2013年8月8日木曜日

さよなら渓谷

原作本(新潮文庫)の解説を、映画監督の柳町光男が書いている。その結びで柳町氏は、「『さよなら渓谷』は映画監督を刺激する小説」と言い、「小説を読んだ映画監督たちは、それぞれが様々な映像を頭の中で編み上げることだろう」と語る。そして、それは「吉田修一がこれまで観てきた数多くの映画が彼の血となり肉となって」いるからだと論じて終わる。共感できる。確かに、吉田修一の小説はきわめて映画向き。というより、作者のなかにうまれた映画をノベライズしているような印象すら受ける。そのためか、私にとって極端なまでに読みやすい作者の一人でもある。吉田修一のなかでうまれた映画を読者は受け取っている。だから、そうした「原作」の映画化は実は最初からリメイク的宿命を負っている。「オリジナルとの訣別」という覚悟から始めなければならない。

近年映画化された吉田修一の作品はいずれも、原作既読で観賞に臨んできた。上から目線の一言感想述べるなら、『パレード』は健闘、『悪人』は無難、『横道世之介』は愉楽、そして『さよなら渓谷』は堅牢。

今年に入ってから、特に好みでもなかった監督や苦手意識の強かった監督の新作を心底楽しむという僥倖が続いた。『横道世之介』に始まり、(当初は観ることすら躊躇った)『舟を編む』や『真夏の方程式』。この傾向、実は昨年末の『ふがいない僕は空を見た』から始まっていたような気がする。そして、その『ふがいない~』の撮影が実は、大森組の大塚亮であることを観る直前に知る。

撮影は16mmらしい。35mmよりも可動だけれどもデジタルよりも重厚、そんな具合が本作の落ち着きと落ち着きのなさを好い塩梅で同居させているのかも。ただ、そういった印象は別に画からだけ受けるものでもなかたようだ。私が直感的に極度に苦手を意識し続けて来た大森立嗣という監督とは、ひとつめのボタンからかけ違えるような相性なのだと改めて認識した。

批評的にも世間的にも随分と好評を博しているという事実は知っているし、それに異議を表明したいとか、ましてや覆してやろうとかいう気概もないけれど、強烈な違和感の捌け口として以下愚痴る。

まず、役者および演技が全く以て設計違い。あくまで、私の主観のそれとだが。とりわけ尾崎俊介役の大西信満が不可解。スターダスト所属で若松孝二の寵愛をうけるという、とんでもない「実力」者らしいのだが、はっきり言って吹替希望。まぁ、表情も気恥ずかしい学芸会だけど、懸命さを感じられる分だけ耐えられる。しかし、「棒読みのお手本」みたいな話し方のどこが好いのかわからない。男根を感じさせなければならない役柄で、終始大根、全力少年。彼に比すれば、たわわな胸の分だけは、いささか重みは生じるものの、真木よう子だって吹替希望。一本調子な盲進入魂ぶりには辟易してくるし、それ以前に何言ってるかわからんよ。方向性以前の問題。本作はモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を授与されたらしいけど、確かに字幕で観た方が好いかもしれない。

一方の大森南朋(監督の実兄)や鈴木杏は、いつも以上にちゃんと演じてる印象。特に、鈴木杏は『軽蔑』の悪夢を払拭してくれるポテンシャルの香り。鶴田真由はきっと「唯一『普通』に近い存在」として置物的に機能させたかったのだろう。まぁ、役目果たしてますよ。三浦誠己とか井浦新とか好きな役者は少ないながらも出番を楽しめたし、画も音楽もなかなか好み。

だから、本作が立派であることは認めるが、大森監督とは根源的に合わないようだ。本作が小説の映画化で、原作を既読で臨んだ故に、それがより明らかに実感できた。原作の映画化とは、原作の解釈を呈示することでもあるので、大森監督の解釈(もしくは、そこから読み取れる考え方)が本作には露わになっており(脚本も共同で書いている)、そうした部分で特に感じる「すれ違い」が驚くほど鮮明に。(以下、物語の内容に思いっきり踏み込んで書きます。)

最も顕著だったのは、映画版においては主役の二人を加害者と被害者として明瞭に位置づけている点。私の読みに限ったことかもしれないが、原作ではその線引きを如実に避けていたように受け取った。なぜなら、尾崎俊介は「事件」のその時にはっきりと強姦であるという自覚がなかったように読めるから。それは感覚の麻痺としてではなく、相手が自分に少なからず好意をもっているという自認があったからで、実は相手(夏美)の方の「事件」発生以前の好意の自覚がさりげなく強調されているようにも思えて読んだ。そして、そうした描き方が二つのテーマを浮かび上がらせているように私は読んだ。

まずは、吉田修一の作品を貫く「マルチ・バース(『パレード』で語られる、人は結局のところ各々の宇宙内で生きているという世界観)」の孕む問題が、いつも通り通底してる。本作にはそこに、「社会」という文脈が横たわる。男の傲慢や都合の好い妄想が加わって、加害もやむなし的に社会に「許される」男(それに甘える男や、気づかぬ男もいるし、そこに違和感をおぼえる男=尾崎俊介もいる)。一方、依然社会的弱者である女はといえば、被害者であってもその誘因を問われてしまい、社会はけっして「許さない」。後者の傷みや苦しみはしばしば描かれる内容ながら、前者のような視点は些か新鮮だった。また、そうした二者は通常、分断・対立させることで相関や対照性を問題にする。しかし、この小説ではその二者が互いにミッシングピースとして「機能」する。そこに真実を見出そうとする。二者を対立させないかわりに、社会という次元と個人という次元を峻別してる。社会に「許される」なら、個人の罪悪感も拭われるのか。社会が「許さない」なら、個人はひきずり続けるしかないか。そうした問に答えるために、二人は暮らす。ただ、俊介が自らのマイナス(ネガ)を相殺するためにマイナス(ネガ)の夏美と暮らそうとしたのに対し、女はマイナス(ネガ)の夏美と訣別するためにプラス(ポジ)の「かなこ」(強姦を免れた方の名前)で生きようとした。プラスの「かなこ」なら、いくらマイナスの俊介と交わってもプラスに転じることはない。俊介がプラスに転じるなど許せない。しかし、俊介はマイナスの夏美を抱いて、自らのマイナス(ネガ)が束の間プラス(ポジ)に転じる夢を見る。それは違うと必死に思ってきた夏美だが、「かなこ」ではなく夏美として心身が俊介と交わり始めることを識る。そんな現実が意味するところに耐えられない。俊介の煩悶は随分具に語られる一方、夏美の想いはどこまでもグレイ。夏美自身も解りかねた想いは当然、俊介も読者も量りかねたまま。しかし、その灰色こそが、白黒しかないシステム(社会的制裁の場となる裁判)からこぼれ落ちたまま「解決」してもらえない罪の性根。自らの黒を認めたくないのか認められないのかすら判然としない俊介は、自らの内に白の存在を認めてしまうことだけは確かだし、もう真っ白とは思えない夏美は自らのどこに黒を認めて好いかすらわからない。結局二人は互いにグレイ。そんな存在を世間は勿論のこと、自分自身ですらも持て余す。ならば二人して交わって、正真正銘のグレイになれば好い。禊ぎのない沐浴、終わりのない贖罪。

ところが映画では、前述の通り「被害/加害」の立場や色分けが随分と明瞭にされている。そうした意図は、強姦の場面そのものを直接映していることから明らかだ。その様子は明らかに肉欲のままに犯している男と、その犠牲となる女の構図。これは、以後観客には「加害者:俊介」「被害者:夏美(かなこ)」として観てもらうための要請で、贖罪と赦しの物語としての宣言にも思えてしまう。確かにその方がわかりやすいし、ドラマ性も十分だ。被害者オーラの大西と加害者オーラの真木という、たすき掛けなキャスティングも絶妙になる。そして実際、それらの思惑は見事に成功してる。しかし、私は同じ原作に全く異なるテーマを読み、全く異なる問題意識で臨んでいた。そんなものは単なる差異に過ぎず、それは当然の現象だ。でも、そこから私は、大森監督が見る人間の現実と私のそれが見事に乖離していることを痛感した。『ゲルマニウムの夜』を観たときの決定的な違和感は、本当だった。それに納得できた。不満ではない、すっきり感。或る種の解放感。

大森監督との「すれ違い」をはっきり感じたもう一点は、強姦事件でその場にいた後輩・藤本の描き方。原作での藤本は、純粋に「無邪気」であり「無垢」なのだ。そして、それは「健全」を建前とする社会においてはスムーズに許容どころか受容され、本人も至って「前向き」なのだ。御曹司ゆえの鷹揚さというエクスキューズを隠れ蓑に、社会が限定発行している(しかも、いくつもの等級をもつ)免罪符をちらつかせる重要な脇役(社会においては主役だが)の藤本は、物語の屋台骨を支えている存在として印象深かった。ところが、映画版で新井浩文演じる藤本が見せる屈託のなさは、無神経の産物のようにカリカチュア。やはり大森監督は、グレイを黒と白が混じり合い重なり合ったものとして描くより、黒と白のせめぎあいをグレイとして魅せようとするやり方なのだろう。

他にも、渡辺(大森南朋)が原作では主役と同程度にメインで描かれており(彼の過去なども語られる)、彼の眼を通して二人を観ることで生じる或る種の共感や自戒が物語の奥行や余韻を生みだしていたのだが、そうした「軸」が取り払われていたのも残念だった。

一方で、細かな描写や演出には確かに唸らせられる瞬間が何度も訪れた。画面に映るものすべてに奇妙な実在感があり、それは異様に美しい青をみせる扇風機から、室内の弱い光でこそ「存在」する埃まで。夜のグラウンドに侵入する場面では、大学生たちが情欲から女子高生にフェンスを乗り越えさせた(過去)という真相を、渡辺(大森南朋)が施錠されていない扉を開ける(現在)ことでさりげなく示唆。繊細そうで実は直截な呈示にはたびたびハッとさせられる。

ただ、時折それがやや下品に感じるというか、過剰な直截表現で残念なこともある。(例えば、尾崎たちが所属していた大学野球部のサイトのトップページに部訓(?)として「因果応報」のデカイ文字があったりとか。) 最大の「やりすぎ」はやはり、真木よう子の唄だろう。しかも、ラストのあの場面の直後に流れてくるという無神経。歌詞が物語に補完や奥行を与えるならまだしも、「人はいつも坂道の途中期待を抱え上がり下がり」とか「今日は何かいいことがありそう」などと夏美が歌うのだ。人生を謳ってしまうのだ。これまた海外の観客の方が「恵まれて」いる一例(歌詞もわからないし、歌うのが「夏美/かなこ」であるとわからないだろうから)。

「すれ違い」ばかりを確認してきてしまった感想ながら、実は「ぴったり」だったところがある。それは、二人が温泉に入った後に寛いでいる場面。原作を読みながら私が思い浮かべていた場所(もえぎの湯)がまさに、本作でのロケ地だったのだ。そして、あの吊り橋もおそらく私が思い浮かべた橋と同じはず。一度しか訪れたことのない場所ながら、原作での描写から私の頭に浮かんだ光景は、まさに本作のそれだった。(まぁ、実際、原作の描写からそもそもあそこが想定されてたようにも思うので、当然の帰結なのかもしれないが。)


◇苦手な監督の新作であった為、また原作が積読状態だった為、当初は観賞予定に入れていなかった本作。それでもやはり観る気になるも、その頃には観たかった劇場での上映はなくなりかけていて・・・そんななか、吉祥寺バウスシアターでのレイトショーが始まった。しかも、シアター1。夏の夜、バウスのシアター1でまったりゆったり観る映画。初めてアサイヤスの映画を観たのがやっぱりそんな状況だったし、ブログ始めたばかりの頃に観たソダーバーグの2作(『ガールフレンド・エクスペリエンス』と『BUBBLE』)も同様。そして、この『さよなら渓谷』も、夏の夜の吉祥寺バウスシアター1で観るにはもってこいの逸品だった。作品自体に不満はあれど、観賞体験そのものは実に愛おしい極私的理想型の一種。夏に観るレイトショーってなんか好い。終わった後の閑散とした街の空気も好い。昼間に生命力ありすぎる夏だから、夜は毎日祭りのあと。映画終わった後の内的世界とシンクロする感覚。