2013年5月14日火曜日

孤独な天使たち

私が映画を観始めた学生時代にはまだ、ベルトルッチがそれなりにコンスタントに作品を発表している時期だった。当時、シネコンでアルバイトしていた私は、シネスイッチ銀座で観てきた『シャンドライの恋』の素晴らしさが解らずに、シネフィル(というタイプでもなかったかな)の先輩から色々と講釈を受けた記憶がある。それは別に「上から」とか「訳知り顔」とかではなく、純粋に「この人はこの作品が好きなんだろうなぁ」という熱量を浴びられるだけで嬉しくなる交流の場だったように思う。当時、その職場にいた社員も映画好きなバイト仲間も、実に柔軟かつ貪欲な映画愛に溢れていたが故、「べき」による否定や「のみ」なフォーカスとは無縁に、いつでもどこでも出ていく覚悟の自由な興味で映画を渡り歩けてた。それが映画を数的にも見始めた時期だったこともあり、とても恵まれた「洗礼」を受けた気がしてもいる。一方で、映画館でバイトしながらも、大して映画に興味ない人や、普通には興味ある程度の人も結構いたりして、それでも場所が場所だけに自然と映画の話になることは少なくなく、そんな中で交わされる各人の映画観からは学ぶところが多かった。

と、本作について語れる「内容」をさして受け取れずに観賞を終えたことがバレバレな書き出し。

正直言って、前述の先輩の講釈を受けたい気持ちで観ていた本作。観てるこちらが、あの地下室になかなか入っていけない気分。なものだから、地上から無理して覗き込んでる感じが続く。

ところが、ある阿呆な妄想に端を発し、急激に勝手に楽しみ始めてしまう。それは、「この姉は実はもう死んでいるのではないか?」という妄想。(つまり、『シックス・センス』的な発想。)そう考えると、二人の邂逅の切なさは増し、別離から再会までの〈不在〉は更新される。思春期の迷えるロレンツォの元に遣わされた「天使」のオリヴィア。地上(現実)に還ってゆくとき、「天使」は姿を消してゆく。

誰もがセンチメンタリズム全開で嬉々として愛でるラストシーン。それには私もやはり抗えず。あれを車椅子の老齢監督が撮っているという事実には、「あこがれ」の放つ眩しさに喜んで目を細めてしまう。


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