2013年8月30日金曜日

マン・オブ・スティール



前半のノーラン・コントロールにおける「ザックのこだわりグッとこらえて物語る」チェック&バランス的緊張感はなかなか好ましく、プロデューサーとしてのクリストファー・ノーラン及び監督としてのザック・スナイダーの新境地に邂逅できた幸せいっぱいで帰路に就くのだとばっかり思ってた。しかし、どうやら前半の真っ当さは後半でやりたい放題させてもらうための「取引」によるものだったのか!?

前半にはノーランらしい哲学的・倫理的・社会的テーマが(ややあからさまに)埋め込まれており、この手の作品のそうした「おしつけがましさ」は嫌いでない自分にとって、それらの要素がどのように回収され結実してゆくのかを楽しみに見守っていたのだが、後半(特に終盤)はただひたすらバトルを見せたい(撮りたい)だけの欲求が暴発炸裂状態で、「見方を変えねば・・・」と思っているうちに気持ちの整理はつかぬまま(=アニメ的CG擬似実写アクションを適正に享受することもできずに)、今夏二度目の(まさかの)マイケル・ベイ待望メンタリティに陥るという悲劇。でも、最後の最後ではちゃんと「現実」に戻ってきてくれて、クラーク(ヘンリー・カヴィル)の眼鏡とロイス(エイミー・アダムス)のベタ台詞は、ビギンズのエンディングを適正補正。まぁ、それもこれも厳かさと躍動をたっぷり吸い込んだハンス・ジマーのスコアあっての出来事ではありますが。

ノーランお得意の「人間(社会)を試す」ようなアプローチが序盤に用意されていて、例えば「人間は支配できないものを恐れる」といったクラークの(人間の方の)父(ケヴィン・コスナー)の言葉などを聞けばつい「スーパーマン=原子力」なんて思ったり。そして、それに人間は一体どう対峙するのか(すべきなのか)を物語を通して問いかけるつもりなのかな、とか。カルの(クリプトンの方の)父(ラッセル・クロウ)は、「(操作によって予め新生児の役割が限定されるクリプトンの実態に異を唱え)新しく生まれてくる命には選択(choice)と可能性(chance)が与えられて然るべきだ」と主張。これも、人間による近代文明(秩序・管理・統制を求める社会)に対するアンチテーゼというか警鐘というか。人間の不確定性というか流動性というか獣性(?)みたいなものに可能性や自由を求める着地を目指すのかなぁ、なんて思って見始めたり。

更には、ゾッド将軍(マイケル・シャノン)が「進化した者こそが勝利するというのは歴史が証明している」と言い放つと、「進化とは何か」という揺さぶりからの「歴史の意義」「過去の価値」という考察の深化が始まった!(今までのノーランは同時代的考察が強すぎる気もしていたので)・・・と小躍りするも、せいぜいそこに添えられた答えなものは情緒的葛藤というハンデ(?)による演出(スーパーマンの刹那の逡巡と直後の雄叫びのみ)で、それとてそれが克服なのか受容なのか創造的葛藤なのかすら示されず、関心の全てはあっさりと戦闘へ(葛藤、即リセット)。

語るより描きたいザックと、描くより語りたいクリス。そんな二人の弁証法は、止揚半ばで墜落しちまった・・・けど、終始鳴り響き続けるハンスの音楽がいつ何時も心を高揚させるから、結局地面に打ち付けられる(ダメージ受ける)ことないまま一気に完走してしまうという映画的力業の勝利。初日初回大スクリーン(勿論、シネスコ!)、周りの観客から醸される待望と緊張と興奮の坩堝の只中、といったアドバンテージも当然ありはしたけれど。

IMAX上映のある作品は必ずIMAXで観るように、3D上映のある作品は必ず3Dで観るように。それが以前の私的慣習だったのだけど、最近では臨機応変で(というか個人的展望というか欲望に応じて)観賞スタイルは流動的。今回も、初日にIMAX3Dで観ようと思ってはいたものの、予約開始即座にベスポジ付近が物凄い勢いで完売してて、ひとまず断念。来週の平日にでもゆっくりまったり観るかと思いつつ、何となく8月中に片付けたい(笑)気がふつふつと。そこで初日初回のUC豊洲10番2D字幕版で観ることに。その後にIMAX撮影なしだと知って内心「だったら別にIMAXじゃなくても好かったかもね」と思いきや、新宿ミラノ1での上映がフィルム上映(撮影もフィルム)と知り、しまった・・・と思ったものの、観てみればCG尽くしの画ばかり故に、まいっか。それため、3Dで観た人よりも楽しさ半減してるかもしれないし、フィルムで観るよりも味わいが減じているかもしれないけれど(でも、ワーナーは字幕のフォントをちゃんと劇場仕様的な旧来の字体にしてくれるから、デジタル上映でも「映画館で観てる感」が減退しないで済むのが好いね)、やりたい放題バトルシーンはやっぱり大スクリーンで観ればその価値は十分あるし、繊細なピアノの音も和太鼓みたいな怒濤のドラミングも大きな空間に大きな音で響くのを聞く価値は十二分。豊洲10番はスクリーン自体はあまり綺麗ではない(汚れがやや目立つ)けれど、フィルム撮影の作品なら(デジタル上映であっても)それが気になりにくい。

3Dで観なかったもう一つの私的な理由(極めて些末)は、IMAXで観た予告での3D演出が「後付」感全開だったり、個人的に最も嫌いなタイプの3D使用(奥の人物が手前の人物の肩越しに見えてる場合、その手前の人物をやたら浮き上がらせるといったパターン)が目についたりしたこともある。そういう手法だと、画面のなかで階層は見事に出来上がるけど、それぞれの階層が異様にのっぺり(2D以上に2D的に)見えてしまう気がしてしまうので、個人的にはそうした使い方が好きではない。まぁ、予告観ただけなので、本編ではもっと面白い3D演出が施されている可能性は十分あるとは思うけど、「画の暗さ(IMAXならだいぶ解消されるけど)」と「速い動きへの対応困難」といった現状への不満と、出尽くした感と見馴れた感による鮮度低下は、個人的3D離れを根強く後押ししてしまう。とはいえ、先日観た『スタトレ』みたいなアトラクション(に徹した)ムービーの場合なんかでは、IMAXにしろ3Dにしろ遺憾なく威力を発揮してくれてたし、3Dという技術がこれからもっと幸せな活用に向かうことを期待したい。(当初はSFやアクションといったダイナミズムに映える技術だと思っていたけれど、実はアート系でこそ新たな地平を切り開けそう。ヴェンダースは期待外れだったけど、ゴダールはどうなるのかな。)

夏休みの宿題を夏休み中に片付けたような達成感。学生時代に決して叶わなかった計画性と余裕な成就。って、たかがねぇ・・・。とはいえ、今夏に毎週公開された(いずれも期待値高めな)大作5本は、好悪は様々ながら各々それなりに見応えあった。ちなみに、そうした大作群のうちローランド・エメリッヒを除く4人はいずれも60年代の生まれ。ゴア・ヴァービンスキーとギレルモ・デル・トロは1964年生まれ、J.J.エイブラムスとザック・スナイダーは1966年生まれ、そしてマーク・フォースターは1969年生まれ。みんな40歳代。まさに働き盛りって感じと同時に、いずれも「不惑」を謳歌している感じが存分に(マークは未遂だったようだけど)。とはいえ、自身の「やりたいこと」と周囲(及び社会[というか観客?])から「求められること」とのバランス感覚に、各々の生き方(生き様)や哲学が明確に出ていた気がして興味深かった。ちなみに、クリストファー・ノーランは彼らの誰よりも若く、1970年生まれ。そんなこといったら、チャニング・テイタムの盟友リード・カロリン(『ホワイトハウス・ダウン』でプロデューサー)なんて1982年生まれなんだよね。彼は『マジック・マイク』では脚本を担当していたり(端役で出演してたけど、役者も向いてそうな印象だった)、面白い存在になりそうな予感。
 

そういえば、スクールバスの一件とか聖職者に自身の役割を説かれたりとか、『サイモン・バーチ』を勝手に想い出したりもした。「特別」であることに変わりはないね。