2013年7月4日木曜日

Playback

光陰矢の如し。しかし、それは物理の時間、人間の外に流れる時間。人間の内に流れる時間は決して一方向でも一次元でもないはずで、幾重でも幾層でも幾許もない。立ち止まって反芻してても時間は流れるが、流れた時間が内に溜まった時間とは限らない。人間は記憶を持ち始めたとき、生まれ変わる。「はじめて」しかなかった生から、記憶と常に対話する「再生」へ。

三宅唱監督による本作は、オーディトリウム渋谷でのファーストラン(しかも、ロングラン)時に2回観た。前作『やくたたず』との運命的(と勝手に感じた)出会いを経た再会は、本作をたとえもう二度と観られなかったとしても、一生自分のなかで再生され続けるであろうことを確信をさせる「永劫回帰」への確約だった。しかし、それは反復でも反芻でもなく、解けない宿題との安らかな戯れ。穏やかな葛藤を包み込む、緩慢な一瞬。こんなにも「終わり」が描かれ続けているはずなのに、そこに起ち上がってくるのはむしろ久遠の彼方と此方の抱擁で。死の対極に生があるわけでもなければ、生の対極に死があるわけでもない。モノクロは白と黒のせめぎ合いなどではなく、白と黒の連繋であり、光と影の調和。

そもそも「影」とは光であり、影である。そして、光と影がうみだす物の形も「影」ならば、私たちが心に浮かべる姿も「影」なのだ。つまり、モノクロ映画とは徹頭徹尾「影」なのだ。白と黒で象られた世界とは、眼で見る形を捉えつつ、眼では見られぬ姿を浮かべてる。光が際立ちは、影の際立ち。具体だからこそ起ち上がる捨象と抽象。

そして、『Playback』が見せるのは、影にまみれた光でも光にうもれた影でもなくて、光にあふれた影なのだ。だからこそ、この映画は白一色で終わる。そのラストのラストには、生きた証が刻まれる。フィルムの宿命としての傷みが映し出されるその瞬間に、たった一度が繰り返されるという幸福な矛盾から生まれる「再生」の喜びをかみしめる。


下高井戸シネマで7月5日金曜まで。18:45上映開始。35mm上映。

ソフト化の予定はないそうだけど、やがてソフト化して欲しいけど、ソフトで(ということはデジタルで)「再生」することの価値も意義もあるとは思うけど、「いまここ」でしか立ち会えないフィルムとの出会いの一回性に感じ入る体験は、いまだからこそ抱きしめておくべきだと思うのです。

そして、渋谷の円山町よりも本作が遙かに似合う下高井戸の町。薄明へと向かう中で劇場に入り、ひっそり訪れた夜の入口に劇場を出る。観るべき場所、観るべき時間。

本作のパンフは制作されていないが、劇場には二つ折りのチラシがある。数種のチラシやフリーペーパーを見た記憶はあるが、今回の劇場でもらったチラシは初めて見た。内側の見開きに掲載されているのは、所謂コメント集なのだが、その面子が興味深いのみならず、そこに並んだ言葉の慎重さと深長さが余韻を助長。観賞後に是非。

昨年の日本映画ベストワンにしなかった猛省として、今年の日本映画ベストワン、いやオールタイムベストに大訂正。