2013年5月15日水曜日

藁の楯

今日から始まったカンヌ国際映画祭。今年はコンペに日本映画が2本選出されている。是枝裕和『そして父になる』、そして三池崇史『藁の楯』。

三池監督は、私が映画を見始めた頃から「みんなが気になる」監督の筆頭に位置していた存在で、そうしたポジションが10年以上も余裕で持続してるという事実は実に凄まじいことだと思う。けど、それがあたかも自然に当然のように続いてきたってところも三池監督らしい気がしたり。

とはいえ、『藁の楯』に関しては予告から受ける印象が異様に厭な臭気を放っており、観賞作品厳選スタイルという今年のモットーからも「見送りリスト」に入れてしまっていたにも関わらず、「カンヌ・コンペ入り!」の報を受け、急遽マストに変更(はい、権威に弱いです)。でも、そういった不純さ混じりで臨むが故の楽しみ方(?)もあるわけで、「これだけ高い評価が聞こえて来ない作品が、なぜコンペ入りしたのだろうか」という問題意識で見始める。(たまたまハシゴの都合上、公開初日の夕方に観た。)

序盤・中盤と「らしさ」を端々に感じはしながらも、何処か慎重さと手堅さに縛られた窮屈さが漂いがちにも思えた本作。昨年の『愛と誠』や『悪の教典』のように好き勝手な三池劇場とは完全にベクトルの異なったプログラム。おそらく、(三池監督が撮る)「必然性」だけを本作に捜し求め続けると、望み通りの答えは見当たらず、一抹の寂しさがエンドロールによって一気に拡散されていったりするだろう。しかし、前述のような問題意識で臨んだ私には、終盤で「腑に落ちる」瞬間が待っていた。(これ以降、ネタバレ含みます。)

それは、大沢たかお演じるSPの言葉に語らせた(託した)と思われる、本作の最深テーマであり気骨な主張。妻を交通事故で亡くした彼は、悲しみや憎しみを乗り越え、理性的に職務を全うしようとしていたが、それは妻のある言葉のためだと説明してきていたのだが・・・そんな彼が、その「妻の言葉」は実際のものではなく、「心の中でつくりあげた物語」なのだと告白。そうした「物語」を自分の中で捏造でもしなければやってられなかったのだ、と。しかし、その「物語」こそが(他の登場人物たちとは違って)自らの理性や信念による自律を支え続けたのも事実。そして、それは「国家の威信」などという外力(これは、金欲しさの攻撃や憎しみによる復讐にも共通する、〈個人〉をのみこんでしまう〈社会〉的圧力)に屈することなく、というより孤高たる主体性を宿し続ける〈個人〉による〈社会〉への「反乱」でもあるだろう。〈社会〉によって用意された「物語」はいつしか、機械仕掛けの自己矛盾製造機。しかし、自らが駆動する欺瞞を〈社会〉はどうすることもできないだろう。その「物語」に別の筋書きを書き込めるのは、〈個人〉の内なる痛み(悼み)や叫び。

「物語」を英語字幕では何と訳すのだろう。直訳としては「story」なのだろうが、ここはやはり「fiction」として、〈社会〉の虚構性や擬制による犠牲を想起させ、それをも凌駕する、〈個人〉の想像力に勝利の希望を感じたい。そう考えるならば、〈社会〉というシステムが常に孕む欺瞞に抗いうる一つの「答え」が描かれ示された真摯な社会派のドラマが展開されている。

〈社会〉に〈個人〉が屈しない、それはフランス人には顕著な願望であり、最優先倫理観。その一方で、直接的に対抗や拮抗で勝負するのではなく、〈社会〉の枠組にははまりながらも、決して〈個人〉としての尊厳はゆずらない主人公の日本的(?)な道徳。(一昨年、カンヌ・コンペ入りを果たした同じく三池監督作『一命』とも通ずるところがあるかもしれない。)A級を端から目指さぬ特B級な作風は、抜け目ない娯楽ではないものの、むしろ「抜け目」に思考の余地を与えてくれる。説明不足の向こうに透ける、〈個人〉と〈社会〉の共犯、離反、すれ違い。個人的には本作のカンヌ・コンペ入りはかなり納得できた。