2013年6月28日金曜日

フランス映画祭2013

横浜時代の華々しさに比べると、ややこぢんまりな六本木時代、そして縮小傾向で迎えた有楽町時代はいよいよ映画祭から先行上映会に!? そんな危惧も高まりつつあった昨今のフランス映画祭。今年も公開決定済の作品がズラリとならんだ上映作品群。上映される11プログラム(新作実写)のうち、実に8つが劇場公開決定済。とはいえ、今年はゲストが(ここ数年では最も)華やかな印象で、かつての輝きをやや取り戻した感はややあるかもしれない(「濁し」ワード頻発しすぎ・・・)。

オープニング作品は、昨年のサン・セバスチャン国際映画祭でグランプリを受賞したフランソワ・オゾンの新作(最新作は、今年のカンヌに出品)。色んな映画祭でちょくちょくちょこっと受賞してきたりはしたものの、一等賞のご褒美は初めて!?ということもあり、どんな作品に仕上がっているか、興味津々(彼の場合は、数パターンの作風というか方向性があって、どのタイプかによって私的嗜好との相性が多少変わってくるので、実際観るまで妙な緊張感)。などという以前に、映画を観るようになったのが遅かった(大学に入ってしばらくしてから)自分にとって、初期の段階からリアルタイムで作品を観て来られたお気に入り監督はそれほど多くなく、そうした稀少で貴重な存在であるフランソワ・オゾン本人が登壇するということ(そして、それを拝める!ということ)がこのうえない達成感を予め約束してくれてはいたのだが。

ただ、フランス映画祭の前売券発売当日は仕事が入っており、購入できたのが昼過ぎだったもので、残念無念の最後列・・・。しかし、そんな寂しい気持ちを『In the House(Dans la maison)』の主人公クロード(生徒の方)が労ってくれたりしたのだった。そう、彼は「いつでも最後列に座る」設定。まさに、最後列で観るべき映画(と勝手に思い込む療法)。

序盤から傑作の香りが立ちこめていたものの、オゾン色ともいえるキッチュな寓話性が次第に高尚さを帯び始める気配を感じ、後半はやや戸惑いながら観ていた気もするが、如何せんこの日は疲労の蓄積がハンパなく、そのための「朦朧」だったかもしれず・・・

直後のレイトで上映され、あちこちで「傑作!」の声があがりまくりのギョーム・ブラックの『遭難者』『女っ気なし』もウトウトしながら半分意識とびながら観てしまったからね・・・或る意味、そういった状態が「適当」な作風ではあったんだけど、いやはや不覚。幸運にもユーロスペースでの公開が決まっているし、早く観直し(?)たい。でも、公開が秋らしいんだけど、(ちゃんと観てないくせに、こんなこと言う資格ないかもしれないけど)これは夏のレイトショーで観たいなぁ~としみじみ思ったり。

2日目も昼過ぎまで仕事だし、このままだとフランス映画祭は爆睡映画祭と化してしまいそうな予感があったので、夕方のジャック・ドゥミ長編処女作『ローラ』を観に行く前に仮眠。昨年はエナジードリンクに依存気味になりかけたものの、仮眠に比べればレッドブルもモンスターも気休め程度(当人比)。そして、頭クリアで臨んだ『ローラ』に完全魅了の洗礼済めば、上映後に登壇した秦早穂子氏のトークに感動しきり(昨年のフィルメックスで審査員を務められた際のインタビューでの話にも心揺さぶられたのは記憶に新しい。『影の部分』を未読であることを猛省)。ヌーヴェルヴァーグという華麗なる物語が、極めて現実的な葛藤や相克の上にかろうじて僅かばかりの花を咲かせた結果(一握りの栄光)であるという真実を、冷めることなき情熱で冴えまくる彼女の言葉に、観客はどこまでも醒めまくる。

『ローラ』を初めて観たときの状況(ゴダールらも同じ試写室で観たとか)を熱く語り、観た直後の様子を司会者に聞かれると、「そりゃぁ、皆、無言ですよ」。「最近の試写は本当に好くない。観終わるとすぐに『どうでした?』なんて聞いてくる」と、胸がすくような真実の人。映画を、特に素晴らしい映画を観終わったあとは、しばらく一人で色々と考えたい。その時間こそが大切。そう彼女は語っていたが、私も(便乗するのも烏滸がましいが)まさしく同感で、私が映画を独りで観るのも、知り合いを見かけても極力隠れる(笑)のも、そうした理由だったりすることを再認識。

作品のみならず、上映後のトークまでが魅了に充ちた時間だった故、レイトの『テレーズ・デスケルウ(Thérèse Desqueyroux)』を観るのに些か気が引けた。しかし、観ればそこには別種の充実底力。クロード・ミレールの遺作となった、モーリアック原作の映画化。クスリともしない、魂を抜かれた女の沈黙の断末魔、オドレイ・トトゥの新境地。文学の映画化というより、映画版文学。日劇の大画面で観られることの必然性に震えてしまう、画の言葉。是非劇場公開して欲しい。そして、原作を読んでから再見したい。

3日目は、昨年の極私的最熱狂作家ラウル・ルイスの遺志を継ぎ、彼の妻であるバレリア・サルミエントが監督を務めた『ウェリントン将軍~ナポレオンを倒した男~(仮)』。昨年日本でも公開された『ミステリーズ 運命のリスボン』にも通ずる乱舞するクロニクル群像劇であったりもして、ラウル・ルイス仕様のつくりではあるものの、決定的に本家とは異質な模造品的仕上がりにがっかり。次から次へと感嘆の連続でつながれる美麗な画が一向に心に突き刺さらない。ちなみに、仮題である邦題は絶対に変えるべき(というか、さすがに変えるだろう)。ウェリントン将軍が主役でないどころか、脇役ですらないし、原題は「Linhas de Wellington(英題:Lines of Wellington)」。つまり、ウェリントン将軍の戦いにおける「前線にいる者たち」の生き様や死に様を描く物語。

『アナタの子供』は、前回記したように、見事な映画的幸福に完全降伏。

だからこそ、レイトの『黒いスーツを着た男(Trois mondes)』は観ないで帰れば好かったな・・・でも、前売を買ってしまっていたもので。これも邦題が好くない。響きは好いよ。でも、この邦題だとノワール的なイメージを与えるし、そうしたスリルだったりダンディズムに魅せられに行く作品と勘違いしそうになるだろう。というか、実際てっきりそうした「物語」だと思ったら、原題(三つの世界)が表すように(とはいえ、リサーチ不足で後から知ったけど)、ひき逃げ事件の三者三様(加害者・目撃者・被害者家族)を滋味あふるる丁寧さでもって交錯させる人間ドラマ。邦題によるミスリーディングという副作用もあったものの、個人的にピンとこない語りだったようにも思う。主演のラファエル・ペルソナ(ペルソナーズ表記は誤りとのアナウンスからQ&Aはスタート)は、憂いをたたえ続けることで味わいが増し続ける薄幸ハンサムさんだけど、登壇した本人は善人オーラ全開で好印象な半面やや拍子抜けというか・・・アラン・ドロンとは作品の中だけでしか会ってきてないのが好かったのかな、なんて。でも、きっと役者としての真摯さは相当なもののようだし、好い作品に出会って大きく飛躍するかもしれないな。

ちなみに、『黒いスーツを着た男』のQ&Aで通訳を担当された女性が驚愕の危険運転でとにかく冷や冷や、いやイライラ。直前回(ドワイヨン登壇)の通訳が福崎裕子さんだっただけに、余計。(福崎さんの仕事は、本当にいつもいつも最上の架け橋で、毎回しきりに感謝感服しっぱなし。)

今年はなぜか最終日が月曜(平日)という開催期間の変則。たまたまスケジュール的に観ることのできた『椿姫ができるまで(Traviata et nous)』。粗筋は知りながらも、舞台(オペラ)自体は観たことのない『椿姫』。今秋にシアターイメージフォーラムで公開予定だが、必ず『椿姫』の内容は予習しておいた方が好いし、できればオペラも観ておくと好いと思う。その辺は「わかってる」ことを前提につくられている、というか、それでこそ『~できるまで』をじっくり味わえるのだろうと思うから。

上映後には監督のフィリップ・ベジアと、演出家のジャン=フランソワ・シヴァディエが登壇してQ&A。いつもと違った客層(有閑マダム中心)ということもあって、妙な和やかさと寛容が漂うなか、リラックスした語りで充実した話が聞けた。その内容を踏まえて、もう一度観たい(観るべき)作品だと再確認。今度は、オペラも通して観た上で臨みたい。(オープニングの雰囲気から、フレデリック・ワイズマンの「シアターもの」のような印象をもってしまい、そうした「接し方」で決めてかかったことで失敗観賞になってしまったきらいがあるもので。)

ちなみに、演出家のジャン=フランソワ・シヴァディエが以前に作・演出を手がけた「イタリア人とオーケストラ」という舞台では、オペラのリハーサルを描いていたらしく、そのオペラこそが『椿姫』だったとか。そして、彼が今度は実際に『椿姫』の演出を手がけることになったという「運命」もこの作品が誕生する重要な端緒となったよう。

原題は直訳すると「椿姫と私たち」とでもなるのだろうか。ただ、「nous」という一人称複数は意味内容(範囲)を文脈から読み解かねばならぬ語であるようで、そもそも「私」が誰で、その「私」を含む「達」はどこまでか。折角だからQ&Aで尋ねてみればよかったかな(笑) ちなみに英題は「Becoming Traviata」。これも、なかなか意味深長(?)