦茶な粗筋ながら、至って静謐さを保ちながら語られてもいる。落ち着いたまま、眼の前で展開される「異様さ」を見守れば、それが至極普遍的にすら思えて来る不思議。丁度折り返しの1時間を過ぎたところで、シモンとアダムの「ときめき」が発生するというペース配分も抜群。そこからのさりげなくも昂揚促進な転調ぶりは堂に入った職人芸。

全体的に淡い蒼に包まれながら、アダムにときめくシモンのハートはイエロー。出会いの場であるプール(川の中にある、実に魅力的な空間)は黄色が印象的な内装で、薬局でふとアダムを思い出して買おうとするキャンディ(?)も黄色だったり。こういうさりげない「差し色」の使用のように、ニヤリなディテイル愛でてるティクヴァ。

また、「3(Drei)」というタイトルだけに、「3」が隈無く散りばめられている。気づいただけでも、つの睾丸(2つ持つ男と1つになった男)や、ケーキカットの掛け声(イチ、ニ、サン!)、ハンナは双子を妊娠してつの命。そもそも、トム・ティクヴァ自身も「3」づいていて(?)、『ラン・ローラ・ラン』は確かローラが回走るんじゃなかったか(違うかも)。最近では、『クラウド アトラス』を人で監督したわけだしね。作中にはもっとたくさんのが溢れていることと思う。とはいえ、偏執一歩手前な手加減はちょうどな塩梅。

娯楽としても抜群な牽引力をキープしながらも、ファム・ファタールとは(性別のみならず)別種のオーラを放つ(ように演出された)男の名が「アダム」であるように、それは男女(男男)の恋愛を超越し始めて、人類愛へのコール&レスポンスに昇華する。そうしたストーリーテリングの匙加減は、トム・ティクヴァ独特のあっさり濃厚な味わいが極上で、次回作が楽しみすぎる。



(余談1)
ハンナとシモンが映画館(名画座)に行く場面。二人がおしゃべりしていると、シネフィル青年が注意する(「爺さん、婆さん」なんて呼びかけてるし)が、他の観客も一人客で、姿勢良く極めて静かに観賞してる。ドイツ映画祭での殊勝な観賞状況を想起してしまったり。(アメリカやフランスなんかの映画で出てくる映画館内の雰囲気とは大違い)

(余談2)
ハンナとアダムは医学博士のようだが、彼らが(おそらく)IPS細胞の話をする場面があり、「Yamanakaを知ってるかい?」のような台詞が不意に出てきてニヤリ。

(余談3)
キャスティング的にも、物語的にも、R指定要素(特に、男性同士のベッドシーンがやや刺戟強めかも)からも、劇場公開が困難そうなのは十分判ったけれど、かといって東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映するには敷居が高そう(とりわけ上映権料なんかが)だし、ドイツ映画祭も事実上休止中だし、東京国際映画祭では(国別・地域別の映画祭がない)国や地域の作品をもっと上映して欲しかったり。EUフィルムdaysも年々・・・だし。シネスコで、画面分割(細分化)が演出の一つとして多用されたりもしているので、大きなスクリーンで観たかった。『パフューム』も『ザ・バンク』も上映一週目に、シネコンのお気に入り大スクリーンでの上映を捜して観に行ったっけ。でも、両方とも数名しか観客いなかった。そう考えるとやっぱり・・・。


2013年5月15日水曜日

藁の楯

今日から始まったカンヌ国際映画祭。今年はコンペに日本映画が2本選出されている。是枝裕和『そして父になる』、そして三池崇史『藁の楯』。

三池監督は、私が映画を見始めた頃から「みんなが気になる」監督の筆頭に位置していた存在で、そうしたポジションが10年以上も余裕で持続してるという事実は実に凄まじいことだと思う。けど、それがあたかも自然に当然のように続いてきたってところも三池監督らしい気がしたり。

とはいえ、『藁の楯』に関しては予告から受ける印象が異様に厭な臭気を放っており、観賞作品厳選スタイルという今年のモットーからも「見送りリスト」に入れてしまっていたにも関わらず、「カンヌ・コンペ入り!」の報を受け、急遽マストに変更(はい、権威に弱いです)。でも、そういった不純さ混じりで臨むが故の楽しみ方(?)もあるわけで、「これだけ高い評価が聞こえて来ない作品が、なぜコンペ入りしたのだろうか」という問題意識で見始める。(たまたまハシゴの都合上、公開初日の夕方に観た。)

序盤・中盤と「らしさ」を端々に感じはしながらも、何処か慎重さと手堅さに縛られた窮屈さが漂いがちにも思えた本作。昨年の『愛と誠』や『悪の教典』のように好き勝手な三池劇場とは完全にベクトルの異なったプログラム。おそらく、(三池監督が撮る)「必然性」だけを本作に捜し求め続けると、望み通りの答えは見当たらず、一抹の寂しさがエンドロールによって一気に拡散されていったりするだろう。しかし、前述のような問題意識で臨んだ私には、終盤で「腑に落ちる」瞬間が待っていた。(これ以降、ネタバレ含みます。)

それは、大沢たかお演じるSPの言葉に語らせた(託した)と思われる、本作の最深テーマであり気骨な主張。妻を交通事故で亡くした彼は、悲しみや憎しみを乗り越え、理性的に職務を全うしようとしていたが、それは妻のある言葉のためだと説明してきていたのだが・・・そんな彼が、その「妻の言葉」は実際のものではなく、「心の中でつくりあげた物語」なのだと告白。そうした「物語」を自分の中で捏造でもしなければやってられなかったのだ、と。しかし、その「物語」こそが(他の登場人物たちとは違って)自らの理性や信念による自律を支え続けたのも事実。そして、それは「国家の威信」などという外力(これは、金欲しさの攻撃や憎しみによる復讐にも共通する、〈個人〉をのみこんでしまう〈社会〉的圧力)に屈することなく、というより孤高たる主体性を宿し続ける〈個人〉による〈社会〉への「反乱」でもあるだろう。〈社会〉によって用意された「物語」はいつしか、機械仕掛けの自己矛盾製造機。しかし、自らが駆動する欺瞞を〈社会〉はどうすることもできないだろう。その「物語」に別の筋書きを書き込めるのは、〈個人〉の内なる痛み(悼み)や叫び。

「物語」を英語字幕では何と訳すのだろう。直訳としては「story」なのだろうが、ここはやはり「fiction」として、〈社会〉の虚構性や擬制による犠牲を想起させ、それをも凌駕する、〈個人〉の想像力に勝利の希望を感じたい。そう考えるならば、〈社会〉というシステムが常に孕む欺瞞に抗いうる一つの「答え」が描かれ示された真摯な社会派のドラマが展開されている。

〈社会〉に〈個人〉が屈しない、それはフランス人には顕著な願望であり、最優先倫理観。その一方で、直接的に対抗や拮抗で勝負するのではなく、〈社会〉の枠組にははまりながらも、決して〈個人〉としての尊厳はゆずらない主人公の日本的(?)な道徳。(一昨年、カンヌ・コンペ入りを果たした同じく三池監督作『一命』とも通ずるところがあるかもしれない。)A級を端から目指さぬ特B級な作風は、抜け目ない娯楽ではないものの、むしろ「抜け目」に思考の余地を与えてくれる。説明不足の向こうに透ける、〈個人〉と〈社会〉の共犯、離反、すれ違い。個人的には本作のカンヌ・コンペ入りはかなり納得できた。


2013年5月14日火曜日

孤独な天使たち

私が映画を観始めた学生時代にはまだ、ベルトルッチがそれなりにコンスタントに作品を発表している時期だった。当時、シネコンでアルバイトしていた私は、シネスイッチ銀座で観てきた『シャンドライの恋』の素晴らしさが解らずに、シネフィル(というタイプでもなかったかな)の先輩から色々と講釈を受けた記憶がある。それは別に「上から」とか「訳知り顔」とかではなく、純粋に「この人はこの作品が好きなんだろうなぁ」という熱量を浴びられるだけで嬉しくなる交流の場だったように思う。当時、その職場にいた社員も映画好きなバイト仲間も、実に柔軟かつ貪欲な映画愛に溢れていたが故、「べき」による否定や「のみ」なフォーカスとは無縁に、いつでもどこでも出ていく覚悟の自由な興味で映画を渡り歩けてた。それが映画を数的にも見始めた時期だったこともあり、とても恵まれた「洗礼」を受けた気がしてもいる。一方で、映画館でバイトしながらも、大して映画に興味ない人や、普通には興味ある程度の人も結構いたりして、それでも場所が場所だけに自然と映画の話になることは少なくなく、そんな中で交わされる各人の映画観からは学ぶところが多かった。

と、本作について語れる「内容」をさして受け取れずに観賞を終えたことがバレバレな書き出し。

正直言って、前述の先輩の講釈を受けたい気持ちで観ていた本作。観てるこちらが、あの地下室になかなか入っていけない気分。なものだから、地上から無理して覗き込んでる感じが続く。

ところが、ある阿呆な妄想に端を発し、急激に勝手に楽しみ始めてしまう。それは、「この姉は実はもう死んでいるのではないか?」という妄想。(つまり、『シックス・センス』的な発想。)そう考えると、二人の邂逅の切なさは増し、別離から再会までの〈不在〉は更新される。思春期の迷えるロレンツォの元に遣わされた「天使」のオリヴィア。地上(現実)に還ってゆくとき、「天使」は姿を消してゆく。

誰もがセンチメンタリズム全開で嬉々として愛でるラストシーン。それには私もやはり抗えず。あれを車椅子の老齢監督が撮っているという事実には、「あこがれ」の放つ眩しさに喜んで目を細めてしまう。


公式サイト

2013年5月13日月曜日

イタリア映画祭2013 (6)

傑作『もうひとつの世界』が「Viva! イタリア」なる特集で来月劇場公開されるジュゼッペ・ピッチョーニ監督の最新作『赤鉛筆、青鉛筆』では、マルゲリータ・ブイ(『もうひとつの世界』にも主演)が現実的(だが、そんな自分に懐疑的でもある)校長を、リッカルド・スカマルチョが熱意溢れる臨時教員を、ロベルト・ヘルリツカが情熱も希望も失って久しい美術教師を演じている。一見、意欲も希望も潰えた生徒ばかりが埋めつくしているかのような高校が舞台。

欧米(と一括りにするのは誤りかもしれないが)の教師視点の(というか、教師が主人公の側にある)学園ものを見ていて思うのは、日本(というかアジア?)とは明らかに異なった「職業」なのだとしばしば痛感してしまう。社会的な位置づけや、従事する人間の認識などにも顕著だが、それはおそらく「学校」という場に期待されるもの(あるいは、期待しないもの)が明らかに異なるからだろうと思う。例えば、現在公開中の『ブルーノのしあわせガイド』で描かれていた教育観と本作のそれは通じるところがある。例えば、義務の遂行を怠った者を安易に「慈悲」深く救済しないという主張がある一方で、教養を育む場として学校に期待すべき最上の機能は文化的な薫陶であるという思想である。親子もどき友達もどきな人生相談歓談雑談な戯れ教師が長きに渡ってもてはやされてきた日本の学園ものとは明らかに違う。しかし、最近の日本映画やドラマにおいては、随分と様変わりしてきているという現状もある。とはいえ、ロベルト・ヘルリツカ演じる教師が説く芸術の深奥に魅せられる生徒の好奇心に、最たる可能性を見出そうとする本作の姿勢に比すれば、日本において学校に期待される役割の卑小さを感じずにはいられない。

三人の教師と数名の生徒を軸に語られる各エピソードは、そのひとつひとつは見応えがそれなりにあるものの、それらが縒り合わさって浮かび上がるシナジーは余りに稀薄で、そうした散漫さが現代の高校における空気とでも言わんとしているならば正攻法かもしれないが、作品自体が迫ってくる力を失わせているとも言える。ただ、そうした分解気味な本作において、ラストの「静寂」(管理)と「喧噪」(解放)、そしてそれらが生む機微に想いを馳せる穏やかな幕引きには、ピッチョーニ監督の底力を感じたりもした。

それにしても、ロベルト・ヘルリツカの存在感は格別だ。昨年のイタリア映画祭で上映された『七つの慈しみ』(期待の新鋭双子監督ジャンルカ&マッシミリアーノ・デ・セリオ初の長編劇映画)における破格の魔力に圧倒されたこともあり、その残響を浴びているかのような本作だった。(ベロッキオ『夜よ、こんにちは』で誘拐されるアルド・モロ首相役での名演は言わずもがな。)



最終日、最終回では、マッテオ・ガッローネ監督の『リアリティー』が特別上映された。私は昨年の東京国際映画祭で観て完全に魅了されていたので、今回もとりあえず前売券を購入。しかし、実は、今回再見しようと思ったのには理由があって・・・。それは、イタリア映画祭での上映作品は基本的に「フィルムで上映される」という事実から勝手に「『リアリティー』がフィルムで観られる!」と勘違いしてしまっていたからなのです。本当に単純で短絡的過ぎました。上映が始まり、「デ、デジタルだ・・・」となるまで、フィルムで上映されることを信じて疑わぬ馬鹿でした。考えてみれば、東京国際映画祭で上映したデジタルデータがあるにも関わらず、わざわざフィルムを取り寄せるわけないではないか・・・実に浅はかな淡い期待に胸躍らせてしまったものだ。そんな失意も手伝ってか、有楽町朝日ホールのエコノミークラス以下な身体環境と、遠くて小さいスクリーン、そして(連日堪能させてもらい続けたフィルムの奥行に比べると)没入を拒絶されるかのようなデジタルの画には、どうしても耐えがたい思いが噴出し、序盤で途中退場。東京国際映画祭での鑑賞が自分なりに「見事」だっただけに、わざわざ劣る環境で再見する価値も見出せず、再見の楽しみはひとまずおあずけに。


今年のイタリア映画祭では、上映作品の多くに経済危機の影が見受けられ(内容面で)、「休暇に銀座で観る」といった背景に些かそぐわぬ空気が醸され続けた有楽町朝日ホール。(個人的には陰鬱作品も好きだけど。)そうした傾向も手伝いつつ、ここ数年で慣れてきた(というか、自分なりに攻略の域にすら達した気でいた)有楽町朝日ホールに対し、超絶苦手意識が爆発寸前になりつつある兆し、厭な予感。来月にはフランス映画祭。秋にはフィルメックス。彼処に足を踏み入れがたくなると、貴重な作品との邂逅がかなり阻まれてしまう。(まぁ、フランス映画祭は有料試写会的になりつつあるけれど) (いつも座るところではない)ブロックとか諸々変えてみようかな。そういう問題ではなさそうだけど、気が紛れたりするかもしれないし。

2013年5月10日金曜日

フランシス・ベーコン展

恒常的美術愛好家に限らず、広く注目を集めるような美術展がたまに開かれるが、「べーこんてん」はまさにその類のイベントといった趣、を感じる。そうした感慨は、自身でも覚える。

個人的には「実に興味深い」感覚は抱けても、「心底感応」するタイプの画家ではない、フランシス・ベーコン。とはいえ、まとまった作品を目の当たりにしたことがある訳でもないので、今回の好機は確かに貴重。

その力強さや強烈な個性には激しく揺さぶられる想いを味わいながらも、今回の展示作品数33点という少なさが残念でもある。これから、という佳境な気分の眼前に現れる「出口」の二文字。クレーム回避(といえば大袈裟か)とはいえ、しつこいほどに「ガラス越しの鑑賞を強いるのはベーコン本人の意志」的なエクスキューズ(=だから映り込み激しくて見づらくても我慢してね)の断り書きがしばしば添えられているという無粋仕様にも何だか興醒め。とはいえ、存り難い価値を内包した企画であることは私などでもわかる。(作品の掻き集めには随分苦労したように思われるし。)

16世紀から17世紀にかけて生きたフランシス・ベーコンが「知は力なり」と言って近代の礎を是認したのに対し、20世紀の80年強を生きたフランシス・ベーコンは近代が生み落とした怪物に悶え苦しむ人間の裏面を暴き出し、「血こそ力なり」とでも言いたげだ。人間の理性が世界を切り拓くことを唱道した近代黎明期の哲学者に対し、理性という軛からの解放を叫ばんとする近代終焉への祈り。

少ない点数とはいえ、こうしてまとまってベーコン作品を目の当たりにしてみると、メディア等で接する彼の作品から受ける短絡的なイメージ(あくまで私のなかでそうだった、という話かもしれないが)とは相当に異なる帰結が待っていた。迸る存在感というよりも、喪失直前の叫びのような。横溢する生命力よりも、消失に喘ぐ孤絶な魂。キャンバス全体に比すれば極めて「孤立」として浮かぶ人物。しかも、それはいつも単独なのだ。展示の解説文には、体が透けたスフィンクスに「それでも漲る存在感」というような評があったが、私にはむしろ「スフィンクス(=人類による文明?)の卑小さ(反永遠性?)」こそが迫り来る。画面の半分近くを閉める闇たる虚空が何よりもそれを物語っている。「教皇」シリーズに関しては、「ベーコンは宗教(の崇高さ?)に強い関心を持っていたに違いない」的な解説文もあったと思うが、ベーコンが関心を寄せたのは宗教や信仰そのものというよりも、聖俗の狭間で揺れ動いたり分裂しそうな人間の葛藤にこそ興味があったのではないかと私は思う。もだえ、もがき、もみつぶす。脳の産物である社会の強大な圧力に、心ある人間の不完全さが抗い敗れ、それでも擦れ、違う。緘黙の背景(社会)と、雄弁な身体(人間)。すれ違い続けること、それだけが唯一つの真実。そんな風にベーコンは、私に語りかけてくれていた。

フランシス・ベーコン展は、東京国立近代美術館で5月26日迄。豊田市美術館では、6月8日から。

2013年5月8日水曜日

イタリア映画祭2013 (5)

イタリア映画祭2013の後半戦では、4本を観る予定だった。

そのなかで最初に観たエミリアーノ・コラピ監督作『家の帰り道でSulla strada di casa)』の出来が出色で、ただ単に地味なだけの印象に傾きかけていた今年の映画祭にとって「台風の目」。そのいずれもが2012年作品であった今年のラインナップのなかで唯一2011年作品であるのも伊達じゃない。

映画祭のカタログにはエミリアーノ・コラピのインタビューが収録されているが、それを読むと彼が描きたかった〈世界〉がより鮮明に。「われわれは今、正しさと間違いの差が曖昧な、漠然としたかたちで示されることが多い時代を生きている。」確かにそうした〈世界〉の様相を象ろうとする欲求は、映画の語りとして定番の感もある。しかし、本作が興味深いのは、そうした善悪や正邪のボーダーレス化や両義性を〈社会〉の結果として呈示するのではなく、〈個人〉の過程に寄り添ってゆくことだ。そして、更に、そうした〈個人〉が抱える脆さの帰結として待ち受ける宿命的なメタモルフォーゼ。しかも、それが連鎖しながらも(絶望的な循環)、訣別を生み得る可能性(希望の兆し)までをも描こうとする姿勢に、個人としての人生における真摯さと作家として人間に向けられた誠実さが静かに込み上げてくる。(1年もかけたという編集の妙も大いに貢献)

監督が語るように、本作においては「アイデンティティ」の問題が根幹にある。その固持がうむ排他性はしばしば描かれるし、道徳的戒めに堕してしまうことも少なくない。しかし、本作においては一貫性の危機自体を描くというよりも、一貫性を前提としての揺らぎが描かれている。本人は理想や希望を十二分に理解しながらも、その理解に基づいた行動が互い違いの現実へと導いて行ってしまう。監督の言葉を借りるなら、「本来の自分に戻りたがっている」のである。

今年のイタリア映画祭には、経済危機を背景とした陰鬱な現実がこびりついた作品が実に多かった。本作も例外ではないのだが、監督が「経済危機は物語の背景だがテーマではない」と語っているように、現実に依存した語りに陥ることなく、普遍性へと昇華して語ることに成功しているように思われる。映画祭上映作品中、最も短い83分の作品でありながら、最も「劇的」であった本作。短篇やドキュメンタリー、CMなどで活躍してきたという監督の歴史が見事に昇華された劇映画。エミリアーノ・コラピ監督の今後が楽しみ。

(ちなみに、本作に主演したヴィニーチョ・マルキョーニの主演作「20 sigarette」は、多くの映画祭・映画賞で好評価を得るにもかかわらず、日本で紹介される機会が未だなく、残念だ。)


フランチェスカ・コメンチーニ監督の『ふたりの特別な一日(Un giorno speciale)』は、公開中の『ブルーノのしあわせガイド』(昨年のイタリア映画祭で「シャッラ/いいから」として上映)でデビューを飾ったフィリッポ・シッキターノと、本作でデビューを飾るジュリア・ヴァレンティーニの、ほろ苦くも甘酸っぱい(のを狙ったと思しき)シンデレラ風ラブコメ調ドキュメンタリー・タッチ系!?!?

昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペに選出された一本だという事実は驚愕で、『嘆きのピエタ』と『ザ・マスター』がデッドヒートを繰り広げ、ベロッキオやアサイヤス、テレンス・マリックまで名を連ねたコンペリストに入るべき一本とは到底思えず。コンペのイタリア映画枠なら、ダニエーレ・チプリの『それは息子だった』とベロッキオの『眠れる美女』だけで十分だったはずだろうに、プログラミング・ディレクターとして革新的な働き(というかメジャー感アップや中華系取り込みな拡大路線といった感じか)をみせたマルコ・ミュラーに変わっての前任者アルベルト・バルベラの復帰が意味するところとは。(でも、『嘆きのピエタ』をカンヌではなくヴェネツィアに出品させられたのは、彼のギドクへの働きかけに因るところが大きいんだとか歓迎する向きもあるし、今年からが本番かな。でも、授賞式がイタリア語のみで進行する[英語通訳が一切入らない]っていうのは、例年のことなのだろうか。或る意味、すごいな。)

私がフランチェスカ・コメンチーニの作品で観ているのは前作『まっさらな光のもとで』のみなので、それ以前の力強い作品群を知らないのは極めて残念ながら、どうやら今は迷走中、これからも先行き不安な状況のよう。映画祭カタログの解説によれば、フランチェスカは、ベルルスコーニの買春スキャンダルに際して退陣要求のデモやキャンペーンを展開した女性運動のネットワークの発起人のひとりだそうである。従って、本作の「肝」は、そうした背景に根ざしているのかもしれず、通俗的で軽薄な「ラブコメごっこ」や「観光(にすらなっていない退屈な見せ方だが)もどき」も、あえて琴線に触れるどころか掠りすらしないことを期待しての「からっぽ」だったのかもしれない。が、ルカ・ビガッツィのイマジネーションが虚しくイリュージョンとして浮かんでは消えていくもったいなさ(贅沢さ?)は、個人的には寂寞ばかりが増幅してゆく冗長な90分。
 
 
映画祭初日に仕事で観られなかった『赤鉛筆、青鉛筆』、そして『リアリティー』については次回。

2013年5月7日火曜日

マリオ・ジャコメッリ写真展

連休中には映画祭の合間を縫って、いくつかの展覧会にも足を運んでみたが、東京都写真美術館で開催中(終了迫る!5/12迄!)のマリオ・ジャコメッリ写真展には打ちのめされるほどの心服の念で全身が畏怖してしまった。

白、それは虚無。黒、それは傷痕。

写真展に添えられたジャコメッリの言葉。実在感を喪失したかのような「白」の背景は、滅亡でも忘却でもない「無」の世界をたたえている。そこに浮かび上がる「黒」は自然、如何ともし難い眼前の頑然堅固な現実を灯しては、佇み続けてる。しかし、その「強すぎる黒」が放つ躍動に私は心掻き乱され、その向こうに見える深遠なる深淵が今にも魂を吸いつくさんばかりに迫ってくる。こんなにも「動いている」モノクロ写真は見たことがない。それが私のジャコメッリの写真に対する、第一かつ最終印象だ。

写真術の発明により、人間の視覚を「遠近法」に閉じ込めた近代。視点は固定され、中心が設定され、世界の無辺際や流動は切り取り切り捨てられて来た。しかし、ジャコメッリの写真を見ていると、「フレーム」による有限・限定・固定・停止がむしろ、無限の起点に思えてしまう。切り取ったからこそ感じられる「切り取られ(取れ)なかったもの」がフレームの〈奥〉に蠢いている。そして、それはむしろ空間的なものよりも、時間的なものとして内包されている。

以下は、写真展でみかけたジャコメッリの言葉だ。

 それぞれの映像が一つの瞬間であり
 それぞれの瞬間が一つの呼吸の様なものだ。
 一つ前の呼吸が次の呼吸より大切だということはない。
 呼吸はすべて停止するまで次々と続く。

写真はいわば「停止」の芸術だ。それでは、その「停止」によって写真は呼吸を止めたのだろうか。

呼吸を止めた世界、それは我々が肉眼では実際に見ることのできない世界であり、写真の術であると同時に業でもある。こんなにも愛おしい瞬間が、愛おしい視点(視界)がこの世界にあるという喜び。それを永遠にする術。しかし、死んだからこそ生き続けているという業。ところが、ジャコメッリの「停止」には、息を止めたからこそ感じられる内なる鼓動のような心音が聞こえてくる。固定された中心には息が吹き込まれ、やがてそれは動き出す。封じ込まれた流動は、解放されて躍動し出す。セザンヌの絵をみているときのようなバクつく心臓を感じてしまう。

人が風景であり、風景が人である。肖像画の風景、風景画の肖像。

虚無たる白に刻まれる黒は、白紙に記されゆく言葉でもあるのだろう。
生の証としての黒、死への導きとしての黒。しかし、そのどれもが生をも死をも内包してる。

2013年5月3日金曜日

イタリア映画祭2013 (4)

映画祭3日目には、『来る日も来る日も』以外にも2作品を観賞した。
(座談会も観たのだが、疲れからか、かなりの時間を睡魔にさらわれた・・・)


朝に観た一本は、ドキュメンタリー作品で実績のあるレオナルド・ディ・コスタンツォ監督による初の劇映画『日常のはざまL'intervallo)』。「劇映画」とはいえ、やはり出自からの緩やかな「流入」を体現するかのごとく、主役の二人には演技経験のない素人の若者を起用し、舞台も実際の廃墟(かつて精神病院だったらしい)における「様々な貌」を丹念に嘗めてゆく。情報的というか条件的には、明らかに極私的性向に適った作品に思えたが、今年のイタリア映画祭における序盤のやや陰鬱色にくるまれた作品群からの疲弊か、はたまた寝不足ゆえか、作品内時間に心地好く寄り添いながら観ることは叶わなかった。

主演の二人が演技未経験ということもあり、十分なワークショップを経ての撮影だったらしいのだが、そのプロセスが適正なものであったことは、作品としての「成立」が示している。鮮度を削ぐことはないのに、入念さが育む鮮やかさが其処此処に散らばっている。閉じられた〈内〉を泳ぎ回っている彼らの向こうに、〈外〉が常に睨みをきかせているという構図を、作品の成立事情がなぞらえる。まさに、劇映画にドキュメンタリーを投影させているかのよう。

撮影はイタリア映画稀代のヴィジュアリスト、ルカ・ビガッツィ。パオロ・ソレンティーノ作品における流麗な連続画の趣とは違い、『トスカーナの贋作』で見せた「たゆたう眼差し」が作中に細波を立て続けてる。誰の眼でもないのに誰かの眼。そんな不確かな確かさが居心地の悪さを演出しつつも、束の間のオアシスの「束の間」を常に強調している気がしてくる。

本作の上映終了後、ゲスト(編集を担当したカルロッタ・クリスティアーニ)が登壇し、Q&Aが始まった途端にすかさず挙手した中年女性がいた。「私は彼女(登壇したゲスト)のことは尊敬してますし、(これから言うことは)別に翻訳しないで好いんですけどね・・・」と不服露わな口調で切り出し、作品に対する具体的な意見をいくつが述べた後、「これは映画と呼べるんですかっ!?」「こんなものをイタリア映画祭でかける意味があるんですかっ!?」と憤然たる非難の声を上げていた。「アンケートに書いても、どうせ有耶無耶にされるだけだろうから、ここで言わせてもらうわ」的なエクスキューズも添えつつ。途中、「素晴らしい作品だった!」と客席から声があがるも、その女性は「それは、あなたにとっては・・・」と全く意に介さず、壇上では戸惑うゲストと通訳と司会の三名。そこで、「主催者として説明させて頂きますと・・・」とこれまで完全機能不全だった司会の男性が初めて働いた。が、「イタリア映画祭の趣旨」よりも「各国の映画祭で評価された事実」が結論の中心になってしまっていたようにも思える発言内容には、正直ちょっと残念だった。(が、まぁ、あの状況で冷静にあの程度喋れれば上出来なのかもしれないけれど・・・ハイパー上から目線ですみません)

一瞬にして物々しい空気が立ち籠めた有楽町朝日ホール。気まずさと気詰まりが充満した場内に、休日の朝っぱらから観に来ている殊勝な観客の長閑は木っ端微塵。私も「あちゃ・・・」と「うざ・・・」で憂いが心に広がりかけもしたのだが、実は結果オーライな展開を見せる面白い側面も。そのやりとりの直後に勢いよく手を挙げた壮年女性が上品に本作への賛辞を述べると、場内から指示する拍手。上映終了後のどんよりとした停滞ムードから一転、妙な活気がホールを包む。

品位のない独善女性の「抗議」は最初こそ許し難く思ったものの、終わってみれば適度な起爆剤として作用してしまい、本人の意に反し(?)、「こういう作品こそ映画祭で上映されるべき」的結論が呈されたようにも思える一幕だった。(ちなみに、その女性の声や話し方は聞き覚えがあったので、その手の常連さんなのかもしれない。)



3日目の最後に上映された『フォンターナ広場 イタリアの陰謀Romanzo di una strage)』は、「『輝ける青春』のジョルダーナ監督最新作」との触れ込みが奏功してか、前売完売(たしか2回目の上映分も)の大入り。しかし、イタリアの実録物を甘くみてはいけない。2年前のイタリア映画祭で観賞した『われわれは信じていた』での辛い経験を教訓に、今回は事前にバッチリ「予習」して臨んだ私。(といっても、映画祭カタログに収録されている本作の詳細解説[立命館大学の教授が史実としての背景と本作の登場人物や展開をわかりやすく説明してくれている]を熟読しただけだけど)

予習バッチリで受ける授業があっという間に終わるように、瞬く間に駆け抜けた129分の現代イタリア一大叙事詩。これだけ大きく複雑な背景をもった物語なら、それこそ前後編的な二部作や超大作として仕上げるという選択肢だって必然かつ有力だったはず。しかし、それをこれだけ「コンパクト」にまとめる(というよりも凝縮する)手腕は爽快ですらある。練りに練られた脚本には無駄がないどころか、省略から生まれる戦慄の横溢と真理の氾濫は、物語を緩急でなく急急で攻め抜くダイナミズムを発動させる。編集は、近年のベロッキオ作品を手がける名手フランチェスカ・カルヴェッリだけに、その職人技は1mmの抜かりもない。『ソーシャル・ネットワーク』と『裏切りのサーカス』をかけあわせたフィルム・ノワールといった趣だ。(まさに陰影まみれの[ゴッドファーザー的]暗黒室内・暗黒相貌を見事に重ねてゆく撮影も匠の仕事。)

二人の対照的な立場の「個人」を主軸に物語は語られる。体制側と反体制側。しかし、その二人に共通するもの(理想)こそが、彼らを破滅に導いてしまう。社会(現実)にとって必要なのは暴力であり、思想(理想)などではなかったのだ。(「暴力はあるが、思想はない」とは、冒頭で語られる台詞)

個人を主軸に「ドラマ」を魅せながら、社会に対する具体的非難でも漠然とした批判でもなく、構造が孕む犠牲と排除の構造を浮かび上がらせる徹底真摯な一本だ。

最後に顛末を語るテロップのなかで目にした、「(爆殺事件の)裁判費用は、犠牲者に請求された」という衝撃の事実。徹頭徹尾。それがイタリアのあらゆる「強さ」なのだろう。

ちなみに、厖大な情報量が矢継ぎ早に繰り出される会話劇の側面をもった本作の字幕は、実に読みやすく入って来やすい素晴らしい翻訳だったと思う。(イタリア文学などの翻訳家、鈴木昭裕氏によるもの)

2013年5月2日木曜日

SHADOWLAND

GWといえば、2つの「イ」フェスで毎年スケ管大童。イタリア映画祭の前売券発売日には、イメージフォーラム・フェスティバルのプログラムやスケジュールは未発表だったりするので、調整つく範囲で納得する大らかホリデイズ心がけ。今年のイメフォ・フェスも回数券(4回券)を買って、その分だけ観るような厳選スタイルという名の自主規制。

ようやく遅ればせながらの参戦となった1本目は、ジョナス・メカス「ウォールデン」(1969)。記号と記述と記録と記憶。映像が世界を再構築、脱構築。まさに至宝で至福な至上の時間。目眩く180分は、時間が溶解する体験。パークタワーホールのあの空間であの椅子で、180分間を難なく観賞できちゃう驚異。いや、あの「解放感」(椅子は動かせるし[いや、動かしちゃいけないですけどね]、後ろは広いスペース空いてて、疲れたり眠たくなったらラジオ体操でもしながら観られるし[いや、しませんけどね])こそが「ウォールデン」にはぴったりだったのだ。平日の午前中からの上映だというのに、そこそこの動員で、さすがのメカス人気を再確認。とはいえ、前方ブロックが人気で、後方ブロックは閑散として実にまったり観られる極私的絶好空間に仕上がっていた。(正直、有楽町朝日ホールより好いかも・・・。朝日ホールは椅子云々もだけど、とにかく前後左右のスペースが狭すぎて息苦しいし、隣りに人がいると「身動きとれない」感が半端なかったりするからね。その点、パークタワーホールなら、好くも悪くもフレキシブル!な空間だから。)

180分を完走してフラフラになるかと思いきや、むしろ止め処ないアドレナリン噴出的恍惚酩酊状態で場内明るくなるもんで、さすがに即座に現実に還る自信もなくて、ふらっとインスタレーション空間に立ち寄った。すると、そこに待っていた映像がまた、静かに別種のささやかな至福を提供してくれた。

五島一浩「SHADOWLAND」には魅了され、2回続けて観てしまったほど。14分の短篇で、夜の街角の風景をおさめた映像に、3D加工が施されてる(3Dメガネを掛けて観るのです!メガネは展示室の入口にあり、メガネonメガネでも大丈夫なタイプ)。劇映画で用いられる3D効果とは一味違った、立体感でも奥行感でもないレイヤー感な透明感。幾重もの影による多中心流動型協奏曲。「在るもの」による三次元というより、「在るだろうもの」が三次元化したようなセンス・オブ・ワンダー。

私はとても見入ってしまっていたのだが、他に立ち寄った人たちは皆数分程度で立ち去っていったので、もしかしたら誰もが面白がるような作品ではないのかもしれないけれど、落ち着いてじっくり見始めると他では味わいがたい世界の体現者になれるかも。(結局、1回目の後半からはずっと一人で観てたという贅時間。)

というわけで、もしパークタワーホールのイメフォフェス作品を観る機会があれば是非、ホール脇通路奥の小部屋で「SHADOWLAND」に誘われてみてください。

2013年5月1日水曜日

イタリア映画祭2013 (3)

3日目にして漸く映画祭らしい時間が動き出す。観る側(つまり、私自身)の問題なのかもしれないが、それは最近の自分にとって現実の縛りがより堅固なものだという証左である故に、解かれた途端に遙かなる遠心力へと転化する。

まぎれもない傑作よりも、愛くるしい小品の方が永らく心に留まり続け、育まれ、実を結ぶ。

パオロ・ヴィルズィ最新作『来る日も来る日もTutti i santi giorni)』は、そんな愛おしさで充ち満ちた。それが何かは説明できずとも、それは確かにそうなんだと思えるイタリア流人生賛歌。恋だの愛だのを逃げ口上に利用しない、関係よりも個人に対する人間賛歌。それは必竟するに、社会からの離反と同義なはずなのに、パオロ・ヴィルズィ作品が見届けたいのは、拮抗や葛藤よりも(衝突や痛手よりも)、受容と抱擁(融和と能動)。

映画祭のガイド的あらすじでは触れられていないが(意図的?)、付き合い始めて6年になる男女の不妊(治療)という問題が物語の現実的中心に据えられている。とはいえ、彼らは二人とも規格外的な生き方と信条を貫いてきたという背景があり、だからこそ「子供が欲しい」というスタンダードへの切望は、多義的で複雑な心情を「収斂」するための片道切符。しかし、せっかく引き返さぬ決意をしても、現実は容易く微笑まない。理想が現実においついたとき、現実は理想の遙か先に逃げていた。普通は逆の関係が、反転したところ叶わぬという真実。個人(実像)と社会(虚像)の関係に、どこか似ている。

自らのスタイルを貫いてきた二人が、社会が承認するスタイルへの参画を画策するためには、二重のハードルを越えねばならない。一人(個人)として、そして二人(家族)として。社会的個人が社会的最小共同体として結合して初めて与えられる、社会という大家族の一員たる資格。その絆につながれる安堵感。それを社会は「幸福」と喧伝してる。そこには強固な説得力も正当な根拠もあり余るほどある。でも、だからこそ、パスポートを発行されぬ者への仕打ちも無自覚で、至って「自然」の法則だ。極めてナチュラルなセレクション。社会的自然淘汰に抗う唯一の希望、それこそが個性。個体性、固着した現実、隆起する真実。

そんな闘争めいた苦悩が描かれているわけではないのだが、どこまでも自らの謳歌に貪欲たろうとする真摯さの強靱さは、社会に同化できぬどんな〈異質〉のなかにだって宿って止まぬ普遍の愛(哀)を代弁してる。〈個〉を描こうとして、各々の対照性や差異性を強調して得意げに特異を論ったりするのではなく、どんなに〈孤〉になり得ようとも、切り離せない普遍性が磁力を発揮する。愛の磁場には慈愛が走る。社会に磁場がなかろうと。

社会は個人の涙を拭いはしないけど、個人だって社会のために涙は流さない。いつだって涙は自分のために流れてしまう。誰かが流させるのではなく、誰かを想った自分が流す。だから、君の涙を拭ったりしない。泣かないでなんて絶対言わない。僕に言えるのは、せいぜいこのくらい。

「こうなったら二人で泣こう」



※原題の「TUTTI I SANTI」とは「諸聖人の日(万聖節)」と呼ばれるカトリック教会の祝日。「GIORNI」は「日々」といったような意味のようなので、主人公グイドの殉教者マニアな側面と、物語の内容がかけられているのかも。ちなみに、英題は「Every Blessed Day」。「every」は当然「day」にかかっているのだろうけれど、映画を観てみると「every」が一人一人にも思えて来る。どんな人の、どんな一日にも・・・。ちなみに、「諸聖人の日」は11月1日らしいのだが、今年のその日は金曜日。本作を劇場公開するなら初日にもってこい。11月1日公開、熱望。