2013年5月1日水曜日

イタリア映画祭2013 (3)

3日目にして漸く映画祭らしい時間が動き出す。観る側(つまり、私自身)の問題なのかもしれないが、それは最近の自分にとって現実の縛りがより堅固なものだという証左である故に、解かれた途端に遙かなる遠心力へと転化する。

まぎれもない傑作よりも、愛くるしい小品の方が永らく心に留まり続け、育まれ、実を結ぶ。

パオロ・ヴィルズィ最新作『来る日も来る日もTutti i santi giorni)』は、そんな愛おしさで充ち満ちた。それが何かは説明できずとも、それは確かにそうなんだと思えるイタリア流人生賛歌。恋だの愛だのを逃げ口上に利用しない、関係よりも個人に対する人間賛歌。それは必竟するに、社会からの離反と同義なはずなのに、パオロ・ヴィルズィ作品が見届けたいのは、拮抗や葛藤よりも(衝突や痛手よりも)、受容と抱擁(融和と能動)。

映画祭のガイド的あらすじでは触れられていないが(意図的?)、付き合い始めて6年になる男女の不妊(治療)という問題が物語の現実的中心に据えられている。とはいえ、彼らは二人とも規格外的な生き方と信条を貫いてきたという背景があり、だからこそ「子供が欲しい」というスタンダードへの切望は、多義的で複雑な心情を「収斂」するための片道切符。しかし、せっかく引き返さぬ決意をしても、現実は容易く微笑まない。理想が現実においついたとき、現実は理想の遙か先に逃げていた。普通は逆の関係が、反転したところ叶わぬという真実。個人(実像)と社会(虚像)の関係に、どこか似ている。

自らのスタイルを貫いてきた二人が、社会が承認するスタイルへの参画を画策するためには、二重のハードルを越えねばならない。一人(個人)として、そして二人(家族)として。社会的個人が社会的最小共同体として結合して初めて与えられる、社会という大家族の一員たる資格。その絆につながれる安堵感。それを社会は「幸福」と喧伝してる。そこには強固な説得力も正当な根拠もあり余るほどある。でも、だからこそ、パスポートを発行されぬ者への仕打ちも無自覚で、至って「自然」の法則だ。極めてナチュラルなセレクション。社会的自然淘汰に抗う唯一の希望、それこそが個性。個体性、固着した現実、隆起する真実。

そんな闘争めいた苦悩が描かれているわけではないのだが、どこまでも自らの謳歌に貪欲たろうとする真摯さの強靱さは、社会に同化できぬどんな〈異質〉のなかにだって宿って止まぬ普遍の愛(哀)を代弁してる。〈個〉を描こうとして、各々の対照性や差異性を強調して得意げに特異を論ったりするのではなく、どんなに〈孤〉になり得ようとも、切り離せない普遍性が磁力を発揮する。愛の磁場には慈愛が走る。社会に磁場がなかろうと。

社会は個人の涙を拭いはしないけど、個人だって社会のために涙は流さない。いつだって涙は自分のために流れてしまう。誰かが流させるのではなく、誰かを想った自分が流す。だから、君の涙を拭ったりしない。泣かないでなんて絶対言わない。僕に言えるのは、せいぜいこのくらい。

「こうなったら二人で泣こう」



※原題の「TUTTI I SANTI」とは「諸聖人の日(万聖節)」と呼ばれるカトリック教会の祝日。「GIORNI」は「日々」といったような意味のようなので、主人公グイドの殉教者マニアな側面と、物語の内容がかけられているのかも。ちなみに、英題は「Every Blessed Day」。「every」は当然「day」にかかっているのだろうけれど、映画を観てみると「every」が一人一人にも思えて来る。どんな人の、どんな一日にも・・・。ちなみに、「諸聖人の日」は11月1日らしいのだが、今年のその日は金曜日。本作を劇場公開するなら初日にもってこい。11月1日公開、熱望。