2013年5月8日水曜日

イタリア映画祭2013 (5)

イタリア映画祭2013の後半戦では、4本を観る予定だった。

そのなかで最初に観たエミリアーノ・コラピ監督作『家の帰り道でSulla strada di casa)』の出来が出色で、ただ単に地味なだけの印象に傾きかけていた今年の映画祭にとって「台風の目」。そのいずれもが2012年作品であった今年のラインナップのなかで唯一2011年作品であるのも伊達じゃない。

映画祭のカタログにはエミリアーノ・コラピのインタビューが収録されているが、それを読むと彼が描きたかった〈世界〉がより鮮明に。「われわれは今、正しさと間違いの差が曖昧な、漠然としたかたちで示されることが多い時代を生きている。」確かにそうした〈世界〉の様相を象ろうとする欲求は、映画の語りとして定番の感もある。しかし、本作が興味深いのは、そうした善悪や正邪のボーダーレス化や両義性を〈社会〉の結果として呈示するのではなく、〈個人〉の過程に寄り添ってゆくことだ。そして、更に、そうした〈個人〉が抱える脆さの帰結として待ち受ける宿命的なメタモルフォーゼ。しかも、それが連鎖しながらも(絶望的な循環)、訣別を生み得る可能性(希望の兆し)までをも描こうとする姿勢に、個人としての人生における真摯さと作家として人間に向けられた誠実さが静かに込み上げてくる。(1年もかけたという編集の妙も大いに貢献)

監督が語るように、本作においては「アイデンティティ」の問題が根幹にある。その固持がうむ排他性はしばしば描かれるし、道徳的戒めに堕してしまうことも少なくない。しかし、本作においては一貫性の危機自体を描くというよりも、一貫性を前提としての揺らぎが描かれている。本人は理想や希望を十二分に理解しながらも、その理解に基づいた行動が互い違いの現実へと導いて行ってしまう。監督の言葉を借りるなら、「本来の自分に戻りたがっている」のである。

今年のイタリア映画祭には、経済危機を背景とした陰鬱な現実がこびりついた作品が実に多かった。本作も例外ではないのだが、監督が「経済危機は物語の背景だがテーマではない」と語っているように、現実に依存した語りに陥ることなく、普遍性へと昇華して語ることに成功しているように思われる。映画祭上映作品中、最も短い83分の作品でありながら、最も「劇的」であった本作。短篇やドキュメンタリー、CMなどで活躍してきたという監督の歴史が見事に昇華された劇映画。エミリアーノ・コラピ監督の今後が楽しみ。

(ちなみに、本作に主演したヴィニーチョ・マルキョーニの主演作「20 sigarette」は、多くの映画祭・映画賞で好評価を得るにもかかわらず、日本で紹介される機会が未だなく、残念だ。)


フランチェスカ・コメンチーニ監督の『ふたりの特別な一日(Un giorno speciale)』は、公開中の『ブルーノのしあわせガイド』(昨年のイタリア映画祭で「シャッラ/いいから」として上映)でデビューを飾ったフィリッポ・シッキターノと、本作でデビューを飾るジュリア・ヴァレンティーニの、ほろ苦くも甘酸っぱい(のを狙ったと思しき)シンデレラ風ラブコメ調ドキュメンタリー・タッチ系!?!?

昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペに選出された一本だという事実は驚愕で、『嘆きのピエタ』と『ザ・マスター』がデッドヒートを繰り広げ、ベロッキオやアサイヤス、テレンス・マリックまで名を連ねたコンペリストに入るべき一本とは到底思えず。コンペのイタリア映画枠なら、ダニエーレ・チプリの『それは息子だった』とベロッキオの『眠れる美女』だけで十分だったはずだろうに、プログラミング・ディレクターとして革新的な働き(というかメジャー感アップや中華系取り込みな拡大路線といった感じか)をみせたマルコ・ミュラーに変わっての前任者アルベルト・バルベラの復帰が意味するところとは。(でも、『嘆きのピエタ』をカンヌではなくヴェネツィアに出品させられたのは、彼のギドクへの働きかけに因るところが大きいんだとか歓迎する向きもあるし、今年からが本番かな。でも、授賞式がイタリア語のみで進行する[英語通訳が一切入らない]っていうのは、例年のことなのだろうか。或る意味、すごいな。)

私がフランチェスカ・コメンチーニの作品で観ているのは前作『まっさらな光のもとで』のみなので、それ以前の力強い作品群を知らないのは極めて残念ながら、どうやら今は迷走中、これからも先行き不安な状況のよう。映画祭カタログの解説によれば、フランチェスカは、ベルルスコーニの買春スキャンダルに際して退陣要求のデモやキャンペーンを展開した女性運動のネットワークの発起人のひとりだそうである。従って、本作の「肝」は、そうした背景に根ざしているのかもしれず、通俗的で軽薄な「ラブコメごっこ」や「観光(にすらなっていない退屈な見せ方だが)もどき」も、あえて琴線に触れるどころか掠りすらしないことを期待しての「からっぽ」だったのかもしれない。が、ルカ・ビガッツィのイマジネーションが虚しくイリュージョンとして浮かんでは消えていくもったいなさ(贅沢さ?)は、個人的には寂寞ばかりが増幅してゆく冗長な90分。
 
 
映画祭初日に仕事で観られなかった『赤鉛筆、青鉛筆』、そして『リアリティー』については次回。