2013年4月2日火曜日

エメランスの扉

WOWOWでは最近劇場未公開作の放映にも注力しているのですが、「W座からの招待状」枠で放映される劇場未公開作を全国各地のミニシアターで限定的に劇場公開するという「旅するW座」なる企画を昨秋より始めています。その1作目がクリストフ・オノレ監督の最新作『愛のあしあと(Les bien-aimés)』だったりという、映画ファンにとって垂涎企画としてスタート。その第2弾として上映&放映されたのが『エメランスの扉』。ハンガリーとドイツの共同制作で、本国でも一年ほど前に公開された新作が早くも観られるというプレミア感も嬉しい。

(WOWOWのサイトより)

《解説》
アカデミー外国語映画賞に輝く「メフィスト」や「ミーティング・ヴィーナス」「太陽の雫」などのサボー監督が、2012年に発表したばかりの最新作。ミレンが演じる、悲しい過去を持って心の扉を閉ざした家政婦エメランスと、彼女を雇った小説家マグダ(原作者マグダ・サボーがモデルらしい)が織りなす、交流と友情の物語。サボー監督のもと、ミレンは複雑なエメランスの役を魅力的に熱演。歴史的背景もヨーロッパ作品ならではの深みがある。共演は「マーサの幸せレシピ」「善き人のためのソナタ」のM・ゲデック。

《あらすじ》
1960年代、ブダペスト。女性作家マグダは夫ティボルと引っ越した先の近所に住む老婦人エメランスを家政婦として雇う。エメランスは奇行が多く、何より20年以上も自宅のドアの中に誰も入れてこなかったという変わり者だが、優れた仕事ぶりと正直な性格をマグダは気に入る。ある日、エメランスはマグダにだけ、自分の複雑な過去を明かす。しかしそれだけがエメランスが自宅に誰も入れない理由ではなく、他にもある秘密が……。



監督のイシュトヴァン・サボー(István Szabó)は、『メフィスト』でアカデミー外国語映画賞、『連隊長レドル』ではカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞するなど、キャリア・評価共にハンガリーを代表する映画作家の一人。(『カサブランカ』でアカデミー賞監督賞を受賞したマイケル・カーティスに次ぐ二人目のハンガリー出身のオスカー受賞者らしい。)

私が映画を見始めた頃(だったかな)にも、彼の監督作『太陽の雫』が劇場公開されていた記憶があります。今はなきシネ・ラ・セット(HTC有楽町の入っているビルの場所にあったと記憶)での上映だった気がします。地味な作品ながらも日本で劇場公開されたのもイシュトヴァン・サボーの実績によるものだったのかな、などと今更ながら気づいてみたり。

1991年の『ミーティング・ヴィーナス(Meeting Venus)』(ヴェネツィア・コンペ出品)の制作には日本も参加していた(IMDbには「フジサンケイ・コミュニケーション・インターナショナル」とある)が、ステラン・スカルスガルドがヴィルヘルム・フルトヴェングラー(20世紀を代表する指揮者)を演じた「Takeing Sides」(共演は、ハーヴェイ・カイテル、モーリッツ・ブライブトロイ等)は日本未公開のようで残念。2004年の『華麗なる恋の舞台で(Being Julia)は、アネット・ベニングがアカデミー賞で主演女優賞にノミネートされたこともあってか、日本でも劇場公開。原作は、サマセット・モームの『劇場』。モームは医者であり作家であり、そしてスパイでもありました。MI6に所属して諜報活動を行っていたこともあるという。イシュトヴァン・サボーのプロフィールにも裏の顔がのぞいていたりして、事実はよく解さぬものの、そういった事実(があったのかもしれぬという想像)に想いを馳せて本作を見始めると、本作のタイトル(原題)「The Door」や鍵を握る「秘密」「信条」「信仰」などといったテーマが、不明瞭ながらもむしろその曖昧さに漠なる重みを感じ始めたりするものです。

原作はハンガリーを代表する女性作家マグダ・サボーによる同名小説。彼女の人生もまた、社会と個人の関係について洞察を促される壮絶なもの。おそらく主人公のマグダと家政婦のエメランスの双方に、自らの人格や思想の二面性をそれぞれ担わせたのだろうかなどと思えもします。

タイトルからすると、扉の向こうに真実めいたものへと結びつく「何か」が待ち受けているのだろうと想像しますが、そうしたミステリーに関する演出は意外にもあっさりとしています。いや、むしろ謎が「解けた」という感覚がないまま幕を下ろされる気さえするのです。「明かされた」後もまた、それがすべて明らかなことであるのかさえ覚束ない。それはおそらく、その「事実」を主人公マグダが自分の中でどう受けとめるべきかに逡巡し続けているからだろうと思います。そして、それは彼女自身わからぬまま、そして観客自身も宙づりのまま、時間は無情に流れ事態は変わる。個人の葛藤などに社会が興味を示さぬように。しかし、エメランスという私人に惹かれてやまぬ詩人こそがマグダであり、隣人の面々。『オーケストラ!(Le concert)』で描かれた「共産主義の光と影」が本作にも見え隠れしているように思われます。あちらほど前面には出ていませんが、コミュニズムにしろナチズムにしろ、政治思想として集団によって利用される「主義」には常に排外的な結末が待ち受け、しかし個人の信条として胸に抱く信仰や思想は常に受容への模索を止められない。

扉は閉ざすにしろ、開けるにしろ、そこには責任と覚悟が必要です。勇気などという臆病へのエクスキューズは単なる痛み止めに過ぎません。閉ざすなら閉ざすなりに、隠すことへの信条が必要となるでしょう。開けるなら開けた後への責任(そしてそれは二度と「閉める」ことを許されぬ恒久的なものであるという覚悟)が主体に課せられていることを自認し続けねばならぬのではないでしょうか。窓の開閉が単なる眺めの獲得に留まるのに対し、扉の開閉には侵略と支配の誘惑がつきまとうものなのですから。