2013年8月24日土曜日

ダニス・タノヴィッチの劇場未公開作

現在開催中の第19回サラエボ映画祭今年のコンペ審査委員長は、ダニス・タノヴィッチ。彼の初長編作品『ノー・マンズ・ランド』はカンヌでの脚本賞を皮切りに、実に多くの賞に輝いたが、批評家と観客の双方から賞賛されるという稀有な結果が作品のもつ普遍性が傑出したものであることを証明しているように思う。オムニバス『セプテンバー11』への参加を経て撮り上げた二作目『美しき運命の傷痕(L'enfer)』は、キェシロフスキによる原案だったが、大河でメロなドラマの華麗なる収斂ぶりに、キェシロフスキ自身が撮るよりもよかったのではないかとさえ思ってしまったものだ。(キェシロフスキ脚本をトム・ティクヴァが監督した『ヘヴン』を観た時も、実は同様の感想を抱いたりもした。)

個人的にも新作を楽しみに(というか絶大な信頼をもって期待)したい監督の一人となったダニス・タノヴィッチだったのだが、その後、新作公開の話が全然入ってこず、今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ&男優賞)に輝いたとの報に驚く。その「An Episode in the Life of an Iron Picker()」は上映時間も75分と小品のようだが、ロマの家族に起こる悲劇を社会的背景と絡めつつ力強い問題提起がなされていそうでまたもや傑作の予感。






日本での劇場公開は見送られてしまったものの、タノヴィッチはその「An Episode in the Life of an Iron Picker」の前に長編を二作撮っている。そのうちの一本、「Triage」(2009)は『戦場カメラマン 真実の証明』として日本でもDVD発売され、WOWOWでも放映された。録画したまま永らく放置してしまった私だが、ようやく観てみると実に素晴らしい。従来のダノヴィッチ作品に比べると派手さはないし、戦争映画としての声高な主張も回避されており(戦争という事象より、人間という存在に焦点)、確かに地味な作品ながら、複雑な当事者性が錯綜しながら描かれる矛盾と葛藤は、個人の尊厳の根幹に分け入ることを決して辞さぬ。欧米における戦争映画は、自虐と自戒という受け皿以外で受容されることは難しいのかもしれない。つまり、「わからない」ことを「わからない」まま描くことはタブーなのだろう。是非に関わらず、判定、裁定、そして断罪、贖罪。そのいずれにも逃げない語り手と向き合うとなれば、赦しなきまま問題を見つめ続けることが求められてしまう。そして、本作における主人公に迫られた覚悟こそが、まさにそれなのだ。

原題にもなっている「トリアージ」とは、多数の負傷者が発生した際、現場で傷の程度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。主人公のマークと親友のデイビッドは取材で訪れたクルディスタンで、トリアージを日々目の当たりにする。そして、治療のための優先順位から外される「青い札」の存在を知る。青の札が置かれた(ここでは)手の施しようのない負傷者は、「安楽死」ために、銃殺される。医師自身の手によって。そうした現実に対する疑問はやがて、自らの激しい苦悶の日々に重くのしかかる。マーク(コリン・ファレル)が負傷し帰国するまでに、一体何があったのか。何が彼を苦しめ、何が彼を追い詰めるのか。真相を小出しにするようなギミックではなく、主人公の深層に観客が入り込むのを焦ることなく待っている。やがてマークの恋人エレーナ(パス・ベガ)の祖父(クリストファー・リー)が水先案内人として現れると、正面から扉を開ける手助けをしてくれる。しかし、極めて上質な「省筆」が慎重に選択されており、そこにはいくらでも書き込む余地がある。「経験していないことを責める経験者」マークが責めていたのは、結局「経験している自分」だったというパラドクス。経験をもたない外部の者(傍観者)は、当事者に何ができるだろうか。

◆主人公のマーク・ウォルシュは写真集を出版していたことがあり、そのタイトルは「ALONE」。恋人の祖父がそれを捲る場面がある。マークがかつてシンパシーを描いた心象風景にシンクロした現在。孤独に幽閉された彼を救おうとする恋人もその祖父も、あるいは彼の親友もその妻も、皆が皆、孤独であるという事実が刻まれていている。相対的な悲哀も寂寞もそこにはなく、だからこそ主人公だけが悲劇の渦中にいるわけではない。生きている人間は等しく「渦中に生きる」のだ。映画の最後に浮かび上がるプラトンの言葉。It is only the dead who have seen the end of war.

◆マークの恋人エレーナは、彼を救うために祖父ホアキンを呼び寄せる。ホアキンはかつて、フランコ独裁政権の手先となった者たちを「治療」した経験があるようで、エレーナはそのこと自体に耐えられず、祖父のことも赦してはいなかった。ホアキンの仕事をエレーナは「beautify(美化)」と呼び、ホアキン自身は「purify(浄化)」であると弁明する。相手の言い分にも真実が宿っていることに各々気づいている。それが彼らの対話には滲み出ている。祖父の「赦し」を、孫は許せないが、祖父の「赦し」は相手に与えているものではない。同時代を生きた者同士としての自責の共有であり、肩を貸しているに過ぎないのかもしれない。そして、それは自らが背負わずに済んだことに対する罪悪感に対する処方だったのかもしれない。世代間にうまれる歴史認識の齟齬。それは軋轢や不継承に発展させるためのものではなく、それがあってこそ可能になる過去との対話。常に異質であるはず(べき)の過去。互いに許容される範囲で、許容をベースとしながら、対話を始めたところで過去とは向き合えない。それは主人公マークの背負った「過去」にも通じることで、ホアキンはマークに言う。「他人に赦しを求めても、痛みはかかえ続けるしかない。それが生きるということだ。」

◆マークが眠っているベッドの傍らにいたホアキンが、目覚めたマークに言う。「随分と安らかな寝顔をしていたよ。」「それは好い傾向だろ?」というマークに対し、「いや、むしろ悪い兆候だ」と答えるホアキン。平穏(peace)な寝顔は悪い兆候。悲劇からは目を背け、現実には目を瞑り、平和な眠りを貪る者たちは、無自覚のまま犠牲を強いる。

◆終盤の会話のなかで出てくる、カメラをもつことで被写体との間に境界線(「国境」ともかけている)ができるという喩え。そのことで、対象が現実(ファインダーの向こうにだけあるものではなく、自ら実際に働きかけてくる力をもった)であることを忘れ、死にもつながると捉えるマークに対し、ホアキンは「それが身を守る」こともあるのでは?と告げる。いずれにせよ、どちらも自己防衛のための境界線であることを示唆しているように思う。しかし、自己防衛こそが自滅へのシナリオを裏書きしているという真実をも含蓄した言葉にも思えてしまう。

◇ファイン・ヤング・カニバルズの「Johnny Come Home」が流れるのだが、これはもしかして『ジョニーは戦場へ行った(Johnny Got His Gun)』を意識しての選曲だったりする?

◇本作のエンドロールで灯る「アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックに捧ぐ」の文字に胸が熱くなる。つい先日、彼らが製作した不遇の傑作『マーガレット』(存命中に完成せず、訴訟も経ながら一昨年にようやく日の目をみた)を観たこともあり(当然、こちらにも同様の言葉が)、奇しくも同年(2008年)に亡くなった彼らの存在の大きさを噛み締めつつ激しく惜しむ。とりわけ、アンソニー・ミンゲラは享年54歳。監督としての矜持を持ちながら、プロデューサーとしての領分を弁えた二人の仕事はきっともっと傑作を産み出し続けられたはずだろう。

◇役者のアンサンブルが実に好い。主役のコリン・ファレルは例の「流出」で大変な時期だったのだろうか。最近では出演作の質量ともに充実し始め完全復活しているが、この時期の彼もなかなかだ。スキャンダルがなければ本作ももっと世に出ていけたかもしれない等とすら考えてしまう。恋人役のパス・ベガ(ニコール・キッドマンがグレース・ケリーを演じる「Grace of Monaco」ではマリア・カラスを演じる)の抑制の効いた愛情の震動は確かな波動だし、彼女の祖父役クリストファー・リーの説得力たるやまさに神がかり的。親友の妻を演じるケリー・ライリー(「犯罪捜査官アナ・トラヴィス」!最近だと『フライト』でも好演してました)の存在感が適材感。序盤で僅かな出演ながら抜群の存在感を残すクルディスタンの戦場の医師役ブランコ・ジュリッチ。『ノー・マンズ・ランド』で主演した彼は、ロックバンドや劇団も主宰する才人で、もうすぐ公開のアンジェリーナ・ジョリー初監督作『最愛の大地』にも出演していたりする。

原作の内容について詳しく描かれた記事があった。是非、読んでみたい内容だ。映画が劇場公開されていたら、日本でも出版されていたかもしれない・・・