2013年5月3日金曜日

イタリア映画祭2013 (4)

映画祭3日目には、『来る日も来る日も』以外にも2作品を観賞した。
(座談会も観たのだが、疲れからか、かなりの時間を睡魔にさらわれた・・・)


朝に観た一本は、ドキュメンタリー作品で実績のあるレオナルド・ディ・コスタンツォ監督による初の劇映画『日常のはざまL'intervallo)』。「劇映画」とはいえ、やはり出自からの緩やかな「流入」を体現するかのごとく、主役の二人には演技経験のない素人の若者を起用し、舞台も実際の廃墟(かつて精神病院だったらしい)における「様々な貌」を丹念に嘗めてゆく。情報的というか条件的には、明らかに極私的性向に適った作品に思えたが、今年のイタリア映画祭における序盤のやや陰鬱色にくるまれた作品群からの疲弊か、はたまた寝不足ゆえか、作品内時間に心地好く寄り添いながら観ることは叶わなかった。

主演の二人が演技未経験ということもあり、十分なワークショップを経ての撮影だったらしいのだが、そのプロセスが適正なものであったことは、作品としての「成立」が示している。鮮度を削ぐことはないのに、入念さが育む鮮やかさが其処此処に散らばっている。閉じられた〈内〉を泳ぎ回っている彼らの向こうに、〈外〉が常に睨みをきかせているという構図を、作品の成立事情がなぞらえる。まさに、劇映画にドキュメンタリーを投影させているかのよう。

撮影はイタリア映画稀代のヴィジュアリスト、ルカ・ビガッツィ。パオロ・ソレンティーノ作品における流麗な連続画の趣とは違い、『トスカーナの贋作』で見せた「たゆたう眼差し」が作中に細波を立て続けてる。誰の眼でもないのに誰かの眼。そんな不確かな確かさが居心地の悪さを演出しつつも、束の間のオアシスの「束の間」を常に強調している気がしてくる。

本作の上映終了後、ゲスト(編集を担当したカルロッタ・クリスティアーニ)が登壇し、Q&Aが始まった途端にすかさず挙手した中年女性がいた。「私は彼女(登壇したゲスト)のことは尊敬してますし、(これから言うことは)別に翻訳しないで好いんですけどね・・・」と不服露わな口調で切り出し、作品に対する具体的な意見をいくつが述べた後、「これは映画と呼べるんですかっ!?」「こんなものをイタリア映画祭でかける意味があるんですかっ!?」と憤然たる非難の声を上げていた。「アンケートに書いても、どうせ有耶無耶にされるだけだろうから、ここで言わせてもらうわ」的なエクスキューズも添えつつ。途中、「素晴らしい作品だった!」と客席から声があがるも、その女性は「それは、あなたにとっては・・・」と全く意に介さず、壇上では戸惑うゲストと通訳と司会の三名。そこで、「主催者として説明させて頂きますと・・・」とこれまで完全機能不全だった司会の男性が初めて働いた。が、「イタリア映画祭の趣旨」よりも「各国の映画祭で評価された事実」が結論の中心になってしまっていたようにも思える発言内容には、正直ちょっと残念だった。(が、まぁ、あの状況で冷静にあの程度喋れれば上出来なのかもしれないけれど・・・ハイパー上から目線ですみません)

一瞬にして物々しい空気が立ち籠めた有楽町朝日ホール。気まずさと気詰まりが充満した場内に、休日の朝っぱらから観に来ている殊勝な観客の長閑は木っ端微塵。私も「あちゃ・・・」と「うざ・・・」で憂いが心に広がりかけもしたのだが、実は結果オーライな展開を見せる面白い側面も。そのやりとりの直後に勢いよく手を挙げた壮年女性が上品に本作への賛辞を述べると、場内から指示する拍手。上映終了後のどんよりとした停滞ムードから一転、妙な活気がホールを包む。

品位のない独善女性の「抗議」は最初こそ許し難く思ったものの、終わってみれば適度な起爆剤として作用してしまい、本人の意に反し(?)、「こういう作品こそ映画祭で上映されるべき」的結論が呈されたようにも思える一幕だった。(ちなみに、その女性の声や話し方は聞き覚えがあったので、その手の常連さんなのかもしれない。)



3日目の最後に上映された『フォンターナ広場 イタリアの陰謀Romanzo di una strage)』は、「『輝ける青春』のジョルダーナ監督最新作」との触れ込みが奏功してか、前売完売(たしか2回目の上映分も)の大入り。しかし、イタリアの実録物を甘くみてはいけない。2年前のイタリア映画祭で観賞した『われわれは信じていた』での辛い経験を教訓に、今回は事前にバッチリ「予習」して臨んだ私。(といっても、映画祭カタログに収録されている本作の詳細解説[立命館大学の教授が史実としての背景と本作の登場人物や展開をわかりやすく説明してくれている]を熟読しただけだけど)

予習バッチリで受ける授業があっという間に終わるように、瞬く間に駆け抜けた129分の現代イタリア一大叙事詩。これだけ大きく複雑な背景をもった物語なら、それこそ前後編的な二部作や超大作として仕上げるという選択肢だって必然かつ有力だったはず。しかし、それをこれだけ「コンパクト」にまとめる(というよりも凝縮する)手腕は爽快ですらある。練りに練られた脚本には無駄がないどころか、省略から生まれる戦慄の横溢と真理の氾濫は、物語を緩急でなく急急で攻め抜くダイナミズムを発動させる。編集は、近年のベロッキオ作品を手がける名手フランチェスカ・カルヴェッリだけに、その職人技は1mmの抜かりもない。『ソーシャル・ネットワーク』と『裏切りのサーカス』をかけあわせたフィルム・ノワールといった趣だ。(まさに陰影まみれの[ゴッドファーザー的]暗黒室内・暗黒相貌を見事に重ねてゆく撮影も匠の仕事。)

二人の対照的な立場の「個人」を主軸に物語は語られる。体制側と反体制側。しかし、その二人に共通するもの(理想)こそが、彼らを破滅に導いてしまう。社会(現実)にとって必要なのは暴力であり、思想(理想)などではなかったのだ。(「暴力はあるが、思想はない」とは、冒頭で語られる台詞)

個人を主軸に「ドラマ」を魅せながら、社会に対する具体的非難でも漠然とした批判でもなく、構造が孕む犠牲と排除の構造を浮かび上がらせる徹底真摯な一本だ。

最後に顛末を語るテロップのなかで目にした、「(爆殺事件の)裁判費用は、犠牲者に請求された」という衝撃の事実。徹頭徹尾。それがイタリアのあらゆる「強さ」なのだろう。

ちなみに、厖大な情報量が矢継ぎ早に繰り出される会話劇の側面をもった本作の字幕は、実に読みやすく入って来やすい素晴らしい翻訳だったと思う。(イタリア文学などの翻訳家、鈴木昭裕氏によるもの)