2013年7月27日土曜日

台湾アイデンティティー

現在ポレポレ東中野で公開中の(ちなみに、沖縄の桜坂劇場でも)『台湾アイデンティティー』。来月からは関東でも群馬埼玉神奈川で順次公開。

酒井充子監督の一作目『台湾人生』の続編というか第二弾というか姉妹編とも言うべき本作。しかし、『台湾人生』を観ておかねばならぬ必要性は全くない。ただ、観ていると浮かび上がる必然性は其処彼処。『台湾人生』は初監督作であったり、扱うテーマが孕む複雑性もあってか、「大きな物語」への律儀さをのぞかせていたように思う。勿論そのことで、歴史として物語として過去に入ってゆける仕掛けが見事に機能していたが、語られる個の人生が「大きな物語」のなかに浮かぶ「小さな物語」として〈翻弄〉に帰してしまうという「まとまり」を持ってしまっていたようにも思う。それはそれで、それだからこそ、私のなかにも未だに消えぬ(そして、こうして本作を観ようとする)深い感銘を受けるに至ったが、本作においては葛藤しながらも芽生えた信念に従って「物語」は編まれてゆく。ひとつひとつの「小さな物語」をそのままに、その背後にある「大きな物語」を聞き手(観客)が自ら発見し読み始めようとするための、静粛な探照灯。

本作では6人の「台湾人」(という括り方は相応しくないかもしれぬが)の話に耳を傾けている。撮影は監督とカメラマンが語り手と向き合って行っているようだ。時折、監督自身の問いかけの声が聞こえるし、そこには明らかに監督の意図も意志も読めるのだけれど、そこに本作を支配し統合を図ろうとする力などを感じることはない。むしろ、同行者として観始めた私たちは、「それ、僕も訊きたかった」とか「それを訊きたいのはわかるけど」などと隣で一緒に聴く者としての連帯感が深まってしまう。インドネシアの残留日本兵である男性に、「何人(なにじん)として死んでいくんでしょうか」という問を発した監督は、後悔や反省を述懐している。確かに、そこに違和感をおぼえる観客もいると思うし、それはそれで至極当然とも思うが、私は何故かそうしたところに「信頼できる何か」を感じてしまうのだ。観察に徹しきれないながら、懸命に耳を澄まそうとし、しかし堪えきれない逸る想い。しかし、そんなすれ違いでしか叶わない巡り合いがあるよな気もしてしまう。そして、それこそが疎通を図る意思の現実で、それこそが個をみつめるドキュメンタリーには必要だと思うから。

『台湾人生』では、「日本人として」知らねばならぬ事実を手渡されたが、『台湾アイデンティティー』には「人として」学ぶべき真実が佇んでいる。「生きた教訓」に、時代も国も民族もない。いや、時代にも国にも翻弄され抑圧されてきたからこそ、それでもなお在り続ける矜持に人間の美しさが宿っている。人間の醜さに屈さずも殺されずに生きるには、どんなに押しつぶされても棄てぬ「美しさ」が必要だった。そこに残酷さしか生まれないことがあることも、彼らはよく知っている。僕らはまだ、(いや、これからも?)知らない。ただ、彼らが「語る」ことを選んでいるという事実に、私たちは敬意以上のものを払う覚悟をもつべきなのだということだけは、わかる。

台湾のアイデンティティー、台湾とアイデンティティー。いずれも、単純には済まぬ矛盾をはらんだ表現。矛盾や拮抗や葛藤でしか真実に近づけない現実が人間にあるとしたら、アイデンティティー(同一性)を奪われた彼らを貫く「人間」性に、社会が個人を埋め尽くすことはできない証左を見る。