2013年5月27日月曜日

はじめて、たったひとりで映画を観る。

といっても、映画館へは基本的にいつも独りで赴いてます。では、なぜ「はじめて」なのかと言えば、それは劇場内に「たったひとり」だったから。それほど珍しくもなく度々経験されてる方もいるようですが、「空いてる劇場マニア」であるこの私であっても、実は今まで一度も体験したことのなかった貸切(状態)観賞。ついに、悲願成就であります!

ちなみに、記念すべき第1作(というか、次もあるのか?)は、今月公開されたリメイク版『死霊のはらわた』。公開してしばらく経った平日、夕方の回。郊外のシネコン。そこでは、公開1週目であっても観客数名のことは珍しくなく(2桁いると「おぉ!」という印象)、これまでも「2人鑑賞(もちろん、もうひとりは他人です)」は年に数回ありましたし、今年で言えば、『横道世之介』も『ジャンゴ』も400席程の劇場に「3人鑑賞(もちろん、皆さん互いに他人です)」だったりもしましたが、そんなところでも、さすがに「たったひとり」になったことは今までありませんでした。(予告の間に「もしや?」は何度かありました。)

いくら一度は経験してみたかった貸切(状態)観賞とは言え、よりによって『死霊のはらわた』で叶わなくたって・・・と、半ば戦きながら本篇開始。ところが、同作が演出する恐怖は背筋が凍る類のものではなくて、瞬発的に総毛立つ絶叫マシン型。そうなると杞憂であったばかりか、盛り上がらないことこの上ない・・・。勿論、他に観客がいたとしても、そこの劇場におけるいつもの客層なら「ワーキャー」いったりする事態にはならぬだろうが、それでもやはり「気配」はある。恐怖に限らない。場内にたちこめる「空気」、それも誰かが発する何かしらの波動が共鳴したり弾けたり。確かに、微かに、劇場には観ている者たちが放つ喜怒哀楽の匂いがする。そして、それがあって完成する「映画館でみるということ」。

『ラスト・スタンド』を平日昼間に観た某シネコンは、小箱になってて縮みシネスコでガッカリな上、両隣の中高年男性が終始鼻づまりでステレオ全開。ウゼェ~と思っているうちに、スヤスヤしてしまうダメ自分。

『アイアンマン3』は個人的に全然ノレなかったけど、川崎のIMAXなのに久々に上質な客層だった。隣のカップルとかも微動だにせず、微音すら発さず、反対の隣の男性は飲み物おくときすら音をたてぬよう気を遣っていたりした。そんな彼らと共に醸造した「緊張感」は、たとえ個人的に愉しみポイント刺戟されぬ同作でさえ、否が応でも「入りこませてくれる」演出の快い虜。

『朝食、昼食、そして夕食』では久々のK'sシネマ。客層が随分上品で、やや苦手な劇場への印象が変わり、安堵とともにスヤスヤ・・・。あの「やさしく見守る」感が漂う場内では、睡魔に襲われた私も心安らかに・・・(責任転嫁)。

『リンカーン』では、隣の女性のしめやかな落涙にこちらの涙腺まで刺激され、『ジャッキー・コーガン』における絶対的退屈の強度に負けぬ観客の退屈塊感は異常なまでにサスペンスフル。

映画館で映画を観る意義って、もしかして、「ひとりじゃない」ことなのかもしれない。読書の単独とも、ライブの共同とも異なる享受の体験。素敵な客でもムカつく客でも、そのとき観た映画の記憶を彩ってくれている。劇場という場の力。それは、ハードに因るものよりも、そこに集う人が産み出す「空間(空気の間柄)」の力かも。だから、施設設備的こだわりの強い私であっても、香りが好みであれば足が向くし、臭いに辟易すれば避けがちになってしまう、映画館。