2013年4月3日水曜日

恐怖が排除の暴力を助長する映画2本

昨年のカンヌ国際映画祭でマッツ・ミケルセンが男優賞を授与された『偽りなき者』は、前評判以上の賞賛の声があちこちから聞こえてきて、個人的に敬愛する映画監督のなかでも日本初公開作(『セレブレーション』)から監督作をリアルタイムで観て来られている貴重な映画作家の一人であるトマス・ヴィンターベアの新作だけに、硬直レベルの期待で観賞計画が過剰に慎重吟味だったここ数週間。遂に観た。しかも、満を持しただけの環境で。

作品に関しては、そう容易く口を開くことを許さないほどの多層な含意にただただ翻弄され圧倒される。(比較対象が誤ってる気がしないでもないが)ハネケやトリアーが「悪意」の病巣に分け入るのとは異なって、あくまでも善意と善良がもつ副作用とは名ばかりの「正」作用について正面から凝視する。しかも、そこに「悪戯」などという言い訳めいた作劇の妙を仕掛けたりしない真摯さに、トマス・ヴィンターベアにとってのドグマ95が単なる実験でも示威でもなく、通過点よりも終着点として標榜していたのだろうと改めて思えてくる。

Bunkamuraル・シネマでの公開と同時に上映開始となったのが109シネマズ川崎。施設的にも客層的にも大の苦手なル・シネマで上映される作品を、(同じ東急系だからか)上映するシネコンとして重宝してきた109シネマズ川崎。大抵そういった作品を上映する際は小さめの箱で、上映回数も限定的に公開されることが多い。ただ、そういった扱いだけに、1回のみの上映になった際に大きめの劇場で上映されることになったりも。とりわけ、学校などが長期休暇になる時期は、子供向け映画の上映が夜にない分、大箱で上映という好機に巡りあう確率も上がったりする。そして、今、109シネマズ川崎では、夜1回の上映ながら、定員246名の大きめ劇場(IMAXを除くと2番目に大きいシアター)で上映されている。ただ、上映開始は21時50分。そして、終映は23時55分。

さすがに、そんな上映時間の設定もあってか、私が観たとき(平日)の観客は全部で4人。作品が作品なだけに、その閑散さが醸す空気、はりつめた静寂、そして大劇場で観ている違和感が不思議と映えに変わりゆき、シネスコ作品であることもあって、作品から強要される苦悶の壮大さも増幅の一途で身を屈めてた。やはり、作品との出会いの場をコーディネートすることもまた、自分にとっては重要な観賞の一部なのだと再確認。

109シネマズ川崎では来週も同じ「シアター1」で上映予定。しかも、今度は20:00上映開始なので終映も22:05。これならば健全な映画ファンでも、お勤め帰りに(&翌日お勤めでも)観られるお時間。

ちなみに、私はその日、『偽りなき者』観賞前に川崎でもう1本映画を観た。それが、『パラノーマン ブライス・ホローの謎』。こちらは、TOHOシネマズ川崎のシアター7(240名)に観客が全部で5名。(ちなみに、この日観た2本の観客合計9名はいずれも1人客だった。)評判通りの素晴らしい出来映えだったが、確かに閑古鳥が鳴いている。日本における映画興行に忸怩たる思いを禁じ得ぬ口惜しさを噛み締める。『シュガーラッシュ』が好調なだけに(こちらも実に巧く、面白い映画だと感心しきりではあったけど)、こちらのヤッツケ公開感が際立ちもして、育てる気のないところに花は咲かぬのだなと痛感したり。

3D観賞の価値に懐疑的になりつつある観客も増え、そうした一般的傾向は私自身にもあてはまるものながら、それでも可能性はまだまだあると思えるし、可能性を見事に活かした作品に出会った時の感動はやはり唯一無二な(3Dならではの)もの。そして、私が3Dで観ることに惹かれるのは明らかに実写よりもアニメであり、更には絵によるアニメよりも断然、物によるストップ・モーション・アニメ!『コララインとボタンの魔女』を観た際にも覚えた3D最適感。動きにおける立体感で愉しませようとする実写に比べれば、明らかに瞬発的な躍動感に欠けるかもしれないが、さすがは「ストップ」と「モーション」で動きをつくっているだけに、連続する存在ひとつひとつにじっくりとその質量を噛み締めることができるのだ。更に、どんなにCG技術が発展しようとも、物質として存在するモノが放つ実在感には勝てない。とにかく、ストップ・モーション・アニメにおける「在る(有る)」感の幸せを正しく拡張してくれる技術、それが3D。だからもう、そうした画を眺めているだけでもう幸福なのだ。そんな童心還りの享楽中、精緻なパズルも巧緻なウィットも必要ない。そこには、ただただ純朴に失敗した人間と、後悔する人間、期待をあきらめない人間と通うことを願う人間が、ただただ活きていれば好い。そこから生まれる苦しみを、そこから得られる喜びを、整理なんかせず、ただただ語ってくれれば好い。

ピクサーはじめ最近の高品質アニメを大人が観賞する際に浴びる「示唆」のシャワーに比べれば、『パラノーマン』のそれは実に恬淡として、インパクトもコンパクト。しかし、こんなにも大上段が見当たらず、登場人物たちと同じ地平で語ろうとする作り手たちの声がゆるやかながらも着実にしみ入ってくる「物語」はなかなか無い。

ジョン・ブライオンによるスコアの一貫した愛らしさは、人間の醜より美に想いを馳せ続けようとする作品の精神を見事に体現し続ける。作品を素敵にコーディネートする80年代風シンセ・スコアの上質な安っぽさも新鮮だが、儚き郷愁の永続を謳う彼ならではの旋律は、春夜の胸騒ぎにより沁みる。

来週の上映スケジュールではどこでも回数激減な『パラノーマン』。TOHOシネマズ川崎でも1回のみの上映だが、19:30開映。こちらも仕事帰りでも頑張れば・・・。しかも、来週もそこそこなサイズ(240名定員)のシアター6。

『パラノーマン』で望外の幸福がしみ渡ってしまったが故に、この後に『偽りなき者』を観るのか・・・という些かの戸惑いもあったのだが、続けて観ると、期せずして同様のテーマが通い合ったりも。「不可知な(異形なる)者」への恐怖から来る暴力とそれらがもたらす排除の現実。アプローチも異なれば、眼差しも語りも異なる2作であるが故に、その2本の糸(意図)はより複雑に、だからこそより自由に、結んでみたり解いたり。何から何まで贅沢な、二つの映画体験を味わった夜。

ちなみに、私は川崎には映画以外に大した縁故もございません・・・。交通費は往復1,000円以上かかるしね。それでも、足を運ばざるを得ない、都心のミニミニシアターでは叶わぬ何かがあるシネコン・ターミナル。