地元の人達が、「なんだか映画のお祭りやってるらしいわよ」なノリでふらっとやってくるSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。面白かったり楽しかったりしたときに充満するウェルカム感は好いものだ。でも、最も感心というか安心できるのは、たとえ「キョトーン」な作品を観てもあくまで「ふーん」や「へぇ~」で貫かれる友好感。沸点の低い好戦都会とは無縁の空気。だからこそ、娯楽性や話題性にひきずられず、作品選定ができるのだろう。勿論、だからといって観客度外視ではないし、土日上映には「相応しい」作品の選定がなされてはいるのだけれど、一方で他の映画祭や特集上映では観られないような(受け皿の無い)タイプの作品も積極的に選出してくれているのが嬉しいところ。
今年で言えば、『アメリカから来た孫』や『隠されていた写真』、そして『ぼくと叔父さんとの事』。(『アメリカから来た孫』はスケジュール上困難で残念ながら観られなかった。)
『隠されていた写真(Zdjecie)』は、ポーランドのマチェイ・アダメク(Maciej Adamek)監督による82分の小品ながら、変わった見応えのある作品だった。ドキュメンタリーや短篇などの作品では一定の評価を得てきたアダメク監督の初長編。ドキュメンタリー的な雰囲気を残しつつも、明らかに劇映画たろうとする緊張感もそこはかとなく漂う不思議なドラマ。短篇をそのまま並置したような非親切な澄まし顔に最初やきもき、次第に諦念。そんな頃合いに、心にしっくり来るか何も落ちてこないかは、観る者によってだいぶ違いそう。東欧の映画、とりわけポーランド映画からイメージする「堅さ」や「冷たさ」はよりローカル的な深まりを見せ、ついつい捜してしまいがちなメッセージ色はさほど見当たらないという先入観との齟齬に何処か戸惑いを感じながら、時の歩みが異なることを知る。
自分の〈過去〉を探るために旅に出た主人公アダム、17歳。しかし、それはいつしか両親の〈過去〉を調査することで、自らのルーツを精査しようという〈現在〉の空洞化。そこに訪れる恋の予感。いや、実感。そう、痛感。アダムは何かにつけハンディカメラで眼前の光景を記録するのだが、そこに人間が混入することを何処かで避ける想いが強かった。しかし、そんな彼の記録にやがて、人間が入って来る。いや、人間を記録しようとカメラを持つ。そのとき、彼が見つけた母親の写真に記録された可視世界の背後に広がる不可視な記憶がもつ意味を、彼は知ったのかも知れない。列車のなかのラストシーン。アダムが一枚の写真を母親に手渡す。凝縮される軌跡。觝触せぬ奇跡。語られなかった寡黙な時間が、雄弁な緘黙の時間に変わる。過去を追い抜いた今がある。追いつかんとする未来もある。
『ぼくと叔父さんとの事(LUV)』は、その邦題からは想像もつかぬハードな人間交差点。それに、劇場公開はおろか最近ではソフト化やCS放映すら激減してる印象のブラック・ムービー(黒人映画)。ここまで黒人オンリーでドラマが進む映画を劇場で観ているというだけで新鮮。ただ、そんな刺激的な体験であるはずの本作の観賞が、見事に爆睡映画祭に化してしまったことをここに告白・・・。だって、連日睡眠数時間で朝一の仕事終えて川口に駆けつけて昼食とった直後・・・ということで、お許しを(って、誰への懺悔?)。とはいえ、断片的に傍観してたなかでもやはり、あまりにも懸け離れすぎた現実が展開されるドラマには、どうしても取つき端がみつからず、そんな没入拒否な印象が更なる睡魔へ導いて(責任転嫁)、だけどラストの希望と絶望がないまぜの場面は好きよ。それしか言えない・・・。
ただ新鮮だったのは、それだけ黒人映画で下層の現実を描いていながらも、ヒップホップなBGMがほとんど聞こえてこなかったこと。シガー・ロスとか流れたり、スコアもシューゲイザー的。Q&Aでちょうどその辺を監督に質問してくれた方がいて、そうした選択は「監督の趣味」であると同時に「ステレオタイプに陥りたくない(描く現実を一つのパターンとして受け取って欲しくなかった)」という意図でもあったとか。面白い。けど、個人的には正直ちょっと違和が強めに残ってしまったな。
ラストシーンから勝手に読みとったメッセージとしては、The pen is mightier than the sword(ペンは剣よりもつよし)。(以下ネタバレ) 主人公の少年は手にした大金を森の木の根元に埋めて隠すのだが、そのときに目印に用いたのは鉛筆なのだ。最初は、鉛筆を突き立てるなんて目立つし、外れたら見つけ難いし・・・と思っていたが、銃による恐怖と暴力でサバイブしてきた少年に残された希望の証(兆し)として、「鉛筆」が用いられたのかなと思い直してみることに。とはいえ、『アウトレイジ』の加瀬亮みたいなタイプに仕上がってしまうという線もあるわけで(笑)、正直もうすこし可能性の示唆が欲しかったりもした。(というか、「その点」を個人的に求めてしまう性向なんだと最近自認。ケン・ローチの『天使の分け前』に戸惑ったのも似た観点からだったかも。)
これまでIDCFで観たコンペ作品はヨーロッパやアジアの映画ばかりだったので、アメリカ映画しかも黒人の監督が登壇というのは新鮮だった。監督のシェルドン・キャンディス(Sheldon Candis)は今作が長編2作目の若手。実は日本とは既に縁があり、「The Dwelling」(隅田川沿いで生活するホームレスを撮っている)という短編ドキュメンタリーを制作していたり。それ観て行けば(そして、監督に質問すれば)好かったなぁ。短篇「The Walk」もここにある。
当初は観る予定から外してしまっていたチェコ映画『オールディーズ・バット・ゴールディーズ-いま、輝いて-(Vrásky z lásky)』。2本観る予定だった金曜に、朝一の仕事を終え直ぐさま駆けつければ観られることが判明して急遽滑り込む!初めての多目的ホールでの観賞(これまでは毎年全回「映像ホール」で観賞してきたので)だったが、これは断然「映像ホール」で観た方が好いですな。いわゆるパイプ椅子が並べられているタイプの会場ですからね。でも、本作のような映画なら、そうした観賞環境がむしろちょっとした「ムード」を演出してくれた気さえする。平日の11時からの上映と言えば、一般的な社会人は最も観られぬ設定ながら、会場には大勢の観客が・・・。そう、オールディーズでぎっしり、大盛況。雰囲気出過ぎでちょっぴり複雑・・・。(いや、本当にいわゆる「若者」にみえる人が皆無に等しいという場違い感[自分を若者にカウントしてる疑惑・・・気のせいですよ])
全く期待していなかったのが奏功してか、これが随分と沁みた!設定はちょっと奇抜ながらも(往年の名女優[今は忘れ去れてしまっているが]に眼の手術を控えた男が、彼女が入所している老人ホームに会いに行き、彼女がプラハでオーディションを受けるために共に旅(?)に出るというお話)、奇を衒うこと無く、それぞれの人物を色分けすることも無く、淡々ながらも実に丁寧に多面のまま人間を描こうとする誠実さ。それは、「老い」を衰えや諦観で括らず、ノスタルジーや直向きだけで塗さず、静かな覚悟でもってそっとじっと見つめる眼差し。
主演の二人(イジナ・ボフダロヴァーとラドスラフ・ブルゾボハティー)は何とかつて実際に夫婦だったとか。1960年代には数多くの作品で共演したチェコを代表する役者の二人は、やがて結婚するも、憎しみのなかで離婚。以後30年もの間、彼らは共演を頑なに拒み続けてきたそうで、そんな彼らが共演する(しかも主演、かつ往年の彼らの間柄を想起させるような関係性も含みつつ)ということで、脇役にもチェコのテレビ・映画界の一線で活躍する役者が結集したとのこと。確かに、役者たちのアンサンブルには安定感と適度なケミストリー。そして、そうした作品の背景が大きな力となって本作を温かく「抱擁」し続ける。オタを演じたラドスラフは本作が初めて上映された直後に亡くなった。しかし、最後の最後に輝けた、まさに「映画みたい」な物語。
オタの愛車(いまやオンボロ)が思いっきりスクラップにされる場面から始まる本作。その容赦なき過去の否定から始まるからこそ、過去から生まれる前向きの輝きがラストの彩りに意義を生む。
監督は「子供と動物はつかうのが大変だから」子供や若者は出演させなかったんだと冗談交じりに答えていたが、子供や若者を出すことでうまれる対照性から「老い」を定義づけるような野暮を回避したかったのかも。彼ら二人のなかに蓄積されたものから眼を逸らさずに、老いることの痛みと喜びを静観することに成功している気がした。監督はまだ39歳。本国でも若者に観てもらいたいという願いは叶わなかったとのことだが、ファンタジーではないがリアリティだけでもない「ドラマ」を呈示した彼の問題意識はきっと、自らの立ち位置に誠実な作品作りの表れかもしれない。
監督のイジー・ストラフ(Jirí Strach)は10代から俳優の仕事を始めていたらしく(20代後半から監督業を始めたみたい)、フリートークはそんなに得意そうではないものの、非常に見栄えのする好青年。本当、この映画祭に来日し登壇する監督陣は、なぜこうも感じが好く、友好的かつ和やかなのか。それはおそらく川口という適度な周縁感と、開催時期(サマー・ヴァケーション!)からしてオフを利用し観光がてらちょっくら仕事もしちゃうかな的スタンスで日本行きを決めた面々なのでは!?などと勝手に(半ば失礼な)推測をしてみたり。まぁ、でも、政治的な駆け引きや探り合いも横行する「大きな」映画祭に比べれば、自分のつくった映画を遠く離れた日本で悠長に寛げるなかで観てもらうって体験は、或る種の稀少性をもっているかもね。(しかも、既に本国での公開や映画祭巡りが一通り終わった後という安堵感もあるだろうし。)
プレミア感や権威のオーラが皆無だろうと、別次元でひきつけられる魅力をもったIDCF。ある面では進化や深化を求めたいけれど、真価は変わらず続けばいいな。そして、僅かずつでも映画ファンの間に健やかなる浸透がうまれれば。とりあえず、今年も見応えのある作品に出会えたことに感謝です。
2013年7月23日火曜日
2013年7月22日月曜日
IDCF2013 コンペ(前篇)
今年で10回目を迎えたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭だが、私が参加するのは3回目。昨年同様、「コンペ作品フリーパス」(前売限定3,000円で長編・短篇コンペ作品すべてが観られる)を購入し、のべ4日間8作品を観賞。やはり今年も短篇プログラムの上映を観ることはできなかったし、長編コンペに出品された日本映画を観ることもできず、長編コンペ12本中9本の外国映画のうち8本を観るという選択に。
『フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』に関しては感想を記事にしたものの、その他の作品についても軽く振り返っておきたいと思う。
まずは、最優秀作品賞を受賞した『チャイカ(Chaika)』。スペインの新鋭ミゲル・アンヘル・ヒメネス(Miguel Ángel Jiménez)監督による長編2作目。個人的には最も楽しみにしていたのが本作であり、今回のコンペ観賞作の中で最も魅了されたのも本作。昨年同様、極私的審査結果と審査員が出した結果が一致した形だが、今年の場合はグランプリのみならず、上位3作品が見事に一致(監督賞に『フロントライン・ミッション』、脚本賞に『セブン・ボックス』)。ポピュラリティやメッセージ性からすれば断然他の2作に軍配が上がるだろうが、そこはやはり「芸術性を競う」映画祭の宿命(?)からか、無難ながらも納得のグランプリ。(『フロントライン・ミッション』はもう既に十分な評価を各所で得ているし、『セブン・ボックス』は何か賞を絶対あげたい作品ながらグランプリはちょっと違う感じだったので、そうした「事情」を鑑みても妥当かと。)
『チャイカ』は映画祭映画的な側面が際立つ、いわゆるアート系な映画でありながら、当初は「狙った」のであろう多国籍感(本作は、スペイン・グルジア・ロシア・フランスによる合作)が、自然と「滲み出る」無国籍性へと少しずつなだれ込む。しばらくするとワンパターンにも思えて来る映像美が、何の躊躇いも無く反復を続けることによって醸成される心地好いマンネリとその微かな変容がもたらす無量無辺。荒涼とした大地をデジタルがフラットにとらえる画には、自然の慈しみも厳しさも廃されて、徹頭徹尾「そこに在る」という事実だけを刻むかのよう。だから、それらの光景が湛えている美しさは、決して人間をやさしく包んでくれたりすることはないし、彼らがそうした美しさとシンクロを見せてゆくわけでもない。寡黙な物語ゆえ、叙事の裏に潜む懊悩の暴発が時折訪れる。そして、そのときようやく彼ら(登場人物)は自覚し、僕ら(観客)も気づく。誰もが欲する、「ここではないどこか」について。
とにかく耽美主義的な眼差しに終始する画の連続は、単なる心地好さを求めているわけではなく、自然(空と大地)や文明(列車や建造物)の壮麗さに必ず人間の卑小さを刻印してる。それは、彼らの心がまさに精「神」として、人知を離れ、神のみぞ知るかの如き迷走を繰り返す様と見事に重なりもする。海から始まるこの物語において、冒頭で船を下りた二人にとっての動かぬ大地での暮らしはきっと、終わりの約束された逗留だったのだ。動き出す列車を見るとき、宿命が動き出すとき。移ろいゆくなかで、留まる者と動く者。離れてゆく者、見送る者。
『セブン・ボックス(7 cajas)』の上映は、コンペ作品中最高潮の盛り上がり。土曜昼という絶好のスケジュールもあってか、場内は満席近い大盛況。105分の上映時間も90分弱の体感で疾走する緩急抜群(「緩」は数割程度だけどね)な、空回らぬ意気込みの心地好さ。これまで20本しか制作されていないというパラグアイ映画の分水嶺になり得る、可能性の宝庫。これまでCMなどの制作を手がけて来たというフアン・カルロス・マネグリア(Juan Carlos Maneglia)監督は、映画を専門に学んだことはなく、映像制作の仕事のなかで習得した知識や技術を映画制作に結実したと語っていた。上映後のQ&Aで、「韓国映画や香港映画を思わせるアジア映画的な要素を垣間見られるが、意識したのか」といった質問が出るも、「パラグアイではそういった映画を観ることができないので・・・」という返答。いろいろな映像作品につながる想起が連続しながらも、何処かコピーの気配がしない鮮度が保たれていたのは、そんな「無垢」の産物だったのかも。
パラグアイ社会がかかえ闇を屋台骨に展開する物語でありながら、善きも悪きもそれらの構造に従順に組み込まれる事ない現実が、人間の滑稽さと逞しさを皮肉り、それでも賛歌。「大きな物語」が失われようとも、小さな小さな物語の連綿は社会をやがて映し出す鏡。社会がどんなに個人を駆逐しようとも、むしろ個人を駆動する。朗らかながらも強靱な志を感じさせるフアン・カルロス・マネグリア監督の人柄にも魅了され、遠い国で芽吹いた希望の予感を共有させてもらった気がしてみたり。
『セブン・ボックス』は審査員特別賞でも監督賞でも好い気がしたが(勿論、脚本賞であることに異論はないよ)、クレジットを見てみると、監督はタナ・シェムボリ(Tana Schembori)と共同ながら、脚本はマネグリア監督が中心になって書かれたようで、そんな配慮(?)もあったりしたのかな。(個人的には、台詞やプロットというより「あの手この手」で試された映像アプローチこそが本作の語りの肝だとも思ったので、監督賞でも好かった気がしたもので。)
『チャイカ』は劇場公開は難しいかもしれないけれど(でも、字幕は太田直子氏が担当してました)、ラテンビート映画祭あたりでの上映可能性はある!?(ただ、ロシア語で舞台も・・・だし、監督がスペイン人だってだけじゃ無理か。) 『セブン・ボックス』こそラテンビート映画祭で上映されたりするかもね。劇場公開のポテンシャルもありそう。
『フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』に関しては感想を記事にしたものの、その他の作品についても軽く振り返っておきたいと思う。
まずは、最優秀作品賞を受賞した『チャイカ(Chaika)』。スペインの新鋭ミゲル・アンヘル・ヒメネス(Miguel Ángel Jiménez)監督による長編2作目。個人的には最も楽しみにしていたのが本作であり、今回のコンペ観賞作の中で最も魅了されたのも本作。昨年同様、極私的審査結果と審査員が出した結果が一致した形だが、今年の場合はグランプリのみならず、上位3作品が見事に一致(監督賞に『フロントライン・ミッション』、脚本賞に『セブン・ボックス』)。ポピュラリティやメッセージ性からすれば断然他の2作に軍配が上がるだろうが、そこはやはり「芸術性を競う」映画祭の宿命(?)からか、無難ながらも納得のグランプリ。(『フロントライン・ミッション』はもう既に十分な評価を各所で得ているし、『セブン・ボックス』は何か賞を絶対あげたい作品ながらグランプリはちょっと違う感じだったので、そうした「事情」を鑑みても妥当かと。)
『チャイカ』は映画祭映画的な側面が際立つ、いわゆるアート系な映画でありながら、当初は「狙った」のであろう多国籍感(本作は、スペイン・グルジア・ロシア・フランスによる合作)が、自然と「滲み出る」無国籍性へと少しずつなだれ込む。しばらくするとワンパターンにも思えて来る映像美が、何の躊躇いも無く反復を続けることによって醸成される心地好いマンネリとその微かな変容がもたらす無量無辺。荒涼とした大地をデジタルがフラットにとらえる画には、自然の慈しみも厳しさも廃されて、徹頭徹尾「そこに在る」という事実だけを刻むかのよう。だから、それらの光景が湛えている美しさは、決して人間をやさしく包んでくれたりすることはないし、彼らがそうした美しさとシンクロを見せてゆくわけでもない。寡黙な物語ゆえ、叙事の裏に潜む懊悩の暴発が時折訪れる。そして、そのときようやく彼ら(登場人物)は自覚し、僕ら(観客)も気づく。誰もが欲する、「ここではないどこか」について。
とにかく耽美主義的な眼差しに終始する画の連続は、単なる心地好さを求めているわけではなく、自然(空と大地)や文明(列車や建造物)の壮麗さに必ず人間の卑小さを刻印してる。それは、彼らの心がまさに精「神」として、人知を離れ、神のみぞ知るかの如き迷走を繰り返す様と見事に重なりもする。海から始まるこの物語において、冒頭で船を下りた二人にとっての動かぬ大地での暮らしはきっと、終わりの約束された逗留だったのだ。動き出す列車を見るとき、宿命が動き出すとき。移ろいゆくなかで、留まる者と動く者。離れてゆく者、見送る者。
『セブン・ボックス(7 cajas)』の上映は、コンペ作品中最高潮の盛り上がり。土曜昼という絶好のスケジュールもあってか、場内は満席近い大盛況。105分の上映時間も90分弱の体感で疾走する緩急抜群(「緩」は数割程度だけどね)な、空回らぬ意気込みの心地好さ。これまで20本しか制作されていないというパラグアイ映画の分水嶺になり得る、可能性の宝庫。これまでCMなどの制作を手がけて来たというフアン・カルロス・マネグリア(Juan Carlos Maneglia)監督は、映画を専門に学んだことはなく、映像制作の仕事のなかで習得した知識や技術を映画制作に結実したと語っていた。上映後のQ&Aで、「韓国映画や香港映画を思わせるアジア映画的な要素を垣間見られるが、意識したのか」といった質問が出るも、「パラグアイではそういった映画を観ることができないので・・・」という返答。いろいろな映像作品につながる想起が連続しながらも、何処かコピーの気配がしない鮮度が保たれていたのは、そんな「無垢」の産物だったのかも。
パラグアイ社会がかかえ闇を屋台骨に展開する物語でありながら、善きも悪きもそれらの構造に従順に組み込まれる事ない現実が、人間の滑稽さと逞しさを皮肉り、それでも賛歌。「大きな物語」が失われようとも、小さな小さな物語の連綿は社会をやがて映し出す鏡。社会がどんなに個人を駆逐しようとも、むしろ個人を駆動する。朗らかながらも強靱な志を感じさせるフアン・カルロス・マネグリア監督の人柄にも魅了され、遠い国で芽吹いた希望の予感を共有させてもらった気がしてみたり。
『セブン・ボックス』は審査員特別賞でも監督賞でも好い気がしたが(勿論、脚本賞であることに異論はないよ)、クレジットを見てみると、監督はタナ・シェムボリ(Tana Schembori)と共同ながら、脚本はマネグリア監督が中心になって書かれたようで、そんな配慮(?)もあったりしたのかな。(個人的には、台詞やプロットというより「あの手この手」で試された映像アプローチこそが本作の語りの肝だとも思ったので、監督賞でも好かった気がしたもので。)
『チャイカ』は劇場公開は難しいかもしれないけれど(でも、字幕は太田直子氏が担当してました)、ラテンビート映画祭あたりでの上映可能性はある!?(ただ、ロシア語で舞台も・・・だし、監督がスペイン人だってだけじゃ無理か。) 『セブン・ボックス』こそラテンビート映画祭で上映されたりするかもね。劇場公開のポテンシャルもありそう。
2013年7月18日木曜日
狼が羊に恋をするとき
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品2本目の観賞。台北駅近くの南陽街という予備校が多く集まっているという一角が舞台。地味に滋味な群像的書割に、ミュージックビデオ風味の青少年たちが右往左往。ごちゃごちゃ玩具箱な渋滞は、解消が予告されてるかのような布石感に溢れ返っていたりもするものの、アジア映画らしさをこってり吸収し尽くした台湾娯楽映画の今がある!?
私が本作を観たのは日曜夕方の回だったのだが、その前の『フロントライン・ミッション』が終わって外に出ると、入場待ちの列が出来ている・・・。ちなみに、この映画祭は全席自由席(前売も当日券も)で、整理番号などもない。が、大抵、開場前に待っている人など僅かだったりするので、続けて観る場合でも、ブラブラしてきて開場時刻前後に戻ってくるのがいつもの私的流儀だが、ちょっと心配になってしまい、出来てる列の後につく。(開場までもそんなに時間なかったし。)監督による映像チェックに時間がかかり、実際に開場は遅れたものの、暑さや怪しい雲行きもあって、とりあえずロビーに入れるだけ入らせてくれた上で開場待ち。誘導スタッフはおそらくボランティアが中心なので、地に足の付いた配慮に自然と寛ぎおぼえたり。開場が遅れることに関しても、「監督がなかなか映像にご納得いただけないようでして、少し調整に手間取っております故・・・」という正直なアナウンスは、イベントのプロなのだとしたら規準に適わぬかもしれないが、ボランティアならではの醍醐味(?)として癒し効果を発揮する。
後から知ったのだが、本作の主演男優クー・チェンドン(柯震東)は『あの頃、君を追いかけた』に主演してたんだとか。昨年の東京国際映画祭で上映され、あちこちから絶賛の声が聞こえてきて、いよいよ9月14日から二本でも劇場公開される同作は、台湾での社会現象的大ヒットのみならず、香港でも『カンフー・ハッスル』の記録を塗り替えて中国語映画の歴代興収ナンバーワン記録を樹立。というわけで、いつもの場内の客層とは異なった女性勢(アジア映画ファンと思しき面々)が映画祭の雰囲気に華を添えてくれていた。チケット代は大した額では無いので、動員如何でどうこうというのはそこまで意識しないのかもしれないが、話題性としては「この手の作品」もコンペに何作か入れても好いのかも。(でも、そういう「色気」が見事にみえないところも、この映画祭の好いところではあるんだけどね。)
で、カラフルポップな本作に色めきときめきウキウキしたか・・・というと、正直序盤から全然ノレなかった。決して作り手が拙劣な訳ではなく、あくまで個人的な趣味というか波長とというか、そういったものが本作のウキウキ成分を全くキャッチできなかった・・・という印象が終始。つくりがつくりなので、飽きも退屈もしないのだけど、ハイボルテージになるべき場面で「ふむふむ、そうするんだね」的俯瞰スタンスな構えになっちゃう悪循環。もしかしたら、カチャカチャ計算してる感が画面から伝わってきて(あくまで、勝手にそれを嗅ぎ取って)しまうからだったのかも。
とはいえ、終盤の疾走感あふれるドラマチック・クライマックスでは、「あれ?あれれれれ!?」というくらいの高揚感が私にも充満っ!と思いきや、やっぱり「俺のリズム」をとことん狂わす流れ、アプローチ。ま、やっぱり趣味の問題なのだろか。
とはいえ、予備校の授業風景なんかは懐かしく、そうした「ちょいキュン」はぼんやり持続してたかな。上映前に登壇した映画祭のディレクターが、「かつての駿河台を思い出す」なんてコメントしてたのも至極納得で、まさに受験が戦争めいてた時代の風景。私の頃には、最大のピークは越えていたとはいえ、それでも私が通っていた駿河台にあった予備校の大教室は、本作に出てくるように浪人生でびっしり。しかも、狭っ苦しいスペースに詰められまくり。瀧沢ディレクターも同じ光景を想起したのかな。
上映後のQ&Aでも出てきた話題だが、本作は予備校街を舞台にしてはいるものの、予備校生自体が物語の主要な登場人物という訳では無い。ただ、物語の「背景」としては魅力的な機能を果たしてはいる。ホウ・チーラン監督としては、「夢を追いかけつつも、そこには成否の分岐が待ち受けており、やがては皆そこから巣立ってゆく場所」という空間の魅力を、既にそうした時代を過ぎた大人たちのドラマと重ね合わせながら見られることを願っていたようだ。アジアの青春映画で最近流行の、現在と過去を往来するタイプの或る種変型とも言えるかも。適度な閉塞感(実際の撮影はどうか知らないが、確かに「街の一角」のみで進行するミニマムさがある)は、若者の「閉じこもりたい」けど「出てゆきたい」な内面とは巧くマッチしてるかな。
ポピュラリティは十分だから、(字幕つけたわけだし)そのうち劇場公開ありそうだ。全く個人的な推測だけど。(そうすると、「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭出品」という併記で、少しは映画ファンのなかで映画祭の認知が高まるかも!なぜか、勝手に応援団メンタリティ。)
原題は「南方子羊牧場」で、英題が「When a Wolf Falls in Love with a Sheep」。
ジエン・マンシュー演じるヒロインは予備校の職員で、彼女は主人公が働く印刷所に出す試験の問題用紙の隅にボランティアで(勝手に)イラストを描いている(イラストレーター志望)。というか、そもそもあんなこと許されるものなのか・・・。で、そこにいつも登場するキャラクターが羊。で、主人公と「その場」をつかってのコミュニケーション(恋愛的駆引)が始まって・・・という展開。
私が本作を観たのは日曜夕方の回だったのだが、その前の『フロントライン・ミッション』が終わって外に出ると、入場待ちの列が出来ている・・・。ちなみに、この映画祭は全席自由席(前売も当日券も)で、整理番号などもない。が、大抵、開場前に待っている人など僅かだったりするので、続けて観る場合でも、ブラブラしてきて開場時刻前後に戻ってくるのがいつもの私的流儀だが、ちょっと心配になってしまい、出来てる列の後につく。(開場までもそんなに時間なかったし。)監督による映像チェックに時間がかかり、実際に開場は遅れたものの、暑さや怪しい雲行きもあって、とりあえずロビーに入れるだけ入らせてくれた上で開場待ち。誘導スタッフはおそらくボランティアが中心なので、地に足の付いた配慮に自然と寛ぎおぼえたり。開場が遅れることに関しても、「監督がなかなか映像にご納得いただけないようでして、少し調整に手間取っております故・・・」という正直なアナウンスは、イベントのプロなのだとしたら規準に適わぬかもしれないが、ボランティアならではの醍醐味(?)として癒し効果を発揮する。
後から知ったのだが、本作の主演男優クー・チェンドン(柯震東)は『あの頃、君を追いかけた』に主演してたんだとか。昨年の東京国際映画祭で上映され、あちこちから絶賛の声が聞こえてきて、いよいよ9月14日から二本でも劇場公開される同作は、台湾での社会現象的大ヒットのみならず、香港でも『カンフー・ハッスル』の記録を塗り替えて中国語映画の歴代興収ナンバーワン記録を樹立。というわけで、いつもの場内の客層とは異なった女性勢(アジア映画ファンと思しき面々)が映画祭の雰囲気に華を添えてくれていた。チケット代は大した額では無いので、動員如何でどうこうというのはそこまで意識しないのかもしれないが、話題性としては「この手の作品」もコンペに何作か入れても好いのかも。(でも、そういう「色気」が見事にみえないところも、この映画祭の好いところではあるんだけどね。)
で、カラフルポップな本作に色めきときめきウキウキしたか・・・というと、正直序盤から全然ノレなかった。決して作り手が拙劣な訳ではなく、あくまで個人的な趣味というか波長とというか、そういったものが本作のウキウキ成分を全くキャッチできなかった・・・という印象が終始。つくりがつくりなので、飽きも退屈もしないのだけど、ハイボルテージになるべき場面で「ふむふむ、そうするんだね」的俯瞰スタンスな構えになっちゃう悪循環。もしかしたら、カチャカチャ計算してる感が画面から伝わってきて(あくまで、勝手にそれを嗅ぎ取って)しまうからだったのかも。
とはいえ、終盤の疾走感あふれるドラマチック・クライマックスでは、「あれ?あれれれれ!?」というくらいの高揚感が私にも充満っ!と思いきや、やっぱり「俺のリズム」をとことん狂わす流れ、アプローチ。ま、やっぱり趣味の問題なのだろか。
とはいえ、予備校の授業風景なんかは懐かしく、そうした「ちょいキュン」はぼんやり持続してたかな。上映前に登壇した映画祭のディレクターが、「かつての駿河台を思い出す」なんてコメントしてたのも至極納得で、まさに受験が戦争めいてた時代の風景。私の頃には、最大のピークは越えていたとはいえ、それでも私が通っていた駿河台にあった予備校の大教室は、本作に出てくるように浪人生でびっしり。しかも、狭っ苦しいスペースに詰められまくり。瀧沢ディレクターも同じ光景を想起したのかな。
上映後のQ&Aでも出てきた話題だが、本作は予備校街を舞台にしてはいるものの、予備校生自体が物語の主要な登場人物という訳では無い。ただ、物語の「背景」としては魅力的な機能を果たしてはいる。ホウ・チーラン監督としては、「夢を追いかけつつも、そこには成否の分岐が待ち受けており、やがては皆そこから巣立ってゆく場所」という空間の魅力を、既にそうした時代を過ぎた大人たちのドラマと重ね合わせながら見られることを願っていたようだ。アジアの青春映画で最近流行の、現在と過去を往来するタイプの或る種変型とも言えるかも。適度な閉塞感(実際の撮影はどうか知らないが、確かに「街の一角」のみで進行するミニマムさがある)は、若者の「閉じこもりたい」けど「出てゆきたい」な内面とは巧くマッチしてるかな。
ポピュラリティは十分だから、(字幕つけたわけだし)そのうち劇場公開ありそうだ。全く個人的な推測だけど。(そうすると、「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭出品」という併記で、少しは映画ファンのなかで映画祭の認知が高まるかも!なぜか、勝手に応援団メンタリティ。)
原題は「南方子羊牧場」で、英題が「When a Wolf Falls in Love with a Sheep」。
ジエン・マンシュー演じるヒロインは予備校の職員で、彼女は主人公が働く印刷所に出す試験の問題用紙の隅にボランティアで(勝手に)イラストを描いている(イラストレーター志望)。というか、そもそもあんなこと許されるものなのか・・・。で、そこにいつも登場するキャラクターが羊。で、主人公と「その場」をつかってのコミュニケーション(恋愛的駆引)が始まって・・・という展開。
2013年7月16日火曜日
フロンロライン・ミッション
※追記:日本版DVDが発売された(8/30)。
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品で最初の観賞となった『フロントライン・ミッション(Rock Ba-Casba)』(タイトルは、アラブ人とユダヤ人が戯れるミュージックビデオが印象的なThe Clash「Rock the Casbah」に由来)は、イスラエルとフランスの共同制作による作品。監督・脚本のヤリブ・ホロヴィッツ(Yariv Horowitz)は、ミュージックビデオやテレビの演出や、国外でのCM制作、短篇ドキュメンタリーの監督なども務めてきたという。(ここで彼の仕事がいろいろと見られる。)長編監督1作目となる本作は、今年のベルリン国際映画祭パノラマ部門に出品され、C.I.C.A.E.賞(国際アートシアター連盟賞)を授与された。
舞台は1989年のパレスチナ・ガザ地区。そこに派遣された若きイスラエル兵達の苦悩を通して、衝突や矛盾のかかえる凄惨と陰鬱と不毛と懊悩が浮き彫りにされてゆく。派遣後間もなく、反発する地元の若者が屋上から落とした洗濯機によって一人のイスラエル兵が絶命する。いきなり突きつけられた現実に、虚脱と葛藤の日々が始まる。「支配者」としてのイスラエル兵の横暴、抵抗だけが尊厳の術かのようなガザの民。時に愚かで時に聡明な貌を、どちらの側も錯雑と淡々に繰り返す。
まず何よりも新鮮(?)だったのが、地元民による投石の怖ろしさ。監督によると、「ユダヤ人にただ(無料)で石を投げつけられる」とあって、パレスチナの人々も嬉々としてエキストラに参加したんだとか(笑)・・・なるほど。その迫力は確かに伝わる(※)。驚くことに、銃撃戦の何倍も怖ろしい映像なのだ。それはきっと、銃は撃ったことも撃たれたこともないが、石なら投げたことがあるし、ぶつかったこともあるからだろう。それに、銃弾は(その弾道が)目に見えないし、弾自体の重みは稀薄である(それ故の怖ろしさはありつつも、それゆえにどこか形而上的でもある)故に、質量も「弾道」もはっきり体感できてしまう石の重みは激しさを喚ぶ。
また、地元民はとにかく屋上から物を落として攻撃しようとするのだが、その位置関係がもたらす恐怖も厖大で、これは武器をもたぬ民のせめてもの「凌駕」なのかもしれないが、それを更なる規模と間接(無意識)で大量に投下する残虐こそが、空襲というものなのだ。銃撃が傷みをどこか抽象化してしまったように、空襲もおそらく同様の「効果」を孕んでる。銃撃や空襲のもつ残虐性をより「具体」的に見せられることで、戦闘の文明化が、増殖する犠牲の痛みを隠蔽している事実に気づかされたり。
そうした意味では、敵と味方が空間的に分かたれた通常の戦場とは異なった、敵と味方が隣り合い、時に交流を試みてはその度に避けられぬ衝突とすれ違いに対峙し続ける「戦場」において、戦争の深層を浮上させようとする試みは、ジャンル的な戦争映画とは一線を画しているようにも思える。俯瞰で集団を眺めるより、個人に寄り添い凝視するからこそかもしれない。
しかし、最後の最後ではやはり、個人は負ける。仲間を殺した敵を殺すことは私怨の為せる業のようでいて、殺しを躊躇う個人を容易くつぶす集団性の圧制なのだ。個人では固持できるはずの良心や尊厳も、強大な社会のお墨付きを得てしまった「正当」性には目が眩み、大義に隠蔽されてしまう。戦争の怖ろしさとは暴力それ自体よりも、それを制御する可能性の殲滅にあるのかもしれない。
※監督は、「アラブ人とユダヤ人が破壊という戦争ではなく、映画制作という創造のために共同できたことに可能性を感じた」とも語ってくれた。
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013のコンペ作品で最初の観賞となった『フロントライン・ミッション(Rock Ba-Casba)』(タイトルは、アラブ人とユダヤ人が戯れるミュージックビデオが印象的なThe Clash「Rock the Casbah」に由来)は、イスラエルとフランスの共同制作による作品。監督・脚本のヤリブ・ホロヴィッツ(Yariv Horowitz)は、ミュージックビデオやテレビの演出や、国外でのCM制作、短篇ドキュメンタリーの監督なども務めてきたという。(ここで彼の仕事がいろいろと見られる。)長編監督1作目となる本作は、今年のベルリン国際映画祭パノラマ部門に出品され、C.I.C.A.E.賞(国際アートシアター連盟賞)を授与された。
舞台は1989年のパレスチナ・ガザ地区。そこに派遣された若きイスラエル兵達の苦悩を通して、衝突や矛盾のかかえる凄惨と陰鬱と不毛と懊悩が浮き彫りにされてゆく。派遣後間もなく、反発する地元の若者が屋上から落とした洗濯機によって一人のイスラエル兵が絶命する。いきなり突きつけられた現実に、虚脱と葛藤の日々が始まる。「支配者」としてのイスラエル兵の横暴、抵抗だけが尊厳の術かのようなガザの民。時に愚かで時に聡明な貌を、どちらの側も錯雑と淡々に繰り返す。
まず何よりも新鮮(?)だったのが、地元民による投石の怖ろしさ。監督によると、「ユダヤ人にただ(無料)で石を投げつけられる」とあって、パレスチナの人々も嬉々としてエキストラに参加したんだとか(笑)・・・なるほど。その迫力は確かに伝わる(※)。驚くことに、銃撃戦の何倍も怖ろしい映像なのだ。それはきっと、銃は撃ったことも撃たれたこともないが、石なら投げたことがあるし、ぶつかったこともあるからだろう。それに、銃弾は(その弾道が)目に見えないし、弾自体の重みは稀薄である(それ故の怖ろしさはありつつも、それゆえにどこか形而上的でもある)故に、質量も「弾道」もはっきり体感できてしまう石の重みは激しさを喚ぶ。
また、地元民はとにかく屋上から物を落として攻撃しようとするのだが、その位置関係がもたらす恐怖も厖大で、これは武器をもたぬ民のせめてもの「凌駕」なのかもしれないが、それを更なる規模と間接(無意識)で大量に投下する残虐こそが、空襲というものなのだ。銃撃が傷みをどこか抽象化してしまったように、空襲もおそらく同様の「効果」を孕んでる。銃撃や空襲のもつ残虐性をより「具体」的に見せられることで、戦闘の文明化が、増殖する犠牲の痛みを隠蔽している事実に気づかされたり。
そうした意味では、敵と味方が空間的に分かたれた通常の戦場とは異なった、敵と味方が隣り合い、時に交流を試みてはその度に避けられぬ衝突とすれ違いに対峙し続ける「戦場」において、戦争の深層を浮上させようとする試みは、ジャンル的な戦争映画とは一線を画しているようにも思える。俯瞰で集団を眺めるより、個人に寄り添い凝視するからこそかもしれない。
しかし、最後の最後ではやはり、個人は負ける。仲間を殺した敵を殺すことは私怨の為せる業のようでいて、殺しを躊躇う個人を容易くつぶす集団性の圧制なのだ。個人では固持できるはずの良心や尊厳も、強大な社会のお墨付きを得てしまった「正当」性には目が眩み、大義に隠蔽されてしまう。戦争の怖ろしさとは暴力それ自体よりも、それを制御する可能性の殲滅にあるのかもしれない。
※監督は、「アラブ人とユダヤ人が破壊という戦争ではなく、映画制作という創造のために共同できたことに可能性を感じた」とも語ってくれた。
2013年7月15日月曜日
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2013
2004年に始まり、今年で10回目を迎えるIDCF(International Digital Cinema Festival)。2003年にオープンしたSKIPシティ(埼玉県川口市)で毎年開催されてきた。SKIPシティの「SKIP」とは、「Saitama Kawaguchi Inteligent Park」の略なんだとか。川口駅から、ほぼ20分おきに無料バスが出ており、所要時間は約12分。(帰りのバスも、同様。)川口までも遠いし、そこから更にバス!?という時点で、怠惰で中央集権的(笑)な私としては参加を検討すらしたことなかったが(そもそも、始まった頃は最も映画から遠ざかる生活をしていた時期でもあったし)、一昨年のオープニング作品がヌリ・ビルゲ・ジェイランの『昔々、アナトリアで』ということを知って駆けつけみると、他の映画祭や特集上映などとは全く異質な空気につつまれて、映画祭のイメージが変わった(というより、広がった)貴重な体験に。海外の映画祭についてしばしば語られる地域密着型という表現を初めて日本で(というか、首都圏で、か)体感できた新鮮さ。「シネフィル」大集合に充満するギスギスやピリピリとは無縁の、東京よりも些か空も広めの、ちょっとだけ周縁な、厭なとこをちょこっとスキップ、そんな川口で過ごす和やかのんびりフェスティバル。
というわけで、爾来3年連続で参加することにしたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。繁忙期真っ只中、三連休も三連勤、怪物大学も野性速度も観られていないまま、それでも時間を捻出し、まずはとりあえず二本観て来た日曜日。
何とか昼に仕事場を抜け出して、昼食もとらずにSKIPシティに駆け込むと、まずは「あるはず」だったファミリーマートを捜してみるが・・・無い。周辺には何も(といったら怒られるか)ないので、こいつは困った・・・と思ったら、ファミマがあった場所が休憩所になっており、そこには手作りパンの出張販売が。(ちなみに、タリーズも奥にはあったりする。)そこで、折角だし(?)その休憩所でランチを素早くとることに。サンドイッチとパンを買い、缶コーヒー飲みながら、おだやかな昼食。「ザ・簡易」といった趣のその休憩所には、来日中の監督や通訳の方なんかも昼食をとっていて、相変わらずのIDCFらしさを体感。
客層は中高年(とくに年配の方)が多めだったりするのもIDCFの特色。しかし、イタリア映画祭のややハイソ的シルバー層やフランス映画祭の有閑マダムとは違った様相で、年に一度のお祭りを楽しみにしている&青春時代に娯楽の王様だった映画への憧れに今一度胸躍らせてやって来る地元の方々が主だったりする。始まるまえの情報交換も、観賞後の感想も、至って気さくな即興曲。衒学始終騒とは無縁の空気に、深呼吸(笑)
観賞料金も良心的で、コンペ1本が800円(前売だと600円)。コンペ3回券は2,100円(前売だと1,500円)。前売だけで販売されてるフリーパスはなんと3,000円(長編12作品と短篇4プログラムがいずれも観られる)。主催している埼玉県および川口市からの相当な助成によって運営されているのではあろうが、そんな価格設定も地元民からの支持との相関関係だったりするのかも。(とか余所者は思ってみても、実際は地元民の大勢は何とも思ってないor疎ましがってるってこともあるのかもしれないけどね。)
前述のファミマ消失と並んで、でもこちらは嬉しい変化だが、今年はシネスコ作品の上映がスクリーン拡張で上映されている!(ということは、座る位置[個人的ベスポジ]が変わるということでもある。) 昨年までは、作品によってはスクリーン拡張によるシネスコ上映もあるにはあったが、基本的にはビスタサイズに上下黒帯で投影するパターンがほとんどだった。椅子の形状に関しては、個人的にはちょっと難ありな気がするものの(背もたれがほんのちょっとね・・・でも、全然普通の劇場椅子レベル)、画質含め上映環境は極めて良好な映像ホール。(実は、もう一方の会場である多目的ホールでの上映は観たことがない。)スクリーン拡張によるシネスコ上映はなかなかの迫力あり。但し、シネスコ作品で画面の外に字幕が出るタイプのものもあるようで、その場合は上下黒帯タイプでの上映かもしれません。
とりあえず今週の平日は仕事も一段落し、何度か川口まで足を運べそうなので、初めてのMOVIX川口にも足を伸ばしてみようかと。(川口駅より徒歩8分らしい) 他にも川口駅前には川口市立中央図書館やメディアセブンなんかも入っているキュポ・ラというビルがあり、のんびりまったり文化的に過ごす休日には恰好な街にも思えます。あ、ちなみにSKIPシティ彩の国ヴィジュアルプラザにも映像ミュージアムや映像公開ライブラリーなんかもあって、巧いことやれば有意義に時間がつぶせそうだし、SKIPシティにある川口市立科学館にはプラネタリウム(平日は投影がないみたいだけど)もあったりします。
というわけで、何故か川口に何の縁もない私が宣伝部員のようになっている(気づけば「です・ます」調になっている)・・・ことからもわかる通り、なかなか居心地の好い町そして映画祭。初日(私にとっての)には、『フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』を観てきましたが、感想は改めて。
というわけで、爾来3年連続で参加することにしたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。繁忙期真っ只中、三連休も三連勤、怪物大学も野性速度も観られていないまま、それでも時間を捻出し、まずはとりあえず二本観て来た日曜日。
何とか昼に仕事場を抜け出して、昼食もとらずにSKIPシティに駆け込むと、まずは「あるはず」だったファミリーマートを捜してみるが・・・無い。周辺には何も(といったら怒られるか)ないので、こいつは困った・・・と思ったら、ファミマがあった場所が休憩所になっており、そこには手作りパンの出張販売が。(ちなみに、タリーズも奥にはあったりする。)そこで、折角だし(?)その休憩所でランチを素早くとることに。サンドイッチとパンを買い、缶コーヒー飲みながら、おだやかな昼食。「ザ・簡易」といった趣のその休憩所には、来日中の監督や通訳の方なんかも昼食をとっていて、相変わらずのIDCFらしさを体感。
客層は中高年(とくに年配の方)が多めだったりするのもIDCFの特色。しかし、イタリア映画祭のややハイソ的シルバー層やフランス映画祭の有閑マダムとは違った様相で、年に一度のお祭りを楽しみにしている&青春時代に娯楽の王様だった映画への憧れに今一度胸躍らせてやって来る地元の方々が主だったりする。始まるまえの情報交換も、観賞後の感想も、至って気さくな即興曲。衒学始終騒とは無縁の空気に、深呼吸(笑)
観賞料金も良心的で、コンペ1本が800円(前売だと600円)。コンペ3回券は2,100円(前売だと1,500円)。前売だけで販売されてるフリーパスはなんと3,000円(長編12作品と短篇4プログラムがいずれも観られる)。主催している埼玉県および川口市からの相当な助成によって運営されているのではあろうが、そんな価格設定も地元民からの支持との相関関係だったりするのかも。(とか余所者は思ってみても、実際は地元民の大勢は何とも思ってないor疎ましがってるってこともあるのかもしれないけどね。)
前述のファミマ消失と並んで、でもこちらは嬉しい変化だが、今年はシネスコ作品の上映がスクリーン拡張で上映されている!(ということは、座る位置[個人的ベスポジ]が変わるということでもある。) 昨年までは、作品によってはスクリーン拡張によるシネスコ上映もあるにはあったが、基本的にはビスタサイズに上下黒帯で投影するパターンがほとんどだった。椅子の形状に関しては、個人的にはちょっと難ありな気がするものの(背もたれがほんのちょっとね・・・でも、全然普通の劇場椅子レベル)、画質含め上映環境は極めて良好な映像ホール。(実は、もう一方の会場である多目的ホールでの上映は観たことがない。)スクリーン拡張によるシネスコ上映はなかなかの迫力あり。但し、シネスコ作品で画面の外に字幕が出るタイプのものもあるようで、その場合は上下黒帯タイプでの上映かもしれません。
とりあえず今週の平日は仕事も一段落し、何度か川口まで足を運べそうなので、初めてのMOVIX川口にも足を伸ばしてみようかと。(川口駅より徒歩8分らしい) 他にも川口駅前には川口市立中央図書館やメディアセブンなんかも入っているキュポ・ラというビルがあり、のんびりまったり文化的に過ごす休日には恰好な街にも思えます。あ、ちなみにSKIPシティ彩の国ヴィジュアルプラザにも映像ミュージアムや映像公開ライブラリーなんかもあって、巧いことやれば有意義に時間がつぶせそうだし、SKIPシティにある川口市立科学館にはプラネタリウム(平日は投影がないみたいだけど)もあったりします。
というわけで、何故か川口に何の縁もない私が宣伝部員のようになっている(気づけば「です・ます」調になっている)・・・ことからもわかる通り、なかなか居心地の好い町そして映画祭。初日(私にとっての)には、『フロントライン・ミッション』と『狼が羊に恋をするとき』を観てきましたが、感想は改めて。
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