ノア・バームバック監督の最新作『フランシス・ハ(Frances Ha)』では脚本も共同で担当し、女優としても数多くのノミネーションを受けるなど、いま最も注目される若手女性映画人の一人、グレタ・ガーウィグ(IMDb)。彼女主演の地味すぎる一作。
グレタは、昨年の東京国際映画祭のコンペでも上映され好評だった『ドリンキング・バディーズ』(『フランシス・ハ』と共にタランティーノのお気に入り2013に選出)のジョー・スワンバーグ(IMDb)監督と共同で、『Nights and Weekends』という作品を監督していたりもする。(彼女のスクリーン・デビューが、スワンバーグ監督作の「LOL」のようだ。)彼女は、やはり劇場未公開の(しかし、ソフトは昨秋リリースされた)『29歳からの恋とセックス(Lola Versus)』(音楽を担当しているのが、Fall On Your Sword!)でも主演。相手役は、『イージー・マネー』シリーズで人気沸騰後、新『ロボコップ』で主役に大抜擢されたジョエル・キナマン(IMDb)。同作は、来月WOWOWおよびスターチャンネルで初放映。評判は芳しくないものの、90分未満だし観ておこう。
本作はソフト販売およびレンタルは無く(ちなみに、ホイット・スティルマン監督の全作品が日本では未DVD化の模様)、配信のみでのリリース。私はスターチャンネルでの放映で最近ようやく観賞(初放映は半年ほど前みたい)。一般受けはしそうにないし、かといってシネフィル熱狂の王道とも違う、でも何処か惹かれて止まない滋味すぎる一作。
「フィルム・コメント」誌が選ぶ2012年のベスト50(劇場公開作篇)では、36位にランクイン。本作のそばには、『父、帰る』のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督作「Elena」(前作の「The Banishment」に続いて日本では未公開・・・)や、昨年のマイベストにも選んだベン・リヴァースの「湖畔の2年間」があり、このセレクション(順位的よりラインナップとして)はなかなか好み。
「damsel」は「少女(特に、身分の高い出自の)」、「distress」は「苦悩」や「窮地」といった意味で、「ダムゼル・イン・ディストレス」という言い方は常套句らしい。
スターチャンネルWebサイトに掲載されている作品解説では、「キャンパス内の男性優位の風潮を何とか変えようとがんばる女子大生3人組の奮闘を描く、風変わりな青春ラブコメディ」と書かれてて、別に間違ってはいないけど、この文句で最も強調すべきフレーズは「風変わり」。
以下、ストーリー解説から引用。「“自殺予防センター”の運営など、大学のキャンパスで弱者を助ける運動にいそしむバイオレット、ローズ、ヘザーの3人組。彼女たちは、自殺願望者にタップダンスを勧めたり、欝気味の学生には香水の香りを嗅ぐよう勧めたりと、ユニークなアドバイスを行っていた。新学期、編入してきたリリーと仲良くなった3人は、いくつかの恋の始まりや終わりを共に経験し、成長していくが・・・。」
とにかくビートは刻まれず、かといってスウィングが流れるわけでもない。控えめにしようと図っているわけではないのだろうが、恬淡な空気で埋め尽くされる。こちらの手をひっぱったりしない安堵の持続。いつしか彼女たちのすぐそばにチョコンと座る自分。他では味わえない心地好さがある一方、苦悩だって描かれる。しかし、その傷みは、物語の演出に従事するのではなく、あくまで物語る人物たち自身に従属してる。
弱者でも強者でもない、しかしメインストリームにも縁遠い、お気楽すぎには抵抗あるが、がむしゃらになるのもどうかと思う。自分なりの意固地な信条唱えつつ、だけど内心いつでも不安。そんな普遍的機微の一襞一襞が丁寧に描かれる。だから、登場人物達の時に奇抜な発想や行動も、結果の不可解さよりも原因の部分で共有できるのだ。どんな珍妙さにも、好奇な眼差しを一切混入させない。賢明よりも懸命を信じてる。
中盤、失意のヒロインが寮を飛び出しモーテルに泊まる。翌朝、彼女に希望の想いが込み上げて来る。彼女をそんな気持ちにさせたのは・・・石鹸。「この石鹸(ソープ)が私に希望(ホープ)をくれたのよ」。世界はきっと、素晴らしい。
ラストではカーテンコールよろしく、フレッド・アステアの1937年『踊る騎士(A Damsel in Distress)』(音楽は『踊らん哉(Shall We Dance)』同様、ガーシュイン兄弟が担当)より「Things Are Looking Up」をキャンパスで皆で唱って踊って、最後は・・・優美さと、ゆるさ。全篇通して言えることだけど、狙ったり計算したりした狡猾巧緻な「ゆるふわ」じゃなく、真摯に生きることで生まれる「ゆるゆる(直線的には進めない蛇行な私たち)」や「ふわふわ(しっかり踏ん張ろうとするけど浮き足だっちゃうの)」。
主演のグレタは勿論のこと、中心となる四人の各々が見事に独自の魅力にあふれてる。普通はタイプが分かれると、思い入れが誰かに集中しそうなものの、本作の四人は違う。皆が皆、不完全の愛おしさ。そして、アンサンブルによって生まれる「完全」。女優陣はヴィジュアルも見事に個性を際立たせている一方で、男性主要キャスト二人が(知らない男優だったこともあってか)終盤まで見分け困難だったという事実も・・・ただ、そんな混同もむしろ御伽噺のいたずらのようで戯れがいはあったけど。
冒頭では主演のグレタ・ガーウィグの話題に終始してしまったが、本作の監督・脚本を務める(プロデューサーでもある)ホイット・スティルマンは、米インディペンデント映画ではちょっとした伝説の人物のようで、13年ぶりとなる本作は2011年のベネチア国際映画祭のクロージング作品に選ばれている。
これを機にスティルマンの過去作(といっても3本しかないし)を全て観てみたいと思っても、前述の通り、日本ではVHSしか出ておらず。しかし、アメリカでは昨夏にクライテリオンから『メトロポリタン/ニューヨークの恋人たち』と『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』のブルーレイが発売されていることを知る。気張ってそちらに手を出すか、向こうでのBD発売が日本での放映等につながることを祈るか・・・。米インディペンデント系の映画って、一部の熱心な固定ファンが(既に)ついている作家のものくらいしか紹介されず、案外ヨーロッパやアジアの映画作家よりも日本に入って来にくい現状に陥ってる気がして寂しい。
2014年1月13日月曜日
2013年8月24日土曜日
ダニス・タノヴィッチの劇場未公開作
現在開催中の第19回サラエボ映画祭。今年のコンペ審査委員長は、ダニス・タノヴィッチ。彼の初長編作品『ノー・マンズ・ランド』はカンヌでの脚本賞を皮切りに、実に多くの賞に輝いたが、批評家と観客の双方から賞賛されるという稀有な結果が作品のもつ普遍性が傑出したものであることを証明しているように思う。オムニバス『セプテンバー11』への参加を経て撮り上げた二作目『美しき運命の傷痕(L'enfer)』は、キェシロフスキによる原案だったが、大河でメロなドラマの華麗なる収斂ぶりに、キェシロフスキ自身が撮るよりもよかったのではないかとさえ思ってしまったものだ。(キェシロフスキ脚本をトム・ティクヴァが監督した『ヘヴン』を観た時も、実は同様の感想を抱いたりもした。)
個人的にも新作を楽しみに(というか絶大な信頼をもって期待)したい監督の一人となったダニス・タノヴィッチだったのだが、その後、新作公開の話が全然入ってこず、今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ&男優賞)に輝いたとの報に驚く。その「An Episode in the Life of an Iron Picker(Epizoda u zivotu beraca zeljeza)」は上映時間も75分と小品のようだが、ロマの家族に起こる悲劇を社会的背景と絡めつつ力強い問題提起がなされていそうでまたもや傑作の予感。
日本での劇場公開は見送られてしまったものの、タノヴィッチはその「An Episode in the Life of an Iron Picker」の前に長編を二作撮っている。そのうちの一本、「Triage」(2009)は『戦場カメラマン 真実の証明』として日本でもDVD発売され、WOWOWでも放映された。録画したまま永らく放置してしまった私だが、ようやく観てみると実に素晴らしい。従来のダノヴィッチ作品に比べると派手さはないし、戦争映画としての声高な主張も回避されており(戦争という事象より、人間という存在に焦点)、確かに地味な作品ながら、複雑な当事者性が錯綜しながら描かれる矛盾と葛藤は、個人の尊厳の根幹に分け入ることを決して辞さぬ。欧米における戦争映画は、自虐と自戒という受け皿以外で受容されることは難しいのかもしれない。つまり、「わからない」ことを「わからない」まま描くことはタブーなのだろう。是非に関わらず、判定、裁定、そして断罪、贖罪。そのいずれにも逃げない語り手と向き合うとなれば、赦しなきまま問題を見つめ続けることが求められてしまう。そして、本作における主人公に迫られた覚悟こそが、まさにそれなのだ。
原題にもなっている「トリアージ」とは、多数の負傷者が発生した際、現場で傷の程度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。主人公のマークと親友のデイビッドは取材で訪れたクルディスタンで、トリアージを日々目の当たりにする。そして、治療のための優先順位から外される「青い札」の存在を知る。青の札が置かれた(ここでは)手の施しようのない負傷者は、「安楽死」ために、銃殺される。医師自身の手によって。そうした現実に対する疑問はやがて、自らの激しい苦悶の日々に重くのしかかる。マーク(コリン・ファレル)が負傷し帰国するまでに、一体何があったのか。何が彼を苦しめ、何が彼を追い詰めるのか。真相を小出しにするようなギミックではなく、主人公の深層に観客が入り込むのを焦ることなく待っている。やがてマークの恋人エレーナ(パス・ベガ)の祖父(クリストファー・リー)が水先案内人として現れると、正面から扉を開ける手助けをしてくれる。しかし、極めて上質な「省筆」が慎重に選択されており、そこにはいくらでも書き込む余地がある。「経験していないことを責める経験者」マークが責めていたのは、結局「経験している自分」だったというパラドクス。経験をもたない外部の者(傍観者)は、当事者に何ができるだろうか。
◆主人公のマーク・ウォルシュは写真集を出版していたことがあり、そのタイトルは「ALONE」。恋人の祖父がそれを捲る場面がある。マークがかつてシンパシーを描いた心象風景にシンクロした現在。孤独に幽閉された彼を救おうとする恋人もその祖父も、あるいは彼の親友もその妻も、皆が皆、孤独であるという事実が刻まれていている。相対的な悲哀も寂寞もそこにはなく、だからこそ主人公だけが悲劇の渦中にいるわけではない。生きている人間は等しく「渦中に生きる」のだ。映画の最後に浮かび上がるプラトンの言葉。It is only the dead who have seen the end of war.
◆マークの恋人エレーナは、彼を救うために祖父ホアキンを呼び寄せる。ホアキンはかつて、フランコ独裁政権の手先となった者たちを「治療」した経験があるようで、エレーナはそのこと自体に耐えられず、祖父のことも赦してはいなかった。ホアキンの仕事をエレーナは「beautify(美化)」と呼び、ホアキン自身は「purify(浄化)」であると弁明する。相手の言い分にも真実が宿っていることに各々気づいている。それが彼らの対話には滲み出ている。祖父の「赦し」を、孫は許せないが、祖父の「赦し」は相手に与えているものではない。同時代を生きた者同士としての自責の共有であり、肩を貸しているに過ぎないのかもしれない。そして、それは自らが背負わずに済んだことに対する罪悪感に対する処方だったのかもしれない。世代間にうまれる歴史認識の齟齬。それは軋轢や不継承に発展させるためのものではなく、それがあってこそ可能になる過去との対話。常に異質であるはず(べき)の過去。互いに許容される範囲で、許容をベースとしながら、対話を始めたところで過去とは向き合えない。それは主人公マークの背負った「過去」にも通じることで、ホアキンはマークに言う。「他人に赦しを求めても、痛みはかかえ続けるしかない。それが生きるということだ。」
◆マークが眠っているベッドの傍らにいたホアキンが、目覚めたマークに言う。「随分と安らかな寝顔をしていたよ。」「それは好い傾向だろ?」というマークに対し、「いや、むしろ悪い兆候だ」と答えるホアキン。平穏(peace)な寝顔は悪い兆候。悲劇からは目を背け、現実には目を瞑り、平和な眠りを貪る者たちは、無自覚のまま犠牲を強いる。
◆終盤の会話のなかで出てくる、カメラをもつことで被写体との間に境界線(「国境」ともかけている)ができるという喩え。そのことで、対象が現実(ファインダーの向こうにだけあるものではなく、自ら実際に働きかけてくる力をもった)であることを忘れ、死にもつながると捉えるマークに対し、ホアキンは「それが身を守る」こともあるのでは?と告げる。いずれにせよ、どちらも自己防衛のための境界線であることを示唆しているように思う。しかし、自己防衛こそが自滅へのシナリオを裏書きしているという真実をも含蓄した言葉にも思えてしまう。
◇ファイン・ヤング・カニバルズの「Johnny Come Home」が流れるのだが、これはもしかして『ジョニーは戦場へ行った(Johnny Got His Gun)』を意識しての選曲だったりする?
◇本作のエンドロールで灯る「アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックに捧ぐ」の文字に胸が熱くなる。つい先日、彼らが製作した不遇の傑作『マーガレット』(存命中に完成せず、訴訟も経ながら一昨年にようやく日の目をみた)を観たこともあり(当然、こちらにも同様の言葉が)、奇しくも同年(2008年)に亡くなった彼らの存在の大きさを噛み締めつつ激しく惜しむ。とりわけ、アンソニー・ミンゲラは享年54歳。監督としての矜持を持ちながら、プロデューサーとしての領分を弁えた二人の仕事はきっともっと傑作を産み出し続けられたはずだろう。
◇役者のアンサンブルが実に好い。主役のコリン・ファレルは例の「流出」で大変な時期だったのだろうか。最近では出演作の質量ともに充実し始め完全復活しているが、この時期の彼もなかなかだ。スキャンダルがなければ本作ももっと世に出ていけたかもしれない等とすら考えてしまう。恋人役のパス・ベガ(ニコール・キッドマンがグレース・ケリーを演じる「Grace of Monaco」ではマリア・カラスを演じる)の抑制の効いた愛情の震動は確かな波動だし、彼女の祖父役クリストファー・リーの説得力たるやまさに神がかり的。親友の妻を演じるケリー・ライリー(「犯罪捜査官アナ・トラヴィス」!最近だと『フライト』でも好演してました)の存在感が適材感。序盤で僅かな出演ながら抜群の存在感を残すクルディスタンの戦場の医師役ブランコ・ジュリッチ。『ノー・マンズ・ランド』で主演した彼は、ロックバンドや劇団も主宰する才人で、もうすぐ公開のアンジェリーナ・ジョリー初監督作『最愛の大地』にも出演していたりする。
◇原作の内容について詳しく描かれた記事があった。是非、読んでみたい内容だ。映画が劇場公開されていたら、日本でも出版されていたかもしれない・・・
個人的にも新作を楽しみに(というか絶大な信頼をもって期待)したい監督の一人となったダニス・タノヴィッチだったのだが、その後、新作公開の話が全然入ってこず、今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ&男優賞)に輝いたとの報に驚く。その「An Episode in the Life of an Iron Picker(Epizoda u zivotu beraca zeljeza)」は上映時間も75分と小品のようだが、ロマの家族に起こる悲劇を社会的背景と絡めつつ力強い問題提起がなされていそうでまたもや傑作の予感。
日本での劇場公開は見送られてしまったものの、タノヴィッチはその「An Episode in the Life of an Iron Picker」の前に長編を二作撮っている。そのうちの一本、「Triage」(2009)は『戦場カメラマン 真実の証明』として日本でもDVD発売され、WOWOWでも放映された。録画したまま永らく放置してしまった私だが、ようやく観てみると実に素晴らしい。従来のダノヴィッチ作品に比べると派手さはないし、戦争映画としての声高な主張も回避されており(戦争という事象より、人間という存在に焦点)、確かに地味な作品ながら、複雑な当事者性が錯綜しながら描かれる矛盾と葛藤は、個人の尊厳の根幹に分け入ることを決して辞さぬ。欧米における戦争映画は、自虐と自戒という受け皿以外で受容されることは難しいのかもしれない。つまり、「わからない」ことを「わからない」まま描くことはタブーなのだろう。是非に関わらず、判定、裁定、そして断罪、贖罪。そのいずれにも逃げない語り手と向き合うとなれば、赦しなきまま問題を見つめ続けることが求められてしまう。そして、本作における主人公に迫られた覚悟こそが、まさにそれなのだ。
原題にもなっている「トリアージ」とは、多数の負傷者が発生した際、現場で傷の程度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。主人公のマークと親友のデイビッドは取材で訪れたクルディスタンで、トリアージを日々目の当たりにする。そして、治療のための優先順位から外される「青い札」の存在を知る。青の札が置かれた(ここでは)手の施しようのない負傷者は、「安楽死」ために、銃殺される。医師自身の手によって。そうした現実に対する疑問はやがて、自らの激しい苦悶の日々に重くのしかかる。マーク(コリン・ファレル)が負傷し帰国するまでに、一体何があったのか。何が彼を苦しめ、何が彼を追い詰めるのか。真相を小出しにするようなギミックではなく、主人公の深層に観客が入り込むのを焦ることなく待っている。やがてマークの恋人エレーナ(パス・ベガ)の祖父(クリストファー・リー)が水先案内人として現れると、正面から扉を開ける手助けをしてくれる。しかし、極めて上質な「省筆」が慎重に選択されており、そこにはいくらでも書き込む余地がある。「経験していないことを責める経験者」マークが責めていたのは、結局「経験している自分」だったというパラドクス。経験をもたない外部の者(傍観者)は、当事者に何ができるだろうか。
◆主人公のマーク・ウォルシュは写真集を出版していたことがあり、そのタイトルは「ALONE」。恋人の祖父がそれを捲る場面がある。マークがかつてシンパシーを描いた心象風景にシンクロした現在。孤独に幽閉された彼を救おうとする恋人もその祖父も、あるいは彼の親友もその妻も、皆が皆、孤独であるという事実が刻まれていている。相対的な悲哀も寂寞もそこにはなく、だからこそ主人公だけが悲劇の渦中にいるわけではない。生きている人間は等しく「渦中に生きる」のだ。映画の最後に浮かび上がるプラトンの言葉。It is only the dead who have seen the end of war.
◆マークの恋人エレーナは、彼を救うために祖父ホアキンを呼び寄せる。ホアキンはかつて、フランコ独裁政権の手先となった者たちを「治療」した経験があるようで、エレーナはそのこと自体に耐えられず、祖父のことも赦してはいなかった。ホアキンの仕事をエレーナは「beautify(美化)」と呼び、ホアキン自身は「purify(浄化)」であると弁明する。相手の言い分にも真実が宿っていることに各々気づいている。それが彼らの対話には滲み出ている。祖父の「赦し」を、孫は許せないが、祖父の「赦し」は相手に与えているものではない。同時代を生きた者同士としての自責の共有であり、肩を貸しているに過ぎないのかもしれない。そして、それは自らが背負わずに済んだことに対する罪悪感に対する処方だったのかもしれない。世代間にうまれる歴史認識の齟齬。それは軋轢や不継承に発展させるためのものではなく、それがあってこそ可能になる過去との対話。常に異質であるはず(べき)の過去。互いに許容される範囲で、許容をベースとしながら、対話を始めたところで過去とは向き合えない。それは主人公マークの背負った「過去」にも通じることで、ホアキンはマークに言う。「他人に赦しを求めても、痛みはかかえ続けるしかない。それが生きるということだ。」
◆マークが眠っているベッドの傍らにいたホアキンが、目覚めたマークに言う。「随分と安らかな寝顔をしていたよ。」「それは好い傾向だろ?」というマークに対し、「いや、むしろ悪い兆候だ」と答えるホアキン。平穏(peace)な寝顔は悪い兆候。悲劇からは目を背け、現実には目を瞑り、平和な眠りを貪る者たちは、無自覚のまま犠牲を強いる。
◆終盤の会話のなかで出てくる、カメラをもつことで被写体との間に境界線(「国境」ともかけている)ができるという喩え。そのことで、対象が現実(ファインダーの向こうにだけあるものではなく、自ら実際に働きかけてくる力をもった)であることを忘れ、死にもつながると捉えるマークに対し、ホアキンは「それが身を守る」こともあるのでは?と告げる。いずれにせよ、どちらも自己防衛のための境界線であることを示唆しているように思う。しかし、自己防衛こそが自滅へのシナリオを裏書きしているという真実をも含蓄した言葉にも思えてしまう。
◇ファイン・ヤング・カニバルズの「Johnny Come Home」が流れるのだが、これはもしかして『ジョニーは戦場へ行った(Johnny Got His Gun)』を意識しての選曲だったりする?
◇本作のエンドロールで灯る「アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックに捧ぐ」の文字に胸が熱くなる。つい先日、彼らが製作した不遇の傑作『マーガレット』(存命中に完成せず、訴訟も経ながら一昨年にようやく日の目をみた)を観たこともあり(当然、こちらにも同様の言葉が)、奇しくも同年(2008年)に亡くなった彼らの存在の大きさを噛み締めつつ激しく惜しむ。とりわけ、アンソニー・ミンゲラは享年54歳。監督としての矜持を持ちながら、プロデューサーとしての領分を弁えた二人の仕事はきっともっと傑作を産み出し続けられたはずだろう。
◇役者のアンサンブルが実に好い。主役のコリン・ファレルは例の「流出」で大変な時期だったのだろうか。最近では出演作の質量ともに充実し始め完全復活しているが、この時期の彼もなかなかだ。スキャンダルがなければ本作ももっと世に出ていけたかもしれない等とすら考えてしまう。恋人役のパス・ベガ(ニコール・キッドマンがグレース・ケリーを演じる「Grace of Monaco」ではマリア・カラスを演じる)の抑制の効いた愛情の震動は確かな波動だし、彼女の祖父役クリストファー・リーの説得力たるやまさに神がかり的。親友の妻を演じるケリー・ライリー(「犯罪捜査官アナ・トラヴィス」!最近だと『フライト』でも好演してました)の存在感が適材感。序盤で僅かな出演ながら抜群の存在感を残すクルディスタンの戦場の医師役ブランコ・ジュリッチ。『ノー・マンズ・ランド』で主演した彼は、ロックバンドや劇団も主宰する才人で、もうすぐ公開のアンジェリーナ・ジョリー初監督作『最愛の大地』にも出演していたりする。
◇原作の内容について詳しく描かれた記事があった。是非、読んでみたい内容だ。映画が劇場公開されていたら、日本でも出版されていたかもしれない・・・
2013年8月16日金曜日
チャット~罠に墜ちた美少女~
この邦題じゃ、明らかに微エロB級クライムムービー色。でも、原題は「Trust」。出演はクライヴ・オーウェン、キャスリン・キーナー、ジェイソン・クラーク、ヴィオラ・デイヴィスほか。そう聞けば自ずと明らかに。地に足つけて人間を描くドラマだってこと。
邦題から勝手に想像すると、主人公の「美少女」の堕落ぶりと底無しの悲劇を悪辣な手法も辞さずに大味な展開と勢いで突っ切りそうだけど、実際は違う。そもそも主人公は「美少女」として描かれないし、本人は「美少女」でないことにコンプレックスを抱き、そういった精神状態がドラマの鍵でもある。そして、事件は早々に起こり、あっけなく描かれる。14歳の主人公がチャットで熱を上げていた(同年代だと思っていた)相手は嘘をついており、「実は20歳」「実は25歳」と訂正を重ね、実際に会ってみれば20代でないどころか・・・。しかし、二人は「デート」をし、モーテルで「結ばれる」。本作が語るべきドラマはそこからいよいよ始動する。その事実を知る主人公の親友が学校にそれを報せ、そこから警察へ。似たようなケースがこれまでも発生している(当然州をまたいでいる)のでFBIがやって来て、レイプ事件として捜査を始める。動揺と困惑、絶望に呆然とする両親。「私はレイプされたんじゃない」と、大人に対して反抗し苛立ち続ける主人公の少女。そういった状況を淡々と、抑制の効いた逡巡を積み重ね、信頼(trust)の起源と行方を凝視する。また、信頼の土壌たる自信(confidence)をもそっと掘り下げる。個々のアイデンティティについて分け入りながらも、最終的には家族という形態を通して「信」のありかたを確かめる。(しかし、最後の最後に映し出される「悪戯」は観る者に再審を要求してもいるようなのだが。)ちなみに、「信」という漢字は、「言っていること」と「その人」が違わない状態のことを意味し、それを字で表したものとされる。本作における皮肉と真実を体現する一字でもある。
昨年末にDVDが発売された劇場未公開作。WOWOWにて今月初放映。
監督は、『フレンズ』のロス役でおなじみ(同作では演出を担当することも)のデヴィッド・シュワイマー。テレビドラマの演出を手がける一方、『ラン・ファットボーイ・ラン 走れメタボ (Run Fatboy Run)』で劇場映画初監督。続く二本目が本作ということになる。
クライヴとキャサリンは共に「出演してる映画の気に入る確率が頗る高い」個人的絶大信頼俳優コンビ。さすが役者出身の監督だけあって、彼らを面白おかしく壊したり荒らしたりすることなく、むしろ彼らが培ってきた信頼(実績)を活かした演技設計で直球勝負。(変化球が多めな二人なだけに、むしろ新鮮)
主人公アニーを演じるリアナ・リベラトは、昨年劇場公開されたジョエル・シューマカー監督作『ブレイクアウト』(ニコラス・ケイジ、ニコール・キッドマン)や今年劇場公開されたフィリップ・シュテルツェル監督作『ザ・ターゲット/陰謀のスプレマシー』(アーロン・エッカート、オルガ・キュリレンコ)に出演しているらしいが、私は観ておらず。彼女は本作によって、2010年シカゴ国際映画祭の女優賞を授与されている。(ちなみに同年の同映画祭では、『夏の終止符』がグランプリを、『終わりなき叫び』が脚本賞と男優賞を授与されている。)
出演作(『ゼロ・ダーク・サーティ』『欲望のヴァージニア』『華麗なるギャツビー』そして『ホワイト・ハウス・ダウン』)が今年日本でも立て続けに公開されているジェイソン・クラークも出演しているし、『ダウト』と『ヘルプ』でアカデミー賞(助演女優賞)にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスも安心二重丸。そして、主人公のチャット相手「チャーリー」のキモいじゃ済まされない不気味さは必見。あの「着こなし」(ただのコーディネートだけでなく、重ね方やその見え方)は虫唾が全力疾走。(衣裳はアダム・サンドラー組のEllen Lutter。本領発揮、面目躍如。)
脚本を担当しているアンディ・ベリンは、アマンダ・サイフリッド(セイフライド?)がリンダ・ラブレースを演じることでも話題の「Lovelace」の脚本も書いているらしい。同作の監督は、ジェームズ・フランコがアレン・ギンズバーグを演じた「Howl」の監督コンビ(ロバート・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン)。ロバートは傑作ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』の監督でもある。「Howl」も興味深いアプローチだっただけに、「Lovelace」がどんな仕上がりか今から楽しみ。
ただ、役者が個々にもアンサンブルとしても実に好い味をもっているだけに、脚本が幾分弱いように感じてしまったのも事実。序盤、アニーが「チャーリー」に会ってから「墜ちる」までの流れを、大学入学の晴れやかな飛躍を遂げる兄の様子と交互に見せる編集は、その執拗さが実に好い。精神の破綻を迎えながらもどこか独特な抑制感が漂うドラマは、編集の妙が産んでいるのかも。編集を担当しているダグラス・クライズ(Douglas Crise)は、ソダーバーグ組にも参加経験があり、『21グラム』『バベル』やディエゴ・ルナ監督最新作にも参加。最近では、『スプリング・ブレーカーズ』の編集も担当している。
邦題から勝手に想像すると、主人公の「美少女」の堕落ぶりと底無しの悲劇を悪辣な手法も辞さずに大味な展開と勢いで突っ切りそうだけど、実際は違う。そもそも主人公は「美少女」として描かれないし、本人は「美少女」でないことにコンプレックスを抱き、そういった精神状態がドラマの鍵でもある。そして、事件は早々に起こり、あっけなく描かれる。14歳の主人公がチャットで熱を上げていた(同年代だと思っていた)相手は嘘をついており、「実は20歳」「実は25歳」と訂正を重ね、実際に会ってみれば20代でないどころか・・・。しかし、二人は「デート」をし、モーテルで「結ばれる」。本作が語るべきドラマはそこからいよいよ始動する。その事実を知る主人公の親友が学校にそれを報せ、そこから警察へ。似たようなケースがこれまでも発生している(当然州をまたいでいる)のでFBIがやって来て、レイプ事件として捜査を始める。動揺と困惑、絶望に呆然とする両親。「私はレイプされたんじゃない」と、大人に対して反抗し苛立ち続ける主人公の少女。そういった状況を淡々と、抑制の効いた逡巡を積み重ね、信頼(trust)の起源と行方を凝視する。また、信頼の土壌たる自信(confidence)をもそっと掘り下げる。個々のアイデンティティについて分け入りながらも、最終的には家族という形態を通して「信」のありかたを確かめる。(しかし、最後の最後に映し出される「悪戯」は観る者に再審を要求してもいるようなのだが。)ちなみに、「信」という漢字は、「言っていること」と「その人」が違わない状態のことを意味し、それを字で表したものとされる。本作における皮肉と真実を体現する一字でもある。
昨年末にDVDが発売された劇場未公開作。WOWOWにて今月初放映。
監督は、『フレンズ』のロス役でおなじみ(同作では演出を担当することも)のデヴィッド・シュワイマー。テレビドラマの演出を手がける一方、『ラン・ファットボーイ・ラン 走れメタボ (Run Fatboy Run)』で劇場映画初監督。続く二本目が本作ということになる。
クライヴとキャサリンは共に「出演してる映画の気に入る確率が頗る高い」個人的絶大信頼俳優コンビ。さすが役者出身の監督だけあって、彼らを面白おかしく壊したり荒らしたりすることなく、むしろ彼らが培ってきた信頼(実績)を活かした演技設計で直球勝負。(変化球が多めな二人なだけに、むしろ新鮮)
主人公アニーを演じるリアナ・リベラトは、昨年劇場公開されたジョエル・シューマカー監督作『ブレイクアウト』(ニコラス・ケイジ、ニコール・キッドマン)や今年劇場公開されたフィリップ・シュテルツェル監督作『ザ・ターゲット/陰謀のスプレマシー』(アーロン・エッカート、オルガ・キュリレンコ)に出演しているらしいが、私は観ておらず。彼女は本作によって、2010年シカゴ国際映画祭の女優賞を授与されている。(ちなみに同年の同映画祭では、『夏の終止符』がグランプリを、『終わりなき叫び』が脚本賞と男優賞を授与されている。)
出演作(『ゼロ・ダーク・サーティ』『欲望のヴァージニア』『華麗なるギャツビー』そして『ホワイト・ハウス・ダウン』)が今年日本でも立て続けに公開されているジェイソン・クラークも出演しているし、『ダウト』と『ヘルプ』でアカデミー賞(助演女優賞)にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスも安心二重丸。そして、主人公のチャット相手「チャーリー」のキモいじゃ済まされない不気味さは必見。あの「着こなし」(ただのコーディネートだけでなく、重ね方やその見え方)は虫唾が全力疾走。(衣裳はアダム・サンドラー組のEllen Lutter。本領発揮、面目躍如。)
脚本を担当しているアンディ・ベリンは、アマンダ・サイフリッド(セイフライド?)がリンダ・ラブレースを演じることでも話題の「Lovelace」の脚本も書いているらしい。同作の監督は、ジェームズ・フランコがアレン・ギンズバーグを演じた「Howl」の監督コンビ(ロバート・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン)。ロバートは傑作ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』の監督でもある。「Howl」も興味深いアプローチだっただけに、「Lovelace」がどんな仕上がりか今から楽しみ。
ただ、役者が個々にもアンサンブルとしても実に好い味をもっているだけに、脚本が幾分弱いように感じてしまったのも事実。序盤、アニーが「チャーリー」に会ってから「墜ちる」までの流れを、大学入学の晴れやかな飛躍を遂げる兄の様子と交互に見せる編集は、その執拗さが実に好い。精神の破綻を迎えながらもどこか独特な抑制感が漂うドラマは、編集の妙が産んでいるのかも。編集を担当しているダグラス・クライズ(Douglas Crise)は、ソダーバーグ組にも参加経験があり、『21グラム』『バベル』やディエゴ・ルナ監督最新作にも参加。最近では、『スプリング・ブレーカーズ』の編集も担当している。
2013年8月7日水曜日
リメイク版『めぐり逢ったが運のつき』
原題「Wild Target」、邦題『ターゲット』でDVDが発売されていた仏映画『めぐり逢ったが運のつき』の英国リメイク作。先日、WOWOWで初放映。観た。なかなか好かった。が、やっぱりオリジナルを観たくなった。けど、『めぐり逢ったが運のつき』の方はソフト販売なし。というか、ビデオは発売されていたらしいが、DVD化はされなかったらしい。劇場公開時の配給はアルバトロス。僕が観たのはテレビでだけど。しかも、たしかMXテレビでやってたのを録画して。えらく気に入ってテープのツメ折ったけど、今でもあれ(VHS)観られるのかな。
まずは、オリジナルの方の話。
『めぐり逢ったが運のつき(Cible émouvante)』は、ピエール・サルヴァドーリ(Pierre Salvadori)の長編一作目。プロデューサーを務めたのは、フィリップ・マルタン(Philippe Martin)。この人、この後もサルヴァドーリ作品をプロデュースしていく一方、ラリユー兄弟(「運命のつくりかた」等)やセルジュ・ボゾン(「フランス」等)、そしてミア・ハンセン=ラブといった僕が極めて好き好きな気鋭監督たちと継続的に仕事をして来ている御方。そんな事実を改めて確認すると、『めぐり~』が尋常じゃなく好みだったことに今更至極納得したり。そういえば、セルジュ・ボゾンの「フランス」について描いた自分の記事で、本作について触れてたりした。
オリジナルのメインキャストは、ジャン・ロシュフォール、マリー・トランティニャン、ギョーム・ドパルドュー。ジャンの「これぞフレンチ・コメディー!」な洒脱な滑稽さに優雅な笑い心地好く、ギョームの瑞々しさがボケボケキャラと抜群融和。エスプリよりもファニーを優先、オシャレしたってスマートじゃない。今ふと思い出したけど、『シューティング・フィッシュ』(自分のなかで「同枠」の映画)とか本当好きだったな。熱狂でも絶賛でも心酔でもないけど、いっつもどこか心の片隅で疼いてくれるお気に入りってポジションが最近空席気味な気がするな。それはきっと、映画とか音楽とかとの付き合い方に堅さというか肩肘張りな傾向が出てきたからかもね。もうちょっと自由さ、柔軟さ、風通しよくしてかなきゃ。
さてさて、リメイク版の話。
そんな秘かに大好き作品のリメイク版だから、正直あまり期待してなかったのに、これがなかなかどうして、オリジナルをちゃんと尊重したリメイクで、「フランス人って素敵だね。でも、ぼくはフランス人になれないし・・・でも、ならないのも素敵だよ!」みたいな(どんなだよ)爽快な加工貿易していたよ。オリジナルに敬意を表しつつ、自分たちにできることも模索する、リメイクの良計成果を発揮していて痛快。フレンチ・フレーバーを漂わせつつ、英国真摯も忘れない。ジャン・ロシュフォールのおとぼけと通ずるようで異なる魅力をばっちり忍ばせたビル・ナイの適度なメソッド。エイミー・ブラントがキュートすぎないところがキュートという意外。最も懐疑の眼でみはじめたルパート・グリントがこれまた思いの外、好い。「ハリー・ポッター」シリーズは序盤で観賞離脱してしまった自分にとって、こんなに味のある俳優になっているとは思いもしなかった。改めてフィルモ眺めてみれば、日本での公開作はほとんどないものの、ハリポタと並行してなかなか好い仕事(修行)を重ねてきたみたい。今年のベルリンでコンペに出品された「The Necessary Death of Charlie Countryman」(キャスト、豪華・・・)にも出演してる。脇役も、日本で馴染みの深いキャストが多く、ルパート・エヴェレット(昨秋『アナザー・カントリー』がリバイバル上映されてたな)やマーティン・フリーマン(英国ドラマ『SHERLOCK』のワトソン君)がとぼけた敵役を伸び伸びと演じているし、個人的にはグレゴール・フィッシャーがひたすら愉快。
オリジナルを丁寧になぞりながらも、英国流にしっかり仕上げた脚本を手がけたルシンダ・コクスン(Lucinda Coxon)は、ギレルモ・デル・トロの次回(?)作「Crimson Peak」に参加するみたい。ジェシカ・チャステイン、ミア・ワシコウスカ、ベネディクト・カンバーバッチという映画界屈指の絶好調最高潮キャスティング。ギレルモ組のチャーリー・ハナムも入ってる。
監督のジョナサン・リンはテレビ畑の人みたいだけど、イギリスのテレビドラマ・ディレクターって本当堅実人材の宝庫だね。昨年の秘かなお気に入り枠の一本『マリリン 7日間の恋』も確かテレビ畑の監督(サイモン・カーティス)だったよな。あのケン・ローチだってテレビの仕事から始めたし、そこでの経験が随分と糧になったようなことをしばしば語ってるし、BBCの豊かな歴史を感じます。
音楽もゴキゲンで、フレンチ・テイストも盛り込んだスコアの盛りつけ方も適量なら、要所要所でかかる既成曲も適材。アップルのCMでおなじみのヤエル・ナイムの「ニュー・ソウル」なんかも見事にしあわせな関係。他にも、レジーナ・スペクターやイメルダ・メイなどのフィメール・ヴォーカルで色とりどり。
ところで、本作はドリパスで一夜限りの劇場上映が実現するのだとか。シネマート新宿の大きい方なら、なかなか好環境だと思うけど、上映素材がBlu-rayという不安。ブルーレイ上映も努力次第ではそこそこの質が求められるようだけど、今年あそこで観た『マーサ、あるいはマーシー・メイ』はちょっと残念だったからな・・・作品自体はかなり好かったんだけど。
それにしても、始まった当初はすぐに消えると思っていたドリパスが、今やなかなか定着しそこそこ進化している様相で些か驚き。ヤフーが買収したらしいけど、うまいこと行ってるのかな。今回の『ターゲット』上映の観賞料金は2,000円均一(でも、実際はドリパスのシステム使用料で210円徴収されるから、実質2,210円均一)。確かに貴重な劇場上映になるとはいえ、一昨年DVD発売され、WOWOWでも今月複数回放映され、しかもブルーレイでの上映。なかなかいい商売してますね。これで上下黒帯での上映だったら泣けるよな・・・。ま、観に行くつもりのない俺があーだこーだ言うのも筋違い。ドリパスに限らず、最近またこの手のビジネスモデル(ソフト販売の前後に劇場で限定上映)って堅調だよね。CDの売上落ちてもライブ動員堅調っていう音楽業界と一見似てるようだけど、僕としては懸念が上回る。最初は速効性のあるニッチ産業的旨味はあるとは思うけど、映画(特に外国映画)マーケットのマニア化を促進してしまいそうだから。というか、マニアのなかでも分断されていく気もするし。現に、その手のビジネスにノレる人と(僕のように)ノレない人がいるわけで、前者だけを見込んだビジネスに浮かれてる姿は、後者の人間にしてみたら寂しさを覚えるもので・・・ま、狭量で偏屈な人間の僻み的ボヤキかもしれないけどね。
あ、でも、一夜限りの『めぐり逢ったが運のつき』劇場上映とかあったら、たとえ素材がDVDレベルであったとしても駆けつけちゃうかも!(そう、人間は矛盾な生きものなのです。) ってか、アルバトロスはやっぱりフィルム棄てちゃったかな・・・
まずは、オリジナルの方の話。
『めぐり逢ったが運のつき(Cible émouvante)』は、ピエール・サルヴァドーリ(Pierre Salvadori)の長編一作目。プロデューサーを務めたのは、フィリップ・マルタン(Philippe Martin)。この人、この後もサルヴァドーリ作品をプロデュースしていく一方、ラリユー兄弟(「運命のつくりかた」等)やセルジュ・ボゾン(「フランス」等)、そしてミア・ハンセン=ラブといった僕が極めて好き好きな気鋭監督たちと継続的に仕事をして来ている御方。そんな事実を改めて確認すると、『めぐり~』が尋常じゃなく好みだったことに今更至極納得したり。そういえば、セルジュ・ボゾンの「フランス」について描いた自分の記事で、本作について触れてたりした。
オリジナルのメインキャストは、ジャン・ロシュフォール、マリー・トランティニャン、ギョーム・ドパルドュー。ジャンの「これぞフレンチ・コメディー!」な洒脱な滑稽さに優雅な笑い心地好く、ギョームの瑞々しさがボケボケキャラと抜群融和。エスプリよりもファニーを優先、オシャレしたってスマートじゃない。今ふと思い出したけど、『シューティング・フィッシュ』(自分のなかで「同枠」の映画)とか本当好きだったな。熱狂でも絶賛でも心酔でもないけど、いっつもどこか心の片隅で疼いてくれるお気に入りってポジションが最近空席気味な気がするな。それはきっと、映画とか音楽とかとの付き合い方に堅さというか肩肘張りな傾向が出てきたからかもね。もうちょっと自由さ、柔軟さ、風通しよくしてかなきゃ。
さてさて、リメイク版の話。
そんな秘かに大好き作品のリメイク版だから、正直あまり期待してなかったのに、これがなかなかどうして、オリジナルをちゃんと尊重したリメイクで、「フランス人って素敵だね。でも、ぼくはフランス人になれないし・・・でも、ならないのも素敵だよ!」みたいな(どんなだよ)爽快な加工貿易していたよ。オリジナルに敬意を表しつつ、自分たちにできることも模索する、リメイクの良計成果を発揮していて痛快。フレンチ・フレーバーを漂わせつつ、英国真摯も忘れない。ジャン・ロシュフォールのおとぼけと通ずるようで異なる魅力をばっちり忍ばせたビル・ナイの適度なメソッド。エイミー・ブラントがキュートすぎないところがキュートという意外。最も懐疑の眼でみはじめたルパート・グリントがこれまた思いの外、好い。「ハリー・ポッター」シリーズは序盤で観賞離脱してしまった自分にとって、こんなに味のある俳優になっているとは思いもしなかった。改めてフィルモ眺めてみれば、日本での公開作はほとんどないものの、ハリポタと並行してなかなか好い仕事(修行)を重ねてきたみたい。今年のベルリンでコンペに出品された「The Necessary Death of Charlie Countryman」(キャスト、豪華・・・)にも出演してる。脇役も、日本で馴染みの深いキャストが多く、ルパート・エヴェレット(昨秋『アナザー・カントリー』がリバイバル上映されてたな)やマーティン・フリーマン(英国ドラマ『SHERLOCK』のワトソン君)がとぼけた敵役を伸び伸びと演じているし、個人的にはグレゴール・フィッシャーがひたすら愉快。
オリジナルを丁寧になぞりながらも、英国流にしっかり仕上げた脚本を手がけたルシンダ・コクスン(Lucinda Coxon)は、ギレルモ・デル・トロの次回(?)作「Crimson Peak」に参加するみたい。ジェシカ・チャステイン、ミア・ワシコウスカ、ベネディクト・カンバーバッチという映画界屈指の絶好調最高潮キャスティング。ギレルモ組のチャーリー・ハナムも入ってる。
監督のジョナサン・リンはテレビ畑の人みたいだけど、イギリスのテレビドラマ・ディレクターって本当堅実人材の宝庫だね。昨年の秘かなお気に入り枠の一本『マリリン 7日間の恋』も確かテレビ畑の監督(サイモン・カーティス)だったよな。あのケン・ローチだってテレビの仕事から始めたし、そこでの経験が随分と糧になったようなことをしばしば語ってるし、BBCの豊かな歴史を感じます。
音楽もゴキゲンで、フレンチ・テイストも盛り込んだスコアの盛りつけ方も適量なら、要所要所でかかる既成曲も適材。アップルのCMでおなじみのヤエル・ナイムの「ニュー・ソウル」なんかも見事にしあわせな関係。他にも、レジーナ・スペクターやイメルダ・メイなどのフィメール・ヴォーカルで色とりどり。
ところで、本作はドリパスで一夜限りの劇場上映が実現するのだとか。シネマート新宿の大きい方なら、なかなか好環境だと思うけど、上映素材がBlu-rayという不安。ブルーレイ上映も努力次第ではそこそこの質が求められるようだけど、今年あそこで観た『マーサ、あるいはマーシー・メイ』はちょっと残念だったからな・・・作品自体はかなり好かったんだけど。
それにしても、始まった当初はすぐに消えると思っていたドリパスが、今やなかなか定着しそこそこ進化している様相で些か驚き。ヤフーが買収したらしいけど、うまいこと行ってるのかな。今回の『ターゲット』上映の観賞料金は2,000円均一(でも、実際はドリパスのシステム使用料で210円徴収されるから、実質2,210円均一)。確かに貴重な劇場上映になるとはいえ、一昨年DVD発売され、WOWOWでも今月複数回放映され、しかもブルーレイでの上映。なかなかいい商売してますね。これで上下黒帯での上映だったら泣けるよな・・・。ま、観に行くつもりのない俺があーだこーだ言うのも筋違い。ドリパスに限らず、最近またこの手のビジネスモデル(ソフト販売の前後に劇場で限定上映)って堅調だよね。CDの売上落ちてもライブ動員堅調っていう音楽業界と一見似てるようだけど、僕としては懸念が上回る。最初は速効性のあるニッチ産業的旨味はあるとは思うけど、映画(特に外国映画)マーケットのマニア化を促進してしまいそうだから。というか、マニアのなかでも分断されていく気もするし。現に、その手のビジネスにノレる人と(僕のように)ノレない人がいるわけで、前者だけを見込んだビジネスに浮かれてる姿は、後者の人間にしてみたら寂しさを覚えるもので・・・ま、狭量で偏屈な人間の僻み的ボヤキかもしれないけどね。
あ、でも、一夜限りの『めぐり逢ったが運のつき』劇場上映とかあったら、たとえ素材がDVDレベルであったとしても駆けつけちゃうかも!(そう、人間は矛盾な生きものなのです。) ってか、アルバトロスはやっぱりフィルム棄てちゃったかな・・・
2013年8月1日木曜日
執行者/The Excutioner
2009年の韓国映画。「韓国映画ショーケース2009」で上映された作品が、今年1月にDVDで発売。私は先日、WOWOW放映で観た。同ショーケースでは、『素晴らしい一日』や『昼間から呑む』など劇場公開がその後決まった作品も上映されていたが、本作は残念ながら劇場公開には至らなかった模様。実際に観てみるとそれも納得だったりもするのだが。
監督は本作が初長編となるチェ・ジンホ。主演は、ユン・ゲサン(アイドルグループgodの元メンバーで、『プンサンケ』で主演)、チョ・ジェヒョン(キム・ギドク初期作の常連)というキム・ギドクに縁のある二人であり、かつテーマも重厚であるはずながら、本作の仕上がりは至って生ぬるく感傷的。
韓国では死刑制度が存続してはいながらも、1997年12月に23人が執行されたのを最後に、刑の執行は行われてないらしい。そうした事実を背景として、「12年ぶりに死刑が執行される」というフィクションから死刑制度を問う物語をうみだした。とはいえ、制度に対する疑念から社会機構への「信頼」を揺さぶろうとするというよりは、タイトルにあるように「執行する者」が人間として個人として味わう葛藤を主軸に「ドラマ」が展開される。懐疑と諦念の彼方に佇むベテラン、職務遂行と遵守への過剰な使命感に浸る中堅、臆病から倨傲そして陶酔へと変容する新人、そうした三人の刑務官と彼らの背景を職務と絡ませつつ、クライマックスの〈執行〉へ感情が収束してゆく構成だ。
新人刑務官(ユン・ゲサン)は公務員試験の受験を控えた恋人がいるのだが、彼女から妊娠を告げられる。もうすぐクリスマス。そのまえには死刑の執行が・・・。命の出入り、降誕、昇天、いくつもの生と死のドラマを交錯させようとしたシナリオ。成功していれば極めて深遠さをたたえた映画に仕上がっていただろうが、各要素は見事に編まれる事なく、羅列的確認で進行してしまう残念。
技巧と情緒の堅固な結託に「鷲掴み」を余儀なくされる韓国映画の数々。一時期の粗製濫造から見事に復調の兆し(どころか隆盛!?)を感じる昨今。本作が少し前の作品だからか、それとも劇場公開作と未公開作に実は明確な落差があるからか、ここ最近観た韓国映画の濃密と堪能からは程遠い手緩さにガッカリしながらも半ば安堵(?)。韓国映画にも、(日本映画と同様に)メロドラマ的センチメンタリズムに堕してしまう傾向ってあるんだな、という。ただ、そういった「つくり」(とりわけ、エモーショナルなスコアや心情吐露的な台詞に顕著)は基本失意に流れてしまいがちながら、時折直球過ぎてよけられないままグッと来てしまう場面もあったりする。ただ、複雑な問題に挑みつつも、不都合な議論を回避する用意がなされているかのような半端な蛇行はやはり、初志を懐疑せざるを得ない結果に陥ってしまっている気がしてしまう。同じ傾向は邦題にも引き継がれてしまったのかも。(『死刑執行人』でよいではないか)
監督は本作が初長編となるチェ・ジンホ。主演は、ユン・ゲサン(アイドルグループgodの元メンバーで、『プンサンケ』で主演)、チョ・ジェヒョン(キム・ギドク初期作の常連)というキム・ギドクに縁のある二人であり、かつテーマも重厚であるはずながら、本作の仕上がりは至って生ぬるく感傷的。
韓国では死刑制度が存続してはいながらも、1997年12月に23人が執行されたのを最後に、刑の執行は行われてないらしい。そうした事実を背景として、「12年ぶりに死刑が執行される」というフィクションから死刑制度を問う物語をうみだした。とはいえ、制度に対する疑念から社会機構への「信頼」を揺さぶろうとするというよりは、タイトルにあるように「執行する者」が人間として個人として味わう葛藤を主軸に「ドラマ」が展開される。懐疑と諦念の彼方に佇むベテラン、職務遂行と遵守への過剰な使命感に浸る中堅、臆病から倨傲そして陶酔へと変容する新人、そうした三人の刑務官と彼らの背景を職務と絡ませつつ、クライマックスの〈執行〉へ感情が収束してゆく構成だ。
新人刑務官(ユン・ゲサン)は公務員試験の受験を控えた恋人がいるのだが、彼女から妊娠を告げられる。もうすぐクリスマス。そのまえには死刑の執行が・・・。命の出入り、降誕、昇天、いくつもの生と死のドラマを交錯させようとしたシナリオ。成功していれば極めて深遠さをたたえた映画に仕上がっていただろうが、各要素は見事に編まれる事なく、羅列的確認で進行してしまう残念。
技巧と情緒の堅固な結託に「鷲掴み」を余儀なくされる韓国映画の数々。一時期の粗製濫造から見事に復調の兆し(どころか隆盛!?)を感じる昨今。本作が少し前の作品だからか、それとも劇場公開作と未公開作に実は明確な落差があるからか、ここ最近観た韓国映画の濃密と堪能からは程遠い手緩さにガッカリしながらも半ば安堵(?)。韓国映画にも、(日本映画と同様に)メロドラマ的センチメンタリズムに堕してしまう傾向ってあるんだな、という。ただ、そういった「つくり」(とりわけ、エモーショナルなスコアや心情吐露的な台詞に顕著)は基本失意に流れてしまいがちながら、時折直球過ぎてよけられないままグッと来てしまう場面もあったりする。ただ、複雑な問題に挑みつつも、不都合な議論を回避する用意がなされているかのような半端な蛇行はやはり、初志を懐疑せざるを得ない結果に陥ってしまっている気がしてしまう。同じ傾向は邦題にも引き継がれてしまったのかも。(『死刑執行人』でよいではないか)
2013年7月29日月曜日
ノーベル殺人事件/アンチュ・トラウェ
WOWOWのジャパン・プレミアにて放映され、DVDも来月発売予定。スウェーデン版「ミレニアム」三部作のスタッフが送る、ベストセラー・シリーズ映像化作品第2弾。制作は「ミレニアム」シリーズのイエローバード。テレビやビデオ作品が中心のプロダクションのようで、『刑事ヴァランダー』なども手がけるイエローバードは、この「アニカ・ベングッソン」シリーズ(作者は、ジャーナリスト出身でベストセラー作家のリサ・マークルンド)8作中6作の権利を取得し、映像化(残り2作は既に他所で映像化済みの模様)。同シリーズ6作目を原作とする『ノーベル殺人事件』(原題は「Nobels testamente(英題:Nobel's Last Will)」)を2012年3月に劇場公開した後は、他のシリーズ作品を同年の7月から8月にかけて連続でソフトを発売したみたい。(つまり、一作目で様子見の結果、ビデオスルーが決定したということ?それとも一作目の劇場公開はプロモーション?) そうした背景からもわかるように、「新聞記者アニカ・ベングッソンの事件簿」的2時間ドラマなつくり。
「ミレニアム」三部作は、リスベットの強烈なキャラクター(及び演じたノオミ・ラパスの存在感)や主人公とのケミストリー、そして背後に張り巡らされた陰惨胡散な伝統と巨大システム化した現代社会の諸相がもつ醜態性、それらの絶妙なブレンドが安っぽい「大河」感を結果的に演出した幸運なシリーズだったように思う。批評興行共に優秀だったシリーズだが、個人的には正直ヴォリュームたっぷりの(だから見応えはある)堅実映像化作品程度だった。一応、一作目だけは原作を読み、作者スティーグ・ラーソンの数奇な運命も手伝ってか、見事にハマった小説だったことも影響してるかも。(ちなみに、フィンチャー版は大好きです。)
そして、本作も予想通りの出来。ドラマシリーズのパイロット版として吹替で気軽に観るならそこそこ楽しめるかなレベルの仕上がり。タイトルにもなっている「ノーベルの遺志」など(原作では掘り下げがあるのかもしれないが)この「テレビドラマ」版では火サス「断崖上の告白」程度すらも機能しない。小説だと違うのかもしれないが、とにかく主人公のアニカ・ベングッソンにさしたる魅力を見出せない。演じるマリク・クレピン(Malin Crépin)もパッとしない。が、スナイパー役のアンチュ・トラウェ(Antje Traue)にワクワク魅惑!ドイツ出身の彼女は、ポール・W・S・アンダーソン製作(確かに、アンチュはミラ・ジョヴォビッチ系だし)の『パンドラム』で世界デビュー、続いてレニー・ハーリンの『5デイズ』に出演。ここまでは先行不安というか心配なフィルモだったのだが、もうすぐ公開の『マン・オブ・スティール』にファオラ=ウル役で出演!どうやら、冷徹な悪役美女のようで、本作を観る限りでもかなり期待できそう。(マイケル・シャノン演じるゾッド将軍の手下(?)のようで、彼と共にインタビューに答える動画[その1・その2・その3・その4・その5、こういうの見ると改めて「プロモーションって大変」「インタビュアーって重要」って思う]があった。)
本作で監督を務めたピーター・フリント(Peter Flinth)の次回作は「Beatles」。原作は、ラーシュ・ソービエ・クリステンセンのベストセラー(1984)。ラーシュ・ソービエ・クリステンセンは、最近だと『孤島の王』の原案を担当。「Beatles」は、ビートルズに憧れる少年達を描いた作品のようだが、音楽はグネ・フルホルメン(2010年に解散したa-haのメンバーだった)が担当し、プロデューサーは『コン・ティキ』のヨアヒム・ローニングとエスペン・サンドベリ!(彼らが監督するといった情報も見かけたので、もしかしたら当初はその予定だったものの、『コン・ティキ』の成功で『パイレーツ・オブ・カリビアン』新作の監督に抜擢され、監督がピーターに替わったのかなと想像) こちらは楽しみ!
「ミレニアム」三部作は、リスベットの強烈なキャラクター(及び演じたノオミ・ラパスの存在感)や主人公とのケミストリー、そして背後に張り巡らされた陰惨胡散な伝統と巨大システム化した現代社会の諸相がもつ醜態性、それらの絶妙なブレンドが安っぽい「大河」感を結果的に演出した幸運なシリーズだったように思う。批評興行共に優秀だったシリーズだが、個人的には正直ヴォリュームたっぷりの(だから見応えはある)堅実映像化作品程度だった。一応、一作目だけは原作を読み、作者スティーグ・ラーソンの数奇な運命も手伝ってか、見事にハマった小説だったことも影響してるかも。(ちなみに、フィンチャー版は大好きです。)
そして、本作も予想通りの出来。ドラマシリーズのパイロット版として吹替で気軽に観るならそこそこ楽しめるかなレベルの仕上がり。タイトルにもなっている「ノーベルの遺志」など(原作では掘り下げがあるのかもしれないが)この「テレビドラマ」版では火サス「断崖上の告白」程度すらも機能しない。小説だと違うのかもしれないが、とにかく主人公のアニカ・ベングッソンにさしたる魅力を見出せない。演じるマリク・クレピン(Malin Crépin)もパッとしない。が、スナイパー役のアンチュ・トラウェ(Antje Traue)にワクワク魅惑!ドイツ出身の彼女は、ポール・W・S・アンダーソン製作(確かに、アンチュはミラ・ジョヴォビッチ系だし)の『パンドラム』で世界デビュー、続いてレニー・ハーリンの『5デイズ』に出演。ここまでは先行不安というか心配なフィルモだったのだが、もうすぐ公開の『マン・オブ・スティール』にファオラ=ウル役で出演!どうやら、冷徹な悪役美女のようで、本作を観る限りでもかなり期待できそう。(マイケル・シャノン演じるゾッド将軍の手下(?)のようで、彼と共にインタビューに答える動画[その1・その2・その3・その4・その5、こういうの見ると改めて「プロモーションって大変」「インタビュアーって重要」って思う]があった。)
本作で監督を務めたピーター・フリント(Peter Flinth)の次回作は「Beatles」。原作は、ラーシュ・ソービエ・クリステンセンのベストセラー(1984)。ラーシュ・ソービエ・クリステンセンは、最近だと『孤島の王』の原案を担当。「Beatles」は、ビートルズに憧れる少年達を描いた作品のようだが、音楽はグネ・フルホルメン(2010年に解散したa-haのメンバーだった)が担当し、プロデューサーは『コン・ティキ』のヨアヒム・ローニングとエスペン・サンドベリ!(彼らが監督するといった情報も見かけたので、もしかしたら当初はその予定だったものの、『コン・ティキ』の成功で『パイレーツ・オブ・カリビアン』新作の監督に抜擢され、監督がピーターに替わったのかなと想像) こちらは楽しみ!
2013年6月23日日曜日
フランス、幸せのメソッド 《Ma part du gâteau》
今年も「ほとんど公開予定作」ラインナップを残念がりつつも、ゲスト陣に華やかさが戻り、作品群もやはり充実してるし、なかなか濃密な四日間になりそうなフランス映画祭2013。WOWOWでの連動企画「フランス月間!2013」の矢継ぎ早には全く追いつけないものの、映画祭に気持ちを高めるべく観てみた本作。
セドリック・クラピッシュ監督作(2011)ながら、日本では劇場未公開で、昨年DVDがレンタル・発売された本作。先日、WOWOWで放送された。(予告編はこちら。)
主演は、『美しい運命の傷痕』『PARIS』『しあわせの雨傘』『パリ警視庁:未成年保護部隊(Polisse)』のカリン・ヴィアールと、『この愛のために撃て』『君のいなサマーデイズ』『プレイヤー』のジル・ルルーシュ。
20年勤めた工場が倒産して失業したシングルマザー(カリン・ヴィアール)が、リッチな敏腕金融トレーダー(ジル・ルルーシュ)宅の家政婦を務めるなかで「変わること」「変わらないこと」が、ストレートなベタ展開と仏蘭西的というかクラピッシュ節な変化球で目まぐるしく展開してゆく。テレビ局(カナル・プリュス)系列のスタジオ・カナルが制作・配給しているだけに、その辺は抜け目ない。しかし、クライマックスの展開やエンディングなどはハリウッド・メジャー的な落としどころとは一味違い、好みは分かれるだろうし、ポピュラリティは減じられるだろうが、その手の「すかし方」も私は嫌いじゃない。とはいえ、「そう終わるなら、もう少し丁寧に誠実に真摯にテーマと向き合っても好かったんじゃぁ・・・」的後味は残るんだけどね。
フランスのダニー・ボイル(なんて言われてないし、ボイルの方が監督キャリアは後輩)としてのセドリック・クラピッシュのエンタメ色全開ヴィジュアルとニッチすぎずリッチすぎぬ選曲継投はやっぱり飽きとは無縁で進行する。撮影を担当しているクリストフ・ボーカルヌは、ここ最近では『ミスター・ノーバディ』や『さすらいの女神たち』、『チキンとプラム』といった印象深い画を届けてくれるカメラマン。カンヌ・コンペ選出&アカデミー外国語映画賞ノミネートながら未公開のままの『Outside the Law』でも撮影を担当していたりする。(観たい!)
ただ、本作最大の見どころは、序盤の僅かな出演ながら魅了が後を引きまくるマリーヌ・ヴァクト!彼女は本作が映画デビューのようだが、今年のカンヌ・コンペに出品されたフランソワ・オゾン最新作「Jeune & jolie(Young & Beautiful)」の主演に大抜擢された最注目女優のひとり。着衣でも十二分に漂っていたアンニュイ・フェロモンが、あんなたわわがあらわであらら・・・早いとこ公開してください。
セドリック・クラピッシュ監督作(2011)ながら、日本では劇場未公開で、昨年DVDがレンタル・発売された本作。先日、WOWOWで放送された。(予告編はこちら。)
主演は、『美しい運命の傷痕』『PARIS』『しあわせの雨傘』『パリ警視庁:未成年保護部隊(Polisse)』のカリン・ヴィアールと、『この愛のために撃て』『君のいなサマーデイズ』『プレイヤー』のジル・ルルーシュ。
20年勤めた工場が倒産して失業したシングルマザー(カリン・ヴィアール)が、リッチな敏腕金融トレーダー(ジル・ルルーシュ)宅の家政婦を務めるなかで「変わること」「変わらないこと」が、ストレートなベタ展開と仏蘭西的というかクラピッシュ節な変化球で目まぐるしく展開してゆく。テレビ局(カナル・プリュス)系列のスタジオ・カナルが制作・配給しているだけに、その辺は抜け目ない。しかし、クライマックスの展開やエンディングなどはハリウッド・メジャー的な落としどころとは一味違い、好みは分かれるだろうし、ポピュラリティは減じられるだろうが、その手の「すかし方」も私は嫌いじゃない。とはいえ、「そう終わるなら、もう少し丁寧に誠実に真摯にテーマと向き合っても好かったんじゃぁ・・・」的後味は残るんだけどね。
フランスのダニー・ボイル(なんて言われてないし、ボイルの方が監督キャリアは後輩)としてのセドリック・クラピッシュのエンタメ色全開ヴィジュアルとニッチすぎずリッチすぎぬ選曲継投はやっぱり飽きとは無縁で進行する。撮影を担当しているクリストフ・ボーカルヌは、ここ最近では『ミスター・ノーバディ』や『さすらいの女神たち』、『チキンとプラム』といった印象深い画を届けてくれるカメラマン。カンヌ・コンペ選出&アカデミー外国語映画賞ノミネートながら未公開のままの『Outside the Law』でも撮影を担当していたりする。(観たい!)
ただ、本作最大の見どころは、序盤の僅かな出演ながら魅了が後を引きまくるマリーヌ・ヴァクト!彼女は本作が映画デビューのようだが、今年のカンヌ・コンペに出品されたフランソワ・オゾン最新作「Jeune & jolie(Young & Beautiful)」の主演に大抜擢された最注目女優のひとり。着衣でも十二分に漂っていたアンニュイ・フェロモンが、あんなたわわがあらわであらら・・・早いとこ公開してください。
2013年6月16日日曜日
アラン・コルノーの遺作
4月から数年ぶりに仕事の内容(というかパターン)がガラッと変わり、休日まで5年ぶりに変わって、とても映画観に行ったりする余裕は皆無・・・かとも思っていたら、習慣を維持する意地くらいは残せるペース配分で日々過ごし・・・劇場へもそこそこ通っているし、映画祭や特集上映への巡礼も適度に敢行継続中。とはいえ、それらを反芻したりする余裕はさすがになくて、記事化できる体力能力恒常不足。
爆音映画祭の疲れ(と言っても、観に行ってるだけだけど)も抜けぬまま、秘かに(別に隠されちゃいないけど)始まっていた「EUフィルムデーズ」にも遅れて細々参戦。今週末からはフランス映画祭。特集上映や小規模映画祭の尋常じゃない日程重複っぷりはまだまだ続きそう。
そんななか、気軽に感想書ける映画をWOWOWで。『ラブ・クライム 偽りの愛に溺れて(Crime d'amour)』。今年のフランス映画祭での来日も控えているリュディヴィーヌ・サニエ主演。サニエ演じるイザベルが、自らの手柄を横取りする傲慢な女上司クリスティーヌ(クリスティン・スコット・トーマス)に復讐。イザベルによる殺害計画には、完全犯罪へと導く綿密な計画があった・・・。
本作最大の見どころ(?)は、昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペにも出品されたブライアン・デ・パルマ最新作「パッション(Passion)」のオリジナルであるという点(のみ)。そのリメイク版では、サニエ演じるヒロインをノオミ・ラパスが、上司のクリスティーヌをレイチェル・マクアダムスが演じている。洩れ聞こえてくる評判というか噂では、とにかくその二人の「からみ」の妖艶さばかりが注目されていた気がするが、オリジナルの『ラブ・クライム』には、それっぽい感情が仄めかされたりするものの、直接的な描写は皆無。(むしろ、その中途半端感の消化不良っぷりは最後まで拭いきれないハンパ臭となって残り続けてる。)きっと、デ・パルマが好き放題に「料理」してくれていることでしょう。みんな大好き大好物仕立てで!(撮影を、アルモドバルの盟友ホセ・ルイス・アルカイネが担当しているというのも興味深い!アルカイネはエリセの『エル・スール』も撮ってたりする。)
ところで、何の変哲もなく何の情熱も感じない、土ワイ的まったりと火サス的通俗っぷりは「ながら見」オッケーな手軽さで気軽で好いが、本作がアラン・コルノーの遺作と聞くと些か複雑。クリスティン・スコット・トーマスはほとんどアルバイト、リュディヴィーヌ・サニエはいろんな演技の練習台。皆が皆、やっつけ気味に仕事した(よく言えば肩の力が抜けた)一作という趣なので。だから、「デ・パルマによるリメイク」というのはせめてもの泊付けになったかも。
アラン・コルノー監督作では、シルヴィー・テスチュがセザール賞を獲得した『畏れ慄いて』(フランス映画祭では上映されるも、劇場未公開&未ソフト化)を是非観てみたい。日本(の会社社会)を随分と皮肉っている内容らしいのだが、そうした作品を撮ったこともあってか、元来興味関心が高かったのか、『ラブ・クライム』にも唐突に日本の企業からやってきた日本人が登場したりする。「日本人はすぐに記念撮影したがる」的な指摘の直後、バカっぽい日本のサラリーマンがイザベル&クリスティーヌとニヤニヤしながら写真を撮る場面。更に、スコア(というよりBGMというか効果音というか)では、日本風(?)な琴の音が頻繁登場。オフィスに盆栽でもあれば完璧だったのに。
爆音映画祭の疲れ(と言っても、観に行ってるだけだけど)も抜けぬまま、秘かに(別に隠されちゃいないけど)始まっていた「EUフィルムデーズ」にも遅れて細々参戦。今週末からはフランス映画祭。特集上映や小規模映画祭の尋常じゃない日程重複っぷりはまだまだ続きそう。
そんななか、気軽に感想書ける映画をWOWOWで。『ラブ・クライム 偽りの愛に溺れて(Crime d'amour)』。今年のフランス映画祭での来日も控えているリュディヴィーヌ・サニエ主演。サニエ演じるイザベルが、自らの手柄を横取りする傲慢な女上司クリスティーヌ(クリスティン・スコット・トーマス)に復讐。イザベルによる殺害計画には、完全犯罪へと導く綿密な計画があった・・・。
本作最大の見どころ(?)は、昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペにも出品されたブライアン・デ・パルマ最新作「パッション(Passion)」のオリジナルであるという点(のみ)。そのリメイク版では、サニエ演じるヒロインをノオミ・ラパスが、上司のクリスティーヌをレイチェル・マクアダムスが演じている。洩れ聞こえてくる評判というか噂では、とにかくその二人の「からみ」の妖艶さばかりが注目されていた気がするが、オリジナルの『ラブ・クライム』には、それっぽい感情が仄めかされたりするものの、直接的な描写は皆無。(むしろ、その中途半端感の消化不良っぷりは最後まで拭いきれないハンパ臭となって残り続けてる。)きっと、デ・パルマが好き放題に「料理」してくれていることでしょう。みんな大好き大好物仕立てで!(撮影を、アルモドバルの盟友ホセ・ルイス・アルカイネが担当しているというのも興味深い!アルカイネはエリセの『エル・スール』も撮ってたりする。)
ところで、何の変哲もなく何の情熱も感じない、土ワイ的まったりと火サス的通俗っぷりは「ながら見」オッケーな手軽さで気軽で好いが、本作がアラン・コルノーの遺作と聞くと些か複雑。クリスティン・スコット・トーマスはほとんどアルバイト、リュディヴィーヌ・サニエはいろんな演技の練習台。皆が皆、やっつけ気味に仕事した(よく言えば肩の力が抜けた)一作という趣なので。だから、「デ・パルマによるリメイク」というのはせめてもの泊付けになったかも。
アラン・コルノー監督作では、シルヴィー・テスチュがセザール賞を獲得した『畏れ慄いて』(フランス映画祭では上映されるも、劇場未公開&未ソフト化)を是非観てみたい。日本(の会社社会)を随分と皮肉っている内容らしいのだが、そうした作品を撮ったこともあってか、元来興味関心が高かったのか、『ラブ・クライム』にも唐突に日本の企業からやってきた日本人が登場したりする。「日本人はすぐに記念撮影したがる」的な指摘の直後、バカっぽい日本のサラリーマンがイザベル&クリスティーヌとニヤニヤしながら写真を撮る場面。更に、スコア(というよりBGMというか効果音というか)では、日本風(?)な琴の音が頻繁登場。オフィスに盆栽でもあれば完璧だったのに。
2013年5月22日水曜日
サマー~あの夏の記憶~
WOWOWのジャパン・プレミアにて日本初紹介となった2008年の作品(原題:Summer)。エンドロールを見ていると、ケン・ローチ作品のプロデューサーであるレベッカ・オブライエンの名を見つけ、終いには制作にSixteen Filmsが参加している事実まで。主演の二人が、ロバート・カーライル(『リフ・ラフ』『カルラの歌』)も、スティーヴ・エヴェッツ(『エリックを探して』)も、ケン・ローチの作品で主演を務めた俳優だったし、テイストもやや近いものをそこはかとなく感じながら観てたけど、どうりでね。
にしても、清々しいほど地味な小品で、WOWOWでの放映とはいえ、日本に紹介されたのが意外。これって、ロバート・カーライルが主演だったから?ケン・ローチ関連推しはしてないみたいだし。偉大なる、フル・モンティ。いや、トレインスポッティング・フォーエヴァーか。というより、あの頃のUKフィルムのゴキゲンさ(個人的にはそこまでもれなく好きなタイプの作品群ではないけれど)は日本でのミニシアター作品に一定のファッション性(しかも、親しみやすい)を与えてくれてもいたなぁ、なんてノスタルジー。
本作は、幼なじみの二人の男の「もつれた絆」を、現在と過去とを往来しながら描いてく。そして、最後にわだかまったきっかけの真相が明かされ・・・。ありがちなプロットながら、ストイックなまでに起伏を起伏にしようとせずに、昂揚に恬淡な澄まし顔で物語は進んでく。監督のケニー・グレナーンはテレビの仕事を多く手がけているようだし、映画となったら「より映画的」な語りにこだわったのかもしれないなどと勝手な憶測してみたり。
こういった映画の、劇場でまったりと観てこそな心地好い脱力で帰路につける不思議な贅沢感覚が懐かしい。渋谷のミニシアター(しかも、多少オシャレ感のあった・・・かつてのシネマライズ、シネアミューズ、シネセゾン渋谷のように)、真夏のレイトショーで観た帰り、腕にあたる生ぬるい風にヒンヤリ成分を一瞬感じたり・・・みたいな観賞体験を妄想してみたり。
エンドロールで流れてくるKing Creosote「Home In A Sentence」がもたらす清涼安堵感も、ありがち以外のなにものでもない「パターン」でありながら、愁傷をやさしく癒やす、ひだまりの詩。
にしても、清々しいほど地味な小品で、WOWOWでの放映とはいえ、日本に紹介されたのが意外。これって、ロバート・カーライルが主演だったから?ケン・ローチ関連推しはしてないみたいだし。偉大なる、フル・モンティ。いや、トレインスポッティング・フォーエヴァーか。というより、あの頃のUKフィルムのゴキゲンさ(個人的にはそこまでもれなく好きなタイプの作品群ではないけれど)は日本でのミニシアター作品に一定のファッション性(しかも、親しみやすい)を与えてくれてもいたなぁ、なんてノスタルジー。
本作は、幼なじみの二人の男の「もつれた絆」を、現在と過去とを往来しながら描いてく。そして、最後にわだかまったきっかけの真相が明かされ・・・。ありがちなプロットながら、ストイックなまでに起伏を起伏にしようとせずに、昂揚に恬淡な澄まし顔で物語は進んでく。監督のケニー・グレナーンはテレビの仕事を多く手がけているようだし、映画となったら「より映画的」な語りにこだわったのかもしれないなどと勝手な憶測してみたり。
こういった映画の、劇場でまったりと観てこそな心地好い脱力で帰路につける不思議な贅沢感覚が懐かしい。渋谷のミニシアター(しかも、多少オシャレ感のあった・・・かつてのシネマライズ、シネアミューズ、シネセゾン渋谷のように)、真夏のレイトショーで観た帰り、腕にあたる生ぬるい風にヒンヤリ成分を一瞬感じたり・・・みたいな観賞体験を妄想してみたり。
エンドロールで流れてくるKing Creosote「Home In A Sentence」がもたらす清涼安堵感も、ありがち以外のなにものでもない「パターン」でありながら、愁傷をやさしく癒やす、ひだまりの詩。
2013年5月17日金曜日
トム・ティクヴァ 《3》
ウォシャウスキー姉弟と共同監督を務めた『クラウド アトラス』が3月に公開されたトム・ティクヴァの2010年作品。ヴェネツィアのコンペにも出品されたが、日本では劇場未公開。コアなファンが多くいるタイプでもなければ、メジャーとは程遠い微妙な「ネーム」のトム・ティクヴァとしては、その「名」頼みでは公開困難だとしても、下世話な興味をひきそうなプロットだし、そのうち日本にも紹介されるかと期待して待ち続けるも、そのような気配は全く立ち籠めず、結局自力でDVD観賞(予告しか特典映像なくて残念)。英語字幕で観たので、台詞の妙とかほとんど味わえきれちゃいないけど、それでも好きを痛感したよ、トム・ティクヴァ。
『パフューム ある人殺しの物語』『ザ・バンク 墜ちた巨像』といった「大きな」作品が続いた後、しかもドイツ(語)で撮る久々の長編とあって、かつての垢抜けすぎないスタイリッシュという映画オタク(映画館で映写や作品選定を担当してた)出自を遺憾なく発揮する、全編ティクヴァ節。『ラン・ローラ・ラン』のような若さの迸りも愉しかったけど、色々経験して落ち着きながらも遊び盛りな悪戯好きティクヴァもなかなか好いね。初期の『マリアの受難』や『ウィンタースリーパー』(『ラン~』のヒットで劇場公開されたんだよね。前者はイメフォ、後者はシネ・アミューズ。ミニシアターが若者で賑わってた時代[遠い目・・・])なんかで感じた洒脱な陰鬱さが心地好い。ペイル・ブルーな雰囲気が全体を蔽いつつ、時折挿入されるアクセント(白バックに黒装束の三人がダンスをしたり、顕微鏡がとらえる卵子の映像や、アニメ風の影絵調な画だったり)が微かな転調を施して、2時間ほどの上映時間も一息で。
キャストでは、アダムを演じたデーフィト・シュトリーゾフ(Devid Striesow)が『ヒトラー~最後の12日間~』や『ヒトラーの贋札』にも出演していたらしく(『東ベルリンから来た女』の監督・主演コンビによる「イェラ」にも)、見覚えある気がしたものの、他のキャストは馴染みがないし、とりたてて華があるタイプもいない。ただ、シモンを演じたセバスティアン・シッパーは『ギガンティック』の監督だったと後で知る。同作は、ティクヴァ作品に出演していたシッパーが、ティクヴァの後ろ盾を得て(彼がプロデューサーを務めてもいる)監督した作品だとか。ちなみに、シッパーはこれまで3本の映画を監督。2本目はダニエル・ブリュール主演の「僕の友達」(ドイツ映画祭2007で上映)。
最も「魅惑」であるべきアダムですら、眉目麗しさを敢えて抑えたキャスティングにも思えるが、年齢設定的にも、それが自然なのかもしれない。それは作品世界を外見で構築するよりも、内面(つまり、演技)で醸成させる覚悟にも思えたり。
スタッフは、音楽・撮影・編集・美術などいずれもティクヴァ組の面々。ということは、大作系での経験を活かしつつも、それらでの制約などからの解放感を噛み締めつつの仕事だったのだろうか等と推察。なかでも、ティクヴァ作品の劇伴制作チームの仕事が脂乗り過ぎで胃もたれ気味・・・だけど、その「鳴りすぎ」感がティクヴァ好きにはたまらない(はず)。それを中和するかのように、既成曲の使用が見事なアクセント。
ドビュッシーが完成させた唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』の音楽がたびたび用いられるのだが(コミカルな演出との小粋なケミストリー!)、モーリス・メーテルリンクによるその物語は、王太子ゴローの妻メリザンドとゴローの異父弟ペレアスの禁断の愛を描いたもの。心憎い選曲だ。
そして本作における選曲といえば、デビッド・ボウイの「スペイス・オディティ」。(ベルトルッチの『孤独の天使たち』での大フィーチャーに続いて、本作でも序盤に2回[サビ前で寸止め]流れ、エンドロールではフルで流れる。)この曲で月面着陸をする宇宙飛行士の名はまさに、トム!
キーヴィジュアルから明らかなように、本作は男2・女1の三角関係を描いた恋愛ドラマ・・・だと思って見始めると、斜め45度な心地好い裏切りに酔い始め・・・。まぁ、よーく見てみれば、女性が男性に挟まれているのではなく、その列びや向きから一筋縄でいかぬのは瞭然。
付き合い始めて20年になるハンナとシモン。婚姻もまだなら、子供も本格検討に至らずじまい。そんななか、シモンの母が癌で他界。そして間もなくシモンも患っていた癌のために手術(睾丸を一つ摘出するのだが、その手術シーンがさりげなく「モロ」だったりする・・・)。その間に、職場で知り合ったアダムと一夜の快楽に身を任せてしまったハンナ。一方、シモンは退院後、プールで会ったアダムと「熱い絆」を感じてしまい・・・。ちなみに、そのアダムは付き合っている青年(職場での助手?)がいる一方、バツイチでもあり息子がいる。という無茶苦茶な粗筋ながら、至って静謐さを保ちながら語られてもいる。落ち着いたまま、眼の前で展開される「異様さ」を見守れば、それが至極普遍的にすら思えて来る不思議。丁度折り返しの1時間を過ぎたところで、シモンとアダムの「ときめき」が発生するというペース配分も抜群。そこからのさりげなくも昂揚促進な転調ぶりは堂に入った職人芸。
全体的に淡い蒼に包まれながら、アダムにときめくシモンのハートはイエロー。出会いの場であるプール(川の中にある、実に魅力的な空間)は黄色が印象的な内装で、薬局でふとアダムを思い出して買おうとするキャンディ(?)も黄色だったり。こういうさりげない「差し色」の使用のように、ニヤリなディテイル愛でてるティクヴァ。
また、「3(Drei)」というタイトルだけに、「3」が隈無く散りばめられている。気づいただけでも、3つの睾丸(2つ持つ男と1つになった男)や、ケーキカットの掛け声(イチ、ニ、サン!)、ハンナは双子を妊娠して3つの命。そもそも、トム・ティクヴァ自身も「3」づいていて(?)、『ラン・ローラ・ラン』は確かローラが3回走るんじゃなかったか(違うかも)。最近では、『クラウド アトラス』を3人で監督したわけだしね。作中にはもっとたくさんの3が溢れていることと思う。とはいえ、偏執一歩手前な手加減はちょうどな塩梅。
娯楽としても抜群な牽引力をキープしながらも、ファム・ファタールとは(性別のみならず)別種のオーラを放つ(ように演出された)男の名が「アダム」であるように、それは男女(男男)の恋愛を超越し始めて、人類愛へのコール&レスポンスに昇華する。そうしたストーリーテリングの匙加減は、トム・ティクヴァ独特のあっさり濃厚な味わいが極上で、次回作が楽しみすぎる。
(余談1)
ハンナとシモンが映画館(名画座)に行く場面。二人がおしゃべりしていると、シネフィル青年が注意する(「爺さん、婆さん」なんて呼びかけてるし)が、他の観客も一人客で、姿勢良く極めて静かに観賞してる。ドイツ映画祭での殊勝な観賞状況を想起してしまったり。(アメリカやフランスなんかの映画で出てくる映画館内の雰囲気とは大違い)
(余談2)
ハンナとアダムは医学博士のようだが、彼らが(おそらく)IPS細胞の話をする場面があり、「Yamanakaを知ってるかい?」のような台詞が不意に出てきてニヤリ。
(余談3)
キャスティング的にも、物語的にも、R指定要素(特に、男性同士のベッドシーンがやや刺戟強めかも)からも、劇場公開が困難そうなのは十分判ったけれど、かといって東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映するには敷居が高そう(とりわけ上映権料なんかが)だし、ドイツ映画祭も事実上休止中だし、東京国際映画祭では(国別・地域別の映画祭がない)国や地域の作品をもっと上映して欲しかったり。EUフィルムdaysも年々・・・だし。シネスコで、画面分割(細分化)が演出の一つとして多用されたりもしているので、大きなスクリーンで観たかった。『パフューム』も『ザ・バンク』も上映一週目に、シネコンのお気に入り大スクリーンでの上映を捜して観に行ったっけ。でも、両方とも数名しか観客いなかった。そう考えるとやっぱり・・・。
『パフューム ある人殺しの物語』『ザ・バンク 墜ちた巨像』といった「大きな」作品が続いた後、しかもドイツ(語)で撮る久々の長編とあって、かつての垢抜けすぎないスタイリッシュという映画オタク(映画館で映写や作品選定を担当してた)出自を遺憾なく発揮する、全編ティクヴァ節。『ラン・ローラ・ラン』のような若さの迸りも愉しかったけど、色々経験して落ち着きながらも遊び盛りな悪戯好きティクヴァもなかなか好いね。初期の『マリアの受難』や『ウィンタースリーパー』(『ラン~』のヒットで劇場公開されたんだよね。前者はイメフォ、後者はシネ・アミューズ。ミニシアターが若者で賑わってた時代[遠い目・・・])なんかで感じた洒脱な陰鬱さが心地好い。ペイル・ブルーな雰囲気が全体を蔽いつつ、時折挿入されるアクセント(白バックに黒装束の三人がダンスをしたり、顕微鏡がとらえる卵子の映像や、アニメ風の影絵調な画だったり)が微かな転調を施して、2時間ほどの上映時間も一息で。
キャストでは、アダムを演じたデーフィト・シュトリーゾフ(Devid Striesow)が『ヒトラー~最後の12日間~』や『ヒトラーの贋札』にも出演していたらしく(『東ベルリンから来た女』の監督・主演コンビによる「イェラ」にも)、見覚えある気がしたものの、他のキャストは馴染みがないし、とりたてて華があるタイプもいない。ただ、シモンを演じたセバスティアン・シッパーは『ギガンティック』の監督だったと後で知る。同作は、ティクヴァ作品に出演していたシッパーが、ティクヴァの後ろ盾を得て(彼がプロデューサーを務めてもいる)監督した作品だとか。ちなみに、シッパーはこれまで3本の映画を監督。2本目はダニエル・ブリュール主演の「僕の友達」(ドイツ映画祭2007で上映)。
最も「魅惑」であるべきアダムですら、眉目麗しさを敢えて抑えたキャスティングにも思えるが、年齢設定的にも、それが自然なのかもしれない。それは作品世界を外見で構築するよりも、内面(つまり、演技)で醸成させる覚悟にも思えたり。
スタッフは、音楽・撮影・編集・美術などいずれもティクヴァ組の面々。ということは、大作系での経験を活かしつつも、それらでの制約などからの解放感を噛み締めつつの仕事だったのだろうか等と推察。なかでも、ティクヴァ作品の劇伴制作チームの仕事が脂乗り過ぎで胃もたれ気味・・・だけど、その「鳴りすぎ」感がティクヴァ好きにはたまらない(はず)。それを中和するかのように、既成曲の使用が見事なアクセント。
ドビュッシーが完成させた唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』の音楽がたびたび用いられるのだが(コミカルな演出との小粋なケミストリー!)、モーリス・メーテルリンクによるその物語は、王太子ゴローの妻メリザンドとゴローの異父弟ペレアスの禁断の愛を描いたもの。心憎い選曲だ。
そして本作における選曲といえば、デビッド・ボウイの「スペイス・オディティ」。(ベルトルッチの『孤独の天使たち』での大フィーチャーに続いて、本作でも序盤に2回[サビ前で寸止め]流れ、エンドロールではフルで流れる。)この曲で月面着陸をする宇宙飛行士の名はまさに、トム!
キーヴィジュアルから明らかなように、本作は男2・女1の三角関係を描いた恋愛ドラマ・・・だと思って見始めると、斜め45度な心地好い裏切りに酔い始め・・・。まぁ、よーく見てみれば、女性が男性に挟まれているのではなく、その列びや向きから一筋縄でいかぬのは瞭然。
付き合い始めて20年になるハンナとシモン。婚姻もまだなら、子供も本格検討に至らずじまい。そんななか、シモンの母が癌で他界。そして間もなくシモンも患っていた癌のために手術(睾丸を一つ摘出するのだが、その手術シーンがさりげなく「モロ」だったりする・・・)。その間に、職場で知り合ったアダムと一夜の快楽に身を任せてしまったハンナ。一方、シモンは退院後、プールで会ったアダムと「熱い絆」を感じてしまい・・・。ちなみに、そのアダムは付き合っている青年(職場での助手?)がいる一方、バツイチでもあり息子がいる。という無茶苦茶な粗筋ながら、至って静謐さを保ちながら語られてもいる。落ち着いたまま、眼の前で展開される「異様さ」を見守れば、それが至極普遍的にすら思えて来る不思議。丁度折り返しの1時間を過ぎたところで、シモンとアダムの「ときめき」が発生するというペース配分も抜群。そこからのさりげなくも昂揚促進な転調ぶりは堂に入った職人芸。
全体的に淡い蒼に包まれながら、アダムにときめくシモンのハートはイエロー。出会いの場であるプール(川の中にある、実に魅力的な空間)は黄色が印象的な内装で、薬局でふとアダムを思い出して買おうとするキャンディ(?)も黄色だったり。こういうさりげない「差し色」の使用のように、ニヤリなディテイル愛でてるティクヴァ。
また、「3(Drei)」というタイトルだけに、「3」が隈無く散りばめられている。気づいただけでも、3つの睾丸(2つ持つ男と1つになった男)や、ケーキカットの掛け声(イチ、ニ、サン!)、ハンナは双子を妊娠して3つの命。そもそも、トム・ティクヴァ自身も「3」づいていて(?)、『ラン・ローラ・ラン』は確かローラが3回走るんじゃなかったか(違うかも)。最近では、『クラウド アトラス』を3人で監督したわけだしね。作中にはもっとたくさんの3が溢れていることと思う。とはいえ、偏執一歩手前な手加減はちょうどな塩梅。
娯楽としても抜群な牽引力をキープしながらも、ファム・ファタールとは(性別のみならず)別種のオーラを放つ(ように演出された)男の名が「アダム」であるように、それは男女(男男)の恋愛を超越し始めて、人類愛へのコール&レスポンスに昇華する。そうしたストーリーテリングの匙加減は、トム・ティクヴァ独特のあっさり濃厚な味わいが極上で、次回作が楽しみすぎる。
(余談1)
ハンナとシモンが映画館(名画座)に行く場面。二人がおしゃべりしていると、シネフィル青年が注意する(「爺さん、婆さん」なんて呼びかけてるし)が、他の観客も一人客で、姿勢良く極めて静かに観賞してる。ドイツ映画祭での殊勝な観賞状況を想起してしまったり。(アメリカやフランスなんかの映画で出てくる映画館内の雰囲気とは大違い)
(余談2)
ハンナとアダムは医学博士のようだが、彼らが(おそらく)IPS細胞の話をする場面があり、「Yamanakaを知ってるかい?」のような台詞が不意に出てきてニヤリ。
(余談3)
キャスティング的にも、物語的にも、R指定要素(特に、男性同士のベッドシーンがやや刺戟強めかも)からも、劇場公開が困難そうなのは十分判ったけれど、かといって東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映するには敷居が高そう(とりわけ上映権料なんかが)だし、ドイツ映画祭も事実上休止中だし、東京国際映画祭では(国別・地域別の映画祭がない)国や地域の作品をもっと上映して欲しかったり。EUフィルムdaysも年々・・・だし。シネスコで、画面分割(細分化)が演出の一つとして多用されたりもしているので、大きなスクリーンで観たかった。『パフューム』も『ザ・バンク』も上映一週目に、シネコンのお気に入り大スクリーンでの上映を捜して観に行ったっけ。でも、両方とも数名しか観客いなかった。そう考えるとやっぱり・・・。
2013年4月22日月曜日
GLORIOUS 39
WOWOWのジャパン・プレミア(日本劇場未公開作の初放送枠)で観た『ブラック・レコード~禁じられた記録~(Glorious 39)』は、以前から秘かに観たかった一作でもあった。というのも、『ミスター・ノーバディ』で主役二人の思春期を演じたジュノー・テンプルとトニー・レグボが揃って本作に出演していると知ったからである。本作でその二人は、全く直接関わらない(そもそも二者が属する時代には70年の隔たりが)けれど、『ミスター・ノーバディ』での好演同様の存在感。ちなみに、この二人、『アバター』と『アリス・イン・ワンダーランド』のアート・ディレクションで二度のアカデミー賞に輝くロバート・ストロンバーグ初監督作「Maleficent」(実写版「眠れる森の美女」、姫がエル・ファニングで魔女がアンジェリーナ・ジョリー)にも揃って出演するらしい。
おそらく英国男子好きな映画ファン大興奮な贅キャスティング。ビル・ナイやクリストファー・リー、デイヴィッド・テナント(『ドクター・フー』10代目ドクター)といった超お馴染みの面々に、エディ・レッドメインがかなり重要な役どころ。しかも、エディは自慢の歌声を(一瞬ながら)披露。『レ・ミゼラブル』よりも美味しく聞こえる(『レ・ミゼラブル』では、録音のせいか、あまり巧く聞こえなかったが、本作における美声の格調は見事に上質)。
主演のロモーラ・ガライは難役ながら、的確な奮闘演技。作品自体が精巧に仕上がっていたら、女優としての評価を更に上げていた気もする。
序盤こそ、英国郊外の優雅な光景も手伝って魅了されそうな気配が漂うも、中盤にダレ始めると、後半の失速がハンパなく、トンデモ臭が立ち籠め始めた終盤には観ているこちらこそが拉致られ気分になってくる。いまやトム・フーパーの片腕的カメラマンであるダニー・コーエンの撮影も、最初のうちには「映画的!」なシネスコ使いに胸高鳴るも、トム作品同様「あざとさ」が続きすぎれば胃もたれ状態。エイドリアン・ジョンソンのスコアも大仰さだけで押し切る単調さにやっぱり胃もたれ。テレビ畑での仕事が長いエディターは、映画的緩急つけきれず。
アメリカでも劇場未公開に終わったようで、劇場公開はイギリスとアイルランドだけのよう。納得。
おそらく英国男子好きな映画ファン大興奮な贅キャスティング。ビル・ナイやクリストファー・リー、デイヴィッド・テナント(『ドクター・フー』10代目ドクター)といった超お馴染みの面々に、エディ・レッドメインがかなり重要な役どころ。しかも、エディは自慢の歌声を(一瞬ながら)披露。『レ・ミゼラブル』よりも美味しく聞こえる(『レ・ミゼラブル』では、録音のせいか、あまり巧く聞こえなかったが、本作における美声の格調は見事に上質)。
主演のロモーラ・ガライは難役ながら、的確な奮闘演技。作品自体が精巧に仕上がっていたら、女優としての評価を更に上げていた気もする。
序盤こそ、英国郊外の優雅な光景も手伝って魅了されそうな気配が漂うも、中盤にダレ始めると、後半の失速がハンパなく、トンデモ臭が立ち籠め始めた終盤には観ているこちらこそが拉致られ気分になってくる。いまやトム・フーパーの片腕的カメラマンであるダニー・コーエンの撮影も、最初のうちには「映画的!」なシネスコ使いに胸高鳴るも、トム作品同様「あざとさ」が続きすぎれば胃もたれ状態。エイドリアン・ジョンソンのスコアも大仰さだけで押し切る単調さにやっぱり胃もたれ。テレビ畑での仕事が長いエディターは、映画的緩急つけきれず。
アメリカでも劇場未公開に終わったようで、劇場公開はイギリスとアイルランドだけのよう。納得。
2013年4月17日水曜日
メイド・イン・ハンガリー
昨年のEUフィルムdaysで上映された『メイド・イン・ハンガリー(Made in Hungária)』が、BSスカパー!にて放映される。「スカパー! シネマアワーTHE PRIZE」というこの枠は、世界の映画祭で受賞した作品の中から劇場未公開作(DVD未発売のものもある)を毎週1本ずつ紹介する(全部で3回放映あり)なかなか貴重なプログラム。ここ2回は、先頃東京でも大盛況だったジョアン・ペドロ・ロドリゲスのレトロスペクティヴで上映された『男として死ぬ』と『オデット』が放映されたりというタイムリーさも。「スカパー!」に1チャンネルでも加入していれば見られるという無料放送。(もしくは、「2週間お試し体験」を利用するとその後も約1年間無料で見られるとのこと。)
『アイルランドの事件簿』(DVDでのタイトルは、『ザ・ガード/西部の相棒』)が上映されるというので駆けつけたフィルムセンターで、その次の回に上映されたのが、『メイド・イン・ハンガリー』。監督も来日しQ&Aもあるというので、折角なのでついでに観た。そしたら、好かった!冷戦中の東欧に無邪気に射し込む麗らかな陽光を、ハリウッド帰りの監督が奇を衒うことなく王道ミュージカルで直球勝負。そうした成立事情に、あらゆる野暮が慈しむ心をくすぐり始めてしまう。
エンドロールにはモデルとなった歌手自身のコンサート映像も出てくる(お約束!)。そこで歌われるのが、「メイド・イン・ハンガリー」!アップテンポな中に哀愁と垢抜けない真面目さが滲む歌謡曲風味が何とも言えず好い味なのだ。(Q&Aの司会を務めた田中千世子さんが、この曲についての感慨を述べると、監督があっさりと「僕自身は、こういった湿っぽい歌謡曲は好きじゃないんだけどね」って淡々と返しているのが面白かった。その時の記事。)
ハンガリーの映画人といえば、最近ではタル・ベーラが真っ先に思い浮かんだりするが、本作はそうした芸術街道とは無縁のフリーウェイ。気軽に観ながら、素直な人間賛歌によろしく哀愁。
『アイルランドの事件簿』(DVDでのタイトルは、『ザ・ガード/西部の相棒』)が上映されるというので駆けつけたフィルムセンターで、その次の回に上映されたのが、『メイド・イン・ハンガリー』。監督も来日しQ&Aもあるというので、折角なのでついでに観た。そしたら、好かった!冷戦中の東欧に無邪気に射し込む麗らかな陽光を、ハリウッド帰りの監督が奇を衒うことなく王道ミュージカルで直球勝負。そうした成立事情に、あらゆる野暮が慈しむ心をくすぐり始めてしまう。
エンドロールにはモデルとなった歌手自身のコンサート映像も出てくる(お約束!)。そこで歌われるのが、「メイド・イン・ハンガリー」!アップテンポな中に哀愁と垢抜けない真面目さが滲む歌謡曲風味が何とも言えず好い味なのだ。(Q&Aの司会を務めた田中千世子さんが、この曲についての感慨を述べると、監督があっさりと「僕自身は、こういった湿っぽい歌謡曲は好きじゃないんだけどね」って淡々と返しているのが面白かった。その時の記事。)
ハンガリーの映画人といえば、最近ではタル・ベーラが真っ先に思い浮かんだりするが、本作はそうした芸術街道とは無縁のフリーウェイ。気軽に観ながら、素直な人間賛歌によろしく哀愁。
2013年4月16日火曜日
トマス・ヴィンターベア EN MAND KOMMER HJEM
『偽りなき者』絶賛公開中のトマス・ヴィンターベア監督作で日本未公開作。ハリウッドへ渡って『アンビリーバブル(It's All About Love)』撮るもパッとせず、盟友ラース・フォン・トリアーによる脚本で『ディア・ウェンディ』撮るも何処か迷走気味だった彼が、デンマークに戻って撮った本作。そのタイトルもまさに、「When A Man Comes Home」。
この予告からして、明らかに『セレブレーション』や近作のトマス・ヴィンターベア監督作とは全く趣の異なった映画であることは明らか。本篇も冒頭からいきなりショスタコーヴィチの『ジャズ組曲第2番』のワルツが流れてくる。同曲は本篇で度々流される。しかも、舞台となるのは寂寞漂う寒色風景ではなく、暖かな光溢るる黄金色の牧歌的郊外。『スラムドッグ$ミリオネア』でオスカーも受賞した盟友アンソニー・ダッド・マントルによる撮影も従来の臨場感とは些か無縁な流麗さ。
主人公セバスチャンは、幼い頃に父親が自殺。母親は女性と結婚。彼は吃音になってしまう。
そんな彼の父親、実は死んではおらず、有名なオペラ歌手になっていて、街の「セレブレーション」のためにやって来る。母親から真相を聞かされたセバスチャンは、自身が厨房で働くホテルに宿泊している父親と「交流」の機会を得る。
このあたり(冒頭30分過ぎ)までは実に「爽やか」「ほのぼの」な空気も漂っているのだが、後半にさしかかってくると、トマス・ヴィンターベア作品らしい(?)アイロニカルな展開が待っている。
観ながらふと思った。本作は「父と息子」の物語が中心にあるわけだが、本作の後に撮った2本(『光のほうへ』『偽りなき者』)においてもそれは引き継がれてる。そう考えると、「父と息子」三部作とか呼びたくなりもするけれど、3作をまとめて捉えるのはさすがに無理があるほど本作はやっぱり明るくて、笑いも辛辣も適度というより半端な印象。ただ、リラックスしながらリハビリしてる本作は、主人公セバスチャンの自分探し的キャラクターとトマス自身が優しくシンクロしている感じ。
オペラ歌手の父親を演じるのは、先日のブログでも取りあげたトマス・ボー・ラーセン。主人公セバスチャンを演じた俳優は、IMDbによると本作しか出演情報がないが、新人?素人?
輸入盤DVDで観たのだが、珍しく(?)本篇以外に何の特典も入っていなかった。ちなみに、DVDのジャンル表記は「コメディ」。
この予告からして、明らかに『セレブレーション』や近作のトマス・ヴィンターベア監督作とは全く趣の異なった映画であることは明らか。本篇も冒頭からいきなりショスタコーヴィチの『ジャズ組曲第2番』のワルツが流れてくる。同曲は本篇で度々流される。しかも、舞台となるのは寂寞漂う寒色風景ではなく、暖かな光溢るる黄金色の牧歌的郊外。『スラムドッグ$ミリオネア』でオスカーも受賞した盟友アンソニー・ダッド・マントルによる撮影も従来の臨場感とは些か無縁な流麗さ。
主人公セバスチャンは、幼い頃に父親が自殺。母親は女性と結婚。彼は吃音になってしまう。
そんな彼の父親、実は死んではおらず、有名なオペラ歌手になっていて、街の「セレブレーション」のためにやって来る。母親から真相を聞かされたセバスチャンは、自身が厨房で働くホテルに宿泊している父親と「交流」の機会を得る。
このあたり(冒頭30分過ぎ)までは実に「爽やか」「ほのぼの」な空気も漂っているのだが、後半にさしかかってくると、トマス・ヴィンターベア作品らしい(?)アイロニカルな展開が待っている。
観ながらふと思った。本作は「父と息子」の物語が中心にあるわけだが、本作の後に撮った2本(『光のほうへ』『偽りなき者』)においてもそれは引き継がれてる。そう考えると、「父と息子」三部作とか呼びたくなりもするけれど、3作をまとめて捉えるのはさすがに無理があるほど本作はやっぱり明るくて、笑いも辛辣も適度というより半端な印象。ただ、リラックスしながらリハビリしてる本作は、主人公セバスチャンの自分探し的キャラクターとトマス自身が優しくシンクロしている感じ。
オペラ歌手の父親を演じるのは、先日のブログでも取りあげたトマス・ボー・ラーセン。主人公セバスチャンを演じた俳優は、IMDbによると本作しか出演情報がないが、新人?素人?
輸入盤DVDで観たのだが、珍しく(?)本篇以外に何の特典も入っていなかった。ちなみに、DVDのジャンル表記は「コメディ」。
2013年4月12日金曜日
若き警官 Le Petit Lieutenant
アンスティチュ・フランセ東京にて開催中の特集上映「都市の映画、パリの映画史」にて、グザヴィエ・ボーヴォワ監督作「若き警官(Le Petit Lieutenant)」を観た。俳優としても活躍しているグザヴィエは、寡作ながら監督としての評価も高く、カンヌでグランプリ受賞の『神々と男たち』は日本でも劇場公開された。東京国際映画祭(ワールドシネマ部門)で初めてみた同作を、震災直後のシネスイッチ銀座で再見したときの慄然にも似た感応は、今もって私のなかで格別に特別な体験として焼きついている。
日本でなかなか紹介される機会の少ないグザヴィエ・ボーヴォワの監督作が上映されるとあらば、英語字幕だろうが観に行かずにはいられない。本作の前作にあたる『マチューの受難(Selon Matthieu)』も不思議な浸透度で迫ってきた作品だったが、それにも似た、ちょっとだけの独特さが強烈な独特さに積み重なってゆく時間の堆積に魅了が未了な深化を遂げる。
本作でセザール賞を受賞したナタリー・バイの静かなる哀しみに包まれた存在感が抜群なる浸潤。いわゆる「抑えた演技」などとは異質の、既にありったけの哀しみ(という感情)が絞り取られた後の精神世界が濛々と立ち籠めているかの如き佇まい。脇を固める面々もまた同様に機微すらこらえた寡黙な表情で、劇的な展開を際立たせる沈黙を守り続けている。『マチューの受難』にも似た終盤の突如たる疾走が、離陸的カタルシスとしてアンビバレントな昂揚を遂げるラストは、グザヴィエ・ボーヴォワ監督作ならではの確かな刻印に思えてくる。
私が観た彼の3作品はいずれも、言葉に拠らずに身体で語る場面に強く心を揺さぶられた。『マチューの受難』ではラストの暴走と抱擁。『神々と男たち』では「白鳥の湖」が流れる、最後の晩餐。そして、本作ではナタリー・バイが電話で報せを受けて卒倒する瞬間。体内を蠢く感情が身体から滲み出てくるとき、そこには映画的破壊力の最たるものが宿ってる。
撮影は、グザヴィエ・ボーヴォワとは長編第二作目から継続して組んできているカロリーヌ・シャンプティエ。今やフランスを代表する撮影監督の一人となった彼女は、公開中の『ホーリー・モーターズ』でも撮影を担当している。ちなみに、本作にはカロリーヌ自身も出演。ナタリー・バイと「若き警官」が列車で移動する際に、彼が所持する拳銃を見て一瞬驚く女性客の役を演じていたようだ。(ちなみに、セーヌ川から上がった遺体を見に行こうとしている野次馬少年二人は、グザヴィエ・ボーヴォワの息子らしい。)
本作のプロデューサーは、マルティーヌ・カシネッリとパスカル・コシュトゥー。そう、ジャック・オディアール作品のプロデューサー・コンビ。偶々、前日に『君と歩く世界』を観たこともあり、奇遇。Why Not Productions作品でおなじみのパスカルは、ボーヴォワやオーディアール以外にも、ケン・ローチ(『エリックを探して』『ルート・アイリッシュ』)やアルノー・デプレシャン(『クリスマス・ストーリー』『Jimmy Picard(今年公開予定の新作)』)等々の作品を手がけている最注目プロデューサーの一人。
「若き警官」を観た今日は、前の回でジャン・ユスターシュの傑作『ママと娼婦』(狂喜乱舞!)が上映され、次の回にジャン・ルノアール『ランジュ氏の犯罪』が上映されるという、とんでもない3本立てに酩酊し通しの一日だった。が、『ママと娼婦』は満席近くなり、『ランジュ氏の犯罪』では立ち見まで出る盛況ぶりながら、「若き警官」の観客は20名程度。シネフィル・トーキョーの或る種の傾向顕著な一日。
日本でなかなか紹介される機会の少ないグザヴィエ・ボーヴォワの監督作が上映されるとあらば、英語字幕だろうが観に行かずにはいられない。本作の前作にあたる『マチューの受難(Selon Matthieu)』も不思議な浸透度で迫ってきた作品だったが、それにも似た、ちょっとだけの独特さが強烈な独特さに積み重なってゆく時間の堆積に魅了が未了な深化を遂げる。
本作でセザール賞を受賞したナタリー・バイの静かなる哀しみに包まれた存在感が抜群なる浸潤。いわゆる「抑えた演技」などとは異質の、既にありったけの哀しみ(という感情)が絞り取られた後の精神世界が濛々と立ち籠めているかの如き佇まい。脇を固める面々もまた同様に機微すらこらえた寡黙な表情で、劇的な展開を際立たせる沈黙を守り続けている。『マチューの受難』にも似た終盤の突如たる疾走が、離陸的カタルシスとしてアンビバレントな昂揚を遂げるラストは、グザヴィエ・ボーヴォワ監督作ならではの確かな刻印に思えてくる。
私が観た彼の3作品はいずれも、言葉に拠らずに身体で語る場面に強く心を揺さぶられた。『マチューの受難』ではラストの暴走と抱擁。『神々と男たち』では「白鳥の湖」が流れる、最後の晩餐。そして、本作ではナタリー・バイが電話で報せを受けて卒倒する瞬間。体内を蠢く感情が身体から滲み出てくるとき、そこには映画的破壊力の最たるものが宿ってる。
撮影は、グザヴィエ・ボーヴォワとは長編第二作目から継続して組んできているカロリーヌ・シャンプティエ。今やフランスを代表する撮影監督の一人となった彼女は、公開中の『ホーリー・モーターズ』でも撮影を担当している。ちなみに、本作にはカロリーヌ自身も出演。ナタリー・バイと「若き警官」が列車で移動する際に、彼が所持する拳銃を見て一瞬驚く女性客の役を演じていたようだ。(ちなみに、セーヌ川から上がった遺体を見に行こうとしている野次馬少年二人は、グザヴィエ・ボーヴォワの息子らしい。)
本作のプロデューサーは、マルティーヌ・カシネッリとパスカル・コシュトゥー。そう、ジャック・オディアール作品のプロデューサー・コンビ。偶々、前日に『君と歩く世界』を観たこともあり、奇遇。Why Not Productions作品でおなじみのパスカルは、ボーヴォワやオーディアール以外にも、ケン・ローチ(『エリックを探して』『ルート・アイリッシュ』)やアルノー・デプレシャン(『クリスマス・ストーリー』『Jimmy Picard(今年公開予定の新作)』)等々の作品を手がけている最注目プロデューサーの一人。
「若き警官」を観た今日は、前の回でジャン・ユスターシュの傑作『ママと娼婦』(狂喜乱舞!)が上映され、次の回にジャン・ルノアール『ランジュ氏の犯罪』が上映されるという、とんでもない3本立てに酩酊し通しの一日だった。が、『ママと娼婦』は満席近くなり、『ランジュ氏の犯罪』では立ち見まで出る盛況ぶりながら、「若き警官」の観客は20名程度。シネフィル・トーキョーの或る種の傾向顕著な一日。
2013年4月8日月曜日
360
レイチェル・ワイズ、ジュード・ロウ、そしてアンソニー・ホプキンスといった一般層でも知っていそうな豪華キャストに、『クィーン』『フロスト×ニクソン』『ヒアアフター』のピーター・モーガンによる脚本を、『シティ・オブ・ゴッド』『ナイロビの蜂』『ブラインドネス』のフェルナンド・メイレレスが監督。普通なら日本でも劇場公開されそうながら、Rotten Tomatoesでは散々な腐り様の本作。一昨年のトロントで御披露目されるも、劇場公開は昨夏になって漸く(そのまえに、アメリカではVODで公開されたみたいだし)。当然ながら(?)日本でも劇場未公開。WOWOWにて先月初放映され、来月にはDVDが発売予定。
というわけで、下げに下げたハードルが奏功してか、サンデー・トワイライトのうらぶれた胸中に程良い中途半端感だったからか、意外にもしっとりしっくり浸れた小品。まぁ、相当数の人物を交錯させまくろうとした群像劇なのに、観賞後に残る印象が「小品」って時点で失敗なのだろうけど(通常なら、そうしたところに違和なり欠乏を感じたりもするのだろうけど)、自宅で日没と共に眺めるにはもってこいのアンニュイさがちょっとお気に入り。
丹念に丹精なアドリアーノ・ゴールドマンの撮影は抜かりなく、静謐な昂奮の残り香が画面全体に漂い続けてる。『闇の列車、光の旅』『ジェーン・エア』等での見事な仕事ぶりに続き、ロバート・レッドフォードの最新作やジョン・クローリー(『BOY A』)の新作で撮影を担当。更には、メリル・ストリープとジュリア・ロバーツが主演を務めるという(他のキャストも超豪華!)「August : Osage County」(ピューリッツァー賞受賞戯曲で、舞台版はトニー賞受賞という強力原作で、プロデューサーはジョージ・クルーニー!)にも大抜擢。
そんな繊細な画づくりは微かな緊張感を持続させ、脚本も適度な緊張感を適度な間隔で注入する努め。ただ、時折綻ぶ緊張感が、心地好い弛緩と言うよりも、放り出された(ばら撒かれた)散漫さとして映ってしまう懸念もなくはない。固唾を飲むほどではない、そんな半端なサスペンスをどう捉えるかによって評価(というか好み)は大きく分かれそう。
『ヒアアフター』で挑んだ群像劇的ストーリーテリングを自分なりに発展進化させようとしただろうピーター・モーガンの企みは、成功しているとは言い難いものの、『ヒアアフター』にも流れていた「ぎこちなさリアリティ」がつかず離れずという交錯ドラマに独特の機能を果たしていることは確か。つまり、大きなことは起こらなくても、小さなことは起き続けてて、だから小さなことが起ってくる。何かが足りない「惜しさ」が終始拭えないながら、その不足感が物語における各人の「満たされなさ」とリンクしているように映ったとき、語りのもどかしさに物語がすっぽりと収まりだしたりもする。
キャスティングがハマり過ぎてて、その魅力に依存しすぎた気もするほどで、ジュード・ロウなんか久々に「今の彼」適正魅力を発揮していたり、ベン・フォスターが醸す空気は見事な「体現」。
個人的に注目だった男優は、娼婦派遣業を営む男を演じたオーストリアの俳優ヨハネス・クリシェ。彼はゲッツ・シュピールマン監督作「Revanche」に主演。同作はベルリン国際映画祭はじめ数々の映画祭や映画賞で高く評価され、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。私も輸入盤(クライテリオンからBlu-rayが出てる!)で観賞したが、日本未公開なのが誠に遺憾な必見佳作。ちなみに、同じくオーストリアの俳優出身監督であるカール・マルコヴィックスの初監督作「Atmen(Breathing)」も同様に必見佳作。個人的にはかなり好きな作品群。最近の中欧・東欧映画は日本になかなか紹介されないものの、必見なものが多い。北欧映画もそこそこな数が紹介されているようだけれども、ジャンルに偏りがある気もする。「Revanche」や「Atmen」に関しては、そのうちちょっとした紹介記事でも書きたいとは思っている。ちなみに、「Atmen」は何と「なら国際映画祭2012」の新人コンペティションに参加していたらしく、カール・マルコヴィックスも来日していたとか。しかも、フィルム上映だったようで、知っていたなら遠征も辞すべきじゃなかった級の個人的ツボ映画。ちなみに、IMDbのトリビアによると、『360』でヨハネスが演じた役は当初カールが演じる予定だったが、スケジュールの都合で交代になったのだとか。
女優陣も皆好い味出しているのだけれど、中でも抜群にツボだったのが、娼婦の妹役ガブリエラ・マルチンコワ。彼女は、昨年公開されたマッツ・ミケルセン主演のアクション映画「Move On」に出演している。デンマークとドイツの共同制作で、監督はアスガー・レス(ドキュメンタリー畑出身で、『崖っぷちの男』の監督に大抜擢!)。脚本は『コントロール』や『ノーウェアボーイ』のマット・グリーンハルシュ。マッツ人気に乗じて(ソフト化でも放映でも好いから)日本でも公開を!
さて、そのガブリエラ・マルチンコワ演じるアンナは読書好きで、そんな彼女が読んでいるのは『アンナ・カレーニナ』。(先頃公開されたジョー・ライトによる映画版には、本作に出ているジュード・ロウが出てる!という斜め上なつながり!)そして、そんな二つの「アンナ」が呼び寄せたのが、マフィアのボス(?)の用心棒に嫌気がさしはじめているロシア人・セルゲイ(ヴラディミール・ヴドヴィチェンコフ)。この二人によるラスト・シークエンスは、天気雨が去った後の清々しさそのもの。ささやかでやわらかな幸福を両手でそっとすくってみるような。そこに流れるMedeski Martin & Woodの「Old Paint」が絶妙に心地好い"atmosphere"で包んでくれる。(セルゲイはその朝、妻から離婚話をもちかけられるのだが、そんな彼が心を通わせる相手が何となく妻と似ているアンナだというところが観客自由度高めな行間を創出してくれる。)
4月に入って仕事に心身を侵食されまくりな連日。ヨーロッパを旅するカメラ、多国籍多様な人々の往来、それらに束の間でもひたって叶うエスケイプ。現実に潜む地道な誠実とささやかな奇跡が、私たちを活かしてくれるのだとそっと背中を押してくれてる気がしたり。弱ってる証拠をかみしめるのも、強くなるための充電小休止。
というわけで、下げに下げたハードルが奏功してか、サンデー・トワイライトのうらぶれた胸中に程良い中途半端感だったからか、意外にもしっとりしっくり浸れた小品。まぁ、相当数の人物を交錯させまくろうとした群像劇なのに、観賞後に残る印象が「小品」って時点で失敗なのだろうけど(通常なら、そうしたところに違和なり欠乏を感じたりもするのだろうけど)、自宅で日没と共に眺めるにはもってこいのアンニュイさがちょっとお気に入り。
丹念に丹精なアドリアーノ・ゴールドマンの撮影は抜かりなく、静謐な昂奮の残り香が画面全体に漂い続けてる。『闇の列車、光の旅』『ジェーン・エア』等での見事な仕事ぶりに続き、ロバート・レッドフォードの最新作やジョン・クローリー(『BOY A』)の新作で撮影を担当。更には、メリル・ストリープとジュリア・ロバーツが主演を務めるという(他のキャストも超豪華!)「August : Osage County」(ピューリッツァー賞受賞戯曲で、舞台版はトニー賞受賞という強力原作で、プロデューサーはジョージ・クルーニー!)にも大抜擢。
そんな繊細な画づくりは微かな緊張感を持続させ、脚本も適度な緊張感を適度な間隔で注入する努め。ただ、時折綻ぶ緊張感が、心地好い弛緩と言うよりも、放り出された(ばら撒かれた)散漫さとして映ってしまう懸念もなくはない。固唾を飲むほどではない、そんな半端なサスペンスをどう捉えるかによって評価(というか好み)は大きく分かれそう。
『ヒアアフター』で挑んだ群像劇的ストーリーテリングを自分なりに発展進化させようとしただろうピーター・モーガンの企みは、成功しているとは言い難いものの、『ヒアアフター』にも流れていた「ぎこちなさリアリティ」がつかず離れずという交錯ドラマに独特の機能を果たしていることは確か。つまり、大きなことは起こらなくても、小さなことは起き続けてて、だから小さなことが起ってくる。何かが足りない「惜しさ」が終始拭えないながら、その不足感が物語における各人の「満たされなさ」とリンクしているように映ったとき、語りのもどかしさに物語がすっぽりと収まりだしたりもする。
キャスティングがハマり過ぎてて、その魅力に依存しすぎた気もするほどで、ジュード・ロウなんか久々に「今の彼」適正魅力を発揮していたり、ベン・フォスターが醸す空気は見事な「体現」。
個人的に注目だった男優は、娼婦派遣業を営む男を演じたオーストリアの俳優ヨハネス・クリシェ。彼はゲッツ・シュピールマン監督作「Revanche」に主演。同作はベルリン国際映画祭はじめ数々の映画祭や映画賞で高く評価され、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。私も輸入盤(クライテリオンからBlu-rayが出てる!)で観賞したが、日本未公開なのが誠に遺憾な必見佳作。ちなみに、同じくオーストリアの俳優出身監督であるカール・マルコヴィックスの初監督作「Atmen(Breathing)」も同様に必見佳作。個人的にはかなり好きな作品群。最近の中欧・東欧映画は日本になかなか紹介されないものの、必見なものが多い。北欧映画もそこそこな数が紹介されているようだけれども、ジャンルに偏りがある気もする。「Revanche」や「Atmen」に関しては、そのうちちょっとした紹介記事でも書きたいとは思っている。ちなみに、「Atmen」は何と「なら国際映画祭2012」の新人コンペティションに参加していたらしく、カール・マルコヴィックスも来日していたとか。しかも、フィルム上映だったようで、知っていたなら遠征も辞すべきじゃなかった級の個人的ツボ映画。ちなみに、IMDbのトリビアによると、『360』でヨハネスが演じた役は当初カールが演じる予定だったが、スケジュールの都合で交代になったのだとか。
女優陣も皆好い味出しているのだけれど、中でも抜群にツボだったのが、娼婦の妹役ガブリエラ・マルチンコワ。彼女は、昨年公開されたマッツ・ミケルセン主演のアクション映画「Move On」に出演している。デンマークとドイツの共同制作で、監督はアスガー・レス(ドキュメンタリー畑出身で、『崖っぷちの男』の監督に大抜擢!)。脚本は『コントロール』や『ノーウェアボーイ』のマット・グリーンハルシュ。マッツ人気に乗じて(ソフト化でも放映でも好いから)日本でも公開を!
さて、そのガブリエラ・マルチンコワ演じるアンナは読書好きで、そんな彼女が読んでいるのは『アンナ・カレーニナ』。(先頃公開されたジョー・ライトによる映画版には、本作に出ているジュード・ロウが出てる!という斜め上なつながり!)そして、そんな二つの「アンナ」が呼び寄せたのが、マフィアのボス(?)の用心棒に嫌気がさしはじめているロシア人・セルゲイ(ヴラディミール・ヴドヴィチェンコフ)。この二人によるラスト・シークエンスは、天気雨が去った後の清々しさそのもの。ささやかでやわらかな幸福を両手でそっとすくってみるような。そこに流れるMedeski Martin & Woodの「Old Paint」が絶妙に心地好い"atmosphere"で包んでくれる。(セルゲイはその朝、妻から離婚話をもちかけられるのだが、そんな彼が心を通わせる相手が何となく妻と似ているアンナだというところが観客自由度高めな行間を創出してくれる。)
4月に入って仕事に心身を侵食されまくりな連日。ヨーロッパを旅するカメラ、多国籍多様な人々の往来、それらに束の間でもひたって叶うエスケイプ。現実に潜む地道な誠実とささやかな奇跡が、私たちを活かしてくれるのだとそっと背中を押してくれてる気がしたり。弱ってる証拠をかみしめるのも、強くなるための充電小休止。
2013年4月2日火曜日
エメランスの扉
WOWOWでは最近劇場未公開作の放映にも注力しているのですが、「W座からの招待状」枠で放映される劇場未公開作を全国各地のミニシアターで限定的に劇場公開するという「旅するW座」なる企画を昨秋より始めています。その1作目がクリストフ・オノレ監督の最新作『愛のあしあと(Les bien-aimés)』だったりという、映画ファンにとって垂涎企画としてスタート。その第2弾として上映&放映されたのが『エメランスの扉』。ハンガリーとドイツの共同制作で、本国でも一年ほど前に公開された新作が早くも観られるというプレミア感も嬉しい。
(WOWOWのサイトより)
《解説》
アカデミー外国語映画賞に輝く「メフィスト」や「ミーティング・ヴィーナス」「太陽の雫」などのサボー監督が、2012年に発表したばかりの最新作。ミレンが演じる、悲しい過去を持って心の扉を閉ざした家政婦エメランスと、彼女を雇った小説家マグダ(原作者マグダ・サボーがモデルらしい)が織りなす、交流と友情の物語。サボー監督のもと、ミレンは複雑なエメランスの役を魅力的に熱演。歴史的背景もヨーロッパ作品ならではの深みがある。共演は「マーサの幸せレシピ」「善き人のためのソナタ」のM・ゲデック。
《あらすじ》
1960年代、ブダペスト。女性作家マグダは夫ティボルと引っ越した先の近所に住む老婦人エメランスを家政婦として雇う。エメランスは奇行が多く、何より20年以上も自宅のドアの中に誰も入れてこなかったという変わり者だが、優れた仕事ぶりと正直な性格をマグダは気に入る。ある日、エメランスはマグダにだけ、自分の複雑な過去を明かす。しかしそれだけがエメランスが自宅に誰も入れない理由ではなく、他にもある秘密が……。
監督のイシュトヴァン・サボー(István Szabó)は、『メフィスト』でアカデミー外国語映画賞、『連隊長レドル』ではカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞するなど、キャリア・評価共にハンガリーを代表する映画作家の一人。(『カサブランカ』でアカデミー賞監督賞を受賞したマイケル・カーティスに次ぐ二人目のハンガリー出身のオスカー受賞者らしい。)
私が映画を見始めた頃(だったかな)にも、彼の監督作『太陽の雫』が劇場公開されていた記憶があります。今はなきシネ・ラ・セット(HTC有楽町の入っているビルの場所にあったと記憶)での上映だった気がします。地味な作品ながらも日本で劇場公開されたのもイシュトヴァン・サボーの実績によるものだったのかな、などと今更ながら気づいてみたり。
1991年の『ミーティング・ヴィーナス(Meeting Venus)』(ヴェネツィア・コンペ出品)の制作には日本も参加していた(IMDbには「フジサンケイ・コミュニケーション・インターナショナル」とある)が、ステラン・スカルスガルドがヴィルヘルム・フルトヴェングラー(20世紀を代表する指揮者)を演じた「Takeing Sides」(共演は、ハーヴェイ・カイテル、モーリッツ・ブライブトロイ等)は日本未公開のようで残念。2004年の『華麗なる恋の舞台で(Being Julia)は、アネット・ベニングがアカデミー賞で主演女優賞にノミネートされたこともあってか、日本でも劇場公開。原作は、サマセット・モームの『劇場』。モームは医者であり作家であり、そしてスパイでもありました。MI6に所属して諜報活動を行っていたこともあるという。イシュトヴァン・サボーのプロフィールにも裏の顔がのぞいていたりして、事実はよく解さぬものの、そういった事実(があったのかもしれぬという想像)に想いを馳せて本作を見始めると、本作のタイトル(原題)「The Door」や鍵を握る「秘密」「信条」「信仰」などといったテーマが、不明瞭ながらもむしろその曖昧さに漠なる重みを感じ始めたりするものです。
原作はハンガリーを代表する女性作家マグダ・サボーによる同名小説。彼女の人生もまた、社会と個人の関係について洞察を促される壮絶なもの。おそらく主人公のマグダと家政婦のエメランスの双方に、自らの人格や思想の二面性をそれぞれ担わせたのだろうかなどと思えもします。
タイトルからすると、扉の向こうに真実めいたものへと結びつく「何か」が待ち受けているのだろうと想像しますが、そうしたミステリーに関する演出は意外にもあっさりとしています。いや、むしろ謎が「解けた」という感覚がないまま幕を下ろされる気さえするのです。「明かされた」後もまた、それがすべて明らかなことであるのかさえ覚束ない。それはおそらく、その「事実」を主人公マグダが自分の中でどう受けとめるべきかに逡巡し続けているからだろうと思います。そして、それは彼女自身わからぬまま、そして観客自身も宙づりのまま、時間は無情に流れ事態は変わる。個人の葛藤などに社会が興味を示さぬように。しかし、エメランスという私人に惹かれてやまぬ詩人こそがマグダであり、隣人の面々。『オーケストラ!(Le concert)』で描かれた「共産主義の光と影」が本作にも見え隠れしているように思われます。あちらほど前面には出ていませんが、コミュニズムにしろナチズムにしろ、政治思想として集団によって利用される「主義」には常に排外的な結末が待ち受け、しかし個人の信条として胸に抱く信仰や思想は常に受容への模索を止められない。
扉は閉ざすにしろ、開けるにしろ、そこには責任と覚悟が必要です。勇気などという臆病へのエクスキューズは単なる痛み止めに過ぎません。閉ざすなら閉ざすなりに、隠すことへの信条が必要となるでしょう。開けるなら開けた後への責任(そしてそれは二度と「閉める」ことを許されぬ恒久的なものであるという覚悟)が主体に課せられていることを自認し続けねばならぬのではないでしょうか。窓の開閉が単なる眺めの獲得に留まるのに対し、扉の開閉には侵略と支配の誘惑がつきまとうものなのですから。
(WOWOWのサイトより)
《解説》
アカデミー外国語映画賞に輝く「メフィスト」や「ミーティング・ヴィーナス」「太陽の雫」などのサボー監督が、2012年に発表したばかりの最新作。ミレンが演じる、悲しい過去を持って心の扉を閉ざした家政婦エメランスと、彼女を雇った小説家マグダ(原作者マグダ・サボーがモデルらしい)が織りなす、交流と友情の物語。サボー監督のもと、ミレンは複雑なエメランスの役を魅力的に熱演。歴史的背景もヨーロッパ作品ならではの深みがある。共演は「マーサの幸せレシピ」「善き人のためのソナタ」のM・ゲデック。
《あらすじ》
1960年代、ブダペスト。女性作家マグダは夫ティボルと引っ越した先の近所に住む老婦人エメランスを家政婦として雇う。エメランスは奇行が多く、何より20年以上も自宅のドアの中に誰も入れてこなかったという変わり者だが、優れた仕事ぶりと正直な性格をマグダは気に入る。ある日、エメランスはマグダにだけ、自分の複雑な過去を明かす。しかしそれだけがエメランスが自宅に誰も入れない理由ではなく、他にもある秘密が……。
監督のイシュトヴァン・サボー(István Szabó)は、『メフィスト』でアカデミー外国語映画賞、『連隊長レドル』ではカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞するなど、キャリア・評価共にハンガリーを代表する映画作家の一人。(『カサブランカ』でアカデミー賞監督賞を受賞したマイケル・カーティスに次ぐ二人目のハンガリー出身のオスカー受賞者らしい。)
私が映画を見始めた頃(だったかな)にも、彼の監督作『太陽の雫』が劇場公開されていた記憶があります。今はなきシネ・ラ・セット(HTC有楽町の入っているビルの場所にあったと記憶)での上映だった気がします。地味な作品ながらも日本で劇場公開されたのもイシュトヴァン・サボーの実績によるものだったのかな、などと今更ながら気づいてみたり。
1991年の『ミーティング・ヴィーナス(Meeting Venus)』(ヴェネツィア・コンペ出品)の制作には日本も参加していた(IMDbには「フジサンケイ・コミュニケーション・インターナショナル」とある)が、ステラン・スカルスガルドがヴィルヘルム・フルトヴェングラー(20世紀を代表する指揮者)を演じた「Takeing Sides」(共演は、ハーヴェイ・カイテル、モーリッツ・ブライブトロイ等)は日本未公開のようで残念。2004年の『華麗なる恋の舞台で(Being Julia)は、アネット・ベニングがアカデミー賞で主演女優賞にノミネートされたこともあってか、日本でも劇場公開。原作は、サマセット・モームの『劇場』。モームは医者であり作家であり、そしてスパイでもありました。MI6に所属して諜報活動を行っていたこともあるという。イシュトヴァン・サボーのプロフィールにも裏の顔がのぞいていたりして、事実はよく解さぬものの、そういった事実(があったのかもしれぬという想像)に想いを馳せて本作を見始めると、本作のタイトル(原題)「The Door」や鍵を握る「秘密」「信条」「信仰」などといったテーマが、不明瞭ながらもむしろその曖昧さに漠なる重みを感じ始めたりするものです。
原作はハンガリーを代表する女性作家マグダ・サボーによる同名小説。彼女の人生もまた、社会と個人の関係について洞察を促される壮絶なもの。おそらく主人公のマグダと家政婦のエメランスの双方に、自らの人格や思想の二面性をそれぞれ担わせたのだろうかなどと思えもします。
タイトルからすると、扉の向こうに真実めいたものへと結びつく「何か」が待ち受けているのだろうと想像しますが、そうしたミステリーに関する演出は意外にもあっさりとしています。いや、むしろ謎が「解けた」という感覚がないまま幕を下ろされる気さえするのです。「明かされた」後もまた、それがすべて明らかなことであるのかさえ覚束ない。それはおそらく、その「事実」を主人公マグダが自分の中でどう受けとめるべきかに逡巡し続けているからだろうと思います。そして、それは彼女自身わからぬまま、そして観客自身も宙づりのまま、時間は無情に流れ事態は変わる。個人の葛藤などに社会が興味を示さぬように。しかし、エメランスという私人に惹かれてやまぬ詩人こそがマグダであり、隣人の面々。『オーケストラ!(Le concert)』で描かれた「共産主義の光と影」が本作にも見え隠れしているように思われます。あちらほど前面には出ていませんが、コミュニズムにしろナチズムにしろ、政治思想として集団によって利用される「主義」には常に排外的な結末が待ち受け、しかし個人の信条として胸に抱く信仰や思想は常に受容への模索を止められない。
扉は閉ざすにしろ、開けるにしろ、そこには責任と覚悟が必要です。勇気などという臆病へのエクスキューズは単なる痛み止めに過ぎません。閉ざすなら閉ざすなりに、隠すことへの信条が必要となるでしょう。開けるなら開けた後への責任(そしてそれは二度と「閉める」ことを許されぬ恒久的なものであるという覚悟)が主体に課せられていることを自認し続けねばならぬのではないでしょうか。窓の開閉が単なる眺めの獲得に留まるのに対し、扉の開閉には侵略と支配の誘惑がつきまとうものなのですから。
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