2013年8月30日金曜日

マン・オブ・スティール



前半のノーラン・コントロールにおける「ザックのこだわりグッとこらえて物語る」チェック&バランス的緊張感はなかなか好ましく、プロデューサーとしてのクリストファー・ノーラン及び監督としてのザック・スナイダーの新境地に邂逅できた幸せいっぱいで帰路に就くのだとばっかり思ってた。しかし、どうやら前半の真っ当さは後半でやりたい放題させてもらうための「取引」によるものだったのか!?

前半にはノーランらしい哲学的・倫理的・社会的テーマが(ややあからさまに)埋め込まれており、この手の作品のそうした「おしつけがましさ」は嫌いでない自分にとって、それらの要素がどのように回収され結実してゆくのかを楽しみに見守っていたのだが、後半(特に終盤)はただひたすらバトルを見せたい(撮りたい)だけの欲求が暴発炸裂状態で、「見方を変えねば・・・」と思っているうちに気持ちの整理はつかぬまま(=アニメ的CG擬似実写アクションを適正に享受することもできずに)、今夏二度目の(まさかの)マイケル・ベイ待望メンタリティに陥るという悲劇。でも、最後の最後ではちゃんと「現実」に戻ってきてくれて、クラーク(ヘンリー・カヴィル)の眼鏡とロイス(エイミー・アダムス)のベタ台詞は、ビギンズのエンディングを適正補正。まぁ、それもこれも厳かさと躍動をたっぷり吸い込んだハンス・ジマーのスコアあっての出来事ではありますが。

ノーランお得意の「人間(社会)を試す」ようなアプローチが序盤に用意されていて、例えば「人間は支配できないものを恐れる」といったクラークの(人間の方の)父(ケヴィン・コスナー)の言葉などを聞けばつい「スーパーマン=原子力」なんて思ったり。そして、それに人間は一体どう対峙するのか(すべきなのか)を物語を通して問いかけるつもりなのかな、とか。カルの(クリプトンの方の)父(ラッセル・クロウ)は、「(操作によって予め新生児の役割が限定されるクリプトンの実態に異を唱え)新しく生まれてくる命には選択(choice)と可能性(chance)が与えられて然るべきだ」と主張。これも、人間による近代文明(秩序・管理・統制を求める社会)に対するアンチテーゼというか警鐘というか。人間の不確定性というか流動性というか獣性(?)みたいなものに可能性や自由を求める着地を目指すのかなぁ、なんて思って見始めたり。

更には、ゾッド将軍(マイケル・シャノン)が「進化した者こそが勝利するというのは歴史が証明している」と言い放つと、「進化とは何か」という揺さぶりからの「歴史の意義」「過去の価値」という考察の深化が始まった!(今までのノーランは同時代的考察が強すぎる気もしていたので)・・・と小躍りするも、せいぜいそこに添えられた答えなものは情緒的葛藤というハンデ(?)による演出(スーパーマンの刹那の逡巡と直後の雄叫びのみ)で、それとてそれが克服なのか受容なのか創造的葛藤なのかすら示されず、関心の全てはあっさりと戦闘へ(葛藤、即リセット)。

語るより描きたいザックと、描くより語りたいクリス。そんな二人の弁証法は、止揚半ばで墜落しちまった・・・けど、終始鳴り響き続けるハンスの音楽がいつ何時も心を高揚させるから、結局地面に打ち付けられる(ダメージ受ける)ことないまま一気に完走してしまうという映画的力業の勝利。初日初回大スクリーン(勿論、シネスコ!)、周りの観客から醸される待望と緊張と興奮の坩堝の只中、といったアドバンテージも当然ありはしたけれど。

IMAX上映のある作品は必ずIMAXで観るように、3D上映のある作品は必ず3Dで観るように。それが以前の私的慣習だったのだけど、最近では臨機応変で(というか個人的展望というか欲望に応じて)観賞スタイルは流動的。今回も、初日にIMAX3Dで観ようと思ってはいたものの、予約開始即座にベスポジ付近が物凄い勢いで完売してて、ひとまず断念。来週の平日にでもゆっくりまったり観るかと思いつつ、何となく8月中に片付けたい(笑)気がふつふつと。そこで初日初回のUC豊洲10番2D字幕版で観ることに。その後にIMAX撮影なしだと知って内心「だったら別にIMAXじゃなくても好かったかもね」と思いきや、新宿ミラノ1での上映がフィルム上映(撮影もフィルム)と知り、しまった・・・と思ったものの、観てみればCG尽くしの画ばかり故に、まいっか。それため、3Dで観た人よりも楽しさ半減してるかもしれないし、フィルムで観るよりも味わいが減じているかもしれないけれど(でも、ワーナーは字幕のフォントをちゃんと劇場仕様的な旧来の字体にしてくれるから、デジタル上映でも「映画館で観てる感」が減退しないで済むのが好いね)、やりたい放題バトルシーンはやっぱり大スクリーンで観ればその価値は十分あるし、繊細なピアノの音も和太鼓みたいな怒濤のドラミングも大きな空間に大きな音で響くのを聞く価値は十二分。豊洲10番はスクリーン自体はあまり綺麗ではない(汚れがやや目立つ)けれど、フィルム撮影の作品なら(デジタル上映であっても)それが気になりにくい。

3Dで観なかったもう一つの私的な理由(極めて些末)は、IMAXで観た予告での3D演出が「後付」感全開だったり、個人的に最も嫌いなタイプの3D使用(奥の人物が手前の人物の肩越しに見えてる場合、その手前の人物をやたら浮き上がらせるといったパターン)が目についたりしたこともある。そういう手法だと、画面のなかで階層は見事に出来上がるけど、それぞれの階層が異様にのっぺり(2D以上に2D的に)見えてしまう気がしてしまうので、個人的にはそうした使い方が好きではない。まぁ、予告観ただけなので、本編ではもっと面白い3D演出が施されている可能性は十分あるとは思うけど、「画の暗さ(IMAXならだいぶ解消されるけど)」と「速い動きへの対応困難」といった現状への不満と、出尽くした感と見馴れた感による鮮度低下は、個人的3D離れを根強く後押ししてしまう。とはいえ、先日観た『スタトレ』みたいなアトラクション(に徹した)ムービーの場合なんかでは、IMAXにしろ3Dにしろ遺憾なく威力を発揮してくれてたし、3Dという技術がこれからもっと幸せな活用に向かうことを期待したい。(当初はSFやアクションといったダイナミズムに映える技術だと思っていたけれど、実はアート系でこそ新たな地平を切り開けそう。ヴェンダースは期待外れだったけど、ゴダールはどうなるのかな。)

夏休みの宿題を夏休み中に片付けたような達成感。学生時代に決して叶わなかった計画性と余裕な成就。って、たかがねぇ・・・。とはいえ、今夏に毎週公開された(いずれも期待値高めな)大作5本は、好悪は様々ながら各々それなりに見応えあった。ちなみに、そうした大作群のうちローランド・エメリッヒを除く4人はいずれも60年代の生まれ。ゴア・ヴァービンスキーとギレルモ・デル・トロは1964年生まれ、J.J.エイブラムスとザック・スナイダーは1966年生まれ、そしてマーク・フォースターは1969年生まれ。みんな40歳代。まさに働き盛りって感じと同時に、いずれも「不惑」を謳歌している感じが存分に(マークは未遂だったようだけど)。とはいえ、自身の「やりたいこと」と周囲(及び社会[というか観客?])から「求められること」とのバランス感覚に、各々の生き方(生き様)や哲学が明確に出ていた気がして興味深かった。ちなみに、クリストファー・ノーランは彼らの誰よりも若く、1970年生まれ。そんなこといったら、チャニング・テイタムの盟友リード・カロリン(『ホワイトハウス・ダウン』でプロデューサー)なんて1982年生まれなんだよね。彼は『マジック・マイク』では脚本を担当していたり(端役で出演してたけど、役者も向いてそうな印象だった)、面白い存在になりそうな予感。
 

そういえば、スクールバスの一件とか聖職者に自身の役割を説かれたりとか、『サイモン・バーチ』を勝手に想い出したりもした。「特別」であることに変わりはないね。

2013年8月24日土曜日

ダニス・タノヴィッチの劇場未公開作

現在開催中の第19回サラエボ映画祭今年のコンペ審査委員長は、ダニス・タノヴィッチ。彼の初長編作品『ノー・マンズ・ランド』はカンヌでの脚本賞を皮切りに、実に多くの賞に輝いたが、批評家と観客の双方から賞賛されるという稀有な結果が作品のもつ普遍性が傑出したものであることを証明しているように思う。オムニバス『セプテンバー11』への参加を経て撮り上げた二作目『美しき運命の傷痕(L'enfer)』は、キェシロフスキによる原案だったが、大河でメロなドラマの華麗なる収斂ぶりに、キェシロフスキ自身が撮るよりもよかったのではないかとさえ思ってしまったものだ。(キェシロフスキ脚本をトム・ティクヴァが監督した『ヘヴン』を観た時も、実は同様の感想を抱いたりもした。)

個人的にも新作を楽しみに(というか絶大な信頼をもって期待)したい監督の一人となったダニス・タノヴィッチだったのだが、その後、新作公開の話が全然入ってこず、今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ&男優賞)に輝いたとの報に驚く。その「An Episode in the Life of an Iron Picker()」は上映時間も75分と小品のようだが、ロマの家族に起こる悲劇を社会的背景と絡めつつ力強い問題提起がなされていそうでまたもや傑作の予感。






日本での劇場公開は見送られてしまったものの、タノヴィッチはその「An Episode in the Life of an Iron Picker」の前に長編を二作撮っている。そのうちの一本、「Triage」(2009)は『戦場カメラマン 真実の証明』として日本でもDVD発売され、WOWOWでも放映された。録画したまま永らく放置してしまった私だが、ようやく観てみると実に素晴らしい。従来のダノヴィッチ作品に比べると派手さはないし、戦争映画としての声高な主張も回避されており(戦争という事象より、人間という存在に焦点)、確かに地味な作品ながら、複雑な当事者性が錯綜しながら描かれる矛盾と葛藤は、個人の尊厳の根幹に分け入ることを決して辞さぬ。欧米における戦争映画は、自虐と自戒という受け皿以外で受容されることは難しいのかもしれない。つまり、「わからない」ことを「わからない」まま描くことはタブーなのだろう。是非に関わらず、判定、裁定、そして断罪、贖罪。そのいずれにも逃げない語り手と向き合うとなれば、赦しなきまま問題を見つめ続けることが求められてしまう。そして、本作における主人公に迫られた覚悟こそが、まさにそれなのだ。

原題にもなっている「トリアージ」とは、多数の負傷者が発生した際、現場で傷の程度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。主人公のマークと親友のデイビッドは取材で訪れたクルディスタンで、トリアージを日々目の当たりにする。そして、治療のための優先順位から外される「青い札」の存在を知る。青の札が置かれた(ここでは)手の施しようのない負傷者は、「安楽死」ために、銃殺される。医師自身の手によって。そうした現実に対する疑問はやがて、自らの激しい苦悶の日々に重くのしかかる。マーク(コリン・ファレル)が負傷し帰国するまでに、一体何があったのか。何が彼を苦しめ、何が彼を追い詰めるのか。真相を小出しにするようなギミックではなく、主人公の深層に観客が入り込むのを焦ることなく待っている。やがてマークの恋人エレーナ(パス・ベガ)の祖父(クリストファー・リー)が水先案内人として現れると、正面から扉を開ける手助けをしてくれる。しかし、極めて上質な「省筆」が慎重に選択されており、そこにはいくらでも書き込む余地がある。「経験していないことを責める経験者」マークが責めていたのは、結局「経験している自分」だったというパラドクス。経験をもたない外部の者(傍観者)は、当事者に何ができるだろうか。

◆主人公のマーク・ウォルシュは写真集を出版していたことがあり、そのタイトルは「ALONE」。恋人の祖父がそれを捲る場面がある。マークがかつてシンパシーを描いた心象風景にシンクロした現在。孤独に幽閉された彼を救おうとする恋人もその祖父も、あるいは彼の親友もその妻も、皆が皆、孤独であるという事実が刻まれていている。相対的な悲哀も寂寞もそこにはなく、だからこそ主人公だけが悲劇の渦中にいるわけではない。生きている人間は等しく「渦中に生きる」のだ。映画の最後に浮かび上がるプラトンの言葉。It is only the dead who have seen the end of war.

◆マークの恋人エレーナは、彼を救うために祖父ホアキンを呼び寄せる。ホアキンはかつて、フランコ独裁政権の手先となった者たちを「治療」した経験があるようで、エレーナはそのこと自体に耐えられず、祖父のことも赦してはいなかった。ホアキンの仕事をエレーナは「beautify(美化)」と呼び、ホアキン自身は「purify(浄化)」であると弁明する。相手の言い分にも真実が宿っていることに各々気づいている。それが彼らの対話には滲み出ている。祖父の「赦し」を、孫は許せないが、祖父の「赦し」は相手に与えているものではない。同時代を生きた者同士としての自責の共有であり、肩を貸しているに過ぎないのかもしれない。そして、それは自らが背負わずに済んだことに対する罪悪感に対する処方だったのかもしれない。世代間にうまれる歴史認識の齟齬。それは軋轢や不継承に発展させるためのものではなく、それがあってこそ可能になる過去との対話。常に異質であるはず(べき)の過去。互いに許容される範囲で、許容をベースとしながら、対話を始めたところで過去とは向き合えない。それは主人公マークの背負った「過去」にも通じることで、ホアキンはマークに言う。「他人に赦しを求めても、痛みはかかえ続けるしかない。それが生きるということだ。」

◆マークが眠っているベッドの傍らにいたホアキンが、目覚めたマークに言う。「随分と安らかな寝顔をしていたよ。」「それは好い傾向だろ?」というマークに対し、「いや、むしろ悪い兆候だ」と答えるホアキン。平穏(peace)な寝顔は悪い兆候。悲劇からは目を背け、現実には目を瞑り、平和な眠りを貪る者たちは、無自覚のまま犠牲を強いる。

◆終盤の会話のなかで出てくる、カメラをもつことで被写体との間に境界線(「国境」ともかけている)ができるという喩え。そのことで、対象が現実(ファインダーの向こうにだけあるものではなく、自ら実際に働きかけてくる力をもった)であることを忘れ、死にもつながると捉えるマークに対し、ホアキンは「それが身を守る」こともあるのでは?と告げる。いずれにせよ、どちらも自己防衛のための境界線であることを示唆しているように思う。しかし、自己防衛こそが自滅へのシナリオを裏書きしているという真実をも含蓄した言葉にも思えてしまう。

◇ファイン・ヤング・カニバルズの「Johnny Come Home」が流れるのだが、これはもしかして『ジョニーは戦場へ行った(Johnny Got His Gun)』を意識しての選曲だったりする?

◇本作のエンドロールで灯る「アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックに捧ぐ」の文字に胸が熱くなる。つい先日、彼らが製作した不遇の傑作『マーガレット』(存命中に完成せず、訴訟も経ながら一昨年にようやく日の目をみた)を観たこともあり(当然、こちらにも同様の言葉が)、奇しくも同年(2008年)に亡くなった彼らの存在の大きさを噛み締めつつ激しく惜しむ。とりわけ、アンソニー・ミンゲラは享年54歳。監督としての矜持を持ちながら、プロデューサーとしての領分を弁えた二人の仕事はきっともっと傑作を産み出し続けられたはずだろう。

◇役者のアンサンブルが実に好い。主役のコリン・ファレルは例の「流出」で大変な時期だったのだろうか。最近では出演作の質量ともに充実し始め完全復活しているが、この時期の彼もなかなかだ。スキャンダルがなければ本作ももっと世に出ていけたかもしれない等とすら考えてしまう。恋人役のパス・ベガ(ニコール・キッドマンがグレース・ケリーを演じる「Grace of Monaco」ではマリア・カラスを演じる)の抑制の効いた愛情の震動は確かな波動だし、彼女の祖父役クリストファー・リーの説得力たるやまさに神がかり的。親友の妻を演じるケリー・ライリー(「犯罪捜査官アナ・トラヴィス」!最近だと『フライト』でも好演してました)の存在感が適材感。序盤で僅かな出演ながら抜群の存在感を残すクルディスタンの戦場の医師役ブランコ・ジュリッチ。『ノー・マンズ・ランド』で主演した彼は、ロックバンドや劇団も主宰する才人で、もうすぐ公開のアンジェリーナ・ジョリー初監督作『最愛の大地』にも出演していたりする。

原作の内容について詳しく描かれた記事があった。是非、読んでみたい内容だ。映画が劇場公開されていたら、日本でも出版されていたかもしれない・・・

2013年8月18日日曜日

ホワイトハウス・ダウン

The pen is mightier than the sword.
(ペンは剣よりも強し。)

そんな言葉をこの手の映画で決め台詞に持って来ちゃうところが、エメリッヒ&ヴァンダービルトって感じがして、「堅いなぁ~」と苦々しくも微笑ましい。ただの思わせぶりや未回収の伏線もどきも無くは無いけど、むしろ律儀な回収ジョブにいちいち減速しがちなとこも。とはいえ、序盤の「ポリティカル・サスペンス内に何とか留まろうとする」流れから後半の「破れかぶれ」に突入すれば、そこそこ気楽におんぶにだっこ。日曜夜のテレ朝で(勿論、吹替で)観たい気分に充たされながら、それを初日初回に駆けつけて特大スクリーン(シネスコだし!)で観てるという豪快バカの贅沢は、それはそれで醍醐味なのだ。

とか言いながら・・・前日深夜に本作のCMを観て予約してた事実を想い出し、あわてて寝たという曖昧な事前期待。ここのところ、『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』と初日初回観賞で変な達成感をおぼえた(私自身、初日に観ること自体が極めて稀有なので)上に、お盆時期には映画館に足を運ばない習慣もあって、まさか世間的にも夏休みクライマックスの週末に映画を観に行くなどと思いもしなかった・・・って、自分で早々に予約していたくせに。

学生時代、シネコンでアルバイトしてた頃、盆と正月の劇場の混雑具合は凄まじかった。映画の観客動員が上昇を続けていた時期、シネコン飽和になる前で、バイト先のシネコンでも日中は連日全作全回満席の勢い。ネット予約もなければ、そもそも指定席ですらなかった。入場前の行列整理、座席への誘導も重要ミッション。自分が客なら大の苦手状況ながら、接客する側としては双方向ワクワクな夏祭り。そんな中にありながら、スタジオジブリ作品にも関わらず、絶対に満席にならなかった(実際は何度か満席になってバイト一同感嘆の声をあげたこともあった)『ホーホケキョ となりの山田くん』の偉大さ、潔さ。『かぐや姫の物語』は更に壮絶な予感。当時体感し損ねた高畑勲の怪物っぷりを、今年はしっかりと全身震撼。(ちなみに、『ホーホケキョ となりの山田くん』の英題って「My Neighbors The Yamadas」なんだ。『となりのトトロ』の英題が「My Neighbor Totoro」だからね。ジブリの両雄は、本当におもしろい。)

さて、話をWHDに戻して。

本作の本国興行では、莫大な制作費(といっても、VFXのショボさ[随分と没頭を妨げられた]には明らかな節約仕様を感じたけどね)に比して成績不振との情報を耳にした気がしたのだが、怪獣やゾンビが出てくる映画よりもよっぽど手堅い娯楽作だったし、当然キモサベ・ムービーの偏執ぶりには遠く及ばず、日本でお盆真っ只中の公開は奏功なんではなかろうか。新味もなければ、豪快不足な折り目正しき頭の悪さ。弛緩と疲れの夏バテ脳には、まことにやさしく沁みるのだ。目の前でさっきまで全世界秩序崩壊寸前が展開されていたというのに、ハラハラを微塵も残さずに劇場を去れる爽快感。ランチ享受に即スタンバイ。観ながら頭を過ぎった不満のいろいろまでを忘却させる軽薄の妙、軽妙。活かしきれてない要素が散らばりまくっているにもかかわらず、そのへんはセルフ補完ってことだよね的寛容は、夏の魔法のせいかしら?

監督の趣味全開確信犯の『ローン・レンジャー』や『パシフィック・リム』が興行的に苦戦するのは納得できるけど、エメリッヒの趣味全開ってあくまで確信犯だから、せめてヒットくらいはさせてあげたい気持ちになったりもする。とはいえ、アメリカじゃ不振だったようだけど、確かに自分がアメリカ人(しかも、この時代に)だとしたら、気安く楽しめる設定でもない気がしたし、構造から来る危機にもかかわらず、(表面的には好転したように描かれてるが)実際は何ら構造は変わらぬまま終わりを迎えるために、相克からの解放感を味えることもない。しかも、これまでは「米国史上最悪の危機=世界の終わりカウントダウン」だったのに、本作では「米国史上最悪の危機=米国の終わりの始まり(見ようによっては下克上絶好機)」として描かれているようにも感じられる為、「危機を楽しむ」ことが困難なのだろう。強い人間が自分の強さをアピールするために一旦負け始めると、その後の勝利の味が格別!という従来の手法を無視しているようにも思えたが、その傾向は一つ前の大作『2012』でも同様で(前作『もうひとりのシェイクスピア』では更なる自我の目覚めを経験し)、ドイツ人のローランド・エメリッヒの或る種「面目」躍如の結果かも。とはいえ、劇中での大統領の信条に素直にシンクロできるアメリカ国民はまだまだマイノリティにも思えるし、かといって敵側のロジックも散漫カオスで感情移入は困難だから、当事者としてのアメリカ人の大半は心の置き場を失してしまうのかもね。

『マジック・マイク』観た後だと、チャニングの活躍はついつい「微笑ましく見守る」姿勢で観てしまう。ジェイミー・フォックスも『ジャンゴ』で「リンカーン」やった訳だし、妙なしっくり感をおぼえたり。マギー・ギレンホール(ジレンホールの方が好いのかな・・・というか、ギンレイホールに見えるんだよね)は相変わらず絶対不萌ながら絶対品格が漂うお約束。

主人公ジョン・ケイル(チャニング・テイタム)の娘エミリーを演じるジョーイ・キングの売れっ子ぶりは止まらない。『ラモーナのおきて』で主演済みの彼女は、『ラブ・アゲイン』でスティーヴ・カレルの娘役を、『ダークナイト・ライジング』でマリオン・コティヤールの幼少期を演じてる。でも、早くもちょっと演技が鼻につき始めて来た気がしないでもない。ただ、あの「ドヤ振り」は自身の役割に自信たっぷりな彼女ならではだよね。

個人的に終始好い味出してたと思ったのが、ホワイトハウス見学ツアーのガイドを演じるニコラス・ライト。コメディ要素を一番巧く結実させてた印象。(そういえば、劇場内がもうちょっと自然に笑いがもれる状況だったら、コメディ色がもっと強まって迫ってきたかもな・・・などと思いながら観ていた。)カナダの俳優みたいだけど、これからハリウッド大作なんかにもちょくちょく顔を出しそうな予感。

脇役といえば、ケヴィン・ランキン。人質ルームで調子づいてる敵チームの頭弱そうなアイツです。本作にはテレビドラマでよく見る顔がたくさん出演しているらしいのだけど、海外ドラマ初心者の私には当然把握できる由もなし。ただ、彼はWOWOWで放映されていた『アンフォゲッタブル/完全記憶捜査』でメインキャストの一人だったりもしたので気づけましたよ。でも、だいぶ経ってからだけど(役どころが全然異なっていたからね)。

脚本を担当しているジェームズ・ヴァンダービルト。説明不能の魅力が蠢く私的好物『ゾディアック』の脚本家。毛色は全く異なるが、よくわからないまま気づけば終わってる感はやや近似。


 
 
今夏公開の洋画大作観賞もいよいよ大詰め。先鋒(『ローン・レンジャー』)がまさかの連戦連勝。このままでは今夏の主役はロッシーニ。
 

2013年8月16日金曜日

チャット~罠に墜ちた美少女~

この邦題じゃ、明らかに微エロB級クライムムービー色。でも、原題は「Trust」。出演はクライヴ・オーウェン、キャスリン・キーナー、ジェイソン・クラーク、ヴィオラ・デイヴィスほか。そう聞けば自ずと明らかに。地に足つけて人間を描くドラマだってこと。

邦題から勝手に想像すると、主人公の「美少女」の堕落ぶりと底無しの悲劇を悪辣な手法も辞さずに大味な展開と勢いで突っ切りそうだけど、実際は違う。そもそも主人公は「美少女」として描かれないし、本人は「美少女」でないことにコンプレックスを抱き、そういった精神状態がドラマの鍵でもある。そして、事件は早々に起こり、あっけなく描かれる。14歳の主人公がチャットで熱を上げていた(同年代だと思っていた)相手は嘘をついており、「実は20歳」「実は25歳」と訂正を重ね、実際に会ってみれば20代でないどころか・・・。しかし、二人は「デート」をし、モーテルで「結ばれる」。本作が語るべきドラマはそこからいよいよ始動する。その事実を知る主人公の親友が学校にそれを報せ、そこから警察へ。似たようなケースがこれまでも発生している(当然州をまたいでいる)のでFBIがやって来て、レイプ事件として捜査を始める。動揺と困惑、絶望に呆然とする両親。「私はレイプされたんじゃない」と、大人に対して反抗し苛立ち続ける主人公の少女。そういった状況を淡々と、抑制の効いた逡巡を積み重ね、信頼(trust)の起源と行方を凝視する。また、信頼の土壌たる自信(confidence)をもそっと掘り下げる。個々のアイデンティティについて分け入りながらも、最終的には家族という形態を通して「信」のありかたを確かめる。(しかし、最後の最後に映し出される「悪戯」は観る者に再審を要求してもいるようなのだが。)ちなみに、「信」という漢字は、「言っていること」と「その人」が違わない状態のことを意味し、それを字で表したものとされる。本作における皮肉と真実を体現する一字でもある。

昨年末にDVDが発売された劇場未公開作。WOWOWにて今月初放映。

監督は、『フレンズ』のロス役でおなじみ(同作では演出を担当することも)のデヴィッド・シュワイマー。テレビドラマの演出を手がける一方、『ラン・ファットボーイ・ラン 走れメタボRun Fatboy Run)』で劇場映画初監督。続く二本目が本作ということになる。

クライヴとキャサリンは共に「出演してる映画の気に入る確率が頗る高い」個人的絶大信頼俳優コンビ。さすが役者出身の監督だけあって、彼らを面白おかしく壊したり荒らしたりすることなく、むしろ彼らが培ってきた信頼(実績)を活かした演技設計で直球勝負。(変化球が多めな二人なだけに、むしろ新鮮)

主人公アニーを演じるリアナ・リベラトは、昨年劇場公開されたジョエル・シューマカー監督作『ブレイクアウト』(ニコラス・ケイジ、ニコール・キッドマン)や今年劇場公開されたフィリップ・シュテルツェル監督作『ザ・ターゲット/陰謀のスプレマシー』(アーロン・エッカート、オルガ・キュリレンコ)に出演しているらしいが、私は観ておらず。彼女は本作によって、2010年シカゴ国際映画祭の女優賞を授与されている。(ちなみに同年の同映画祭では、『夏の終止符』がグランプリを、『終わりなき叫び』が脚本賞と男優賞を授与されている。)

出演作(『ゼロ・ダーク・サーティ』『欲望のヴァージニア』『華麗なるギャツビー』そして『ホワイト・ハウス・ダウン』)が今年日本でも立て続けに公開されているジェイソン・クラークも出演しているし、『ダウト』と『ヘルプ』でアカデミー賞(助演女優賞)にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスも安心二重丸。そして、主人公のチャット相手「チャーリー」のキモいじゃ済まされない不気味さは必見。あの「着こなし」(ただのコーディネートだけでなく、重ね方やその見え方)は虫唾が全力疾走。(衣裳はアダム・サンドラー組のEllen Lutter。本領発揮、面目躍如。)

脚本を担当しているアンディ・ベリンは、アマンダ・サイフリッド(セイフライド?)がリンダ・ラブレースを演じることでも話題の「Lovelace」の脚本も書いているらしい。同作の監督は、ジェームズ・フランコがアレン・ギンズバーグを演じた「Howl」の監督コンビ(ロバート・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン)。ロバートは傑作ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』の監督でもある。「Howl」も興味深いアプローチだっただけに、「Lovelace」がどんな仕上がりか今から楽しみ。

ただ、役者が個々にもアンサンブルとしても実に好い味をもっているだけに、脚本が幾分弱いように感じてしまったのも事実。序盤、アニーが「チャーリー」に会ってから「墜ちる」までの流れを、大学入学の晴れやかな飛躍を遂げる兄の様子と交互に見せる編集は、その執拗さが実に好い。精神の破綻を迎えながらもどこか独特な抑制感が漂うドラマは、編集の妙が産んでいるのかも。編集を担当しているダグラス・クライズDouglas Crise)は、ソダーバーグ組にも参加経験があり、『21グラム』『バベル』やディエゴ・ルナ監督最新作にも参加。最近では、『スプリング・ブレーカーズ』の編集も担当している。


2013年8月11日日曜日

ワールド・ウォーZ

人類存亡の危機に直面し、男が家族を守るため命をかけて戦う感動ヒューマンドラマ。として宣伝していることを疑問視・問題視する声も聞こえてくる本作。私も観るまではせこい宣伝と思っていたが、実際に観てみると、ゾンビ映画色は控えめで、配給会社はある程度「正しい」判断だったのかもしれない気さえしてきてしまった。それに、今夏の拡大公開系作品って洋邦共に俗に言う「ヒューマンドラマ」系が皆無に等しい状態で、そうした作品を求める層に対する訴求力も期待した一方、そういった作品が供給されないアンバランスな状況を補完する結果をもたらせることも想定したのかと。でも、結局は作品自体の訴求力こそ大きな鍵を握るのが観客動員。『テッド』で内容とは無関係に集客を成功(私見)させた東宝東和とはいえ、さすがに今回もそう上手くはいかないだろう。多少の夏休み特需には与るだろうが。

事前に事実確認や背景知識の補充が求められる作品は別として、私は観賞前には積極的に情報収集したりしない。むしろシャットアウト傾向にある為(予告はまともに[真剣に]見ない/流し見な感じ)、実は本作の宣伝戦略に関しても指摘が飛び交うのを見かけるまでは全然気づかなかったほど。とはいえ、興行成績と共に大まかな評判なんかは聞こえてくるので、『ローン・レンジャー』が売上・批評共に最悪だとか、本作は売上・批評共に大成功だとかという認識で夏を迎えたわけだけど、やっぱり自分の眼で見るまでは何事もわからんね。百聞は一見に如かず。

『ローン・レンジャー』にシビれまくりアガりまくりモエまくりな2時間半は、潔いほどのジャンル偏愛と様式美に充ちるが故の賜だったのだろう。しかし、だからこそ、そうしたマニア指向はどうしても大衆の賛同は得にくいのが実態。正反対なのが本作で、ジャンルへの偏愛や様式美に唸る準備で胸膨らませるマニアの前を、「ちょっと失礼」と澄まし顔で素通りするスマートさ。その姿勢はあまりにクレバーで、「いえいえ、どうぞどうぞ」と無意識に快諾しながら快く見遣っていれば、「あれ?もしかして終わる?終わった!?」という。見事は見事かもしれないが(2時間弱を何らの負担もなく一息に過ごさせてくれるからね)、その絶妙な匙加減(褒める気にはならないくせに、怒る気にもなれない脱力感)は一体何なんだろう。

「マーク・フォスターが創りたいもの」が私にはよくわからない。監督作を全部観ているわけではないが、適当な(「適度」じゃないのがむしろ厄介)技術と適度な(「適当」じゃないのが残念)想像力。語りたいものがあるようでない、ないようである。ないならないで好いんだけれど、あるふりするのは止めてくんない?みたいな。とはいえ、ラストを巡って主演(のみならずプロデューサー)のブラッド・ピットと正面衝突したらしいから(不仲説が前面に出てくるくらい)、やっぱり信条はあるんだろうね。でも、あるならあるでそれが伝わって来て欲しいし、そこがいつまで経ってもブラックボックスで居心地が悪すぎる。しかも、観ている間は別に気にならないというところも非常に質が悪い。だまされた気が(勝手に)してしまう。いやいや、別にだまされるならだまされるで好い。むしろ、だまされてるとわかっていて益々信じちゃうワンダーを僕らは映画に求めてる。でも、そういうのが、ない。あぁ、その点、本当に『ローン・レンジャー』という大嘘つきの超絶リアリティは心地好すぎて罪深い。(『ローン・レンジャー』『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』を三日連続で観たもので)

作品のトーンというか方向性が急変するラストシークエンスは、撮り終えたものに変更が求められ、まるで異なった展開(場所も話も)で別に撮ってくっつけたらしいのだけど、確かにそれ故のまとまりのなさは吃驚したものの、力業すぎて映画で語られているメッセージ風の内容とやってることの乖離(というかむしろ相反)が余りにヤケクソに満ちていて実はちょっと可笑しみを覚えもした。ところが、本当の驚愕はエンドロールに待っていた。

本作のテレビCMで流れるMuseの「Follow Me」。彼らの曲は最近映画の予告編でよく使われるけど(『ナイト&デイ』や『ツーリスト』)、本編やエンドロールで実際に流れることがないのもこれまた多い(『ツーリスト』ではMuseが流れるが別の曲)。よって、今回もどうせ単なるCM用のタイアップなんだと思っていた。すると本編でMuseの別の曲が使われていたので、「もしや?」と思い始めたり。でも、そもそもMUSEは本作のワールド・プレミアでパフォーマンスしていたり(花道が「Z」!)、今回の参加は普通に話題になっていたみたいで(日本の公式サイトにも監督と同列で紹介されてるという好待遇)、単なる私の情報不足だったみたいだけど。とはいえ、父親が家族のもとを離れて奔走し始めた時点で「フォロー・ミー」じゃないよな・・・と諦めていたら、なんとエンドロールで「Follow Me」が流れ始めるではないですか!しかし!なんと!!カラオケ!!!

ところが、Muse関連(厳密にはMuse絡みではないが)ではもっと恐ろしい出来事がっ!なんと、映画本編上映前(予告の一番最後)に、鉄拳とスガシカオのコラボによるエスカップのCMがフルで流れたのだ(ユナイテッド・シネマ豊洲にて)。検索したらユナイテッド・シネマWebサイトに案内告知がありました・・・。これもやっぱりMuseつながりなのだろうか。(参考:「振り子」/「Follow Me(鉄拳Version)」)

あのパラパラ漫画を巨大スクリーンで見るという「異様」さは、最初こそほんのちょっと面白味を感じたが、如何せん長い。5分弱。『風立ちぬ』の予告も最後の頃は正直ちょっと鬱陶しかったけど、でもあれは映画の予告だし、自分次第では本編前のウォームアップ的高揚促進剤になり得たけれど、何で栄養ドリンクのコマーシャルを5分近くも、それも本編直前に見させられねばならんのか・・・ちなみに、動画にアップされている内容まんまだからね。映画館用に編集されることもなく、終盤のエンドロール仕様の気持ち悪い手書き文まで見せられるし、勿論ロゴやらキャンペーンやらの絵もじっくり、ねっとりと。内容も実に凡庸で、深夜にパソコンの液晶でまったり見る分には好いのかもしれないが、映画館でかけるものではない。ま、鉄拳だって企業側のあれやこれやの要望きかなきゃいけなくて、当たり障りのないつまらないものにしか仕上がらなかったのだろう。本格的な誰得!?コラボ。ま、UC豊洲&としまえんは小遣い稼げてるのかもしれないが。(個人的には、その両劇場には素敵な観賞環境をご提供頂いておりますので感謝はしておりますが・・・)

というわけで、本作同様、個人的な観賞体験もやや場外乱闘気味ですが、以下本編に関する雑感を(ネタバレ含む)。

◆冒頭から前半の過剰なスピーディ展開はなかなか見所濃縮で、この夏『風立ちぬ』に唯一対抗できるモブ!やはり大スクリーンに映える画や動きを大スクリーンで観る快感こそ映画的醍醐味だし、自宅でまったり観てると冷めてしまいそうなご都合主義だって、映画館のスクリーンを眺める群集をグイグイ引っ張っていくようなアドレナリンを存分に大放出。そんな高揚感に安心感(そこが、マーク・フォスターの良くも悪くもなところかも。「大丈夫?」って不安と「やってくれるに違いない」って期待がせめぎ合いながら蛇行する感じが個人的には好み。)

◆警官があっさり職務放棄してたり、市民は守らなくても美術品は守ったりする「人間的」な権力の在り方をさらりと見せたりするところも好き。あと、評価分かれそうだけど、大統領が既にあっけなく死んでいるという事実をいいことに、政治がほとんど無力というか機能不全状態になっているのも話をシンプルにして好かったのかも。但し、その反動としてのアナーキーな無秩序が慄然として描き出されないところには物足りなさも感じたり。そう、総じて助走(合理性)と飛躍(破綻)の往来によって生じる興奮成分が足りなかったな。(観てる間は自然と見入っていたけれど)

◆子供の扱いの投げやり感。娘が喘息だって設定も、序盤のドラッグストアで終了。たまたま匿ってくれた家族の長男がブラピ一家と共に脱出する(ブラピは映画のなかでも養子を引き取る!)感動エピソードも、以後活かされず。(あの少年の活躍を密かに期待してしまったよ・・・なかなか好い眼してたしさ。)というか、映画のなかでは主人公がアメリカを発ってからの家族は物語的に大して機能するわけでもないのだから、むしろラストまで隠しておいた方が存在感が増しただろうに。ちょくちょく挿入されると気が散るし、実際禍因を招いたりもするわけだし。画面に出したとしても、連絡とれないままの方がスリリング。

◆自分たちを匿ってくれた家族にブラピが「Movement is Life」みたいなことを語ってて、「これは映画のテーマに違いない!」と勝手に脳裏に刻んだものの、それはただの期待に過ぎなかったという話。あれだけ頭から動きまくってたんだから、もっと最後まで動きまくって欲しかった。

◆北朝鮮は全国民の歯を抜くことで感染を鎮めた・・・なんて話が確か出てきたと思う。そうか、「噛みつく」っていうのは「革命」的な行為なんだよね。つまり、ゾンビにもそうしたメタファーがあるってことか。例えば、「不死」を憧憬する「反死」(「死」の存在を遠ざける)な人類に対して、「非死(Undead)」による逆襲が展開されるという。虐げられた「死」からの復讐であり、闇雲に貪欲に希求する「生」の反乱でもある。

◆陪審員制度の正当性(「俺は10番目の男だ」)やらシートベルトによる安全性(飛行機墜落前にシートベルト締めるブラピ)、「No Pepsi No Life」というこれ見よがし。とにかく、いろんな宣伝が入りすぎ、しかも見得切り的過ぎる。流れや意識の断絶が起こってしまう、

◆イスラエルで壁の中になるべく人間を入れようとする策の理屈「人間を一人救えば、ゾンビが一体減る」って発想は好いなって思ってたのに、それも大して活かされず。ま、でも、そんな理想にちょっぴりジーンとさせておいて、お祭り騒ぎで浮かれていたら、その音がゾンビたちを呼んだり奮い立たせちゃったりするって「自業自得」感(しかも、悲壮感をむやみに漂わせないところは面白い)は好い。

◆「人類の危機」映画においては、長らく人類(文明)の勝利がお決まりの結末(あるべき結論)とされて来ていたが、最近では『地球が静止する日』や『2012』のように原因が解明できなかったり手の施しようがなかったりして「とにかく逃げる(遠ざかる)」という結論が新たな趨勢となってきていたように思う。それは、大戦から冷戦へと「戦争」こそが平和だった時代から、別の手段を模索する国際社会の情勢と連動するものなのであろうけど。本作が興味深かったのは、「自業自得」感を根底に置きながら(前日公開の『パシフィック・リム』も同じだし、最近は「自戒」モードを前提にすることが多い)、ついに「負けるが勝ち」という方向性に向かい始めたというところ。「生物は、弱さを強さと偽ろうとする。そして、実は弱さこそが強さにもなり得るものなのだ。」これも、もっと活かせる主張だったのに、と私は思う。

◆「自業自得」感といえば、今まで散々命を救い平和を生み出してきたはずの銃が、本作では身を破滅させるものになるというのは興味深い。銃を撃つと、その音で獲物を見つけ出すゾンビ。死という圧倒的絶対的静寂を厭う文明人は、とにかく音のなかに身を置き誤魔化そうとする。そして、静寂によって初めて騒ぎ出す「内なる声」が聞こえ出すことを防ぐ。他方、外からの刺激(音)がないなかでは目的(対象)を失うゾンビたち。彼らには静寂の中で聞こえるはずの「内なる声」がない。つまり、人間の生死(人間であるか否か)を決めるのは、身体が動くか否か、あるいは感覚器官が機能するか否かの問題なのではないということか。人間とは何か。それは数多のゾンビ映画で提示されているテーマでもあると思うが、本作においてもそうした考察は可能。本作を包む静寂の意味は、そういったところにあるのかもしれない。

◆同様の観点からは、病を遠ざけることこそが至上命令であり続けてきた近代文明への批判、革命としての「病の注入」こそ、排除から共存へのシナリオの一部だったりする。そんな主張がこめられているのかも。


あれこれ考えているうちに、色々と面白く振り返られてしまったみたい(笑)

そういえば、本作の音楽はマルコ・ベルトラミが担当しているのだが、実は本作で最も印象に残るのは前述のMuseとThis Will Destroy You。This~の楽曲は、『マネーボール』でも随分と印象的にフィーチャーされてたし、ブラッド・ピットのお気に入りだったりするのかな。ま、俺も好きなので今後もうまく使ってください。(このあたりのチョイスは、 『28日後...』の選曲に通ずるというか重なるものを感じたな。あ、でも、どうやら『ウォーキング・デッド』でもThis~はフィーチャーされてるらしいので、そこ由来という線もあるのかな)

World War Z × Muse

2013年8月10日土曜日

パシフィック・リム

いつもは澄まし顔でスカしたこと書いてるくせに、実際はこの手の祭りに浮かれてしまう。「東映まんがまつり」に興奮してた男子なメンタル健在。三つ子の魂百まで(仮)。

休みなのをいいことに、朝一の回と昼下がりの回を早々に予約してしまっている自分に戸惑うくらい。あれ、俺ってこの手の映画に事前からこんなにも興奮するタイプだったっけ?ってね。でも、よくよく考えると、文学的(と呼べるかどうかは別として)にも芸術的にも(つまり文芸的な)ルーツのすべては幼少期に好んで見たアニメや漫画にあるような気がしてしまう。なかでも意識的自覚的にコミットし始めた漫画(『キン肉マン』『キャプテン翼』『ドラゴンボール』など)以前の、鮮明には思い出せないながら確実に洗礼を受けているであろう自覚のある戦隊ものやロボものは、有無も言わさずに血となり肉となったような気さえする。そんな影響のせいか、この手の作品の公開に際しては、抗いがたい胸の高鳴りを覚えてしまう。アメコミ物に何だかんだ吸い寄せられるのも同様な所以だろう。

本作をIMAX3Dで観賞することは絶対必須だと心に決めていた。一方、3Dを字幕で観るのが本当に苦手な自分にとって3Dは吹替で観ることが必定。となれば、(2回のうち)1回は2D字幕!のはずを、ちょっとミスって2D吹替で観てしまい、今日は結局2回とも吹替版。特に目当ての役者がいたわけでもなかったので、気が緩んでました(笑)まさか菊地凛子も非本人吹替とは知らず・・・。とはいえ、菊地凛子が演じる森マコの吹替は綾波レイでおなじみの(とか言いながらギレルモ同様(笑)ヱヴァには詳しくありません)林原めぐみ。他にも、「アムロ・レイ」の古谷徹(メカに乗る役ではないですが)と「シャア・アズナブル」の池田秀一が共に吹替キャストにいたり(二人とも60歳代というのに声の艶やかなこと・・・声優ってすごいね)、「上杉達也」の三ツ矢雄二が最近のキャラにもやや通ずる役どころで出ていたり。玄田哲章や浪川大輔といった俺でも知っている名前(海外ドラマの吹替なんかも多くやってるからね)もあって、サービス精神旺盛&豪華&堅実な吹替版に仕上がっている(と思う)。パンフも吹替関連記事を載せてくれても好かったのに。あ、でも、パンフはそこそこ「頑張ってる(©『桐島』前田涼也)」ほうです。

以前は3D上映があるなら絶対3Dで観る方針だった俺だけど、最近では2D観賞で済ますことも増えてきた。理由としては、「3D効果(演出)がマンネリ気味」「3Dの字幕版が個人的にはNGながら、キャストによっては絶対字幕版が好い場合もある」「画面が暗くなったり小さく感じたりする」等が挙げられる。気に入ることがそもそも目に見えてたり、観た結果気に入ったりすると、仕様を変えてリピート観賞してしまったりもするけれど(思うツボ)、とはいえ基本的に食傷傾向にある3D上映。そんな俺が今回、同じ作品で2Dと3Dを同日観賞した結論。本作は断然3Dがオススメ!但し、IMAX版に限る・・・かもしれない。

2D版でも全然堪能できると思うし、2D版ならではの楽しみ方もあるとは思うけど、何せ本作のバトルは大半が夜の場面。つまり、全体的に暗い。ならば、3Dなら更に見えづらくなるだろう・・・って?確かに。ただ、2D版とIMAX3Dを見較べただけだと、後者が断然見やすかったのだ。全体的に暗い(黒い)画面のなかで、少しでも3D加工が施されることによって画面内の動きが見えやすくなったのではないかと推測。何しろ、ギレルモ・デル・トロによれば、最初から3Dで制作した場面が45分程度あるらしいので、そういったことも「見やすさ」には貢献してるかも。但し、対戦シーンにおける場面転換は激しいし、寄り過ぎ(私見)な画で展開する時間も多めなので、スクリーン全体を或る程度余裕をもって見渡せる位置が好いのではないかな、とは思う。「いつも」よりやや後ろ、くらいが丁度好いかと。まぁ、そのあたりは好みかな。IMAXではない通常の3Dだと、もしかしたら暗さが増して見にくい(見づらい)ってこともあるかもしれません。

などとミッションコンプリートに浮かれ気分でいるようですが、実は個人的には心置きなく存分に楽しめたって感じでもなかったんですよね・・・

そのあたりの原因というか背景みたいなもの(あくまで私的な)を確かめるうえで、キネマ旬報に掲載されていた三池敏夫氏と佛田洋氏の対談が大いに役立った。(前半は『パシフィック~』を巡っての感想が中心だけど、後半はほとんど日本の特撮に関するこれまでの流れと現在の趨勢に関する話題が中心。その手の情報に詳しい人にとっては目新しい内容はないかもしれないけれど、その方面に明るくない自分にとっては「わかりやすい」と同時に面白く読める内容だった。ちなみに、ギレルモ[キネ旬は「キジェルモ」表記]のインタビュー記事も好かった。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)への敬意なんかは読んでいて胸を打たれた。)まぁ、その辺に関する感想はまた次の機会にでも。(あるかわからないけど)

最後にこじつけ的感慨。放射能や原子力が当然(?)出てくる本作が、長崎に原爆が投下された8月9日公開となったという奇遇。勿論、本作における原子力は「平和利用」されている訳ですが、だからといってハリウッド映画にありがちな蒙昧描写だけでもない。ちゃんと被爆だってしてるし、(『ゴジラ』へのオマージュとして?)「KAIJU(怪獣)」が出現した理由も人間による自然環境の破壊にある。おまけに、冒頭で「命の壁」が怪獣によって容易く破壊される映像は、多くの日本人にとってスーパー堤防の無力さ(文明の卑小さ)を想起させるに違いない。勿論、そうした観点から本作を眺めれば、粗も疑問も浮かんでくるが、それでも単純なだけで終わらせまいとする気概は伝わってくる。そんなこと考えながら観る映画でないことは重々承知(って言う場合は、大概実質不承知・・・)しているが、もしかしたらタイトル(とりわけ「パシフィック」)には平和への祈りも込められているのかも(「pacific」はそもそも「平和にする」の意)。
 

2013年8月9日金曜日

米田知子「暗なきところで逢えれば」

「日本を代表する写真家の一人である」らしい米田知子の個展。東京都写真美術館で開催中(9月23日迄)。

展覧会のタイトル「暗(やみ)なきところで逢えれば」は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の一節(We Shall meet in the place where is no darkness.)から。主人公ウィンストンの夢の中でオブライエンが語った言葉。同作にはちょっとした思い入れもある。大学時代に課題図書だったのだ。しかも、原書で読むことが義務づけられていた・・・はずなのに、大学の生協には大量の訳本が平積みだったけど。今となっては、自分がどの程度原書で読んだかすら忘れてしまっているが(試験前に慌てて読むという不真面目さゆえに)、きちんと原書で読んでおけばよかったという後悔が爾来まとわりついていることだけは確か。そんなやや複雑な想いと共にある作家ジョージ・オーウェル。贖罪(?)からか、彼の著作は古本でかなり買い集めたが、いまや免罪符のための免罪符が欲しいくらいに積読状態。それでもたまに広げる彼の本にはいつも、正しい絶望の在り方がある。

ジョージ・オーウェルの文章はきわめて男性的に思えるが、米田知子の写真はそういうわけでもない。かといって別にフェミニンというわけでもない。込み上げる企図を厳粛に抑圧しながら息をひそめて焼きつける。そんな誠実さがリアルな「客観」をとじこめる。ジャーナリズムがしばしば陥る客観幻想とは別次元の、誰の眼にも与しない私小説のような矛盾の在り方を心得る。

事実(客観的)は記憶に刻まれて、そこから生まれる真実(主観的)が歴史となる。時間をもたぬ写真は現在しか写せぬが、しかし実際のそれは常に過去である。しかし、それを見るものには常に現在が生じ続けるし、人間が持てるものは過去と現在だけである。それさえあれば描ける未来。それからしか描けぬ未来。現在は常に過去へと変換されて、記憶として記録されてゆく。実在の客観性は認知と共に脆くも消滅し、逞しき主観に実存として刻印される。そこに生じる「誤差」を、懐疑するでも制圧するでもなく、「正差」として位置づける。そうした前提がある限り、個人の主観に課せられた責任に言い訳の余地はない。そんな対峙が求められている。私はそう受け取った。

暗なきところで逢えれば。祈りにも近いその願い。永遠に祈り続けるその願い。暗がなければ明もない。闇なきところに光なし。絶望の正しい在り方。オーウェルが語り続けた言葉と共鳴する写真。


◇夜間開館の時間帯、同日に「世界報道写真展」も見たのだが、終了間近のそちらは随分と賑わっており、早々に米田知子の展示へ移動。こちらは展示毎に独りでじっくり見られる余裕の場内。映像作品の上映スペースからもれ聞こえる轟音が、会場全体に不穏の膜を張りめぐらして、日常から遮断する。報道写真展の「センセーショナルなドラマチックを見せつけられては感受を強要されている」場に流れる神妙と義務と慈愛。そこで感じた居心地の悪さが浮力となって、轟音響きわたる過剰な「静寂」に感応できた。ダイジェスト的散漫さと、断続的な断片としての各展示に物足りなさを感じつつ、だからこそ生じる間隙が、能動的な再構築を促しもする。二度目には一度目と別の写真が眼の前にある。現在が過去になった証左。記憶と向き合いながら、眼前を記憶する。円環構造で巡回可能な会場にすべき展示と思うのだけど、そうなっていないのが残念だ。(逆流すれば可能だし、展覧会ではいつもそうする私だが。いや、待てよ。もしかしたらそうした「逆流」こそを求めているのかも。なぜなら、記憶とは常に「遡る」しかできぬのだから。)
 

2013年8月8日木曜日

さよなら渓谷

原作本(新潮文庫)の解説を、映画監督の柳町光男が書いている。その結びで柳町氏は、「『さよなら渓谷』は映画監督を刺激する小説」と言い、「小説を読んだ映画監督たちは、それぞれが様々な映像を頭の中で編み上げることだろう」と語る。そして、それは「吉田修一がこれまで観てきた数多くの映画が彼の血となり肉となって」いるからだと論じて終わる。共感できる。確かに、吉田修一の小説はきわめて映画向き。というより、作者のなかにうまれた映画をノベライズしているような印象すら受ける。そのためか、私にとって極端なまでに読みやすい作者の一人でもある。吉田修一のなかでうまれた映画を読者は受け取っている。だから、そうした「原作」の映画化は実は最初からリメイク的宿命を負っている。「オリジナルとの訣別」という覚悟から始めなければならない。

近年映画化された吉田修一の作品はいずれも、原作既読で観賞に臨んできた。上から目線の一言感想述べるなら、『パレード』は健闘、『悪人』は無難、『横道世之介』は愉楽、そして『さよなら渓谷』は堅牢。

今年に入ってから、特に好みでもなかった監督や苦手意識の強かった監督の新作を心底楽しむという僥倖が続いた。『横道世之介』に始まり、(当初は観ることすら躊躇った)『舟を編む』や『真夏の方程式』。この傾向、実は昨年末の『ふがいない僕は空を見た』から始まっていたような気がする。そして、その『ふがいない~』の撮影が実は、大森組の大塚亮であることを観る直前に知る。

撮影は16mmらしい。35mmよりも可動だけれどもデジタルよりも重厚、そんな具合が本作の落ち着きと落ち着きのなさを好い塩梅で同居させているのかも。ただ、そういった印象は別に画からだけ受けるものでもなかたようだ。私が直感的に極度に苦手を意識し続けて来た大森立嗣という監督とは、ひとつめのボタンからかけ違えるような相性なのだと改めて認識した。

批評的にも世間的にも随分と好評を博しているという事実は知っているし、それに異議を表明したいとか、ましてや覆してやろうとかいう気概もないけれど、強烈な違和感の捌け口として以下愚痴る。

まず、役者および演技が全く以て設計違い。あくまで、私の主観のそれとだが。とりわけ尾崎俊介役の大西信満が不可解。スターダスト所属で若松孝二の寵愛をうけるという、とんでもない「実力」者らしいのだが、はっきり言って吹替希望。まぁ、表情も気恥ずかしい学芸会だけど、懸命さを感じられる分だけ耐えられる。しかし、「棒読みのお手本」みたいな話し方のどこが好いのかわからない。男根を感じさせなければならない役柄で、終始大根、全力少年。彼に比すれば、たわわな胸の分だけは、いささか重みは生じるものの、真木よう子だって吹替希望。一本調子な盲進入魂ぶりには辟易してくるし、それ以前に何言ってるかわからんよ。方向性以前の問題。本作はモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を授与されたらしいけど、確かに字幕で観た方が好いかもしれない。

一方の大森南朋(監督の実兄)や鈴木杏は、いつも以上にちゃんと演じてる印象。特に、鈴木杏は『軽蔑』の悪夢を払拭してくれるポテンシャルの香り。鶴田真由はきっと「唯一『普通』に近い存在」として置物的に機能させたかったのだろう。まぁ、役目果たしてますよ。三浦誠己とか井浦新とか好きな役者は少ないながらも出番を楽しめたし、画も音楽もなかなか好み。

だから、本作が立派であることは認めるが、大森監督とは根源的に合わないようだ。本作が小説の映画化で、原作を既読で臨んだ故に、それがより明らかに実感できた。原作の映画化とは、原作の解釈を呈示することでもあるので、大森監督の解釈(もしくは、そこから読み取れる考え方)が本作には露わになっており(脚本も共同で書いている)、そうした部分で特に感じる「すれ違い」が驚くほど鮮明に。(以下、物語の内容に思いっきり踏み込んで書きます。)

最も顕著だったのは、映画版においては主役の二人を加害者と被害者として明瞭に位置づけている点。私の読みに限ったことかもしれないが、原作ではその線引きを如実に避けていたように受け取った。なぜなら、尾崎俊介は「事件」のその時にはっきりと強姦であるという自覚がなかったように読めるから。それは感覚の麻痺としてではなく、相手が自分に少なからず好意をもっているという自認があったからで、実は相手(夏美)の方の「事件」発生以前の好意の自覚がさりげなく強調されているようにも思えて読んだ。そして、そうした描き方が二つのテーマを浮かび上がらせているように私は読んだ。

まずは、吉田修一の作品を貫く「マルチ・バース(『パレード』で語られる、人は結局のところ各々の宇宙内で生きているという世界観)」の孕む問題が、いつも通り通底してる。本作にはそこに、「社会」という文脈が横たわる。男の傲慢や都合の好い妄想が加わって、加害もやむなし的に社会に「許される」男(それに甘える男や、気づかぬ男もいるし、そこに違和感をおぼえる男=尾崎俊介もいる)。一方、依然社会的弱者である女はといえば、被害者であってもその誘因を問われてしまい、社会はけっして「許さない」。後者の傷みや苦しみはしばしば描かれる内容ながら、前者のような視点は些か新鮮だった。また、そうした二者は通常、分断・対立させることで相関や対照性を問題にする。しかし、この小説ではその二者が互いにミッシングピースとして「機能」する。そこに真実を見出そうとする。二者を対立させないかわりに、社会という次元と個人という次元を峻別してる。社会に「許される」なら、個人の罪悪感も拭われるのか。社会が「許さない」なら、個人はひきずり続けるしかないか。そうした問に答えるために、二人は暮らす。ただ、俊介が自らのマイナス(ネガ)を相殺するためにマイナス(ネガ)の夏美と暮らそうとしたのに対し、女はマイナス(ネガ)の夏美と訣別するためにプラス(ポジ)の「かなこ」(強姦を免れた方の名前)で生きようとした。プラスの「かなこ」なら、いくらマイナスの俊介と交わってもプラスに転じることはない。俊介がプラスに転じるなど許せない。しかし、俊介はマイナスの夏美を抱いて、自らのマイナス(ネガ)が束の間プラス(ポジ)に転じる夢を見る。それは違うと必死に思ってきた夏美だが、「かなこ」ではなく夏美として心身が俊介と交わり始めることを識る。そんな現実が意味するところに耐えられない。俊介の煩悶は随分具に語られる一方、夏美の想いはどこまでもグレイ。夏美自身も解りかねた想いは当然、俊介も読者も量りかねたまま。しかし、その灰色こそが、白黒しかないシステム(社会的制裁の場となる裁判)からこぼれ落ちたまま「解決」してもらえない罪の性根。自らの黒を認めたくないのか認められないのかすら判然としない俊介は、自らの内に白の存在を認めてしまうことだけは確かだし、もう真っ白とは思えない夏美は自らのどこに黒を認めて好いかすらわからない。結局二人は互いにグレイ。そんな存在を世間は勿論のこと、自分自身ですらも持て余す。ならば二人して交わって、正真正銘のグレイになれば好い。禊ぎのない沐浴、終わりのない贖罪。

ところが映画では、前述の通り「被害/加害」の立場や色分けが随分と明瞭にされている。そうした意図は、強姦の場面そのものを直接映していることから明らかだ。その様子は明らかに肉欲のままに犯している男と、その犠牲となる女の構図。これは、以後観客には「加害者:俊介」「被害者:夏美(かなこ)」として観てもらうための要請で、贖罪と赦しの物語としての宣言にも思えてしまう。確かにその方がわかりやすいし、ドラマ性も十分だ。被害者オーラの大西と加害者オーラの真木という、たすき掛けなキャスティングも絶妙になる。そして実際、それらの思惑は見事に成功してる。しかし、私は同じ原作に全く異なるテーマを読み、全く異なる問題意識で臨んでいた。そんなものは単なる差異に過ぎず、それは当然の現象だ。でも、そこから私は、大森監督が見る人間の現実と私のそれが見事に乖離していることを痛感した。『ゲルマニウムの夜』を観たときの決定的な違和感は、本当だった。それに納得できた。不満ではない、すっきり感。或る種の解放感。

大森監督との「すれ違い」をはっきり感じたもう一点は、強姦事件でその場にいた後輩・藤本の描き方。原作での藤本は、純粋に「無邪気」であり「無垢」なのだ。そして、それは「健全」を建前とする社会においてはスムーズに許容どころか受容され、本人も至って「前向き」なのだ。御曹司ゆえの鷹揚さというエクスキューズを隠れ蓑に、社会が限定発行している(しかも、いくつもの等級をもつ)免罪符をちらつかせる重要な脇役(社会においては主役だが)の藤本は、物語の屋台骨を支えている存在として印象深かった。ところが、映画版で新井浩文演じる藤本が見せる屈託のなさは、無神経の産物のようにカリカチュア。やはり大森監督は、グレイを黒と白が混じり合い重なり合ったものとして描くより、黒と白のせめぎあいをグレイとして魅せようとするやり方なのだろう。

他にも、渡辺(大森南朋)が原作では主役と同程度にメインで描かれており(彼の過去なども語られる)、彼の眼を通して二人を観ることで生じる或る種の共感や自戒が物語の奥行や余韻を生みだしていたのだが、そうした「軸」が取り払われていたのも残念だった。

一方で、細かな描写や演出には確かに唸らせられる瞬間が何度も訪れた。画面に映るものすべてに奇妙な実在感があり、それは異様に美しい青をみせる扇風機から、室内の弱い光でこそ「存在」する埃まで。夜のグラウンドに侵入する場面では、大学生たちが情欲から女子高生にフェンスを乗り越えさせた(過去)という真相を、渡辺(大森南朋)が施錠されていない扉を開ける(現在)ことでさりげなく示唆。繊細そうで実は直截な呈示にはたびたびハッとさせられる。

ただ、時折それがやや下品に感じるというか、過剰な直截表現で残念なこともある。(例えば、尾崎たちが所属していた大学野球部のサイトのトップページに部訓(?)として「因果応報」のデカイ文字があったりとか。) 最大の「やりすぎ」はやはり、真木よう子の唄だろう。しかも、ラストのあの場面の直後に流れてくるという無神経。歌詞が物語に補完や奥行を与えるならまだしも、「人はいつも坂道の途中期待を抱え上がり下がり」とか「今日は何かいいことがありそう」などと夏美が歌うのだ。人生を謳ってしまうのだ。これまた海外の観客の方が「恵まれて」いる一例(歌詞もわからないし、歌うのが「夏美/かなこ」であるとわからないだろうから)。

「すれ違い」ばかりを確認してきてしまった感想ながら、実は「ぴったり」だったところがある。それは、二人が温泉に入った後に寛いでいる場面。原作を読みながら私が思い浮かべていた場所(もえぎの湯)がまさに、本作でのロケ地だったのだ。そして、あの吊り橋もおそらく私が思い浮かべた橋と同じはず。一度しか訪れたことのない場所ながら、原作での描写から私の頭に浮かんだ光景は、まさに本作のそれだった。(まぁ、実際、原作の描写からそもそもあそこが想定されてたようにも思うので、当然の帰結なのかもしれないが。)


◇苦手な監督の新作であった為、また原作が積読状態だった為、当初は観賞予定に入れていなかった本作。それでもやはり観る気になるも、その頃には観たかった劇場での上映はなくなりかけていて・・・そんななか、吉祥寺バウスシアターでのレイトショーが始まった。しかも、シアター1。夏の夜、バウスのシアター1でまったりゆったり観る映画。初めてアサイヤスの映画を観たのがやっぱりそんな状況だったし、ブログ始めたばかりの頃に観たソダーバーグの2作(『ガールフレンド・エクスペリエンス』と『BUBBLE』)も同様。そして、この『さよなら渓谷』も、夏の夜の吉祥寺バウスシアター1で観るにはもってこいの逸品だった。作品自体に不満はあれど、観賞体験そのものは実に愛おしい極私的理想型の一種。夏に観るレイトショーってなんか好い。終わった後の閑散とした街の空気も好い。昼間に生命力ありすぎる夏だから、夜は毎日祭りのあと。映画終わった後の内的世界とシンクロする感覚。
 

2013年8月7日水曜日

リメイク版『めぐり逢ったが運のつき』

原題「Wild Target」、邦題『ターゲット』でDVDが発売されていた仏映画『めぐり逢ったが運のつき』の英国リメイク作。先日、WOWOWで初放映。観た。なかなか好かった。が、やっぱりオリジナルを観たくなった。けど、『めぐり逢ったが運のつき』の方はソフト販売なし。というか、ビデオは発売されていたらしいが、DVD化はされなかったらしい。劇場公開時の配給はアルバトロス。僕が観たのはテレビでだけど。しかも、たしかMXテレビでやってたのを録画して。えらく気に入ってテープのツメ折ったけど、今でもあれ(VHS)観られるのかな。

まずは、オリジナルの方の話。

『めぐり逢ったが運のつき(Cible émouvante)』は、ピエール・サルヴァドーリ(Pierre Salvadori)の長編一作目。プロデューサーを務めたのは、フィリップ・マルタン(Philippe Martin)。この人、この後もサルヴァドーリ作品をプロデュースしていく一方、ラリユー兄弟(「運命のつくりかた」等)やセルジュ・ボゾン(「フランス」等)、そしてミア・ハンセン=ラブといった僕が極めて好き好きな気鋭監督たちと継続的に仕事をして来ている御方。そんな事実を改めて確認すると、『めぐり~』が尋常じゃなく好みだったことに今更至極納得したり。そういえば、セルジュ・ボゾンの「フランス」について描いた自分の記事で、本作について触れてたりした。

オリジナルのメインキャストは、ジャン・ロシュフォール、マリー・トランティニャン、ギョーム・ドパルドュー。ジャンの「これぞフレンチ・コメディー!」な洒脱な滑稽さに優雅な笑い心地好く、ギョームの瑞々しさがボケボケキャラと抜群融和。エスプリよりもファニーを優先、オシャレしたってスマートじゃない。今ふと思い出したけど、『シューティング・フィッシュ』(自分のなかで「同枠」の映画)とか本当好きだったな。熱狂でも絶賛でも心酔でもないけど、いっつもどこか心の片隅で疼いてくれるお気に入りってポジションが最近空席気味な気がするな。それはきっと、映画とか音楽とかとの付き合い方に堅さというか肩肘張りな傾向が出てきたからかもね。もうちょっと自由さ、柔軟さ、風通しよくしてかなきゃ。

さてさて、リメイク版の話。



そんな秘かに大好き作品のリメイク版だから、正直あまり期待してなかったのに、これがなかなかどうして、オリジナルをちゃんと尊重したリメイクで、「フランス人って素敵だね。でも、ぼくはフランス人になれないし・・・でも、ならないのも素敵だよ!」みたいな(どんなだよ)爽快な加工貿易していたよ。オリジナルに敬意を表しつつ、自分たちにできることも模索する、リメイクの良計成果を発揮していて痛快。フレンチ・フレーバーを漂わせつつ、英国真摯も忘れない。ジャン・ロシュフォールのおとぼけと通ずるようで異なる魅力をばっちり忍ばせたビル・ナイの適度なメソッド。エイミー・ブラントがキュートすぎないところがキュートという意外。最も懐疑の眼でみはじめたルパート・グリントがこれまた思いの外、好い。「ハリー・ポッター」シリーズは序盤で観賞離脱してしまった自分にとって、こんなに味のある俳優になっているとは思いもしなかった。改めてフィルモ眺めてみれば、日本での公開作はほとんどないものの、ハリポタと並行してなかなか好い仕事(修行)を重ねてきたみたい。今年のベルリンでコンペに出品された「The Necessary Death of Charlie Countryman」(キャスト、豪華・・・)にも出演してる。脇役も、日本で馴染みの深いキャストが多く、ルパート・エヴェレット(昨秋『アナザー・カントリー』がリバイバル上映されてたな)やマーティン・フリーマン(英国ドラマ『SHERLOCK』のワトソン君)がとぼけた敵役を伸び伸びと演じているし、個人的にはグレゴール・フィッシャーがひたすら愉快。

オリジナルを丁寧になぞりながらも、英国流にしっかり仕上げた脚本を手がけたルシンダ・コクスン(Lucinda Coxon)は、ギレルモ・デル・トロの次回(?)作「Crimson Peak」に参加するみたい。ジェシカ・チャステイン、ミア・ワシコウスカ、ベネディクト・カンバーバッチという映画界屈指の絶好調最高潮キャスティング。ギレルモ組のチャーリー・ハナムも入ってる。

監督のジョナサン・リンはテレビ畑の人みたいだけど、イギリスのテレビドラマ・ディレクターって本当堅実人材の宝庫だね。昨年の秘かなお気に入り枠の一本『マリリン 7日間の恋』も確かテレビ畑の監督(サイモン・カーティス)だったよな。あのケン・ローチだってテレビの仕事から始めたし、そこでの経験が随分と糧になったようなことをしばしば語ってるし、BBCの豊かな歴史を感じます。

音楽もゴキゲンで、フレンチ・テイストも盛り込んだスコアの盛りつけ方も適量なら、要所要所でかかる既成曲も適材。アップルのCMでおなじみのヤエル・ナイムの「ニュー・ソウル」なんかも見事にしあわせな関係。他にも、レジーナ・スペクターやイメルダ・メイなどのフィメール・ヴォーカルで色とりどり。

ところで、本作はドリパス一夜限りの劇場上映が実現するのだとか。シネマート新宿の大きい方なら、なかなか好環境だと思うけど、上映素材がBlu-rayという不安。ブルーレイ上映も努力次第ではそこそこの質が求められるようだけど、今年あそこで観た『マーサ、あるいはマーシー・メイ』はちょっと残念だったからな・・・作品自体はかなり好かったんだけど。

それにしても、始まった当初はすぐに消えると思っていたドリパスが、今やなかなか定着しそこそこ進化している様相で些か驚き。ヤフーが買収したらしいけど、うまいこと行ってるのかな。今回の『ターゲット』上映の観賞料金は2,000円均一(でも、実際はドリパスのシステム使用料で210円徴収されるから、実質2,210円均一)。確かに貴重な劇場上映になるとはいえ、一昨年DVD発売され、WOWOWでも今月複数回放映され、しかもブルーレイでの上映。なかなかいい商売してますね。これで上下黒帯での上映だったら泣けるよな・・・。ま、観に行くつもりのない俺があーだこーだ言うのも筋違い。ドリパスに限らず、最近またこの手のビジネスモデル(ソフト販売の前後に劇場で限定上映)って堅調だよね。CDの売上落ちてもライブ動員堅調っていう音楽業界と一見似てるようだけど、僕としては懸念が上回る。最初は速効性のあるニッチ産業的旨味はあるとは思うけど、映画(特に外国映画)マーケットのマニア化を促進してしまいそうだから。というか、マニアのなかでも分断されていく気もするし。現に、その手のビジネスにノレる人と(僕のように)ノレない人がいるわけで、前者だけを見込んだビジネスに浮かれてる姿は、後者の人間にしてみたら寂しさを覚えるもので・・・ま、狭量で偏屈な人間の僻み的ボヤキかもしれないけどね。

あ、でも、一夜限りの『めぐり逢ったが運のつき』劇場上映とかあったら、たとえ素材がDVDレベルであったとしても駆けつけちゃうかも!(そう、人間は矛盾な生きものなのです。) ってか、アルバトロスはやっぱりフィルム棄てちゃったかな・・・
 

2013年8月3日土曜日

『風立ちぬ』の予告編をつくった人

荒井由実の「ひこうき雲」がフルで流れる4分の予告編。上映のタイミングが問題(話題?)になったこともあるが、その完成度に唸る声もしばしば聞かれ、本編を観賞しても尚(いや、だからこそ?)予告編を支持する声も多数。今では予告編制作者の名がエンドロールに登場することも珍しくないようだが、そのきっかけとなったのもジブリ作品だったようで、その「初登場」となったのがジブリ作品の予告編を長年手がけてきた(『風の谷のナウシカ』からずっと)板垣恵一氏のよう。近年では映画本編の編集も手がけ(というか、かつても手がけていたらしく、『ぼくらの七日間戦争』『帝都大戦』などの編集も)、『剱岳 点の記』では日本アカデミー賞編集賞まで受賞したんだとか。もともとは映画予告編制作会社最大手のガル・エンタープライズに所属していたが、現在はフリーランス? その板垣恵一氏が『風立ちぬ』の予告編もつくっている。(今回もエンドロールにちゃんと名前がありました。)

こちらのインタビュー記事も面白いが、スタジオジブリ広報部長(当時)の西岡純一氏(現在は、ジブリ美術館の事務局長みたい)の動画でその「板垣さん」について詳しく語られていて興味深い。(これらの動画は『借りぐらしのアリエッティ』公開を控えた頃のもの。)

予告編を作った板垣恵一さんについて



板垣さんに聞く予告編の制作について


 

2013年8月2日金曜日

都市の無意識

東京国立近代美術館(竹橋)に足を運ぶときのささやかな楽しみは、小企画。現在は「プレイバック・アーティスト・トーク」という壮絶な手抜き企画展がメインとなっているが、同会期で開催中の小企画「都市の無意識」の方がやっぱり断然の見応えだった。とはいっても、やはりあの小スペースなので、扱っている(目指している)テーマに比べて物足りなさは否めぬが、いずれこのテーマで本格的な企画展を開催しようと目論んでのちょっとした実験というか準備の一環なのではないかと勝手な憶測してみたり。

「アンダーグラウンド」「スカイライン」「パランプセスト」という三つのテーマで、写真を中心に構成されている。最初の「アンダーグラウンド」の部屋では、1966年の岩波映画「東京もぐら作戦」(25分)が上映されている。その「実録」的な映像によって喚起され想起する〈都市〉が秘めたるさまざまな貌。溝(どぶ)は表面から消え、地下(裏面)に潜る。人間の営みによって生まれる〈廃〉は地上から姿を消し、地下へと匿われ、私たちがそういった現実を日々の生活で目の当たりにすることはなくなってゆく。都市化とは、現実の空洞化によって得られる虚構の充満化なのだろう。

畠山直哉の「川の連作」。数枚単位で見たことはあったが、今回のように9枚が横に連なっている展示は更に見応えがある。「意識的な自我」と「無意識な自我」に分裂してゆく様と符合するかのように都市が見え始めると語る畠山。各々が「等価」であるかのごとき二等分でありながら、縦の配置によって生じる「天地」「上下」の関係がそこにはある。下(水面)には上(街)の姿が映し出されている。どちらが意識で、どちらが無意識なのか。もはや区別も領分もないのだろうか。いや、それらはちょうど鉄道のように、「相互乗り入れ」があちこちで起こって来ているものなのかもしれない。

「スカイライン」の部屋では、スティーグリッツの小さな写真から始まり、火野葦平『アメリカ探検記』の挿絵として関野準一郎が描いた「墓とニューヨーク」が都市の再考に立ち止まらせる。ロサンゼルスに行ったとき、私はサンタモニカのビーチで、週末のたびに砂浜に並べられる数多の十字架を目撃した。イラクなどで亡くなったアメリカの軍人たちを悼むため、ボランティアがビーチに十字架を並べていたらしい。当初は亡くなった数だけ並べていたが、その数が余りにも厖大になり続けるために、一定の数を並べるように変更したという。週末にだけ砂浜に並べられる十字架は、その都度植えては片付けられる。そのすぐ向こうには観覧車があり、メリーゴーランドがあり(『スティング』に出てくる)、家族連れからカップルまで大勢で賑わい週末を楽しんでいた。そんな光景と余りにも重なり合う画に(しかも、それが東海岸と西海岸という見事な合わせ鏡のように)潜在を顕在化させることで闇を葬り去ろう(駆逐しよう)とする〈都市〉の自虐な自律に自浄な事情を思わせもした。

続く久保田博二(マグナム・フォト正会員でもある)の「ニューヨーク市、ニューヨーク州」(1989)に目を奪われる。黒いシルエットのビル群に差し込む幾筋かの赤色陽光が、まるで地割れによって浮かび上がろうとするマグマを思わせる。夜明け前の都市の静寂がもつ不穏に耳をすますとき、破滅への胎動が聞こえてくる?

勝又公仁彦の「Skyline」シリーズは都市の権威を優しく美しく諫めてくれる。画面の九割超を占める空(そら)。地上のどんなに高いビルでも、ほんの数センチという誤差の世界。映画でも、最近この構図に頻繁に出会う。『風立ちぬ』でも執拗なまでに用いられていた(今までの宮崎作品などで象徴的に用いられたりした記憶が私にはない)「不自然」による自然への回帰。

最後の部屋は「パランプセスト(Palimpsest)」。ここには、普段は常設展にある佐伯祐三の「ガス灯と広告」があり、常設よりも本領発揮の居場所に活き活きして見える。また、高梨豊の写真は、同美術館で2009年に開かれた彼の個展「光のフィールドノート」でも展示されていた「都市のテキスト 新宿」シリーズから。

やはり、扱うテーマに対してこのスペースは、この作品数では物足りない。しかし、そうした飢餓感は、次なる本格展への期待へと高まってゆく。〈都市〉をテーマに絵画・彫刻・写真は勿論、映像の記録や映像作品なども含め、音響などによる演出やコラボまでも駆使し、世界史的な都市と日本史的な都市の変遷と現在を浮かび上がらせる。そんな企画展が近い将来開かれる、そんな期待を秘かに膨らます。

※メイン企画の「プレイバック・アーティスト・トーク」は、大盛況だったベーコン展の反動かのような粗末さながら、入場者は文庫サイズの小冊子(出品者のトークを文章化したものを集めている)をもらえたりする(免罪符なのか!?)ので、650円とお安い設定でもあるし、一応そちらも見てから常設展と小企画を観るって流れもありかと。ちなみに、メイン企画も小企画もあと二日で終了で、最終日の8月4日は常設展と小企画は無料観覧日に当たるとか。

2013年8月1日木曜日

執行者/The Excutioner

2009年の韓国映画。「韓国映画ショーケース2009」で上映された作品が、今年1月にDVDで発売。私は先日、WOWOW放映で観た。同ショーケースでは、『素晴らしい一日』や『昼間から呑む』など劇場公開がその後決まった作品も上映されていたが、本作は残念ながら劇場公開には至らなかった模様。実際に観てみるとそれも納得だったりもするのだが。

監督は本作が初長編となるチェ・ジンホ。主演は、ユン・ゲサン(アイドルグループgodの元メンバーで、『プンサンケ』で主演)、チョ・ジェヒョン(キム・ギドク初期作の常連)というキム・ギドクに縁のある二人であり、かつテーマも重厚であるはずながら、本作の仕上がりは至って生ぬるく感傷的。

韓国では死刑制度が存続してはいながらも、1997年12月に23人が執行されたのを最後に、刑の執行は行われてないらしい。そうした事実を背景として、「12年ぶりに死刑が執行される」というフィクションから死刑制度を問う物語をうみだした。とはいえ、制度に対する疑念から社会機構への「信頼」を揺さぶろうとするというよりは、タイトルにあるように「執行する者」が人間として個人として味わう葛藤を主軸に「ドラマ」が展開される。懐疑と諦念の彼方に佇むベテラン、職務遂行と遵守への過剰な使命感に浸る中堅、臆病から倨傲そして陶酔へと変容する新人、そうした三人の刑務官と彼らの背景を職務と絡ませつつ、クライマックスの〈執行〉へ感情が収束してゆく構成だ。

新人刑務官(ユン・ゲサン)は公務員試験の受験を控えた恋人がいるのだが、彼女から妊娠を告げられる。もうすぐクリスマス。そのまえには死刑の執行が・・・。命の出入り、降誕、昇天、いくつもの生と死のドラマを交錯させようとしたシナリオ。成功していれば極めて深遠さをたたえた映画に仕上がっていただろうが、各要素は見事に編まれる事なく、羅列的確認で進行してしまう残念。

技巧と情緒の堅固な結託に「鷲掴み」を余儀なくされる韓国映画の数々。一時期の粗製濫造から見事に復調の兆し(どころか隆盛!?)を感じる昨今。本作が少し前の作品だからか、それとも劇場公開作と未公開作に実は明確な落差があるからか、ここ最近観た韓国映画の濃密と堪能からは程遠い手緩さにガッカリしながらも半ば安堵(?)。韓国映画にも、(日本映画と同様に)メロドラマ的センチメンタリズムに堕してしまう傾向ってあるんだな、という。ただ、そういった「つくり」(とりわけ、エモーショナルなスコアや心情吐露的な台詞に顕著)は基本失意に流れてしまいがちながら、時折直球過ぎてよけられないままグッと来てしまう場面もあったりする。ただ、複雑な問題に挑みつつも、不都合な議論を回避する用意がなされているかのような半端な蛇行はやはり、初志を懐疑せざるを得ない結果に陥ってしまっている気がしてしまう。同じ傾向は邦題にも引き継がれてしまったのかも。(『死刑執行人』でよいではないか)