2013年6月28日金曜日

フランス映画祭2013

横浜時代の華々しさに比べると、ややこぢんまりな六本木時代、そして縮小傾向で迎えた有楽町時代はいよいよ映画祭から先行上映会に!? そんな危惧も高まりつつあった昨今のフランス映画祭。今年も公開決定済の作品がズラリとならんだ上映作品群。上映される11プログラム(新作実写)のうち、実に8つが劇場公開決定済。とはいえ、今年はゲストが(ここ数年では最も)華やかな印象で、かつての輝きをやや取り戻した感はややあるかもしれない(「濁し」ワード頻発しすぎ・・・)。

オープニング作品は、昨年のサン・セバスチャン国際映画祭でグランプリを受賞したフランソワ・オゾンの新作(最新作は、今年のカンヌに出品)。色んな映画祭でちょくちょくちょこっと受賞してきたりはしたものの、一等賞のご褒美は初めて!?ということもあり、どんな作品に仕上がっているか、興味津々(彼の場合は、数パターンの作風というか方向性があって、どのタイプかによって私的嗜好との相性が多少変わってくるので、実際観るまで妙な緊張感)。などという以前に、映画を観るようになったのが遅かった(大学に入ってしばらくしてから)自分にとって、初期の段階からリアルタイムで作品を観て来られたお気に入り監督はそれほど多くなく、そうした稀少で貴重な存在であるフランソワ・オゾン本人が登壇するということ(そして、それを拝める!ということ)がこのうえない達成感を予め約束してくれてはいたのだが。

ただ、フランス映画祭の前売券発売当日は仕事が入っており、購入できたのが昼過ぎだったもので、残念無念の最後列・・・。しかし、そんな寂しい気持ちを『In the House(Dans la maison)』の主人公クロード(生徒の方)が労ってくれたりしたのだった。そう、彼は「いつでも最後列に座る」設定。まさに、最後列で観るべき映画(と勝手に思い込む療法)。

序盤から傑作の香りが立ちこめていたものの、オゾン色ともいえるキッチュな寓話性が次第に高尚さを帯び始める気配を感じ、後半はやや戸惑いながら観ていた気もするが、如何せんこの日は疲労の蓄積がハンパなく、そのための「朦朧」だったかもしれず・・・

直後のレイトで上映され、あちこちで「傑作!」の声があがりまくりのギョーム・ブラックの『遭難者』『女っ気なし』もウトウトしながら半分意識とびながら観てしまったからね・・・或る意味、そういった状態が「適当」な作風ではあったんだけど、いやはや不覚。幸運にもユーロスペースでの公開が決まっているし、早く観直し(?)たい。でも、公開が秋らしいんだけど、(ちゃんと観てないくせに、こんなこと言う資格ないかもしれないけど)これは夏のレイトショーで観たいなぁ~としみじみ思ったり。

2日目も昼過ぎまで仕事だし、このままだとフランス映画祭は爆睡映画祭と化してしまいそうな予感があったので、夕方のジャック・ドゥミ長編処女作『ローラ』を観に行く前に仮眠。昨年はエナジードリンクに依存気味になりかけたものの、仮眠に比べればレッドブルもモンスターも気休め程度(当人比)。そして、頭クリアで臨んだ『ローラ』に完全魅了の洗礼済めば、上映後に登壇した秦早穂子氏のトークに感動しきり(昨年のフィルメックスで審査員を務められた際のインタビューでの話にも心揺さぶられたのは記憶に新しい。『影の部分』を未読であることを猛省)。ヌーヴェルヴァーグという華麗なる物語が、極めて現実的な葛藤や相克の上にかろうじて僅かばかりの花を咲かせた結果(一握りの栄光)であるという真実を、冷めることなき情熱で冴えまくる彼女の言葉に、観客はどこまでも醒めまくる。

『ローラ』を初めて観たときの状況(ゴダールらも同じ試写室で観たとか)を熱く語り、観た直後の様子を司会者に聞かれると、「そりゃぁ、皆、無言ですよ」。「最近の試写は本当に好くない。観終わるとすぐに『どうでした?』なんて聞いてくる」と、胸がすくような真実の人。映画を、特に素晴らしい映画を観終わったあとは、しばらく一人で色々と考えたい。その時間こそが大切。そう彼女は語っていたが、私も(便乗するのも烏滸がましいが)まさしく同感で、私が映画を独りで観るのも、知り合いを見かけても極力隠れる(笑)のも、そうした理由だったりすることを再認識。

作品のみならず、上映後のトークまでが魅了に充ちた時間だった故、レイトの『テレーズ・デスケルウ(Thérèse Desqueyroux)』を観るのに些か気が引けた。しかし、観ればそこには別種の充実底力。クロード・ミレールの遺作となった、モーリアック原作の映画化。クスリともしない、魂を抜かれた女の沈黙の断末魔、オドレイ・トトゥの新境地。文学の映画化というより、映画版文学。日劇の大画面で観られることの必然性に震えてしまう、画の言葉。是非劇場公開して欲しい。そして、原作を読んでから再見したい。

3日目は、昨年の極私的最熱狂作家ラウル・ルイスの遺志を継ぎ、彼の妻であるバレリア・サルミエントが監督を務めた『ウェリントン将軍~ナポレオンを倒した男~(仮)』。昨年日本でも公開された『ミステリーズ 運命のリスボン』にも通ずる乱舞するクロニクル群像劇であったりもして、ラウル・ルイス仕様のつくりではあるものの、決定的に本家とは異質な模造品的仕上がりにがっかり。次から次へと感嘆の連続でつながれる美麗な画が一向に心に突き刺さらない。ちなみに、仮題である邦題は絶対に変えるべき(というか、さすがに変えるだろう)。ウェリントン将軍が主役でないどころか、脇役ですらないし、原題は「Linhas de Wellington(英題:Lines of Wellington)」。つまり、ウェリントン将軍の戦いにおける「前線にいる者たち」の生き様や死に様を描く物語。

『アナタの子供』は、前回記したように、見事な映画的幸福に完全降伏。

だからこそ、レイトの『黒いスーツを着た男(Trois mondes)』は観ないで帰れば好かったな・・・でも、前売を買ってしまっていたもので。これも邦題が好くない。響きは好いよ。でも、この邦題だとノワール的なイメージを与えるし、そうしたスリルだったりダンディズムに魅せられに行く作品と勘違いしそうになるだろう。というか、実際てっきりそうした「物語」だと思ったら、原題(三つの世界)が表すように(とはいえ、リサーチ不足で後から知ったけど)、ひき逃げ事件の三者三様(加害者・目撃者・被害者家族)を滋味あふるる丁寧さでもって交錯させる人間ドラマ。邦題によるミスリーディングという副作用もあったものの、個人的にピンとこない語りだったようにも思う。主演のラファエル・ペルソナ(ペルソナーズ表記は誤りとのアナウンスからQ&Aはスタート)は、憂いをたたえ続けることで味わいが増し続ける薄幸ハンサムさんだけど、登壇した本人は善人オーラ全開で好印象な半面やや拍子抜けというか・・・アラン・ドロンとは作品の中だけでしか会ってきてないのが好かったのかな、なんて。でも、きっと役者としての真摯さは相当なもののようだし、好い作品に出会って大きく飛躍するかもしれないな。

ちなみに、『黒いスーツを着た男』のQ&Aで通訳を担当された女性が驚愕の危険運転でとにかく冷や冷や、いやイライラ。直前回(ドワイヨン登壇)の通訳が福崎裕子さんだっただけに、余計。(福崎さんの仕事は、本当にいつもいつも最上の架け橋で、毎回しきりに感謝感服しっぱなし。)

今年はなぜか最終日が月曜(平日)という開催期間の変則。たまたまスケジュール的に観ることのできた『椿姫ができるまで(Traviata et nous)』。粗筋は知りながらも、舞台(オペラ)自体は観たことのない『椿姫』。今秋にシアターイメージフォーラムで公開予定だが、必ず『椿姫』の内容は予習しておいた方が好いし、できればオペラも観ておくと好いと思う。その辺は「わかってる」ことを前提につくられている、というか、それでこそ『~できるまで』をじっくり味わえるのだろうと思うから。

上映後には監督のフィリップ・ベジアと、演出家のジャン=フランソワ・シヴァディエが登壇してQ&A。いつもと違った客層(有閑マダム中心)ということもあって、妙な和やかさと寛容が漂うなか、リラックスした語りで充実した話が聞けた。その内容を踏まえて、もう一度観たい(観るべき)作品だと再確認。今度は、オペラも通して観た上で臨みたい。(オープニングの雰囲気から、フレデリック・ワイズマンの「シアターもの」のような印象をもってしまい、そうした「接し方」で決めてかかったことで失敗観賞になってしまったきらいがあるもので。)

ちなみに、演出家のジャン=フランソワ・シヴァディエが以前に作・演出を手がけた「イタリア人とオーケストラ」という舞台では、オペラのリハーサルを描いていたらしく、そのオペラこそが『椿姫』だったとか。そして、彼が今度は実際に『椿姫』の演出を手がけることになったという「運命」もこの作品が誕生する重要な端緒となったよう。

原題は直訳すると「椿姫と私たち」とでもなるのだろうか。ただ、「nous」という一人称複数は意味内容(範囲)を文脈から読み解かねばならぬ語であるようで、そもそも「私」が誰で、その「私」を含む「達」はどこまでか。折角だからQ&Aで尋ねてみればよかったかな(笑) ちなみに英題は「Becoming Traviata」。これも、なかなか意味深長(?)


2013年6月26日水曜日

アナタの子供

フランス映画祭2013で上映されたジャック・ドワイヨン監督作。最新作『ラブバトル(Mes séances de lutte)』(ハンパないバトルみたいっす)が日本でも今年中に劇場公開されるらしいが、本作は残念ながら日本公開未定。ここは、『ラブバトル』公開記念で配給のアステアさんが何とかしてくれることを期待!

ネームヴァリューに比して余りにも日本公開作が僅少なドワイヨン。恥ずかしながら、全然フィルモをおさえられずじまいの不肖の身。まだまだ未踏未開の地は遙か。しかし、世界はどこまでも、映画はどこにでも、未知なる豊饒に充ちている。ノスタルジックな新境地。ファンタジックなリアリティ。人間と真摯に向き合う者しか、人間の描写に更新は生まれ得ない。「人間は波打つ存在(人間は直線的な存在ではない)」とのドワイヨンの言葉(正確には、彼が引用した言葉)が全編に渡り響いてる。そして、そうした波は決してダイナミックな波でもなければ、力強いうねりで魅了しようとも一切しない。そこにあるのは、「感じる」ことしかできない細波だけだ。しかも、それはほんの些細な「もつれ」や「まよい」や「すれちがい」によって如何様にも弾ける波だ。

「観ている者に、登場人物が進む(であろう)方向が見えてはならない」

そのことに細心を払ったといった発言をジャック・ドワイヨンはしていたが、本当にそうした核心(無意識)が見えてこない。いや、ドワイヨンによる何十テイクにも及ぶ反復が、「演技における無意識=意識的」を消し去り、「演技における意識=無意識的」なものへと昇華されているからなのか。自然などという無責任さとは懸け離れた、極めて上質なリアリティ(それは現実以上の真実を内包せしめた)が画面の背後を埋め尽くす。

最初は、「何を考えているかわからない」印象ばかりが後を引く登場人物たちに、いまいち乗り切れない想いで(引き気味に)眺めていたが、そういった支離滅裂という現実の真実が心につきささってからは(スイッチが入ったように)、彼らの蛇行、すべてがダコール(D'accord)。

三角関係とは最も不幸な不可解の定番であろうはずながら、本作におけるそれは最も幸福な解法なのだ。人間の関係に、恋愛の顛末に、模範解答などあるはずがない。あるのは無数の別解だけ。そして、それも束の間の解。そんな人間に、快と怪。糸のもつれは、気づけば絆。やがて解れるかもしれないが。


ルイ役のサミュエル・ベンシェトリ(Samuel Benchetrit)は、故マリー・トランティニャンの最後の夫だったらしく、彼女を主演に『歌え!ジャニス★ジョプリンのように(Janis et John)』を監督していたりもする。(マリーはジャック・ドワイヨン監督作『ポネット』で母親を演じてたりもした。)

ビクター役のマリック・ジディ(Malik Zidi)は、フランス映画祭で本作の前の回で上映された『ウェリントン将軍』にも出演してたらしいが、当然ながら気づかず(『ミステリーズ 運命のリスボン』にも出てるらしい)。それよりも何よりも、フランソワ・オゾン監督作『焼け石に水』の魅惑青年フランツを演じていたのが彼なんだとか。昨年、日本でも公開されたマチュー・カソヴィッツ監督作『裏切りの戦場 葬られた誓い』にも出演していた(こちらも気づかず)。

エンドロールでは、プロデューサーか何かで「Yorick Le Saux」の名を見かけるも、IMDbによるとあのヨリック・ル・ソーじゃなくて同姓同名の別人!?

撮影監督としては、レナート・ベルタがクレジットに。実際にカメラを持っていたのは二人の若手カメラマンだったようだが、そうした実働隊の瑞々しさを円熟の動線で振り回してる躍動感がどこまでも心地好い。本作は、観ながら色々なフランス映画(特に最近の)を想起したりもしていた。一瞬頭を過ぎった1本に『ベルヴィル・トーキョー』があったのだが、そちらもレナート・ベルタが撮影担当だったのか。映画監督でも、巨匠ほどデジタルや3Dと嬉々として戯れながら独自世界の創出に軽々と奉仕させられるように、故きを温ねずして新しきは知れないのかも。

そういえば、エンドロールにはカロリーヌ・シャンプティエ(Caroline Champetier)の名前を見かけた気がしたけど、彼女は『ポネット』の撮影を担当してたりしたんだね。


2013年6月23日日曜日

フランス、幸せのメソッド 《Ma part du gâteau》

今年も「ほとんど公開予定作」ラインナップを残念がりつつも、ゲスト陣に華やかさが戻り、作品群もやはり充実してるし、なかなか濃密な四日間になりそうなフランス映画祭2013。WOWOWでの連動企画「フランス月間!2013」の矢継ぎ早には全く追いつけないものの、映画祭に気持ちを高めるべく観てみた本作。

セドリック・クラピッシュ監督作(2011)ながら、日本では劇場未公開で、昨年DVDがレンタル・発売された本作。先日、WOWOWで放送された。(予告編はこちら。)

主演は、『美しい運命の傷痕』『PARIS』『しあわせの雨傘』『パリ警視庁:未成年保護部隊(Polisse)』のカリン・ヴィアールと、『この愛のために撃て』『君のいなサマーデイズ』『プレイヤー』のジル・ルルーシュ。

20年勤めた工場が倒産して失業したシングルマザー(カリン・ヴィアール)が、リッチな敏腕金融トレーダー(ジル・ルルーシュ)宅の家政婦を務めるなかで「変わること」「変わらないこと」が、ストレートなベタ展開と仏蘭西的というかクラピッシュ節な変化球で目まぐるしく展開してゆく。テレビ局(カナル・プリュス)系列のスタジオ・カナルが制作・配給しているだけに、その辺は抜け目ない。しかし、クライマックスの展開やエンディングなどはハリウッド・メジャー的な落としどころとは一味違い、好みは分かれるだろうし、ポピュラリティは減じられるだろうが、その手の「すかし方」も私は嫌いじゃない。とはいえ、「そう終わるなら、もう少し丁寧に誠実に真摯にテーマと向き合っても好かったんじゃぁ・・・」的後味は残るんだけどね。

フランスのダニー・ボイル(なんて言われてないし、ボイルの方が監督キャリアは後輩)としてのセドリック・クラピッシュのエンタメ色全開ヴィジュアルとニッチすぎずリッチすぎぬ選曲継投はやっぱり飽きとは無縁で進行する。撮影を担当しているクリストフ・ボーカルヌは、ここ最近では『ミスター・ノーバディ』や『さすらいの女神たち』、『チキンとプラム』といった印象深い画を届けてくれるカメラマン。カンヌ・コンペ選出&アカデミー外国語映画賞ノミネートながら未公開のままの『Outside the Law』でも撮影を担当していたりする。(観たい!)

ただ、本作最大の見どころは、序盤の僅かな出演ながら魅了が後を引きまくるマリーヌ・ヴァクト!彼女は本作が映画デビューのようだが、今年のカンヌ・コンペに出品されたフランソワ・オゾン最新作「Jeune & jolie(Young & Beautiful)」の主演に大抜擢された最注目女優のひとり。着衣でも十二分に漂っていたアンニュイ・フェロモンが、あんなたわわがあらわであらら・・・早いとこ公開してください。

2013年6月21日金曜日

EUフィルムデーズ2013 《呼吸》

イタリア文化会館で開催中のEUフィルムデーズ2013。毎年、観たい作品はいろいろあれど、なかなかタイミング的に(時期としても、タイムテーブルも)厳しくて、結局ほんの数本を観て終わってしまう切ない企画。そんな映画ファンの気持ちなど梅雨知らず、六月の憂鬱。

フィルムセンターでの開催が定着しつつあった昨今、今年は会場を新たに、デジタル化の波にも当然呑まれ、「フィルム」という看板が切なく響く。イタリア文化会館のホールは、セルバンテス文化センター(天井が低くて息苦しい)やドイツ文化センター(長時間座ってるには厳しい座席)に比べれば、映画を観るには好い気もするが、とにかく寒いぞ(上着必携!)。というより、哀しきデジタル上映の定番パターンに劇場観賞の終末観。シネスコサイズのスクリーンにビスタで投影し、ビスタサイズの上下に黒帯付きでシネスコサイズの映画が上映されるという・・・アレ。画面が小さくなるとかいう「物理的」な問題よりも、左右の投影されぬ白と、投影されてるのに黒い上下の帯が視界に入り続けるという無残。自宅で観た方がマシな「視界」ってどういうこと・・・。シネスコならではの画を堪能するには厳しい状況での観賞環境になってしまい、悲願の劇場観賞は完遂できずじまいな気分。

実は今回のラインナップには、輸入ブルーレイで観賞済ながら、大いに魅了された作品故に劇場観賞できることを嬉しく思い、かなり楽しみにしていた一本があったのだ。それが、オーストリア代表『呼吸』。同作は、なら国際映画祭2012(河瀬直美が理事長を務めてる)の新人コンペティション部門に出品され、観客賞を獲得したらしいのだが、何より日本国内で35mmで上映されていたという事実を知って、臍かみまくり。なら国際映画祭は隔年開催のようで、今年の開催はないようだが、来年は奈良に行ってみるべきか。

その『呼吸(Atmen/英題:Breathing)』は、カール・マルコヴィックスの初監督作(脚本も)ではあるが、マルコヴィクスは『ヒトラーの贋札』に主演していたり、リーアム・ニーソンの『アンノウン』にも出てきたりで、おそらく見覚えのある映画ファンは少なくないはず。そんな彼が、こんなにも繊細で端正な作品を丹精につくりあげたことに意外性。俳優監督という先入観が、演出主導のドラマ性を予想させるも、実際は作家性とドキュメンタリー性が静かに同居し、厳かな緊張感に時折優しさが挿し込む愛おしき小品ならではの「短篇」的語りが見事に結実してる。数々の映画祭で上映されたり受賞したりしているのも納得。

撮影を担当しているのは、『ルナ・パパ』や『ルルドの泉で』(ジェシカ・ハウスナーとは長編全作で組んでいる)のマルティン・ゲシュラハト(Martin Gschlacht)。ブルーレイに収録されている監督インタビューでも、撮影に関しては綿密な話し合いを経て、どの場面にも精緻さを求めて撮り進めていったと語っていた。シンメトリーにこだわった画面や、背景の存在感が異様な構図など、「映っているものすべてに敏感」な劇場で観る者の意識を意識したとのこと。

マルティン・ゲシュラハトが撮影を担当した作品では、「Revanche」を輸入ブルーレイ(クライテリオン盤が出ている/ベルリンでいくつか受賞したり、アカデミー外国語映画賞ノミネートされたりしていたので)で観たのだが、ジェシカ・ハウスナーやマルクス・シュラインツアー(『ミヒャエル』)、ウムト・ダー(『二番目の妻』)といった気鋭のオーストリア勢に共通する作風で、『呼吸』にも通ずる因縁と寛容が緊迫と緩慢を往来しながら語られていく静謐さには毎度ながら惹かれるものがあった。(ただ、それらの作品群にはあまりにも類似した空気やパターンがこびりつき始めているという危惧もあるけれど。)「Revanche」の監督・脚本を務めているGötz Spielmannは、前作の『3つの不倫』(日本語表記はゴッツ・スピルマン?)がDVD発売されているらしいが、未見。

話を『呼吸』に戻すと、主人公のローマン・コグラーを演じる俳優(といっても、本作がデビューのようだ)が、ケン・ローチ作品やダルデンヌ兄弟作品における「主人公」的な表情や佇まいを併せ持った絶妙キャスティング。冴え冴えとした茫漠たる悲しみを見事に体現した貌を見せ続ける彼と街の表情はじっくりと観る者の心に浸透してゆくだろう。

タイトルの「呼吸」は、オープニングのシーンから何度か登場するプールのシーン、そしてラストで語られる真相などにすべて関わり合っており、見終わってはじめて納得の深呼吸を叶えてくれる。多少、逆算気味な布石の配し方に思えなくもないが、僅少な台詞による豊かな行間がそれをうまく中和してくれてもいる気がする。

2013年6月18日火曜日

何年かぶりに1800円で映画を観た。

といっても、1800円均一で話題の(これってもしかして話題作りの一環だったのか!?)『10人の泥棒たち』を観たわけではありません(というか、まだ公開前か)。

ユナイテッド・シネマで『G.I.ジョー バック・2・リベンジ』の3D上映を観てシマッタ!のです。

私は長年ここ(誰でも入れます)の割引で映画を観てはいるものの、劇場や上映作品・形態によっては割引対象外になることも重々承知のつもりだし、その場合は別の手段とかを講じたりすることもあったのに、ユナイテッド・シネマの3D上映が「あらゆる割引対象外」だということをすっかり失念しておりまして・・・。というのも、これまでユナイテッド・シネマで3D上映を観ようとすることがなかったからかもしれません。いや、正確に言えば、ユナイテッド・シネマでもIMAXでなら3D上映を観たことは何度かあるんだけどね。

3D上映を観る場合は、IMAX上映があればなるべくIMAX、ない場合はXpanD方式(MOVIXとかバルト9とか)以外の劇場(TOHOシネマズで観ることが最近は多い)。ユナイテッド・シネマで観る場合は、ミニシアター系作品での好環境を求めて足を運ぶことが多かったこともあり、IMAX以外での3D上映を観ようとすること自体がそもそもなかったのかもしれない。だから、情報として知ってはいたはずの「割引対象外」なのに、窓口でチケット購入時に告げられて初めて気づく。とはいえ、一日の計画もあるし、今回は「3D吹替」で観るのに最適な場所としてリストアップして赴いたわけだし、久っ々に定価で観ましたよ!(って、エクスクラメーション・マークをつけるほどではないだろっ!!)というわけで、正確には「1,800円」ではなくて「2,200円」。

作品自体は予想通りのあっけらかんと呆気なく、睡魔を誘う破茶滅茶は全然お茶目じゃなかったりして、ちょっと自分には愉しむだけのリテラシーが不足気味。というわけで、定価云々以前に、やっぱり観賞見送りリストから外さなきゃ好かったなぁ、と。(予告で観た時に、3D映像があまりにも安っぽい&チラツキまくりだったので、「観るなら2Dで」もしくは「観なくても好いかな」だったのです、当初。)でも、公開直後に好意的盛大呟きの数々を目の当たりにし、予定変更、観る方向。

いつもは、「吹替(の演技)が酷い」という声が散見される場合でも、「そっかなぁ~」くらいにしか思わない吹替演技に鈍感な俺でさえ、今回は感じたザ・違和感。一人(菜々緒)超絶酷かったりすると、他まで伝播するもの(観る側の意識のなかで)なのか、興を削ぐ吹替に辟易。(でも、主要メンバーですら台詞は僅少だった気がする。)

ところで、「あらゆる割引対象外」を貫いているユナイテッド・シネマの3D上映って、その影響はないのかな。いまや大抵の映画館で3D上映でも通常上映同様に割引が適用されてるというのに、そんな中でも頑なにその姿勢を貫いているということは、何か事情があるorそれでも十分な利益があがってるってことなのか?まぁ、おそらく3D上映自体が売上自然増的な要因があるとはいえ、そもそも最近では3D観賞率が低下しつつある傾向もあるみたいだし(作品にもよるだろうが)、「観る人は観る」なら「そういう人なら料金たいして気にしない」ってことなんだろか。

そう考えると、何でも観たがりな映画バカ(自分もです)は別として、主となる客層が「そういう人達」である前述の『10人の泥棒たち』強気仕様も「なるほど」かもね。

ただ、ODS(Other Digital Stuff/非映画コンテンツ)なら、映画とは別の料金体系(例えば、割引適用外とか一律料金とか)は納得できるというか、違和感を覚えもしないけど、同じ「映画」であり、3Dでもないのに、1,800円均一という設定は「客の足許みてる」or「談合的」な臭いが漂ってしまうのも仕方がない。というか、個人的には「お金(支出)」なんかより、そういう「胡散臭さ」こそに気が削がれ、心置きなく「観ないリスト」行き。

映画を定価で観る比率ってどのくらいなんだろう。サービスデーとそれ以外の混雑落差からしても、非サービスデーにおけるシニア率や前売率(例えば、TOHOシネマズなんかだと平日は有人チケット売場に客が集中してたりする光景がある)の高さを見ても、やっぱり「特殊なイベント」としてごく稀に観る人(もはや、この層こそがスタンダードかもしれないけれど)以外は、普通は1,800円払って観たりしてないと思うんだけど、その感覚も「限定」的視野の産物かもしれぬ?

個人的には、「定価1,800円」は高めとは思うけど、絶対的に高すぎるとも思えない。そう思えるのは、割引料金の存在が判断の前提にあるからだろうけど、例えば恒常的に1,000円にしたからといって映画人口が急増するとも思えぬ見当があるからかもしれない。

ところで、3D上映が割引皆無なのは切ないが、それ以外では色々と世話になってるユナイテッド・シネマ。「悲劇」の『G.I.ジョー~』を観に行った時にも、そのまえに『イノセント・ガーデン』をそこそこ大きく観やすい箱で(しかも、観客数名で水を打ったような静けさのなか)観させてもらったし(『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』も豊洲の大きめ劇場でゆったり[平日なので観客一桁でした]観られたし)、先日の浦和では『ロイヤル・アフェア』(ル・シネマ絶対回避を叶えてくれた!)と『殺人の告白』の強力2本立てを敢行できたり(しかも、サービスデーだったのでそこそこの入りながら、観賞マナー良好でした!)、実はひそかに「さまさま」です。おまけに、「としまえん」はサービスデー(水・金)以外の平日はたいてい自由席だし!まぁ、割引皆無でもちゃんと利益出てるなら、続けて好いよ>ユナイテッド・シネマ。(そもそも俺が許可する云々の問題ではない。)
 

2013年6月17日月曜日

第6回 爆音映画祭

今年は6月の第1週に早期&凝縮開催された、爆音映画祭。(映画祭はじめ爆音上映を主催している)boid主宰の樋口氏が語っていたように、今年はまさに「趣味」に走ったラインナップであり、それは即ち「豪華」でありながらもマニアックな贅の尽くし方。地元開催ということもあり、ふらっと足を運ばせられる(はずの)バウスシアター。ただ、今年の日程は個人的な(というか主に仕事の)日程と相性が悪く、前売券購入で観られぬものもあったりした。

とはいえ、マイケル・チミノ特集では『ディアハンター』以外は観られて大満足(『ディアハンター』は日程的に困難だったし、昨年「午前十時」での好環境観賞が叶ったばかりだから素直にあきらめた)。『天国の門(デジタル修復完全版)』は今秋にシネマート新宿での公開も決まったらしいが、「ジャパン・プレミア上映」という看板に点った緊迫感は、同作の観賞には打ってつけの酩酊増進剤。『サンダーボルト』のボッロボロフィルムが放つ経年浪漫は、複製技術にも刻まれし「いまここ」が皆無へと向かう現在を相対化。ミッキー・ローク主演の『逃亡者』なんて怪作を、わざわざ本国からフィルム取り寄せて字幕をつけてまで上映する「どこまでも善良な気狂い」映画祭にはただただ感嘆、笑うしかない。

爆音映画祭は、今まで劇場観賞の機会に巡り会えずに見逃して来た作品との幸福な出会いの場としても重宝してる。今年で言えば『ゴダールのリア王』や『スキャナーズ』。フィルム上映が嬉しい前者、努力すればブルーレイ上映もかなり美しくなる実感の後者。いずれも暴力的な音が嬉々として響いて渡る狂宴ぶり。『千年女優』も恥ずかしながら初見だったりして。普段囲まれることのないタイプの客層に入り交じり、終了後の劇場内が奇妙な感動の渦につつまれている空気を吸えるという新鮮。

昨今のお気に入りコレクションが爆音ラインナップに組み込まれる幸せを噛み締めるというのも、もう一つの楽しみで、『わたしたちの宣戦布告』(これは入ると思ってた)や『4:44 地球最期の日』(爆音ソクーロフ的系譜:不在の存在感)、『湖畔の2年間』(爆音向き!と思っていたが、まさか今年観られるとは!)などは何度目かの再発見といった鉄板。

他にも、『キャリー』や『悪魔のいけにえ2』、『先祖になる』なども観賞したが、今年の個人的最優秀爆音作品は『ナチュラル・ボーン・キラーズ』だった。作中に溢れかえる音と狂気が、爆音で磨きがかかり、完全に観てる側までトランス状態。まさに「生まれ変わった」瞬間が連発される爆音最適傑出上映だったと思う。

『Playback』も爆音で観てみたかったし(日程的に不可能だった)、『フルスタリョフ、車を!』や『ラルジャン』は前売買ってのに仕事で行けずじまい。ま、今年のテーマは「一期一会もケ・セラ・セラ」(ただいま、決定)。会うもドラマ、会えぬもドラマ。


ところで、爆音映画祭初日(5月31日金曜)は銀座テアトルシネマの営業最終日だった。爆音映画祭のオープニング作品であった『天国の門』は奇しくも、銀座テアトルシネマが入っている銀座テアトルビルができる前にあった映画館「テアトル東京」で上映された最後の作品。銀座テアトルシネマ最後のロードショー作品が『使の分け前』というのも、天の思し召し!?


2013年6月16日日曜日

アラン・コルノーの遺作

4月から数年ぶりに仕事の内容(というかパターン)がガラッと変わり、休日まで5年ぶりに変わって、とても映画観に行ったりする余裕は皆無・・・かとも思っていたら、習慣を維持する意地くらいは残せるペース配分で日々過ごし・・・劇場へもそこそこ通っているし、映画祭や特集上映への巡礼も適度に敢行継続中。とはいえ、それらを反芻したりする余裕はさすがになくて、記事化できる体力能力恒常不足。
 
爆音映画祭の疲れ(と言っても、観に行ってるだけだけど)も抜けぬまま、秘かに(別に隠されちゃいないけど)始まっていた「EUフィルムデーズ」にも遅れて細々参戦。今週末からはフランス映画祭。特集上映や小規模映画祭の尋常じゃない日程重複っぷりはまだまだ続きそう。

そんななか、気軽に感想書ける映画をWOWOWで。『ラブ・クライム 偽りの愛に溺れてCrime d'amour)』。今年のフランス映画祭での来日も控えているリュディヴィーヌ・サニエ主演。サニエ演じるイザベルが、自らの手柄を横取りする傲慢な女上司クリスティーヌ(クリスティン・スコット・トーマス)に復讐。イザベルによる殺害計画には、完全犯罪へと導く綿密な計画があった・・・。

本作最大の見どころ(?)は、昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペにも出品されたブライアン・デ・パルマ最新作「パッション(Passion)」のオリジナルであるという点(のみ)。そのリメイク版では、サニエ演じるヒロインをノオミ・ラパスが、上司のクリスティーヌをレイチェル・マクアダムスが演じている。洩れ聞こえてくる評判というか噂では、とにかくその二人の「からみ」の妖艶さばかりが注目されていた気がするが、オリジナルの『ラブ・クライム』には、それっぽい感情が仄めかされたりするものの、直接的な描写は皆無。(むしろ、その中途半端感の消化不良っぷりは最後まで拭いきれないハンパ臭となって残り続けてる。)きっと、デ・パルマが好き放題に「料理」してくれていることでしょう。みんな大好き大好物仕立てで!(撮影を、アルモドバルの盟友ホセ・ルイス・アルカイネが担当しているというのも興味深い!アルカイネはエリセの『エル・スール』も撮ってたりする。)

ところで、何の変哲もなく何の情熱も感じない、土ワイ的まったりと火サス的通俗っぷりは「ながら見」オッケーな手軽さで気軽で好いが、本作がアラン・コルノーの遺作と聞くと些か複雑。クリスティン・スコット・トーマスはほとんどアルバイト、リュディヴィーヌ・サニエはいろんな演技の練習台。皆が皆、やっつけ気味に仕事した(よく言えば肩の力が抜けた)一作という趣なので。だから、「デ・パルマによるリメイク」というのはせめてもの泊付けになったかも。

アラン・コルノー監督作では、シルヴィー・テスチュがセザール賞を獲得した『畏れ慄いて』(フランス映画祭では上映されるも、劇場未公開&未ソフト化)を是非観てみたい。日本(の会社社会)を随分と皮肉っている内容らしいのだが、そうした作品を撮ったこともあってか、元来興味関心が高かったのか、『ラブ・クライム』にも唐突に日本の企業からやってきた日本人が登場したりする。「日本人はすぐに記念撮影したがる」的な指摘の直後、バカっぽい日本のサラリーマンがイザベル&クリスティーヌとニヤニヤしながら写真を撮る場面。更に、スコア(というよりBGMというか効果音というか)では、日本風(?)な琴の音が頻繁登場。オフィスに盆栽でもあれば完璧だったのに。




2013年6月10日月曜日

パリ、テキサス/トラヴィス、トーキョー

TRAVISのライブを初めてみた。昨日のHostess Club Weekender2日目で。

バンド名が『パリ、テキサス』の主人公の名「トラヴィス」に由来しているのは有名な話だろうが、ぼくがその名を知ったのは、バンド名の方が先。映画を観るようになったのは学生時代も後半にさしかかろうとしてた頃。だから、『パリ、テキサス』で耳にした「トラヴィス」という名に「おぉ!TRAVISと同じだ!」などと思ってしまった無垢(無知)っぷり。

とはいえ実は、ヴェンダースもTRAVISも格別な愛着を抱く存在ではなかったので、いわゆる「普通に」観たり聴いたりの対象だった。とはいえ、ヴェンダースが或る世代にとって「アイドル」的作家であるように、TRAVISもぼくらの世代にとって「アイドル」的な存在たり得るバンドのひとつ。

たまたま目にしたイベントの告知。同日には、ブリティッシュ・シー・パワーやエディターズといった、1st・2ndあたりまでは熱っぽく傾聴していたバンドが出演。勢いでチケットを買っといた。

直前一週間は爆音映画祭が開催されて、今年もそれなりに通っていたが、後半は仕事で行けなかったり、仕事の疲れで行かなかったり。ライブ前日も怒濤の一日で、当日も朝から身体はベッドに拘束。チケットはもったいないけれど、これは安息日にすべきかな・・・そう思いつつ、昼過ぎまでぐったりしてた。

とはいえ、やっぱりエディターズは観たいし、トラヴィスだって(ミーハー的に)観ておきたい。
汗ばむことない夕方の入口に、恵比寿へ足を向けてみた。

エディターズはもうすぐ新譜が出るらしく、ニュー・アルバムからの曲も演りつつ懐かし(定番)の曲もバランス好く配置。とにかく疾駆な前のめり。サウンド的にはガーデンホールには合わない気もしたが、「Papillon」では「体育館がディスコになる一夜限りのプロムな雰囲気」的デジャ・ヴなノスタルジー。彼らが「お目当て」なオーディエンスは少なめ(推定)ながら、結構ちゃんと聞き入りながら愉しむ穏やかさがなかなか好い空気。

真打ちの登場を観客は想い想いに待ち構え、日曜夕方の恵比寿に溢れる「のどか」の心地好さ。

トラヴィスを学生時代に聴いてた世代はきっと、仄かな不安(而立)と覚悟の前兆(不惑)を旅する最中。そんな半端な煩悶と、下火の情熱が、今このひとときだけは休戦宣言してみたり。

開演直前にホールへ入ると、さすがに人が溢れてはいる。でも、客層のせいか、ギスギスした空気は皆無。ぼくが立った場所がちょうど好かったのかもしれないが、自分のなかの楽しみが誰かの楽しみには決してぶつからない空間。かつての熱狂が解凍されるのとはまた違う、かつての温もりを確かめるかのように聴き入ったり揺れたり手をたたいたり。「合唱」にも部分的にしか参加できないぼくにとってはまさしく適度な一帯だった。

手狭なホールは、集まった人々の「想い」を凝縮させて、合唱は心地好く響き、包み込まれるよな反響。近くにいる人々はシャイな人が多かったからか、唱ってはいても個人の声が際立たず。だから、余計に、合唱に抱擁される感覚に安らぎ沁みてはノスタルジック・ドリーミー。

受難や逡巡や迷走を経たバンドが放つ諦観にも似た泰然。それでいて自ら愉しむことを忘れぬ初々しさは清々しくて、安定した演奏力は旧曲に新たな息吹を、等身大の確認は新曲に穏やかな自信を。

ちょっと気が進まなかった旧友との再会。でも、このまえより格段に話しやすくなっていて、実は昔もっと語り合ってれば親密になれてたのかも。あのときは、上っ面にとらわれ過ぎてたもんな。そんな感覚での「はじめての再会」は、このうえなく日曜の夜に似合いの時間。

ライブ終了後の帰り道。聞こえてくる「10年以上前に戻ったわぁ」という会話。
きっと、みんな、時間旅行。
陽だまりの時間に束の間、帰還。
エビス、天使の詩。


 
※出だしをしくじって演り直そうとした際に、「メン・イン・ブラックみたいに皆の記憶を消去だぁ~」なんて言っちゃうフラン。やっぱり映画好きなんだね。