2013年7月23日火曜日

IDCF2013 コンペ(後篇)

地元の人達が、「なんだか映画のお祭りやってるらしいわよ」なノリでふらっとやってくるSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。面白かったり楽しかったりしたときに充満するウェルカム感は好いものだ。でも、最も感心というか安心できるのは、たとえ「キョトーン」な作品を観てもあくまで「ふーん」や「へぇ~」で貫かれる友好感。沸点の低い好戦都会とは無縁の空気。だからこそ、娯楽性や話題性にひきずられず、作品選定ができるのだろう。勿論、だからといって観客度外視ではないし、土日上映には「相応しい」作品の選定がなされてはいるのだけれど、一方で他の映画祭や特集上映では観られないような(受け皿の無い)タイプの作品も積極的に選出してくれているのが嬉しいところ。

今年で言えば、『アメリカから来た孫』や『隠されていた写真』、そして『ぼくと叔父さんとの事』。(『アメリカから来た孫』はスケジュール上困難で残念ながら観られなかった。)

『隠されていた写真(Zdjecie)』は、ポーランドのマチェイ・アダメク(Maciej Adamek)監督による82分の小品ながら、変わった見応えのある作品だった。ドキュメンタリーや短篇などの作品では一定の評価を得てきたアダメク監督の初長編。ドキュメンタリー的な雰囲気を残しつつも、明らかに劇映画たろうとする緊張感もそこはかとなく漂う不思議なドラマ。短篇をそのまま並置したような親切な澄まし顔に最初やきもき、次第に諦念。そんな頃合いに、心にしっくり来るか何も落ちてこないかは、観る者によってだいぶ違いそう。東欧の映画、とりわけポーランド映画からイメージする「堅さ」や「冷たさ」はよりローカル的な深まりを見せ、ついつい捜してしまいがちなメッセージ色はさほど見当たらないという先入観との齟齬に何処か戸惑いを感じながら、時の歩みが異なることを知る。



自分の〈過去〉を探るために旅に出た主人公アダム、17歳。しかし、それはいつしか両親の〈過去〉を調査することで、自らのルーツを精査しようという〈現在〉の空洞化。そこに訪れる恋の予感。いや、実感。そう、痛感。アダムは何かにつけハンディカメラで眼前の光景を記録するのだが、そこに人間が混入することを何処かで避ける想いが強かった。しかし、そんな彼の記録にやがて、人間が入って来る。いや、人間を記録しようとカメラを持つ。そのとき、彼が見つけた母親の写真に記録された可視世界の背後に広がる不可視な記憶がもつ意味を、彼は知ったのかも知れない。列車のなかのラストシーン。アダムが一枚の写真を母親に手渡す。凝縮される軌跡。觝触せぬ奇跡。語られなかった寡黙な時間が、雄弁な緘黙の時間に変わる。過去を追い抜いた今がある。追いつかんとする未来もある。


『ぼくと叔父さんとの事(LUV)』は、その邦題からは想像もつかぬハードな人間交差点。それに、劇場公開はおろか最近ではソフト化やCS放映すら激減してる印象のブラック・ムービー(黒人映画)。ここまで黒人オンリーでドラマが進む映画を劇場で観ているというだけで新鮮。ただ、そんな刺激的な体験であるはずの本作の観賞が、見事に爆睡映画祭に化してしまったことをここに告白・・・。だって、連日睡眠数時間で朝一の仕事終えて川口に駆けつけて昼食とった直後・・・ということで、お許しを(って、誰への懺悔?)。とはいえ、断片的に傍観してたなかでもやはり、あまりにも懸け離れすぎた現実が展開されるドラマには、どうしても取つき端がみつからず、そんな没入拒否な印象が更なる睡魔へ導いて(責任転嫁)、だけどラストの希望と絶望がないまぜの場面は好きよ。それしか言えない・・・。

ただ新鮮だったのは、それだけ黒人映画で下層の現実を描いていながらも、ヒップホップなBGMがほとんど聞こえてこなかったこと。シガー・ロスとか流れたり、スコアもシューゲイザー的。Q&Aでちょうどその辺を監督に質問してくれた方がいて、そうした選択は「監督の趣味」であると同時に「ステレオタイプに陥りたくない(描く現実を一つのパターンとして受け取って欲しくなかった)」という意図でもあったとか。面白い。けど、個人的には正直ちょっと違和が強めに残ってしまったな。



ラストシーンから勝手に読みとったメッセージとしては、The pen is mightier than the sword(ペンは剣よりもつよし)。(以下ネタバレ) 主人公の少年は手にした大金を森の木の根元に埋めて隠すのだが、そのときに目印に用いたのは鉛筆なのだ。最初は、鉛筆を突き立てるなんて目立つし、外れたら見つけ難いし・・・と思っていたが、銃による恐怖と暴力でサバイブしてきた少年に残された希望の証(兆し)として、「鉛筆」が用いられたのかなと思い直してみることに。とはいえ、『アウトレイジ』の加瀬亮みたいなタイプに仕上がってしまうという線もあるわけで(笑)、正直もうすこし可能性の示唆が欲しかったりもした。(というか、「その点」を個人的に求めてしまう性向なんだと最近自認。ケン・ローチの『天使の分け前』に戸惑ったのも似た観点からだったかも。)

これまでIDCFで観たコンペ作品はヨーロッパやアジアの映画ばかりだったので、アメリカ映画しかも黒人の監督が登壇というのは新鮮だった。監督のシェルドン・キャンディス(Sheldon Candis)は今作が長編2作目の若手。実は日本とは既に縁があり、「The Dwelling」(隅田川沿いで生活するホームレスを撮っている)という短編ドキュメンタリーを制作していたり。それ観て行けば(そして、監督に質問すれば)好かったなぁ。短篇「The Walk」もここにある。


当初は観る予定から外してしまっていたチェコ映画『オールディーズ・バット・ゴールディーズ-いま、輝いて-(Vrásky z lásky)』。2本観る予定だった金曜に、朝一の仕事を終え直ぐさま駆けつければ観られることが判明して急遽滑り込む!初めての多目的ホールでの観賞(これまでは毎年全回「映像ホール」で観賞してきたので)だったが、これは断然「映像ホール」で観た方が好いですな。いわゆるパイプ椅子が並べられているタイプの会場ですからね。でも、本作のような映画なら、そうした観賞環境がむしろちょっとした「ムード」を演出してくれた気さえする。平日の11時からの上映と言えば、一般的な社会人は最も観られぬ設定ながら、会場には大勢の観客が・・・。そう、オールディーズでぎっしり、大盛況。雰囲気出過ぎでちょっぴり複雑・・・。(いや、本当にいわゆる「若者」にみえる人が皆無に等しいという場違い感[自分を若者にカウントしてる疑惑・・・気のせいですよ])



全く期待していなかったのが奏功してか、これが随分と沁みた!設定はちょっと奇抜ながらも(往年の名女優[今は忘れ去れてしまっているが]に眼の手術を控えた男が、彼女が入所している老人ホームに会いに行き、彼女がプラハでオーディションを受けるために共に旅(?)に出るというお話)、奇を衒うこと無く、それぞれの人物を色分けすることも無く、淡々ながらも実に丁寧に多面のまま人間を描こうとする誠実さ。それは、「老い」を衰えや諦観で括らず、ノスタルジーや直向きだけで塗さず、静かな覚悟でもってそっとじっと見つめる眼差し。

主演の二人(イジナ・ボフダロヴァーとラドスラフ・ブルゾボハティー)は何とかつて実際に夫婦だったとか。1960年代には数多くの作品で共演したチェコを代表する役者の二人は、やがて結婚するも、憎しみのなかで離婚。以後30年もの間、彼らは共演を頑なに拒み続けてきたそうで、そんな彼らが共演する(しかも主演、かつ往年の彼らの間柄を想起させるような関係性も含みつつ)ということで、脇役にもチェコのテレビ・映画界の一線で活躍する役者が結集したとのこと。確かに、役者たちのアンサンブルには安定感と適度なケミストリー。そして、そうした作品の背景が大きな力となって本作を温かく「抱擁」し続ける。オタを演じたラドスラフは本作が初めて上映された直後に亡くなった。しかし、最後の最後に輝けた、まさに「映画みたい」な物語。

オタの愛車(いまやオンボロ)が思いっきりスクラップにされる場面から始まる本作。その容赦なき過去の否定から始まるからこそ、過去から生まれる前向きの輝きがラストの彩りに意義を生む。

監督は「子供と動物はつかうのが大変だから」子供や若者は出演させなかったんだと冗談交じりに答えていたが、子供や若者を出すことでうまれる対照性から「老い」を定義づけるような野暮を回避したかったのかも。彼ら二人のなかに蓄積されたものから眼を逸らさずに、老いることの痛みと喜びを静観することに成功している気がした。監督はまだ39歳。本国でも若者に観てもらいたいという願いは叶わなかったとのことだが、ファンタジーではないがリアリティだけでもない「ドラマ」を呈示した彼の問題意識はきっと、自らの立ち位置に誠実な作品作りの表れかもしれない。

監督のイジー・ストラフ(Jirí Strach)は10代から俳優の仕事を始めていたらしく(20代後半から監督業を始めたみたい)、フリートークはそんなに得意そうではないものの、非常に見栄えのする好青年。本当、この映画祭に来日し登壇する監督陣は、なぜこうも感じが好く、友好的かつ和やかなのか。それはおそらく川口という適度な周縁感と、開催時期(サマー・ヴァケーション!)からしてオフを利用し観光がてらちょっくら仕事もしちゃうかな的スタンスで日本行きを決めた面々なのでは!?などと勝手に(半ば失礼な)推測をしてみたり。まぁ、でも、政治的な駆け引きや探り合いも横行する「大きな」映画祭に比べれば、自分のつくった映画を遠く離れた日本で悠長に寛げるなかで観てもらうって体験は、或る種の稀少性をもっているかもね。(しかも、既に本国での公開や映画祭巡りが一通り終わった後という安堵感もあるだろうし。)


プレミア感や権威のオーラが皆無だろうと、別次元でひきつけられる魅力をもったIDCF。ある面では進化や深化を求めたいけれど、真価は変わらず続けばいいな。そして、僅かずつでも映画ファンの間に健やかなる浸透がうまれれば。とりあえず、今年も見応えのある作品に出会えたことに感謝です。