2013年5月10日金曜日

フランシス・ベーコン展

恒常的美術愛好家に限らず、広く注目を集めるような美術展がたまに開かれるが、「べーこんてん」はまさにその類のイベントといった趣、を感じる。そうした感慨は、自身でも覚える。

個人的には「実に興味深い」感覚は抱けても、「心底感応」するタイプの画家ではない、フランシス・ベーコン。とはいえ、まとまった作品を目の当たりにしたことがある訳でもないので、今回の好機は確かに貴重。

その力強さや強烈な個性には激しく揺さぶられる想いを味わいながらも、今回の展示作品数33点という少なさが残念でもある。これから、という佳境な気分の眼前に現れる「出口」の二文字。クレーム回避(といえば大袈裟か)とはいえ、しつこいほどに「ガラス越しの鑑賞を強いるのはベーコン本人の意志」的なエクスキューズ(=だから映り込み激しくて見づらくても我慢してね)の断り書きがしばしば添えられているという無粋仕様にも何だか興醒め。とはいえ、存り難い価値を内包した企画であることは私などでもわかる。(作品の掻き集めには随分苦労したように思われるし。)

16世紀から17世紀にかけて生きたフランシス・ベーコンが「知は力なり」と言って近代の礎を是認したのに対し、20世紀の80年強を生きたフランシス・ベーコンは近代が生み落とした怪物に悶え苦しむ人間の裏面を暴き出し、「血こそ力なり」とでも言いたげだ。人間の理性が世界を切り拓くことを唱道した近代黎明期の哲学者に対し、理性という軛からの解放を叫ばんとする近代終焉への祈り。

少ない点数とはいえ、こうしてまとまってベーコン作品を目の当たりにしてみると、メディア等で接する彼の作品から受ける短絡的なイメージ(あくまで私のなかでそうだった、という話かもしれないが)とは相当に異なる帰結が待っていた。迸る存在感というよりも、喪失直前の叫びのような。横溢する生命力よりも、消失に喘ぐ孤絶な魂。キャンバス全体に比すれば極めて「孤立」として浮かぶ人物。しかも、それはいつも単独なのだ。展示の解説文には、体が透けたスフィンクスに「それでも漲る存在感」というような評があったが、私にはむしろ「スフィンクス(=人類による文明?)の卑小さ(反永遠性?)」こそが迫り来る。画面の半分近くを閉める闇たる虚空が何よりもそれを物語っている。「教皇」シリーズに関しては、「ベーコンは宗教(の崇高さ?)に強い関心を持っていたに違いない」的な解説文もあったと思うが、ベーコンが関心を寄せたのは宗教や信仰そのものというよりも、聖俗の狭間で揺れ動いたり分裂しそうな人間の葛藤にこそ興味があったのではないかと私は思う。もだえ、もがき、もみつぶす。脳の産物である社会の強大な圧力に、心ある人間の不完全さが抗い敗れ、それでも擦れ、違う。緘黙の背景(社会)と、雄弁な身体(人間)。すれ違い続けること、それだけが唯一つの真実。そんな風にベーコンは、私に語りかけてくれていた。

フランシス・ベーコン展は、東京国立近代美術館で5月26日迄。豊田市美術館では、6月8日から。