2013年4月29日月曜日

イタリア映画祭2013 (2)

2日目には個人的には最も期待していた一本が早くも登場。近年のベロッキオ作品における魅惑の撮影を担当しているダニエーレ・チプリ監督最新作『それは息子だった』(単独で監督するのは初らしい)。昨年のヴェネツィアでは、彼が撮影を担当したベロッキオの『眠れる美女』と共に2作がコンペに参加。(その2作は、音楽・編集・美術なども、同じスタッフが双方に関わっていたりもする。)『それは息子だった』では金のオゼッラ賞(撮影賞)を受賞。また、主人公(トニ・セルヴィッロ)の息子タンクレディを演じたファブリツィオ・ファルコ(『眠れる美女』にも出演)がマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞してもいる。

パレルモの貧困地区に住む一家の娘が、マフィアの抗争に巻き込まれ死亡。マフィアの犠牲者へ多額の賠償金を支払うという政府の制度を知った父は、申請。しかし、受け取るまでに随分と時間がかかるうち、高利貸から借金してしまい、受け取った大金も利子の支払いに相応分が割り当てられ、残った金で買ったものというのが・・・黒のベンツ。

見事に決まった「画」のひとつひとつが御伽噺的な空気を演出。錆びた喜劇とでも言いたくなるような、ザラつく感覚がまとわりつく被膜の向こうに聞こえる哄笑。しかし、諷刺といった趣の大上段は其処にはなく、悲哀を滑稽に描くだけの悪戯でもない。郵便局のロビーで身の上話を語る「ストーリーテラー」としての男が進行役を引き受けながら、何処か夢想であるような浮遊感で進むお話は次第に、過剰に現実的だった人間たちこそが夢想的に刹那の享楽に溺れていたという皮肉を露わにする。そこで犠牲になる無辜なる無垢。大きな世界の歪みはしわ寄せの果て、必ず個人の犠牲を強いに来る。

マフィアの暗躍の影には、国家との「共犯」が。国家の背後には当然、国際関係上の「事情」がある。(冷戦時、アメリカは反共勢力としてのマフィア復活を図ったとも言われている。)マフィアの犠牲者への賠償金は、償いなのか、謝礼なのか。後者の様相を裏付けるかのように、父は娘を悼まずベンツの傷みに痛みを覚え。そして今、家族は集団保障の生贄に、無垢なる存在を差し出してしまう。社会の不条理は、より大きな世界でも、より小さな世界でも、蝕む一途。

たびたび現れる三角螺旋階段。序盤にタンクレディと向き合い諭す男(誰だったか失念)との間に現れる、父。「三人」が並んだり歩いたりする場面もしばしば。多数決が可能となる「3」。どう足掻いても「1」の側に勝ち目はない。国家とマフィアが組めば、一般市民に勝ち目はないし、社会が「正常」を選んだら「異常」に反論の権利はない。



家の主たち』も未知数の期待に溢れ、臨んだ一本。監督のエドアルド・ガッブリエッリーニは22歳でパオロ・ヴィルズィに見出され(2008年の「Ovosodo」がデビュー作のよう)、役者として活躍。ヴィルズィ作品のみならず、最近では『ミラノ、愛に生きる』でティルダ・スウィントンが恋に落ちる息子の友人シェフを好演。2003年に初監督作を発表していたが、そちらは主演も兼ねていたようで、10年近くぶりにメガホンをとった『家の主たち』でいよいよ本格的な監督業に進出といった印象。おまけに、主役の職人兄弟をヴァレリオ・マスタンドレアとエリオ・ジェルマーノが演じ、彼らが招かれる豪邸の主人役は大御所歌手のジャンニ・モランディ、その妻をヴァレリア・ブルーニ・テデスキが演じるという豪華な出演陣。ちなみに、来日ゲスト団のなかで最年少(1975年生まれ)の彼は、座談会ではやたらと剽軽で(上映後のQ&Aでは、落ち着いた「監督然」だったが)、中座したかと思えばガム(?)などを他の登壇者に配り始めたり、『ミラノ~』でしか知らなかった故に余計ギャップが新鮮だった。

さて、作品自体は正直それほど魅了されぬままあっさり幕切れ。テーマはありがちとは言え、繰り返し語られるべきものだし、それを成立するための場所や空気もそれなりに醸成されてはいたものの、あまりにメイン4人の存在感が大きすぎた為か、もう一つの軸となるべき地元の村人たちの「表現」が妙に稀薄というか軽薄にすら思えてしまい、そんなアンバランスさが「あるべき窒息」に漏れを生じさせてしまう。

『M★A★S★H マッシュ』の「Suicide Is Painless」を使用したのは敬愛するロバート・アルトマンに対するリスペクトの気持ちを表したかったからと語っていたし、ロケハンの前にデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」を観ていたから似たような場所を探したとも言っていた。どうやらアメリカのインディペンデント系作家が好きなようだ。私も観ながらどことなく『ファーゴ』を想起したりもしたし。

確かに、クライマックスのモランディのライブと「噴出」が交錯するシークエンスがもつ(潜在的)最高潮は、アルトマンの群像劇でしばしば見受けられる高揚感に似ている(を模している)気がしなくもないし、閉じ方やその後の「花火」などには、「現代映画」としてのアメリカ映画が示す矜持の刻印的収斂と通ずるものを感じたり。そうした趣向が彼自身のオリジナリティとの充実した結合なり融和が可能となれば、今後が楽しみかもしれない。