ラベル 2013 映画祭・特集上映 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 2013 映画祭・特集上映 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年11月24日日曜日

スウェーデン映画祭2013の注目作

洋画の興行不振と軌を同じくして(?)、映画祭の濫立に拍車がかかる近年。映画祭の季節は取捨選択と自問自答、そんな往復反復常住坐臥の嬉し恥ずかし悲しき性よ。

今年の11月から12月にかけての数週間は重なりすぎて「犠牲」とかの概念すら吹き飛ぶ感じ。ここまで来るとカラダもココロも一つでありがとう!などと天に感謝を始めてしまいそう(ただの「つよがり」とも呼ぶ)。

そんな中、今年から始まる(で合ってる?)スウェーデン映画祭。「トーキョーノーザンライツフェスティバル」からのスピンオフ(?)みたいだし、別に優先順位あげとかなくても好いかな、などとラインナップを気負いなく覗いてみると・・・

救済は忘れた頃にやってくる。劇場観賞を個人的に願って止まなかった『セッベ』が上映されるではないですか!!! ブログを始め、初めて劇場未公開作について記事を書いてみたのが、その『セッベ』。もう二年半以上まえのこと。この記事がそうなんだけど、物語全篇を追いながら書いているので、観賞予定の方は(もし読んで頂ける場合は)「途中まで」を参考にして頂ければと思います。

閲覧回数など僅少だし、検索して辿り着かれる方など極めて稀だったけど、ノーザンライツに勝手にラブコールしてみたりした甲斐がありました。(全然、無関係です、実際は。)

しかも、3回の上映のうち、2回には監督の舞台挨拶まである(追記:中止になったとのこと。残念・・・)というではないですか!必見!

監督のババク・ナジャフィは、『セッベ』の後に、ヨエル・キナマン主演で『イージー・マネー』の続編を撮っていたりするんだけど、そちらは未見なので、一作目と併せてWOWOWあたりで放映してくれないだろか。『イージー・マネー』一作目はダニエル・エスピノーサ(『デンジャラス・ラン』)が監督を務め、ザック・エフロン主演でのハリウッド・リメイクも決まったらしいし。(もしかしたら、ノーザンライツでの上映があったりする!?)

ついでに、ノーザンライツでの上映希望を勝手につぶやいとくと、個人的に大好きで大注目なヨアキム・トリアーとか紹介してください!今年9月に原宿VACANTで開催されてたイベント「ノルウェージャン・アウトレット」内で「Oslo, 31. august」の日本初上映があったと思うから(行けなかったけど・・・)、日本語字幕もあることだろうし、彼の処女作「Reprise」も絶対紹介しておいて損はない(というか、イベントにも後々箔が付くはず!)。と、今頃、しかもこんな片隅の片隅でつぶやいても意味ないけどね。最近はジャンルものやクラシックなんかも充実させてて興味深いイベントながら、作家性やや強めな新進気鋭監督作なんかの枠も設けて欲しいというのが個人的最重要望。

とりあえずスウェーデン映画祭2013は『セッベ』を上映してくれるとわかった日から、「通う」ことを心に誓ったことだし、なるべく観られるだけ観たいと思う。というわけで、今年もポーランド映画祭とは一切無縁で終わりそう。(だって、中国インディペンデント映画祭2013は絶対に見のがせないからね。本当に大充実な上に映画祭の神髄が宿ってる屈指の映画イベントだと思ってます。前回の感想などはこちら。)

2013年7月23日火曜日

IDCF2013 コンペ(後篇)

地元の人達が、「なんだか映画のお祭りやってるらしいわよ」なノリでふらっとやってくるSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。面白かったり楽しかったりしたときに充満するウェルカム感は好いものだ。でも、最も感心というか安心できるのは、たとえ「キョトーン」な作品を観てもあくまで「ふーん」や「へぇ~」で貫かれる友好感。沸点の低い好戦都会とは無縁の空気。だからこそ、娯楽性や話題性にひきずられず、作品選定ができるのだろう。勿論、だからといって観客度外視ではないし、土日上映には「相応しい」作品の選定がなされてはいるのだけれど、一方で他の映画祭や特集上映では観られないような(受け皿の無い)タイプの作品も積極的に選出してくれているのが嬉しいところ。

今年で言えば、『アメリカから来た孫』や『隠されていた写真』、そして『ぼくと叔父さんとの事』。(『アメリカから来た孫』はスケジュール上困難で残念ながら観られなかった。)

『隠されていた写真(Zdjecie)』は、ポーランドのマチェイ・アダメク(Maciej Adamek)監督による82分の小品ながら、変わった見応えのある作品だった。ドキュメンタリーや短篇などの作品では一定の評価を得てきたアダメク監督の初長編。ドキュメンタリー的な雰囲気を残しつつも、明らかに劇映画たろうとする緊張感もそこはかとなく漂う不思議なドラマ。短篇をそのまま並置したような親切な澄まし顔に最初やきもき、次第に諦念。そんな頃合いに、心にしっくり来るか何も落ちてこないかは、観る者によってだいぶ違いそう。東欧の映画、とりわけポーランド映画からイメージする「堅さ」や「冷たさ」はよりローカル的な深まりを見せ、ついつい捜してしまいがちなメッセージ色はさほど見当たらないという先入観との齟齬に何処か戸惑いを感じながら、時の歩みが異なることを知る。



自分の〈過去〉を探るために旅に出た主人公アダム、17歳。しかし、それはいつしか両親の〈過去〉を調査することで、自らのルーツを精査しようという〈現在〉の空洞化。そこに訪れる恋の予感。いや、実感。そう、痛感。アダムは何かにつけハンディカメラで眼前の光景を記録するのだが、そこに人間が混入することを何処かで避ける想いが強かった。しかし、そんな彼の記録にやがて、人間が入って来る。いや、人間を記録しようとカメラを持つ。そのとき、彼が見つけた母親の写真に記録された可視世界の背後に広がる不可視な記憶がもつ意味を、彼は知ったのかも知れない。列車のなかのラストシーン。アダムが一枚の写真を母親に手渡す。凝縮される軌跡。觝触せぬ奇跡。語られなかった寡黙な時間が、雄弁な緘黙の時間に変わる。過去を追い抜いた今がある。追いつかんとする未来もある。


『ぼくと叔父さんとの事(LUV)』は、その邦題からは想像もつかぬハードな人間交差点。それに、劇場公開はおろか最近ではソフト化やCS放映すら激減してる印象のブラック・ムービー(黒人映画)。ここまで黒人オンリーでドラマが進む映画を劇場で観ているというだけで新鮮。ただ、そんな刺激的な体験であるはずの本作の観賞が、見事に爆睡映画祭に化してしまったことをここに告白・・・。だって、連日睡眠数時間で朝一の仕事終えて川口に駆けつけて昼食とった直後・・・ということで、お許しを(って、誰への懺悔?)。とはいえ、断片的に傍観してたなかでもやはり、あまりにも懸け離れすぎた現実が展開されるドラマには、どうしても取つき端がみつからず、そんな没入拒否な印象が更なる睡魔へ導いて(責任転嫁)、だけどラストの希望と絶望がないまぜの場面は好きよ。それしか言えない・・・。

ただ新鮮だったのは、それだけ黒人映画で下層の現実を描いていながらも、ヒップホップなBGMがほとんど聞こえてこなかったこと。シガー・ロスとか流れたり、スコアもシューゲイザー的。Q&Aでちょうどその辺を監督に質問してくれた方がいて、そうした選択は「監督の趣味」であると同時に「ステレオタイプに陥りたくない(描く現実を一つのパターンとして受け取って欲しくなかった)」という意図でもあったとか。面白い。けど、個人的には正直ちょっと違和が強めに残ってしまったな。



ラストシーンから勝手に読みとったメッセージとしては、The pen is mightier than the sword(ペンは剣よりもつよし)。(以下ネタバレ) 主人公の少年は手にした大金を森の木の根元に埋めて隠すのだが、そのときに目印に用いたのは鉛筆なのだ。最初は、鉛筆を突き立てるなんて目立つし、外れたら見つけ難いし・・・と思っていたが、銃による恐怖と暴力でサバイブしてきた少年に残された希望の証(兆し)として、「鉛筆」が用いられたのかなと思い直してみることに。とはいえ、『アウトレイジ』の加瀬亮みたいなタイプに仕上がってしまうという線もあるわけで(笑)、正直もうすこし可能性の示唆が欲しかったりもした。(というか、「その点」を個人的に求めてしまう性向なんだと最近自認。ケン・ローチの『天使の分け前』に戸惑ったのも似た観点からだったかも。)

これまでIDCFで観たコンペ作品はヨーロッパやアジアの映画ばかりだったので、アメリカ映画しかも黒人の監督が登壇というのは新鮮だった。監督のシェルドン・キャンディス(Sheldon Candis)は今作が長編2作目の若手。実は日本とは既に縁があり、「The Dwelling」(隅田川沿いで生活するホームレスを撮っている)という短編ドキュメンタリーを制作していたり。それ観て行けば(そして、監督に質問すれば)好かったなぁ。短篇「The Walk」もここにある。


当初は観る予定から外してしまっていたチェコ映画『オールディーズ・バット・ゴールディーズ-いま、輝いて-(Vrásky z lásky)』。2本観る予定だった金曜に、朝一の仕事を終え直ぐさま駆けつければ観られることが判明して急遽滑り込む!初めての多目的ホールでの観賞(これまでは毎年全回「映像ホール」で観賞してきたので)だったが、これは断然「映像ホール」で観た方が好いですな。いわゆるパイプ椅子が並べられているタイプの会場ですからね。でも、本作のような映画なら、そうした観賞環境がむしろちょっとした「ムード」を演出してくれた気さえする。平日の11時からの上映と言えば、一般的な社会人は最も観られぬ設定ながら、会場には大勢の観客が・・・。そう、オールディーズでぎっしり、大盛況。雰囲気出過ぎでちょっぴり複雑・・・。(いや、本当にいわゆる「若者」にみえる人が皆無に等しいという場違い感[自分を若者にカウントしてる疑惑・・・気のせいですよ])



全く期待していなかったのが奏功してか、これが随分と沁みた!設定はちょっと奇抜ながらも(往年の名女優[今は忘れ去れてしまっているが]に眼の手術を控えた男が、彼女が入所している老人ホームに会いに行き、彼女がプラハでオーディションを受けるために共に旅(?)に出るというお話)、奇を衒うこと無く、それぞれの人物を色分けすることも無く、淡々ながらも実に丁寧に多面のまま人間を描こうとする誠実さ。それは、「老い」を衰えや諦観で括らず、ノスタルジーや直向きだけで塗さず、静かな覚悟でもってそっとじっと見つめる眼差し。

主演の二人(イジナ・ボフダロヴァーとラドスラフ・ブルゾボハティー)は何とかつて実際に夫婦だったとか。1960年代には数多くの作品で共演したチェコを代表する役者の二人は、やがて結婚するも、憎しみのなかで離婚。以後30年もの間、彼らは共演を頑なに拒み続けてきたそうで、そんな彼らが共演する(しかも主演、かつ往年の彼らの間柄を想起させるような関係性も含みつつ)ということで、脇役にもチェコのテレビ・映画界の一線で活躍する役者が結集したとのこと。確かに、役者たちのアンサンブルには安定感と適度なケミストリー。そして、そうした作品の背景が大きな力となって本作を温かく「抱擁」し続ける。オタを演じたラドスラフは本作が初めて上映された直後に亡くなった。しかし、最後の最後に輝けた、まさに「映画みたい」な物語。

オタの愛車(いまやオンボロ)が思いっきりスクラップにされる場面から始まる本作。その容赦なき過去の否定から始まるからこそ、過去から生まれる前向きの輝きがラストの彩りに意義を生む。

監督は「子供と動物はつかうのが大変だから」子供や若者は出演させなかったんだと冗談交じりに答えていたが、子供や若者を出すことでうまれる対照性から「老い」を定義づけるような野暮を回避したかったのかも。彼ら二人のなかに蓄積されたものから眼を逸らさずに、老いることの痛みと喜びを静観することに成功している気がした。監督はまだ39歳。本国でも若者に観てもらいたいという願いは叶わなかったとのことだが、ファンタジーではないがリアリティだけでもない「ドラマ」を呈示した彼の問題意識はきっと、自らの立ち位置に誠実な作品作りの表れかもしれない。

監督のイジー・ストラフ(Jirí Strach)は10代から俳優の仕事を始めていたらしく(20代後半から監督業を始めたみたい)、フリートークはそんなに得意そうではないものの、非常に見栄えのする好青年。本当、この映画祭に来日し登壇する監督陣は、なぜこうも感じが好く、友好的かつ和やかなのか。それはおそらく川口という適度な周縁感と、開催時期(サマー・ヴァケーション!)からしてオフを利用し観光がてらちょっくら仕事もしちゃうかな的スタンスで日本行きを決めた面々なのでは!?などと勝手に(半ば失礼な)推測をしてみたり。まぁ、でも、政治的な駆け引きや探り合いも横行する「大きな」映画祭に比べれば、自分のつくった映画を遠く離れた日本で悠長に寛げるなかで観てもらうって体験は、或る種の稀少性をもっているかもね。(しかも、既に本国での公開や映画祭巡りが一通り終わった後という安堵感もあるだろうし。)


プレミア感や権威のオーラが皆無だろうと、別次元でひきつけられる魅力をもったIDCF。ある面では進化や深化を求めたいけれど、真価は変わらず続けばいいな。そして、僅かずつでも映画ファンの間に健やかなる浸透がうまれれば。とりあえず、今年も見応えのある作品に出会えたことに感謝です。
 

2013年7月22日月曜日

IDCF2013 コンペ(前篇)

今年で10回目を迎えたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭だが、私が参加するのは3回目。昨年同様、「コンペ作品フリーパス」(前売限定3,000円で長編・短篇コンペ作品すべてが観られる)を購入し、のべ4日間8作品を観賞。やはり今年も短篇プログラムの上映を観ることはできなかったし、長編コンペに出品された日本映画を観ることもできず、長編コンペ12本中9本の外国映画のうち8本を観るという選択に。

フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』に関しては感想を記事にしたものの、その他の作品についても軽く振り返っておきたいと思う。

まずは、最優秀作品賞を受賞した『チャイカChaika)』。スペインの新鋭ミゲル・アンヘル・ヒメネス(Miguel Ángel Jiménez)監督による長編2作目。個人的には最も楽しみにしていたのが本作であり、今回のコンペ観賞作の中で最も魅了されたのも本作。昨年同様、極私的審査結果と審査員が出した結果が一致した形だが、今年の場合はグランプリのみならず、上位3作品が見事に一致(監督賞に『フロントライン・ミッション』、脚本賞に『セブン・ボックス』)。ポピュラリティやメッセージ性からすれば断然他の2作に軍配が上がるだろうが、そこはやはり「芸術性を競う」映画祭の宿命(?)からか、無難ながらも納得のグランプリ。(『フロントライン・ミッション』はもう既に十分な評価を各所で得ているし、『セブン・ボックス』は何か賞を絶対あげたい作品ながらグランプリはちょっと違う感じだったので、そうした「事情」を鑑みても妥当かと。)



『チャイカ』は映画祭映画的な側面が際立つ、いわゆるアート系な映画でありながら、当初は「狙った」のであろう多国籍感(本作は、スペイン・グルジア・ロシア・フランスによる合作)が、自然と「滲み出る」無国籍性へと少しずつなだれ込む。しばらくするとワンパターンにも思えて来る映像美が、何の躊躇いも無く反復を続けることによって醸成される心地好いマンネリとその微かな変容がもたらす無量無辺。荒涼とした大地をデジタルがフラットにとらえる画には、自然の慈しみも厳しさも廃されて、徹頭徹尾「そこに在る」という事実だけを刻むかのよう。だから、それらの光景が湛えている美しさは、決して人間をやさしく包んでくれたりすることはないし、彼らがそうした美しさとシンクロを見せてゆくわけでもない。寡黙な物語ゆえ、叙事の裏に潜む懊悩の暴発が時折訪れる。そして、そのときようやく彼ら(登場人物)は自覚し、僕ら(観客)も気づく。誰もが欲する、「ここではないどこか」について。

とにかく耽美主義的な眼差しに終始する画の連続は、単なる心地好さを求めているわけではなく、自然(空と大地)や文明(列車や建造物)の壮麗さに必ず人間の卑小さを刻印してる。それは、彼らの心がまさに精「神」として、人知を離れ、神のみぞ知るかの如き迷走を繰り返す様と見事に重なりもする。海から始まるこの物語において、冒頭で船を下りた二人にとっての動かぬ大地での暮らしはきっと、終わりの約束された逗留だったのだ。動き出す列車を見るとき、宿命が動き出すとき。移ろいゆくなかで、留まる者と動く者。離れてゆく者、見送る者。


セブン・ボックス7 cajas)』の上映は、コンペ作品中最高潮の盛り上がり。土曜昼という絶好のスケジュールもあってか、場内は満席近い大盛況。105分の上映時間も90分弱の体感で疾走する緩急抜群(「緩」は数割程度だけどね)な、空回らぬ意気込みの心地好さ。これまで20本しか制作されていないというパラグアイ映画の分水嶺になり得る、可能性の宝庫。これまでCMなどの制作を手がけて来たというフアン・カルロス・マネグリア(Juan Carlos Maneglia)監督は、映画を専門に学んだことはなく、映像制作の仕事のなかで習得した知識や技術を映画制作に結実したと語っていた。上映後のQ&Aで、「韓国映画や香港映画を思わせるアジア映画的な要素を垣間見られるが、意識したのか」といった質問が出るも、「パラグアイではそういった映画を観ることができないので・・・」という返答。いろいろな映像作品につながる想起が連続しながらも、何処かコピーの気配がしない鮮度が保たれていたのは、そんな「無垢」の産物だったのかも。

パラグアイ社会がかかえ闇を屋台骨に展開する物語でありながら、善きも悪きもそれらの構造に従順に組み込まれる事ない現実が、人間の滑稽さと逞しさを皮肉り、それでも賛歌。「大きな物語」が失われようとも、小さな小さな物語の連綿は社会をやがて映し出す鏡。社会がどんなに個人を駆逐しようとも、むしろ個人を駆動する。朗らかながらも強靱な志を感じさせるフアン・カルロス・マネグリア監督の人柄にも魅了され、遠い国で芽吹いた希望の予感を共有させてもらった気がしてみたり。



『セブン・ボックス』は審査員特別賞でも監督賞でも好い気がしたが(勿論、脚本賞であることに異論はないよ)、クレジットを見てみると、監督はタナ・シェムボリ(Tana Schembori)と共同ながら、脚本はマネグリア監督が中心になって書かれたようで、そんな配慮(?)もあったりしたのかな。(個人的には、台詞やプロットというより「あの手この手」で試された映像アプローチこそが本作の語りの肝だとも思ったので、監督賞でも好かった気がしたもので。)


『チャイカ』は劇場公開は難しいかもしれないけれど(でも、字幕は太田直子氏が担当してました)、ラテンビート映画祭あたりでの上映可能性はある!?(ただ、ロシア語で舞台も・・・だし、監督がスペイン人だってだけじゃ無理か。) 『セブン・ボックス』こそラテンビート映画祭で上映されたりするかもね。劇場公開のポテンシャルもありそう。
 

2013年7月18日木曜日

狼が羊に恋をするとき

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品2本目の観賞。台北駅近くの南陽街という予備校が多く集まっているという一角が舞台。地味に滋味な群像的書割に、ミュージックビデオ風味の青少年たちが右往左往。ごちゃごちゃ玩具箱な渋滞は、解消が予告されてるかのような布石感に溢れ返っていたりもするものの、アジア映画らしさをこってり吸収し尽くした台湾娯楽映画の今がある!?

私が本作を観たのは日曜夕方の回だったのだが、その前の『フロントライン・ミッション』が終わって外に出ると、入場待ちの列が出来ている・・・。ちなみに、この映画祭は全席自由席(前売も当日券も)で、整理番号などもない。が、大抵、開場前に待っている人など僅かだったりするので、続けて観る場合でも、ブラブラしてきて開場時刻前後に戻ってくるのがいつもの私的流儀だが、ちょっと心配になってしまい、出来てる列の後につく。(開場までもそんなに時間なかったし。)監督による映像チェックに時間がかかり、実際に開場は遅れたものの、暑さや怪しい雲行きもあって、とりあえずロビーに入れるだけ入らせてくれた上で開場待ち。誘導スタッフはおそらくボランティアが中心なので、地に足の付いた配慮に自然と寛ぎおぼえたり。開場が遅れることに関しても、「監督がなかなか映像にご納得いただけないようでして、少し調整に手間取っております故・・・」という正直なアナウンスは、イベントのプロなのだとしたら規準に適わぬかもしれないが、ボランティアならではの醍醐味(?)として癒し効果を発揮する。

後から知ったのだが、本作の主演男優クー・チェンドン(柯震東)は『あの頃、君を追いかけた』に主演してたんだとか。昨年の東京国際映画祭で上映され、あちこちから絶賛の声が聞こえてきて、いよいよ9月14日から二本でも劇場公開される同作は、台湾での社会現象的大ヒットのみならず、香港でも『カンフー・ハッスル』の記録を塗り替えて中国語映画の歴代興収ナンバーワン記録を樹立。というわけで、いつもの場内の客層とは異なった女性勢(アジア映画ファンと思しき面々)が映画祭の雰囲気に華を添えてくれていた。チケット代は大した額では無いので、動員如何でどうこうというのはそこまで意識しないのかもしれないが、話題性としては「この手の作品」もコンペに何作か入れても好いのかも。(でも、そういう「色気」が見事にみえないところも、この映画祭の好いところではあるんだけどね。)

で、カラフルポップな本作に色めきときめきウキウキしたか・・・というと、正直序盤から全然ノレなかった。決して作り手が拙劣な訳ではなく、あくまで個人的な趣味というか波長とというか、そういったものが本作のウキウキ成分を全くキャッチできなかった・・・という印象が終始。つくりがつくりなので、飽きも退屈もしないのだけど、ハイボルテージになるべき場面で「ふむふむ、そうするんだね」的俯瞰スタンスな構えになっちゃう悪循環。もしかしたら、カチャカチャ計算してる感が画面から伝わってきて(あくまで、勝手にそれを嗅ぎ取って)しまうからだったのかも。

とはいえ、終盤の疾走感あふれるドラマチック・クライマックスでは、「あれ?あれれれれ!?」というくらいの高揚感が私にも充満っ!と思いきや、やっぱり「俺のリズム」をとことん狂わす流れ、アプローチ。ま、やっぱり趣味の問題なのだろか。

とはいえ、予備校の授業風景なんかは懐かしく、そうした「ちょいキュン」はぼんやり持続してたかな。上映前に登壇した映画祭のディレクターが、「かつての駿河台を思い出す」なんてコメントしてたのも至極納得で、まさに受験が戦争めいてた時代の風景。私の頃には、最大のピークは越えていたとはいえ、それでも私が通っていた駿河台にあった予備校の大教室は、本作に出てくるように浪人生でびっしり。しかも、狭っ苦しいスペースに詰められまくり。瀧沢ディレクターも同じ光景を想起したのかな。

上映後のQ&Aでも出てきた話題だが、本作は予備校街を舞台にしてはいるものの、予備校生自体が物語の主要な登場人物という訳では無い。ただ、物語の「背景」としては魅力的な機能を果たしてはいる。ホウ・チーラン監督としては、「夢を追いかけつつも、そこには成否の分岐が待ち受けており、やがては皆そこから巣立ってゆく場所」という空間の魅力を、既にそうした時代を過ぎた大人たちのドラマと重ね合わせながら見られることを願っていたようだ。アジアの青春映画で最近流行の、現在と過去を往来するタイプの或る種変型とも言えるかも。適度な閉塞感(実際の撮影はどうか知らないが、確かに「街の一角」のみで進行するミニマムさがある)は、若者の「閉じこもりたい」けど「出てゆきたい」な内面とは巧くマッチしてるかな。

ポピュラリティは十分だから、(字幕つけたわけだし)そのうち劇場公開ありそうだ。全く個人的な推測だけど。(そうすると、「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭出品」という併記で、少しは映画ファンのなかで映画祭の認知が高まるかも!なぜか、勝手に応援団メンタリティ。)


原題は「南方子羊牧場」で、英題が「When a Wolf Falls in Love with a Sheep」。
ジエン・マンシュー演じるヒロインは予備校の職員で、彼女は主人公が働く印刷所に出す試験の問題用紙の隅にボランティアで(勝手に)イラストを描いている(イラストレーター志望)。というか、そもそもあんなこと許されるものなのか・・・。で、そこにいつも登場するキャラクターが羊。で、主人公と「その場」をつかってのコミュニケーション(恋愛的駆引)が始まって・・・という展開。
 

2013年7月16日火曜日

フロンロライン・ミッション

※追記:日本版DVDが発売された(8/30)。

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品で最初の観賞となった『フロントライン・ミッションRock Ba-Casba)』(タイトルは、アラブ人とユダヤ人が戯れるミュージックビデオが印象的なThe Clash「Rock the Casbah」に由来)は、イスラエルとフランスの共同制作による作品。監督・脚本のヤリブ・ホロヴィッツ(Yariv Horowitz)は、ミュージックビデオやテレビの演出や、国外でのCM制作、短篇ドキュメンタリーの監督なども務めてきたという。(ここで彼の仕事がいろいろと見られる。)長編監督1作目となる本作は、今年のベルリン国際映画祭パノラマ部門に出品され、C.I.C.A.E.賞(国際アートシアター連盟賞)を授与された。

舞台は1989年のパレスチナ・ガザ地区。そこに派遣された若きイスラエル兵達の苦悩を通して、衝突や矛盾のかかえる凄惨と陰鬱と不毛と懊悩が浮き彫りにされてゆく。派遣後間もなく、反発する地元の若者が屋上から落とした洗濯機によって一人のイスラエル兵が絶命する。いきなり突きつけられた現実に、虚脱と葛藤の日々が始まる。「支配者」としてのイスラエル兵の横暴、抵抗だけが尊厳の術かのようなガザの民。時に愚かで時に聡明な貌を、どちらの側も錯雑と淡々に繰り返す。

まず何よりも新鮮(?)だったのが、地元民による投石の怖ろしさ。監督によると、「ユダヤ人にただ(無料)で石を投げつけられる」とあって、パレスチナの人々も嬉々としてエキストラに参加したんだとか(笑)・・・なるほど。その迫力は確かに伝わる(※)。驚くことに、銃撃戦の何倍も怖ろしい映像なのだ。それはきっと、銃は撃ったことも撃たれたこともないが、石なら投げたことがあるし、ぶつかったこともあるからだろう。それに、銃弾は(その弾道が)目に見えないし、弾自体の重みは稀薄である(それ故の怖ろしさはありつつも、それゆえにどこか形而上的でもある)故に、質量も「弾道」もはっきり体感できてしまう石の重みは激しさを喚ぶ。

また、地元民はとにかく屋上から物を落として攻撃しようとするのだが、その位置関係がもたらす恐怖も厖大で、これは武器をもたぬ民のせめてもの「凌駕」なのかもしれないが、それを更なる規模と間接(無意識)で大量に投下する残虐こそが、空襲というものなのだ。銃撃が傷みをどこか抽象化してしまったように、空襲もおそらく同様の「効果」を孕んでる。銃撃や空襲のもつ残虐性をより「具体」的に見せられることで、戦闘の文明化が、増殖する犠牲の痛みを隠蔽している事実に気づかされたり。

そうした意味では、敵と味方が空間的に分かたれた通常の戦場とは異なった、敵と味方が隣り合い、時に交流を試みてはその度に避けられぬ衝突とすれ違いに対峙し続ける「戦場」において、戦争の深層を浮上させようとする試みは、ジャンル的な戦争映画とは一線を画しているようにも思える。俯瞰で集団を眺めるより、個人に寄り添い凝視するからこそかもしれない。

しかし、最後の最後ではやはり、個人は負ける。仲間を殺した敵を殺すことは私怨の為せる業のようでいて、殺しを躊躇う個人を容易くつぶす集団性の圧制なのだ。個人では固持できるはずの良心や尊厳も、強大な社会のお墨付きを得てしまった「正当」性には目が眩み、大義に隠蔽されてしまう。戦争の怖ろしさとは暴力それ自体よりも、それを制御する可能性の殲滅にあるのかもしれない。


※監督は、「アラブ人とユダヤ人が破壊という戦争ではなく、映画制作という創造のために共同できたことに可能性を感じた」とも語ってくれた。
 

2013年7月15日月曜日

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013

2004年に始まり、今年で10回目を迎えるIDCF(International Digital Cinema Festival)。2003年にオープンしたSKIPシティ(埼玉県川口市)で毎年開催されてきた。SKIPシティの「SKIP」とは、「Saitama Kawaguchi Inteligent Park」の略なんだとか。川口駅から、ほぼ20分おきに無料バスが出ており、所要時間は約12分。(帰りのバスも、同様。)川口までも遠いし、そこから更にバス!?という時点で、怠惰で中央集権的(笑)な私としては参加を検討すらしたことなかったが(そもそも、始まった頃は最も映画から遠ざかる生活をしていた時期でもあったし)、一昨年のオープニング作品がヌリ・ビルゲ・ジェイランの『昔々、アナトリアで』ということを知って駆けつけみると、他の映画祭や特集上映などとは全く異質な空気につつまれて、映画祭のイメージが変わった(というより、広がった)貴重な体験に。海外の映画祭についてしばしば語られる地域密着型という表現を初めて日本で(というか、首都圏で、か)体感できた新鮮さ。「シネフィル」大集合に充満するギスギスやピリピリとは無縁の、東京よりも些か空も広めの、ちょっとだけ周縁な、厭なとこをちょこっとスキップ、そんな川口で過ごす和やかのんびりフェスティバル。

というわけで、爾来3年連続で参加することにしたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。繁忙期真っ只中、三連休も三連勤、怪物大学も野性速度も観られていないまま、それでも時間を捻出し、まずはとりあえず二本観て来た日曜日。

何とか昼に仕事場を抜け出して、昼食もとらずにSKIPシティに駆け込むと、まずは「あるはず」だったファミリーマートを捜してみるが・・・無い。周辺には何も(といったら怒られるか)ないので、こいつは困った・・・と思ったら、ファミマがあった場所が休憩所になっており、そこには手作りパンの出張販売が。(ちなみに、タリーズも奥にはあったりする。)そこで、折角だし(?)その休憩所でランチを素早くとることに。サンドイッチとパンを買い、缶コーヒー飲みながら、おだやかな昼食。「ザ・簡易」といった趣のその休憩所には、来日中の監督や通訳の方なんかも昼食をとっていて、相変わらずのIDCFらしさを体感。

客層は中高年(とくに年配の方)が多めだったりするのもIDCFの特色。しかし、イタリア映画祭のややハイソ的シルバー層やフランス映画祭の有閑マダムとは違った様相で、年に一度のお祭りを楽しみにしている&青春時代に娯楽の王様だった映画への憧れに今一度胸躍らせてやって来る地元の方々が主だったりする。始まるまえの情報交換も、観賞後の感想も、至って気さくな即興曲。衒学始終騒とは無縁の空気に、深呼吸(笑)

観賞料金も良心的で、コンペ1本が800円(前売だと600円)。コンペ3回券は2,100円(前売だと1,500円)。前売だけで販売されてるフリーパスはなんと3,000円(長編12作品と短篇4プログラムがいずれも観られる)。主催している埼玉県および川口市からの相当な助成によって運営されているのではあろうが、そんな価格設定も地元民からの支持との相関関係だったりするのかも。(とか余所者は思ってみても、実際は地元民の大勢は何とも思ってないor疎ましがってるってこともあるのかもしれないけどね。)

前述のファミマ消失と並んで、でもこちらは嬉しい変化だが、今年はシネスコ作品の上映がスクリーン拡張で上映されている!(ということは、座る位置[個人的ベスポジ]が変わるということでもある。) 昨年までは、作品によってはスクリーン拡張によるシネスコ上映もあるにはあったが、基本的にはビスタサイズに上下黒帯で投影するパターンがほとんどだった。椅子の形状に関しては、個人的にはちょっと難ありな気がするものの(背もたれがほんのちょっとね・・・でも、全然普通の劇場椅子レベル)、画質含め上映環境は極めて良好な映像ホール。(実は、もう一方の会場である多目的ホールでの上映は観たことがない。)スクリーン拡張によるシネスコ上映はなかなかの迫力あり。但し、シネスコ作品で画面の外に字幕が出るタイプのものもあるようで、その場合は上下黒帯タイプでの上映かもしれません。

とりあえず今週の平日は仕事も一段落し、何度か川口まで足を運べそうなので、初めてのMOVIX川口にも足を伸ばしてみようかと。(川口駅より徒歩8分らしい) 他にも川口駅前には川口市立中央図書館メディアセブンなんかも入っているキュポ・ラというビルがあり、のんびりまったり文化的に過ごす休日には恰好な街にも思えます。あ、ちなみにSKIPシティ彩の国ヴィジュアルプラザにも映像ミュージアムや映像公開ライブラリーなんかもあって、巧いことやれば有意義に時間がつぶせそうだし、SKIPシティにある川口市立科学館にはプラネタリウム(平日は投影がないみたいだけど)もあったりします。

というわけで、何故か川口に何の縁もない私が宣伝部員のようになっている(気づけば「です・ます」調になっている)・・・ことからもわかる通り、なかなか居心地の好い町そして映画祭。初日(私にとっての)には、『フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』を観てきましたが、感想は改めて。

2013年7月9日火曜日

アウト・イン・ザ・ダーク

先週末から始まった第22回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて観賞。実は、初めて足を運んだ同映画祭。故にちょっとだけ緊張(?)したが、他の映画祭にはないフランクさやお祭りムードが漂っていたりもして、微妙な上映環境も手作り感が何となくカバーしてくれたり(くれなかったり)。実際、LGFFへの参加を躊躇っていたのも、映画館での上映ではないという点だったりもして(でも、新宿バルト9で一部開催された年もあったよな)、最近では積極的に「参加しない理由」ばかり探しては安息を貪ることに精出しがちな私としては、今年も参加は見送るはずだった・・・けど、ドイツ映画特集でドイツ文化センター@青山一丁目に行く予定だったので、東京ウィメンズプラザホール@表参道が心的急接近!本作の予告編とか観たら行きたくなって、東京ウィメンズプラザホールの写真をみたら段差のある座席!ドイツ文化センターの平面床に椅子並べ状態で観ることに早くも疲弊し始めた脆弱根性も手伝って、急遽駆けつけてみることに。(本作の上映は18:35開始だったのだが、ドイツ文化センターで18時過ぎに終わる映画を観てから行ったので、なかなかハードな移動になりました。)

観賞のきっかけとしては、度々見かける受賞実績の影響がありつつも、やはり二つの「壁」(パレスチナ問題と同性愛)をどのように描いているのかが興味深かったということと、個人的にイスラエル映画と相性が好いということ。2010年の東京国際映画祭コンペでのグランプリ受賞作『僕の心の奥の文法(Hadikduk HaPnimi)』は個人的にもグランプリだったりしたし(劇場公開はおろか、ソフト化もBS・CS放映も一切ないとはどういうことか・・・)、昨年の東京フィルメックスでグランプリを受賞した『エピローグ(Hayuta and Berl)』もやはり個人的グランプリだった。他にも昨年では、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭で観た『レストレーション~修復~(Boker tov adon Fidelman)』も実に味わい深かった。(その『レストレーション』の監督ヨッシ・マドモニーの新作には、本作でロイを演じるMichael Aloniが出演している。)国家としてのイスラエルも、イスラエルの良心代表的なアモス・ギタイも、正直苦手だが、そうした声高な自己主張とは別種の淡々とした清澄さで魅了してくれる上記作品群は極めて好みだし、そういった作品たちを日本にもっと紹介して欲しい。今年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭に出品される『フロントライン・ミッションRock Ba-Casba)』というイスラエル映画も楽しみ。)

物語は、パレスチナ人の学生ニメルがテルアビブのクラブでイスラエル人の弁護士ロイと出会い、恋に落ちるところから始まる。ニメルは大学で心理学を学び、テルアビブの大学で講義を受けるために通行許可証を手にできたのだが、それがある事情により失効してしまう。

ニメルは自身がゲイであることを家族にも隠している(知られれば「村八分」になってしまう)が、ロイは家族にもカミングアウト済。予告なく恋人であるニメルを夕食に招いたりするほどだが、それでも両親は「いい加減、まともになったら?」的な対応で彼の本性への理解は極めて乏しい。社会的地位のあるロイの父親はまさに「イスラエル」、そして父親を失ったニメルの家族はまさに「パレスチナ」。結局、背景は違えども、どこまでも張り巡らされている壁。社会の許可なしに通行できぬ境界を、個人が乗り越えられるのか。最後に愛は勝つ?それは境界を破壊することでも、無視することでもなく、利用することなのかもしれない。負けるが勝ち。いや、闘争こそが壁を生む。ならば逃走こそが壁を消す?

タイトル通り、夜の場面が多いし、そのうえ光はあまり射し込まず、わずかな灯りが点綴している光景が続く。会場内は真っ暗とは言い難い(非常口のランプが多く、明るい)環境だったりもして、画面が見づらかった為、映像への没入が削がれて正直残念だったりもした。とはいえ、画面の方が闇につつまれているという状況も、それはそれで意味深に思えて来たりもして、普段は体験できぬ「薄明」のなかでも観賞は、独特の感傷をもたらしもしてくれたかも。


2013年6月28日金曜日

フランス映画祭2013

横浜時代の華々しさに比べると、ややこぢんまりな六本木時代、そして縮小傾向で迎えた有楽町時代はいよいよ映画祭から先行上映会に!? そんな危惧も高まりつつあった昨今のフランス映画祭。今年も公開決定済の作品がズラリとならんだ上映作品群。上映される11プログラム(新作実写)のうち、実に8つが劇場公開決定済。とはいえ、今年はゲストが(ここ数年では最も)華やかな印象で、かつての輝きをやや取り戻した感はややあるかもしれない(「濁し」ワード頻発しすぎ・・・)。

オープニング作品は、昨年のサン・セバスチャン国際映画祭でグランプリを受賞したフランソワ・オゾンの新作(最新作は、今年のカンヌに出品)。色んな映画祭でちょくちょくちょこっと受賞してきたりはしたものの、一等賞のご褒美は初めて!?ということもあり、どんな作品に仕上がっているか、興味津々(彼の場合は、数パターンの作風というか方向性があって、どのタイプかによって私的嗜好との相性が多少変わってくるので、実際観るまで妙な緊張感)。などという以前に、映画を観るようになったのが遅かった(大学に入ってしばらくしてから)自分にとって、初期の段階からリアルタイムで作品を観て来られたお気に入り監督はそれほど多くなく、そうした稀少で貴重な存在であるフランソワ・オゾン本人が登壇するということ(そして、それを拝める!ということ)がこのうえない達成感を予め約束してくれてはいたのだが。

ただ、フランス映画祭の前売券発売当日は仕事が入っており、購入できたのが昼過ぎだったもので、残念無念の最後列・・・。しかし、そんな寂しい気持ちを『In the House(Dans la maison)』の主人公クロード(生徒の方)が労ってくれたりしたのだった。そう、彼は「いつでも最後列に座る」設定。まさに、最後列で観るべき映画(と勝手に思い込む療法)。

序盤から傑作の香りが立ちこめていたものの、オゾン色ともいえるキッチュな寓話性が次第に高尚さを帯び始める気配を感じ、後半はやや戸惑いながら観ていた気もするが、如何せんこの日は疲労の蓄積がハンパなく、そのための「朦朧」だったかもしれず・・・

直後のレイトで上映され、あちこちで「傑作!」の声があがりまくりのギョーム・ブラックの『遭難者』『女っ気なし』もウトウトしながら半分意識とびながら観てしまったからね・・・或る意味、そういった状態が「適当」な作風ではあったんだけど、いやはや不覚。幸運にもユーロスペースでの公開が決まっているし、早く観直し(?)たい。でも、公開が秋らしいんだけど、(ちゃんと観てないくせに、こんなこと言う資格ないかもしれないけど)これは夏のレイトショーで観たいなぁ~としみじみ思ったり。

2日目も昼過ぎまで仕事だし、このままだとフランス映画祭は爆睡映画祭と化してしまいそうな予感があったので、夕方のジャック・ドゥミ長編処女作『ローラ』を観に行く前に仮眠。昨年はエナジードリンクに依存気味になりかけたものの、仮眠に比べればレッドブルもモンスターも気休め程度(当人比)。そして、頭クリアで臨んだ『ローラ』に完全魅了の洗礼済めば、上映後に登壇した秦早穂子氏のトークに感動しきり(昨年のフィルメックスで審査員を務められた際のインタビューでの話にも心揺さぶられたのは記憶に新しい。『影の部分』を未読であることを猛省)。ヌーヴェルヴァーグという華麗なる物語が、極めて現実的な葛藤や相克の上にかろうじて僅かばかりの花を咲かせた結果(一握りの栄光)であるという真実を、冷めることなき情熱で冴えまくる彼女の言葉に、観客はどこまでも醒めまくる。

『ローラ』を初めて観たときの状況(ゴダールらも同じ試写室で観たとか)を熱く語り、観た直後の様子を司会者に聞かれると、「そりゃぁ、皆、無言ですよ」。「最近の試写は本当に好くない。観終わるとすぐに『どうでした?』なんて聞いてくる」と、胸がすくような真実の人。映画を、特に素晴らしい映画を観終わったあとは、しばらく一人で色々と考えたい。その時間こそが大切。そう彼女は語っていたが、私も(便乗するのも烏滸がましいが)まさしく同感で、私が映画を独りで観るのも、知り合いを見かけても極力隠れる(笑)のも、そうした理由だったりすることを再認識。

作品のみならず、上映後のトークまでが魅了に充ちた時間だった故、レイトの『テレーズ・デスケルウ(Thérèse Desqueyroux)』を観るのに些か気が引けた。しかし、観ればそこには別種の充実底力。クロード・ミレールの遺作となった、モーリアック原作の映画化。クスリともしない、魂を抜かれた女の沈黙の断末魔、オドレイ・トトゥの新境地。文学の映画化というより、映画版文学。日劇の大画面で観られることの必然性に震えてしまう、画の言葉。是非劇場公開して欲しい。そして、原作を読んでから再見したい。

3日目は、昨年の極私的最熱狂作家ラウル・ルイスの遺志を継ぎ、彼の妻であるバレリア・サルミエントが監督を務めた『ウェリントン将軍~ナポレオンを倒した男~(仮)』。昨年日本でも公開された『ミステリーズ 運命のリスボン』にも通ずる乱舞するクロニクル群像劇であったりもして、ラウル・ルイス仕様のつくりではあるものの、決定的に本家とは異質な模造品的仕上がりにがっかり。次から次へと感嘆の連続でつながれる美麗な画が一向に心に突き刺さらない。ちなみに、仮題である邦題は絶対に変えるべき(というか、さすがに変えるだろう)。ウェリントン将軍が主役でないどころか、脇役ですらないし、原題は「Linhas de Wellington(英題:Lines of Wellington)」。つまり、ウェリントン将軍の戦いにおける「前線にいる者たち」の生き様や死に様を描く物語。

『アナタの子供』は、前回記したように、見事な映画的幸福に完全降伏。

だからこそ、レイトの『黒いスーツを着た男(Trois mondes)』は観ないで帰れば好かったな・・・でも、前売を買ってしまっていたもので。これも邦題が好くない。響きは好いよ。でも、この邦題だとノワール的なイメージを与えるし、そうしたスリルだったりダンディズムに魅せられに行く作品と勘違いしそうになるだろう。というか、実際てっきりそうした「物語」だと思ったら、原題(三つの世界)が表すように(とはいえ、リサーチ不足で後から知ったけど)、ひき逃げ事件の三者三様(加害者・目撃者・被害者家族)を滋味あふるる丁寧さでもって交錯させる人間ドラマ。邦題によるミスリーディングという副作用もあったものの、個人的にピンとこない語りだったようにも思う。主演のラファエル・ペルソナ(ペルソナーズ表記は誤りとのアナウンスからQ&Aはスタート)は、憂いをたたえ続けることで味わいが増し続ける薄幸ハンサムさんだけど、登壇した本人は善人オーラ全開で好印象な半面やや拍子抜けというか・・・アラン・ドロンとは作品の中だけでしか会ってきてないのが好かったのかな、なんて。でも、きっと役者としての真摯さは相当なもののようだし、好い作品に出会って大きく飛躍するかもしれないな。

ちなみに、『黒いスーツを着た男』のQ&Aで通訳を担当された女性が驚愕の危険運転でとにかく冷や冷や、いやイライラ。直前回(ドワイヨン登壇)の通訳が福崎裕子さんだっただけに、余計。(福崎さんの仕事は、本当にいつもいつも最上の架け橋で、毎回しきりに感謝感服しっぱなし。)

今年はなぜか最終日が月曜(平日)という開催期間の変則。たまたまスケジュール的に観ることのできた『椿姫ができるまで(Traviata et nous)』。粗筋は知りながらも、舞台(オペラ)自体は観たことのない『椿姫』。今秋にシアターイメージフォーラムで公開予定だが、必ず『椿姫』の内容は予習しておいた方が好いし、できればオペラも観ておくと好いと思う。その辺は「わかってる」ことを前提につくられている、というか、それでこそ『~できるまで』をじっくり味わえるのだろうと思うから。

上映後には監督のフィリップ・ベジアと、演出家のジャン=フランソワ・シヴァディエが登壇してQ&A。いつもと違った客層(有閑マダム中心)ということもあって、妙な和やかさと寛容が漂うなか、リラックスした語りで充実した話が聞けた。その内容を踏まえて、もう一度観たい(観るべき)作品だと再確認。今度は、オペラも通して観た上で臨みたい。(オープニングの雰囲気から、フレデリック・ワイズマンの「シアターもの」のような印象をもってしまい、そうした「接し方」で決めてかかったことで失敗観賞になってしまったきらいがあるもので。)

ちなみに、演出家のジャン=フランソワ・シヴァディエが以前に作・演出を手がけた「イタリア人とオーケストラ」という舞台では、オペラのリハーサルを描いていたらしく、そのオペラこそが『椿姫』だったとか。そして、彼が今度は実際に『椿姫』の演出を手がけることになったという「運命」もこの作品が誕生する重要な端緒となったよう。

原題は直訳すると「椿姫と私たち」とでもなるのだろうか。ただ、「nous」という一人称複数は意味内容(範囲)を文脈から読み解かねばならぬ語であるようで、そもそも「私」が誰で、その「私」を含む「達」はどこまでか。折角だからQ&Aで尋ねてみればよかったかな(笑) ちなみに英題は「Becoming Traviata」。これも、なかなか意味深長(?)


2013年6月26日水曜日

アナタの子供

フランス映画祭2013で上映されたジャック・ドワイヨン監督作。最新作『ラブバトル(Mes séances de lutte)』(ハンパないバトルみたいっす)が日本でも今年中に劇場公開されるらしいが、本作は残念ながら日本公開未定。ここは、『ラブバトル』公開記念で配給のアステアさんが何とかしてくれることを期待!

ネームヴァリューに比して余りにも日本公開作が僅少なドワイヨン。恥ずかしながら、全然フィルモをおさえられずじまいの不肖の身。まだまだ未踏未開の地は遙か。しかし、世界はどこまでも、映画はどこにでも、未知なる豊饒に充ちている。ノスタルジックな新境地。ファンタジックなリアリティ。人間と真摯に向き合う者しか、人間の描写に更新は生まれ得ない。「人間は波打つ存在(人間は直線的な存在ではない)」とのドワイヨンの言葉(正確には、彼が引用した言葉)が全編に渡り響いてる。そして、そうした波は決してダイナミックな波でもなければ、力強いうねりで魅了しようとも一切しない。そこにあるのは、「感じる」ことしかできない細波だけだ。しかも、それはほんの些細な「もつれ」や「まよい」や「すれちがい」によって如何様にも弾ける波だ。

「観ている者に、登場人物が進む(であろう)方向が見えてはならない」

そのことに細心を払ったといった発言をジャック・ドワイヨンはしていたが、本当にそうした核心(無意識)が見えてこない。いや、ドワイヨンによる何十テイクにも及ぶ反復が、「演技における無意識=意識的」を消し去り、「演技における意識=無意識的」なものへと昇華されているからなのか。自然などという無責任さとは懸け離れた、極めて上質なリアリティ(それは現実以上の真実を内包せしめた)が画面の背後を埋め尽くす。

最初は、「何を考えているかわからない」印象ばかりが後を引く登場人物たちに、いまいち乗り切れない想いで(引き気味に)眺めていたが、そういった支離滅裂という現実の真実が心につきささってからは(スイッチが入ったように)、彼らの蛇行、すべてがダコール(D'accord)。

三角関係とは最も不幸な不可解の定番であろうはずながら、本作におけるそれは最も幸福な解法なのだ。人間の関係に、恋愛の顛末に、模範解答などあるはずがない。あるのは無数の別解だけ。そして、それも束の間の解。そんな人間に、快と怪。糸のもつれは、気づけば絆。やがて解れるかもしれないが。


ルイ役のサミュエル・ベンシェトリ(Samuel Benchetrit)は、故マリー・トランティニャンの最後の夫だったらしく、彼女を主演に『歌え!ジャニス★ジョプリンのように(Janis et John)』を監督していたりもする。(マリーはジャック・ドワイヨン監督作『ポネット』で母親を演じてたりもした。)

ビクター役のマリック・ジディ(Malik Zidi)は、フランス映画祭で本作の前の回で上映された『ウェリントン将軍』にも出演してたらしいが、当然ながら気づかず(『ミステリーズ 運命のリスボン』にも出てるらしい)。それよりも何よりも、フランソワ・オゾン監督作『焼け石に水』の魅惑青年フランツを演じていたのが彼なんだとか。昨年、日本でも公開されたマチュー・カソヴィッツ監督作『裏切りの戦場 葬られた誓い』にも出演していた(こちらも気づかず)。

エンドロールでは、プロデューサーか何かで「Yorick Le Saux」の名を見かけるも、IMDbによるとあのヨリック・ル・ソーじゃなくて同姓同名の別人!?

撮影監督としては、レナート・ベルタがクレジットに。実際にカメラを持っていたのは二人の若手カメラマンだったようだが、そうした実働隊の瑞々しさを円熟の動線で振り回してる躍動感がどこまでも心地好い。本作は、観ながら色々なフランス映画(特に最近の)を想起したりもしていた。一瞬頭を過ぎった1本に『ベルヴィル・トーキョー』があったのだが、そちらもレナート・ベルタが撮影担当だったのか。映画監督でも、巨匠ほどデジタルや3Dと嬉々として戯れながら独自世界の創出に軽々と奉仕させられるように、故きを温ねずして新しきは知れないのかも。

そういえば、エンドロールにはカロリーヌ・シャンプティエ(Caroline Champetier)の名前を見かけた気がしたけど、彼女は『ポネット』の撮影を担当してたりしたんだね。


2013年6月21日金曜日

EUフィルムデーズ2013 《呼吸》

イタリア文化会館で開催中のEUフィルムデーズ2013。毎年、観たい作品はいろいろあれど、なかなかタイミング的に(時期としても、タイムテーブルも)厳しくて、結局ほんの数本を観て終わってしまう切ない企画。そんな映画ファンの気持ちなど梅雨知らず、六月の憂鬱。

フィルムセンターでの開催が定着しつつあった昨今、今年は会場を新たに、デジタル化の波にも当然呑まれ、「フィルム」という看板が切なく響く。イタリア文化会館のホールは、セルバンテス文化センター(天井が低くて息苦しい)やドイツ文化センター(長時間座ってるには厳しい座席)に比べれば、映画を観るには好い気もするが、とにかく寒いぞ(上着必携!)。というより、哀しきデジタル上映の定番パターンに劇場観賞の終末観。シネスコサイズのスクリーンにビスタで投影し、ビスタサイズの上下に黒帯付きでシネスコサイズの映画が上映されるという・・・アレ。画面が小さくなるとかいう「物理的」な問題よりも、左右の投影されぬ白と、投影されてるのに黒い上下の帯が視界に入り続けるという無残。自宅で観た方がマシな「視界」ってどういうこと・・・。シネスコならではの画を堪能するには厳しい状況での観賞環境になってしまい、悲願の劇場観賞は完遂できずじまいな気分。

実は今回のラインナップには、輸入ブルーレイで観賞済ながら、大いに魅了された作品故に劇場観賞できることを嬉しく思い、かなり楽しみにしていた一本があったのだ。それが、オーストリア代表『呼吸』。同作は、なら国際映画祭2012(河瀬直美が理事長を務めてる)の新人コンペティション部門に出品され、観客賞を獲得したらしいのだが、何より日本国内で35mmで上映されていたという事実を知って、臍かみまくり。なら国際映画祭は隔年開催のようで、今年の開催はないようだが、来年は奈良に行ってみるべきか。

その『呼吸(Atmen/英題:Breathing)』は、カール・マルコヴィックスの初監督作(脚本も)ではあるが、マルコヴィクスは『ヒトラーの贋札』に主演していたり、リーアム・ニーソンの『アンノウン』にも出てきたりで、おそらく見覚えのある映画ファンは少なくないはず。そんな彼が、こんなにも繊細で端正な作品を丹精につくりあげたことに意外性。俳優監督という先入観が、演出主導のドラマ性を予想させるも、実際は作家性とドキュメンタリー性が静かに同居し、厳かな緊張感に時折優しさが挿し込む愛おしき小品ならではの「短篇」的語りが見事に結実してる。数々の映画祭で上映されたり受賞したりしているのも納得。

撮影を担当しているのは、『ルナ・パパ』や『ルルドの泉で』(ジェシカ・ハウスナーとは長編全作で組んでいる)のマルティン・ゲシュラハト(Martin Gschlacht)。ブルーレイに収録されている監督インタビューでも、撮影に関しては綿密な話し合いを経て、どの場面にも精緻さを求めて撮り進めていったと語っていた。シンメトリーにこだわった画面や、背景の存在感が異様な構図など、「映っているものすべてに敏感」な劇場で観る者の意識を意識したとのこと。

マルティン・ゲシュラハトが撮影を担当した作品では、「Revanche」を輸入ブルーレイ(クライテリオン盤が出ている/ベルリンでいくつか受賞したり、アカデミー外国語映画賞ノミネートされたりしていたので)で観たのだが、ジェシカ・ハウスナーやマルクス・シュラインツアー(『ミヒャエル』)、ウムト・ダー(『二番目の妻』)といった気鋭のオーストリア勢に共通する作風で、『呼吸』にも通ずる因縁と寛容が緊迫と緩慢を往来しながら語られていく静謐さには毎度ながら惹かれるものがあった。(ただ、それらの作品群にはあまりにも類似した空気やパターンがこびりつき始めているという危惧もあるけれど。)「Revanche」の監督・脚本を務めているGötz Spielmannは、前作の『3つの不倫』(日本語表記はゴッツ・スピルマン?)がDVD発売されているらしいが、未見。

話を『呼吸』に戻すと、主人公のローマン・コグラーを演じる俳優(といっても、本作がデビューのようだ)が、ケン・ローチ作品やダルデンヌ兄弟作品における「主人公」的な表情や佇まいを併せ持った絶妙キャスティング。冴え冴えとした茫漠たる悲しみを見事に体現した貌を見せ続ける彼と街の表情はじっくりと観る者の心に浸透してゆくだろう。

タイトルの「呼吸」は、オープニングのシーンから何度か登場するプールのシーン、そしてラストで語られる真相などにすべて関わり合っており、見終わってはじめて納得の深呼吸を叶えてくれる。多少、逆算気味な布石の配し方に思えなくもないが、僅少な台詞による豊かな行間がそれをうまく中和してくれてもいる気がする。

2013年6月17日月曜日

第6回 爆音映画祭

今年は6月の第1週に早期&凝縮開催された、爆音映画祭。(映画祭はじめ爆音上映を主催している)boid主宰の樋口氏が語っていたように、今年はまさに「趣味」に走ったラインナップであり、それは即ち「豪華」でありながらもマニアックな贅の尽くし方。地元開催ということもあり、ふらっと足を運ばせられる(はずの)バウスシアター。ただ、今年の日程は個人的な(というか主に仕事の)日程と相性が悪く、前売券購入で観られぬものもあったりした。

とはいえ、マイケル・チミノ特集では『ディアハンター』以外は観られて大満足(『ディアハンター』は日程的に困難だったし、昨年「午前十時」での好環境観賞が叶ったばかりだから素直にあきらめた)。『天国の門(デジタル修復完全版)』は今秋にシネマート新宿での公開も決まったらしいが、「ジャパン・プレミア上映」という看板に点った緊迫感は、同作の観賞には打ってつけの酩酊増進剤。『サンダーボルト』のボッロボロフィルムが放つ経年浪漫は、複製技術にも刻まれし「いまここ」が皆無へと向かう現在を相対化。ミッキー・ローク主演の『逃亡者』なんて怪作を、わざわざ本国からフィルム取り寄せて字幕をつけてまで上映する「どこまでも善良な気狂い」映画祭にはただただ感嘆、笑うしかない。

爆音映画祭は、今まで劇場観賞の機会に巡り会えずに見逃して来た作品との幸福な出会いの場としても重宝してる。今年で言えば『ゴダールのリア王』や『スキャナーズ』。フィルム上映が嬉しい前者、努力すればブルーレイ上映もかなり美しくなる実感の後者。いずれも暴力的な音が嬉々として響いて渡る狂宴ぶり。『千年女優』も恥ずかしながら初見だったりして。普段囲まれることのないタイプの客層に入り交じり、終了後の劇場内が奇妙な感動の渦につつまれている空気を吸えるという新鮮。

昨今のお気に入りコレクションが爆音ラインナップに組み込まれる幸せを噛み締めるというのも、もう一つの楽しみで、『わたしたちの宣戦布告』(これは入ると思ってた)や『4:44 地球最期の日』(爆音ソクーロフ的系譜:不在の存在感)、『湖畔の2年間』(爆音向き!と思っていたが、まさか今年観られるとは!)などは何度目かの再発見といった鉄板。

他にも、『キャリー』や『悪魔のいけにえ2』、『先祖になる』なども観賞したが、今年の個人的最優秀爆音作品は『ナチュラル・ボーン・キラーズ』だった。作中に溢れかえる音と狂気が、爆音で磨きがかかり、完全に観てる側までトランス状態。まさに「生まれ変わった」瞬間が連発される爆音最適傑出上映だったと思う。

『Playback』も爆音で観てみたかったし(日程的に不可能だった)、『フルスタリョフ、車を!』や『ラルジャン』は前売買ってのに仕事で行けずじまい。ま、今年のテーマは「一期一会もケ・セラ・セラ」(ただいま、決定)。会うもドラマ、会えぬもドラマ。


ところで、爆音映画祭初日(5月31日金曜)は銀座テアトルシネマの営業最終日だった。爆音映画祭のオープニング作品であった『天国の門』は奇しくも、銀座テアトルシネマが入っている銀座テアトルビルができる前にあった映画館「テアトル東京」で上映された最後の作品。銀座テアトルシネマ最後のロードショー作品が『使の分け前』というのも、天の思し召し!?


2013年5月19日日曜日

リヴァイアサン

今年のイメージフォーラムフェスティバルでも最注目作品だった『リヴァイアサン』。「ハーバード大学の感覚人類学研究所に所属する映像作家兼人類学者の二人(ルシアン・キャステイン=テイラー、ヴェレーナ・パラヴェル)による、漁船漁業の様子を極小カメラで捉えたドキュメンタリー」という説明だけで、興奮のやり場がない悦楽。



(本作は87分だが、最新作は360分らしい・・・)

「見たことのない映像」といった場合、そこには仕掛けの「大きさ」による圧倒がある。しかし、本作における「見たことのなさ」はむしろ足下にこそ転がっていたりする。その、近すぎる遠さこそが畏ろしく、麗しい。

人為による斬新に狎れた鑑賞眼も、剥き出しの生命が跋扈する様には興奮引き回しの刑に処せられる。喜んで。

無軌道の動線が遠近法を無化してくれる。この世界にはアングルが無数あること。そんな当然を自然に帰しもする。

画面に人間が映り込んだ瞬間、その画は凡庸と化す。見馴れ過ぎた人間の退屈さから、見ずに来た自然の生命を待望し続ける。安穏とした悦楽から遠く離れた未知なる領域での、彷徨。方向を見喪って初めて叶う、自然への奉公。見えない(見てない)ものにこそ潜む怪物(リヴァイアサン)が誘い出す神聖なる畏怖する気持ち。未踏は不可侵、未到の世界が見とうなる。

人間の視点(主体)からは捉えられぬ対象(客体の姿)が横溢するフレーム内。そこから沸き立つ無限のフレーム外。主体性の心地好い崩壊は、主体が世界へと没入する過程。蓄積されたパターンが無意味となる無力な類推。そこに円滑な認識はないが、円滑でなくてよい認識を許された精神は自由な享楽に耽るだろう。

2013年5月8日水曜日

イタリア映画祭2013 (5)

イタリア映画祭2013の後半戦では、4本を観る予定だった。

そのなかで最初に観たエミリアーノ・コラピ監督作『家の帰り道でSulla strada di casa)』の出来が出色で、ただ単に地味なだけの印象に傾きかけていた今年の映画祭にとって「台風の目」。そのいずれもが2012年作品であった今年のラインナップのなかで唯一2011年作品であるのも伊達じゃない。

映画祭のカタログにはエミリアーノ・コラピのインタビューが収録されているが、それを読むと彼が描きたかった〈世界〉がより鮮明に。「われわれは今、正しさと間違いの差が曖昧な、漠然としたかたちで示されることが多い時代を生きている。」確かにそうした〈世界〉の様相を象ろうとする欲求は、映画の語りとして定番の感もある。しかし、本作が興味深いのは、そうした善悪や正邪のボーダーレス化や両義性を〈社会〉の結果として呈示するのではなく、〈個人〉の過程に寄り添ってゆくことだ。そして、更に、そうした〈個人〉が抱える脆さの帰結として待ち受ける宿命的なメタモルフォーゼ。しかも、それが連鎖しながらも(絶望的な循環)、訣別を生み得る可能性(希望の兆し)までをも描こうとする姿勢に、個人としての人生における真摯さと作家として人間に向けられた誠実さが静かに込み上げてくる。(1年もかけたという編集の妙も大いに貢献)

監督が語るように、本作においては「アイデンティティ」の問題が根幹にある。その固持がうむ排他性はしばしば描かれるし、道徳的戒めに堕してしまうことも少なくない。しかし、本作においては一貫性の危機自体を描くというよりも、一貫性を前提としての揺らぎが描かれている。本人は理想や希望を十二分に理解しながらも、その理解に基づいた行動が互い違いの現実へと導いて行ってしまう。監督の言葉を借りるなら、「本来の自分に戻りたがっている」のである。

今年のイタリア映画祭には、経済危機を背景とした陰鬱な現実がこびりついた作品が実に多かった。本作も例外ではないのだが、監督が「経済危機は物語の背景だがテーマではない」と語っているように、現実に依存した語りに陥ることなく、普遍性へと昇華して語ることに成功しているように思われる。映画祭上映作品中、最も短い83分の作品でありながら、最も「劇的」であった本作。短篇やドキュメンタリー、CMなどで活躍してきたという監督の歴史が見事に昇華された劇映画。エミリアーノ・コラピ監督の今後が楽しみ。

(ちなみに、本作に主演したヴィニーチョ・マルキョーニの主演作「20 sigarette」は、多くの映画祭・映画賞で好評価を得るにもかかわらず、日本で紹介される機会が未だなく、残念だ。)


フランチェスカ・コメンチーニ監督の『ふたりの特別な一日(Un giorno speciale)』は、公開中の『ブルーノのしあわせガイド』(昨年のイタリア映画祭で「シャッラ/いいから」として上映)でデビューを飾ったフィリッポ・シッキターノと、本作でデビューを飾るジュリア・ヴァレンティーニの、ほろ苦くも甘酸っぱい(のを狙ったと思しき)シンデレラ風ラブコメ調ドキュメンタリー・タッチ系!?!?

昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペに選出された一本だという事実は驚愕で、『嘆きのピエタ』と『ザ・マスター』がデッドヒートを繰り広げ、ベロッキオやアサイヤス、テレンス・マリックまで名を連ねたコンペリストに入るべき一本とは到底思えず。コンペのイタリア映画枠なら、ダニエーレ・チプリの『それは息子だった』とベロッキオの『眠れる美女』だけで十分だったはずだろうに、プログラミング・ディレクターとして革新的な働き(というかメジャー感アップや中華系取り込みな拡大路線といった感じか)をみせたマルコ・ミュラーに変わっての前任者アルベルト・バルベラの復帰が意味するところとは。(でも、『嘆きのピエタ』をカンヌではなくヴェネツィアに出品させられたのは、彼のギドクへの働きかけに因るところが大きいんだとか歓迎する向きもあるし、今年からが本番かな。でも、授賞式がイタリア語のみで進行する[英語通訳が一切入らない]っていうのは、例年のことなのだろうか。或る意味、すごいな。)

私がフランチェスカ・コメンチーニの作品で観ているのは前作『まっさらな光のもとで』のみなので、それ以前の力強い作品群を知らないのは極めて残念ながら、どうやら今は迷走中、これからも先行き不安な状況のよう。映画祭カタログの解説によれば、フランチェスカは、ベルルスコーニの買春スキャンダルに際して退陣要求のデモやキャンペーンを展開した女性運動のネットワークの発起人のひとりだそうである。従って、本作の「肝」は、そうした背景に根ざしているのかもしれず、通俗的で軽薄な「ラブコメごっこ」や「観光(にすらなっていない退屈な見せ方だが)もどき」も、あえて琴線に触れるどころか掠りすらしないことを期待しての「からっぽ」だったのかもしれない。が、ルカ・ビガッツィのイマジネーションが虚しくイリュージョンとして浮かんでは消えていくもったいなさ(贅沢さ?)は、個人的には寂寞ばかりが増幅してゆく冗長な90分。
 
 
映画祭初日に仕事で観られなかった『赤鉛筆、青鉛筆』、そして『リアリティー』については次回。

2013年5月3日金曜日

イタリア映画祭2013 (4)

映画祭3日目には、『来る日も来る日も』以外にも2作品を観賞した。
(座談会も観たのだが、疲れからか、かなりの時間を睡魔にさらわれた・・・)


朝に観た一本は、ドキュメンタリー作品で実績のあるレオナルド・ディ・コスタンツォ監督による初の劇映画『日常のはざまL'intervallo)』。「劇映画」とはいえ、やはり出自からの緩やかな「流入」を体現するかのごとく、主役の二人には演技経験のない素人の若者を起用し、舞台も実際の廃墟(かつて精神病院だったらしい)における「様々な貌」を丹念に嘗めてゆく。情報的というか条件的には、明らかに極私的性向に適った作品に思えたが、今年のイタリア映画祭における序盤のやや陰鬱色にくるまれた作品群からの疲弊か、はたまた寝不足ゆえか、作品内時間に心地好く寄り添いながら観ることは叶わなかった。

主演の二人が演技未経験ということもあり、十分なワークショップを経ての撮影だったらしいのだが、そのプロセスが適正なものであったことは、作品としての「成立」が示している。鮮度を削ぐことはないのに、入念さが育む鮮やかさが其処此処に散らばっている。閉じられた〈内〉を泳ぎ回っている彼らの向こうに、〈外〉が常に睨みをきかせているという構図を、作品の成立事情がなぞらえる。まさに、劇映画にドキュメンタリーを投影させているかのよう。

撮影はイタリア映画稀代のヴィジュアリスト、ルカ・ビガッツィ。パオロ・ソレンティーノ作品における流麗な連続画の趣とは違い、『トスカーナの贋作』で見せた「たゆたう眼差し」が作中に細波を立て続けてる。誰の眼でもないのに誰かの眼。そんな不確かな確かさが居心地の悪さを演出しつつも、束の間のオアシスの「束の間」を常に強調している気がしてくる。

本作の上映終了後、ゲスト(編集を担当したカルロッタ・クリスティアーニ)が登壇し、Q&Aが始まった途端にすかさず挙手した中年女性がいた。「私は彼女(登壇したゲスト)のことは尊敬してますし、(これから言うことは)別に翻訳しないで好いんですけどね・・・」と不服露わな口調で切り出し、作品に対する具体的な意見をいくつが述べた後、「これは映画と呼べるんですかっ!?」「こんなものをイタリア映画祭でかける意味があるんですかっ!?」と憤然たる非難の声を上げていた。「アンケートに書いても、どうせ有耶無耶にされるだけだろうから、ここで言わせてもらうわ」的なエクスキューズも添えつつ。途中、「素晴らしい作品だった!」と客席から声があがるも、その女性は「それは、あなたにとっては・・・」と全く意に介さず、壇上では戸惑うゲストと通訳と司会の三名。そこで、「主催者として説明させて頂きますと・・・」とこれまで完全機能不全だった司会の男性が初めて働いた。が、「イタリア映画祭の趣旨」よりも「各国の映画祭で評価された事実」が結論の中心になってしまっていたようにも思える発言内容には、正直ちょっと残念だった。(が、まぁ、あの状況で冷静にあの程度喋れれば上出来なのかもしれないけれど・・・ハイパー上から目線ですみません)

一瞬にして物々しい空気が立ち籠めた有楽町朝日ホール。気まずさと気詰まりが充満した場内に、休日の朝っぱらから観に来ている殊勝な観客の長閑は木っ端微塵。私も「あちゃ・・・」と「うざ・・・」で憂いが心に広がりかけもしたのだが、実は結果オーライな展開を見せる面白い側面も。そのやりとりの直後に勢いよく手を挙げた壮年女性が上品に本作への賛辞を述べると、場内から指示する拍手。上映終了後のどんよりとした停滞ムードから一転、妙な活気がホールを包む。

品位のない独善女性の「抗議」は最初こそ許し難く思ったものの、終わってみれば適度な起爆剤として作用してしまい、本人の意に反し(?)、「こういう作品こそ映画祭で上映されるべき」的結論が呈されたようにも思える一幕だった。(ちなみに、その女性の声や話し方は聞き覚えがあったので、その手の常連さんなのかもしれない。)



3日目の最後に上映された『フォンターナ広場 イタリアの陰謀Romanzo di una strage)』は、「『輝ける青春』のジョルダーナ監督最新作」との触れ込みが奏功してか、前売完売(たしか2回目の上映分も)の大入り。しかし、イタリアの実録物を甘くみてはいけない。2年前のイタリア映画祭で観賞した『われわれは信じていた』での辛い経験を教訓に、今回は事前にバッチリ「予習」して臨んだ私。(といっても、映画祭カタログに収録されている本作の詳細解説[立命館大学の教授が史実としての背景と本作の登場人物や展開をわかりやすく説明してくれている]を熟読しただけだけど)

予習バッチリで受ける授業があっという間に終わるように、瞬く間に駆け抜けた129分の現代イタリア一大叙事詩。これだけ大きく複雑な背景をもった物語なら、それこそ前後編的な二部作や超大作として仕上げるという選択肢だって必然かつ有力だったはず。しかし、それをこれだけ「コンパクト」にまとめる(というよりも凝縮する)手腕は爽快ですらある。練りに練られた脚本には無駄がないどころか、省略から生まれる戦慄の横溢と真理の氾濫は、物語を緩急でなく急急で攻め抜くダイナミズムを発動させる。編集は、近年のベロッキオ作品を手がける名手フランチェスカ・カルヴェッリだけに、その職人技は1mmの抜かりもない。『ソーシャル・ネットワーク』と『裏切りのサーカス』をかけあわせたフィルム・ノワールといった趣だ。(まさに陰影まみれの[ゴッドファーザー的]暗黒室内・暗黒相貌を見事に重ねてゆく撮影も匠の仕事。)

二人の対照的な立場の「個人」を主軸に物語は語られる。体制側と反体制側。しかし、その二人に共通するもの(理想)こそが、彼らを破滅に導いてしまう。社会(現実)にとって必要なのは暴力であり、思想(理想)などではなかったのだ。(「暴力はあるが、思想はない」とは、冒頭で語られる台詞)

個人を主軸に「ドラマ」を魅せながら、社会に対する具体的非難でも漠然とした批判でもなく、構造が孕む犠牲と排除の構造を浮かび上がらせる徹底真摯な一本だ。

最後に顛末を語るテロップのなかで目にした、「(爆殺事件の)裁判費用は、犠牲者に請求された」という衝撃の事実。徹頭徹尾。それがイタリアのあらゆる「強さ」なのだろう。

ちなみに、厖大な情報量が矢継ぎ早に繰り出される会話劇の側面をもった本作の字幕は、実に読みやすく入って来やすい素晴らしい翻訳だったと思う。(イタリア文学などの翻訳家、鈴木昭裕氏によるもの)

2013年5月2日木曜日

SHADOWLAND

GWといえば、2つの「イ」フェスで毎年スケ管大童。イタリア映画祭の前売券発売日には、イメージフォーラム・フェスティバルのプログラムやスケジュールは未発表だったりするので、調整つく範囲で納得する大らかホリデイズ心がけ。今年のイメフォ・フェスも回数券(4回券)を買って、その分だけ観るような厳選スタイルという名の自主規制。

ようやく遅ればせながらの参戦となった1本目は、ジョナス・メカス「ウォールデン」(1969)。記号と記述と記録と記憶。映像が世界を再構築、脱構築。まさに至宝で至福な至上の時間。目眩く180分は、時間が溶解する体験。パークタワーホールのあの空間であの椅子で、180分間を難なく観賞できちゃう驚異。いや、あの「解放感」(椅子は動かせるし[いや、動かしちゃいけないですけどね]、後ろは広いスペース空いてて、疲れたり眠たくなったらラジオ体操でもしながら観られるし[いや、しませんけどね])こそが「ウォールデン」にはぴったりだったのだ。平日の午前中からの上映だというのに、そこそこの動員で、さすがのメカス人気を再確認。とはいえ、前方ブロックが人気で、後方ブロックは閑散として実にまったり観られる極私的絶好空間に仕上がっていた。(正直、有楽町朝日ホールより好いかも・・・。朝日ホールは椅子云々もだけど、とにかく前後左右のスペースが狭すぎて息苦しいし、隣りに人がいると「身動きとれない」感が半端なかったりするからね。その点、パークタワーホールなら、好くも悪くもフレキシブル!な空間だから。)

180分を完走してフラフラになるかと思いきや、むしろ止め処ないアドレナリン噴出的恍惚酩酊状態で場内明るくなるもんで、さすがに即座に現実に還る自信もなくて、ふらっとインスタレーション空間に立ち寄った。すると、そこに待っていた映像がまた、静かに別種のささやかな至福を提供してくれた。

五島一浩「SHADOWLAND」には魅了され、2回続けて観てしまったほど。14分の短篇で、夜の街角の風景をおさめた映像に、3D加工が施されてる(3Dメガネを掛けて観るのです!メガネは展示室の入口にあり、メガネonメガネでも大丈夫なタイプ)。劇映画で用いられる3D効果とは一味違った、立体感でも奥行感でもないレイヤー感な透明感。幾重もの影による多中心流動型協奏曲。「在るもの」による三次元というより、「在るだろうもの」が三次元化したようなセンス・オブ・ワンダー。

私はとても見入ってしまっていたのだが、他に立ち寄った人たちは皆数分程度で立ち去っていったので、もしかしたら誰もが面白がるような作品ではないのかもしれないけれど、落ち着いてじっくり見始めると他では味わいがたい世界の体現者になれるかも。(結局、1回目の後半からはずっと一人で観てたという贅時間。)

というわけで、もしパークタワーホールのイメフォフェス作品を観る機会があれば是非、ホール脇通路奥の小部屋で「SHADOWLAND」に誘われてみてください。

2013年5月1日水曜日

イタリア映画祭2013 (3)

3日目にして漸く映画祭らしい時間が動き出す。観る側(つまり、私自身)の問題なのかもしれないが、それは最近の自分にとって現実の縛りがより堅固なものだという証左である故に、解かれた途端に遙かなる遠心力へと転化する。

まぎれもない傑作よりも、愛くるしい小品の方が永らく心に留まり続け、育まれ、実を結ぶ。

パオロ・ヴィルズィ最新作『来る日も来る日もTutti i santi giorni)』は、そんな愛おしさで充ち満ちた。それが何かは説明できずとも、それは確かにそうなんだと思えるイタリア流人生賛歌。恋だの愛だのを逃げ口上に利用しない、関係よりも個人に対する人間賛歌。それは必竟するに、社会からの離反と同義なはずなのに、パオロ・ヴィルズィ作品が見届けたいのは、拮抗や葛藤よりも(衝突や痛手よりも)、受容と抱擁(融和と能動)。

映画祭のガイド的あらすじでは触れられていないが(意図的?)、付き合い始めて6年になる男女の不妊(治療)という問題が物語の現実的中心に据えられている。とはいえ、彼らは二人とも規格外的な生き方と信条を貫いてきたという背景があり、だからこそ「子供が欲しい」というスタンダードへの切望は、多義的で複雑な心情を「収斂」するための片道切符。しかし、せっかく引き返さぬ決意をしても、現実は容易く微笑まない。理想が現実においついたとき、現実は理想の遙か先に逃げていた。普通は逆の関係が、反転したところ叶わぬという真実。個人(実像)と社会(虚像)の関係に、どこか似ている。

自らのスタイルを貫いてきた二人が、社会が承認するスタイルへの参画を画策するためには、二重のハードルを越えねばならない。一人(個人)として、そして二人(家族)として。社会的個人が社会的最小共同体として結合して初めて与えられる、社会という大家族の一員たる資格。その絆につながれる安堵感。それを社会は「幸福」と喧伝してる。そこには強固な説得力も正当な根拠もあり余るほどある。でも、だからこそ、パスポートを発行されぬ者への仕打ちも無自覚で、至って「自然」の法則だ。極めてナチュラルなセレクション。社会的自然淘汰に抗う唯一の希望、それこそが個性。個体性、固着した現実、隆起する真実。

そんな闘争めいた苦悩が描かれているわけではないのだが、どこまでも自らの謳歌に貪欲たろうとする真摯さの強靱さは、社会に同化できぬどんな〈異質〉のなかにだって宿って止まぬ普遍の愛(哀)を代弁してる。〈個〉を描こうとして、各々の対照性や差異性を強調して得意げに特異を論ったりするのではなく、どんなに〈孤〉になり得ようとも、切り離せない普遍性が磁力を発揮する。愛の磁場には慈愛が走る。社会に磁場がなかろうと。

社会は個人の涙を拭いはしないけど、個人だって社会のために涙は流さない。いつだって涙は自分のために流れてしまう。誰かが流させるのではなく、誰かを想った自分が流す。だから、君の涙を拭ったりしない。泣かないでなんて絶対言わない。僕に言えるのは、せいぜいこのくらい。

「こうなったら二人で泣こう」



※原題の「TUTTI I SANTI」とは「諸聖人の日(万聖節)」と呼ばれるカトリック教会の祝日。「GIORNI」は「日々」といったような意味のようなので、主人公グイドの殉教者マニアな側面と、物語の内容がかけられているのかも。ちなみに、英題は「Every Blessed Day」。「every」は当然「day」にかかっているのだろうけれど、映画を観てみると「every」が一人一人にも思えて来る。どんな人の、どんな一日にも・・・。ちなみに、「諸聖人の日」は11月1日らしいのだが、今年のその日は金曜日。本作を劇場公開するなら初日にもってこい。11月1日公開、熱望。

2013年4月29日月曜日

イタリア映画祭2013 (2)

2日目には個人的には最も期待していた一本が早くも登場。近年のベロッキオ作品における魅惑の撮影を担当しているダニエーレ・チプリ監督最新作『それは息子だった』(単独で監督するのは初らしい)。昨年のヴェネツィアでは、彼が撮影を担当したベロッキオの『眠れる美女』と共に2作がコンペに参加。(その2作は、音楽・編集・美術なども、同じスタッフが双方に関わっていたりもする。)『それは息子だった』では金のオゼッラ賞(撮影賞)を受賞。また、主人公(トニ・セルヴィッロ)の息子タンクレディを演じたファブリツィオ・ファルコ(『眠れる美女』にも出演)がマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞してもいる。

パレルモの貧困地区に住む一家の娘が、マフィアの抗争に巻き込まれ死亡。マフィアの犠牲者へ多額の賠償金を支払うという政府の制度を知った父は、申請。しかし、受け取るまでに随分と時間がかかるうち、高利貸から借金してしまい、受け取った大金も利子の支払いに相応分が割り当てられ、残った金で買ったものというのが・・・黒のベンツ。

見事に決まった「画」のひとつひとつが御伽噺的な空気を演出。錆びた喜劇とでも言いたくなるような、ザラつく感覚がまとわりつく被膜の向こうに聞こえる哄笑。しかし、諷刺といった趣の大上段は其処にはなく、悲哀を滑稽に描くだけの悪戯でもない。郵便局のロビーで身の上話を語る「ストーリーテラー」としての男が進行役を引き受けながら、何処か夢想であるような浮遊感で進むお話は次第に、過剰に現実的だった人間たちこそが夢想的に刹那の享楽に溺れていたという皮肉を露わにする。そこで犠牲になる無辜なる無垢。大きな世界の歪みはしわ寄せの果て、必ず個人の犠牲を強いに来る。

マフィアの暗躍の影には、国家との「共犯」が。国家の背後には当然、国際関係上の「事情」がある。(冷戦時、アメリカは反共勢力としてのマフィア復活を図ったとも言われている。)マフィアの犠牲者への賠償金は、償いなのか、謝礼なのか。後者の様相を裏付けるかのように、父は娘を悼まずベンツの傷みに痛みを覚え。そして今、家族は集団保障の生贄に、無垢なる存在を差し出してしまう。社会の不条理は、より大きな世界でも、より小さな世界でも、蝕む一途。

たびたび現れる三角螺旋階段。序盤にタンクレディと向き合い諭す男(誰だったか失念)との間に現れる、父。「三人」が並んだり歩いたりする場面もしばしば。多数決が可能となる「3」。どう足掻いても「1」の側に勝ち目はない。国家とマフィアが組めば、一般市民に勝ち目はないし、社会が「正常」を選んだら「異常」に反論の権利はない。



家の主たち』も未知数の期待に溢れ、臨んだ一本。監督のエドアルド・ガッブリエッリーニは22歳でパオロ・ヴィルズィに見出され(2008年の「Ovosodo」がデビュー作のよう)、役者として活躍。ヴィルズィ作品のみならず、最近では『ミラノ、愛に生きる』でティルダ・スウィントンが恋に落ちる息子の友人シェフを好演。2003年に初監督作を発表していたが、そちらは主演も兼ねていたようで、10年近くぶりにメガホンをとった『家の主たち』でいよいよ本格的な監督業に進出といった印象。おまけに、主役の職人兄弟をヴァレリオ・マスタンドレアとエリオ・ジェルマーノが演じ、彼らが招かれる豪邸の主人役は大御所歌手のジャンニ・モランディ、その妻をヴァレリア・ブルーニ・テデスキが演じるという豪華な出演陣。ちなみに、来日ゲスト団のなかで最年少(1975年生まれ)の彼は、座談会ではやたらと剽軽で(上映後のQ&Aでは、落ち着いた「監督然」だったが)、中座したかと思えばガム(?)などを他の登壇者に配り始めたり、『ミラノ~』でしか知らなかった故に余計ギャップが新鮮だった。

さて、作品自体は正直それほど魅了されぬままあっさり幕切れ。テーマはありがちとは言え、繰り返し語られるべきものだし、それを成立するための場所や空気もそれなりに醸成されてはいたものの、あまりにメイン4人の存在感が大きすぎた為か、もう一つの軸となるべき地元の村人たちの「表現」が妙に稀薄というか軽薄にすら思えてしまい、そんなアンバランスさが「あるべき窒息」に漏れを生じさせてしまう。

『M★A★S★H マッシュ』の「Suicide Is Painless」を使用したのは敬愛するロバート・アルトマンに対するリスペクトの気持ちを表したかったからと語っていたし、ロケハンの前にデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」を観ていたから似たような場所を探したとも言っていた。どうやらアメリカのインディペンデント系作家が好きなようだ。私も観ながらどことなく『ファーゴ』を想起したりもしたし。

確かに、クライマックスのモランディのライブと「噴出」が交錯するシークエンスがもつ(潜在的)最高潮は、アルトマンの群像劇でしばしば見受けられる高揚感に似ている(を模している)気がしなくもないし、閉じ方やその後の「花火」などには、「現代映画」としてのアメリカ映画が示す矜持の刻印的収斂と通ずるものを感じたり。そうした趣向が彼自身のオリジナリティとの充実した結合なり融和が可能となれば、今後が楽しみかもしれない。
 

2013年4月27日土曜日

イタリア映画祭2013 (1)

世間じゃ連休一日目。私は朝早うから、お仕事疾風怒濤お昼まで。何とか切り上げ、いざ有楽町。向かう車中じゃ転た寝上等。座り心地の悪さは折り紙付きの、有楽町朝日ホールで疲労と睡魔の昏睡観賞・・・。そんな幕開け情けない、今年のイタリア映画祭。

1本目は、『綱渡り(Gli equilibristi)』。オープニングから、まさに「綱渡り」しているかのように浮遊するカメラ。屋内を遊泳した後に、屋外へ出ると上空高くより真下を見下ろす眼差しは、まさに綱渡り。前を向いているうちには気づかぬし、気づかぬからこそ知らぬが仏。楽観こそは健全足許、悲観の兆しは踏み外しまでのカウントダウン。

上映後、イヴァーノ・デ・マッテオ監督は「綱渡りとはまさに、現代社会における我々のおかれた状況だ」と語っていた。「その下にはネット(社会福祉)があるから、一見落ちても大丈夫に思えるが、その網の目は実に粗く、その穴から更に奈落へ落ちぬとは限らない」

ドキュメンタリー畑で経験を積んできた監督らしい、折り目による作劇よりも流れについてくる展開。なかなか興味深い語り口ながら・・・そういった作風に前述の通りの疲弊で臨むとなると、当然無謀。いやはや、観る側もまさに「綱渡り」をしていた感じ。いつ(寝に)落ちるかわからぬスリリング。たとえ寝たとしてもスッキリしない朝日ホールの椅子クオリティ。朝日ホールじゃなきゃ、割り切った転た寝だって出来たかもしれないけれど、あの椅子で両隣にも人が居るとなると、転た寝すらままならない。


2本目は、『素晴らしき存在(Magnifica presenza)』。前作『あしたのパスタはアルデンテ』が日本でもスマッシュヒットとなった、フェルザン・オズペテク監督最新作。『ぼくたちの生活』ではカンヌで男優賞も受賞したエリオ・ジェルマーノが主演。序盤は場内も和やかな笑いにしばしば包まれて、背景を蔽ったベールがめくれてゆくにつれ、しっとりとして静寂に包まれる。モスクワ国際映画祭では観客賞を受賞しているらしく、なかなかポピュラリティも備わっていそう。が、しかし。個人的には乗り切れないまま終了。主人公の造形にいまいち入ってゆけず・・・と自覚していたつもりだが、正直物語を十分咀嚼できてる自信もない。やっぱり、今日は観賞に耐えうるコンディションじゃなかったのかも。それでなくとも、映画祭での観賞には通常より緊張感が強いられる(日頃、混み混みのなかで映画観ることほとんど皆無なもので)。おまけに、有楽町朝日ホールとなれば、身体的なコンディションも相当な状態が求められるというもので。


イタリア映画祭は、日本で数ある映画祭や特集上映のなかでも、私のなかではかなり上位に位置する優良映画祭。その主因は客層の穏やかさや上品さ、従って落ち着いてみられる雰囲気が約束されている。のはずだったのに、今日は1本目で、後ろの客にたびたび背もたれキックされるので、振り返ってみると、報復するかの如き強打をされるという悲劇に遭った。怒りというよりも、イタリア映画祭なのにこんな下卑た客が・・・という哀しみに。そんな寂しさが尾を引いたりもしてしまったのかも。

明日は気を取り直して、リスタート(リセット?)したいもの。

※そうそう、今年もやっぱりフィルム上映が基本みたい。今日の2本もフィルム上映。
    いまや稀少で貴重なフィルム上映を堪能できるのも、イタリア映画祭の醍醐味になっている。

※フィルム上映といえば、もうひとつ嬉しいニュース。
   イタリア映画祭会場に、ベロッキオの『眠れる美女』のチラシがあった。
   そして、チラシの作品情報欄には「35mm」の文字が!フィルムでの観賞が叶いそう!
   (昨年の東京国際映画祭では残念画質のデジタル上映。
     暗い場面が多く、フィルムで観てこそな作品。エスパース・サロウ、信用できる!)
 

2013年4月12日金曜日

若き警官 Le Petit Lieutenant

アンスティチュ・フランセ東京にて開催中の特集上映「都市の映画、パリの映画史」にて、グザヴィエ・ボーヴォワ監督作「若き警官(Le Petit Lieutenant)」を観た。俳優としても活躍しているグザヴィエは、寡作ながら監督としての評価も高く、カンヌでグランプリ受賞の『神々と男たち』は日本でも劇場公開された。東京国際映画祭(ワールドシネマ部門)で初めてみた同作を、震災直後のシネスイッチ銀座で再見したときの慄然にも似た感応は、今もって私のなかで格別に特別な体験として焼きついている。

日本でなかなか紹介される機会の少ないグザヴィエ・ボーヴォワの監督作が上映されるとあらば、英語字幕だろうが観に行かずにはいられない。本作の前作にあたる『マチューの受難(Selon Matthieu)』も不思議な浸透度で迫ってきた作品だったが、それにも似た、ちょっとだけの独特さが強烈な独特さに積み重なってゆく時間の堆積に魅了が未了な深化を遂げる。

本作でセザール賞を受賞したナタリー・バイの静かなる哀しみに包まれた存在感が抜群なる浸潤。いわゆる「抑えた演技」などとは異質の、既にありったけの哀しみ(という感情)が絞り取られた後の精神世界が濛々と立ち籠めているかの如き佇まい。脇を固める面々もまた同様に機微すらこらえた寡黙な表情で、劇的な展開を際立たせる沈黙を守り続けている。『マチューの受難』にも似た終盤の突如たる疾走が、離陸的カタルシスとしてアンビバレントな昂揚を遂げるラストは、グザヴィエ・ボーヴォワ監督作ならではの確かな刻印に思えてくる。

私が観た彼の3作品はいずれも、言葉に拠らずに身体で語る場面に強く心を揺さぶられた。『マチューの受難』ではラストの暴走と抱擁。『神々と男たち』では「白鳥の湖」が流れる、最後の晩餐。そして、本作ではナタリー・バイが電話で報せを受けて卒倒する瞬間。体内を蠢く感情が身体から滲み出てくるとき、そこには映画的破壊力の最たるものが宿ってる。



撮影は、グザヴィエ・ボーヴォワとは長編第二作目から継続して組んできているカロリーヌ・シャンプティエ。今やフランスを代表する撮影監督の一人となった彼女は、公開中の『ホーリー・モーターズ』でも撮影を担当している。ちなみに、本作にはカロリーヌ自身も出演。ナタリー・バイと「若き警官」が列車で移動する際に、彼が所持する拳銃を見て一瞬驚く女性客の役を演じていたようだ。(ちなみに、セーヌ川から上がった遺体を見に行こうとしている野次馬少年二人は、グザヴィエ・ボーヴォワの息子らしい。)

本作のプロデューサーは、マルティーヌ・カシネッリパスカル・コシュトゥー。そう、ジャック・オディアール作品のプロデューサー・コンビ。偶々、前日に『君と歩く世界』を観たこともあり、奇遇。Why Not Productions作品でおなじみのパスカルは、ボーヴォワやオーディアール以外にも、ケン・ローチ(『エリックを探して』『ルート・アイリッシュ』)やアルノー・デプレシャン(『クリスマス・ストーリー』『Jimmy Picard(今年公開予定の新作)』)等々の作品を手がけている最注目プロデューサーの一人。

「若き警官」を観た今日は、前の回でジャン・ユスターシュの傑作『ママと娼婦』(狂喜乱舞!)が上映され、次の回にジャン・ルノアール『ランジュ氏の犯罪』が上映されるという、とんでもない3本立てに酩酊し通しの一日だった。が、『ママと娼婦』は満席近くなり、『ランジュ氏の犯罪』では立ち見まで出る盛況ぶりながら、「若き警官」の観客は20名程度。シネフィル・トーキョーの或る種の傾向顕著な一日。