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2013年8月30日金曜日

マン・オブ・スティール



前半のノーラン・コントロールにおける「ザックのこだわりグッとこらえて物語る」チェック&バランス的緊張感はなかなか好ましく、プロデューサーとしてのクリストファー・ノーラン及び監督としてのザック・スナイダーの新境地に邂逅できた幸せいっぱいで帰路に就くのだとばっかり思ってた。しかし、どうやら前半の真っ当さは後半でやりたい放題させてもらうための「取引」によるものだったのか!?

前半にはノーランらしい哲学的・倫理的・社会的テーマが(ややあからさまに)埋め込まれており、この手の作品のそうした「おしつけがましさ」は嫌いでない自分にとって、それらの要素がどのように回収され結実してゆくのかを楽しみに見守っていたのだが、後半(特に終盤)はただひたすらバトルを見せたい(撮りたい)だけの欲求が暴発炸裂状態で、「見方を変えねば・・・」と思っているうちに気持ちの整理はつかぬまま(=アニメ的CG擬似実写アクションを適正に享受することもできずに)、今夏二度目の(まさかの)マイケル・ベイ待望メンタリティに陥るという悲劇。でも、最後の最後ではちゃんと「現実」に戻ってきてくれて、クラーク(ヘンリー・カヴィル)の眼鏡とロイス(エイミー・アダムス)のベタ台詞は、ビギンズのエンディングを適正補正。まぁ、それもこれも厳かさと躍動をたっぷり吸い込んだハンス・ジマーのスコアあっての出来事ではありますが。

ノーランお得意の「人間(社会)を試す」ようなアプローチが序盤に用意されていて、例えば「人間は支配できないものを恐れる」といったクラークの(人間の方の)父(ケヴィン・コスナー)の言葉などを聞けばつい「スーパーマン=原子力」なんて思ったり。そして、それに人間は一体どう対峙するのか(すべきなのか)を物語を通して問いかけるつもりなのかな、とか。カルの(クリプトンの方の)父(ラッセル・クロウ)は、「(操作によって予め新生児の役割が限定されるクリプトンの実態に異を唱え)新しく生まれてくる命には選択(choice)と可能性(chance)が与えられて然るべきだ」と主張。これも、人間による近代文明(秩序・管理・統制を求める社会)に対するアンチテーゼというか警鐘というか。人間の不確定性というか流動性というか獣性(?)みたいなものに可能性や自由を求める着地を目指すのかなぁ、なんて思って見始めたり。

更には、ゾッド将軍(マイケル・シャノン)が「進化した者こそが勝利するというのは歴史が証明している」と言い放つと、「進化とは何か」という揺さぶりからの「歴史の意義」「過去の価値」という考察の深化が始まった!(今までのノーランは同時代的考察が強すぎる気もしていたので)・・・と小躍りするも、せいぜいそこに添えられた答え的なものは情緒的葛藤というハンデ(?)による演出(スーパーマンの刹那の逡巡と直後の雄叫びのみ)で、それとてそれが克服なのか受容なのか創造的葛藤なのかすら示されず、関心の全てはあっさりと戦闘へ(葛藤、即リセット)。

語るより描きたいザックと、描くより語りたいクリス。そんな二人の弁証法は、止揚半ばで墜落しちまった・・・けど、終始鳴り響き続けるハンスの音楽がいつ何時も心を高揚させるから、結局地面に打ち付けられる(ダメージ受ける)ことないまま一気に完走してしまうという映画的力業の勝利。初日初回大スクリーン(勿論、シネスコ!)、周りの観客から醸される待望と緊張と興奮の坩堝の只中、といったアドバンテージも当然ありはしたけれど。

IMAX上映のある作品は必ずIMAXで観るように、3D上映のある作品は必ず3Dで観るように。それが以前の私的慣習だったのだけど、最近では臨機応変で(というか個人的展望というか欲望に応じて)観賞スタイルは流動的。今回も、初日にIMAX3Dで観ようと思ってはいたものの、予約開始即座にベスポジ付近が物凄い勢いで完売してて、ひとまず断念。来週の平日にでもゆっくりまったり観るかと思いつつ、何となく8月中に片付けたい(笑)気がふつふつと。そこで初日初回のUC豊洲10番2D字幕版で観ることに。その後にIMAX撮影なしだと知って内心「だったら別にIMAXじゃなくても好かったかもね」と思いきや、新宿ミラノ1での上映がフィルム上映(撮影もフィルム)と知り、しまった・・・と思ったものの、観てみればCG尽くしの画ばかり故に、まいっか。それため、3Dで観た人よりも楽しさ半減してるかもしれないし、フィルムで観るよりも味わいが減じているかもしれないけれど(でも、ワーナーは字幕のフォントをちゃんと劇場仕様的な旧来の字体にしてくれるから、デジタル上映でも「映画館で観てる感」が減退しないで済むのが好いね)、やりたい放題バトルシーンはやっぱり大スクリーンで観ればその価値は十分あるし、繊細なピアノの音も和太鼓みたいな怒濤のドラミングも大きな空間に大きな音で響くのを聞く価値は十二分。豊洲10番はスクリーン自体はあまり綺麗ではない(汚れがやや目立つ)けれど、フィルム撮影の作品なら(デジタル上映であっても)それが気になりにくい。

3Dで観なかったもう一つの私的な理由(極めて些末)は、IMAXで観た予告での3D演出が「後付」感全開だったり、個人的に最も嫌いなタイプの3D使用(奥の人物が手前の人物の肩越しに見えてる場合、その手前の人物をやたら浮き上がらせるといったパターン)が目についたりしたこともある。そういう手法だと、画面のなかで階層は見事に出来上がるけど、それぞれの階層が異様にのっぺり(2D以上に2D的に)見えてしまう気がしてしまうので、個人的にはそうした使い方が好きではない。まぁ、予告観ただけなので、本編ではもっと面白い3D演出が施されている可能性は十分あるとは思うけど、「画の暗さ(IMAXならだいぶ解消されるけど)」と「速い動きへの対応困難」といった現状への不満と、出尽くした感と見馴れた感による鮮度低下は、個人的3D離れを根強く後押ししてしまう。とはいえ、先日観た『スタトレ』みたいなアトラクション(に徹した)ムービーの場合なんかでは、IMAXにしろ3Dにしろ遺憾なく威力を発揮してくれてたし、3Dという技術がこれからもっと幸せな活用に向かうことを期待したい。(当初はSFやアクションといったダイナミズムに映える技術だと思っていたけれど、実はアート系でこそ新たな地平を切り開けそう。ヴェンダースは期待外れだったけど、ゴダールはどうなるのかな。)

夏休みの宿題を夏休み中に片付けたような達成感。学生時代に決して叶わなかった計画性と余裕な成就。って、たかがねぇ・・・。とはいえ、今夏に毎週公開された(いずれも期待値高めな)大作5本は、好悪は様々ながら各々それなりに見応えあった。ちなみに、そうした大作群のうちローランド・エメリッヒを除く4人はいずれも60年代の生まれ。ゴア・ヴァービンスキーとギレルモ・デル・トロは1964年生まれ、J.J.エイブラムスとザック・スナイダーは1966年生まれ、そしてマーク・フォースターは1969年生まれ。みんな40歳代。まさに働き盛りって感じと同時に、いずれも「不惑」を謳歌している感じが存分に(マークは未遂だったようだけど)。とはいえ、自身の「やりたいこと」と周囲(及び社会[というか観客?])から「求められること」とのバランス感覚に、各々の生き方(生き様)や哲学が明確に出ていた気がして興味深かった。ちなみに、クリストファー・ノーランは彼らの誰よりも若く、1970年生まれ。そんなこといったら、チャニング・テイタムの盟友リード・カロリン(『ホワイトハウス・ダウン』でプロデューサー)なんて1982年生まれなんだよね。彼は『マジック・マイク』では脚本を担当していたり(端役で出演してたけど、役者も向いてそうな印象だった)、面白い存在になりそうな予感。
 

そういえば、スクールバスの一件とか聖職者に自身の役割を説かれたりとか、『サイモン・バーチ』を勝手に想い出したりもした。「特別」であることに変わりはないね。

2013年8月18日日曜日

ホワイトハウス・ダウン

The pen is mightier than the sword.
(ペンは剣よりも強し。)

そんな言葉をこの手の映画で決め台詞に持って来ちゃうところが、エメリッヒ&ヴァンダービルトって感じがして、「堅いなぁ~」と苦々しくも微笑ましい。ただの思わせぶりや未回収の伏線もどきも無くは無いけど、むしろ律儀な回収ジョブにいちいち減速しがちなとこも。とはいえ、序盤の「ポリティカル・サスペンス内に何とか留まろうとする」流れから後半の「破れかぶれ」に突入すれば、そこそこ気楽におんぶにだっこ。日曜夜のテレ朝で(勿論、吹替で)観たい気分に充たされながら、それを初日初回に駆けつけて特大スクリーン(シネスコだし!)で観てるという豪快バカの贅沢は、それはそれで醍醐味なのだ。

とか言いながら・・・前日深夜に本作のCMを観て予約してた事実を想い出し、あわてて寝たという曖昧な事前期待。ここのところ、『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』と初日初回観賞で変な達成感をおぼえた(私自身、初日に観ること自体が極めて稀有なので)上に、お盆時期には映画館に足を運ばない習慣もあって、まさか世間的にも夏休みクライマックスの週末に映画を観に行くなどと思いもしなかった・・・って、自分で早々に予約していたくせに。

学生時代、シネコンでアルバイトしてた頃、盆と正月の劇場の混雑具合は凄まじかった。映画の観客動員が上昇を続けていた時期、シネコン飽和になる前で、バイト先のシネコンでも日中は連日全作全回満席の勢い。ネット予約もなければ、そもそも指定席ですらなかった。入場前の行列整理、座席への誘導も重要ミッション。自分が客なら大の苦手状況ながら、接客する側としては双方向ワクワクな夏祭り。そんな中にありながら、スタジオジブリ作品にも関わらず、絶対に満席にならなかった(実際は何度か満席になってバイト一同感嘆の声をあげたこともあった)『ホーホケキョ となりの山田くん』の偉大さ、潔さ。『かぐや姫の物語』は更に壮絶な予感。当時体感し損ねた高畑勲の怪物っぷりを、今年はしっかりと全身震撼。(ちなみに、『ホーホケキョ となりの山田くん』の英題って「My Neighbors The Yamadas」なんだ。『となりのトトロ』の英題が「My Neighbor Totoro」だからね。ジブリの両雄は、本当におもしろい。)

さて、話をWHDに戻して。

本作の本国興行では、莫大な制作費(といっても、VFXのショボさ[随分と没頭を妨げられた]には明らかな節約仕様を感じたけどね)に比して成績不振との情報を耳にした気がしたのだが、怪獣やゾンビが出てくる映画よりもよっぽど手堅い娯楽作だったし、当然キモサベ・ムービーの偏執ぶりには遠く及ばず、日本でお盆真っ只中の公開は奏功なんではなかろうか。新味もなければ、豪快不足な折り目正しき頭の悪さ。弛緩と疲れの夏バテ脳には、まことにやさしく沁みるのだ。目の前でさっきまで全世界秩序崩壊寸前が展開されていたというのに、ハラハラを微塵も残さずに劇場を去れる爽快感。ランチ享受に即スタンバイ。観ながら頭を過ぎった不満のいろいろまでを忘却させる軽薄の妙、軽妙。活かしきれてない要素が散らばりまくっているにもかかわらず、そのへんはセルフ補完ってことだよね的寛容は、夏の魔法のせいかしら?

監督の趣味全開確信犯の『ローン・レンジャー』や『パシフィック・リム』が興行的に苦戦するのは納得できるけど、エメリッヒの趣味全開ってあくまで確信犯的だから、せめてヒットくらいはさせてあげたい気持ちになったりもする。とはいえ、アメリカじゃ不振だったようだけど、確かに自分がアメリカ人(しかも、この時代に)だとしたら、気安く楽しめる設定でもない気がしたし、構造から来る危機にもかかわらず、(表面的には好転したように描かれてるが)実際は何ら構造は変わらぬまま終わりを迎えるために、相克からの解放感を味えることもない。しかも、これまでは「米国史上最悪の危機=世界の終わりカウントダウン」だったのに、本作では「米国史上最悪の危機=米国の終わりの始まり(見ようによっては下克上絶好機)」として描かれているようにも感じられる為、「危機を楽しむ」ことが困難なのだろう。強い人間が自分の強さをアピールするために一旦負け始めると、その後の勝利の味が格別!という従来の手法を無視しているようにも思えたが、その傾向は一つ前の大作『2012』でも同様で(前作『もうひとりのシェイクスピア』では更なる自我の目覚めを経験し)、ドイツ人のローランド・エメリッヒの或る種「面目」躍如の結果かも。とはいえ、劇中での大統領の信条に素直にシンクロできるアメリカ国民はまだまだマイノリティにも思えるし、かといって敵側のロジックも散漫カオスで感情移入は困難だから、当事者としてのアメリカ人の大半は心の置き場を失してしまうのかもね。

『マジック・マイク』観た後だと、チャニングの活躍はついつい「微笑ましく見守る」姿勢で観てしまう。ジェイミー・フォックスも『ジャンゴ』で「リンカーン」やった訳だし、妙なしっくり感をおぼえたり。マギー・ギレンホール(ジレンホールの方が好いのかな・・・というか、ギンレイホールに見えるんだよね)は相変わらず絶対不萌ながら絶対品格が漂うお約束。

主人公ジョン・ケイル(チャニング・テイタム)の娘エミリーを演じるジョーイ・キングの売れっ子ぶりは止まらない。『ラモーナのおきて』で主演済みの彼女は、『ラブ・アゲイン』でスティーヴ・カレルの娘役を、『ダークナイト・ライジング』でマリオン・コティヤールの幼少期を演じてる。でも、早くもちょっと演技が鼻につき始めて来た気がしないでもない。ただ、あの「ドヤ振り」は自身の役割に自信たっぷりな彼女ならではだよね。

個人的に終始好い味出してたと思ったのが、ホワイトハウス見学ツアーのガイドを演じるニコラス・ライト。コメディ要素を一番巧く結実させてた印象。(そういえば、劇場内がもうちょっと自然に笑いがもれる状況だったら、コメディ色がもっと強まって迫ってきたかもな・・・などと思いながら観ていた。)カナダの俳優みたいだけど、これからハリウッド大作なんかにもちょくちょく顔を出しそうな予感。

脇役といえば、ケヴィン・ランキン。人質ルームで調子づいてる敵チームの頭弱そうなアイツです。本作にはテレビドラマでよく見る顔がたくさん出演しているらしいのだけど、海外ドラマ初心者の私には当然把握できる由もなし。ただ、彼はWOWOWで放映されていた『アンフォゲッタブル/完全記憶捜査』でメインキャストの一人だったりもしたので気づけましたよ。でも、だいぶ経ってからだけど(役どころが全然異なっていたからね)。

脚本を担当しているジェームズ・ヴァンダービルト。説明不能の魅力が蠢く私的好物『ゾディアック』の脚本家。毛色は全く異なるが、よくわからないまま気づけば終わってる感はやや近似。


 
 
今夏公開の洋画大作観賞もいよいよ大詰め。先鋒(『ローン・レンジャー』)がまさかの連戦連勝。このままでは今夏の主役はロッシーニ。
 

2013年8月11日日曜日

ワールド・ウォーZ

人類存亡の危機に直面し、男が家族を守るため命をかけて戦う感動ヒューマンドラマ。として宣伝していることを疑問視・問題視する声も聞こえてくる本作。私も観るまではせこい宣伝と思っていたが、実際に観てみると、ゾンビ映画色は控えめで、配給会社はある程度「正しい」判断だったのかもしれない気さえしてきてしまった。それに、今夏の拡大公開系作品って洋邦共に俗に言う「ヒューマンドラマ」系が皆無に等しい状態で、そうした作品を求める層に対する訴求力も期待した一方、そういった作品が供給されないアンバランスな状況を補完する結果をもたらせることも想定したのかと。でも、結局は作品自体の訴求力こそ大きな鍵を握るのが観客動員。『テッド』で内容とは無関係に集客を成功(私見)させた東宝東和とはいえ、さすがに今回もそう上手くはいかないだろう。多少の夏休み特需には与るだろうが。

事前に事実確認や背景知識の補充が求められる作品は別として、私は観賞前には積極的に情報収集したりしない。むしろシャットアウト傾向にある為(予告はまともに[真剣に]見ない/流し見な感じ)、実は本作の宣伝戦略に関しても指摘が飛び交うのを見かけるまでは全然気づかなかったほど。とはいえ、興行成績と共に大まかな評判なんかは聞こえてくるので、『ローン・レンジャー』が売上・批評共に最悪だとか、本作は売上・批評共に大成功だとかという認識で夏を迎えたわけだけど、やっぱり自分の眼で見るまでは何事もわからんね。百聞は一見に如かず。

『ローン・レンジャー』にシビれまくりアガりまくりモエまくりな2時間半は、潔いほどのジャンル偏愛と様式美に充ちるが故の賜だったのだろう。しかし、だからこそ、そうしたマニア指向はどうしても大衆の賛同は得にくいのが実態。正反対なのが本作で、ジャンルへの偏愛や様式美に唸る準備で胸膨らませるマニアの前を、「ちょっと失礼」と澄まし顔で素通りするスマートさ。その姿勢はあまりにクレバーで、「いえいえ、どうぞどうぞ」と無意識に快諾しながら快く見遣っていれば、「あれ?もしかして終わる?終わった!?」という。見事は見事かもしれないが(2時間弱を何らの負担もなく一息に過ごさせてくれるからね)、その絶妙な匙加減(褒める気にはならないくせに、怒る気にもなれない脱力感)は一体何なんだろう。

「マーク・フォスターが創りたいもの」が私にはよくわからない。監督作を全部観ているわけではないが、適当な(「適度」じゃないのがむしろ厄介)技術と適度な(「適当」じゃないのが残念)想像力。語りたいものがあるようでない、ないようである。ないならないで好いんだけれど、あるふりするのは止めてくんない?みたいな。とはいえ、ラストを巡って主演(のみならずプロデューサー)のブラッド・ピットと正面衝突したらしいから(不仲説が前面に出てくるくらい)、やっぱり信条はあるんだろうね。でも、あるならあるでそれが伝わって来て欲しいし、そこがいつまで経ってもブラックボックスで居心地が悪すぎる。しかも、観ている間は別に気にならないというところも非常に質が悪い。だまされた気が(勝手に)してしまう。いやいや、別にだまされるならだまされるで好い。むしろ、だまされてるとわかっていて益々信じちゃうワンダーを僕らは映画に求めてる。でも、そういうのが、ない。あぁ、その点、本当に『ローン・レンジャー』という大嘘つきの超絶リアリティは心地好すぎて罪深い。(『ローン・レンジャー』『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』を三日連続で観たもので)

作品のトーンというか方向性が急変するラストシークエンスは、撮り終えたものに変更が求められ、まるで異なった展開(場所も話も)で別に撮ってくっつけたらしいのだけど、確かにそれ故のまとまりのなさは吃驚したものの、力業すぎて映画で語られているメッセージ風の内容とやってることの乖離(というかむしろ相反)が余りにヤケクソに満ちていて実はちょっと可笑しみを覚えもした。ところが、本当の驚愕はエンドロールに待っていた。

本作のテレビCMで流れるMuseの「Follow Me」。彼らの曲は最近映画の予告編でよく使われるけど(『ナイト&デイ』や『ツーリスト』)、本編やエンドロールで実際に流れることがないのもこれまた多い(『ツーリスト』ではMuseが流れるが別の曲)。よって、今回もどうせ単なるCM用のタイアップなんだと思っていた。すると本編でMuseの別の曲が使われていたので、「もしや?」と思い始めたり。でも、そもそもMUSEは本作のワールド・プレミアでパフォーマンスしていたり(花道が「Z」!)、今回の参加は普通に話題になっていたみたいで(日本の公式サイトにも監督と同列で紹介されてるという好待遇)、単なる私の情報不足だったみたいだけど。とはいえ、父親が家族のもとを離れて奔走し始めた時点で「フォロー・ミー」じゃないよな・・・と諦めていたら、なんとエンドロールで「Follow Me」が流れ始めるではないですか!しかし!なんと!!カラオケ!!!

ところが、Muse関連(厳密にはMuse絡みではないが)ではもっと恐ろしい出来事がっ!なんと、映画本編上映前(予告の一番最後)に、鉄拳とスガシカオのコラボによるエスカップのCMがフルで流れたのだ(ユナイテッド・シネマ豊洲にて)。検索したらユナイテッド・シネマWebサイトに案内告知がありました・・・。これもやっぱりMuseつながりなのだろうか。(参考:「振り子」/「Follow Me(鉄拳Version)」)

あのパラパラ漫画を巨大スクリーンで見るという「異様」さは、最初こそほんのちょっと面白味を感じたが、如何せん長い。5分弱。『風立ちぬ』の予告も最後の頃は正直ちょっと鬱陶しかったけど、でもあれは映画の予告だし、自分次第では本編前のウォームアップ的高揚促進剤になり得たけれど、何で栄養ドリンクのコマーシャルを5分近くも、それも本編直前に見させられねばならんのか・・・ちなみに、動画にアップされている内容まんまだからね。映画館用に編集されることもなく、終盤のエンドロール仕様の気持ち悪い手書き文まで見せられるし、勿論ロゴやらキャンペーンやらの絵もじっくり、ねっとりと。内容も実に凡庸で、深夜にパソコンの液晶でまったり見る分には好いのかもしれないが、映画館でかけるものではない。ま、鉄拳だって企業側のあれやこれやの要望きかなきゃいけなくて、当たり障りのないつまらないものにしか仕上がらなかったのだろう。本格的な誰得!?コラボ。ま、UC豊洲&としまえんは小遣い稼げてるのかもしれないが。(個人的には、その両劇場には素敵な観賞環境をご提供頂いておりますので感謝はしておりますが・・・)

というわけで、本作同様、個人的な観賞体験もやや場外乱闘気味ですが、以下本編に関する雑感を(ネタバレ含む)。

◆冒頭から前半の過剰なスピーディ展開はなかなか見所濃縮で、この夏『風立ちぬ』に唯一対抗できるモブ!やはり大スクリーンに映える画や動きを大スクリーンで観る快感こそ映画的醍醐味だし、自宅でまったり観てると冷めてしまいそうなご都合主義だって、映画館のスクリーンを眺める群集をグイグイ引っ張っていくようなアドレナリンを存分に大放出。そんな高揚感に安心感(そこが、マーク・フォスターの良くも悪くもなところかも。「大丈夫?」って不安と「やってくれるに違いない」って期待がせめぎ合いながら蛇行する感じが個人的には好み。)

◆警官があっさり職務放棄してたり、市民は守らなくても美術品は守ったりする「人間的」な権力の在り方をさらりと見せたりするところも好き。あと、評価分かれそうだけど、大統領が既にあっけなく死んでいるという事実をいいことに、政治がほとんど無力というか機能不全状態になっているのも話をシンプルにして好かったのかも。但し、その反動としてのアナーキーな無秩序が慄然として描き出されないところには物足りなさも感じたり。そう、総じて助走(合理性)と飛躍(破綻)の往来によって生じる興奮成分が足りなかったな。(観てる間は自然と見入っていたけれど)

◆子供の扱いの投げやり感。娘が喘息だって設定も、序盤のドラッグストアで終了。たまたま匿ってくれた家族の長男がブラピ一家と共に脱出する(ブラピは映画のなかでも養子を引き取る!)感動エピソードも、以後活かされず。(あの少年の活躍を密かに期待してしまったよ・・・なかなか好い眼してたしさ。)というか、映画のなかでは主人公がアメリカを発ってからの家族は物語的に大して機能するわけでもないのだから、むしろラストまで隠しておいた方が存在感が増しただろうに。ちょくちょく挿入されると気が散るし、実際禍因を招いたりもするわけだし。画面に出したとしても、連絡とれないままの方がスリリング。

◆自分たちを匿ってくれた家族にブラピが「Movement is Life」みたいなことを語ってて、「これは映画のテーマに違いない!」と勝手に脳裏に刻んだものの、それはただの期待に過ぎなかったという話。あれだけ頭から動きまくってたんだから、もっと最後まで動きまくって欲しかった。

◆北朝鮮は全国民の歯を抜くことで感染を鎮めた・・・なんて話が確か出てきたと思う。そうか、「噛みつく」っていうのは「革命」的な行為なんだよね。つまり、ゾンビにもそうしたメタファーがあるってことか。例えば、「不死」を憧憬する「反死」(「死」の存在を遠ざける)な人類に対して、「非死(Undead)」による逆襲が展開されるという。虐げられた「死」からの復讐であり、闇雲に貪欲に希求する「生」の反乱でもある。

◆陪審員制度の正当性(「俺は10番目の男だ」)やらシートベルトによる安全性(飛行機墜落前にシートベルト締めるブラピ)、「No Pepsi No Life」というこれ見よがし。とにかく、いろんな宣伝が入りすぎ、しかも見得切り的過ぎる。流れや意識の断絶が起こってしまう、

◆イスラエルで壁の中になるべく人間を入れようとする策の理屈「人間を一人救えば、ゾンビが一体減る」って発想は好いなって思ってたのに、それも大して活かされず。ま、でも、そんな理想にちょっぴりジーンとさせておいて、お祭り騒ぎで浮かれていたら、その音がゾンビたちを呼んだり奮い立たせちゃったりするって「自業自得」感(しかも、悲壮感をむやみに漂わせないところは面白い)は好い。

◆「人類の危機」映画においては、長らく人類(文明)の勝利がお決まりの結末(あるべき結論)とされて来ていたが、最近では『地球が静止する日』や『2012』のように原因が解明できなかったり手の施しようがなかったりして「とにかく逃げる(遠ざかる)」という結論が新たな趨勢となってきていたように思う。それは、大戦から冷戦へと「戦争」こそが平和だった時代から、別の手段を模索する国際社会の情勢と連動するものなのであろうけど。本作が興味深かったのは、「自業自得」感を根底に置きながら(前日公開の『パシフィック・リム』も同じだし、最近は「自戒」モードを前提にすることが多い)、ついに「負けるが勝ち」という方向性に向かい始めたというところ。「生物は、弱さを強さと偽ろうとする。そして、実は弱さこそが強さにもなり得るものなのだ。」これも、もっと活かせる主張だったのに、と私は思う。

◆「自業自得」感といえば、今まで散々命を救い平和を生み出してきたはずの銃が、本作では身を破滅させるものになるというのは興味深い。銃を撃つと、その音で獲物を見つけ出すゾンビ。死という圧倒的絶対的静寂を厭う文明人は、とにかく音のなかに身を置き誤魔化そうとする。そして、静寂によって初めて騒ぎ出す「内なる声」が聞こえ出すことを防ぐ。他方、外からの刺激(音)がないなかでは目的(対象)を失うゾンビたち。彼らには静寂の中で聞こえるはずの「内なる声」がない。つまり、人間の生死(人間であるか否か)を決めるのは、身体が動くか否か、あるいは感覚器官が機能するか否かの問題なのではないということか。人間とは何か。それは数多のゾンビ映画で提示されているテーマでもあると思うが、本作においてもそうした考察は可能。本作を包む静寂の意味は、そういったところにあるのかもしれない。

◆同様の観点からは、病を遠ざけることこそが至上命令であり続けてきた近代文明への批判、革命としての「病の注入」こそ、排除から共存へのシナリオの一部だったりする。そんな主張がこめられているのかも。


あれこれ考えているうちに、色々と面白く振り返られてしまったみたい(笑)

そういえば、本作の音楽はマルコ・ベルトラミが担当しているのだが、実は本作で最も印象に残るのは前述のMuseとThis Will Destroy You。This~の楽曲は、『マネーボール』でも随分と印象的にフィーチャーされてたし、ブラッド・ピットのお気に入りだったりするのかな。ま、俺も好きなので今後もうまく使ってください。(このあたりのチョイスは、 『28日後...』の選曲に通ずるというか重なるものを感じたな。あ、でも、どうやら『ウォーキング・デッド』でもThis~はフィーチャーされてるらしいので、そこ由来という線もあるのかな)

World War Z × Muse

2013年8月10日土曜日

パシフィック・リム

いつもは澄まし顔でスカしたこと書いてるくせに、実際はこの手の祭りに浮かれてしまう。「東映まんがまつり」に興奮してた男子なメンタル健在。三つ子の魂百まで(仮)。

休みなのをいいことに、朝一の回と昼下がりの回を早々に予約してしまっている自分に戸惑うくらい。あれ、俺ってこの手の映画に事前からこんなにも興奮するタイプだったっけ?ってね。でも、よくよく考えると、文学的(と呼べるかどうかは別として)にも芸術的にも(つまり文芸的な)ルーツのすべては幼少期に好んで見たアニメや漫画にあるような気がしてしまう。なかでも意識的自覚的にコミットし始めた漫画(『キン肉マン』『キャプテン翼』『ドラゴンボール』など)以前の、鮮明には思い出せないながら確実に洗礼を受けているであろう自覚のある戦隊ものやロボものは、有無も言わさずに血となり肉となったような気さえする。そんな影響のせいか、この手の作品の公開に際しては、抗いがたい胸の高鳴りを覚えてしまう。アメコミ物に何だかんだ吸い寄せられるのも同様な所以だろう。

本作をIMAX3Dで観賞することは絶対必須だと心に決めていた。一方、3Dを字幕で観るのが本当に苦手な自分にとって3Dは吹替で観ることが必定。となれば、(2回のうち)1回は2D字幕!のはずを、ちょっとミスって2D吹替で観てしまい、今日は結局2回とも吹替版。特に目当ての役者がいたわけでもなかったので、気が緩んでました(笑)まさか菊地凛子も非本人吹替とは知らず・・・。とはいえ、菊地凛子が演じる森マコの吹替は綾波レイでおなじみの(とか言いながらギレルモ同様(笑)ヱヴァには詳しくありません)林原めぐみ。他にも、「アムロ・レイ」の古谷徹(メカに乗る役ではないですが)と「シャア・アズナブル」の池田秀一が共に吹替キャストにいたり(二人とも60歳代というのに声の艶やかなこと・・・声優ってすごいね)、「上杉達也」の三ツ矢雄二が最近のキャラにもやや通ずる役どころで出ていたり。玄田哲章や浪川大輔といった俺でも知っている名前(海外ドラマの吹替なんかも多くやってるからね)もあって、サービス精神旺盛&豪華&堅実な吹替版に仕上がっている(と思う)。パンフも吹替関連記事を載せてくれても好かったのに。あ、でも、パンフはそこそこ「頑張ってる(©『桐島』前田涼也)」ほうです。

以前は3D上映があるなら絶対3Dで観る方針だった俺だけど、最近では2D観賞で済ますことも増えてきた。理由としては、「3D効果(演出)がマンネリ気味」「3Dの字幕版が個人的にはNGながら、キャストによっては絶対字幕版が好い場合もある」「画面が暗くなったり小さく感じたりする」等が挙げられる。気に入ることがそもそも目に見えてたり、観た結果気に入ったりすると、仕様を変えてリピート観賞してしまったりもするけれど(思うツボ)、とはいえ基本的に食傷傾向にある3D上映。そんな俺が今回、同じ作品で2Dと3Dを同日観賞した結論。本作は断然3Dがオススメ!但し、IMAX版に限る・・・かもしれない。

2D版でも全然堪能できると思うし、2D版ならではの楽しみ方もあるとは思うけど、何せ本作のバトルは大半が夜の場面。つまり、全体的に暗い。ならば、3Dなら更に見えづらくなるだろう・・・って?確かに。ただ、2D版とIMAX3Dを見較べただけだと、後者が断然見やすかったのだ。全体的に暗い(黒い)画面のなかで、少しでも3D加工が施されることによって画面内の動きが見えやすくなったのではないかと推測。何しろ、ギレルモ・デル・トロによれば、最初から3Dで制作した場面が45分程度あるらしいので、そういったことも「見やすさ」には貢献してるかも。但し、対戦シーンにおける場面転換は激しいし、寄り過ぎ(私見)な画で展開する時間も多めなので、スクリーン全体を或る程度余裕をもって見渡せる位置が好いのではないかな、とは思う。「いつも」よりやや後ろ、くらいが丁度好いかと。まぁ、そのあたりは好みかな。IMAXではない通常の3Dだと、もしかしたら暗さが増して見にくい(見づらい)ってこともあるかもしれません。

などとミッションコンプリートに浮かれ気分でいるようですが、実は個人的には心置きなく存分に楽しめたって感じでもなかったんですよね・・・

そのあたりの原因というか背景みたいなもの(あくまで私的な)を確かめるうえで、キネマ旬報に掲載されていた三池敏夫氏と佛田洋氏の対談が大いに役立った。(前半は『パシフィック~』を巡っての感想が中心だけど、後半はほとんど日本の特撮に関するこれまでの流れと現在の趨勢に関する話題が中心。その手の情報に詳しい人にとっては目新しい内容はないかもしれないけれど、その方面に明るくない自分にとっては「わかりやすい」と同時に面白く読める内容だった。ちなみに、ギレルモ[キネ旬は「キジェルモ」表記]のインタビュー記事も好かった。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)への敬意なんかは読んでいて胸を打たれた。)まぁ、その辺に関する感想はまた次の機会にでも。(あるかわからないけど)

最後にこじつけ的感慨。放射能や原子力が当然(?)出てくる本作が、長崎に原爆が投下された8月9日公開となったという奇遇。勿論、本作における原子力は「平和利用」されている訳ですが、だからといってハリウッド映画にありがちな蒙昧描写だけでもない。ちゃんと被爆だってしてるし、(『ゴジラ』へのオマージュとして?)「KAIJU(怪獣)」が出現した理由も人間による自然環境の破壊にある。おまけに、冒頭で「命の壁」が怪獣によって容易く破壊される映像は、多くの日本人にとってスーパー堤防の無力さ(文明の卑小さ)を想起させるに違いない。勿論、そうした観点から本作を眺めれば、粗も疑問も浮かんでくるが、それでも単純なだけで終わらせまいとする気概は伝わってくる。そんなこと考えながら観る映画でないことは重々承知(って言う場合は、大概実質不承知・・・)しているが、もしかしたらタイトル(とりわけ「パシフィック」)には平和への祈りも込められているのかも(「pacific」はそもそも「平和にする」の意)。
 

2013年7月31日水曜日

終戦のエンペラー

浪人時代に通っていた予備校で最も興味深い授業の一つに日本史(近現代史)があった。正直、前近代の授業は誰が教えてたのかすら憶えていない程だが、近現代の授業で聞いたエピソードの数々はいまだに鮮明に憶えていたりする。講師の話(し方)が面白かったということもあるが、彼が語る人物像が実に「立体的」であり、そのためにも中心(観点)は常に多様かつ移動するものだった。そこでほんの少しだけ、歴史が物語であることを実感できていたかもしれない。(その講師はよく授業を延長していて、職員が「早く終わってください」的プレッシャーを度々かけに来たり、終いには冷房が止められたり等々、そういった熱意からも実に「伝わる」「届く」ものが産み出されていたんだとも思う。)

美談や懐古に陥らぬ「戦争映画」が作られなくなって久しいように思う。遠ざかるほど冷静に、客観的になれる。そう一般的には思われがちだが、そこには忘却という「都合の好い改変」が潜んでいるという事実は計算外。いや、むしろ折り込み済ゆえに、過去よりも真実に到達しているはずの現在を肯定するためのロジック(実際はマジック)として援用されがちなのだろう。

マシュー・フォックス演じるフェラーズ准将は、「天皇を戦犯として裁くか否か」の決定に必要な証拠や証言を集めてゆくなかで、どうしても日本人の精神性を理解することができず、そうした思いから日本人の精神性を「ミステリアス」と評していた。私はその時ふと、「mysterious」を何故か「myth-terious」のようにイメージしてしまった。「mystery」と「myth」はいずれも「神」に関連する表現をルーツにもつのかと想像してしまったからで、実際には語源は同じではないようだ。しかし、そこで「myth」の語源がギリシャ語の「話、言葉」を意味する語であることを知る。そうすると益々、戦中の日本が「ミス(myth)テリアス」ゆえの「ミス(mys)テリアス」を孕んでいたような気がしてきた。

勿論、統治のために「神話」を大いに活用したという点で十分「myth」なのだけれども、それ以上にまさに「お話」という「もうひとつの世界」が現実世界以上にリアリティを持ってしまっていた時代が戦中の日本なのかとも思えて来た。現実は、近代化により合理精神で駆動すべき世界になっていたし、事実そう動かされていたはずなのに、国民の精神世界においては前近代のさまざまな精神が残存どころか増殖して強固なものへと培養されていったのだ。そして、その原動力としての絶対的支配的原理こそが「天皇制」というフィクションだったのだろう。それはまさに「お話」なだけに、実証は不可能であり、そもそも実証を試みること自体がナンセンス。近代化した社会にとって、そうしたフィクションが力を持ち得ること自体が不可思議なはずでありながら、現実世界(物質世界)より「もうひとつの世界(精神世界)」こそにリアリティを見出していた国民にとっては、至極自然な感覚だったのかもしれない。

常に数字やデータで可視化され数量化される実証的フィクションとしての経済。近代社会における現状認識の指標。それすらも無視し、というより意識すらすることなく、桁違いの国力を有した列強に平然と(悠然とすら)戦いを挑んだ小国日本。そこには、精神世界がもつ無限の力(それは人間の「美しさ」の象徴とも呼べる)を見出すこともできるだろう。肯定的な懐古の眼差しで大東亜戦争を回顧してしまう「向き」が払拭できない理由も其処にあるかもしれない。それはそれで、ひとつの正当性を持つとは思う。しかし、そこに必ず貼り付いている裏面(代償・犠牲)と切り離さずにそれを認めることは極めて難しい。(大抵、裏面を見ずして認めてしまう。)

「もうひとつの世界」を壊され(それでも、戦前に植え付けられた人達のなかには息づいていることと思う)、引き換えに植え付けられた「もうひとつの世界(西洋への憧れ・追随)」も急速に消滅し、もはや「もうひとつの世界」の核となるものを見失いつつある現在。今の日本人にとって世界とは、現実世界(物質世界)だけになりつつあるだろうか。それとも、それだけでは耐えられないから新たな「もうひとつの世界」を膨らませつつあるのだろうか。

フェラーズ准将の言う「ミステリアス」に共感するか、それとも「ミステリアス」な日本人に共感するか。世代やイデオロギーによっても大きく異なるだろう。え?私?私はそのどちらでもないようでいて、どちらでもある・・・美しい日本の私とも言い切れぬ、あいまいな日本の私。


2013年7月30日火曜日

パリ猫ディノの夜

どれだけ自分なりにアンテナ張りめぐらしてても、結局そこにはセルフ・フィルタリング(?)みたいなものが働いてしまい、知らず識らずのうちに取捨選択してしまったりしているのだろう。本作も、公開情報すら把握しておらず、更にはレコメンドの声も「私には」届いていなかった。ところが、公開されると次第に不意に見かける好評の声。おまけに、何と本作はフィルム上映だというではないか!これはもう苦手シネコン筆頭の新宿ピカデリーでの上映とはいえ、駆けつけないわけにはいくまい・・・ということで。

一昨年のフランス映画祭で上映された本作(そのときの邦題は「パリ猫の生き方」)は、その存在は知っていたし、アカデミー賞にノミネートされたのも知っていたけれど(だから、そのうちWOWOWあたりで放映するかな、とは思ってた)、まさかこのタイミングで(本国公開は2010年12月)日本で劇場公開されるとは予想だにせず。しかも、これまで大して背中おされるようなレコメンドも(たまたまかもしれないが)耳に入ってこなかったもので、最初は「上映中」の報を耳にしても観賞リストに入る予定はなかったのだが、前述の通りの成り行きで観ることにして・・・本当好かった!自分で観る気にならないタイプであるからこそ得られる感応に至福のとき!アニメ、フィルム、フランス、それらの素敵さが見事につまった逸品に、豊潤づくしの70分!

アニメに関しては詳しくない私だが、最近観た三本(『モンスターズ・ユニバーシティ』『SHORT PEACE』『風立ちぬ』)から「自分がアニメに求めるもの」がより鮮明になった気がしたばかり。実写に勝るとも劣らぬ写実性をもはや手中におさめたアニメーション。しかし、そうした技術の進歩は必ずしも表現力の向上や観る者の幸福感をもたらす一方でもない気がしてしまう昨今。アニメにおける立体感やリアリティの増長はむしろ、アニメのもつイリュージョンの減退につながり、それはすなわちイマジネーションの稀薄にもつながるのではないだろうか。より「平面的」であったり、より「抽象的」であったりする「画」の力を感じるとき、「アニメでなければならない」「アニメだからこそ」な世界に魅了される幸福を想い出させてくれるという事実。

アイロニーやエスプリをプティ効かせつつ、キュビズム的な画は3Dに逆行するようにみせかけて挑発し凌駕しようとし、スクリーンを手前にも奥にもくねらせる。そして、ヨーロッパの蒼い夜空の美しさがアニメでフィルムに焼きつけられている不思議な芸術感。昔ながらの「コマ」を感じさせつつも流麗さも併せもつ、心地好い「ひっかかり」を忘れぬモーションがいちいち愛おしい。そして、ジャジーな雰囲気を演出するナンバーと、独創的な画との共犯に心酔してしまう絶妙なスコアが本作の「映画」感を更に演出してくれる。

猫好きにはたまらない本作らしいが、どの人物にも悲哀と屈折を注入した人物造形にヨーロッパ映画好きはニヤリとするし、とにかく屋根から屋根へ飛んだり跳ねたりするアクションの連続に活劇ファンは堪能必至。フィルムの質感が色彩のまろやかさを、フィルムの音がスコアの包容力を増幅させると同時に、本作のもつ「コマ」感はきっとフィルムで投影されることで完成されるのかも、などとまで思えてしまう。

実に魅力的で、元来それほど好みなタイプに思えない私でも再見したくなっている本作。セザール賞ではアニメ部門でノミネートされながらも受賞を逃していたので、納得いかず(笑)に確認すれば、同年の受賞は『イリュージョニスト』。それは相手が悪かった・・・が、本作も方向性こそ違えど、アニメが放つ魅惑でいえば、勝るとも劣らない。


2013年7月24日水曜日

欲望のバージニア/LAWLESS

『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』とか『ジャッキー・コーガン』とか、そして本作みたいな映画を僕は映画館(と呼ぶに値するシアター)でもっと観たい。『ジャッキー~』は正直至極退屈ではあったけど。2時間前後、暗闇でシートに身を埋めては固唾を呑んで見つめるスクリーン、それが映画という体験。ならば、鎮まる心が退屈の海にのまれるか、無限のビートを刻み始めるか、それは紙一重。そんなリスキーなギャンブルが映画という体験。だから、退屈を恐れずつくられた映画を、退屈を厭わずに観ていきたい。『ジェシー・ジェームズの暗殺』を、平日昼間ガラガラの、今はなきチネ・グランデ観た記憶。至福の映画体験、その典型。映画も俺も、まどろむ浪漫。暗闇の白日夢。

旧き良きなオーラをまとい、ニューシネマなムードも漂わせ、それらが融け合いいちゃつくような、そんな「ささやかなご都合」が好都合。アートスクール時代からの仲というジョン・ヒルコート(監督)とニック・ケイヴ(音楽、そして脚本!)の知己知己BANG!BANG!上機嫌!そんな現場ゆえ、仕上がりも統率はやや欠けてるが、なんてったってLAWLESSよ。ラストの「最近じゃ世の中も随分と静かになっちまったもんだ・・・」って語りに箔付けるには、終始ざわざわしてなきゃなんねぇわけだ。安心して観てられる登場人物が誰一人いないディスオーダー。なのに、いいや、だからこそ、安心して身をまかせてしまうスペクタクル。まさに、台詞と画がついたニック・ケイヴのミュージック。

禁酒法の時代、それをカリカチュアライズした過去で終わらせない。むしろ、現代と地続きであることを強調する。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを歌うカントリーシンガー。歴史が更新の連続と同じくらい、反復の継起である諸相。様式美の踏襲。クラシックによる更新。今は昔、昔は今。

「恐い物知らず」にとって最も大切なもの、それは恐怖心。無敵じゃないけど、不死身の理由。



私が観たのは郊外のシネコン朝一の回。上映開始間近に入場すると、目の前にシルバーなレディ3人連れがゆったりと場内に入ったところ。手元のチケットに眼を遣りながら、座席を探し始めるが、近くのシルバー男性が「いっぱい空いてるから、どこでも好きなとこに座ればええんじゃ」と声をかけ、「そりゃそうだ」とばかりに「ここ空いとるから、ここにしようかね」と徐に腰を下ろすお三方。なんだか、上映前から早速素敵な和みを頂き、劇場観賞醍醐味享受。

そして、上映終了後のシルバー・レディ・トリオ。「好い映画だったわねぇ~」「好い映画!」「『欲望』って感じだったわよねぇ~」「ヨ・ク・ボ・ウ!」と、それはもう御堪能オーラ全開で嬉しそうに語らいながら、劇場を後にしていった。懸命に脳へと埋め込んだリテラシー・チップを遙かに凌駕する、自然に育まれた見る眼・感じる心・自由な体感。夢や希望や憧れが健在だった頃の現実を生きた世代。発露させるからこそ衝突も後悔も享受もできた、「欲望」の時代。自己完結型欲望は、いつしかひたすら抑望の世代。無法地帯の輝きは、強大な権威や秩序の副産物。秩序なき時代の無法はただの埋没するしかない日常。

2013年7月19日金曜日

完成度と感性度の反比例

『モンスターズ・ユニバーシティー』を観た翌日に、ミゲル・ゴメス(Miguel Gomes)の長編処女作『自分に見合った顔(A Cara que Mereces)』を観た。抜群の完成度に唸った前者だが、余白も余地も残さぬ巧みには、もはや感性が入り混む隙は無い。完成度度外視な後者に戸惑いと朦朧の最中で僕は、荒ぶる全天候型感性に、どこから手をつけていいか、わからない。

ポエジーをひとかけら、ください。

そもそも舞台を「大学」に設定したというのを知ったとき、厭な予感が過ぎった『MU』。全く作品内容に切り込まない抽象礼賛躍ったコメント見かけては、懸念高まるMG一作目。M(ものすごく)U(優秀)な『モンスターズ・ユニバーシティー』、M(ものすごく)G(自慰)だった『自分に見合った顔』。結局どちらにもどこか勝手におぼえる「敗北」感。

ポエジーないは、僕のほう?

完成度を見極める客観性、感性度を決める主観性。どちらも自信がない僕は、どんな映画を観れば好い?好きな映画を観れば好い。好きに映画を観れば好い。だけど、クールに分析したい!やっぱり、シネフィル気取りたい!それでも誰もが、ラタトゥイユ。
 


2013年5月24日金曜日

きっと、うまくいく/3 idiots

インドで歴代興収の新記録を樹立したという本作は2009年の映画。おなじみのボリウッド製ミュージカル映画とはやや異なったヴィジュアルで、未踏の愉しみに触れられそうなワクワク胸に、ちょっと遠征してみたり。インド映画としては珍しい小規模ながらも拡大公開(去年の『ロボット』とかもそうかな)となった本作ゆえに、シネコンの大スクリーンでボリウッド堪能したい熱。チネチッタでの一週目は、個人的にはチネチッタで最も好きな11番スクリーンでの上映ということもあり、行って来ました。本拠地(?)シネマート新宿では平日でもかなり混雑してるといった情報が聞こえて来てもいたので、いつもはゆったり観賞できるチネチッタでのミニシアター系作品とは状況が違うかもという覚悟のもとに入ってみると・・・客層は違うものの(独り客と二人連れとが同数くらい)、いつも通りのゆったり(平たく言えばガラガラなんだけど。平日の夕方だからね)で快適贅沢に観賞終了。

あの大画面で大音量でインド映画観られてるって状況だけで満悦気分にひたれはするものの、本作に充満するハッピー成分は適度過ぎるほどの正しい配合で、確かに飽きることも緩むこともなく余裕で一息170分。ただ、そのサクサク感はインド映画の定石は抑えつつも、ボリウッド特有のトゥー・マッチな喜怒哀楽(とりわけ、怒や哀には余計に熱量割かれたりする)が見受けられることなく、ボリウッド・ミーツ・ハリウッド的なテイストを感じたり。

本作のあらすじを知ったとき、「なぜ、こういった作品が大衆から広範な支持を集めたのだろう」と思いもしたが(主人公の三人組は超エリートの理系大生というのだから)、実際に観てみれば、ただ単にエリートを憧憬するでも茶化すでもなく、競争や序列といった社会のシステムを再考するための舞台として設定されている。そして、明らかに(?)カースト制の根強さとその呪縛から解放を願う民衆の切なる祈りが投影された物語が展開されているように思う(だからこその、歴代興収No.1)。

インドが全世界的にみてもIT業界においてトップクラスの人材を数多く輩出しているという事実は、従来のカースト制に該当するカテゴリーのない「新しい職業」として誰もが挑戦できる分野であったことに起因するという話をよく聞くが、それが権威となった今、エンジニアといった職業も一つの名誉ある「カースト」になり得たということだろう。そして、三者三様の呪縛からの解放。自由への渇望。学長への度重なる反抗は、社会的な権力や因襲といった外圧となる大きな既存の権威への懐疑から生まれるものながら、本作が掘り下げるのはむしろ内的な枷の自覚にある。だからこそ、社会を変えるよりも自分が変わることが重要であり、それでこそはじめて「すべてうまくいく」気分を味わえる。どの社会にも共通する幸福必定思想ではあるが、とりわけインドのような社会においては勇気づけられる「生き(往き)方」なのだとも思う。

本作の原題は、「3 idiots」。ある辞書によれば、「idiot」とは「官職につけない人」という意味のギリシャ語に由来しているという。なるほど、彼らはまさに官職(既存秩序の枠組を維持する立場)につくような人間ではない。闘争による革命ではなく、セルフ革命による幸せ探し。国家に個人(の自由)を認めさせるヨーロッパとは異なった、そもそも個人の自由は所与であるという自然。しなやかな個人を社会が埋め尽くすことはできないのだろう。


2013年5月14日火曜日

孤独な天使たち

私が映画を観始めた学生時代にはまだ、ベルトルッチがそれなりにコンスタントに作品を発表している時期だった。当時、シネコンでアルバイトしていた私は、シネスイッチ銀座で観てきた『シャンドライの恋』の素晴らしさが解らずに、シネフィル(というタイプでもなかったかな)の先輩から色々と講釈を受けた記憶がある。それは別に「上から」とか「訳知り顔」とかではなく、純粋に「この人はこの作品が好きなんだろうなぁ」という熱量を浴びられるだけで嬉しくなる交流の場だったように思う。当時、その職場にいた社員も映画好きなバイト仲間も、実に柔軟かつ貪欲な映画愛に溢れていたが故、「べき」による否定や「のみ」なフォーカスとは無縁に、いつでもどこでも出ていく覚悟の自由な興味で映画を渡り歩けてた。それが映画を数的にも見始めた時期だったこともあり、とても恵まれた「洗礼」を受けた気がしてもいる。一方で、映画館でバイトしながらも、大して映画に興味ない人や、普通には興味ある程度の人も結構いたりして、それでも場所が場所だけに自然と映画の話になることは少なくなく、そんな中で交わされる各人の映画観からは学ぶところが多かった。

と、本作について語れる「内容」をさして受け取れずに観賞を終えたことがバレバレな書き出し。

正直言って、前述の先輩の講釈を受けたい気持ちで観ていた本作。観てるこちらが、あの地下室になかなか入っていけない気分。なものだから、地上から無理して覗き込んでる感じが続く。

ところが、ある阿呆な妄想に端を発し、急激に勝手に楽しみ始めてしまう。それは、「この姉は実はもう死んでいるのではないか?」という妄想。(つまり、『シックス・センス』的な発想。)そう考えると、二人の邂逅の切なさは増し、別離から再会までの〈不在〉は更新される。思春期の迷えるロレンツォの元に遣わされた「天使」のオリヴィア。地上(現実)に還ってゆくとき、「天使」は姿を消してゆく。

誰もがセンチメンタリズム全開で嬉々として愛でるラストシーン。それには私もやはり抗えず。あれを車椅子の老齢監督が撮っているという事実には、「あこがれ」の放つ眩しさに喜んで目を細めてしまう。


公式サイト

2013年4月23日火曜日

フレンチ・フィーメイル・ニューウェーブ

現在シアター・イメージフォーラムにて、フレンチ・フィーメイル・ニューウェーブと題して気鋭のフランス女性監督による三作品を上映している。先日『ベルヴィル・トーキョー』を観て、全作の観賞完了。個人的には『グッバイ・ファーストラブ』は文句なしの傑作、『スカイラブ』は愛おしい秀作、『ベルヴィル・トーキョー』は極めて苦手定番な作風、という結果。



『グッバイ・ファーストラブ』は、日仏学院で昨年組まれた「フランス女性監督特集」で上映された際に観た。平日に2回のみの上映だったのだが、初見で全身を射貫かれた私は、気づけば翌日の上映にも足を運んでいたし、海外盤ブルーレイも発売早々に注文してしまったほど。ちなみに、2012年に観た非劇場公開作品のなかではベスト。先日のブログでも触れたけど、同じくステファーヌ・フォンテーヌが撮影を手がけた『君と歩く世界』が同時期に劇場公開されている奇遇、奇跡。ステファーヌ・フォンテーヌの傑出した映像に全身委ね、包まれて。フランス映画の新たな地平を辿る軌跡を体感。




『スカイラブ』も同特集で観た。ウェットにならずもドライじゃない、センチじゃないけどノスタルジック。懐古はしても、回顧で終わらない。過去を背負いながら前方凝視で前のめりにぐんぐん進む『グッバイ・ファーストラブ』とは対照的に、目を細めつつ後ろをゆったり眺めながらもゆったり前進みたいな君のいた夏。瑞々しさの成分を一切蒸発させないで、だけど窮屈じゃなく凝縮。多幸感とかいう言葉じゃ軽すぎて、幸福なんて完了感は物足りない。ジュリー・デルピーの脂の乗り方は今、究極の旨味到達。




『ベルヴィル・トーキョー』も日仏での特集上映(一昨年の「第15回カイエ・デュ・シネマ週間」)に選定されていながらも、見逃していた一作。同特集では、ヴァレリー・ドンゼッリの「宣戦布告」(『わたしたちの宣戦布告』として昨年劇場公開)に余りに感応してしまったが故に、その後に上映が予定されていた『ベルヴィル~』は観るのを止めてしまったのだった。(主演が同じ二人だったということもあり)

そうして満を持しての今回の観賞となった。当時の評判はあまり芳しくなく、今回公開後の反応も概ね微妙(一部熱狂)だったので、「好悪どっちかに転んで終わるんだろうな」的腹づもりで見始めると、見事に離れゆく心。物語内容(特にジェレミー・エルカイム演じるジュリアンに対する苛立ちをよく耳にする)にのれないといった拒絶感想が多いようなのだが、私的には「作風」自体(全体?)が完全に受容不可能な空気で充満してた。

日本のインディペンデント作品(特に映画学校の卒業制作や、映画学校で講師と生徒が作ったようなタイプに多い)が放つ、極めて映画的な世界を極めて安っぽい枠内で構築しようとしたイビツ。おそらく優劣の問題ではなく、向き不向きな問題であると私は認識するのだが(などと言うと必ず、「いや、おまえがわかってないだけだよ」的報復に遭うことしばしばなのが、日本のインディペンデント映画語りサークルの苦手なところ)、こういうのって日本だけじゃないんだねって痛感したり。最近では、初めから「無理」そうなものは観賞予定から外すものの、必見臭を嗅いでしまうと引き下がれないシネフィル憧憬病から抜けきれない自分としては、最近も『あれから』を観て撃沈。夏目漱石の『それから』も、大江千里の『これから』も好きだけど、篠原誠の『あれから』は全然・・・好評価を随所で見かけただけに凹みもしたが。(ちなみに、きわめて静寂に満ちた映画なのだが、私が観賞した際のオーディトリウム渋谷では、ロビーでのスタッフ歓談による笑い声が何度か場内まで聞こえてきて極めて遺憾。美学校が入ってからのキノハウスはちょっと苦手な雰囲気が日に日に増してる気がしてる。)

話を『ベルヴィル・トーキョー』に戻すと、作品内容から少し離れてしまうが、生粋のシネフィルがメガホンをとっただけあって、純度の高い「映画的」を追究しようとする姿勢は其処彼処。ただし、デジタルで撮る映像に、フィルムだからこそ活きてきた「映画的」を求めるのは御門違い。陰影に語らせることなど難題なのに、ベッタリのっぺりな暗く黒い画面が継起する。フィルムで錬磨したベテランが、デジタルで「ならでは」を嬉々として駆使したり享受したりするのとは、実に対照的。ちなみに、同じような傾向は、前述の苦手な日本のインディー作品群にも当てはまる。アコギとエレキじゃ表現できる世界は違う。フィルムとデジタル、然りでしょ。

あと、そういった作風の映画におけるもう一つの苦手ポイントが、画調の安っぽさ(これは見せ方次第では特長にだってなり得ると思う)に演技の精巧さというアンバランス。フィルムの格調に安っぽい演技(かつてしばしば遭遇してた、テレビタレントが映画に出てる時の場違い感)の逆ヴァージョン。

主人公マリーの仕事は、エリーズ・ジラール監督自身の投影なのだろうけど、物語において機能しているようにも思えなければ、必然性よりもファッション性ばかりが鼻につく。固有名詞の出し方にしても、何となく浮いてしまいがち(妙な強調感がある)な気がする。

とはいえ、全く以て主観的な苦手意識に包まれての観賞なので、半ば言いがかりかも。


この企画自体の観客動員はどうなのだろう。『ベルヴィル~』は平日初回で一桁だった。『グッバイ・ファーストラブ』なんて、単品で劇場公開されないこと自体がショックだったりもしたのだが、『あの夏の子供たち』を恵比寿で観たときも場内寂しかったしね。一部で活況を取り戻しているかに見えるミニシアター事情。こちらにも「格差」の波とやらが押し寄せて来てたりするのかな。

『グッバイ・ファーストラブ』の動員が好調だったりしたら、ミア・ハンセン=ラヴの三部作がセットで上映される日が来たりする!?(昨年の日仏では実際にあったものの、「すべてが許される」は日本語字幕付の上映はまだない・・・同作も素晴らしすぎるデビュー作なのに!) それに、ローラ・クレトン主演のオリヴィエ・アサイヤス最新作『5月の後』の劇場公開を早いとこ実現させるためにも、ローラ・クレトン主演の『グッバイ・ファーストラブ』にもっと観客押し寄せろ!

ちなみに、『グッバイ・ファーストラブ』を観賞される際には、必ずJonny Flynn & Laura Marling"The Water"を音楽プレーヤーに入れてゆくのをお忘れなく。(マムフォード・アンド・サンズのマーカスとライブで共演した「The Water」なんてのもあるんだね。)
 

2013年4月19日金曜日

アントン・コービン/伝説のロック・フォトグラファーの光と影

昨年のベルリンで初公開された「Anton Corbijn Inside Out」が、こんなに早く、しかも劇場公開されるとは望外至福。アントン・コービンは、音楽界における写真やビデオでの仕事では名実共に最高峰。しかし、私の魅了に拍車がかかったのは明らかに映画界に進出してからだ。『コントロール』、そして『ラスト・ターゲット』。彼の実績からすれば当然な、洗練されつくした画と音のテクスチャー。しかし、作品が放つ美意識はそうしたヴィジュアルに限られたものではなく寧ろより内省的な息づかいがヒリヒリとジリジリ迫ってくる感傷を伴った静謐な語りに、私の魂は完全に魅入られた。

そんなこともあり、最近ちょっとばかり苦手なシアター・イメージフォーラムながら、足を運ばぬわけにはいかぬ。平日の昼下がり、場内には数名の観客。そんな空気と見事に共鳴するように、孤絶した穏やかな情熱は、オランダの光につつまれながら淡々とした眈々で、被写体に眼を凝らし、自らが被写体となると目を伏せる。

証言者たるミュージシャンの言葉に垣間見られる、アントンの芸術家肌とは異なる性質。「大抵の写真家は自分の世界観にはめようとするんだが、アントンは違う」。しかし一方で、アントン自身は言う。「完璧な写真からは息吹が消える。しかし、私の写真は違う。私の呼吸が入ってしまう。」

タイトルが示唆するように、本作はプライベートの側面から切り込んだり掘り下げたりするバイオグラフィーというよりは、アントン自身の内面に寄り添いながら共に沈潜するような作りになっている。アントンの寡い言葉ひとつひとつは深長に、それを補うように彼の動きを静観し、遠くから身体ごと見届ける。そして、そうした存在を包み込む「風景」までをも彼の世界として収めようとする試み。フィルムで撮影されたかのような(実際はどうなんだろう?)ぬくもりある美しさに溢れた映像。「デジタルは嫌いだ」と断言するアントンが映る画にふさわしい丹精な映像にこだわる丹念。アントンの精神生活を外化(可視化)させようとでもしているかのよう。監督のクラーチェ・クイラインズ(Klaartje Quirijns)は、女性ならではの非分析的眼差しでアントンの素顔をじっと待つ。オランダ人同士であることや、アントンが母語(オランダ語)で語れることは、本作における決定的な「核」を保証する。

父をはじめ親戚に牧師が多かったという家庭。プロテスタントの影響が色濃く出ていると自覚する作風。家族の証言、彼への心配。仕事中毒からの脱却、転機、模索、挑戦。自分から出向く仕事から、自分のところへ来てもらう仕事へ。初めて自分のスタジオを構えようと思うんだ。そう語るところで、ひとまず物語は終わる。いや、「つづく」。

彼の作品に関する分析や批評をたっぷり浴びたい人には物足りないかもしれないが、「ドラマ」として呈示されることの多い芸術家の肖像とは一味違う、芸術を仕事にしている人間が日々を述懐する時間。彼の言葉の個人的浸透度が異様なまでに高かった私には、共感や共鳴よりも後を引く、共振の感覚がいつまでも続いてる。


2013年4月3日水曜日

恐怖が排除の暴力を助長する映画2本

昨年のカンヌ国際映画祭でマッツ・ミケルセンが男優賞を授与された『偽りなき者』は、前評判以上の賞賛の声があちこちから聞こえてきて、個人的に敬愛する映画監督のなかでも日本初公開作(『セレブレーション』)から監督作をリアルタイムで観て来られている貴重な映画作家の一人であるトマス・ヴィンターベアの新作だけに、硬直レベルの期待で観賞計画が過剰に慎重吟味だったここ数週間。遂に観た。しかも、満を持しただけの環境で。

作品に関しては、そう容易く口を開くことを許さないほどの多層な含意にただただ翻弄され圧倒される。(比較対象が誤ってる気がしないでもないが)ハネケやトリアーが「悪意」の病巣に分け入るのとは異なって、あくまでも善意と善良がもつ副作用とは名ばかりの「正」作用について正面から凝視する。しかも、そこに「悪戯」などという言い訳めいた作劇の妙を仕掛けたりしない真摯さに、トマス・ヴィンターベアにとってのドグマ95が単なる実験でも示威でもなく、通過点よりも終着点として標榜していたのだろうと改めて思えてくる。

Bunkamuraル・シネマでの公開と同時に上映開始となったのが109シネマズ川崎。施設的にも客層的にも大の苦手なル・シネマで上映される作品を、(同じ東急系だからか)上映するシネコンとして重宝してきた109シネマズ川崎。大抵そういった作品を上映する際は小さめの箱で、上映回数も限定的に公開されることが多い。ただ、そういった扱いだけに、1回のみの上映になった際に大きめの劇場で上映されることになったりも。とりわけ、学校などが長期休暇になる時期は、子供向け映画の上映が夜にない分、大箱で上映という好機に巡りあう確率も上がったりする。そして、今、109シネマズ川崎では、夜1回の上映ながら、定員246名の大きめ劇場(IMAXを除くと2番目に大きいシアター)で上映されている。ただ、上映開始は21時50分。そして、終映は23時55分。

さすがに、そんな上映時間の設定もあってか、私が観たとき(平日)の観客は全部で4人。作品が作品なだけに、その閑散さが醸す空気、はりつめた静寂、そして大劇場で観ている違和感が不思議と映えに変わりゆき、シネスコ作品であることもあって、作品から強要される苦悶の壮大さも増幅の一途で身を屈めてた。やはり、作品との出会いの場をコーディネートすることもまた、自分にとっては重要な観賞の一部なのだと再確認。

109シネマズ川崎では来週も同じ「シアター1」で上映予定。しかも、今度は20:00上映開始なので終映も22:05。これならば健全な映画ファンでも、お勤め帰りに(&翌日お勤めでも)観られるお時間。

ちなみに、私はその日、『偽りなき者』観賞前に川崎でもう1本映画を観た。それが、『パラノーマン ブライス・ホローの謎』。こちらは、TOHOシネマズ川崎のシアター7(240名)に観客が全部で5名。(ちなみに、この日観た2本の観客合計9名はいずれも1人客だった。)評判通りの素晴らしい出来映えだったが、確かに閑古鳥が鳴いている。日本における映画興行に忸怩たる思いを禁じ得ぬ口惜しさを噛み締める。『シュガーラッシュ』が好調なだけに(こちらも実に巧く、面白い映画だと感心しきりではあったけど)、こちらのヤッツケ公開感が際立ちもして、育てる気のないところに花は咲かぬのだなと痛感したり。

3D観賞の価値に懐疑的になりつつある観客も増え、そうした一般的傾向は私自身にもあてはまるものながら、それでも可能性はまだまだあると思えるし、可能性を見事に活かした作品に出会った時の感動はやはり唯一無二な(3Dならではの)もの。そして、私が3Dで観ることに惹かれるのは明らかに実写よりもアニメであり、更には絵によるアニメよりも断然、物によるストップ・モーション・アニメ!『コララインとボタンの魔女』を観た際にも覚えた3D最適感。動きにおける立体感で愉しませようとする実写に比べれば、明らかに瞬発的な躍動感に欠けるかもしれないが、さすがは「ストップ」と「モーション」で動きをつくっているだけに、連続する存在ひとつひとつにじっくりとその質量を噛み締めることができるのだ。更に、どんなにCG技術が発展しようとも、物質として存在するモノが放つ実在感には勝てない。とにかく、ストップ・モーション・アニメにおける「在る(有る)」感の幸せを正しく拡張してくれる技術、それが3D。だからもう、そうした画を眺めているだけでもう幸福なのだ。そんな童心還りの享楽中、精緻なパズルも巧緻なウィットも必要ない。そこには、ただただ純朴に失敗した人間と、後悔する人間、期待をあきらめない人間と通うことを願う人間が、ただただ活きていれば好い。そこから生まれる苦しみを、そこから得られる喜びを、整理なんかせず、ただただ語ってくれれば好い。

ピクサーはじめ最近の高品質アニメを大人が観賞する際に浴びる「示唆」のシャワーに比べれば、『パラノーマン』のそれは実に恬淡として、インパクトもコンパクト。しかし、こんなにも大上段が見当たらず、登場人物たちと同じ地平で語ろうとする作り手たちの声がゆるやかながらも着実にしみ入ってくる「物語」はなかなか無い。

ジョン・ブライオンによるスコアの一貫した愛らしさは、人間の醜より美に想いを馳せ続けようとする作品の精神を見事に体現し続ける。作品を素敵にコーディネートする80年代風シンセ・スコアの上質な安っぽさも新鮮だが、儚き郷愁の永続を謳う彼ならではの旋律は、春夜の胸騒ぎにより沁みる。

来週の上映スケジュールではどこでも回数激減な『パラノーマン』。TOHOシネマズ川崎でも1回のみの上映だが、19:30開映。こちらも仕事帰りでも頑張れば・・・。しかも、来週もそこそこなサイズ(240名定員)のシアター6。

『パラノーマン』で望外の幸福がしみ渡ってしまったが故に、この後に『偽りなき者』を観るのか・・・という些かの戸惑いもあったのだが、続けて観ると、期せずして同様のテーマが通い合ったりも。「不可知な(異形なる)者」への恐怖から来る暴力とそれらがもたらす排除の現実。アプローチも異なれば、眼差しも語りも異なる2作であるが故に、その2本の糸(意図)はより複雑に、だからこそより自由に、結んでみたり解いたり。何から何まで贅沢な、二つの映画体験を味わった夜。

ちなみに、私は川崎には映画以外に大した縁故もございません・・・。交通費は往復1,000円以上かかるしね。それでも、足を運ばざるを得ない、都心のミニミニシアターでは叶わぬ何かがあるシネコン・ターミナル。