2014年10月23日木曜日

2014東京国際映画祭 1日目

『ロス・ホンゴス』(Los hongos



監督は、オスカル・ルイス・ナビア()。長編二作目にあたるとのこと。コロンビア・フランス・ドイツ・アルゼンチンの共同製作ということからもわかるように、映画祭を中心に地道に活躍している若手気鋭監督のようで、一作目もベルリン国際映画祭などなどで上映され、本作も今年のロカルノ国際映画祭でワールドプレミア(東京国際映画祭では、アジアンプレミア)。新人のコンペ(第一回or第二回監督作が対象)で審査員特別賞を受賞していたりもする。

落ち着きがあるんだか無いんだかハッキリしない作風に、どことなく所在なさを覚え、自分の中の仕舞うべきフォルダが見つからないまま淡泊に眺め続けた90分。しかし、最後の最後のシークエンスで心の空隙鷲掴み。それまでのあらゆる要素が共鳴、反響。

上映後のQ&Aで登壇した監督も、随分と誠実な好青年といった趣ながら、信条と信念を落ち着きながらも溌剌と淀みなく語る姿が頗る好印象。あらゆるものを吸収したい、そしてあらゆるものを呼吸したい。そんな想いが滲み出る表情は、映画のもつ表情として反芻された。

本作は、監督の祖母が癌で亡くなったことを一つの契機とし、《LIFE》をめぐる監督なりの想いがひとつの形となって生まれた作品のよう。作中に出てくるカルヴィンの祖母役は、監督の実際の祖母の姉妹が演じ、カルヴィンの父親役は、監督の実父だったりするらしく、そうしたところにも監督にとっての本作への思い入れが感じられる。また、主役二人はプロの役者ではなく、地元の高校で900人以上の面接(監督曰く「ディープ・インタビュー)を行い、厳選したという二人。確かに、ヴィジュアルや佇まい、或る種のアウラも見事に本作を生きるに唯一無二なものを持つ。というか、監督が言うには、「彼らは彼らとして作品に存在している(意訳)」し、それが監督なりの「語り方」なのだという。(役名は、彼らの実名でもある。)

〈現実〉とは、いまこの瞬間に世界のどこかで誰かが殺されているかもしれないということであり、いまこの瞬間に此処にいる人たちが想い想いに思いを巡らしていたりするということ。つまり、無数のユニヴァースが無数のまま在ること。そのように監督は語っていたように思う。そして、そうした〈現実〉観でもって、映画もつくりたいとも語ってた。なるほど、確かに、本作においては、あらゆる要素は全くもって「統御」の力から自由である。オープニングもエンディングも、クレジット画面においてはフィルムの「損傷」のような傷みや歪みが施され、意図的な破壊はしないけど、自然の重力には逆らわない、そんな整然の虚を突く無礙なる表明。

主人公の二人がのめりこむグラフィティは、反抗とか抵抗とかといった大仰な自己実現などではない。勿論、全くそうした意識が皆無なわけでもない。冒頭で、主人公の一人は活動家のポスターの顔をペンキで塗りつぶすのだが、それが壁づたいをあるくときの自然な「手ざわり」のように為されるという〈意識〉がそれを象徴しているようにも思う。ただ、大きな物語はあくまで後景なのだろう。途中、カルヴィンの祖母がアルバムをめくりながら過去を語るのだが、それはコロンビアの、ある町の過去であると同時に、祖母自身の過去であり、それらの過去はあくまで祖母自身(個人)が起点で在り終点である。そして、それは自らの外部にある「背景」をまといながら、どこまでも自らの内部で育まれ刻まれ遺った物語。

作中で描かれるグラフィティも、プロテストなどの意志よりも、彼らの夢見る世界の展開だ。

水中革命。途中、想い想いの夢見る世界が集合した「壁画」。それらが実現するかのごとき、水中遊戯の「現実」感。水との戯れ、そして大木との時間。平面にとじこめられた、描くだけの動きに飽かぬ先、待ち受けた悠然たる身体の安らぎと躍動と沈潜。

ラストに出てくる大木は、監督によると「サマン」という樹齢200年以上の木なのだとか。「この木何の木?」の日立の樹はモンキーポッドというが、学名に「サマン」が入ってる。おそらく同属な木なのかも。にしても、あのフォトジェニックには抗し難い自然の説得力。しかし、彼らの描いた木も負けてはいない。なぜなら、彼らを閉じ込めた、彼らが閉じこもってた「壁」からいよいよはみ出し、「越境」の合図となったのだから。人間の内部の自然が解放されるとき、自然は人間に開放されている。


監督の一作目(「El vuelco del cangrejo」)も観てみたい。