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2013年5月13日月曜日

イタリア映画祭2013 (6)

傑作『もうひとつの世界』が「Viva! イタリア」なる特集で来月劇場公開されるジュゼッペ・ピッチョーニ監督の最新作『赤鉛筆、青鉛筆』では、マルゲリータ・ブイ(『もうひとつの世界』にも主演)が現実的(だが、そんな自分に懐疑的でもある)校長を、リッカルド・スカマルチョが熱意溢れる臨時教員を、ロベルト・ヘルリツカが情熱も希望も失って久しい美術教師を演じている。一見、意欲も希望も潰えた生徒ばかりが埋めつくしているかのような高校が舞台。

欧米(と一括りにするのは誤りかもしれないが)の教師視点の(というか、教師が主人公の側にある)学園ものを見ていて思うのは、日本(というかアジア?)とは明らかに異なった「職業」なのだとしばしば痛感してしまう。社会的な位置づけや、従事する人間の認識などにも顕著だが、それはおそらく「学校」という場に期待されるもの(あるいは、期待しないもの)が明らかに異なるからだろうと思う。例えば、現在公開中の『ブルーノのしあわせガイド』で描かれていた教育観と本作のそれは通じるところがある。例えば、義務の遂行を怠った者を安易に「慈悲」深く救済しないという主張がある一方で、教養を育む場として学校に期待すべき最上の機能は文化的な薫陶であるという思想である。親子もどき友達もどきな人生相談歓談雑談な戯れ教師が長きに渡ってもてはやされてきた日本の学園ものとは明らかに違う。しかし、最近の日本映画やドラマにおいては、随分と様変わりしてきているという現状もある。とはいえ、ロベルト・ヘルリツカ演じる教師が説く芸術の深奥に魅せられる生徒の好奇心に、最たる可能性を見出そうとする本作の姿勢に比すれば、日本において学校に期待される役割の卑小さを感じずにはいられない。

三人の教師と数名の生徒を軸に語られる各エピソードは、そのひとつひとつは見応えがそれなりにあるものの、それらが縒り合わさって浮かび上がるシナジーは余りに稀薄で、そうした散漫さが現代の高校における空気とでも言わんとしているならば正攻法かもしれないが、作品自体が迫ってくる力を失わせているとも言える。ただ、そうした分解気味な本作において、ラストの「静寂」(管理)と「喧噪」(解放)、そしてそれらが生む機微に想いを馳せる穏やかな幕引きには、ピッチョーニ監督の底力を感じたりもした。

それにしても、ロベルト・ヘルリツカの存在感は格別だ。昨年のイタリア映画祭で上映された『七つの慈しみ』(期待の新鋭双子監督ジャンルカ&マッシミリアーノ・デ・セリオ初の長編劇映画)における破格の魔力に圧倒されたこともあり、その残響を浴びているかのような本作だった。(ベロッキオ『夜よ、こんにちは』で誘拐されるアルド・モロ首相役での名演は言わずもがな。)



最終日、最終回では、マッテオ・ガッローネ監督の『リアリティー』が特別上映された。私は昨年の東京国際映画祭で観て完全に魅了されていたので、今回もとりあえず前売券を購入。しかし、実は、今回再見しようと思ったのには理由があって・・・。それは、イタリア映画祭での上映作品は基本的に「フィルムで上映される」という事実から勝手に「『リアリティー』がフィルムで観られる!」と勘違いしてしまっていたからなのです。本当に単純で短絡的過ぎました。上映が始まり、「デ、デジタルだ・・・」となるまで、フィルムで上映されることを信じて疑わぬ馬鹿でした。考えてみれば、東京国際映画祭で上映したデジタルデータがあるにも関わらず、わざわざフィルムを取り寄せるわけないではないか・・・実に浅はかな淡い期待に胸躍らせてしまったものだ。そんな失意も手伝ってか、有楽町朝日ホールのエコノミークラス以下な身体環境と、遠くて小さいスクリーン、そして(連日堪能させてもらい続けたフィルムの奥行に比べると)没入を拒絶されるかのようなデジタルの画には、どうしても耐えがたい思いが噴出し、序盤で途中退場。東京国際映画祭での鑑賞が自分なりに「見事」だっただけに、わざわざ劣る環境で再見する価値も見出せず、再見の楽しみはひとまずおあずけに。


今年のイタリア映画祭では、上映作品の多くに経済危機の影が見受けられ(内容面で)、「休暇に銀座で観る」といった背景に些かそぐわぬ空気が醸され続けた有楽町朝日ホール。(個人的には陰鬱作品も好きだけど。)そうした傾向も手伝いつつ、ここ数年で慣れてきた(というか、自分なりに攻略の域にすら達した気でいた)有楽町朝日ホールに対し、超絶苦手意識が爆発寸前になりつつある兆し、厭な予感。来月にはフランス映画祭。秋にはフィルメックス。彼処に足を踏み入れがたくなると、貴重な作品との邂逅がかなり阻まれてしまう。(まぁ、フランス映画祭は有料試写会的になりつつあるけれど) (いつも座るところではない)ブロックとか諸々変えてみようかな。そういう問題ではなさそうだけど、気が紛れたりするかもしれないし。

2013年5月8日水曜日

イタリア映画祭2013 (5)

イタリア映画祭2013の後半戦では、4本を観る予定だった。

そのなかで最初に観たエミリアーノ・コラピ監督作『家の帰り道でSulla strada di casa)』の出来が出色で、ただ単に地味なだけの印象に傾きかけていた今年の映画祭にとって「台風の目」。そのいずれもが2012年作品であった今年のラインナップのなかで唯一2011年作品であるのも伊達じゃない。

映画祭のカタログにはエミリアーノ・コラピのインタビューが収録されているが、それを読むと彼が描きたかった〈世界〉がより鮮明に。「われわれは今、正しさと間違いの差が曖昧な、漠然としたかたちで示されることが多い時代を生きている。」確かにそうした〈世界〉の様相を象ろうとする欲求は、映画の語りとして定番の感もある。しかし、本作が興味深いのは、そうした善悪や正邪のボーダーレス化や両義性を〈社会〉の結果として呈示するのではなく、〈個人〉の過程に寄り添ってゆくことだ。そして、更に、そうした〈個人〉が抱える脆さの帰結として待ち受ける宿命的なメタモルフォーゼ。しかも、それが連鎖しながらも(絶望的な循環)、訣別を生み得る可能性(希望の兆し)までをも描こうとする姿勢に、個人としての人生における真摯さと作家として人間に向けられた誠実さが静かに込み上げてくる。(1年もかけたという編集の妙も大いに貢献)

監督が語るように、本作においては「アイデンティティ」の問題が根幹にある。その固持がうむ排他性はしばしば描かれるし、道徳的戒めに堕してしまうことも少なくない。しかし、本作においては一貫性の危機自体を描くというよりも、一貫性を前提としての揺らぎが描かれている。本人は理想や希望を十二分に理解しながらも、その理解に基づいた行動が互い違いの現実へと導いて行ってしまう。監督の言葉を借りるなら、「本来の自分に戻りたがっている」のである。

今年のイタリア映画祭には、経済危機を背景とした陰鬱な現実がこびりついた作品が実に多かった。本作も例外ではないのだが、監督が「経済危機は物語の背景だがテーマではない」と語っているように、現実に依存した語りに陥ることなく、普遍性へと昇華して語ることに成功しているように思われる。映画祭上映作品中、最も短い83分の作品でありながら、最も「劇的」であった本作。短篇やドキュメンタリー、CMなどで活躍してきたという監督の歴史が見事に昇華された劇映画。エミリアーノ・コラピ監督の今後が楽しみ。

(ちなみに、本作に主演したヴィニーチョ・マルキョーニの主演作「20 sigarette」は、多くの映画祭・映画賞で好評価を得るにもかかわらず、日本で紹介される機会が未だなく、残念だ。)


フランチェスカ・コメンチーニ監督の『ふたりの特別な一日(Un giorno speciale)』は、公開中の『ブルーノのしあわせガイド』(昨年のイタリア映画祭で「シャッラ/いいから」として上映)でデビューを飾ったフィリッポ・シッキターノと、本作でデビューを飾るジュリア・ヴァレンティーニの、ほろ苦くも甘酸っぱい(のを狙ったと思しき)シンデレラ風ラブコメ調ドキュメンタリー・タッチ系!?!?

昨年のヴェネツィア国際映画祭のコンペに選出された一本だという事実は驚愕で、『嘆きのピエタ』と『ザ・マスター』がデッドヒートを繰り広げ、ベロッキオやアサイヤス、テレンス・マリックまで名を連ねたコンペリストに入るべき一本とは到底思えず。コンペのイタリア映画枠なら、ダニエーレ・チプリの『それは息子だった』とベロッキオの『眠れる美女』だけで十分だったはずだろうに、プログラミング・ディレクターとして革新的な働き(というかメジャー感アップや中華系取り込みな拡大路線といった感じか)をみせたマルコ・ミュラーに変わっての前任者アルベルト・バルベラの復帰が意味するところとは。(でも、『嘆きのピエタ』をカンヌではなくヴェネツィアに出品させられたのは、彼のギドクへの働きかけに因るところが大きいんだとか歓迎する向きもあるし、今年からが本番かな。でも、授賞式がイタリア語のみで進行する[英語通訳が一切入らない]っていうのは、例年のことなのだろうか。或る意味、すごいな。)

私がフランチェスカ・コメンチーニの作品で観ているのは前作『まっさらな光のもとで』のみなので、それ以前の力強い作品群を知らないのは極めて残念ながら、どうやら今は迷走中、これからも先行き不安な状況のよう。映画祭カタログの解説によれば、フランチェスカは、ベルルスコーニの買春スキャンダルに際して退陣要求のデモやキャンペーンを展開した女性運動のネットワークの発起人のひとりだそうである。従って、本作の「肝」は、そうした背景に根ざしているのかもしれず、通俗的で軽薄な「ラブコメごっこ」や「観光(にすらなっていない退屈な見せ方だが)もどき」も、あえて琴線に触れるどころか掠りすらしないことを期待しての「からっぽ」だったのかもしれない。が、ルカ・ビガッツィのイマジネーションが虚しくイリュージョンとして浮かんでは消えていくもったいなさ(贅沢さ?)は、個人的には寂寞ばかりが増幅してゆく冗長な90分。
 
 
映画祭初日に仕事で観られなかった『赤鉛筆、青鉛筆』、そして『リアリティー』については次回。

2013年5月3日金曜日

イタリア映画祭2013 (4)

映画祭3日目には、『来る日も来る日も』以外にも2作品を観賞した。
(座談会も観たのだが、疲れからか、かなりの時間を睡魔にさらわれた・・・)


朝に観た一本は、ドキュメンタリー作品で実績のあるレオナルド・ディ・コスタンツォ監督による初の劇映画『日常のはざまL'intervallo)』。「劇映画」とはいえ、やはり出自からの緩やかな「流入」を体現するかのごとく、主役の二人には演技経験のない素人の若者を起用し、舞台も実際の廃墟(かつて精神病院だったらしい)における「様々な貌」を丹念に嘗めてゆく。情報的というか条件的には、明らかに極私的性向に適った作品に思えたが、今年のイタリア映画祭における序盤のやや陰鬱色にくるまれた作品群からの疲弊か、はたまた寝不足ゆえか、作品内時間に心地好く寄り添いながら観ることは叶わなかった。

主演の二人が演技未経験ということもあり、十分なワークショップを経ての撮影だったらしいのだが、そのプロセスが適正なものであったことは、作品としての「成立」が示している。鮮度を削ぐことはないのに、入念さが育む鮮やかさが其処此処に散らばっている。閉じられた〈内〉を泳ぎ回っている彼らの向こうに、〈外〉が常に睨みをきかせているという構図を、作品の成立事情がなぞらえる。まさに、劇映画にドキュメンタリーを投影させているかのよう。

撮影はイタリア映画稀代のヴィジュアリスト、ルカ・ビガッツィ。パオロ・ソレンティーノ作品における流麗な連続画の趣とは違い、『トスカーナの贋作』で見せた「たゆたう眼差し」が作中に細波を立て続けてる。誰の眼でもないのに誰かの眼。そんな不確かな確かさが居心地の悪さを演出しつつも、束の間のオアシスの「束の間」を常に強調している気がしてくる。

本作の上映終了後、ゲスト(編集を担当したカルロッタ・クリスティアーニ)が登壇し、Q&Aが始まった途端にすかさず挙手した中年女性がいた。「私は彼女(登壇したゲスト)のことは尊敬してますし、(これから言うことは)別に翻訳しないで好いんですけどね・・・」と不服露わな口調で切り出し、作品に対する具体的な意見をいくつが述べた後、「これは映画と呼べるんですかっ!?」「こんなものをイタリア映画祭でかける意味があるんですかっ!?」と憤然たる非難の声を上げていた。「アンケートに書いても、どうせ有耶無耶にされるだけだろうから、ここで言わせてもらうわ」的なエクスキューズも添えつつ。途中、「素晴らしい作品だった!」と客席から声があがるも、その女性は「それは、あなたにとっては・・・」と全く意に介さず、壇上では戸惑うゲストと通訳と司会の三名。そこで、「主催者として説明させて頂きますと・・・」とこれまで完全機能不全だった司会の男性が初めて働いた。が、「イタリア映画祭の趣旨」よりも「各国の映画祭で評価された事実」が結論の中心になってしまっていたようにも思える発言内容には、正直ちょっと残念だった。(が、まぁ、あの状況で冷静にあの程度喋れれば上出来なのかもしれないけれど・・・ハイパー上から目線ですみません)

一瞬にして物々しい空気が立ち籠めた有楽町朝日ホール。気まずさと気詰まりが充満した場内に、休日の朝っぱらから観に来ている殊勝な観客の長閑は木っ端微塵。私も「あちゃ・・・」と「うざ・・・」で憂いが心に広がりかけもしたのだが、実は結果オーライな展開を見せる面白い側面も。そのやりとりの直後に勢いよく手を挙げた壮年女性が上品に本作への賛辞を述べると、場内から指示する拍手。上映終了後のどんよりとした停滞ムードから一転、妙な活気がホールを包む。

品位のない独善女性の「抗議」は最初こそ許し難く思ったものの、終わってみれば適度な起爆剤として作用してしまい、本人の意に反し(?)、「こういう作品こそ映画祭で上映されるべき」的結論が呈されたようにも思える一幕だった。(ちなみに、その女性の声や話し方は聞き覚えがあったので、その手の常連さんなのかもしれない。)



3日目の最後に上映された『フォンターナ広場 イタリアの陰謀Romanzo di una strage)』は、「『輝ける青春』のジョルダーナ監督最新作」との触れ込みが奏功してか、前売完売(たしか2回目の上映分も)の大入り。しかし、イタリアの実録物を甘くみてはいけない。2年前のイタリア映画祭で観賞した『われわれは信じていた』での辛い経験を教訓に、今回は事前にバッチリ「予習」して臨んだ私。(といっても、映画祭カタログに収録されている本作の詳細解説[立命館大学の教授が史実としての背景と本作の登場人物や展開をわかりやすく説明してくれている]を熟読しただけだけど)

予習バッチリで受ける授業があっという間に終わるように、瞬く間に駆け抜けた129分の現代イタリア一大叙事詩。これだけ大きく複雑な背景をもった物語なら、それこそ前後編的な二部作や超大作として仕上げるという選択肢だって必然かつ有力だったはず。しかし、それをこれだけ「コンパクト」にまとめる(というよりも凝縮する)手腕は爽快ですらある。練りに練られた脚本には無駄がないどころか、省略から生まれる戦慄の横溢と真理の氾濫は、物語を緩急でなく急急で攻め抜くダイナミズムを発動させる。編集は、近年のベロッキオ作品を手がける名手フランチェスカ・カルヴェッリだけに、その職人技は1mmの抜かりもない。『ソーシャル・ネットワーク』と『裏切りのサーカス』をかけあわせたフィルム・ノワールといった趣だ。(まさに陰影まみれの[ゴッドファーザー的]暗黒室内・暗黒相貌を見事に重ねてゆく撮影も匠の仕事。)

二人の対照的な立場の「個人」を主軸に物語は語られる。体制側と反体制側。しかし、その二人に共通するもの(理想)こそが、彼らを破滅に導いてしまう。社会(現実)にとって必要なのは暴力であり、思想(理想)などではなかったのだ。(「暴力はあるが、思想はない」とは、冒頭で語られる台詞)

個人を主軸に「ドラマ」を魅せながら、社会に対する具体的非難でも漠然とした批判でもなく、構造が孕む犠牲と排除の構造を浮かび上がらせる徹底真摯な一本だ。

最後に顛末を語るテロップのなかで目にした、「(爆殺事件の)裁判費用は、犠牲者に請求された」という衝撃の事実。徹頭徹尾。それがイタリアのあらゆる「強さ」なのだろう。

ちなみに、厖大な情報量が矢継ぎ早に繰り出される会話劇の側面をもった本作の字幕は、実に読みやすく入って来やすい素晴らしい翻訳だったと思う。(イタリア文学などの翻訳家、鈴木昭裕氏によるもの)

2013年5月1日水曜日

イタリア映画祭2013 (3)

3日目にして漸く映画祭らしい時間が動き出す。観る側(つまり、私自身)の問題なのかもしれないが、それは最近の自分にとって現実の縛りがより堅固なものだという証左である故に、解かれた途端に遙かなる遠心力へと転化する。

まぎれもない傑作よりも、愛くるしい小品の方が永らく心に留まり続け、育まれ、実を結ぶ。

パオロ・ヴィルズィ最新作『来る日も来る日もTutti i santi giorni)』は、そんな愛おしさで充ち満ちた。それが何かは説明できずとも、それは確かにそうなんだと思えるイタリア流人生賛歌。恋だの愛だのを逃げ口上に利用しない、関係よりも個人に対する人間賛歌。それは必竟するに、社会からの離反と同義なはずなのに、パオロ・ヴィルズィ作品が見届けたいのは、拮抗や葛藤よりも(衝突や痛手よりも)、受容と抱擁(融和と能動)。

映画祭のガイド的あらすじでは触れられていないが(意図的?)、付き合い始めて6年になる男女の不妊(治療)という問題が物語の現実的中心に据えられている。とはいえ、彼らは二人とも規格外的な生き方と信条を貫いてきたという背景があり、だからこそ「子供が欲しい」というスタンダードへの切望は、多義的で複雑な心情を「収斂」するための片道切符。しかし、せっかく引き返さぬ決意をしても、現実は容易く微笑まない。理想が現実においついたとき、現実は理想の遙か先に逃げていた。普通は逆の関係が、反転したところ叶わぬという真実。個人(実像)と社会(虚像)の関係に、どこか似ている。

自らのスタイルを貫いてきた二人が、社会が承認するスタイルへの参画を画策するためには、二重のハードルを越えねばならない。一人(個人)として、そして二人(家族)として。社会的個人が社会的最小共同体として結合して初めて与えられる、社会という大家族の一員たる資格。その絆につながれる安堵感。それを社会は「幸福」と喧伝してる。そこには強固な説得力も正当な根拠もあり余るほどある。でも、だからこそ、パスポートを発行されぬ者への仕打ちも無自覚で、至って「自然」の法則だ。極めてナチュラルなセレクション。社会的自然淘汰に抗う唯一の希望、それこそが個性。個体性、固着した現実、隆起する真実。

そんな闘争めいた苦悩が描かれているわけではないのだが、どこまでも自らの謳歌に貪欲たろうとする真摯さの強靱さは、社会に同化できぬどんな〈異質〉のなかにだって宿って止まぬ普遍の愛(哀)を代弁してる。〈個〉を描こうとして、各々の対照性や差異性を強調して得意げに特異を論ったりするのではなく、どんなに〈孤〉になり得ようとも、切り離せない普遍性が磁力を発揮する。愛の磁場には慈愛が走る。社会に磁場がなかろうと。

社会は個人の涙を拭いはしないけど、個人だって社会のために涙は流さない。いつだって涙は自分のために流れてしまう。誰かが流させるのではなく、誰かを想った自分が流す。だから、君の涙を拭ったりしない。泣かないでなんて絶対言わない。僕に言えるのは、せいぜいこのくらい。

「こうなったら二人で泣こう」



※原題の「TUTTI I SANTI」とは「諸聖人の日(万聖節)」と呼ばれるカトリック教会の祝日。「GIORNI」は「日々」といったような意味のようなので、主人公グイドの殉教者マニアな側面と、物語の内容がかけられているのかも。ちなみに、英題は「Every Blessed Day」。「every」は当然「day」にかかっているのだろうけれど、映画を観てみると「every」が一人一人にも思えて来る。どんな人の、どんな一日にも・・・。ちなみに、「諸聖人の日」は11月1日らしいのだが、今年のその日は金曜日。本作を劇場公開するなら初日にもってこい。11月1日公開、熱望。

2013年4月29日月曜日

イタリア映画祭2013 (2)

2日目には個人的には最も期待していた一本が早くも登場。近年のベロッキオ作品における魅惑の撮影を担当しているダニエーレ・チプリ監督最新作『それは息子だった』(単独で監督するのは初らしい)。昨年のヴェネツィアでは、彼が撮影を担当したベロッキオの『眠れる美女』と共に2作がコンペに参加。(その2作は、音楽・編集・美術なども、同じスタッフが双方に関わっていたりもする。)『それは息子だった』では金のオゼッラ賞(撮影賞)を受賞。また、主人公(トニ・セルヴィッロ)の息子タンクレディを演じたファブリツィオ・ファルコ(『眠れる美女』にも出演)がマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞してもいる。

パレルモの貧困地区に住む一家の娘が、マフィアの抗争に巻き込まれ死亡。マフィアの犠牲者へ多額の賠償金を支払うという政府の制度を知った父は、申請。しかし、受け取るまでに随分と時間がかかるうち、高利貸から借金してしまい、受け取った大金も利子の支払いに相応分が割り当てられ、残った金で買ったものというのが・・・黒のベンツ。

見事に決まった「画」のひとつひとつが御伽噺的な空気を演出。錆びた喜劇とでも言いたくなるような、ザラつく感覚がまとわりつく被膜の向こうに聞こえる哄笑。しかし、諷刺といった趣の大上段は其処にはなく、悲哀を滑稽に描くだけの悪戯でもない。郵便局のロビーで身の上話を語る「ストーリーテラー」としての男が進行役を引き受けながら、何処か夢想であるような浮遊感で進むお話は次第に、過剰に現実的だった人間たちこそが夢想的に刹那の享楽に溺れていたという皮肉を露わにする。そこで犠牲になる無辜なる無垢。大きな世界の歪みはしわ寄せの果て、必ず個人の犠牲を強いに来る。

マフィアの暗躍の影には、国家との「共犯」が。国家の背後には当然、国際関係上の「事情」がある。(冷戦時、アメリカは反共勢力としてのマフィア復活を図ったとも言われている。)マフィアの犠牲者への賠償金は、償いなのか、謝礼なのか。後者の様相を裏付けるかのように、父は娘を悼まずベンツの傷みに痛みを覚え。そして今、家族は集団保障の生贄に、無垢なる存在を差し出してしまう。社会の不条理は、より大きな世界でも、より小さな世界でも、蝕む一途。

たびたび現れる三角螺旋階段。序盤にタンクレディと向き合い諭す男(誰だったか失念)との間に現れる、父。「三人」が並んだり歩いたりする場面もしばしば。多数決が可能となる「3」。どう足掻いても「1」の側に勝ち目はない。国家とマフィアが組めば、一般市民に勝ち目はないし、社会が「正常」を選んだら「異常」に反論の権利はない。



家の主たち』も未知数の期待に溢れ、臨んだ一本。監督のエドアルド・ガッブリエッリーニは22歳でパオロ・ヴィルズィに見出され(2008年の「Ovosodo」がデビュー作のよう)、役者として活躍。ヴィルズィ作品のみならず、最近では『ミラノ、愛に生きる』でティルダ・スウィントンが恋に落ちる息子の友人シェフを好演。2003年に初監督作を発表していたが、そちらは主演も兼ねていたようで、10年近くぶりにメガホンをとった『家の主たち』でいよいよ本格的な監督業に進出といった印象。おまけに、主役の職人兄弟をヴァレリオ・マスタンドレアとエリオ・ジェルマーノが演じ、彼らが招かれる豪邸の主人役は大御所歌手のジャンニ・モランディ、その妻をヴァレリア・ブルーニ・テデスキが演じるという豪華な出演陣。ちなみに、来日ゲスト団のなかで最年少(1975年生まれ)の彼は、座談会ではやたらと剽軽で(上映後のQ&Aでは、落ち着いた「監督然」だったが)、中座したかと思えばガム(?)などを他の登壇者に配り始めたり、『ミラノ~』でしか知らなかった故に余計ギャップが新鮮だった。

さて、作品自体は正直それほど魅了されぬままあっさり幕切れ。テーマはありがちとは言え、繰り返し語られるべきものだし、それを成立するための場所や空気もそれなりに醸成されてはいたものの、あまりにメイン4人の存在感が大きすぎた為か、もう一つの軸となるべき地元の村人たちの「表現」が妙に稀薄というか軽薄にすら思えてしまい、そんなアンバランスさが「あるべき窒息」に漏れを生じさせてしまう。

『M★A★S★H マッシュ』の「Suicide Is Painless」を使用したのは敬愛するロバート・アルトマンに対するリスペクトの気持ちを表したかったからと語っていたし、ロケハンの前にデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」を観ていたから似たような場所を探したとも言っていた。どうやらアメリカのインディペンデント系作家が好きなようだ。私も観ながらどことなく『ファーゴ』を想起したりもしたし。

確かに、クライマックスのモランディのライブと「噴出」が交錯するシークエンスがもつ(潜在的)最高潮は、アルトマンの群像劇でしばしば見受けられる高揚感に似ている(を模している)気がしなくもないし、閉じ方やその後の「花火」などには、「現代映画」としてのアメリカ映画が示す矜持の刻印的収斂と通ずるものを感じたり。そうした趣向が彼自身のオリジナリティとの充実した結合なり融和が可能となれば、今後が楽しみかもしれない。
 

2013年4月27日土曜日

イタリア映画祭2013 (1)

世間じゃ連休一日目。私は朝早うから、お仕事疾風怒濤お昼まで。何とか切り上げ、いざ有楽町。向かう車中じゃ転た寝上等。座り心地の悪さは折り紙付きの、有楽町朝日ホールで疲労と睡魔の昏睡観賞・・・。そんな幕開け情けない、今年のイタリア映画祭。

1本目は、『綱渡り(Gli equilibristi)』。オープニングから、まさに「綱渡り」しているかのように浮遊するカメラ。屋内を遊泳した後に、屋外へ出ると上空高くより真下を見下ろす眼差しは、まさに綱渡り。前を向いているうちには気づかぬし、気づかぬからこそ知らぬが仏。楽観こそは健全足許、悲観の兆しは踏み外しまでのカウントダウン。

上映後、イヴァーノ・デ・マッテオ監督は「綱渡りとはまさに、現代社会における我々のおかれた状況だ」と語っていた。「その下にはネット(社会福祉)があるから、一見落ちても大丈夫に思えるが、その網の目は実に粗く、その穴から更に奈落へ落ちぬとは限らない」

ドキュメンタリー畑で経験を積んできた監督らしい、折り目による作劇よりも流れについてくる展開。なかなか興味深い語り口ながら・・・そういった作風に前述の通りの疲弊で臨むとなると、当然無謀。いやはや、観る側もまさに「綱渡り」をしていた感じ。いつ(寝に)落ちるかわからぬスリリング。たとえ寝たとしてもスッキリしない朝日ホールの椅子クオリティ。朝日ホールじゃなきゃ、割り切った転た寝だって出来たかもしれないけれど、あの椅子で両隣にも人が居るとなると、転た寝すらままならない。


2本目は、『素晴らしき存在(Magnifica presenza)』。前作『あしたのパスタはアルデンテ』が日本でもスマッシュヒットとなった、フェルザン・オズペテク監督最新作。『ぼくたちの生活』ではカンヌで男優賞も受賞したエリオ・ジェルマーノが主演。序盤は場内も和やかな笑いにしばしば包まれて、背景を蔽ったベールがめくれてゆくにつれ、しっとりとして静寂に包まれる。モスクワ国際映画祭では観客賞を受賞しているらしく、なかなかポピュラリティも備わっていそう。が、しかし。個人的には乗り切れないまま終了。主人公の造形にいまいち入ってゆけず・・・と自覚していたつもりだが、正直物語を十分咀嚼できてる自信もない。やっぱり、今日は観賞に耐えうるコンディションじゃなかったのかも。それでなくとも、映画祭での観賞には通常より緊張感が強いられる(日頃、混み混みのなかで映画観ることほとんど皆無なもので)。おまけに、有楽町朝日ホールとなれば、身体的なコンディションも相当な状態が求められるというもので。


イタリア映画祭は、日本で数ある映画祭や特集上映のなかでも、私のなかではかなり上位に位置する優良映画祭。その主因は客層の穏やかさや上品さ、従って落ち着いてみられる雰囲気が約束されている。のはずだったのに、今日は1本目で、後ろの客にたびたび背もたれキックされるので、振り返ってみると、報復するかの如き強打をされるという悲劇に遭った。怒りというよりも、イタリア映画祭なのにこんな下卑た客が・・・という哀しみに。そんな寂しさが尾を引いたりもしてしまったのかも。

明日は気を取り直して、リスタート(リセット?)したいもの。

※そうそう、今年もやっぱりフィルム上映が基本みたい。今日の2本もフィルム上映。
    いまや稀少で貴重なフィルム上映を堪能できるのも、イタリア映画祭の醍醐味になっている。

※フィルム上映といえば、もうひとつ嬉しいニュース。
   イタリア映画祭会場に、ベロッキオの『眠れる美女』のチラシがあった。
   そして、チラシの作品情報欄には「35mm」の文字が!フィルムでの観賞が叶いそう!
   (昨年の東京国際映画祭では残念画質のデジタル上映。
     暗い場面が多く、フィルムで観てこそな作品。エスパース・サロウ、信用できる!)