2013年7月31日水曜日

終戦のエンペラー

浪人時代に通っていた予備校で最も興味深い授業の一つに日本史(近現代史)があった。正直、前近代の授業は誰が教えてたのかすら憶えていない程だが、近現代の授業で聞いたエピソードの数々はいまだに鮮明に憶えていたりする。講師の話(し方)が面白かったということもあるが、彼が語る人物像が実に「立体的」であり、そのためにも中心(観点)は常に多様かつ移動するものだった。そこでほんの少しだけ、歴史が物語であることを実感できていたかもしれない。(その講師はよく授業を延長していて、職員が「早く終わってください」的プレッシャーを度々かけに来たり、終いには冷房が止められたり等々、そういった熱意からも実に「伝わる」「届く」ものが産み出されていたんだとも思う。)

美談や懐古に陥らぬ「戦争映画」が作られなくなって久しいように思う。遠ざかるほど冷静に、客観的になれる。そう一般的には思われがちだが、そこには忘却という「都合の好い改変」が潜んでいるという事実は計算外。いや、むしろ折り込み済ゆえに、過去よりも真実に到達しているはずの現在を肯定するためのロジック(実際はマジック)として援用されがちなのだろう。

マシュー・フォックス演じるフェラーズ准将は、「天皇を戦犯として裁くか否か」の決定に必要な証拠や証言を集めてゆくなかで、どうしても日本人の精神性を理解することができず、そうした思いから日本人の精神性を「ミステリアス」と評していた。私はその時ふと、「mysterious」を何故か「myth-terious」のようにイメージしてしまった。「mystery」と「myth」はいずれも「神」に関連する表現をルーツにもつのかと想像してしまったからで、実際には語源は同じではないようだ。しかし、そこで「myth」の語源がギリシャ語の「話、言葉」を意味する語であることを知る。そうすると益々、戦中の日本が「ミス(myth)テリアス」ゆえの「ミス(mys)テリアス」を孕んでいたような気がしてきた。

勿論、統治のために「神話」を大いに活用したという点で十分「myth」なのだけれども、それ以上にまさに「お話」という「もうひとつの世界」が現実世界以上にリアリティを持ってしまっていた時代が戦中の日本なのかとも思えて来た。現実は、近代化により合理精神で駆動すべき世界になっていたし、事実そう動かされていたはずなのに、国民の精神世界においては前近代のさまざまな精神が残存どころか増殖して強固なものへと培養されていったのだ。そして、その原動力としての絶対的支配的原理こそが「天皇制」というフィクションだったのだろう。それはまさに「お話」なだけに、実証は不可能であり、そもそも実証を試みること自体がナンセンス。近代化した社会にとって、そうしたフィクションが力を持ち得ること自体が不可思議なはずでありながら、現実世界(物質世界)より「もうひとつの世界(精神世界)」こそにリアリティを見出していた国民にとっては、至極自然な感覚だったのかもしれない。

常に数字やデータで可視化され数量化される実証的フィクションとしての経済。近代社会における現状認識の指標。それすらも無視し、というより意識すらすることなく、桁違いの国力を有した列強に平然と(悠然とすら)戦いを挑んだ小国日本。そこには、精神世界がもつ無限の力(それは人間の「美しさ」の象徴とも呼べる)を見出すこともできるだろう。肯定的な懐古の眼差しで大東亜戦争を回顧してしまう「向き」が払拭できない理由も其処にあるかもしれない。それはそれで、ひとつの正当性を持つとは思う。しかし、そこに必ず貼り付いている裏面(代償・犠牲)と切り離さずにそれを認めることは極めて難しい。(大抵、裏面を見ずして認めてしまう。)

「もうひとつの世界」を壊され(それでも、戦前に植え付けられた人達のなかには息づいていることと思う)、引き換えに植え付けられた「もうひとつの世界(西洋への憧れ・追随)」も急速に消滅し、もはや「もうひとつの世界」の核となるものを見失いつつある現在。今の日本人にとって世界とは、現実世界(物質世界)だけになりつつあるだろうか。それとも、それだけでは耐えられないから新たな「もうひとつの世界」を膨らませつつあるのだろうか。

フェラーズ准将の言う「ミステリアス」に共感するか、それとも「ミステリアス」な日本人に共感するか。世代やイデオロギーによっても大きく異なるだろう。え?私?私はそのどちらでもないようでいて、どちらでもある・・・美しい日本の私とも言い切れぬ、あいまいな日本の私。


2013年7月30日火曜日

パリ猫ディノの夜

どれだけ自分なりにアンテナ張りめぐらしてても、結局そこにはセルフ・フィルタリング(?)みたいなものが働いてしまい、知らず識らずのうちに取捨選択してしまったりしているのだろう。本作も、公開情報すら把握しておらず、更にはレコメンドの声も「私には」届いていなかった。ところが、公開されると次第に不意に見かける好評の声。おまけに、何と本作はフィルム上映だというではないか!これはもう苦手シネコン筆頭の新宿ピカデリーでの上映とはいえ、駆けつけないわけにはいくまい・・・ということで。

一昨年のフランス映画祭で上映された本作(そのときの邦題は「パリ猫の生き方」)は、その存在は知っていたし、アカデミー賞にノミネートされたのも知っていたけれど(だから、そのうちWOWOWあたりで放映するかな、とは思ってた)、まさかこのタイミングで(本国公開は2010年12月)日本で劇場公開されるとは予想だにせず。しかも、これまで大して背中おされるようなレコメンドも(たまたまかもしれないが)耳に入ってこなかったもので、最初は「上映中」の報を耳にしても観賞リストに入る予定はなかったのだが、前述の通りの成り行きで観ることにして・・・本当好かった!自分で観る気にならないタイプであるからこそ得られる感応に至福のとき!アニメ、フィルム、フランス、それらの素敵さが見事につまった逸品に、豊潤づくしの70分!

アニメに関しては詳しくない私だが、最近観た三本(『モンスターズ・ユニバーシティ』『SHORT PEACE』『風立ちぬ』)から「自分がアニメに求めるもの」がより鮮明になった気がしたばかり。実写に勝るとも劣らぬ写実性をもはや手中におさめたアニメーション。しかし、そうした技術の進歩は必ずしも表現力の向上や観る者の幸福感をもたらす一方でもない気がしてしまう昨今。アニメにおける立体感やリアリティの増長はむしろ、アニメのもつイリュージョンの減退につながり、それはすなわちイマジネーションの稀薄にもつながるのではないだろうか。より「平面的」であったり、より「抽象的」であったりする「画」の力を感じるとき、「アニメでなければならない」「アニメだからこそ」な世界に魅了される幸福を想い出させてくれるという事実。

アイロニーやエスプリをプティ効かせつつ、キュビズム的な画は3Dに逆行するようにみせかけて挑発し凌駕しようとし、スクリーンを手前にも奥にもくねらせる。そして、ヨーロッパの蒼い夜空の美しさがアニメでフィルムに焼きつけられている不思議な芸術感。昔ながらの「コマ」を感じさせつつも流麗さも併せもつ、心地好い「ひっかかり」を忘れぬモーションがいちいち愛おしい。そして、ジャジーな雰囲気を演出するナンバーと、独創的な画との共犯に心酔してしまう絶妙なスコアが本作の「映画」感を更に演出してくれる。

猫好きにはたまらない本作らしいが、どの人物にも悲哀と屈折を注入した人物造形にヨーロッパ映画好きはニヤリとするし、とにかく屋根から屋根へ飛んだり跳ねたりするアクションの連続に活劇ファンは堪能必至。フィルムの質感が色彩のまろやかさを、フィルムの音がスコアの包容力を増幅させると同時に、本作のもつ「コマ」感はきっとフィルムで投影されることで完成されるのかも、などとまで思えてしまう。

実に魅力的で、元来それほど好みなタイプに思えない私でも再見したくなっている本作。セザール賞ではアニメ部門でノミネートされながらも受賞を逃していたので、納得いかず(笑)に確認すれば、同年の受賞は『イリュージョニスト』。それは相手が悪かった・・・が、本作も方向性こそ違えど、アニメが放つ魅惑でいえば、勝るとも劣らない。


2013年7月29日月曜日

ノーベル殺人事件/アンチュ・トラウェ

WOWOWのジャパン・プレミアにて放映され、DVDも来月発売予定。スウェーデン版「ミレニアム」三部作のスタッフが送る、ベストセラー・シリーズ映像化作品第2弾。制作は「ミレニアム」シリーズのイエローバード。テレビやビデオ作品が中心のプロダクションのようで、『刑事ヴァランダー』なども手がけるイエローバードは、この「アニカ・ベングッソン」シリーズ(作者は、ジャーナリスト出身でベストセラー作家のリサ・マークルンド)8作中6作の権利を取得し、映像化(残り2作は既に他所で映像化済みの模様)。同シリーズ6作目を原作とする『ノーベル殺人事件』(原題は「Nobels testamente(英題:Nobel's Last Will)」)を2012年3月に劇場公開した後は、他のシリーズ作品を同年の7月から8月にかけて連続でソフトを発売したみたい。(つまり、一作目で様子見の結果、ビデオスルーが決定したということ?それとも一作目の劇場公開はプロモーション?) そうした背景からもわかるように、「新聞記者アニカ・ベングッソンの事件簿」的2時間ドラマなつくり。

「ミレニアム」三部作は、リスベットの強烈なキャラクター(及び演じたノオミ・ラパスの存在感)や主人公とのケミストリー、そして背後に張り巡らされた陰惨胡散な伝統と巨大システム化した現代社会の諸相がもつ醜態性、それらの絶妙なブレンドが安っぽい「大河」感を結果的に演出した幸運なシリーズだったように思う。批評興行共に優秀だったシリーズだが、個人的には正直ヴォリュームたっぷりの(だから見応えはある)堅実映像化作品程度だった。一応、一作目だけは原作を読み、作者スティーグ・ラーソンの数奇な運命も手伝ってか、見事にハマった小説だったことも影響してるかも。(ちなみに、フィンチャー版は大好きです。)

そして、本作も予想通りの出来。ドラマシリーズのパイロット版として吹替で気軽に観るならそこそこ楽しめるかなレベルの仕上がり。タイトルにもなっている「ノーベルの遺志」など(原作では掘り下げがあるのかもしれないが)この「テレビドラマ」版では火サス「断崖上の告白」程度すらも機能しない。小説だと違うのかもしれないが、とにかく主人公のアニカ・ベングッソンにさしたる魅力を見出せない。演じるマリク・クレピン(Malin Crépin)もパッとしない。が、スナイパー役のアンチュ・トラウェ(Antje Traue)にワクワク魅惑!ドイツ出身の彼女は、ポール・W・S・アンダーソン製作(確かに、アンチュはミラ・ジョヴォビッチ系だし)の『パンドラム』で世界デビュー、続いてレニー・ハーリンの『5デイズ』に出演。ここまでは先行不安というか心配なフィルモだったのだが、もうすぐ公開の『マン・オブ・スティール』にファオラ=ウル役で出演!どうやら、冷徹な悪役美女のようで、本作を観る限りでもかなり期待できそう。(マイケル・シャノン演じるゾッド将軍の手下(?)のようで、彼と共にインタビューに答える動画[その1その2その3その4その5、こういうの見ると改めて「プロモーションって大変」「インタビュアーって重要」って思う]があった。)



本作で監督を務めたピーター・フリント(Peter Flinth)の次回作は「Beatles」。原作は、ラーシュ・ソービエ・クリステンセンのベストセラー(1984)。ラーシュ・ソービエ・クリステンセンは、最近だと『孤島の王』の原案を担当。「Beatles」は、ビートルズに憧れる少年達を描いた作品のようだが、音楽はグネ・フルホルメン(2010年に解散したa-haのメンバーだった)が担当し、プロデューサーは『コン・ティキ』のヨアヒム・ローニングとエスペン・サンドベリ!(彼らが監督するといった情報も見かけたので、もしかしたら当初はその予定だったものの、『コン・ティキ』の成功で『パイレーツ・オブ・カリビアン』新作の監督に抜擢され、監督がピーターに替わったのかなと想像) こちらは楽しみ!

2013年7月27日土曜日

台湾アイデンティティー

現在ポレポレ東中野で公開中の(ちなみに、沖縄の桜坂劇場でも)『台湾アイデンティティー』。来月からは関東でも群馬埼玉神奈川で順次公開。

酒井充子監督の一作目『台湾人生』の続編というか第二弾というか姉妹編とも言うべき本作。しかし、『台湾人生』を観ておかねばならぬ必要性は全くない。ただ、観ていると浮かび上がる必然性は其処彼処。『台湾人生』は初監督作であったり、扱うテーマが孕む複雑性もあってか、「大きな物語」への律儀さをのぞかせていたように思う。勿論そのことで、歴史として物語として過去に入ってゆける仕掛けが見事に機能していたが、語られる個の人生が「大きな物語」のなかに浮かぶ「小さな物語」として〈翻弄〉に帰してしまうという「まとまり」を持ってしまっていたようにも思う。それはそれで、それだからこそ、私のなかにも未だに消えぬ(そして、こうして本作を観ようとする)深い感銘を受けるに至ったが、本作においては葛藤しながらも芽生えた信念に従って「物語」は編まれてゆく。ひとつひとつの「小さな物語」をそのままに、その背後にある「大きな物語」を聞き手(観客)が自ら発見し読み始めようとするための、静粛な探照灯。

本作では6人の「台湾人」(という括り方は相応しくないかもしれぬが)の話に耳を傾けている。撮影は監督とカメラマンが語り手と向き合って行っているようだ。時折、監督自身の問いかけの声が聞こえるし、そこには明らかに監督の意図も意志も読めるのだけれど、そこに本作を支配し統合を図ろうとする力などを感じることはない。むしろ、同行者として観始めた私たちは、「それ、僕も訊きたかった」とか「それを訊きたいのはわかるけど」などと隣で一緒に聴く者としての連帯感が深まってしまう。インドネシアの残留日本兵である男性に、「何人(なにじん)として死んでいくんでしょうか」という問を発した監督は、後悔や反省を述懐している。確かに、そこに違和感をおぼえる観客もいると思うし、それはそれで至極当然とも思うが、私は何故かそうしたところに「信頼できる何か」を感じてしまうのだ。観察に徹しきれないながら、懸命に耳を澄まそうとし、しかし堪えきれない逸る想い。しかし、そんなすれ違いでしか叶わない巡り合いがあるよな気もしてしまう。そして、それこそが疎通を図る意思の現実で、それこそが個をみつめるドキュメンタリーには必要だと思うから。

『台湾人生』では、「日本人として」知らねばならぬ事実を手渡されたが、『台湾アイデンティティー』には「人として」学ぶべき真実が佇んでいる。「生きた教訓」に、時代も国も民族もない。いや、時代にも国にも翻弄され抑圧されてきたからこそ、それでもなお在り続ける矜持に人間の美しさが宿っている。人間の醜さに屈さずも殺されずに生きるには、どんなに押しつぶされても棄てぬ「美しさ」が必要だった。そこに残酷さしか生まれないことがあることも、彼らはよく知っている。僕らはまだ、(いや、これからも?)知らない。ただ、彼らが「語る」ことを選んでいるという事実に、私たちは敬意以上のものを払う覚悟をもつべきなのだということだけは、わかる。

台湾のアイデンティティー、台湾とアイデンティティー。いずれも、単純には済まぬ矛盾をはらんだ表現。矛盾や拮抗や葛藤でしか真実に近づけない現実が人間にあるとしたら、アイデンティティー(同一性)を奪われた彼らを貫く「人間」性に、社会が個人を埋め尽くすことはできない証左を見る。


2013年7月25日木曜日

グランドイリュージョン/Now You See Me

先日、丸の内ピカデリーで『ベルリンファイル』を観た際に初めて予告を観た。そこで初めて邦題が『グランドイリュージョン』だと知ったが、予告もなかなかキャッチ・マイ・アイズな仕上がりで、今夏の松竹東急系(でいいのか?今も)作品に人がそこそこ入れば今秋のスマッシュ・ヒットも見込めるかも!?とは淡い期待?有楽町マリオンは明らかに明と暗が真っ二つになりそうな、今夏。『モンスターズ・ユニバーシティー』『ポケモン』『真夏の方程式』の日劇に対して、ピカデリーはこれからだって『ローン・レンジャー』(これも本当は大いに期待されてたはずだったんだけど)という微妙な爆弾と『終戦のエンペラー』という手堅いながらも頭打ち確定な動員作。『パシフィック・リム』や『マン・オブ・スティール』はカルト的な人気は約束されながらも、メジャー感を演出しきれずに終わるのが目に見える・・・スタトレは今回なかなか本気出してるし、『ワールド・ウォーZ』もポテンシャル高そうだから、やっぱり今夏のマリオンの明暗はこのまま行ってしまうかも。

その『グランドイリュージョンNow You See Me)』、全米では6月初旬に公開され、2週目の『ワイルド・スピード EURO MISSION』には及ばずも、同週末に公開の『アフター・アース』には僅差で勝利するというスマッシュ・ヒット。正直、キャストもスタッフもその布陣を眺めてるだけでニヤけて来てしまう。

まず、キャスト。ラスベガスのステージでテクノロジー駆使の派手派手イリュージョニスト集団「フォー・ホースメン」のメンバーには、ジェシー・アイゼンバーグ、アイラ・フィッシャー、ウディ・ハレルソン、デイヴ・フランコ(ジェームズ・フランコの弟、『21ジャンプストリート』で準主役)。その強盗集団に立ち向かうFBI特別捜査官をマーク・ラファロが演じ、メラニー・ロランはインターポール!しかも、更には脇をマイケル・ケインとモーガン・フリーマンという『ダークナイト』の名重鎮コンビが固めるという!一般的にも豪華だけれど、個人的にも胃もたれ級なハイパー豪華キャスト!老若男女四方八方東西南北好き好きキャスト!!!

なんでこんな(豪華かつ私的極上俺得)キャスティングが可能かといえば、ソダーバーグ作品の近作(『コンテイジョン』『エイジェント・マロリー』『マジック・マイク』ほか!)におけるゴージャス・キャスティングの仕掛け人カルメン・キューバ(Carmen Cuba)がキャスティング・ディレクター。至極納得!

監督はルイ・レテリエ。『トランスポーター』の共同監督としてデビューし、続編では単独メガホン。『トランスポーター』シリーズは正直あまり好きではないが、その2作の合間に彼が監督した『ダニー・ザ・ドッグ』はかなり好き。そして前々作の『インクレディブル・ハルク』も大好き(前作にあたるのは『タイタンの戦い』・・・)なので、彼のフィルモでは一作おきに気に入るという法則。というわけで、今回は気に入る番!

ちなみに、ルイ・レテリエが撮った『インクレディブル・ハルク』でハルクを演ったエドワード・ノートンは『アベンジャーズ』では降板したものの、変わってハルクを演じたマーク・ラファロが『グランドイリュージョン』でルイ・レテリエとも組むという巡り合わせが何だか素敵。

IMDbでは7点台ながら、Rottenでは批評家50%未満の観客70%強。正直出来に関しては不安材料なくもないけど、そんな中でも期待を優先させたいのが脚本に参加しているボアズ・イェーキンの存在。彼は昨年随一の快作『SAFE/セイフ』の監督、そして脚本家!(ちなみに、今更認識したんだけど、彼は『タイタンズを忘れない』や『アップタウン・ガールズ』の監督でもあるのか。信頼できる!)

音楽はアクションやヒーローもので昨今安定の高揚演出家ブライアン・タイラー。彼の公式サイトを初めて訪れたけど、まさに映画音楽界の貴公子だ・・・UCLAとハーバードで学び、若くして(多分)デビュー、そして近年益々精力的に活躍、おまけにイケメン。『スカイライン-征服-』の製作に名を連ねていたりする(exective producer)なんてとこまで抜け目ないプロフィール、クール。

撮影はこれまでもルイ・レテリエと仕事をしているミッチェル・アムンドセン(Mitchell Amundsen)。数多の大作に関わってきた彼は、あの『ウォンテッド』(大好きなんです、スミマセン)の撮影も担当していた大好きカメラマン(のはず)。更には、ザック・スナイダーとタッグを組んできた(『SUPER 8』も手がけた)ラリー・フォン(Larry Fong)も撮影を担当してるらしい。これはアクロバティックなカメラワークにドキドキしちゃう(きっと)!

あと気になるのが「line producer」として記載されている「Yuki Suga」という日本人名。

何だか過剰な期待で早くも不安が増幅し始め中。日本公開までは未だ三ヶ月もあるんだね。観られる頃には長袖か。今年の東京国際映画祭最終日(10月25日金曜)に公開されるのか。ということは、特別招待作品とかの枠で「有料試写会」やるのかな。メラニー・ロランが来るならTIFFで観ちゃうかも。でも、そりゃないな。来るとしたらジェシーかな(2010年のTIFFオープニングが『ソーシャル・ネットワーク』で、その時にはゲストで来日してたっけ)。でも実際、『グランドイリュージョン』がオープニング作品になる可能性は低くなかったりするのかも。なぜなら、今年からTIFFのチェアマンには角川書店取締役相談役の椎名保が就任してるから(『グランド~』の配給は角川書店)。一昨年はチェアマンの依田巽(当時)がCEOを務めるギャガ配給の『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』がオープニング作品だったという最低な「実績」もあることだし(この年もオープニング上映が一般公開の一週間前というタイミング。そう考えると、10月25日公開というのも、そうしたシナリオの一部として決まった日付だったりするのだろうか)。ちなみに依田巽ってエイベックスの創業者(の一人?)でもあったんだね。元来は映画界のエイベックス的存在だったギャガの社長になるという展開も見事に「わかりやすい」。でも、そんな人が東京国際映画祭のヘッドだったのかと思うと、やっぱり「おかしくなる」のは宿命だったのかと今更痛感。せめて六本木開催だけはやめて欲しいものなんだが・・・。

と、話が逸れに逸れてしまったが、それでも楽しみ、『グランドイリュージョン』!


2013年7月24日水曜日

欲望のバージニア/LAWLESS

『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』とか『ジャッキー・コーガン』とか、そして本作みたいな映画を僕は映画館(と呼ぶに値するシアター)でもっと観たい。『ジャッキー~』は正直至極退屈ではあったけど。2時間前後、暗闇でシートに身を埋めては固唾を呑んで見つめるスクリーン、それが映画という体験。ならば、鎮まる心が退屈の海にのまれるか、無限のビートを刻み始めるか、それは紙一重。そんなリスキーなギャンブルが映画という体験。だから、退屈を恐れずつくられた映画を、退屈を厭わずに観ていきたい。『ジェシー・ジェームズの暗殺』を、平日昼間ガラガラの、今はなきチネ・グランデ観た記憶。至福の映画体験、その典型。映画も俺も、まどろむ浪漫。暗闇の白日夢。

旧き良きなオーラをまとい、ニューシネマなムードも漂わせ、それらが融け合いいちゃつくような、そんな「ささやかなご都合」が好都合。アートスクール時代からの仲というジョン・ヒルコート(監督)とニック・ケイヴ(音楽、そして脚本!)の知己知己BANG!BANG!上機嫌!そんな現場ゆえ、仕上がりも統率はやや欠けてるが、なんてったってLAWLESSよ。ラストの「最近じゃ世の中も随分と静かになっちまったもんだ・・・」って語りに箔付けるには、終始ざわざわしてなきゃなんねぇわけだ。安心して観てられる登場人物が誰一人いないディスオーダー。なのに、いいや、だからこそ、安心して身をまかせてしまうスペクタクル。まさに、台詞と画がついたニック・ケイヴのミュージック。

禁酒法の時代、それをカリカチュアライズした過去で終わらせない。むしろ、現代と地続きであることを強調する。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを歌うカントリーシンガー。歴史が更新の連続と同じくらい、反復の継起である諸相。様式美の踏襲。クラシックによる更新。今は昔、昔は今。

「恐い物知らず」にとって最も大切なもの、それは恐怖心。無敵じゃないけど、不死身の理由。



私が観たのは郊外のシネコン朝一の回。上映開始間近に入場すると、目の前にシルバーなレディ3人連れがゆったりと場内に入ったところ。手元のチケットに眼を遣りながら、座席を探し始めるが、近くのシルバー男性が「いっぱい空いてるから、どこでも好きなとこに座ればええんじゃ」と声をかけ、「そりゃそうだ」とばかりに「ここ空いとるから、ここにしようかね」と徐に腰を下ろすお三方。なんだか、上映前から早速素敵な和みを頂き、劇場観賞醍醐味享受。

そして、上映終了後のシルバー・レディ・トリオ。「好い映画だったわねぇ~」「好い映画!」「『欲望』って感じだったわよねぇ~」「ヨ・ク・ボ・ウ!」と、それはもう御堪能オーラ全開で嬉しそうに語らいながら、劇場を後にしていった。懸命に脳へと埋め込んだリテラシー・チップを遙かに凌駕する、自然に育まれた見る眼・感じる心・自由な体感。夢や希望や憧れが健在だった頃の現実を生きた世代。発露させるからこそ衝突も後悔も享受もできた、「欲望」の時代。自己完結型欲望は、いつしかひたすら抑望の世代。無法地帯の輝きは、強大な権威や秩序の副産物。秩序なき時代の無法はただの埋没するしかない日常。

2013年7月23日火曜日

IDCF2013 コンペ(後篇)

地元の人達が、「なんだか映画のお祭りやってるらしいわよ」なノリでふらっとやってくるSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。面白かったり楽しかったりしたときに充満するウェルカム感は好いものだ。でも、最も感心というか安心できるのは、たとえ「キョトーン」な作品を観てもあくまで「ふーん」や「へぇ~」で貫かれる友好感。沸点の低い好戦都会とは無縁の空気。だからこそ、娯楽性や話題性にひきずられず、作品選定ができるのだろう。勿論、だからといって観客度外視ではないし、土日上映には「相応しい」作品の選定がなされてはいるのだけれど、一方で他の映画祭や特集上映では観られないような(受け皿の無い)タイプの作品も積極的に選出してくれているのが嬉しいところ。

今年で言えば、『アメリカから来た孫』や『隠されていた写真』、そして『ぼくと叔父さんとの事』。(『アメリカから来た孫』はスケジュール上困難で残念ながら観られなかった。)

『隠されていた写真(Zdjecie)』は、ポーランドのマチェイ・アダメク(Maciej Adamek)監督による82分の小品ながら、変わった見応えのある作品だった。ドキュメンタリーや短篇などの作品では一定の評価を得てきたアダメク監督の初長編。ドキュメンタリー的な雰囲気を残しつつも、明らかに劇映画たろうとする緊張感もそこはかとなく漂う不思議なドラマ。短篇をそのまま並置したような親切な澄まし顔に最初やきもき、次第に諦念。そんな頃合いに、心にしっくり来るか何も落ちてこないかは、観る者によってだいぶ違いそう。東欧の映画、とりわけポーランド映画からイメージする「堅さ」や「冷たさ」はよりローカル的な深まりを見せ、ついつい捜してしまいがちなメッセージ色はさほど見当たらないという先入観との齟齬に何処か戸惑いを感じながら、時の歩みが異なることを知る。



自分の〈過去〉を探るために旅に出た主人公アダム、17歳。しかし、それはいつしか両親の〈過去〉を調査することで、自らのルーツを精査しようという〈現在〉の空洞化。そこに訪れる恋の予感。いや、実感。そう、痛感。アダムは何かにつけハンディカメラで眼前の光景を記録するのだが、そこに人間が混入することを何処かで避ける想いが強かった。しかし、そんな彼の記録にやがて、人間が入って来る。いや、人間を記録しようとカメラを持つ。そのとき、彼が見つけた母親の写真に記録された可視世界の背後に広がる不可視な記憶がもつ意味を、彼は知ったのかも知れない。列車のなかのラストシーン。アダムが一枚の写真を母親に手渡す。凝縮される軌跡。觝触せぬ奇跡。語られなかった寡黙な時間が、雄弁な緘黙の時間に変わる。過去を追い抜いた今がある。追いつかんとする未来もある。


『ぼくと叔父さんとの事(LUV)』は、その邦題からは想像もつかぬハードな人間交差点。それに、劇場公開はおろか最近ではソフト化やCS放映すら激減してる印象のブラック・ムービー(黒人映画)。ここまで黒人オンリーでドラマが進む映画を劇場で観ているというだけで新鮮。ただ、そんな刺激的な体験であるはずの本作の観賞が、見事に爆睡映画祭に化してしまったことをここに告白・・・。だって、連日睡眠数時間で朝一の仕事終えて川口に駆けつけて昼食とった直後・・・ということで、お許しを(って、誰への懺悔?)。とはいえ、断片的に傍観してたなかでもやはり、あまりにも懸け離れすぎた現実が展開されるドラマには、どうしても取つき端がみつからず、そんな没入拒否な印象が更なる睡魔へ導いて(責任転嫁)、だけどラストの希望と絶望がないまぜの場面は好きよ。それしか言えない・・・。

ただ新鮮だったのは、それだけ黒人映画で下層の現実を描いていながらも、ヒップホップなBGMがほとんど聞こえてこなかったこと。シガー・ロスとか流れたり、スコアもシューゲイザー的。Q&Aでちょうどその辺を監督に質問してくれた方がいて、そうした選択は「監督の趣味」であると同時に「ステレオタイプに陥りたくない(描く現実を一つのパターンとして受け取って欲しくなかった)」という意図でもあったとか。面白い。けど、個人的には正直ちょっと違和が強めに残ってしまったな。



ラストシーンから勝手に読みとったメッセージとしては、The pen is mightier than the sword(ペンは剣よりもつよし)。(以下ネタバレ) 主人公の少年は手にした大金を森の木の根元に埋めて隠すのだが、そのときに目印に用いたのは鉛筆なのだ。最初は、鉛筆を突き立てるなんて目立つし、外れたら見つけ難いし・・・と思っていたが、銃による恐怖と暴力でサバイブしてきた少年に残された希望の証(兆し)として、「鉛筆」が用いられたのかなと思い直してみることに。とはいえ、『アウトレイジ』の加瀬亮みたいなタイプに仕上がってしまうという線もあるわけで(笑)、正直もうすこし可能性の示唆が欲しかったりもした。(というか、「その点」を個人的に求めてしまう性向なんだと最近自認。ケン・ローチの『天使の分け前』に戸惑ったのも似た観点からだったかも。)

これまでIDCFで観たコンペ作品はヨーロッパやアジアの映画ばかりだったので、アメリカ映画しかも黒人の監督が登壇というのは新鮮だった。監督のシェルドン・キャンディス(Sheldon Candis)は今作が長編2作目の若手。実は日本とは既に縁があり、「The Dwelling」(隅田川沿いで生活するホームレスを撮っている)という短編ドキュメンタリーを制作していたり。それ観て行けば(そして、監督に質問すれば)好かったなぁ。短篇「The Walk」もここにある。


当初は観る予定から外してしまっていたチェコ映画『オールディーズ・バット・ゴールディーズ-いま、輝いて-(Vrásky z lásky)』。2本観る予定だった金曜に、朝一の仕事を終え直ぐさま駆けつければ観られることが判明して急遽滑り込む!初めての多目的ホールでの観賞(これまでは毎年全回「映像ホール」で観賞してきたので)だったが、これは断然「映像ホール」で観た方が好いですな。いわゆるパイプ椅子が並べられているタイプの会場ですからね。でも、本作のような映画なら、そうした観賞環境がむしろちょっとした「ムード」を演出してくれた気さえする。平日の11時からの上映と言えば、一般的な社会人は最も観られぬ設定ながら、会場には大勢の観客が・・・。そう、オールディーズでぎっしり、大盛況。雰囲気出過ぎでちょっぴり複雑・・・。(いや、本当にいわゆる「若者」にみえる人が皆無に等しいという場違い感[自分を若者にカウントしてる疑惑・・・気のせいですよ])



全く期待していなかったのが奏功してか、これが随分と沁みた!設定はちょっと奇抜ながらも(往年の名女優[今は忘れ去れてしまっているが]に眼の手術を控えた男が、彼女が入所している老人ホームに会いに行き、彼女がプラハでオーディションを受けるために共に旅(?)に出るというお話)、奇を衒うこと無く、それぞれの人物を色分けすることも無く、淡々ながらも実に丁寧に多面のまま人間を描こうとする誠実さ。それは、「老い」を衰えや諦観で括らず、ノスタルジーや直向きだけで塗さず、静かな覚悟でもってそっとじっと見つめる眼差し。

主演の二人(イジナ・ボフダロヴァーとラドスラフ・ブルゾボハティー)は何とかつて実際に夫婦だったとか。1960年代には数多くの作品で共演したチェコを代表する役者の二人は、やがて結婚するも、憎しみのなかで離婚。以後30年もの間、彼らは共演を頑なに拒み続けてきたそうで、そんな彼らが共演する(しかも主演、かつ往年の彼らの間柄を想起させるような関係性も含みつつ)ということで、脇役にもチェコのテレビ・映画界の一線で活躍する役者が結集したとのこと。確かに、役者たちのアンサンブルには安定感と適度なケミストリー。そして、そうした作品の背景が大きな力となって本作を温かく「抱擁」し続ける。オタを演じたラドスラフは本作が初めて上映された直後に亡くなった。しかし、最後の最後に輝けた、まさに「映画みたい」な物語。

オタの愛車(いまやオンボロ)が思いっきりスクラップにされる場面から始まる本作。その容赦なき過去の否定から始まるからこそ、過去から生まれる前向きの輝きがラストの彩りに意義を生む。

監督は「子供と動物はつかうのが大変だから」子供や若者は出演させなかったんだと冗談交じりに答えていたが、子供や若者を出すことでうまれる対照性から「老い」を定義づけるような野暮を回避したかったのかも。彼ら二人のなかに蓄積されたものから眼を逸らさずに、老いることの痛みと喜びを静観することに成功している気がした。監督はまだ39歳。本国でも若者に観てもらいたいという願いは叶わなかったとのことだが、ファンタジーではないがリアリティだけでもない「ドラマ」を呈示した彼の問題意識はきっと、自らの立ち位置に誠実な作品作りの表れかもしれない。

監督のイジー・ストラフ(Jirí Strach)は10代から俳優の仕事を始めていたらしく(20代後半から監督業を始めたみたい)、フリートークはそんなに得意そうではないものの、非常に見栄えのする好青年。本当、この映画祭に来日し登壇する監督陣は、なぜこうも感じが好く、友好的かつ和やかなのか。それはおそらく川口という適度な周縁感と、開催時期(サマー・ヴァケーション!)からしてオフを利用し観光がてらちょっくら仕事もしちゃうかな的スタンスで日本行きを決めた面々なのでは!?などと勝手に(半ば失礼な)推測をしてみたり。まぁ、でも、政治的な駆け引きや探り合いも横行する「大きな」映画祭に比べれば、自分のつくった映画を遠く離れた日本で悠長に寛げるなかで観てもらうって体験は、或る種の稀少性をもっているかもね。(しかも、既に本国での公開や映画祭巡りが一通り終わった後という安堵感もあるだろうし。)


プレミア感や権威のオーラが皆無だろうと、別次元でひきつけられる魅力をもったIDCF。ある面では進化や深化を求めたいけれど、真価は変わらず続けばいいな。そして、僅かずつでも映画ファンの間に健やかなる浸透がうまれれば。とりあえず、今年も見応えのある作品に出会えたことに感謝です。
 

2013年7月22日月曜日

IDCF2013 コンペ(前篇)

今年で10回目を迎えたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭だが、私が参加するのは3回目。昨年同様、「コンペ作品フリーパス」(前売限定3,000円で長編・短篇コンペ作品すべてが観られる)を購入し、のべ4日間8作品を観賞。やはり今年も短篇プログラムの上映を観ることはできなかったし、長編コンペに出品された日本映画を観ることもできず、長編コンペ12本中9本の外国映画のうち8本を観るという選択に。

フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』に関しては感想を記事にしたものの、その他の作品についても軽く振り返っておきたいと思う。

まずは、最優秀作品賞を受賞した『チャイカChaika)』。スペインの新鋭ミゲル・アンヘル・ヒメネス(Miguel Ángel Jiménez)監督による長編2作目。個人的には最も楽しみにしていたのが本作であり、今回のコンペ観賞作の中で最も魅了されたのも本作。昨年同様、極私的審査結果と審査員が出した結果が一致した形だが、今年の場合はグランプリのみならず、上位3作品が見事に一致(監督賞に『フロントライン・ミッション』、脚本賞に『セブン・ボックス』)。ポピュラリティやメッセージ性からすれば断然他の2作に軍配が上がるだろうが、そこはやはり「芸術性を競う」映画祭の宿命(?)からか、無難ながらも納得のグランプリ。(『フロントライン・ミッション』はもう既に十分な評価を各所で得ているし、『セブン・ボックス』は何か賞を絶対あげたい作品ながらグランプリはちょっと違う感じだったので、そうした「事情」を鑑みても妥当かと。)



『チャイカ』は映画祭映画的な側面が際立つ、いわゆるアート系な映画でありながら、当初は「狙った」のであろう多国籍感(本作は、スペイン・グルジア・ロシア・フランスによる合作)が、自然と「滲み出る」無国籍性へと少しずつなだれ込む。しばらくするとワンパターンにも思えて来る映像美が、何の躊躇いも無く反復を続けることによって醸成される心地好いマンネリとその微かな変容がもたらす無量無辺。荒涼とした大地をデジタルがフラットにとらえる画には、自然の慈しみも厳しさも廃されて、徹頭徹尾「そこに在る」という事実だけを刻むかのよう。だから、それらの光景が湛えている美しさは、決して人間をやさしく包んでくれたりすることはないし、彼らがそうした美しさとシンクロを見せてゆくわけでもない。寡黙な物語ゆえ、叙事の裏に潜む懊悩の暴発が時折訪れる。そして、そのときようやく彼ら(登場人物)は自覚し、僕ら(観客)も気づく。誰もが欲する、「ここではないどこか」について。

とにかく耽美主義的な眼差しに終始する画の連続は、単なる心地好さを求めているわけではなく、自然(空と大地)や文明(列車や建造物)の壮麗さに必ず人間の卑小さを刻印してる。それは、彼らの心がまさに精「神」として、人知を離れ、神のみぞ知るかの如き迷走を繰り返す様と見事に重なりもする。海から始まるこの物語において、冒頭で船を下りた二人にとっての動かぬ大地での暮らしはきっと、終わりの約束された逗留だったのだ。動き出す列車を見るとき、宿命が動き出すとき。移ろいゆくなかで、留まる者と動く者。離れてゆく者、見送る者。


セブン・ボックス7 cajas)』の上映は、コンペ作品中最高潮の盛り上がり。土曜昼という絶好のスケジュールもあってか、場内は満席近い大盛況。105分の上映時間も90分弱の体感で疾走する緩急抜群(「緩」は数割程度だけどね)な、空回らぬ意気込みの心地好さ。これまで20本しか制作されていないというパラグアイ映画の分水嶺になり得る、可能性の宝庫。これまでCMなどの制作を手がけて来たというフアン・カルロス・マネグリア(Juan Carlos Maneglia)監督は、映画を専門に学んだことはなく、映像制作の仕事のなかで習得した知識や技術を映画制作に結実したと語っていた。上映後のQ&Aで、「韓国映画や香港映画を思わせるアジア映画的な要素を垣間見られるが、意識したのか」といった質問が出るも、「パラグアイではそういった映画を観ることができないので・・・」という返答。いろいろな映像作品につながる想起が連続しながらも、何処かコピーの気配がしない鮮度が保たれていたのは、そんな「無垢」の産物だったのかも。

パラグアイ社会がかかえ闇を屋台骨に展開する物語でありながら、善きも悪きもそれらの構造に従順に組み込まれる事ない現実が、人間の滑稽さと逞しさを皮肉り、それでも賛歌。「大きな物語」が失われようとも、小さな小さな物語の連綿は社会をやがて映し出す鏡。社会がどんなに個人を駆逐しようとも、むしろ個人を駆動する。朗らかながらも強靱な志を感じさせるフアン・カルロス・マネグリア監督の人柄にも魅了され、遠い国で芽吹いた希望の予感を共有させてもらった気がしてみたり。



『セブン・ボックス』は審査員特別賞でも監督賞でも好い気がしたが(勿論、脚本賞であることに異論はないよ)、クレジットを見てみると、監督はタナ・シェムボリ(Tana Schembori)と共同ながら、脚本はマネグリア監督が中心になって書かれたようで、そんな配慮(?)もあったりしたのかな。(個人的には、台詞やプロットというより「あの手この手」で試された映像アプローチこそが本作の語りの肝だとも思ったので、監督賞でも好かった気がしたもので。)


『チャイカ』は劇場公開は難しいかもしれないけれど(でも、字幕は太田直子氏が担当してました)、ラテンビート映画祭あたりでの上映可能性はある!?(ただ、ロシア語で舞台も・・・だし、監督がスペイン人だってだけじゃ無理か。) 『セブン・ボックス』こそラテンビート映画祭で上映されたりするかもね。劇場公開のポテンシャルもありそう。
 

2013年7月19日金曜日

完成度と感性度の反比例

『モンスターズ・ユニバーシティー』を観た翌日に、ミゲル・ゴメス(Miguel Gomes)の長編処女作『自分に見合った顔(A Cara que Mereces)』を観た。抜群の完成度に唸った前者だが、余白も余地も残さぬ巧みには、もはや感性が入り混む隙は無い。完成度度外視な後者に戸惑いと朦朧の最中で僕は、荒ぶる全天候型感性に、どこから手をつけていいか、わからない。

ポエジーをひとかけら、ください。

そもそも舞台を「大学」に設定したというのを知ったとき、厭な予感が過ぎった『MU』。全く作品内容に切り込まない抽象礼賛躍ったコメント見かけては、懸念高まるMG一作目。M(ものすごく)U(優秀)な『モンスターズ・ユニバーシティー』、M(ものすごく)G(自慰)だった『自分に見合った顔』。結局どちらにもどこか勝手におぼえる「敗北」感。

ポエジーないは、僕のほう?

完成度を見極める客観性、感性度を決める主観性。どちらも自信がない僕は、どんな映画を観れば好い?好きな映画を観れば好い。好きに映画を観れば好い。だけど、クールに分析したい!やっぱり、シネフィル気取りたい!それでも誰もが、ラタトゥイユ
 


2013年7月18日木曜日

狼が羊に恋をするとき

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品2本目の観賞。台北駅近くの南陽街という予備校が多く集まっているという一角が舞台。地味に滋味な群像的書割に、ミュージックビデオ風味の青少年たちが右往左往。ごちゃごちゃ玩具箱な渋滞は、解消が予告されてるかのような布石感に溢れ返っていたりもするものの、アジア映画らしさをこってり吸収し尽くした台湾娯楽映画の今がある!?

私が本作を観たのは日曜夕方の回だったのだが、その前の『フロントライン・ミッション』が終わって外に出ると、入場待ちの列が出来ている・・・。ちなみに、この映画祭は全席自由席(前売も当日券も)で、整理番号などもない。が、大抵、開場前に待っている人など僅かだったりするので、続けて観る場合でも、ブラブラしてきて開場時刻前後に戻ってくるのがいつもの私的流儀だが、ちょっと心配になってしまい、出来てる列の後につく。(開場までもそんなに時間なかったし。)監督による映像チェックに時間がかかり、実際に開場は遅れたものの、暑さや怪しい雲行きもあって、とりあえずロビーに入れるだけ入らせてくれた上で開場待ち。誘導スタッフはおそらくボランティアが中心なので、地に足の付いた配慮に自然と寛ぎおぼえたり。開場が遅れることに関しても、「監督がなかなか映像にご納得いただけないようでして、少し調整に手間取っております故・・・」という正直なアナウンスは、イベントのプロなのだとしたら規準に適わぬかもしれないが、ボランティアならではの醍醐味(?)として癒し効果を発揮する。

後から知ったのだが、本作の主演男優クー・チェンドン(柯震東)は『あの頃、君を追いかけた』に主演してたんだとか。昨年の東京国際映画祭で上映され、あちこちから絶賛の声が聞こえてきて、いよいよ9月14日から二本でも劇場公開される同作は、台湾での社会現象的大ヒットのみならず、香港でも『カンフー・ハッスル』の記録を塗り替えて中国語映画の歴代興収ナンバーワン記録を樹立。というわけで、いつもの場内の客層とは異なった女性勢(アジア映画ファンと思しき面々)が映画祭の雰囲気に華を添えてくれていた。チケット代は大した額では無いので、動員如何でどうこうというのはそこまで意識しないのかもしれないが、話題性としては「この手の作品」もコンペに何作か入れても好いのかも。(でも、そういう「色気」が見事にみえないところも、この映画祭の好いところではあるんだけどね。)

で、カラフルポップな本作に色めきときめきウキウキしたか・・・というと、正直序盤から全然ノレなかった。決して作り手が拙劣な訳ではなく、あくまで個人的な趣味というか波長とというか、そういったものが本作のウキウキ成分を全くキャッチできなかった・・・という印象が終始。つくりがつくりなので、飽きも退屈もしないのだけど、ハイボルテージになるべき場面で「ふむふむ、そうするんだね」的俯瞰スタンスな構えになっちゃう悪循環。もしかしたら、カチャカチャ計算してる感が画面から伝わってきて(あくまで、勝手にそれを嗅ぎ取って)しまうからだったのかも。

とはいえ、終盤の疾走感あふれるドラマチック・クライマックスでは、「あれ?あれれれれ!?」というくらいの高揚感が私にも充満っ!と思いきや、やっぱり「俺のリズム」をとことん狂わす流れ、アプローチ。ま、やっぱり趣味の問題なのだろか。

とはいえ、予備校の授業風景なんかは懐かしく、そうした「ちょいキュン」はぼんやり持続してたかな。上映前に登壇した映画祭のディレクターが、「かつての駿河台を思い出す」なんてコメントしてたのも至極納得で、まさに受験が戦争めいてた時代の風景。私の頃には、最大のピークは越えていたとはいえ、それでも私が通っていた駿河台にあった予備校の大教室は、本作に出てくるように浪人生でびっしり。しかも、狭っ苦しいスペースに詰められまくり。瀧沢ディレクターも同じ光景を想起したのかな。

上映後のQ&Aでも出てきた話題だが、本作は予備校街を舞台にしてはいるものの、予備校生自体が物語の主要な登場人物という訳では無い。ただ、物語の「背景」としては魅力的な機能を果たしてはいる。ホウ・チーラン監督としては、「夢を追いかけつつも、そこには成否の分岐が待ち受けており、やがては皆そこから巣立ってゆく場所」という空間の魅力を、既にそうした時代を過ぎた大人たちのドラマと重ね合わせながら見られることを願っていたようだ。アジアの青春映画で最近流行の、現在と過去を往来するタイプの或る種変型とも言えるかも。適度な閉塞感(実際の撮影はどうか知らないが、確かに「街の一角」のみで進行するミニマムさがある)は、若者の「閉じこもりたい」けど「出てゆきたい」な内面とは巧くマッチしてるかな。

ポピュラリティは十分だから、(字幕つけたわけだし)そのうち劇場公開ありそうだ。全く個人的な推測だけど。(そうすると、「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭出品」という併記で、少しは映画ファンのなかで映画祭の認知が高まるかも!なぜか、勝手に応援団メンタリティ。)


原題は「南方子羊牧場」で、英題が「When a Wolf Falls in Love with a Sheep」。
ジエン・マンシュー演じるヒロインは予備校の職員で、彼女は主人公が働く印刷所に出す試験の問題用紙の隅にボランティアで(勝手に)イラストを描いている(イラストレーター志望)。というか、そもそもあんなこと許されるものなのか・・・。で、そこにいつも登場するキャラクターが羊。で、主人公と「その場」をつかってのコミュニケーション(恋愛的駆引)が始まって・・・という展開。
 

2013年7月16日火曜日

フロンロライン・ミッション

※追記:日本版DVDが発売された(8/30)。

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品で最初の観賞となった『フロントライン・ミッションRock Ba-Casba)』(タイトルは、アラブ人とユダヤ人が戯れるミュージックビデオが印象的なThe Clash「Rock the Casbah」に由来)は、イスラエルとフランスの共同制作による作品。監督・脚本のヤリブ・ホロヴィッツ(Yariv Horowitz)は、ミュージックビデオやテレビの演出や、国外でのCM制作、短篇ドキュメンタリーの監督なども務めてきたという。(ここで彼の仕事がいろいろと見られる。)長編監督1作目となる本作は、今年のベルリン国際映画祭パノラマ部門に出品され、C.I.C.A.E.賞(国際アートシアター連盟賞)を授与された。

舞台は1989年のパレスチナ・ガザ地区。そこに派遣された若きイスラエル兵達の苦悩を通して、衝突や矛盾のかかえる凄惨と陰鬱と不毛と懊悩が浮き彫りにされてゆく。派遣後間もなく、反発する地元の若者が屋上から落とした洗濯機によって一人のイスラエル兵が絶命する。いきなり突きつけられた現実に、虚脱と葛藤の日々が始まる。「支配者」としてのイスラエル兵の横暴、抵抗だけが尊厳の術かのようなガザの民。時に愚かで時に聡明な貌を、どちらの側も錯雑と淡々に繰り返す。

まず何よりも新鮮(?)だったのが、地元民による投石の怖ろしさ。監督によると、「ユダヤ人にただ(無料)で石を投げつけられる」とあって、パレスチナの人々も嬉々としてエキストラに参加したんだとか(笑)・・・なるほど。その迫力は確かに伝わる(※)。驚くことに、銃撃戦の何倍も怖ろしい映像なのだ。それはきっと、銃は撃ったことも撃たれたこともないが、石なら投げたことがあるし、ぶつかったこともあるからだろう。それに、銃弾は(その弾道が)目に見えないし、弾自体の重みは稀薄である(それ故の怖ろしさはありつつも、それゆえにどこか形而上的でもある)故に、質量も「弾道」もはっきり体感できてしまう石の重みは激しさを喚ぶ。

また、地元民はとにかく屋上から物を落として攻撃しようとするのだが、その位置関係がもたらす恐怖も厖大で、これは武器をもたぬ民のせめてもの「凌駕」なのかもしれないが、それを更なる規模と間接(無意識)で大量に投下する残虐こそが、空襲というものなのだ。銃撃が傷みをどこか抽象化してしまったように、空襲もおそらく同様の「効果」を孕んでる。銃撃や空襲のもつ残虐性をより「具体」的に見せられることで、戦闘の文明化が、増殖する犠牲の痛みを隠蔽している事実に気づかされたり。

そうした意味では、敵と味方が空間的に分かたれた通常の戦場とは異なった、敵と味方が隣り合い、時に交流を試みてはその度に避けられぬ衝突とすれ違いに対峙し続ける「戦場」において、戦争の深層を浮上させようとする試みは、ジャンル的な戦争映画とは一線を画しているようにも思える。俯瞰で集団を眺めるより、個人に寄り添い凝視するからこそかもしれない。

しかし、最後の最後ではやはり、個人は負ける。仲間を殺した敵を殺すことは私怨の為せる業のようでいて、殺しを躊躇う個人を容易くつぶす集団性の圧制なのだ。個人では固持できるはずの良心や尊厳も、強大な社会のお墨付きを得てしまった「正当」性には目が眩み、大義に隠蔽されてしまう。戦争の怖ろしさとは暴力それ自体よりも、それを制御する可能性の殲滅にあるのかもしれない。


※監督は、「アラブ人とユダヤ人が破壊という戦争ではなく、映画制作という創造のために共同できたことに可能性を感じた」とも語ってくれた。
 

2013年7月15日月曜日

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013

2004年に始まり、今年で10回目を迎えるIDCF(International Digital Cinema Festival)。2003年にオープンしたSKIPシティ(埼玉県川口市)で毎年開催されてきた。SKIPシティの「SKIP」とは、「Saitama Kawaguchi Inteligent Park」の略なんだとか。川口駅から、ほぼ20分おきに無料バスが出ており、所要時間は約12分。(帰りのバスも、同様。)川口までも遠いし、そこから更にバス!?という時点で、怠惰で中央集権的(笑)な私としては参加を検討すらしたことなかったが(そもそも、始まった頃は最も映画から遠ざかる生活をしていた時期でもあったし)、一昨年のオープニング作品がヌリ・ビルゲ・ジェイランの『昔々、アナトリアで』ということを知って駆けつけみると、他の映画祭や特集上映などとは全く異質な空気につつまれて、映画祭のイメージが変わった(というより、広がった)貴重な体験に。海外の映画祭についてしばしば語られる地域密着型という表現を初めて日本で(というか、首都圏で、か)体感できた新鮮さ。「シネフィル」大集合に充満するギスギスやピリピリとは無縁の、東京よりも些か空も広めの、ちょっとだけ周縁な、厭なとこをちょこっとスキップ、そんな川口で過ごす和やかのんびりフェスティバル。

というわけで、爾来3年連続で参加することにしたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。繁忙期真っ只中、三連休も三連勤、怪物大学も野性速度も観られていないまま、それでも時間を捻出し、まずはとりあえず二本観て来た日曜日。

何とか昼に仕事場を抜け出して、昼食もとらずにSKIPシティに駆け込むと、まずは「あるはず」だったファミリーマートを捜してみるが・・・無い。周辺には何も(といったら怒られるか)ないので、こいつは困った・・・と思ったら、ファミマがあった場所が休憩所になっており、そこには手作りパンの出張販売が。(ちなみに、タリーズも奥にはあったりする。)そこで、折角だし(?)その休憩所でランチを素早くとることに。サンドイッチとパンを買い、缶コーヒー飲みながら、おだやかな昼食。「ザ・簡易」といった趣のその休憩所には、来日中の監督や通訳の方なんかも昼食をとっていて、相変わらずのIDCFらしさを体感。

客層は中高年(とくに年配の方)が多めだったりするのもIDCFの特色。しかし、イタリア映画祭のややハイソ的シルバー層やフランス映画祭の有閑マダムとは違った様相で、年に一度のお祭りを楽しみにしている&青春時代に娯楽の王様だった映画への憧れに今一度胸躍らせてやって来る地元の方々が主だったりする。始まるまえの情報交換も、観賞後の感想も、至って気さくな即興曲。衒学始終騒とは無縁の空気に、深呼吸(笑)

観賞料金も良心的で、コンペ1本が800円(前売だと600円)。コンペ3回券は2,100円(前売だと1,500円)。前売だけで販売されてるフリーパスはなんと3,000円(長編12作品と短篇4プログラムがいずれも観られる)。主催している埼玉県および川口市からの相当な助成によって運営されているのではあろうが、そんな価格設定も地元民からの支持との相関関係だったりするのかも。(とか余所者は思ってみても、実際は地元民の大勢は何とも思ってないor疎ましがってるってこともあるのかもしれないけどね。)

前述のファミマ消失と並んで、でもこちらは嬉しい変化だが、今年はシネスコ作品の上映がスクリーン拡張で上映されている!(ということは、座る位置[個人的ベスポジ]が変わるということでもある。) 昨年までは、作品によってはスクリーン拡張によるシネスコ上映もあるにはあったが、基本的にはビスタサイズに上下黒帯で投影するパターンがほとんどだった。椅子の形状に関しては、個人的にはちょっと難ありな気がするものの(背もたれがほんのちょっとね・・・でも、全然普通の劇場椅子レベル)、画質含め上映環境は極めて良好な映像ホール。(実は、もう一方の会場である多目的ホールでの上映は観たことがない。)スクリーン拡張によるシネスコ上映はなかなかの迫力あり。但し、シネスコ作品で画面の外に字幕が出るタイプのものもあるようで、その場合は上下黒帯タイプでの上映かもしれません。

とりあえず今週の平日は仕事も一段落し、何度か川口まで足を運べそうなので、初めてのMOVIX川口にも足を伸ばしてみようかと。(川口駅より徒歩8分らしい) 他にも川口駅前には川口市立中央図書館メディアセブンなんかも入っているキュポ・ラというビルがあり、のんびりまったり文化的に過ごす休日には恰好な街にも思えます。あ、ちなみにSKIPシティ彩の国ヴィジュアルプラザにも映像ミュージアムや映像公開ライブラリーなんかもあって、巧いことやれば有意義に時間がつぶせそうだし、SKIPシティにある川口市立科学館にはプラネタリウム(平日は投影がないみたいだけど)もあったりします。

というわけで、何故か川口に何の縁もない私が宣伝部員のようになっている(気づけば「です・ます」調になっている)・・・ことからもわかる通り、なかなか居心地の好い町そして映画祭。初日(私にとっての)には、『フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』を観てきましたが、感想は改めて。

2013年7月12日金曜日

世界遺産から外れるという選択

富士山が世界文化遺産に登録されて云々で、何かと話題にのぼる「世界遺産」の話。先日、クローズアップ現代を見ていたら(というか、オンデマンドで見たんだけどね)、興味深いエピソードが紹介されていた。

富士山は今回の世界文化遺産の認定に際して、いろいろな「目標」というか「規準」が示され、要は注文というか努力目標と引き換えに認定を戴けたような形になっているらしく、それらが遵守というか達成されないと、今後は登録抹消もあり得るよ・・・的な流れで紹介されたエピソード。

それは、ドイツ東部にあるドレスデン・エルベ渓谷

2004年に世界遺産に登録されたのだが、その翌年早くも登録抹消の危機に直面してしまう。それは、街の中心部と住宅地を結ぶ橋の建設計画が持ち上がり、世界遺産委員会から「橋を建設すれば(世界遺産としての認定に値する景観が損なわれるので)登録を抹消する」との警告を受けたのだ。

しかし、長年の慢性的な交通渋滞(とりわけ朝夕の通勤時)に悩まされ続けて来た住民にとって、街の中心部と住宅地を結ぶ橋の建設は周辺住民の悲願でもあった。そこで、建設の是非を巡って住民投票が行われることに。

結果は、67.92%が橋の建設に賛成。

橋の建設計画は住民投票を受けて続行され、ドレスデン・エルベ渓谷は登録からわずか5年で世界遺産のリストから除外されること。(背景は異なるものの、先日小平で行われた住民投票とは色んな点で、随分違った様相を感じたりもした。)

ただ、ドレスデンの市民は「橋の建設」を選んだというだけで、効用が歴史を駆逐することを是認したわけではなく、歴史的な建造物の補修工事は継続中。但し、「世界遺産の保全」として政府が拠出してくれることを見込んでいた8億円は取り消され、市民からの寄付などを中心に進められていることもあり、計画からは大幅な遅れが生じてはいるとのこと。
 

2013年7月9日火曜日

アウト・イン・ザ・ダーク

先週末から始まった第22回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて観賞。実は、初めて足を運んだ同映画祭。故にちょっとだけ緊張(?)したが、他の映画祭にはないフランクさやお祭りムードが漂っていたりもして、微妙な上映環境も手作り感が何となくカバーしてくれたり(くれなかったり)。実際、LGFFへの参加を躊躇っていたのも、映画館での上映ではないという点だったりもして(でも、新宿バルト9で一部開催された年もあったよな)、最近では積極的に「参加しない理由」ばかり探しては安息を貪ることに精出しがちな私としては、今年も参加は見送るはずだった・・・けど、ドイツ映画特集でドイツ文化センター@青山一丁目に行く予定だったので、東京ウィメンズプラザホール@表参道が心的急接近!本作の予告編とか観たら行きたくなって、東京ウィメンズプラザホールの写真をみたら段差のある座席!ドイツ文化センターの平面床に椅子並べ状態で観ることに早くも疲弊し始めた脆弱根性も手伝って、急遽駆けつけてみることに。(本作の上映は18:35開始だったのだが、ドイツ文化センターで18時過ぎに終わる映画を観てから行ったので、なかなかハードな移動になりました。)

観賞のきっかけとしては、度々見かける受賞実績の影響がありつつも、やはり二つの「壁」(パレスチナ問題と同性愛)をどのように描いているのかが興味深かったということと、個人的にイスラエル映画と相性が好いということ。2010年の東京国際映画祭コンペでのグランプリ受賞作『僕の心の奥の文法(Hadikduk HaPnimi)』は個人的にもグランプリだったりしたし(劇場公開はおろか、ソフト化もBS・CS放映も一切ないとはどういうことか・・・)、昨年の東京フィルメックスでグランプリを受賞した『エピローグ(Hayuta and Berl)』もやはり個人的グランプリだった。他にも昨年では、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭で観た『レストレーション~修復~(Boker tov adon Fidelman)』も実に味わい深かった。(その『レストレーション』の監督ヨッシ・マドモニーの新作には、本作でロイを演じるMichael Aloniが出演している。)国家としてのイスラエルも、イスラエルの良心代表的なアモス・ギタイも、正直苦手だが、そうした声高な自己主張とは別種の淡々とした清澄さで魅了してくれる上記作品群は極めて好みだし、そういった作品たちを日本にもっと紹介して欲しい。今年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭に出品される『フロントライン・ミッションRock Ba-Casba)』というイスラエル映画も楽しみ。)

物語は、パレスチナ人の学生ニメルがテルアビブのクラブでイスラエル人の弁護士ロイと出会い、恋に落ちるところから始まる。ニメルは大学で心理学を学び、テルアビブの大学で講義を受けるために通行許可証を手にできたのだが、それがある事情により失効してしまう。

ニメルは自身がゲイであることを家族にも隠している(知られれば「村八分」になってしまう)が、ロイは家族にもカミングアウト済。予告なく恋人であるニメルを夕食に招いたりするほどだが、それでも両親は「いい加減、まともになったら?」的な対応で彼の本性への理解は極めて乏しい。社会的地位のあるロイの父親はまさに「イスラエル」、そして父親を失ったニメルの家族はまさに「パレスチナ」。結局、背景は違えども、どこまでも張り巡らされている壁。社会の許可なしに通行できぬ境界を、個人が乗り越えられるのか。最後に愛は勝つ?それは境界を破壊することでも、無視することでもなく、利用することなのかもしれない。負けるが勝ち。いや、闘争こそが壁を生む。ならば逃走こそが壁を消す?

タイトル通り、夜の場面が多いし、そのうえ光はあまり射し込まず、わずかな灯りが点綴している光景が続く。会場内は真っ暗とは言い難い(非常口のランプが多く、明るい)環境だったりもして、画面が見づらかった為、映像への没入が削がれて正直残念だったりもした。とはいえ、画面の方が闇につつまれているという状況も、それはそれで意味深に思えて来たりもして、普段は体験できぬ「薄明」のなかでも観賞は、独特の感傷をもたらしもしてくれたかも。


2013年7月8日月曜日

真青の方程式

問題には必ず答えがある。方程式には必ず解がある。しかし、現実の「方程式」は止まったままでは在り得ない。人間が解を求めている間にも、係数は常に変化し続ける。辿り着いたと思ったその解は、既に過去のものでしかなかったり。そんな科学的徒労にも、読み解くべき価値がある。「割り切れる」ことが科学の美であるならば、「割り切れない」ことこそ、その「余り」にこそ文学の美はあるのかも。科学者が最も「美しい」とき、それは科学の恩寵を確かめるときよりも、科学の無力を痛感できるとき、つまり人間であることを実感できるとき。

米国で隆盛を極めたCSI等の科学捜査が中心となる犯罪ドラマにおいても、日本で時間をかけてヒット作の仲間入りを果たした「相棒」シリーズにしても、主軸となる論理の明晰さ自体に惹きつけられるというよりも、その限界を突破するために非論理的な直感や実利無視な行動が一役買うという展開にこそ溜飲を下げ、どこか安堵に似た満足を得たりする。科学の支配にウンザリしつつも依存から抜け出せず、それでもどこかで抵抗したい「人間」性の顕れかもしれない。

映画版ガリレオの前作は、科学者による「献身」が描かれた。科学者であれば身体よりも精神で勝負したいところだろうが、精神(理性)よりも身体(感情)が動いてしまう姿に、多くの「人間」が動かされたりもしたのだろう。謎解きを主眼とした連続ドラマを見ていた私は、『容疑者Xの献身』における徹底したメロドラマ感を劇場で目の当たりにし戸惑いながらも、そのメロス(旋律)が間断なく無防備な琴線に触れ続けたことを憶えている。それ故に、連ドラ第2弾の退屈を経ようとも(結局、全部観てしまったという根っからのドラマっ子、というシネフィル禁断の本性)、本作に寄せる期待は決して低くなく、いやむしろ上がり続けるハードルに躊躇いながらの「再会」となったのだ。

『アンダルシア 女神の報復』で失地回復後、『任侠ヘルパー』で手腕への評価が飛躍を見せた西谷弘監督。ただ、その巧さは「手堅さ」ゆえに大衆的な軽妙(というか軽薄)からは遠ざかってしまう傾向もあり、それは離乳食的娯楽色を消失させもして、予告編からですら手頃なワクワク感が込み上げぬという、ドラマ映画に不可欠な前提を度外視した規格に奔り過ぎてる気がしてしまう。映画ファンからの熱い支持と反比例してしまう興行収入の実績にそれは顕著であるが、本作はどうなることだろう。本作が映画として「実に面白い」だけに、実に心配だ。

ただ、本作は極めて充実した映画体験を味わわせてもらいながらも、個人的には後半の失速という印象が拭えない。実は、それは私が受ける西谷作品の印象に共通してもいる。おそらく、それは「失速」ではなく「転調」なのかもしれいし、「停滞」ではなく「沈潜」なのかもしれない。とはいえ、前半の抑制の効いた疾走という独特のテンポが心地好い私としては、そこに加えられるブレーキにもどかしさを覚えるのも、また事実。とりわけ本作は、前半部の縦横無尽な広がり(空間的にも空から海底へ、そしてシネスコをはみ出さんとする地平線や稜線)につつまれて繰り広げられる小さなドラマの大きな伏線が、高鳴る胸を急き立てまくり、ワンシーン毎にロケットスタート状態なのだ。そのパラダイス感に東京(都会・文明・権力)が混入し始めることで歪みは生じ、現在に過去が染み始めることで半透明な世界へ変わる。その変調は巧みで確かなものではあるものの、過ぎゆく夏の如く名残ばかりが去来する。

とはいえ、そうした寂寥感こそが終盤の「回帰」を昂奮させたとも言えなくはない。少年の中から後退し始めたジュブナイルが決定的な消散を迎えようとしたその時、今以て残存し得た一欠片のジュブナイルが喚起された歓びを語る湯川の言葉。「楽しかったな」。喜びも悲しみも、過去も未来も、正しさも過ちも、その全てが「ひとつ」であることを教わる少年。それは、きっと私(観客)でもある。(そうして、福山雅治主演の今秋公開作『そして父になる』に架かる見事な橋。)

真夏の方程式。アイドル歌謡のような冴えないタイトルが、いじらしい響きで迫ってくる。「夏の終わり」を告げる物語でもある本作、どこか底冷えする夏が終わった時、それでも熱い夏だったことを想い出す。8月最終週に観るべき映画リスト入り。

全篇通して色んな貌で魅せる「あお」。青も、蒼も、碧もある(でも、けっしてブルーはない)。かといって、「あお」につつまれる訳じゃない。「あお」は其処此処に差し込んでくる。色褪せた記憶にも鮮明に残る「あか」を消そうとして。しかし、真青の方程式の解はそれでも赤なのだ。

科学にとっては「どこに行くか」が重要だが、人生にとって重要なのは「どう行くか」。「行き先」を教えてくれる映画はつまらない。そんな映画は、在り得ない。「生き方」こそが、面白い。実に面白い。人の数だけあるそれは、非論理的で非科学的。客観性の無意味こそ、人間の真実。
 

2013年7月5日金曜日

夏目漱石の美術世界展

終了間近(7月7日迄)に駆け込みで観てきた。後悔。二ヶ月近くも開催されていたのに、今頃になってのこのこと・・・あぁ、後悔。隙間の時間で駆けつけたものだから、1時間ちょっとしか観られなかったことも、大後悔。そう、実に面白い。見事に興味深い!

この展覧会は、漱石および漱石作品にまつわる美術のさまざまが一堂に会した玩具箱的漱石芸術祭。最初の展示室で、『坊っちゃん』で語られる「ターナーの画にありそうな松」の画(本物!)に出会ってしまうから驚き。こういった展開で展覧される文学と美術の知的かつ総合芸術的饗宴は、右脳と左脳を横断刺激!テート・モダンから借りてきた画をはじめ、ターナーの絵画はおそらく今秋開催されるターナー展用のものだったのかなとも思うけど、こういう正しき流用こそ知的財産圏。

同じくテート・モダンからのブリトン・リヴィエアー「ガダラの豚の奇跡」は、『夢十夜』「第十夜」のイメージ源泉だとされるだけあって、とんでもない怪力で迫ってくる。そもそも、「漱石が、この画を見た記憶からうまれた作品」に心酔し、その作品の源泉が現前に在るという興奮。時空を超えて地続きにさせる、物質力。そう、これは「データ」「デジタル」の時代ではもたらし得ない質量絵巻。

漱石の興味関心が高かった日本の古美術作品の展示も充実していたが、作品との連動企画のなかには新作まである。『虞美人草』に登場する「銀屏」を甦らせた(?)のだ。作者(酒井抱一)のコメントが粋である。「今は新品の銀屏だが、完成はこれから百年の経年で示されよう。」 素晴らしき哉、時間旅行。

漱石にさほど詳しくなくとも大興奮なのは、日本において最多読了数(推定)を誇る文学長編作品『こころ』にまつわる二つの展示。まずは、渡辺崋山による「邯鄲」の画。崋山が自刃する直前、「この画を描くために死期を繰り延べた」というエピソードを、「先生」は自らの状況と重ねて筆を置こうとしていたのだが、まさにその画が今ここにある・・・。そして、その『こころ』の漱石直筆原稿も展示されている。実際に見られるのは、最後の一枚(「下(先生と遺書)」の最後の最後)だけなのだが、デジタル化の大波に呑まれまくってる昨今だけに、その直筆が放つオーラには心地好い眩暈。

漱石自身による画や書も多数展示されていたりする。丹念に描かれた画には、「憧れ」が溢れている。技術的には丁寧な努力の痕が際立っており、ということは才気横溢な気配は乏しく、それがより一層「言葉による芸術」の創造主としてとんでもない高みへ昇らせたように思えてくる。書もやはり秀作どまり的な印象しか受けないが、漱石の愛した陶淵明「帰去来辞」を揮毫した書は至上の感動。私も「帰去来辞」は隈無く好きな詩で、書の全篇をこの眼で見たかった(巻物の一部のみが見られるようになっていた展示だったので)。

2010年に国立西洋美術館で開かれた「フランク・ブラングィン展」でも紹介されていたが、漱石の『それから』の中でブラングィンの名が言及されている。今回の展覧会でも彼の画が一点展示されていたが、「働く男」を描いた画が特に好きだったという漱石の嗜好が興味深く、今回の展示で漱石の美意識が(あくまで個人的に、自分の中で、ではあるが)より鮮明になりつつあるように思えても来た。明らかに「華美」なものには近寄らず、かといって老荘的な境地に逃げるわけでもなく、時代と対峙する矜持と現実に絡め取られぬ幻夢の世界、それらを自由に行き来する精神で、古今東西有名無名問わず、「共感者」として美の探求に切磋琢磨できる存在との出会いに貪欲であり続けたのだろう。新聞小説という通俗と、長編小説の芸術を、両立させた類い希なる(いや、唯一無二の)真の文豪による真実の眼差しの背景を少しだけ垣間見られた気がした。

尚、東京で終了の後は静岡県立美術館で7月13日から8月25日まで開催されるようだ。図録を隅々まで熟読し、静岡遠征しようかな。
 

2013年7月4日木曜日

Playback

光陰矢の如し。しかし、それは物理の時間、人間の外に流れる時間。人間の内に流れる時間は決して一方向でも一次元でもないはずで、幾重でも幾層でも幾許もない。立ち止まって反芻してても時間は流れるが、流れた時間が内に溜まった時間とは限らない。人間は記憶を持ち始めたとき、生まれ変わる。「はじめて」しかなかった生から、記憶と常に対話する「再生」へ。

三宅唱監督による本作は、オーディトリウム渋谷でのファーストラン(しかも、ロングラン)時に2回観た。前作『やくたたず』との運命的(と勝手に感じた)出会いを経た再会は、本作をたとえもう二度と観られなかったとしても、一生自分のなかで再生され続けるであろうことを確信をさせる「永劫回帰」への確約だった。しかし、それは反復でも反芻でもなく、解けない宿題との安らかな戯れ。穏やかな葛藤を包み込む、緩慢な一瞬。こんなにも「終わり」が描かれ続けているはずなのに、そこに起ち上がってくるのはむしろ久遠の彼方と此方の抱擁で。死の対極に生があるわけでもなければ、生の対極に死があるわけでもない。モノクロは白と黒のせめぎ合いなどではなく、白と黒の連繋であり、光と影の調和。

そもそも「影」とは光であり、影である。そして、光と影がうみだす物の形も「影」ならば、私たちが心に浮かべる姿も「影」なのだ。つまり、モノクロ映画とは徹頭徹尾「影」なのだ。白と黒で象られた世界とは、眼で見る形を捉えつつ、眼では見られぬ姿を浮かべてる。光が際立ちは、影の際立ち。具体だからこそ起ち上がる捨象と抽象。

そして、『Playback』が見せるのは、影にまみれた光でも光にうもれた影でもなくて、光にあふれた影なのだ。だからこそ、この映画は白一色で終わる。そのラストのラストには、生きた証が刻まれる。フィルムの宿命としての傷みが映し出されるその瞬間に、たった一度が繰り返されるという幸福な矛盾から生まれる「再生」の喜びをかみしめる。


下高井戸シネマで7月5日金曜まで。18:45上映開始。35mm上映。

ソフト化の予定はないそうだけど、やがてソフト化して欲しいけど、ソフトで(ということはデジタルで)「再生」することの価値も意義もあるとは思うけど、「いまここ」でしか立ち会えないフィルムとの出会いの一回性に感じ入る体験は、いまだからこそ抱きしめておくべきだと思うのです。

そして、渋谷の円山町よりも本作が遙かに似合う下高井戸の町。薄明へと向かう中で劇場に入り、ひっそり訪れた夜の入口に劇場を出る。観るべき場所、観るべき時間。

本作のパンフは制作されていないが、劇場には二つ折りのチラシがある。数種のチラシやフリーペーパーを見た記憶はあるが、今回の劇場でもらったチラシは初めて見た。内側の見開きに掲載されているのは、所謂コメント集なのだが、その面子が興味深いのみならず、そこに並んだ言葉の慎重さと深長さが余韻を助長。観賞後に是非。

昨年の日本映画ベストワンにしなかった猛省として、今年の日本映画ベストワン、いやオールタイムベストに大訂正。