2013年8月11日日曜日

ワールド・ウォーZ

人類存亡の危機に直面し、男が家族を守るため命をかけて戦う感動ヒューマンドラマ。として宣伝していることを疑問視・問題視する声も聞こえてくる本作。私も観るまではせこい宣伝と思っていたが、実際に観てみると、ゾンビ映画色は控えめで、配給会社はある程度「正しい」判断だったのかもしれない気さえしてきてしまった。それに、今夏の拡大公開系作品って洋邦共に俗に言う「ヒューマンドラマ」系が皆無に等しい状態で、そうした作品を求める層に対する訴求力も期待した一方、そういった作品が供給されないアンバランスな状況を補完する結果をもたらせることも想定したのかと。でも、結局は作品自体の訴求力こそ大きな鍵を握るのが観客動員。『テッド』で内容とは無関係に集客を成功(私見)させた東宝東和とはいえ、さすがに今回もそう上手くはいかないだろう。多少の夏休み特需には与るだろうが。

事前に事実確認や背景知識の補充が求められる作品は別として、私は観賞前には積極的に情報収集したりしない。むしろシャットアウト傾向にある為(予告はまともに[真剣に]見ない/流し見な感じ)、実は本作の宣伝戦略に関しても指摘が飛び交うのを見かけるまでは全然気づかなかったほど。とはいえ、興行成績と共に大まかな評判なんかは聞こえてくるので、『ローン・レンジャー』が売上・批評共に最悪だとか、本作は売上・批評共に大成功だとかという認識で夏を迎えたわけだけど、やっぱり自分の眼で見るまでは何事もわからんね。百聞は一見に如かず。

『ローン・レンジャー』にシビれまくりアガりまくりモエまくりな2時間半は、潔いほどのジャンル偏愛と様式美に充ちるが故の賜だったのだろう。しかし、だからこそ、そうしたマニア指向はどうしても大衆の賛同は得にくいのが実態。正反対なのが本作で、ジャンルへの偏愛や様式美に唸る準備で胸膨らませるマニアの前を、「ちょっと失礼」と澄まし顔で素通りするスマートさ。その姿勢はあまりにクレバーで、「いえいえ、どうぞどうぞ」と無意識に快諾しながら快く見遣っていれば、「あれ?もしかして終わる?終わった!?」という。見事は見事かもしれないが(2時間弱を何らの負担もなく一息に過ごさせてくれるからね)、その絶妙な匙加減(褒める気にはならないくせに、怒る気にもなれない脱力感)は一体何なんだろう。

「マーク・フォスターが創りたいもの」が私にはよくわからない。監督作を全部観ているわけではないが、適当な(「適度」じゃないのがむしろ厄介)技術と適度な(「適当」じゃないのが残念)想像力。語りたいものがあるようでない、ないようである。ないならないで好いんだけれど、あるふりするのは止めてくんない?みたいな。とはいえ、ラストを巡って主演(のみならずプロデューサー)のブラッド・ピットと正面衝突したらしいから(不仲説が前面に出てくるくらい)、やっぱり信条はあるんだろうね。でも、あるならあるでそれが伝わって来て欲しいし、そこがいつまで経ってもブラックボックスで居心地が悪すぎる。しかも、観ている間は別に気にならないというところも非常に質が悪い。だまされた気が(勝手に)してしまう。いやいや、別にだまされるならだまされるで好い。むしろ、だまされてるとわかっていて益々信じちゃうワンダーを僕らは映画に求めてる。でも、そういうのが、ない。あぁ、その点、本当に『ローン・レンジャー』という大嘘つきの超絶リアリティは心地好すぎて罪深い。(『ローン・レンジャー』『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』を三日連続で観たもので)

作品のトーンというか方向性が急変するラストシークエンスは、撮り終えたものに変更が求められ、まるで異なった展開(場所も話も)で別に撮ってくっつけたらしいのだけど、確かにそれ故のまとまりのなさは吃驚したものの、力業すぎて映画で語られているメッセージ風の内容とやってることの乖離(というかむしろ相反)が余りにヤケクソに満ちていて実はちょっと可笑しみを覚えもした。ところが、本当の驚愕はエンドロールに待っていた。

本作のテレビCMで流れるMuseの「Follow Me」。彼らの曲は最近映画の予告編でよく使われるけど(『ナイト&デイ』や『ツーリスト』)、本編やエンドロールで実際に流れることがないのもこれまた多い(『ツーリスト』ではMuseが流れるが別の曲)。よって、今回もどうせ単なるCM用のタイアップなんだと思っていた。すると本編でMuseの別の曲が使われていたので、「もしや?」と思い始めたり。でも、そもそもMUSEは本作のワールド・プレミアでパフォーマンスしていたり(花道が「Z」!)、今回の参加は普通に話題になっていたみたいで(日本の公式サイトにも監督と同列で紹介されてるという好待遇)、単なる私の情報不足だったみたいだけど。とはいえ、父親が家族のもとを離れて奔走し始めた時点で「フォロー・ミー」じゃないよな・・・と諦めていたら、なんとエンドロールで「Follow Me」が流れ始めるではないですか!しかし!なんと!!カラオケ!!!

ところが、Muse関連(厳密にはMuse絡みではないが)ではもっと恐ろしい出来事がっ!なんと、映画本編上映前(予告の一番最後)に、鉄拳とスガシカオのコラボによるエスカップのCMがフルで流れたのだ(ユナイテッド・シネマ豊洲にて)。検索したらユナイテッド・シネマWebサイトに案内告知がありました・・・。これもやっぱりMuseつながりなのだろうか。(参考:「振り子」/「Follow Me(鉄拳Version)」)

あのパラパラ漫画を巨大スクリーンで見るという「異様」さは、最初こそほんのちょっと面白味を感じたが、如何せん長い。5分弱。『風立ちぬ』の予告も最後の頃は正直ちょっと鬱陶しかったけど、でもあれは映画の予告だし、自分次第では本編前のウォームアップ的高揚促進剤になり得たけれど、何で栄養ドリンクのコマーシャルを5分近くも、それも本編直前に見させられねばならんのか・・・ちなみに、動画にアップされている内容まんまだからね。映画館用に編集されることもなく、終盤のエンドロール仕様の気持ち悪い手書き文まで見せられるし、勿論ロゴやらキャンペーンやらの絵もじっくり、ねっとりと。内容も実に凡庸で、深夜にパソコンの液晶でまったり見る分には好いのかもしれないが、映画館でかけるものではない。ま、鉄拳だって企業側のあれやこれやの要望きかなきゃいけなくて、当たり障りのないつまらないものにしか仕上がらなかったのだろう。本格的な誰得!?コラボ。ま、UC豊洲&としまえんは小遣い稼げてるのかもしれないが。(個人的には、その両劇場には素敵な観賞環境をご提供頂いておりますので感謝はしておりますが・・・)

というわけで、本作同様、個人的な観賞体験もやや場外乱闘気味ですが、以下本編に関する雑感を(ネタバレ含む)。

◆冒頭から前半の過剰なスピーディ展開はなかなか見所濃縮で、この夏『風立ちぬ』に唯一対抗できるモブ!やはり大スクリーンに映える画や動きを大スクリーンで観る快感こそ映画的醍醐味だし、自宅でまったり観てると冷めてしまいそうなご都合主義だって、映画館のスクリーンを眺める群集をグイグイ引っ張っていくようなアドレナリンを存分に大放出。そんな高揚感に安心感(そこが、マーク・フォスターの良くも悪くもなところかも。「大丈夫?」って不安と「やってくれるに違いない」って期待がせめぎ合いながら蛇行する感じが個人的には好み。)

◆警官があっさり職務放棄してたり、市民は守らなくても美術品は守ったりする「人間的」な権力の在り方をさらりと見せたりするところも好き。あと、評価分かれそうだけど、大統領が既にあっけなく死んでいるという事実をいいことに、政治がほとんど無力というか機能不全状態になっているのも話をシンプルにして好かったのかも。但し、その反動としてのアナーキーな無秩序が慄然として描き出されないところには物足りなさも感じたり。そう、総じて助走(合理性)と飛躍(破綻)の往来によって生じる興奮成分が足りなかったな。(観てる間は自然と見入っていたけれど)

◆子供の扱いの投げやり感。娘が喘息だって設定も、序盤のドラッグストアで終了。たまたま匿ってくれた家族の長男がブラピ一家と共に脱出する(ブラピは映画のなかでも養子を引き取る!)感動エピソードも、以後活かされず。(あの少年の活躍を密かに期待してしまったよ・・・なかなか好い眼してたしさ。)というか、映画のなかでは主人公がアメリカを発ってからの家族は物語的に大して機能するわけでもないのだから、むしろラストまで隠しておいた方が存在感が増しただろうに。ちょくちょく挿入されると気が散るし、実際禍因を招いたりもするわけだし。画面に出したとしても、連絡とれないままの方がスリリング。

◆自分たちを匿ってくれた家族にブラピが「Movement is Life」みたいなことを語ってて、「これは映画のテーマに違いない!」と勝手に脳裏に刻んだものの、それはただの期待に過ぎなかったという話。あれだけ頭から動きまくってたんだから、もっと最後まで動きまくって欲しかった。

◆北朝鮮は全国民の歯を抜くことで感染を鎮めた・・・なんて話が確か出てきたと思う。そうか、「噛みつく」っていうのは「革命」的な行為なんだよね。つまり、ゾンビにもそうしたメタファーがあるってことか。例えば、「不死」を憧憬する「反死」(「死」の存在を遠ざける)な人類に対して、「非死(Undead)」による逆襲が展開されるという。虐げられた「死」からの復讐であり、闇雲に貪欲に希求する「生」の反乱でもある。

◆陪審員制度の正当性(「俺は10番目の男だ」)やらシートベルトによる安全性(飛行機墜落前にシートベルト締めるブラピ)、「No Pepsi No Life」というこれ見よがし。とにかく、いろんな宣伝が入りすぎ、しかも見得切り的過ぎる。流れや意識の断絶が起こってしまう、

◆イスラエルで壁の中になるべく人間を入れようとする策の理屈「人間を一人救えば、ゾンビが一体減る」って発想は好いなって思ってたのに、それも大して活かされず。ま、でも、そんな理想にちょっぴりジーンとさせておいて、お祭り騒ぎで浮かれていたら、その音がゾンビたちを呼んだり奮い立たせちゃったりするって「自業自得」感(しかも、悲壮感をむやみに漂わせないところは面白い)は好い。

◆「人類の危機」映画においては、長らく人類(文明)の勝利がお決まりの結末(あるべき結論)とされて来ていたが、最近では『地球が静止する日』や『2012』のように原因が解明できなかったり手の施しようがなかったりして「とにかく逃げる(遠ざかる)」という結論が新たな趨勢となってきていたように思う。それは、大戦から冷戦へと「戦争」こそが平和だった時代から、別の手段を模索する国際社会の情勢と連動するものなのであろうけど。本作が興味深かったのは、「自業自得」感を根底に置きながら(前日公開の『パシフィック・リム』も同じだし、最近は「自戒」モードを前提にすることが多い)、ついに「負けるが勝ち」という方向性に向かい始めたというところ。「生物は、弱さを強さと偽ろうとする。そして、実は弱さこそが強さにもなり得るものなのだ。」これも、もっと活かせる主張だったのに、と私は思う。

◆「自業自得」感といえば、今まで散々命を救い平和を生み出してきたはずの銃が、本作では身を破滅させるものになるというのは興味深い。銃を撃つと、その音で獲物を見つけ出すゾンビ。死という圧倒的絶対的静寂を厭う文明人は、とにかく音のなかに身を置き誤魔化そうとする。そして、静寂によって初めて騒ぎ出す「内なる声」が聞こえ出すことを防ぐ。他方、外からの刺激(音)がないなかでは目的(対象)を失うゾンビたち。彼らには静寂の中で聞こえるはずの「内なる声」がない。つまり、人間の生死(人間であるか否か)を決めるのは、身体が動くか否か、あるいは感覚器官が機能するか否かの問題なのではないということか。人間とは何か。それは数多のゾンビ映画で提示されているテーマでもあると思うが、本作においてもそうした考察は可能。本作を包む静寂の意味は、そういったところにあるのかもしれない。

◆同様の観点からは、病を遠ざけることこそが至上命令であり続けてきた近代文明への批判、革命としての「病の注入」こそ、排除から共存へのシナリオの一部だったりする。そんな主張がこめられているのかも。


あれこれ考えているうちに、色々と面白く振り返られてしまったみたい(笑)

そういえば、本作の音楽はマルコ・ベルトラミが担当しているのだが、実は本作で最も印象に残るのは前述のMuseとThis Will Destroy You。This~の楽曲は、『マネーボール』でも随分と印象的にフィーチャーされてたし、ブラッド・ピットのお気に入りだったりするのかな。ま、俺も好きなので今後もうまく使ってください。(このあたりのチョイスは、 『28日後...』の選曲に通ずるというか重なるものを感じたな。あ、でも、どうやら『ウォーキング・デッド』でもThis~はフィーチャーされてるらしいので、そこ由来という線もあるのかな)

World War Z × Muse