2013年7月31日水曜日

終戦のエンペラー

浪人時代に通っていた予備校で最も興味深い授業の一つに日本史(近現代史)があった。正直、前近代の授業は誰が教えてたのかすら憶えていない程だが、近現代の授業で聞いたエピソードの数々はいまだに鮮明に憶えていたりする。講師の話(し方)が面白かったということもあるが、彼が語る人物像が実に「立体的」であり、そのためにも中心(観点)は常に多様かつ移動するものだった。そこでほんの少しだけ、歴史が物語であることを実感できていたかもしれない。(その講師はよく授業を延長していて、職員が「早く終わってください」的プレッシャーを度々かけに来たり、終いには冷房が止められたり等々、そういった熱意からも実に「伝わる」「届く」ものが産み出されていたんだとも思う。)

美談や懐古に陥らぬ「戦争映画」が作られなくなって久しいように思う。遠ざかるほど冷静に、客観的になれる。そう一般的には思われがちだが、そこには忘却という「都合の好い改変」が潜んでいるという事実は計算外。いや、むしろ折り込み済ゆえに、過去よりも真実に到達しているはずの現在を肯定するためのロジック(実際はマジック)として援用されがちなのだろう。

マシュー・フォックス演じるフェラーズ准将は、「天皇を戦犯として裁くか否か」の決定に必要な証拠や証言を集めてゆくなかで、どうしても日本人の精神性を理解することができず、そうした思いから日本人の精神性を「ミステリアス」と評していた。私はその時ふと、「mysterious」を何故か「myth-terious」のようにイメージしてしまった。「mystery」と「myth」はいずれも「神」に関連する表現をルーツにもつのかと想像してしまったからで、実際には語源は同じではないようだ。しかし、そこで「myth」の語源がギリシャ語の「話、言葉」を意味する語であることを知る。そうすると益々、戦中の日本が「ミス(myth)テリアス」ゆえの「ミス(mys)テリアス」を孕んでいたような気がしてきた。

勿論、統治のために「神話」を大いに活用したという点で十分「myth」なのだけれども、それ以上にまさに「お話」という「もうひとつの世界」が現実世界以上にリアリティを持ってしまっていた時代が戦中の日本なのかとも思えて来た。現実は、近代化により合理精神で駆動すべき世界になっていたし、事実そう動かされていたはずなのに、国民の精神世界においては前近代のさまざまな精神が残存どころか増殖して強固なものへと培養されていったのだ。そして、その原動力としての絶対的支配的原理こそが「天皇制」というフィクションだったのだろう。それはまさに「お話」なだけに、実証は不可能であり、そもそも実証を試みること自体がナンセンス。近代化した社会にとって、そうしたフィクションが力を持ち得ること自体が不可思議なはずでありながら、現実世界(物質世界)より「もうひとつの世界(精神世界)」こそにリアリティを見出していた国民にとっては、至極自然な感覚だったのかもしれない。

常に数字やデータで可視化され数量化される実証的フィクションとしての経済。近代社会における現状認識の指標。それすらも無視し、というより意識すらすることなく、桁違いの国力を有した列強に平然と(悠然とすら)戦いを挑んだ小国日本。そこには、精神世界がもつ無限の力(それは人間の「美しさ」の象徴とも呼べる)を見出すこともできるだろう。肯定的な懐古の眼差しで大東亜戦争を回顧してしまう「向き」が払拭できない理由も其処にあるかもしれない。それはそれで、ひとつの正当性を持つとは思う。しかし、そこに必ず貼り付いている裏面(代償・犠牲)と切り離さずにそれを認めることは極めて難しい。(大抵、裏面を見ずして認めてしまう。)

「もうひとつの世界」を壊され(それでも、戦前に植え付けられた人達のなかには息づいていることと思う)、引き換えに植え付けられた「もうひとつの世界(西洋への憧れ・追随)」も急速に消滅し、もはや「もうひとつの世界」の核となるものを見失いつつある現在。今の日本人にとって世界とは、現実世界(物質世界)だけになりつつあるだろうか。それとも、それだけでは耐えられないから新たな「もうひとつの世界」を膨らませつつあるのだろうか。

フェラーズ准将の言う「ミステリアス」に共感するか、それとも「ミステリアス」な日本人に共感するか。世代やイデオロギーによっても大きく異なるだろう。え?私?私はそのどちらでもないようでいて、どちらでもある・・・美しい日本の私とも言い切れぬ、あいまいな日本の私。