2013年5月19日日曜日

リヴァイアサン

今年のイメージフォーラムフェスティバルでも最注目作品だった『リヴァイアサン』。「ハーバード大学の感覚人類学研究所に所属する映像作家兼人類学者の二人(ルシアン・キャステイン=テイラー、ヴェレーナ・パラヴェル)による、漁船漁業の様子を極小カメラで捉えたドキュメンタリー」という説明だけで、興奮のやり場がない悦楽。



(本作は87分だが、最新作は360分らしい・・・)

「見たことのない映像」といった場合、そこには仕掛けの「大きさ」による圧倒がある。しかし、本作における「見たことのなさ」はむしろ足下にこそ転がっていたりする。その、近すぎる遠さこそが畏ろしく、麗しい。

人為による斬新に狎れた鑑賞眼も、剥き出しの生命が跋扈する様には興奮引き回しの刑に処せられる。喜んで。

無軌道の動線が遠近法を無化してくれる。この世界にはアングルが無数あること。そんな当然を自然に帰しもする。

画面に人間が映り込んだ瞬間、その画は凡庸と化す。見馴れ過ぎた人間の退屈さから、見ずに来た自然の生命を待望し続ける。安穏とした悦楽から遠く離れた未知なる領域での、彷徨。方向を見喪って初めて叶う、自然への奉公。見えない(見てない)ものにこそ潜む怪物(リヴァイアサン)が誘い出す神聖なる畏怖する気持ち。未踏は不可侵、未到の世界が見とうなる。

人間の視点(主体)からは捉えられぬ対象(客体の姿)が横溢するフレーム内。そこから沸き立つ無限のフレーム外。主体性の心地好い崩壊は、主体が世界へと没入する過程。蓄積されたパターンが無意味となる無力な類推。そこに円滑な認識はないが、円滑でなくてよい認識を許された精神は自由な享楽に耽るだろう。