年々、面白味に欠けるリストになってしまう映画の年間ベスト。
(今年、劇場で観た新作が対象。順番は、観た順序。)
日頃の暮らしにはあまり感じることのない(ただ自覚がないだけかも)落ち着き、というか老いというか、成長はもう難しいとて成熟であってほしい、だけどやっぱりいざなってみると「こんなもんか」でしかない、年をとる。
年々、結構すらすら素直にリストアップできるようになっていて、その結果並んだ映画のタイトルを眺めて「面白味に欠ける」と自ら評するということは、いろいろと披瀝しちゃってる気がしなくもない。
これまでは作為的に「面白味」を演出(捏造)してきたのか?
ただ単に趣味が随分と凡庸へと着地しつつあるだけのか?
いまだに自らの趣味に非凡なる感度を求めてしまっているのか?
きっと、そのどれもが当てはまる。ただ、それだけ。
リストの中身をいじりたくないという今の気持ちを尊重しつつ、往生際の悪い凡庸回避メンタルの足掻きも可愛がってやるとして、今年は見せ方(括り方)で茶を濁す。
「僕の好きな映画監督の新作」部門
*パリ、恋人たちの影(フィリップ・ガレル)
*ブラインド・マッサージ(ロウ・イエ)
*ラビング 愛という名前のふたり(ジェフ・ニコルズ)
*わたしは、ダニエル・ブレイク(ケン・ローチ)
*未来よ こんにちは(ミア・ハンセン=ラブ)
*パーショナル・ショッパー(オリヴィエ・アサイヤス)
*パターソン(ジム・ジャームッシュ)
*グレイン(セミフ・カプランオール)
*希望のかなた(アキ・カウリスマキ)
フィリップ・ガレルはいっつも同じような映画しか撮らない気がするけど、その「同じような」のが同じように好きなので、やっぱりいつ観ても懐かしくて、その懐かしさが好きな者にはたまらない。そうした郷土愛的偏愛は、カウリスマキとかジャームッシュも同様で、この二人は本当に毎回(特に最近)絶対的な普遍のなかに更新を忘れないから感服しかない。別の意味で、とことん誠実に強いケン・ローチは見るたびに鞭撻される。
ミア&オリヴィエも本当、どこまで進化し深化してゆくのだろう。前衛過ぎず、ズレ過ぎない、独立独歩感が唯一無二なのに、親密さを増す作品たち。
ロウ・イエはアップリンクがしっかり見守ってくれているんだけど、ジェフ・ニコルズの『ミッドナイト・スペシャル』が劇場公開ないって、どういうことだよ・・・。それで言うと、劇場未公開&ソフトスルーの女王、ケリー・ライヒャルトの映画って、いつになったら映画館にかかるのか・・・。「Certain Woman(DVDタイトル『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』)」まで劇場未公開って一体・・・。ひと頃に比べれば随分と活況を呈しているように見える外国映画の配給状況だけど、結局本数が増えてるだけな気もする。ビジネスモデルが変わっただけで、それに伴って観客の消費行動も変化し、それを追随した結果本数が増えました、というだけのような気がしてしまう。TIFFで見逃したデプレシャンとボーヴォワは、さすがに劇場での公開あるよね?(特に後者は微妙な気がしてきたので、祈っておく。)
やばい、年の瀬のおだやかな時間(イメージ的にはエンヤ)に愚痴ってしまった。
でも、今年も色々つまらない感をいだきつつもそれなりに参加した東京国際映画祭だったけど、セミフ・カプランオールの新作を観られて、監督の話まで聴けて、グランプリ受賞したから2回目まで(しかもTCXで)観られたので、まだまだ日本における外国映画鑑賞環境も捨てたもんではありません。おそらく。
「みんなも大好き映画」部門
*沈黙-サイレンス-(マーティン・スコセッシ)
*たかが世界の終わり(グザヴィエ・ドラン)
*ラ・ラ・ランド(デミアン・チャゼル)
*T2(ダニー・ボイル)
*マンチェスター・バイ・ザ・シー(ケネス・ロナーガン)
*メッセージ(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
*ダンケルク(クリストファー・ノーラン)
*ブレードランナー2049(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
*スターウォーズ/最後のジェダイ(ライアン・ジョンソン)
なんか、これはこれでなかなか素敵なリストな気がしてきた。
「わたしも結構、映画観たりするんですよ」
「へぇ、たとえば今年はどんな映画がよかった?」
「そうですねぇ・・・」
なんて会話の続きで出てくると、いい感じなリスト。
でもきっと、「あれ?『ムーンライト』は観なかったの?」って流れになる。
『ムーンライト』も好きな映画だったけど、なぜかそんなに残ってないんだよね。
で、意外にも『ラ・ラ・ランド』と『たかが世界の終わり』が妙に残ってる。
両方とも2回観に行ってしまったのだけれど、前者は2回目の方が沁みたけど、後者は1回目の陶酔感が凄すぎたからか2回目はあっさり。
グザヴィエ・ドランは『トム・アット・ザ・ファーム』以外は正直ハマる感じではなかったんだけど、今回は何故かやられてしまいました。ドゥニ・ヴィルヌーヴは実のところ、カナダ時代(って言っていいのか?)の『渦』が一番好きなんだけど、一応あの頃のちょっと癖のある感じはかろうじて保ってて、優等生気味な歪さが垢抜けつつありつつも、まだギリギリ好き。音楽がヨハン・ヨハンソンじゃなくなっちゃったので心配したけど、あれはあれで好かった。
『沈黙』はもう、10年以上前から原作を色んな人に薦めては、「これ、スコセッシが映画化する」と言い放ち続けて来た自分としては、嘘つきにならないで済んだことに、まず安堵。人生で最も長く待つ(本気で)経験をした作品かもしれない。
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の素晴らしさは、『マーガレット』の不遇さを生んだものによる贖罪な気もする。だとしたら、悲しいけれど愛おしい償い。
「最後のジェダイ」は断然支持します。別に否定派とか絶対認めないっていう人に抗議するとかの気持ちには全然ならないけど(論争込みで楽しむような存在になってるからね)、何となく「ミッション・インポッシブル」シリーズの流れと自分のなかでは色々重なった。個人プレーからチームプレーへ。明瞭なる敵の偏在から茫漠たる悪の遍在へ。で、両者ともその流れこそが自分にとっては興味深く、面白い。
「本数観てないけど、日本映画」部門
*息の跡(小森はるか)
*夜明け告げるルーのうた(湯浅政明)
*夜空はいつでも最高密度の青色だ(石井裕也)
*散歩する侵略者(黒沢清)
異様にヒットしてた『人生フルーツ』上映館のポレポレ東中野で観た『息の跡』。あそこは、お金の儲け方と使い方が極めて正しい劇場の一つな気がします。
『夜は短し歩けよ乙女』はまだ観られていないのですが、アジカンは特別好きな訳ではないものの、アジカンが主題歌の映画は好きなので、おそらくかなり好きなはず。
日本映画でも生活のための仕事と、人生のための為事を行き来しながら活動できる「作家」が若手にも増えて来て、若手の方がちゃんと自らの牙城を守りつつ、雇われだってそれなりに楽しんだり挑戦したりして、さすが勢いのなくなって久しい社会を生きてきた人間は違うよね、などと思う。しかも、そういうバイオリズムが役者と見事に融和したりして作品がつくられるから、どんなケミストリーが起こるかワクワク感が充満してる。
黒沢清は今年、SKIPシティDシネマ国際映画祭の審査委員長だったから、連日(といっても、今年は3日間くらいしか行けなかったけど)一緒に映画を観た(笑) アットホーム過ぎる映画祭なので、審査員に座席が特に用意されることなく(以前は用意されてたけど)、移動も皆と一緒にバスで。だから、往きも復りも黒沢清と一緒にバスを待つ・・・。そして、ボランティアのおじちゃんおばちゃんは当然、黒沢清のことなんて知らない・・・。実に快適な鑑賞環境。
「その他」部門
*ありがとう、トニ・エルドマン(マーレン・アデ)
*ライフ・アンド・ナッシング・モア(アントニオ・メンデス・エスパルサ)
*ノクターナル・アニマルズ(トム・フォード)
*ジョニーは行方不明(ホァン・シー)
マーレン・アデが好きな映画作家になるかどうかはわからないけど、この映画は確かに独特な力を持っていて、好きという訳ではないけど絶対無視できないものがあった。そういう映画の方が、評価したくなる感覚はよくわかる。
前作『ヒア・アンド・ゼア』もTIFFで観たアントニオ・メンデス・エスパルサ監督の新作は、前作からの着実な歩みに前進を感じさせるというよりも、新たな旅に出て来た報告。『ヒア・アンド・ゼア』を観た時の記事を読むと、今作にも見事にあてはまることばかりで(同じ人の映画を同じ人が観た感想なんだから、当然かもしれないが)、この監督の誠実は相当なものな気が尚更してくる。かなりの地味さゆえに隠れがちだけど、この監督はものすごく新しいことをしている(というか、果敢に挑むことを真剣にやっている)気がする。ただ、巧い「定義」がみつからない挑み方してるから、そういう扱いは受けないし、だからこそ観る側も素直に自分の心に沈潜させられる。
トム・フォードの服は着られずとも、映画なら観られる。が、映画の方の上質感は服のそれ以上かも。しかも、魅惑のラビリンス度は底抜けに天井知らず。
『牯嶺街少年殺人事件』が劇場公開された今年の終わりに、フィルメックスで観たクー・ユールンが出ている映画。彼はいくつになっても瑞々しさが消えない。ヒロイン役のリマ・ジダンも実に魅力的で、役者もスタッフも若干の不慣れさというか、各要素がややはまり切れてない不安定さというか、その落ち着かなさに気づくと何となく落ち着く感じ。
年々少しずつ映画祭への通い方が減りつつあるものの、劇場公開作よりは積極的に観るようにしてたけど、今年はそこまでガツンと来る映画が少なかったような気がする。観賞作品の選び方のせいかもしれないし、心も身体も疲弊したなかで観てたからかもしれないけれど、映画祭という場の苦手感は相変わらずだし、何となく自分のバイオリズムで「観に行く」という動きが実現できない窮屈さはどうしてもある。(だから、チケット買ってても観に行かなかったり、観ないで帰ったりが増えてしまう。)
正直、最近では、「映画館で映画を観ることにこだわる人間」に自分はとことん向いてない気もしてきたりして。というより、最近ではとにかくお金より何より、「時間」を気にしてしまう。あと、健康も(笑)
やっぱり実人生を充実させるのに必要なのは、その二つな気がして、そう考えると映画館に映画を観に行く(ましてや、映画祭なんかに足を運ぶ)というのは、相当なロスに思えてしまうという、映画ファン失格メンタルに頻繁に襲われ、負けつつあった2017年でした。
上記の作品以外でも、好きな映画はいっぱいありました。
『マリアンヌ』も世間的には何故か不発だったけど、『フライト』『ザ・ウォーク』と来て『マリアンヌ』という傑作群を撮り続けている絶好調名匠の過小認知(日本のみならず本国でも)は、謎。
『はじまりへの旅』のアレックス・サマーズ、『ジャッキー』のミカ・レヴィ、『グッド・タイム』のダニエル・ロパンティン。音楽によって作品の好きさが5割増しの大貢献。『20センチュリー・ウーマン』の選曲も安定の気に入り具合。それらの作品はサントラをよく聴いたから、映画本体以上に音楽の存在感がでかい。
アジア映画には本当に全然手が回らなくて、韓国映画とかも全然観られていないけど、『新感染 ファイナル・エクスプレス』(災厄な邦題)には唸りました。ヨン・サンホ監督のアニメ作品を見せてくれたGEORAMA2016は、本当に素晴らしいイベントだったなぁ。年明け早々にあるニューディアー主催のシアターイメージフォーラムでの上映も、実に楽しみ。
ニューディアーによる世界のアニメーション紹介活動も、いまの日本映画界においては極めて貴重な活動のひとつだと思うけど、今年の映画界で最大の注目すべきイベントはやはり、「ほぼ丸ごと未公開!傑作だらけの合同上映会」だったと思う・・・などと書いておきながら、実際には行けてないんだけど(無念)。ただ、その関連イベント(でいいのかな?)である特集上映:アメリカ映画が描く「真摯な痛み」vol.2に先日、ようやく初めて足を踏み入れました!
・・・そして、あらゆることに感動しました。
久しぶりにブログ更新しちゃおうかと思ったくらい。
上映された2作品(『マイ・ファースト・ミスター』、『ドント・シンク・トワイス』)は本当どちらも素晴らしく、「確かな劇場未公開作」としての両作の良作っぷりに、イベントの唯一無二性を情報としてのみならず全身で体感。「劇場未公開」なのに上映される作品というのは大抵、一部のマニアから偏愛される作家性があったり、何かと新しさをウリにして先物買い達に訴求する話題性があったりすることが多いんだけど、今回上映された二作はそうした「パッケージ」で劇場未公開という「名誉」に与った訳でもなく、かと言って語るも聞くも楽しい「不幸」に見舞われた訳でもなく、芯が良いから見落とされちゃったというか見向きもされなかった感のある、愛しき正しい落ちこぼれ。他人に道を譲り続けてたら、結局自分が通れなくなっちゃった、みたいな感じ。
そんなだから、当然「流通」している作品群では味わえない想いにさせてくれる。しかも、このイベントを岡俊彦さん個人で主催してるという事実はとてつもなく凄いんだけど、その偉業感を微塵も感じさせない上映会の空気が実に実にあたたかいし、優しい。「オーディトリウム渋谷」時代は足を運びつつも払拭できなかった苦手意識の記憶が、嘘のように氷解する日曜の昼下がり。上映前のBGMなんかにまで目配せたっぷりで、ニヤリ。本編の字幕とかも本当に見事に練りに練られているおかげで、劇場公開作同様(いや、それ以上)に何ら違和感もなく作品に没頭して鑑賞できる。ブルーレイ上映だったと思うけど、シネマスコープ作品をシネマスコープサイズのスクリーンにばっちり映写。個人なのに・・・というよりも、まさに「個人だからこそ」何一つ蔑ろにせず、何にでもこだわり抜けるという自由さを謳歌している主催者と、その恩恵を全身で浴びられる参加者。こんなにも互恵なイベントは、そう滅多にあるもんじゃない。それはきっと、ビジネスじゃないからかもしれないが、ビジネスとしての成立を前提としないで出発し、実行し、成功している(上映会に参加した人たちが満足しているということを、ここでは成功とする)という事自体、とんでもなく新しい「映画上映のかたち」が出来つつある瞬間に立ち会った気がしたのです。
映画上映のデジタル化の真価にようやく出会えた気がします。
「デジタル化は民主化」的な言説があらゆる分野で語られつつ、実際にそうした動きも其処此処で生じてはいるのだろうけれど、こと映画に関しては、本当の意味での「民主化」なんて起こっているようには感じられず、在るのはせいぜい大衆化だったり低品質化だったりして、懐疑的かつ懐古的になってしまう気分に支配されつつあった自分こそ、封建社会という安楽椅子から立ち上がれずにいただけの受動人間だったのだという猛省と共に、真に価値ある「活動」とはまさにこういうことなんだ!という理想を現実に見るという極めて稀有なる体験をしたように思います。
『マイ・ファースト・ミスター』も『ドント・シンク・トワイス』も、絶対に忘れられない作品になったのは、そうした唯一無二な体験だったからでもありますが、作品自体が語りかける内容もまた、この素晴らしい体験と見事にシンクロするものでした。
自分に真摯であればあるほど、周囲との違和に悩み傷つくことが絶えることはない。そうして傷つき続ける人間は、自分が決して他の存在になれないことを知っているから、誰かを自分と同化させようとはしないし、同化などという手形のやりとりに何ら価値を見出さない。同化したら、手もつなげないし、抱きしめることだったできない。同じじゃない、違う存在だからこそ、見つめられるし、魅せられる。
恋人だろうと友人だろうと家族だろうと他人だろうと、誰かがいることに感謝する。
すべての芸術の真髄は、そういうところにあるのかもしれない。
大切なことを映画の内でも外でも教えてもらった気がする。
映画をいちばん近くに、そして大きく感じた日だった。
2017年12月31日日曜日
2016年12月31日土曜日
2016年の映画ベスト10
評価とかじゃなく、気に入った10本。(観た順)
ザ・ウォーク(ロバート・ゼメキス)
事実が素敵だし、その物語が魅力だし、実際の人たちも愛おしく。
『マン・オン・ワイヤー』も、原作(?…本の方)も繰り返し触れたのは、
きっと憧れとしか言い得ない引きつけられ方をしているからで、
ロバート自身もこれまで「落ちる」恐怖より「浮く」興奮に魅せられてきて、
そんな夢見だけでしっかりとこの映画もつくっちゃってくれたから、好きしかない。
サウルの息子(ネメシュ・ラースロー)
ハンガリーでの氏名はまさに氏・名の順。(日本と同じ)
誰かが書いてたけど、西欧中心主義への抵抗的な歴史の産物とか。
手法の新しさが必ずしも視点の新しさを生むとは限らないけど、
それは作る方の問題であると同時に、観る方の問題でもあると思う。
人生は小説よりも奇なり(アイラ・サックス)
個人的に今年の最も辛い時期に最も救われた作品。
救いとは、上から腕をつかんで引っ張り上げてくれることではない。
そこに居たいだけ居ればいい、痛いだけ痛がればいい、
そこからだって、そこそこ好い景色が見えてるかもしれない。
見てないだけで。見ようとしないだけ。見てみるだけでいい。
さざなみ(アンドリュー・ヘイ)
人生なんて所詮、「まぼろし」に過ぎない。
その「まぼろし」をどれだけ信じ抜けるか。信じる者は救われる。
過去も神も、誰にも見えず、証明できないから、信じた分だけ正しさがある。
と、思いたいだけかもしれない。
シング・ストリート(ジョン・カーニー)
大きくなっても「シング」を忘れない。
「ストリート」だって忘れない。
僕はウキウキ、彼女がウェイク・ミー・アップ。
船出の先には、はじまりのうた。
ハドソン川の奇跡(クリント・イーストウッド)
イーストウッドを「神」とか称する風潮が、実は好き。
言語化に苦慮する専門家の敗北宣言としか思えないから。
そして、それを意図せずやろうとしているクリント爺さんの
悪戯っ子まるだしの腕白感がたまらなく「超人」的だから。
ノクトラマ(ベルトラン・ボネロ)
『サンローラン』から俄然支持しかし得なくなった彼の冗長さが骨身に沁みる。
今のボネロのリズムは、今の自分と共振してて、何をやっても引きずられる。
だから、いつ訣別しても悔いはない。けど、今は好き。
牯嶺街少年殺人事件(エドワード・ヤン)
僕が映画を好きになった頃には既に見られなくなってた幻、
「語られてる」のをいつも指くわえて見てるだけの歴史の1ページ。
ビデオテープも持ってたし、クライテリオンから出たブルーレイも入手した。
のに、そのような形でめくってはいけないような気がした1ページ。
11月3日に寝不足のなか、偶々早く目が覚めて気まぐれクリック、残席チェック。
あっさりと射し込んだ光明。呆気ない幕切れは呆気にとられる幕開け。
フレームの外で膨張し続けた時間が押しつぶすかと思われた236分。
膨張したのは236分の方だった。
リトル・メン(アイラ・サックス)
『牯嶺街少年殺人事件』の後の上映を観る予定だった。
いや、本当は『牯嶺街少年殺人事件』は観られないはずだったから、
そういうオーダーじゃなかったはずなんだけどそうなった、偶然。いや、必然?
観ないで帰ろうとも思った、当然。だけど、やっぱり観てよかった。釈然。
「少年」の多様さを圧して均して凡庸にするのはいつも、大人の方。判然。
この世界の片隅で(片渕須直)
この監督は、前作まで本当に苦手だった。
新海誠も同様で、どちらも新作観るつもりなかったのに、
世間の話題のせいで(おかげで)観ることができた。どちらも確かによかった。
好きかどうかで言ったら一瞬逡巡するけれど、
喉にひっかかった魚の骨のような気になり方が尾を引いてしまう。
とれた途端に、あの違和感が突如愛おしくなる。けど、説明できない。
不要じゃないけど、必要でもない説明。感じると語るのあわいをうめつくす。
今年観た映画のリストをざーっと見ながら、
とりあえず優先的に印をつけてみたらちょうど10本だったので、10本に。
とはいえ、かなり抜けのあるリストなので、
後から『光りの墓』とか『キャロル』とか重要作が抜けてることに気づくも、
抜けてたことに気づけなかったということは、
この度は御縁が無かったということで。
とはいえ、かなり抜けのあるリストなので、
後から『光りの墓』とか『キャロル』とか重要作が抜けてることに気づくも、
抜けてたことに気づけなかったということは、
この度は御縁が無かったということで。
そんなリストなので、記録的にも(ましてや本数的には)あやふやながら、
恐らく今年(劇場で)観た映画は200本いかないくらいかな、と。
年々減り続けて、ようやく最適ラインまでもう一歩というところかも。
二日に一本くらいが、ちょうど好い気がしますが、
現実の生活で充実を図るなら三日に一本くらいにしといた方が好いし、
一週間に一本にしたら、もうちょっと素敵な世界が拓けるかも(笑)
近年は、映画は「観たい時(期)、観たい場所でしか観ない」をモットーに、
好きではない映画館でかかっている場合は迷わず選択肢から外すし、
実生活での想いや流れとミスマッチなうちには観るべき映画も観に行かない。
逆に、理由はどうであれ観たいと思ったら迷わず行くし、その逆もまた然り。
ただ、気が進まぬ時や場所でも、帰り道に「来て好かった」と思うこと少なくなく、
多少の無理はときどき許すという無理のなさが目標。(連鎖する無理という矛盾)
語っている対象の魅力が語っている自分を照らしてくれる年頃はもう過ぎたので、
語っている自分が語っている対象を魅力的にできるような生き方をめざしたい。
途方もなく高尚な目標だけど、なれなくても近づくことはできると思う。
10本以外の映画についても振り返る。
昨年末公開だから、選外をお許し願ったものの、
ファティ・アキンの深刻はやっぱり刺さる、『消えた声が、その名を呼ぶ』。
角川シネマ有楽町は、そんなに行かないけど、行くと必ず私的名作に出会える場所。
(「そんなに行かない」のに「わざわざ行く」のだから、それは必定か。)
『奇蹟がくれた数式』も地味ながら、好かったなぁ。
ラマヌジャンの伝記も頑張って読んだから余計。
最近は、日本でも色んな形で日の目を見るようになった外国映画が増えたせいか、
小さめのイベント系映画祭(特集)上映未公開作が小粒(ニッチ)化の傾向にある。
気がしてしまうのは個人的な好みからの独断かもしれないけれど、
北欧系の作品にはまだまだ未紹介な逸品が眠っているのかもしれない。が、
今年の北欧系映画祭では、あまり出会えなかった。
本数観てないからかもしれないけれど。
ただ、その一方で、今年初参加したイベント「GEORAMA2016」が
極上のラインナップで、連日チップを何枚も弾みまくり(たい気分だった)。
ドン・ハーツフェルトの話を二回も聞けたし、牧野貴の映像と音楽も浴びられたし、
日本未公開の長編(おそるべき傑作ぞろい)を何本も観られたし。
ディエゴ・ゲラ監督の『追放(Banished)』なんか2回も観に行ってしまったし、
韓国で今年大ヒットの『釜山行き』の監督ヨン・サンホによる『フェイク』とか、
まさにアニメの新地平。(アニメであれなら、実写では楽勝だろう・・・)
GEORAMA主宰の土居伸彰さんが起ち上げた「NEW DEER」配給の『父を探して』も
抜群に素晴らしかった。語りたくなる「隙」がないくらいに名作すぎた。
アニメといえば、『レッド・タートル』も見事に素晴らしかったのに、
作品以上に興行が静かすぎたね。残念だ。
『君の名は。』と公開時期かぶってただけに、余計な哀しみが増幅された。
アカデミー賞絡みの作品群(雑な括り)は、やっぱり充実している訳で、
2~5月頃の中・大規模公開作は粒が揃う分、一作ずつが記憶の中で際立ち難い。
『ブリッジ・オブ・スパイ』(1月公開だけど)も本当に素晴らしかったな。
俺ごときがベストとかに選出する必要が全然ないくらい。
『キャロル』、『スティーブ・ジョブズ』、『ヘイトフル・エイト』、
『リリーのために』、『スポットライト』、『ブルックリン』なんかは、
いずれも年間ベスト級の好みだし、
『ボーダーライン』もヨハン・ヨハンソンの存在感がもうすこし小さければ、
もっと映画の方が記憶に残っていたに違いない。
というか、ドゥニ・ヴィルヌーヴは個人的に『渦』と『プリズナーズ』を偏愛し、
そういう個人的ベスト作がある監督は、監督作が軒並み好きでもベスト選出時不利。
今年のパオロ・ソレンティーノとかマッテオ・ガローネとかは、そのタイプ。
ソクーロフは正直消化不良。アルモドバルは未食。ウディ・アレンは拒食(ウソ)。
アトム・エゴヤンは久々に面白かった! 気を吐きまくってる感じ。
アメコミ系やSFアクション系も依然好きなはずなんだけど、
最近なぜかあまり乗り切れない。(見逃す映画も増えがち)
自分が堅くなったからなのか、最近は真面目過ぎかバカ過ぎかの両極端で、
そもそもターゲット照準型の作品群が更なる特化路線に舵切ってる感にやや辟易。
その一方で、或る意味「特化型」だけど、或る意味「開放的」な『ローグ・ワン』。
好きでした。
もともと旧作の上映とかに律儀に(?)通わない自分は、
今年も名画座とかその手の特集上映には足があまり向かなかったものの、
『チリの闘い』は壮絶でした。ベストに入れ損ねたものの、時代超越の記録だし、
単年ベストに入れるには収まり悪いから、存在の大きさ故の選外で勘弁を。
温故に没頭して知新なんて何処吹く風の選民的名画座偏愛衆も少なくないけれど、
そもそも名画座に据わりが良くなっちゃってる作品側の力不足な場合もあるのかも。
川崎市市民ミュージアムでの「ケン・ローチ初期傑作集」はさすがに全作観たけど、
古い分だけ「新しさ」が暴れまくってて、
現代映画の脆弱性に軽く(いや、かなり)凹んだくらい。
映画祭には、今年もそれなりに通いはしたけれど、
ばっちり参加できない映画祭には全く行かないという極端な選択に走る傾向も。
今年は近年では珍しく、イタリア映画祭で一本も観なかったし、
フランス映画祭も昨年に引き続き全く不参加。
SKIPシティDシネマ国際映画祭は今年も快適で、
全作それなりに見応えあったけど、頭抜けた作品には出会えなかった。
ラテンビートは相変わらず好いのをもってきてくれてるという感謝。
昨年の東京国際映画祭で見逃した(というか、いずれどこかでかかるの期待した)
フレデリック・ワイズマンの『ジャクソン・ハイツ』は「予定」通りの充実作だし、
『彼方から』や『名誉市民』という、映画祭などで既に評価済の良作はやはり好い。
久々に映画館での開催となったドイツ映画祭も好かったな。作品は小粒だったけど。
東京国際映画祭で観て気に入ったのは(観た順)、
『サファリ』、『フィクサー』、『アクエリアス』、『シエラネバダ』、
『フロム・ノー・ウェア』、『ザ・ティーチャー』。
『あなた自身とあなたのこと』は実に愉快で実に深い。
ホン・サンスは大好きなはずなんだけど、ベストとかで選ぶとなると外す気分。
コンペでグランプリになった作品は全く好いとは思えなかったし、
大好評だった『ダイ・ビューティフル』も、同監督の前作の方が個人的には好き。
ジョアン・ペドロ・ロドリゲスは興味深いし実力者だと思うけど好きじゃなく、
大好きなラヴ・ディアスは観られなかったのが悔やまれる。
金獅子獲ったのと一緒に、どこかで上映して欲しい。
(二作併せると、上映に半日かかる…。)
フィルメックスは、小さめ(?)に参加。
『マンダレーへの道』は評判通り、『よみがえりの樹』は個人的にもグランプリ。
「山」がついてる映画群では、アミール・ナデリのヘンテコ映画が一番好きだった。
『普通の家族』も望外に好く、フィリピン映画「来まくってる」確認、何度目か。
最後に、日本映画。
自分のベストには『この世界の片隅に』しか入れてないけど、
世の中的には、質的にも動員的にも「大当たり」といわれてる今年の日本映画。
個人的には正直やはり余りパッとせず。
とはいえ、本数見てないから偉そうには言えないはずだけど。
昨今の日本インディペンデント映画特有の「甘え」がありそうな映画は
端から観なくなったので、憂鬱や落胆で劇場を後にすることも少なくなったけど。
実写で一番好かったのは、『風の波紋』かも。映っているもの全てに魅了された。
空気にまでも。まさに、実写の魅力。
(いくら威勢の良いアニメでも太刀打ちできない魅力。)
恥ずかしながら(って形容がかつては似合っていたし、そこがツボだった)大好きな
岩井俊二の『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、巧さに磨きがかかってて、
批評受けするほどに私的なトーンはダウンするタイプの映画作家です。
『ちはやふる』は評判良くて、一気に観られるようになってから行きました。
好きな方のキラキラで、火花散ってもキラキラしてる青春でした。
『海よりもまだ深く』は、ハナレグミの主題歌がしばらく脳内木霊なくらい沁み、
『ダゲレオタイプの女』見逃したままの黒沢清の『クリーピー』、面白かった!
『シン・ゴジラ』も世評に納得の面白さ。庵野監督の喜八リスペクト姿勢にも好感。
日本の実写劇映画で私的ベストは『オーバーフェンス』。
役者の本領が美しく編まれてた。
(『怒り』は、演者の演技の個々が際立ち光りすぎ、解れや綻びが気になった。)
演技の華麗なる飛躍といえば、『ヒメアノ~ル』の森田剛。
演技というより、存在のアンサンブルが心地好かったのは、『何者』。
自己主張大得意系旋律な中田ヤスタカが、好い劇伴つくってた。
でもって主題歌の存在感は、『ちはやふる』の「FLASH」に続いて出色だし。
さすがは『LIAR GAME』成功の立役者、功労者。
批評の潮流に乗り遅れまいと(笑)義務感から観た『溺れるナイフ』、
いやぁ好かったです。たまには素直に他人の声に耳を傾けるべきですね。
と、書いてみると(述懐してみると)、やっぱりあまり観てないのかも。
観賞のカバー領域が「つまらない」という体感を醸造してる気も。
もっとちゃんといろいろ観ないといけないのかもしれません。
ドラマは好きでよく観るんですけど。家で気楽に観られるからね。
日本のインディペンデント映画は、小劇場の演劇観に行く時の覚悟を要する…
的な位置づけが自分のなかにはあるのかもしれない。と書いてて再認識。
それ言うなら、アテネフランセとかシネマヴェーラとか(ラピュタは更に)から
足を遠ざけさせる気持ちも、きっと同根な気がします。
或る種の「コミュニティ」への苦手意識が、我が弊害なのかもしれません。
(これも、或る種の「コミュ障」ってやつなのか?)
振り返りの冒頭で、「映画との付き合い方」みたいなこと書いたけど、
私的な観賞スタイルのみならず、今や映画を観る方法は多様化の一途というか、
発展途上・・・急成長? 配信の勢い(投下量)とかすごいし。
正直、全然追いつけてないし、追いつける自信も全然ない。
けど、今後益々個人レベルじゃカバーしきれないほどの量や選択肢が増えることで、
否が応でも自分自身でスタイルを選択・確立していかざるを得ない気もする。
それは自ずと「量より質」を求める思考を促すかもしれないし、
「どれだけ観るかより、どうやって観るか」に心が配られるようになるのかも。
それは観る側だけの問題でもなく、観せる側の変化にもつながるだろうし、
本当の意味での「民主化」とか「自由化」とかに向かうかもしれない。
自分さえしっかりすれば「できる」状況に、もう既になってはいるのだろうけど。
言葉ばかりが上滑りしてる感は否めなかったけど、
実際レベルでも重要度が否応にも増している、
「個の時代」という意識。
「個」が重要なら、「時代」とかとは縁切るはずなんだけど、
そこのところが現代の特有とも言えるわけで、特長にするべく努めるしかない。
我が未知を行くことを厭わずに、我が道を模索する。
一本道なら楽だったのに・・・。
自由を享受するために、自分から自由にならねばならぬ時代になったのか。
いや、時代のせいじゃない。自分のせい。
って、何の話してるんだ? 映画の話、してたんだ。
そういう話になるんだな、俺の映画の話し方。
映画に限らず、きっと何の話でも。
2015年1月26日月曜日
『ジミーとジョルジュ』は、シネスコじゃないの?
シアターイメージフォーラムで、アルノー・デプレシャンの新作(といっても、2013年の作品)『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』を観たんだけど、てっきりシネスコ作品だと思っていたので、スクリーンマスクが移動しないまま本篇が始まった時には「ミニシアターまで、スクリーンマスクの移動をやめちゃうようになったのか・・・」と暗澹たる思いに突き落とされたのも束の間、ビスタ上映だったという・・・。
まぁ、IMDbも情報の誤りあるし、『預言者』とか『グッバイ・ファーストラブ』とかビスタでも冴えまくるステファーヌ・フォンテーヌ(撮影)だから、「本当はビスタだったんだな」と訝ることなく素直に映画を堪能しました。イメフォにしては極めて珍しく快適な場内だったし(笑)
でも、やっぱり気になって帰宅後検索してみると・・・実際にデプレシャン本人が「シネマスコープでの撮影を選択した」と語っている・・・。
海外版の予告は確かにシネスコだけど、日本の公式サイトなんかの予告はビスタだし。チラシにもサイトにもパンフにも、スクリーンサイズに関する情報は一切掲載されていないのも、なんか引っかかる・・・。
映画自体が実に素晴らしかっただけに、そしてデプレシャン作品なだけに、真相(というか、事情?)が気になる。
まぁ、IMDbも情報の誤りあるし、『預言者』とか『グッバイ・ファーストラブ』とかビスタでも冴えまくるステファーヌ・フォンテーヌ(撮影)だから、「本当はビスタだったんだな」と訝ることなく素直に映画を堪能しました。イメフォにしては極めて珍しく快適な場内だったし(笑)
でも、やっぱり気になって帰宅後検索してみると・・・実際にデプレシャン本人が「シネマスコープでの撮影を選択した」と語っている・・・。
海外版の予告は確かにシネスコだけど、日本の公式サイトなんかの予告はビスタだし。チラシにもサイトにもパンフにも、スクリーンサイズに関する情報は一切掲載されていないのも、なんか引っかかる・・・。
映画自体が実に素晴らしかっただけに、そしてデプレシャン作品なだけに、真相(というか、事情?)が気になる。
2014年12月30日火曜日
2014年のベスト20-
昨年は年間ベストを、順位をつけず、本数の縛りも儲けず、挙げて絞って残った十数本(なので、「ベスト10+(プラス)」と題した)を列挙した。今年も同じ方式でやったら十数本というより二十数本になりそうだったので、ちょっとストイック(か?)になって20本弱にした。よって、今年はベスト20-(マイナス)。2014年に劇場で観た、新作(一応、一般的な劇場公開が初なら新作扱い)を対象に。(ちなみに、今年の劇場公開作でも、昨年観たものは昨年の方に入れてあります。)
まずは、タイトル列挙。観た順。
湖の見知らぬ男 (第17回カイエ・デュ・シネマ週間)
LIFE!
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (イタリア映画祭2014)
グレート・ビューティー/追憶のローマ (イタリア映画祭2014)
プリズナーズ
ウィズネイルと僕
インサイド・ルーウィン・デイヴィス
彼の見つめる先に (SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2014)
ムーンライティング
ジャージー・ボーイズ
ジェラシー
金の鳥籠 (第9回UNHCR難民映画)
ツーリスト (第27回東京国際映画祭)
ワイルド・ライフ (第27回東京国際映画祭)
Living is easy with eyes closed (第11回ラテンビート映画祭)
6才のボクが、大人になるまで。
マップ・トゥ・ザ・スターズ (第15回東京フィルメックス)
ゴーン・ガール
ヴェラの祈り
以下、短評というか寸感。
というより、作品内容そっちのけの単なる思い出のアルバムです。
湖の見知らぬ男 (2013/アラン・ギロディー) L'inconnu du lac
今年のシネマライフは、アンスティチュ・フランセ東京通いから始まった。
実は、本作も上映された「第17回カイエ・デュ・シネマ週間」では、新作よりも「ジャン・グレミヨン特集」が面白く、数本は観られなかったものの、(スニークプレビュー含め)多くのグレミヨン作品を観ることができたことは今年の映画体験における「事件」級。その一本一本が異彩ながらも、どこか通底するグレミヨン的な映画の興奮は、年始という時期に自分なりの映画とのつきあいを原初に還す「詣」な時間。おかげで、しばらく新作映画への興味が減退してしまったのも事実。
そんな中で観る映画においてエキサイトするには当然、普遍的な「新しさ」がスクリーンに充満していなければならない訳で、この人この映画は、それ以外の何ものでもなかった結果。
LIFE! (2013/ベン・スティラー)
きっと今年の拡大系公開作では図抜けて多くの映画好きから愛されてそうな、或る意味異形作。実はかなり正面からジャーナリスティックだったり形而上的なテーマをつきつけてくる衒いの無さは、グレミヨン後遺症的な消極的映画離れに陥っていた自分を、いくらかばかりか健全化させてくれた気もする、ちょっとだけ記念碑。ショーン・ペンが出てくるシーンの、映っている光景、交わされる言葉、そのすべてが今春身の上に起こったささやかな惜別による寂寥を、「くすみ」から「きらめき」へと転化してくれた、人生のミラクル。
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (2013/ジャンフランコ・ロージ)
優れたドキュメンタリーは劇より劇的で、優れたドラマは至ってドキュメンタリー。そして、軸足はどちらの地盤も離れ、もはや壊さず上から眺めるジャンルの「壁」。すべての自然は人為(作為)を内包し、すべての人為も自然から生まれる。今年の私的テーマ(今年最もはまった書物は、『種の起源』)へつながる起点がここにあったかも。
グレート・ビューティー/追憶のローマ (2013/パオロ・ソレンティーノ)
過去とは、服従するまでもなく従わねばならず、支配するまでもなく掌握せずにはいられない。逃れたり手放せればどれだけ楽か。往かず還らず、乗り越えない。朝が来るという事実、河は流れるという現実、とりあえず人生は続くという切実。イタリア映画は芸術を生活(人生)から切り離さずに語るという信頼。『レクイエム・フォー・ドリーム』で背筋を冷ややかになでたクロノス・クァルテットの弦が、十数年後には優しく頬をなぜてくれるという軌跡。追憶の浪漫。
プリズナーズ (2013/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、作家として惹かれるって印象は持てないけれど、一作一作惹かれはする不思議な監督。『複製された男』は、『渦』のごとく執拗(不必要)なこだわりにまみれた小品的仕上がりが好みではあったものの、ジョゼ・サラマーゴの原作が個人的に面白すぎた弊害として(読後直後に観たものだから)印象が薄くなってしまった不幸。しかし、本作は匠が集結し、その各々がけっして打ち消し合わぬ理想的なコラボの教科書。ヨハン・ヨハンソンの音楽、ロジャー・ディーキンスの画、ジョエル・コックスとゲイリー・ローチによるつなぎ。究極の分業、総合の愉しみ。
ウィズネイルと僕 (1987/ブルース・ロビンソン)
今年の悲しい出来事のひとつ、吉祥寺バウスシアターの閉館。電車に乗らずに通ってた唯一の映画館、消失。レイトで観ることが多かったから、ゆったりとした映画時間にくるまれたまま、てくてく歩いたり、自転車で風を感じたり、雑踏経ず余韻にひたったまま帰宅。そうした場所が、そうした場所然とした空気を醸したまま閉じた。悲しかったり寂しかったりするけれど、一方で最後まで「僕の知ってる」場所のままだった証左としての『ウィズネイルと僕』。時代への最大かつ最上の抵抗とは「無視」であり、壮大な雄弁とは「沈黙」なんだろう。矜持で降ろされた幕は、その場にとっても、場を愛する者にとっても、憂愁をつきぬける有終の美。
終盤には満席も続く盛況ぶりのようだったけど、僕が見た五月半ばの平日昼下がりは、場内も場外も本作を観るためにあるかのような貌してた。勝手にそう思えてしまっただけかもしれないけれど、そんなどこまでも「自分にひきつけて見回してしまう」ことが許される場所でもあった。
5月末から6月にかけて大きく体調を崩してしまったり仕事がたてこんだこともあり、ラストの爆音映画祭はチケットの多くを無駄にしてしまったけど、本作をバウスで、フィルムで、シアター1で、観られたことは悔いのない卒業式になりました。
インサイド・ルーウィン・デイヴィス (2013/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
今年、最も観賞本数が少なかった6月。『グランド・ブダペスト・ホテル』と本作を観られたから「いいや」になったのかとも思えるほど、本作の「満たしてくれた」度合いは本当に縦横無尽。しかも、全身を駆け巡る的ではなく、いつまでも体内をたゆたいつづける瑕のよに。
私が映画を見はじめた頃、コーエン兄弟は既にステータス的存在のシンボルだったけど、個人的には素直にハマることもなく、口だけで「好いよね」と強がっていた。だから、ほろ苦くても甘酸っぱさとは無縁な存在で、ずっと門外漢な場違い意識をひきずり新作にかけつけていたという史(私)実。けど、前作『トゥルー・グリット』ではストレートに自分に届き、本作では完全に身を任せ。互いに一周して、互いに年とって。ずっと待ってた場所に辿り着いた、そんな風に思える映画。
ボブ・ディラン、カポーティを歌う。オン・ザ・ストリート。片隅から片隅へ。爪弾くたびに始まる世界。
彼の見つめる先に (2014/ダニエル・ヒベイロ) Hoje Eu Quero Voltar Sozinho
今年も通ったSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。コンペ12作品のうち10本を観た。例年通り(いや、「増して」かも)充実のラインナップだったし、私の嫌いな映画祭臭とは無縁でピースフルに映画と向き合える場なのも変わらずで。グランプリの『約束のマッターホルン』もベスト級に素晴らしい必見作だったけど(公開決まらないかな・・・うまく宣伝すればなかなかなポテンシャルある作品だと思う)、個人的にあえて1本に絞ると本作かな。
今年のIDCFはなぜか、「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」延長戦というか番外編というか、そうした要素が前面・後景・潜在している多様な作品群が並んでた。ただ、そのどれもが、渋谷や青山の喧噪や緊迫のなかで観るよりも、川口でまったりと観る方がしっくりくる面々。映画を観ることが半ば義務化というか日常化し過ぎてしまったウォッチャー(含む自分)たちの集いでは生まれ得ない、映画のなかの物語と誠実に向き合う、まっすぐと直接向き合う観客が醸す包容力。監視でも看視でもない、あたたかい環視。注視の共有。でも、どうみるかを導こうとする〈気〉は漂わず。映画を観るという体験には、やはり場所は重要だ。そして、場所のもつ力が作用する映画体験を、僕はやっぱり信じてる。
ムーンライティング (1982/イエジー・スコリモフスキ)
まさに「隠れた名作」といった存在で、きっと関係各所じゃ既に発掘済みなのだろうけど、こうして広く目に触れる形で公開の運びとなったのも、近年のポーランド映画祭大盛況の賜物だろう。でも、晩秋のイメフォとは大違いで、今夏のシネマート新宿はそれほどの熱狂が立ち籠めてはいなかった気も。その分、フリパ乞食でごった返すイメフォとは違った、一作入魂な観客にきちんと愛されてたスコリモフスキの旧作群。どれも好きだったけど、やっぱり本作は新鮮と納得と意外と意中の厳かな弁証法。だけど、ぜったい止揚はしない。みたいな、心地好い寸止め寸劇、砂上の楼閣。真剣勝負ほど痛く美しいものはない。
ジャージーボーイズ (2014/クリント・イーストウッド)
本作を観る前の月(8月)、丸の内ルーブルの「さよなら興行」で『マディソン郡の橋』を初めて観た。大きめの劇場、しかもフィルム、おまけに観客まばらな平日昼下がり。昼メロ的なイメージをもった我が稚拙な先入見を猛省。映画を知り尽くし、知り尽くせぬ映画の魅力を弁えたイーストウッドの巧みが隈無く遍在。
新作でもそれは健在かつ更新。というよりイーストウッド、方向とか決めない最強さ。テンポやリズム、語りや騙り、そのすべてが風まかせ。よほどの確信と自信がなきゃ出来ない歩み。決して走らぬ、豊かな歩み。テンポを落とすほどに滑らかにすべってゆく不思議。多幸とか書きたくない、量化しない幸福の時間。
余談ながら(といっても、さっきから余談がメイン)、本作を私が観たのは郊外シネコンの400席弱の大箱ながら、なんと観客は私一人。ゆえに、歌い踊りながらの観賞となった(嘘)。申し訳なさや或る種の残念さはありつつも、本作を貸切の大劇場で観られるなどという有り難い体験は、今年の映画生活の一大事。
ジェラシー (2013/フィリップ・ガレル)
ガレルの新作を、映画館で見せてくれる人々に感謝。(イメフォ苦手な自分としては、できればそろそろイメージフォーラム以外でも観たいけど。)
ガレルは、頭使って映画観るようになる(今でもたいして使えてない上に、最近は使わないのが善的な姿勢になりつつあるけど)以前から、何故か相性が好いというか、自然に好きという。いわゆるヌーヴェルヴァーグな作品群とかは、油断してたら「わかんなぁーい」とか「あぁ、眠った眠った」とか言っちゃいそうな自分でも、なぜかガレルは面白がれる。
きっと、語るべき苦しみを描けるのが巨匠なのだろうけど、苦しみから語る作家にこそ寄り添いたい自分の性がそうさせる。
金の鳥籠 (2013/ディエゴ・ケマダ=ディエス) La jaula de oro
毎年のことながら、10月11月における映画祭シーズンは時間のやりくりやスケジュール調整が難儀というか面倒で、ともすると丸投げしたくなる頻度が年々上昇。前売券を購入するタイプはまだ強制力が(自分に)働くからいいものの、そうでない場合は休日に(もしくは、仕事上がりに)わざわざ出かけてゆかねばならぬ大儀を厭わずにはいられぬ我が性情。しかし、そんな無精な自分でも、他では味わえぬ感銘を受けて就く帰路に、やっぱり出向いてよかった肯定感。それが、次なる億劫との対決を生む・・・。(って、年とるごとに映画観に行くのが面倒になっているというただの報告なのですが。)
というわけで、今年の難民映画祭では本作一本のみ観賞。主要人物の年齢が下がる分、『闇の列車、光の旅』(かなり好き)が更に「愚直」になったかのような本作。自分に嘘つく余裕がある者は一人もいない。でも、だからこそ、そこで暴れる排除の力も、そこに立ち現れる不意の温情も、すべてがすべて、迫真ならぬ真の味。世界は語られるべき物語と、語らずにはいられない者たちであふれてる。
ツーリスト (2014/リューベン・オストルンド) Force Majeure
今年も東京国際映画祭では20本ほど映画を観たが、個人的に図抜けた傑作といった出会いがなかった半面、どれもが見応えを感じる充実した一週間だった。
本作は、個人的な好みからすればやや外れる要素を随所に感じつつも、それでいて実は観ながら心のど真ん中を何度も突かれた望外強度。傑作と呼ぶに値する力強さが確実にある。いろいろと語り尽くしたい一作でもある。テーマと手法と美学が、幸福な渾然一体を見せている。
来年、劇場公開もされるとか。
ワイルド・ライフ (2014/セドリック・カーン) Vie sauvage
セドリック・カーンはそんなに好きな作家ではなかったのだけれど、前作(『よりよき人生』)が意外にも個人的に気に入って、その方向性と重なるように本作ではダルデンヌ兄弟がプロデューサー。主演がマチュー・カソヴィッツだったり、撮影がブリュノ・デュモン作品でおなじみのイヴ・カペだったりと、実は好きな要素がつまっていた本作。そんなことも意識にないまま、時間を埋めるように選んだ一作だっただけに、マイハート鷲掴みの不意打ちは同日その後の観賞に支障を来しまくった。
パコ(マチュー・カソヴィッツ)の二人の息子のうち、弟の方(の青年期)を演じる役者の顔に見おぼえがあり、観ながらずっと気になっていたら、ロマン・グーピル監督作『ハンズ・アップ!』に出ていた少年であることが後から判明。グーピルの新作がコンペに入った今年のTIFFでは、もう一つの『ハンズ・アップ!』な再会が待っていた。
ということからも、キャストの魅力は歴然ながら、やっぱりセドリック・カーンの新たな地平をダルデンヌ兄弟がサポートした本作は、その双方が欲する相手を得たような作品。何らかの形で再会の機会を与えて欲しい貴重な秀作。
Living Is Easy with Eyes Closed (2013/ダビド・トルエバ) Vivir es fácil con los ojos cerrados
今年最も泣いた映画。でも、おそらく、本作のなかでは誰も(実際に涙をみせて)泣いてはいない。という記憶(間違ってるかも)。観客は皆、とめどなく涙があふれていただろうけど、何故だかそれはどこまでも静かに流れ、場内を終始埋め尽くす静謐。そんな事実こそが、本作が誘う涙の特別を、顕著に語っているだろう
ラテンビート映画祭でたまにある、本拠地(新宿バルト9)で上映がないタイプの本作を、横浜ブルク13まで足をのばして観に行った。以前も、ラテンビート遠征を敢行したことはあったけど、明らかに新宿よりも好い雰囲気で観られて満足だった記憶、今年も上書き。
映画自体がもつ滋味が場内に伝播したこともあるだろうけど、年間最優秀場内賞と言いたいくらい、言葉にならない(勿論、音なんかを通して伝わることなんかはないんだけれど)映画につつまれ映画をつつむ優しいまなざしが交錯しあう至福の劇場体験だった。
ラテンビートのチラシに「提供:松竹メディア事業部」とあるので、またきっとどこかで観られる機会もあるかと思うけど、大切に公開されることを切に願う一作。
6才のボクが、大人になるまで。 (2014/リチャード・リンクレイター)
オープニング。コールドプレイの「イエロー」のイントロ、ギターの音。Look at the stars・・・空を見上げる少年の顔。学生時代に聴いた「イエロー」、武道館で聴いた「イエロー」、そして本作で聴く「イエロー」。そんな時の重なりだけで、既に本作でこれから重ねられてゆくであろう時の重みと飛躍に全身スタンバイ。
それこそ十年前に本作を観ていたら、情緒的な感動はさほどなかったかもな。なぜなら、本作が描く時間は長かったり重かったりする半面、実はその「短さ」にあると思うから。瞬く内に、というか、瞬く度に。光陰矢の如し。そして、実は軽重など存在しない一つ一つの出会いと別れ。フレームに留まり続けるものだけが実存を支える訳じゃなく、全過去から現在が生まれるように、すべての出会いを呼吸しながら今が在る。
メインはサブやサイドを削るけど、サブやサイドにはメインが宿る。いや、核にあるのはあらゆる些事で、それらが常に離合集散した結果。リンクレイターが得た語りの自由は、僕らに語りの自由を与えてくれた。
マップ・トゥ・ザ・スターズ (2014/デヴィッド・クローネンバーグ)
東京フィルメックスのクロージングで観たときは、何だか緊張と疲れで茫然してた。(クローネンバーグは、朝日ホールで観るもんじゃないな、と実感。でも、ガラガラのなかでまったりと観た初期作『ステレオ/均衡の遺失』『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』は実に実に興味深かった!しかも、どちらもフィルム上映!)後日、郊外シネコンのレイトショーでゆったり観賞。
本作はクローネンバーグ初のアメリカロケ作品とか。従って、今までよりも「風通し」が好いはずだし、実際に映っている画は確かに「風通し」が好い雰囲気・・・なんだけど、それがより一層不気味さを際立たせるという、不穏の神様のようなデヴィッド様。本作における最もスキャンダラスな部分が露見するに従って何故か安堵の道を往くというアンビバレントな倒錯の旅。トリック抜きのトリップ三昧。生者と死者、虚像と実像、幻影と実存・・・すべてが地続きな世界に、微塵の解放感もゆるさずに、それでいて何らの束縛もかけぬ究極並置な全面圧力。トランポリンで飛び跳ねた後の、自力のジャンプのようなエンドの星空。手に届きそうだと思っていたことの方が現実に思えて来る、覚醒。
ゴーン・ガール (2014/デヴィッド・フィンチャー)
こちらのデヴィッドも中毒度高い曲者で、しかもクローネンバーグの中毒性は反復が鮮度を増す一方、フィンチャーはもう初見から反復の只中にいるような錯覚起こすほど、反復帝国展開中。
ドラマとしての面白さの手法や手腕は彼なりの常套ながら、形而上的テーマの具現化は年々上等化している気も。ラスト、ニック(ベン・アフレック)の壁ドンならぬ壁ダン(?)には、観る者もエイミーも見事に震撼。ただし、エイミーは凍った背筋が愛おしくてたまらないという・・・。観念が肥大化した現代人の現実が、観念に支配されてゆく。去りゆくのは少女のみならず。
ヴェラの祈り (2007/アンドレイ・ズビャギンツェフ)
年の瀬にこのような作品(しかも、群!)を公開するの、やめてほしい。あと、こんだけ待たされると、鮮度が落ちるどころか一周回って強烈鮮度が炸裂するし、こんだけ公開されないと既にソフトを取り寄せちゃったりしているし!
本作は一度DVDで観始めたものの、その画力に圧倒されて、「この画をスクリーン以外で観ていいわけがない!」と思い立ち、停止ボタンを押したまま、いつか劇場で観られる日を夢に見てきた一作だけに、悲願中の悲願と呼ぶに値する本作の感傷。
作品のすべてが自らの期待にいちいち応え、凌駕し、裏切り、共振し続ける。画のみならず、音の雄弁さは単なる饒舌のみならず、世界が「言葉」にあふれていることを識る。そして、掬いきれない個人の狭窄した視界に途方に暮れる。識れば識るほど、広がる世界。
惜しむらくは、本作の画質。フィルム撮影による画力をフィルム上映で余すところなく体感したい、などという贅沢は言わないまでも(でも、言いたい!)、せめて(現況における)標準的なデジタル上映画質で観たかった。とはいえ、おそらく2007年制作となると、デジタル上映のマスターが元々存在したわけでもなかったろうし、ソフト発売もDVDだけだから、おそらくそのマスターからDCPをつくったのではないかと思われる。確かに、輸入DVDの画質は、DVDながら健闘したものだったけど、やっぱり『エレナの惑い』の画質と比べると差は歴然。(つまり、二本続けて観るなら、ヴェラの次にエレナという流れが好いかと。ま、制作年的にも、登場人物の世代的にもその順だしね。)
上映のデジタル化は、コストダウンを可能にし、それゆえにミニシアター系作品の公開本数も盛り返してきている(ズビャギンツェフ旧作公開もその恩恵のもとにある気もするが)のは事実だろうけど、作品にとっての明暗はタイミングと共に悲喜こもごもだなぁ、などと痛感したりもしたな。
とはいえ、それでも劇場で必見であるには違いない二本。『ヴェラの祈り』をフィルムで観るなどというのは叶わぬ願いだろうが、いつか『ヴェラの祈り」のちゃんとしたデジタルマスターが出来、万全の画で観られたら・・・と、夢想の更なる更新と二度目の実現に想いを馳せる。
今年は全然ブログも書けず、個人的にもしっかり記すなどあまりできていなかったこともあり、情けないほど(いつも以上に)「内容のない」感想に堕してしまったことをお詫びする。誰に?自分に。
とはいえ、やはり映画を「映画館で」観るという行為においては、その一回性に宿った記憶こそに価値があるという視点だって重要に思えてならない。というか、そう思わないと、面倒くさい劇場観賞にこだわり続けていられない(笑)
20本近くも挙げておいて、それでも「もれてしまった」と言わせてもらう映画たちは・・・
『6才のボク~』のせいで、ついつい忘れがちになってしまう『ビフォア・ミッドナイト』。前二作に比べると、自分が「通ってない」分、まだ身の丈に合ってないことが些か残念。
今年も気を吐きまくったマシューの3本。『ダラス・バイヤーズ・クラブ』、『MUD』、『インターステラー』(でも、正直、『インター~』は個人的にのれない側面も多分にあったけど、クリストファー・ノーランの気狂いっぷりは、水平化する映画界においてやっぱり重要に思えてしまう)。
『エヴァの告白』のラストシーンは目に焼きついてるし、『8月の家族たち』のラストソングはいつまでも心に鳴り響いていたものです。
これまで頭で唸ることはあっても、心が震えることがなかったアスガー・ファルハディ作品で始めて興奮、しかも終始着地を許さぬ昂揚で時間が流れた、『ある過去の行方』。
『鉄西区』で打ちのめされて以来、個人的にも重要な作家だったワン・ビンながら、正直近作は個人的にあまり素直に享受できない状況が続いてた。でも、『収容病棟』は『鉄西区』を観たときのように心をえぐられた。
『プロミスト・ランド』を観たのは、札幌の夜。ディノスシネマズ札幌のレイトショー、たった三人の観客。旅先ではあまり映画を観ないけど、今作は場所と旅の記憶と共にあることでより多くより深く語りかけられた。
『物語る私たち』の仕掛けほど、必要と誠実に満ちた仕掛けを私は知らない。(大袈裟)
東京国際映画祭は前述の通り、充実した観賞体験に溢れていたけれど、なかでも『十字架の道行き』と『白夜と配達人』は己の奥深くまで届いた重要作だった。形式への拘泥や服従が、やがて内容の遙かなる跳躍をうむ。
今年のフィルメックスは随分と粒ぞろいで、恒例の大いなるハズレとは無縁でちょっと寂しかったけど(笑)、なかでも最後に観た『プレジデント』は、「荒削りのよさ」を踏みにじる重厚さが胸にいつまでも残る名作の風格に魅せられた。おかげでコンペで観た良作の数々(『生きる』『ディーブ』『数立方メートルの愛』等)が霞んでしまったほどだったりもして。
フィルメックスの勢い(というか、余力?)で参加したフィンランド映画祭。期待値すら設定していなかったが為か、不意をつかれた好みの一作『コンクリートナイト』。色彩豊かな表現力に充ちたモノクロ的映像美に、女流作家と女流監督による少年期の揺らぎは新鮮な違和感を持続させ、いつまでも見終わらないような世界が展開されていた。
『自由が丘で』は、来年見直します。寝不足と疲労と昼下がりで、幾度も微睡みながら観てしまった初見ゆえ。でも、その微睡みと作品の佇まいが見事に融け合って、第三の作品が生まれたかのような夢現な体験は、特筆に値する・・・自己正当化(笑)
我ながら上記のベスト選出を眺めてみると、偏りや固まりが年々強まってるなぁ、と。
でも、まぁ、それも年を取ることの弊害であり、特権であり、ひとつの知恵かとも。
ただ、気づくのは、日本映画はもとよりアジア映画さえ1本もないということ。
これは、今年、それらに接する機会が少なかったことも影響しているとは思うけど、接することが少ないという事実自体、気持ち的に遠ざかりつつあるという気がしなくもない。
日本映画で好かったのは、『ホームレス理事長』『0.5ミリ』『紙の月』くらいかな。
いやぁ、本当に日本映画観てないのかな、今年。
アジア映画だと、『ドラッグ・ウォー』『昔のはじまり』『メルボルン』『TATSUMI』『西遊』『西遊記』かな。アジア映画は明らかに見逃した良作が多かった気がする。特に韓国映画。
大作系やアクション映画も変わらず好物なんだけど、こういう場で名を出す気分ではなくなりつつある保守化する老いる自我(笑)『ハンガー・ゲーム2』は、シリーズまるごと大好き宣言したくなる素晴らしさだったし、『ラッシュ/プライドと友情』だって興奮の坩堝。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の完成度は期せずしてゆえ受け止めきれなかった気がするし、評判悪かった『トランセンデンス』だってあれこれ考えながら楽しんだ。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』とか『イントゥ・ザ・ストーム』とかの一気呵成は劇場で味わってこそ。『GODZILLA』や『トランスフォーマー/ロスト・エイジ』はちゃんと初日に駆けつけて、IMAXでも再見しましたよ。ただね、今の自分にとって「大きな映画」はどうやらサイドな気分。
触れられなかった映画祭、イメージフォーラム・フェスティバル。今年も私的に充実観賞の連続で、『マナカマナ』『闇を呪う呪文』『ハレー』いずれも全く違うアプローチで全く違う琴線に触れまくり。
旧作を積極的に観ようとしないシネフィル失格な僕ですが、マルコ・ベロッキオ特集は嬉しくて仕方なく、未見だった『エンリコ四世』と『肉体の悪魔』はどちらも最高で、だからこそ『エンリコ四世』の残念すぎるVHS並の画質が悔やまれる。
春にはハル・ハートリー、夏にはダニエル・シュミットにベルイマン、秋にはジョン・フォード。
異才、奇才、名匠、巨匠。初めてだろうが再会だろうが、確実に邂逅がいつでも待ち受けるレトロスペクティヴ。そういえば、今年はビートニク映画祭なる素敵な企画もあった。オーディトリウム渋谷はなくなったけど。ロバート・フランクが撮った映画を二本(『チャパクア』『キャンディ・マウンテン』)を映画館で観られるなんて。『キャンディ・マウンテン』、本当に好きだった。
今年も本当にいろんな映画と出会えた一方で、映画をとりまく環境には今年も色んな「さよなら」つきまとい・・・。新宿ミラノもあと一日か。ミラノ1の大劇場も好きだったけど、シネマスクエアとうきゅうでは濃厚な出会いが幾度もあったっけ。ひとつの文化が消えるときっていうのは、消える運命ゆえに散り際もそれほど華々しくはないんだね。(と言いつつも、ここ数日の歌舞伎町は賑わっているのだろうが。)その一方で来年にはTOHOシネマズが新宿にもできて、恵比寿にはガーデンシネマが復活。容易く映画文化リバイバルになるとは思えないけど、このサバイバルは見守り続けよう。正直、映画から離れたがってる自分もいなくはないんだが(というより、別の方に興味の矛先がいきがち昨今)、産業的な「映画」が分岐点に来ているように、自分なりの「映画生活」もより自由に柔軟に見直してはしなやかに付き合っていきたいと思っています。そんななか、ブログをもうすこし身近にできれば好いんだけど・・・。
※旧ブログは移転しました(単純に移しただけです)。URLは以下の通り。
http://blog.goo.ne.jp/imaginary_possibilities
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LIFE!
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (イタリア映画祭2014)
グレート・ビューティー/追憶のローマ (イタリア映画祭2014)
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インサイド・ルーウィン・デイヴィス
彼の見つめる先に (SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2014)
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ジェラシー
金の鳥籠 (第9回UNHCR難民映画)
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ワイルド・ライフ (第27回東京国際映画祭)
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6才のボクが、大人になるまで。
マップ・トゥ・ザ・スターズ (第15回東京フィルメックス)
ゴーン・ガール
ヴェラの祈り
以下、短評というか寸感。
というより、作品内容そっちのけの単なる思い出のアルバムです。
湖の見知らぬ男 (2013/アラン・ギロディー) L'inconnu du lac
今年のシネマライフは、アンスティチュ・フランセ東京通いから始まった。
実は、本作も上映された「第17回カイエ・デュ・シネマ週間」では、新作よりも「ジャン・グレミヨン特集」が面白く、数本は観られなかったものの、(スニークプレビュー含め)多くのグレミヨン作品を観ることができたことは今年の映画体験における「事件」級。その一本一本が異彩ながらも、どこか通底するグレミヨン的な映画の興奮は、年始という時期に自分なりの映画とのつきあいを原初に還す「詣」な時間。おかげで、しばらく新作映画への興味が減退してしまったのも事実。
そんな中で観る映画においてエキサイトするには当然、普遍的な「新しさ」がスクリーンに充満していなければならない訳で、この人この映画は、それ以外の何ものでもなかった結果。
LIFE! (2013/ベン・スティラー)
きっと今年の拡大系公開作では図抜けて多くの映画好きから愛されてそうな、或る意味異形作。実はかなり正面からジャーナリスティックだったり形而上的なテーマをつきつけてくる衒いの無さは、グレミヨン後遺症的な消極的映画離れに陥っていた自分を、いくらかばかりか健全化させてくれた気もする、ちょっとだけ記念碑。ショーン・ペンが出てくるシーンの、映っている光景、交わされる言葉、そのすべてが今春身の上に起こったささやかな惜別による寂寥を、「くすみ」から「きらめき」へと転化してくれた、人生のミラクル。
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (2013/ジャンフランコ・ロージ)
優れたドキュメンタリーは劇より劇的で、優れたドラマは至ってドキュメンタリー。そして、軸足はどちらの地盤も離れ、もはや壊さず上から眺めるジャンルの「壁」。すべての自然は人為(作為)を内包し、すべての人為も自然から生まれる。今年の私的テーマ(今年最もはまった書物は、『種の起源』)へつながる起点がここにあったかも。
グレート・ビューティー/追憶のローマ (2013/パオロ・ソレンティーノ)
過去とは、服従するまでもなく従わねばならず、支配するまでもなく掌握せずにはいられない。逃れたり手放せればどれだけ楽か。往かず還らず、乗り越えない。朝が来るという事実、河は流れるという現実、とりあえず人生は続くという切実。イタリア映画は芸術を生活(人生)から切り離さずに語るという信頼。『レクイエム・フォー・ドリーム』で背筋を冷ややかになでたクロノス・クァルテットの弦が、十数年後には優しく頬をなぜてくれるという軌跡。追憶の浪漫。
プリズナーズ (2013/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、作家として惹かれるって印象は持てないけれど、一作一作惹かれはする不思議な監督。『複製された男』は、『渦』のごとく執拗(不必要)なこだわりにまみれた小品的仕上がりが好みではあったものの、ジョゼ・サラマーゴの原作が個人的に面白すぎた弊害として(読後直後に観たものだから)印象が薄くなってしまった不幸。しかし、本作は匠が集結し、その各々がけっして打ち消し合わぬ理想的なコラボの教科書。ヨハン・ヨハンソンの音楽、ロジャー・ディーキンスの画、ジョエル・コックスとゲイリー・ローチによるつなぎ。究極の分業、総合の愉しみ。
ウィズネイルと僕 (1987/ブルース・ロビンソン)
今年の悲しい出来事のひとつ、吉祥寺バウスシアターの閉館。電車に乗らずに通ってた唯一の映画館、消失。レイトで観ることが多かったから、ゆったりとした映画時間にくるまれたまま、てくてく歩いたり、自転車で風を感じたり、雑踏経ず余韻にひたったまま帰宅。そうした場所が、そうした場所然とした空気を醸したまま閉じた。悲しかったり寂しかったりするけれど、一方で最後まで「僕の知ってる」場所のままだった証左としての『ウィズネイルと僕』。時代への最大かつ最上の抵抗とは「無視」であり、壮大な雄弁とは「沈黙」なんだろう。矜持で降ろされた幕は、その場にとっても、場を愛する者にとっても、憂愁をつきぬける有終の美。
終盤には満席も続く盛況ぶりのようだったけど、僕が見た五月半ばの平日昼下がりは、場内も場外も本作を観るためにあるかのような貌してた。勝手にそう思えてしまっただけかもしれないけれど、そんなどこまでも「自分にひきつけて見回してしまう」ことが許される場所でもあった。
5月末から6月にかけて大きく体調を崩してしまったり仕事がたてこんだこともあり、ラストの爆音映画祭はチケットの多くを無駄にしてしまったけど、本作をバウスで、フィルムで、シアター1で、観られたことは悔いのない卒業式になりました。
インサイド・ルーウィン・デイヴィス (2013/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
今年、最も観賞本数が少なかった6月。『グランド・ブダペスト・ホテル』と本作を観られたから「いいや」になったのかとも思えるほど、本作の「満たしてくれた」度合いは本当に縦横無尽。しかも、全身を駆け巡る的ではなく、いつまでも体内をたゆたいつづける瑕のよに。
私が映画を見はじめた頃、コーエン兄弟は既にステータス的存在のシンボルだったけど、個人的には素直にハマることもなく、口だけで「好いよね」と強がっていた。だから、ほろ苦くても甘酸っぱさとは無縁な存在で、ずっと門外漢な場違い意識をひきずり新作にかけつけていたという史(私)実。けど、前作『トゥルー・グリット』ではストレートに自分に届き、本作では完全に身を任せ。互いに一周して、互いに年とって。ずっと待ってた場所に辿り着いた、そんな風に思える映画。
ボブ・ディラン、カポーティを歌う。オン・ザ・ストリート。片隅から片隅へ。爪弾くたびに始まる世界。
彼の見つめる先に (2014/ダニエル・ヒベイロ) Hoje Eu Quero Voltar Sozinho
今年も通ったSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。コンペ12作品のうち10本を観た。例年通り(いや、「増して」かも)充実のラインナップだったし、私の嫌いな映画祭臭とは無縁でピースフルに映画と向き合える場なのも変わらずで。グランプリの『約束のマッターホルン』もベスト級に素晴らしい必見作だったけど(公開決まらないかな・・・うまく宣伝すればなかなかなポテンシャルある作品だと思う)、個人的にあえて1本に絞ると本作かな。
今年のIDCFはなぜか、「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」延長戦というか番外編というか、そうした要素が前面・後景・潜在している多様な作品群が並んでた。ただ、そのどれもが、渋谷や青山の喧噪や緊迫のなかで観るよりも、川口でまったりと観る方がしっくりくる面々。映画を観ることが半ば義務化というか日常化し過ぎてしまったウォッチャー(含む自分)たちの集いでは生まれ得ない、映画のなかの物語と誠実に向き合う、まっすぐと直接向き合う観客が醸す包容力。監視でも看視でもない、あたたかい環視。注視の共有。でも、どうみるかを導こうとする〈気〉は漂わず。映画を観るという体験には、やはり場所は重要だ。そして、場所のもつ力が作用する映画体験を、僕はやっぱり信じてる。
ムーンライティング (1982/イエジー・スコリモフスキ)
まさに「隠れた名作」といった存在で、きっと関係各所じゃ既に発掘済みなのだろうけど、こうして広く目に触れる形で公開の運びとなったのも、近年のポーランド映画祭大盛況の賜物だろう。でも、晩秋のイメフォとは大違いで、今夏のシネマート新宿はそれほどの熱狂が立ち籠めてはいなかった気も。その分、フリパ乞食でごった返すイメフォとは違った、一作入魂な観客にきちんと愛されてたスコリモフスキの旧作群。どれも好きだったけど、やっぱり本作は新鮮と納得と意外と意中の厳かな弁証法。だけど、ぜったい止揚はしない。みたいな、心地好い寸止め寸劇、砂上の楼閣。真剣勝負ほど痛く美しいものはない。
ジャージーボーイズ (2014/クリント・イーストウッド)
本作を観る前の月(8月)、丸の内ルーブルの「さよなら興行」で『マディソン郡の橋』を初めて観た。大きめの劇場、しかもフィルム、おまけに観客まばらな平日昼下がり。昼メロ的なイメージをもった我が稚拙な先入見を猛省。映画を知り尽くし、知り尽くせぬ映画の魅力を弁えたイーストウッドの巧みが隈無く遍在。
新作でもそれは健在かつ更新。というよりイーストウッド、方向とか決めない最強さ。テンポやリズム、語りや騙り、そのすべてが風まかせ。よほどの確信と自信がなきゃ出来ない歩み。決して走らぬ、豊かな歩み。テンポを落とすほどに滑らかにすべってゆく不思議。多幸とか書きたくない、量化しない幸福の時間。
余談ながら(といっても、さっきから余談がメイン)、本作を私が観たのは郊外シネコンの400席弱の大箱ながら、なんと観客は私一人。ゆえに、歌い踊りながらの観賞となった(嘘)。申し訳なさや或る種の残念さはありつつも、本作を貸切の大劇場で観られるなどという有り難い体験は、今年の映画生活の一大事。
ジェラシー (2013/フィリップ・ガレル)
ガレルの新作を、映画館で見せてくれる人々に感謝。(イメフォ苦手な自分としては、できればそろそろイメージフォーラム以外でも観たいけど。)
ガレルは、頭使って映画観るようになる(今でもたいして使えてない上に、最近は使わないのが善的な姿勢になりつつあるけど)以前から、何故か相性が好いというか、自然に好きという。いわゆるヌーヴェルヴァーグな作品群とかは、油断してたら「わかんなぁーい」とか「あぁ、眠った眠った」とか言っちゃいそうな自分でも、なぜかガレルは面白がれる。
きっと、語るべき苦しみを描けるのが巨匠なのだろうけど、苦しみから語る作家にこそ寄り添いたい自分の性がそうさせる。
金の鳥籠 (2013/ディエゴ・ケマダ=ディエス) La jaula de oro
毎年のことながら、10月11月における映画祭シーズンは時間のやりくりやスケジュール調整が難儀というか面倒で、ともすると丸投げしたくなる頻度が年々上昇。前売券を購入するタイプはまだ強制力が(自分に)働くからいいものの、そうでない場合は休日に(もしくは、仕事上がりに)わざわざ出かけてゆかねばならぬ大儀を厭わずにはいられぬ我が性情。しかし、そんな無精な自分でも、他では味わえぬ感銘を受けて就く帰路に、やっぱり出向いてよかった肯定感。それが、次なる億劫との対決を生む・・・。(って、年とるごとに映画観に行くのが面倒になっているというただの報告なのですが。)
というわけで、今年の難民映画祭では本作一本のみ観賞。主要人物の年齢が下がる分、『闇の列車、光の旅』(かなり好き)が更に「愚直」になったかのような本作。自分に嘘つく余裕がある者は一人もいない。でも、だからこそ、そこで暴れる排除の力も、そこに立ち現れる不意の温情も、すべてがすべて、迫真ならぬ真の味。世界は語られるべき物語と、語らずにはいられない者たちであふれてる。
ツーリスト (2014/リューベン・オストルンド) Force Majeure
今年も東京国際映画祭では20本ほど映画を観たが、個人的に図抜けた傑作といった出会いがなかった半面、どれもが見応えを感じる充実した一週間だった。
本作は、個人的な好みからすればやや外れる要素を随所に感じつつも、それでいて実は観ながら心のど真ん中を何度も突かれた望外強度。傑作と呼ぶに値する力強さが確実にある。いろいろと語り尽くしたい一作でもある。テーマと手法と美学が、幸福な渾然一体を見せている。
来年、劇場公開もされるとか。
ワイルド・ライフ (2014/セドリック・カーン) Vie sauvage
セドリック・カーンはそんなに好きな作家ではなかったのだけれど、前作(『よりよき人生』)が意外にも個人的に気に入って、その方向性と重なるように本作ではダルデンヌ兄弟がプロデューサー。主演がマチュー・カソヴィッツだったり、撮影がブリュノ・デュモン作品でおなじみのイヴ・カペだったりと、実は好きな要素がつまっていた本作。そんなことも意識にないまま、時間を埋めるように選んだ一作だっただけに、マイハート鷲掴みの不意打ちは同日その後の観賞に支障を来しまくった。
パコ(マチュー・カソヴィッツ)の二人の息子のうち、弟の方(の青年期)を演じる役者の顔に見おぼえがあり、観ながらずっと気になっていたら、ロマン・グーピル監督作『ハンズ・アップ!』に出ていた少年であることが後から判明。グーピルの新作がコンペに入った今年のTIFFでは、もう一つの『ハンズ・アップ!』な再会が待っていた。
ということからも、キャストの魅力は歴然ながら、やっぱりセドリック・カーンの新たな地平をダルデンヌ兄弟がサポートした本作は、その双方が欲する相手を得たような作品。何らかの形で再会の機会を与えて欲しい貴重な秀作。
Living Is Easy with Eyes Closed (2013/ダビド・トルエバ) Vivir es fácil con los ojos cerrados
今年最も泣いた映画。でも、おそらく、本作のなかでは誰も(実際に涙をみせて)泣いてはいない。という記憶(間違ってるかも)。観客は皆、とめどなく涙があふれていただろうけど、何故だかそれはどこまでも静かに流れ、場内を終始埋め尽くす静謐。そんな事実こそが、本作が誘う涙の特別を、顕著に語っているだろう
ラテンビート映画祭でたまにある、本拠地(新宿バルト9)で上映がないタイプの本作を、横浜ブルク13まで足をのばして観に行った。以前も、ラテンビート遠征を敢行したことはあったけど、明らかに新宿よりも好い雰囲気で観られて満足だった記憶、今年も上書き。
映画自体がもつ滋味が場内に伝播したこともあるだろうけど、年間最優秀場内賞と言いたいくらい、言葉にならない(勿論、音なんかを通して伝わることなんかはないんだけれど)映画につつまれ映画をつつむ優しいまなざしが交錯しあう至福の劇場体験だった。
ラテンビートのチラシに「提供:松竹メディア事業部」とあるので、またきっとどこかで観られる機会もあるかと思うけど、大切に公開されることを切に願う一作。
6才のボクが、大人になるまで。 (2014/リチャード・リンクレイター)
オープニング。コールドプレイの「イエロー」のイントロ、ギターの音。Look at the stars・・・空を見上げる少年の顔。学生時代に聴いた「イエロー」、武道館で聴いた「イエロー」、そして本作で聴く「イエロー」。そんな時の重なりだけで、既に本作でこれから重ねられてゆくであろう時の重みと飛躍に全身スタンバイ。
それこそ十年前に本作を観ていたら、情緒的な感動はさほどなかったかもな。なぜなら、本作が描く時間は長かったり重かったりする半面、実はその「短さ」にあると思うから。瞬く内に、というか、瞬く度に。光陰矢の如し。そして、実は軽重など存在しない一つ一つの出会いと別れ。フレームに留まり続けるものだけが実存を支える訳じゃなく、全過去から現在が生まれるように、すべての出会いを呼吸しながら今が在る。
メインはサブやサイドを削るけど、サブやサイドにはメインが宿る。いや、核にあるのはあらゆる些事で、それらが常に離合集散した結果。リンクレイターが得た語りの自由は、僕らに語りの自由を与えてくれた。
マップ・トゥ・ザ・スターズ (2014/デヴィッド・クローネンバーグ)
東京フィルメックスのクロージングで観たときは、何だか緊張と疲れで茫然してた。(クローネンバーグは、朝日ホールで観るもんじゃないな、と実感。でも、ガラガラのなかでまったりと観た初期作『ステレオ/均衡の遺失』『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』は実に実に興味深かった!しかも、どちらもフィルム上映!)後日、郊外シネコンのレイトショーでゆったり観賞。
本作はクローネンバーグ初のアメリカロケ作品とか。従って、今までよりも「風通し」が好いはずだし、実際に映っている画は確かに「風通し」が好い雰囲気・・・なんだけど、それがより一層不気味さを際立たせるという、不穏の神様のようなデヴィッド様。本作における最もスキャンダラスな部分が露見するに従って何故か安堵の道を往くというアンビバレントな倒錯の旅。トリック抜きのトリップ三昧。生者と死者、虚像と実像、幻影と実存・・・すべてが地続きな世界に、微塵の解放感もゆるさずに、それでいて何らの束縛もかけぬ究極並置な全面圧力。トランポリンで飛び跳ねた後の、自力のジャンプのようなエンドの星空。手に届きそうだと思っていたことの方が現実に思えて来る、覚醒。
ゴーン・ガール (2014/デヴィッド・フィンチャー)
こちらのデヴィッドも中毒度高い曲者で、しかもクローネンバーグの中毒性は反復が鮮度を増す一方、フィンチャーはもう初見から反復の只中にいるような錯覚起こすほど、反復帝国展開中。
ドラマとしての面白さの手法や手腕は彼なりの常套ながら、形而上的テーマの具現化は年々上等化している気も。ラスト、ニック(ベン・アフレック)の壁ドンならぬ壁ダン(?)には、観る者もエイミーも見事に震撼。ただし、エイミーは凍った背筋が愛おしくてたまらないという・・・。観念が肥大化した現代人の現実が、観念に支配されてゆく。去りゆくのは少女のみならず。
ヴェラの祈り (2007/アンドレイ・ズビャギンツェフ)
年の瀬にこのような作品(しかも、群!)を公開するの、やめてほしい。あと、こんだけ待たされると、鮮度が落ちるどころか一周回って強烈鮮度が炸裂するし、こんだけ公開されないと既にソフトを取り寄せちゃったりしているし!
本作は一度DVDで観始めたものの、その画力に圧倒されて、「この画をスクリーン以外で観ていいわけがない!」と思い立ち、停止ボタンを押したまま、いつか劇場で観られる日を夢に見てきた一作だけに、悲願中の悲願と呼ぶに値する本作の感傷。
作品のすべてが自らの期待にいちいち応え、凌駕し、裏切り、共振し続ける。画のみならず、音の雄弁さは単なる饒舌のみならず、世界が「言葉」にあふれていることを識る。そして、掬いきれない個人の狭窄した視界に途方に暮れる。識れば識るほど、広がる世界。
惜しむらくは、本作の画質。フィルム撮影による画力をフィルム上映で余すところなく体感したい、などという贅沢は言わないまでも(でも、言いたい!)、せめて(現況における)標準的なデジタル上映画質で観たかった。とはいえ、おそらく2007年制作となると、デジタル上映のマスターが元々存在したわけでもなかったろうし、ソフト発売もDVDだけだから、おそらくそのマスターからDCPをつくったのではないかと思われる。確かに、輸入DVDの画質は、DVDながら健闘したものだったけど、やっぱり『エレナの惑い』の画質と比べると差は歴然。(つまり、二本続けて観るなら、ヴェラの次にエレナという流れが好いかと。ま、制作年的にも、登場人物の世代的にもその順だしね。)
上映のデジタル化は、コストダウンを可能にし、それゆえにミニシアター系作品の公開本数も盛り返してきている(ズビャギンツェフ旧作公開もその恩恵のもとにある気もするが)のは事実だろうけど、作品にとっての明暗はタイミングと共に悲喜こもごもだなぁ、などと痛感したりもしたな。
とはいえ、それでも劇場で必見であるには違いない二本。『ヴェラの祈り』をフィルムで観るなどというのは叶わぬ願いだろうが、いつか『ヴェラの祈り」のちゃんとしたデジタルマスターが出来、万全の画で観られたら・・・と、夢想の更なる更新と二度目の実現に想いを馳せる。
今年は全然ブログも書けず、個人的にもしっかり記すなどあまりできていなかったこともあり、情けないほど(いつも以上に)「内容のない」感想に堕してしまったことをお詫びする。誰に?自分に。
とはいえ、やはり映画を「映画館で」観るという行為においては、その一回性に宿った記憶こそに価値があるという視点だって重要に思えてならない。というか、そう思わないと、面倒くさい劇場観賞にこだわり続けていられない(笑)
20本近くも挙げておいて、それでも「もれてしまった」と言わせてもらう映画たちは・・・
『6才のボク~』のせいで、ついつい忘れがちになってしまう『ビフォア・ミッドナイト』。前二作に比べると、自分が「通ってない」分、まだ身の丈に合ってないことが些か残念。
今年も気を吐きまくったマシューの3本。『ダラス・バイヤーズ・クラブ』、『MUD』、『インターステラー』(でも、正直、『インター~』は個人的にのれない側面も多分にあったけど、クリストファー・ノーランの気狂いっぷりは、水平化する映画界においてやっぱり重要に思えてしまう)。
『エヴァの告白』のラストシーンは目に焼きついてるし、『8月の家族たち』のラストソングはいつまでも心に鳴り響いていたものです。
これまで頭で唸ることはあっても、心が震えることがなかったアスガー・ファルハディ作品で始めて興奮、しかも終始着地を許さぬ昂揚で時間が流れた、『ある過去の行方』。
『鉄西区』で打ちのめされて以来、個人的にも重要な作家だったワン・ビンながら、正直近作は個人的にあまり素直に享受できない状況が続いてた。でも、『収容病棟』は『鉄西区』を観たときのように心をえぐられた。
『プロミスト・ランド』を観たのは、札幌の夜。ディノスシネマズ札幌のレイトショー、たった三人の観客。旅先ではあまり映画を観ないけど、今作は場所と旅の記憶と共にあることでより多くより深く語りかけられた。
『物語る私たち』の仕掛けほど、必要と誠実に満ちた仕掛けを私は知らない。(大袈裟)
東京国際映画祭は前述の通り、充実した観賞体験に溢れていたけれど、なかでも『十字架の道行き』と『白夜と配達人』は己の奥深くまで届いた重要作だった。形式への拘泥や服従が、やがて内容の遙かなる跳躍をうむ。
今年のフィルメックスは随分と粒ぞろいで、恒例の大いなるハズレとは無縁でちょっと寂しかったけど(笑)、なかでも最後に観た『プレジデント』は、「荒削りのよさ」を踏みにじる重厚さが胸にいつまでも残る名作の風格に魅せられた。おかげでコンペで観た良作の数々(『生きる』『ディーブ』『数立方メートルの愛』等)が霞んでしまったほどだったりもして。
フィルメックスの勢い(というか、余力?)で参加したフィンランド映画祭。期待値すら設定していなかったが為か、不意をつかれた好みの一作『コンクリートナイト』。色彩豊かな表現力に充ちたモノクロ的映像美に、女流作家と女流監督による少年期の揺らぎは新鮮な違和感を持続させ、いつまでも見終わらないような世界が展開されていた。
『自由が丘で』は、来年見直します。寝不足と疲労と昼下がりで、幾度も微睡みながら観てしまった初見ゆえ。でも、その微睡みと作品の佇まいが見事に融け合って、第三の作品が生まれたかのような夢現な体験は、特筆に値する・・・自己正当化(笑)
我ながら上記のベスト選出を眺めてみると、偏りや固まりが年々強まってるなぁ、と。
でも、まぁ、それも年を取ることの弊害であり、特権であり、ひとつの知恵かとも。
ただ、気づくのは、日本映画はもとよりアジア映画さえ1本もないということ。
これは、今年、それらに接する機会が少なかったことも影響しているとは思うけど、接することが少ないという事実自体、気持ち的に遠ざかりつつあるという気がしなくもない。
日本映画で好かったのは、『ホームレス理事長』『0.5ミリ』『紙の月』くらいかな。
いやぁ、本当に日本映画観てないのかな、今年。
アジア映画だと、『ドラッグ・ウォー』『昔のはじまり』『メルボルン』『TATSUMI』『西遊』『西遊記』かな。アジア映画は明らかに見逃した良作が多かった気がする。特に韓国映画。
大作系やアクション映画も変わらず好物なんだけど、こういう場で名を出す気分ではなくなりつつある保守化する老いる自我(笑)『ハンガー・ゲーム2』は、シリーズまるごと大好き宣言したくなる素晴らしさだったし、『ラッシュ/プライドと友情』だって興奮の坩堝。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の完成度は期せずしてゆえ受け止めきれなかった気がするし、評判悪かった『トランセンデンス』だってあれこれ考えながら楽しんだ。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』とか『イントゥ・ザ・ストーム』とかの一気呵成は劇場で味わってこそ。『GODZILLA』や『トランスフォーマー/ロスト・エイジ』はちゃんと初日に駆けつけて、IMAXでも再見しましたよ。ただね、今の自分にとって「大きな映画」はどうやらサイドな気分。
触れられなかった映画祭、イメージフォーラム・フェスティバル。今年も私的に充実観賞の連続で、『マナカマナ』『闇を呪う呪文』『ハレー』いずれも全く違うアプローチで全く違う琴線に触れまくり。
旧作を積極的に観ようとしないシネフィル失格な僕ですが、マルコ・ベロッキオ特集は嬉しくて仕方なく、未見だった『エンリコ四世』と『肉体の悪魔』はどちらも最高で、だからこそ『エンリコ四世』の残念すぎるVHS並の画質が悔やまれる。
春にはハル・ハートリー、夏にはダニエル・シュミットにベルイマン、秋にはジョン・フォード。
異才、奇才、名匠、巨匠。初めてだろうが再会だろうが、確実に邂逅がいつでも待ち受けるレトロスペクティヴ。そういえば、今年はビートニク映画祭なる素敵な企画もあった。オーディトリウム渋谷はなくなったけど。ロバート・フランクが撮った映画を二本(『チャパクア』『キャンディ・マウンテン』)を映画館で観られるなんて。『キャンディ・マウンテン』、本当に好きだった。
今年も本当にいろんな映画と出会えた一方で、映画をとりまく環境には今年も色んな「さよなら」つきまとい・・・。新宿ミラノもあと一日か。ミラノ1の大劇場も好きだったけど、シネマスクエアとうきゅうでは濃厚な出会いが幾度もあったっけ。ひとつの文化が消えるときっていうのは、消える運命ゆえに散り際もそれほど華々しくはないんだね。(と言いつつも、ここ数日の歌舞伎町は賑わっているのだろうが。)その一方で来年にはTOHOシネマズが新宿にもできて、恵比寿にはガーデンシネマが復活。容易く映画文化リバイバルになるとは思えないけど、このサバイバルは見守り続けよう。正直、映画から離れたがってる自分もいなくはないんだが(というより、別の方に興味の矛先がいきがち昨今)、産業的な「映画」が分岐点に来ているように、自分なりの「映画生活」もより自由に柔軟に見直してはしなやかに付き合っていきたいと思っています。そんななか、ブログをもうすこし身近にできれば好いんだけど・・・。
※旧ブログは移転しました(単純に移しただけです)。URLは以下の通り。
http://blog.goo.ne.jp/imaginary_possibilities
2014年10月23日木曜日
2014東京国際映画祭 1日目
『ロス・ホンゴス』(Los hongos)
監督は、オスカル・ルイス・ナビア(Oscar Ruiz Navia)。長編二作目にあたるとのこと。コロンビア・フランス・ドイツ・アルゼンチンの共同製作ということからもわかるように、映画祭を中心に地道に活躍している若手気鋭監督のようで、一作目もベルリン国際映画祭などなどで上映され、本作も今年のロカルノ国際映画祭でワールドプレミア(東京国際映画祭では、アジアンプレミア)。新人のコンペ(第一回or第二回監督作が対象)で審査員特別賞を受賞していたりもする。
落ち着きがあるんだか無いんだかハッキリしない作風に、どことなく所在なさを覚え、自分の中の仕舞うべきフォルダが見つからないまま淡泊に眺め続けた90分。しかし、最後の最後のシークエンスで心の空隙鷲掴み。それまでのあらゆる要素が共鳴、反響。
上映後のQ&Aで登壇した監督も、随分と誠実な好青年といった趣ながら、信条と信念を落ち着きながらも溌剌と淀みなく語る姿が頗る好印象。あらゆるものを吸収したい、そしてあらゆるものを呼吸したい。そんな想いが滲み出る表情は、映画のもつ表情として反芻された。
本作は、監督の祖母が癌で亡くなったことを一つの契機とし、《LIFE》をめぐる監督なりの想いがひとつの形となって生まれた作品のよう。作中に出てくるカルヴィンの祖母役は、監督の実際の祖母の姉妹が演じ、カルヴィンの父親役は、監督の実父だったりするらしく、そうしたところにも監督にとっての本作への思い入れが感じられる。また、主役二人はプロの役者ではなく、地元の高校で900人以上の面接(監督曰く「ディープ・インタビュー)を行い、厳選したという二人。確かに、ヴィジュアルや佇まい、或る種のアウラも見事に本作を生きるに唯一無二なものを持つ。というか、監督が言うには、「彼らは彼らとして作品に存在している(意訳)」し、それが監督なりの「語り方」なのだという。(役名は、彼らの実名でもある。)
〈現実〉とは、いまこの瞬間に世界のどこかで誰かが殺されているかもしれないということであり、いまこの瞬間に此処にいる人たちが想い想いに思いを巡らしていたりするということ。つまり、無数のユニヴァースが無数のまま在ること。そのように監督は語っていたように思う。そして、そうした〈現実〉観でもって、映画もつくりたいとも語ってた。なるほど、確かに、本作においては、あらゆる要素は全くもって「統御」の力から自由である。オープニングもエンディングも、クレジット画面においてはフィルムの「損傷」のような傷みや歪みが施され、意図的な破壊はしないけど、自然の重力には逆らわない、そんな整然の虚を突く無礙なる表明。
主人公の二人がのめりこむグラフィティは、反抗とか抵抗とかといった大仰な自己実現などではない。勿論、全くそうした意識が皆無なわけでもない。冒頭で、主人公の一人は活動家のポスターの顔をペンキで塗りつぶすのだが、それが壁づたいをあるくときの自然な「手ざわり」のように為されるという〈意識〉がそれを象徴しているようにも思う。ただ、大きな物語はあくまで後景なのだろう。途中、カルヴィンの祖母がアルバムをめくりながら過去を語るのだが、それはコロンビアの、ある町の過去であると同時に、祖母自身の過去であり、それらの過去はあくまで祖母自身(個人)が起点で在り終点である。そして、それは自らの外部にある「背景」をまといながら、どこまでも自らの内部で育まれ刻まれ遺った物語。
作中で描かれるグラフィティも、プロテストなどの意志よりも、彼らの夢見る世界の展開だ。
水中革命。途中、想い想いの夢見る世界が集合した「壁画」。それらが実現するかのごとき、水中遊戯の「現実」感。水との戯れ、そして大木との時間。平面にとじこめられた、描くだけの動きに飽かぬ先、待ち受けた悠然たる身体の安らぎと躍動と沈潜。
ラストに出てくる大木は、監督によると「サマン」という樹齢200年以上の木なのだとか。「この木何の木?」の日立の樹はモンキーポッドというが、学名に「サマン」が入ってる。おそらく同属な木なのかも。にしても、あのフォトジェニックには抗し難い自然の説得力。しかし、彼らの描いた木も負けてはいない。なぜなら、彼らを閉じ込めた、彼らが閉じこもってた「壁」からいよいよはみ出し、「越境」の合図となったのだから。人間の内部の自然が解放されるとき、自然は人間に開放されている。
監督の一作目(「El vuelco del cangrejo」)も観てみたい。
監督は、オスカル・ルイス・ナビア(Oscar Ruiz Navia)。長編二作目にあたるとのこと。コロンビア・フランス・ドイツ・アルゼンチンの共同製作ということからもわかるように、映画祭を中心に地道に活躍している若手気鋭監督のようで、一作目もベルリン国際映画祭などなどで上映され、本作も今年のロカルノ国際映画祭でワールドプレミア(東京国際映画祭では、アジアンプレミア)。新人のコンペ(第一回or第二回監督作が対象)で審査員特別賞を受賞していたりもする。
落ち着きがあるんだか無いんだかハッキリしない作風に、どことなく所在なさを覚え、自分の中の仕舞うべきフォルダが見つからないまま淡泊に眺め続けた90分。しかし、最後の最後のシークエンスで心の空隙鷲掴み。それまでのあらゆる要素が共鳴、反響。
上映後のQ&Aで登壇した監督も、随分と誠実な好青年といった趣ながら、信条と信念を落ち着きながらも溌剌と淀みなく語る姿が頗る好印象。あらゆるものを吸収したい、そしてあらゆるものを呼吸したい。そんな想いが滲み出る表情は、映画のもつ表情として反芻された。
本作は、監督の祖母が癌で亡くなったことを一つの契機とし、《LIFE》をめぐる監督なりの想いがひとつの形となって生まれた作品のよう。作中に出てくるカルヴィンの祖母役は、監督の実際の祖母の姉妹が演じ、カルヴィンの父親役は、監督の実父だったりするらしく、そうしたところにも監督にとっての本作への思い入れが感じられる。また、主役二人はプロの役者ではなく、地元の高校で900人以上の面接(監督曰く「ディープ・インタビュー)を行い、厳選したという二人。確かに、ヴィジュアルや佇まい、或る種のアウラも見事に本作を生きるに唯一無二なものを持つ。というか、監督が言うには、「彼らは彼らとして作品に存在している(意訳)」し、それが監督なりの「語り方」なのだという。(役名は、彼らの実名でもある。)
〈現実〉とは、いまこの瞬間に世界のどこかで誰かが殺されているかもしれないということであり、いまこの瞬間に此処にいる人たちが想い想いに思いを巡らしていたりするということ。つまり、無数のユニヴァースが無数のまま在ること。そのように監督は語っていたように思う。そして、そうした〈現実〉観でもって、映画もつくりたいとも語ってた。なるほど、確かに、本作においては、あらゆる要素は全くもって「統御」の力から自由である。オープニングもエンディングも、クレジット画面においてはフィルムの「損傷」のような傷みや歪みが施され、意図的な破壊はしないけど、自然の重力には逆らわない、そんな整然の虚を突く無礙なる表明。
主人公の二人がのめりこむグラフィティは、反抗とか抵抗とかといった大仰な自己実現などではない。勿論、全くそうした意識が皆無なわけでもない。冒頭で、主人公の一人は活動家のポスターの顔をペンキで塗りつぶすのだが、それが壁づたいをあるくときの自然な「手ざわり」のように為されるという〈意識〉がそれを象徴しているようにも思う。ただ、大きな物語はあくまで後景なのだろう。途中、カルヴィンの祖母がアルバムをめくりながら過去を語るのだが、それはコロンビアの、ある町の過去であると同時に、祖母自身の過去であり、それらの過去はあくまで祖母自身(個人)が起点で在り終点である。そして、それは自らの外部にある「背景」をまといながら、どこまでも自らの内部で育まれ刻まれ遺った物語。
作中で描かれるグラフィティも、プロテストなどの意志よりも、彼らの夢見る世界の展開だ。
水中革命。途中、想い想いの夢見る世界が集合した「壁画」。それらが実現するかのごとき、水中遊戯の「現実」感。水との戯れ、そして大木との時間。平面にとじこめられた、描くだけの動きに飽かぬ先、待ち受けた悠然たる身体の安らぎと躍動と沈潜。
ラストに出てくる大木は、監督によると「サマン」という樹齢200年以上の木なのだとか。「この木何の木?」の日立の樹はモンキーポッドというが、学名に「サマン」が入ってる。おそらく同属な木なのかも。にしても、あのフォトジェニックには抗し難い自然の説得力。しかし、彼らの描いた木も負けてはいない。なぜなら、彼らを閉じ込めた、彼らが閉じこもってた「壁」からいよいよはみ出し、「越境」の合図となったのだから。人間の内部の自然が解放されるとき、自然は人間に開放されている。
監督の一作目(「El vuelco del cangrejo」)も観てみたい。
2014年1月13日月曜日
Damsels in Distress ダムゼル・イン・ディストレス
ノア・バームバック監督の最新作『フランシス・ハ(Frances Ha)』では脚本も共同で担当し、女優としても数多くのノミネーションを受けるなど、いま最も注目される若手女性映画人の一人、グレタ・ガーウィグ(IMDb)。彼女主演の地味すぎる一作。
グレタは、昨年の東京国際映画祭のコンペでも上映され好評だった『ドリンキング・バディーズ』(『フランシス・ハ』と共にタランティーノのお気に入り2013に選出)のジョー・スワンバーグ(IMDb)監督と共同で、『Nights and Weekends』という作品を監督していたりもする。(彼女のスクリーン・デビューが、スワンバーグ監督作の「LOL」のようだ。)彼女は、やはり劇場未公開の(しかし、ソフトは昨秋リリースされた)『29歳からの恋とセックス(Lola Versus)』(音楽を担当しているのが、Fall On Your Sword!)でも主演。相手役は、『イージー・マネー』シリーズで人気沸騰後、新『ロボコップ』で主役に大抜擢されたジョエル・キナマン(IMDb)。同作は、来月WOWOWおよびスターチャンネルで初放映。評判は芳しくないものの、90分未満だし観ておこう。
本作はソフト販売およびレンタルは無く(ちなみに、ホイット・スティルマン監督の全作品が日本では未DVD化の模様)、配信のみでのリリース。私はスターチャンネルでの放映で最近ようやく観賞(初放映は半年ほど前みたい)。一般受けはしそうにないし、かといってシネフィル熱狂の王道とも違う、でも何処か惹かれて止まない滋味すぎる一作。
「フィルム・コメント」誌が選ぶ2012年のベスト50(劇場公開作篇)では、36位にランクイン。本作のそばには、『父、帰る』のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督作「Elena」(前作の「The Banishment」に続いて日本では未公開・・・)や、昨年のマイベストにも選んだベン・リヴァースの「湖畔の2年間」があり、このセレクション(順位的よりラインナップとして)はなかなか好み。
「damsel」は「少女(特に、身分の高い出自の)」、「distress」は「苦悩」や「窮地」といった意味で、「ダムゼル・イン・ディストレス」という言い方は常套句らしい。
スターチャンネルWebサイトに掲載されている作品解説では、「キャンパス内の男性優位の風潮を何とか変えようとがんばる女子大生3人組の奮闘を描く、風変わりな青春ラブコメディ」と書かれてて、別に間違ってはいないけど、この文句で最も強調すべきフレーズは「風変わり」。
以下、ストーリー解説から引用。「“自殺予防センター”の運営など、大学のキャンパスで弱者を助ける運動にいそしむバイオレット、ローズ、ヘザーの3人組。彼女たちは、自殺願望者にタップダンスを勧めたり、欝気味の学生には香水の香りを嗅ぐよう勧めたりと、ユニークなアドバイスを行っていた。新学期、編入してきたリリーと仲良くなった3人は、いくつかの恋の始まりや終わりを共に経験し、成長していくが・・・。」
とにかくビートは刻まれず、かといってスウィングが流れるわけでもない。控えめにしようと図っているわけではないのだろうが、恬淡な空気で埋め尽くされる。こちらの手をひっぱったりしない安堵の持続。いつしか彼女たちのすぐそばにチョコンと座る自分。他では味わえない心地好さがある一方、苦悩だって描かれる。しかし、その傷みは、物語の演出に従事するのではなく、あくまで物語る人物たち自身に従属してる。
弱者でも強者でもない、しかしメインストリームにも縁遠い、お気楽すぎには抵抗あるが、がむしゃらになるのもどうかと思う。自分なりの意固地な信条唱えつつ、だけど内心いつでも不安。そんな普遍的機微の一襞一襞が丁寧に描かれる。だから、登場人物達の時に奇抜な発想や行動も、結果の不可解さよりも原因の部分で共有できるのだ。どんな珍妙さにも、好奇な眼差しを一切混入させない。賢明よりも懸命を信じてる。
中盤、失意のヒロインが寮を飛び出しモーテルに泊まる。翌朝、彼女に希望の想いが込み上げて来る。彼女をそんな気持ちにさせたのは・・・石鹸。「この石鹸(ソープ)が私に希望(ホープ)をくれたのよ」。世界はきっと、素晴らしい。
ラストではカーテンコールよろしく、フレッド・アステアの1937年『踊る騎士(A Damsel in Distress)』(音楽は『踊らん哉(Shall We Dance)』同様、ガーシュイン兄弟が担当)より「Things Are Looking Up」をキャンパスで皆で唱って踊って、最後は・・・優美さと、ゆるさ。全篇通して言えることだけど、狙ったり計算したりした狡猾巧緻な「ゆるふわ」じゃなく、真摯に生きることで生まれる「ゆるゆる(直線的には進めない蛇行な私たち)」や「ふわふわ(しっかり踏ん張ろうとするけど浮き足だっちゃうの)」。
主演のグレタは勿論のこと、中心となる四人の各々が見事に独自の魅力にあふれてる。普通はタイプが分かれると、思い入れが誰かに集中しそうなものの、本作の四人は違う。皆が皆、不完全の愛おしさ。そして、アンサンブルによって生まれる「完全」。女優陣はヴィジュアルも見事に個性を際立たせている一方で、男性主要キャスト二人が(知らない男優だったこともあってか)終盤まで見分け困難だったという事実も・・・ただ、そんな混同もむしろ御伽噺のいたずらのようで戯れがいはあったけど。
冒頭では主演のグレタ・ガーウィグの話題に終始してしまったが、本作の監督・脚本を務める(プロデューサーでもある)ホイット・スティルマンは、米インディペンデント映画ではちょっとした伝説の人物のようで、13年ぶりとなる本作は2011年のベネチア国際映画祭のクロージング作品に選ばれている。
これを機にスティルマンの過去作(といっても3本しかないし)を全て観てみたいと思っても、前述の通り、日本ではVHSしか出ておらず。しかし、アメリカでは昨夏にクライテリオンから『メトロポリタン/ニューヨークの恋人たち』と『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』のブルーレイが発売されていることを知る。気張ってそちらに手を出すか、向こうでのBD発売が日本での放映等につながることを祈るか・・・。米インディペンデント系の映画って、一部の熱心な固定ファンが(既に)ついている作家のものくらいしか紹介されず、案外ヨーロッパやアジアの映画作家よりも日本に入って来にくい現状に陥ってる気がして寂しい。
グレタは、昨年の東京国際映画祭のコンペでも上映され好評だった『ドリンキング・バディーズ』(『フランシス・ハ』と共にタランティーノのお気に入り2013に選出)のジョー・スワンバーグ(IMDb)監督と共同で、『Nights and Weekends』という作品を監督していたりもする。(彼女のスクリーン・デビューが、スワンバーグ監督作の「LOL」のようだ。)彼女は、やはり劇場未公開の(しかし、ソフトは昨秋リリースされた)『29歳からの恋とセックス(Lola Versus)』(音楽を担当しているのが、Fall On Your Sword!)でも主演。相手役は、『イージー・マネー』シリーズで人気沸騰後、新『ロボコップ』で主役に大抜擢されたジョエル・キナマン(IMDb)。同作は、来月WOWOWおよびスターチャンネルで初放映。評判は芳しくないものの、90分未満だし観ておこう。
本作はソフト販売およびレンタルは無く(ちなみに、ホイット・スティルマン監督の全作品が日本では未DVD化の模様)、配信のみでのリリース。私はスターチャンネルでの放映で最近ようやく観賞(初放映は半年ほど前みたい)。一般受けはしそうにないし、かといってシネフィル熱狂の王道とも違う、でも何処か惹かれて止まない滋味すぎる一作。
「フィルム・コメント」誌が選ぶ2012年のベスト50(劇場公開作篇)では、36位にランクイン。本作のそばには、『父、帰る』のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督作「Elena」(前作の「The Banishment」に続いて日本では未公開・・・)や、昨年のマイベストにも選んだベン・リヴァースの「湖畔の2年間」があり、このセレクション(順位的よりラインナップとして)はなかなか好み。
「damsel」は「少女(特に、身分の高い出自の)」、「distress」は「苦悩」や「窮地」といった意味で、「ダムゼル・イン・ディストレス」という言い方は常套句らしい。
スターチャンネルWebサイトに掲載されている作品解説では、「キャンパス内の男性優位の風潮を何とか変えようとがんばる女子大生3人組の奮闘を描く、風変わりな青春ラブコメディ」と書かれてて、別に間違ってはいないけど、この文句で最も強調すべきフレーズは「風変わり」。
以下、ストーリー解説から引用。「“自殺予防センター”の運営など、大学のキャンパスで弱者を助ける運動にいそしむバイオレット、ローズ、ヘザーの3人組。彼女たちは、自殺願望者にタップダンスを勧めたり、欝気味の学生には香水の香りを嗅ぐよう勧めたりと、ユニークなアドバイスを行っていた。新学期、編入してきたリリーと仲良くなった3人は、いくつかの恋の始まりや終わりを共に経験し、成長していくが・・・。」
とにかくビートは刻まれず、かといってスウィングが流れるわけでもない。控えめにしようと図っているわけではないのだろうが、恬淡な空気で埋め尽くされる。こちらの手をひっぱったりしない安堵の持続。いつしか彼女たちのすぐそばにチョコンと座る自分。他では味わえない心地好さがある一方、苦悩だって描かれる。しかし、その傷みは、物語の演出に従事するのではなく、あくまで物語る人物たち自身に従属してる。
弱者でも強者でもない、しかしメインストリームにも縁遠い、お気楽すぎには抵抗あるが、がむしゃらになるのもどうかと思う。自分なりの意固地な信条唱えつつ、だけど内心いつでも不安。そんな普遍的機微の一襞一襞が丁寧に描かれる。だから、登場人物達の時に奇抜な発想や行動も、結果の不可解さよりも原因の部分で共有できるのだ。どんな珍妙さにも、好奇な眼差しを一切混入させない。賢明よりも懸命を信じてる。
中盤、失意のヒロインが寮を飛び出しモーテルに泊まる。翌朝、彼女に希望の想いが込み上げて来る。彼女をそんな気持ちにさせたのは・・・石鹸。「この石鹸(ソープ)が私に希望(ホープ)をくれたのよ」。世界はきっと、素晴らしい。
ラストではカーテンコールよろしく、フレッド・アステアの1937年『踊る騎士(A Damsel in Distress)』(音楽は『踊らん哉(Shall We Dance)』同様、ガーシュイン兄弟が担当)より「Things Are Looking Up」をキャンパスで皆で唱って踊って、最後は・・・優美さと、ゆるさ。全篇通して言えることだけど、狙ったり計算したりした狡猾巧緻な「ゆるふわ」じゃなく、真摯に生きることで生まれる「ゆるゆる(直線的には進めない蛇行な私たち)」や「ふわふわ(しっかり踏ん張ろうとするけど浮き足だっちゃうの)」。
主演のグレタは勿論のこと、中心となる四人の各々が見事に独自の魅力にあふれてる。普通はタイプが分かれると、思い入れが誰かに集中しそうなものの、本作の四人は違う。皆が皆、不完全の愛おしさ。そして、アンサンブルによって生まれる「完全」。女優陣はヴィジュアルも見事に個性を際立たせている一方で、男性主要キャスト二人が(知らない男優だったこともあってか)終盤まで見分け困難だったという事実も・・・ただ、そんな混同もむしろ御伽噺のいたずらのようで戯れがいはあったけど。
冒頭では主演のグレタ・ガーウィグの話題に終始してしまったが、本作の監督・脚本を務める(プロデューサーでもある)ホイット・スティルマンは、米インディペンデント映画ではちょっとした伝説の人物のようで、13年ぶりとなる本作は2011年のベネチア国際映画祭のクロージング作品に選ばれている。
これを機にスティルマンの過去作(といっても3本しかないし)を全て観てみたいと思っても、前述の通り、日本ではVHSしか出ておらず。しかし、アメリカでは昨夏にクライテリオンから『メトロポリタン/ニューヨークの恋人たち』と『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』のブルーレイが発売されていることを知る。気張ってそちらに手を出すか、向こうでのBD発売が日本での放映等につながることを祈るか・・・。米インディペンデント系の映画って、一部の熱心な固定ファンが(既に)ついている作家のものくらいしか紹介されず、案外ヨーロッパやアジアの映画作家よりも日本に入って来にくい現状に陥ってる気がして寂しい。
2014年1月11日土曜日
マッドネスに首ったけ
昨日取り上げたRed Light Companyの元ヴォーカルは地味に(?)音楽活動を継続しているようで、個人的にもこよなく愛する名曲「夜の囁き(In The Air Tonight)」(by フィル・コリンズ)の女性ヴォーカル(Lucy Mason)によるカヴァーをプロデュースしてたりするみたい。そのLucy Mason嬢ですが、なかなか聴かせるオリジナルも唱っていました。
それにしても、このギターを弾く男性がイチローに見えて仕方ない(笑)
もう一発。こちらは何とMuse「Madness」のアコースティック・カヴァー!
「マ・マ・マ・・・マッドネス」のコーラスがギターだと物足りないという方には、こちら。
それにしても、海の向こうの学校では出し物のレベルも段違い。
こちらはMuseメドレーを振り付きで。
ナッシュビルの葉加瀬太郎&森高千里による(喩えが雑過ぎ)「Madness」もなかなか味がある。
お次の「Madness」では、自然と親しむ爽やかアウトドア系CMソングみたいに聞こえる!?
ついでに。
超絶クール!になり損ねたけど、オーケストレーションとの相性抜群ってことだけは十二分に伝わる「Knights of Cydonia」。コメントにもあるけど、序盤のトランペットが断末魔・・・。
それにしても、「カヴァー」文化が市民レベルで桁違い、というか根っこが違う。根自体も、その深さ・広がりも。何をカヴァーするかより、誰がカヴァーするか。カヴァーする相手(他者)はあくまで、自分の本領を発揮するための器として借りるだけ。でも、その結果、その相手が今まで見たこともない輝きを放ったり。「権利」とか「自由」とか「個性」とかってものが、語彙レベルじゃなしに体感として日常として根づいてる感が充満してる。漱石が説いた「自分本位」を想い出す。
それにしても、このギターを弾く男性がイチローに見えて仕方ない(笑)
もう一発。こちらは何とMuse「Madness」のアコースティック・カヴァー!
「マ・マ・マ・・・マッドネス」のコーラスがギターだと物足りないという方には、こちら。
それにしても、海の向こうの学校では出し物のレベルも段違い。
こちらはMuseメドレーを振り付きで。
ナッシュビルの葉加瀬太郎&森高千里による(喩えが雑過ぎ)「Madness」もなかなか味がある。
お次の「Madness」では、自然と親しむ爽やかアウトドア系CMソングみたいに聞こえる!?
ついでに。
超絶クール!になり損ねたけど、オーケストレーションとの相性抜群ってことだけは十二分に伝わる「Knights of Cydonia」。コメントにもあるけど、序盤のトランペットが断末魔・・・。
それにしても、「カヴァー」文化が市民レベルで桁違い、というか根っこが違う。根自体も、その深さ・広がりも。何をカヴァーするかより、誰がカヴァーするか。カヴァーする相手(他者)はあくまで、自分の本領を発揮するための器として借りるだけ。でも、その結果、その相手が今まで見たこともない輝きを放ったり。「権利」とか「自由」とか「個性」とかってものが、語彙レベルじゃなしに体感として日常として根づいてる感が充満してる。漱石が説いた「自分本位」を想い出す。
2014年1月10日金曜日
Scheme Eugene
今日までユーロスペースでレイトショー上映されていた『消えたシモン・ヴェルネール』。
2011年のフランス映画祭で観た同作が、今になって不意に劇場公開というので驚いた。
そして、『桐島、部活やめるってよ』に言及する感想が洩れ聞こえてきたりすると、『桐島』を観る前年に観ていた自分の印象とはだいぶ違うような気もして、「通過する」ことで見えてくること見えなくなることってあるんだな、と実感。『消えた~』には『エレファント』の顕著な影響(模倣)を見出してしまって入り込めなかった私だが、『桐島』ではほとんど『エレファント』のことは頭をよぎらなかったりもしたし、通過してても人それぞれではあるんだろうけれど。
で、久しぶりに『桐島』のこと想い出したりしてた矢先に、ちょっと前のプレイリストとか眺めていたら、5年前の冬のマイ・ヘビロテ・ソングにしみじみ。Red Light Companyというデビューしたてのバンドの3枚目のシングル。そのミュージック・ビデオが、今見直すとまさに『桐島』と重なるところがあったので。
ハマったのはこの曲くらいだったんだけど、そういえばその後全然名前聞かないな・・・と思って調べてみれば、アルバム1枚で解散してたんだね。2009年のサマソニに出たりもしたらしいけど、その時の映像を観ると文化祭レベルで閉口・・・。この時期のUKバンドってアルバム1・2枚で解散しちゃうバンドが多かったよな。The Upper Roomとか、Boy Kill Boyとか、Mumm-Raとか・・・。と思ったら、Mumm-Raって去年復活したみたい。
それでは、再結成を祝して。
2011年のフランス映画祭で観た同作が、今になって不意に劇場公開というので驚いた。
そして、『桐島、部活やめるってよ』に言及する感想が洩れ聞こえてきたりすると、『桐島』を観る前年に観ていた自分の印象とはだいぶ違うような気もして、「通過する」ことで見えてくること見えなくなることってあるんだな、と実感。『消えた~』には『エレファント』の顕著な影響(模倣)を見出してしまって入り込めなかった私だが、『桐島』ではほとんど『エレファント』のことは頭をよぎらなかったりもしたし、通過してても人それぞれではあるんだろうけれど。
で、久しぶりに『桐島』のこと想い出したりしてた矢先に、ちょっと前のプレイリストとか眺めていたら、5年前の冬のマイ・ヘビロテ・ソングにしみじみ。Red Light Companyというデビューしたてのバンドの3枚目のシングル。そのミュージック・ビデオが、今見直すとまさに『桐島』と重なるところがあったので。
ハマったのはこの曲くらいだったんだけど、そういえばその後全然名前聞かないな・・・と思って調べてみれば、アルバム1枚で解散してたんだね。2009年のサマソニに出たりもしたらしいけど、その時の映像を観ると文化祭レベルで閉口・・・。この時期のUKバンドってアルバム1・2枚で解散しちゃうバンドが多かったよな。The Upper Roomとか、Boy Kill Boyとか、Mumm-Raとか・・・。と思ったら、Mumm-Raって去年復活したみたい。
それでは、再結成を祝して。
2014年1月8日水曜日
13日終了の展覧会
13日(月曜というか祝日)で終了してしまう展覧会で、とても心に残ったふたつ。
一ヶ月前に行った時には、(平日の昼~夕方)とはいえ見事なまでの閑散具合がむしろ神秘的にすら感じられた「ジョセフ・クーデルカ展」(国立近代美術館)。昨日(7日)の夕方に行くと、随分と賑わっておりました。駆け込みなのか、口コミなのか。そんな盛況ぶり(?)もあってか、図録も売り切れ。自分用には先月購入済ながら、もう一冊必要になったので買って帰ろうと思ったのに残念・・・と思いきや、予約販売なるものが。その場で図録の代金(2,200円)を払い、送り先を記入した用紙を渡すと、後日郵送してくれるのだとか。しかも、送料無料(美術館負担?)。ただし、「10日ほどお時間を頂く」とのこと。その予約販売は際限なく実施するのかは不明だが、とりあえず昨日の閉館時刻にはミュージアムショップでそこそこの人数が申し込んでおり、私は70番台だった。
いやぁ、しかし、本当にこれはしっかりと言葉を残しておきたくなる、おくべき展覧会だと改めて感じ入り、そう記すことでセルフ・プレッシャー。昨年の写真展ではマリオ・ジャコメッリ写真展と並ぶ、胸いっぱいの愛。
もう一つは実に地味だし、随分と小ぶりな展覧会ではありますが、サントリー美術館で開催中の「天上の舞 飛天の美」。どんな内容かと言うと・・・Webサイトの展覧会概要よりそのまま転載すれば、「空を飛び、舞い踊る天人は「飛天」と呼ばれ、インドで誕生して以来、優美で華麗な姿で人々を魅了し続けてきました。本展覧会では、地域・時代を超えて展開 した飛天の姿を、彫刻・絵画・工芸の作品によってたどります。中でも、京都・平等院鳳凰堂の修理落慶に先立ち、堂内の国宝 《雲中供養菩薩像》を特別に公開 いたします。さらに、国宝 《阿弥陀如来坐像光背飛天》を寺外初公開し、鳳凰堂内の絵画・工芸表現とともに、平安時代の飛天舞う浄土空間を立体的に展示いたします。屈指の名品を間近に鑑賞できるたいへん貴重な機会をお見逃しなく。」
サントリー美術館には昨年の「谷文晁」展が抜群にエキサイティングな内容で、爾来異様にお気に入りの空間となり、今回の展示における「場」が放つ神秘もたまらない。とにかく、そもそも魅力的な空間(空気)である上に、一点一点を「浮かび上がらせる」照明の妙。2013年最優秀ライティング賞。そして、このテーマ、このイメージを今浴びる意義。それは、まさしく『かぐや姫の物語』の「再生」。あの世界観を自ずから反芻せざるを得ない、語り合い。「雲中供養菩薩像」等は、実際に平等院鳳凰堂で展示(?)されている場合は、かなり上の方を見上げる形で眺めねばならないようなのだが、今回の展示では間近でじっくりと視ることができ、その一体一体が放つ個性や自由に胸躍る。
一般の当日券は1,300円。この展示だけでは正直割高感に思えなくもない価格設定な気もするが、サントリー美術館のメンバーズ・クラブというのがあり、年会費5,000円で一年間入館フリーパス(同伴者1名も無料)。他にも色々サービスがあるみたいだし、昨年から高まった私の日本の古美術愛好熱もあいまって、入会してしまったよ。しかも、閉館1時間前になろうかという頃に着いて申込手続きをしたものだから(余裕もって行かずにすみません)、受付を担当してくれたスタッフの方は随分と気を遣ってくださり、細やかな配慮も適宜な中、優雅ながらもスムーズに手続を進めて下さいました。好感、そして多謝。ここは(というか、日本の古美術系展覧会全般に概ね言えそう)、入館者の鑑賞態度というか雰囲気も実に落ち着いているし、六本木のオアシスとしてもこれから重宝しそう。
一ヶ月前に行った時には、(平日の昼~夕方)とはいえ見事なまでの閑散具合がむしろ神秘的にすら感じられた「ジョセフ・クーデルカ展」(国立近代美術館)。昨日(7日)の夕方に行くと、随分と賑わっておりました。駆け込みなのか、口コミなのか。そんな盛況ぶり(?)もあってか、図録も売り切れ。自分用には先月購入済ながら、もう一冊必要になったので買って帰ろうと思ったのに残念・・・と思いきや、予約販売なるものが。その場で図録の代金(2,200円)を払い、送り先を記入した用紙を渡すと、後日郵送してくれるのだとか。しかも、送料無料(美術館負担?)。ただし、「10日ほどお時間を頂く」とのこと。その予約販売は際限なく実施するのかは不明だが、とりあえず昨日の閉館時刻にはミュージアムショップでそこそこの人数が申し込んでおり、私は70番台だった。
いやぁ、しかし、本当にこれはしっかりと言葉を残しておきたくなる、おくべき展覧会だと改めて感じ入り、そう記すことでセルフ・プレッシャー。昨年の写真展ではマリオ・ジャコメッリ写真展と並ぶ、胸いっぱいの愛。
もう一つは実に地味だし、随分と小ぶりな展覧会ではありますが、サントリー美術館で開催中の「天上の舞 飛天の美」。どんな内容かと言うと・・・Webサイトの展覧会概要よりそのまま転載すれば、「空を飛び、舞い踊る天人は「飛天」と呼ばれ、インドで誕生して以来、優美で華麗な姿で人々を魅了し続けてきました。本展覧会では、地域・時代を超えて展開 した飛天の姿を、彫刻・絵画・工芸の作品によってたどります。中でも、京都・平等院鳳凰堂の修理落慶に先立ち、堂内の国宝 《雲中供養菩薩像》を特別に公開 いたします。さらに、国宝 《阿弥陀如来坐像光背飛天》を寺外初公開し、鳳凰堂内の絵画・工芸表現とともに、平安時代の飛天舞う浄土空間を立体的に展示いたします。屈指の名品を間近に鑑賞できるたいへん貴重な機会をお見逃しなく。」
サントリー美術館には昨年の「谷文晁」展が抜群にエキサイティングな内容で、爾来異様にお気に入りの空間となり、今回の展示における「場」が放つ神秘もたまらない。とにかく、そもそも魅力的な空間(空気)である上に、一点一点を「浮かび上がらせる」照明の妙。2013年最優秀ライティング賞。そして、このテーマ、このイメージを今浴びる意義。それは、まさしく『かぐや姫の物語』の「再生」。あの世界観を自ずから反芻せざるを得ない、語り合い。「雲中供養菩薩像」等は、実際に平等院鳳凰堂で展示(?)されている場合は、かなり上の方を見上げる形で眺めねばならないようなのだが、今回の展示では間近でじっくりと視ることができ、その一体一体が放つ個性や自由に胸躍る。
一般の当日券は1,300円。この展示だけでは正直割高感に思えなくもない価格設定な気もするが、サントリー美術館のメンバーズ・クラブというのがあり、年会費5,000円で一年間入館フリーパス(同伴者1名も無料)。他にも色々サービスがあるみたいだし、昨年から高まった私の日本の古美術愛好熱もあいまって、入会してしまったよ。しかも、閉館1時間前になろうかという頃に着いて申込手続きをしたものだから(余裕もって行かずにすみません)、受付を担当してくれたスタッフの方は随分と気を遣ってくださり、細やかな配慮も適宜な中、優雅ながらもスムーズに手続を進めて下さいました。好感、そして多謝。ここは(というか、日本の古美術系展覧会全般に概ね言えそう)、入館者の鑑賞態度というか雰囲気も実に落ち着いているし、六本木のオアシスとしてもこれから重宝しそう。
2014年1月6日月曜日
ハンガー・ゲーム2 〈序〉
2014年の映画初め。盆と正月は映画を観ない主義。主義といっては大袈裟だけど、個人的儀礼として定着してる習慣。そこから見えてくる映画の私的位置づけは、それが半ば「義務」や「仕事」としての色を帯びてきているということだろう。ただ、それがまさにモロ義務であったり仕事そのものであるなら問題はシンプルで、内面に複雑な事情を感じたり(拵えたり)する余地もない。ところが・・・これでは新年早々、信念粗相。とりあえず、映画を取り巻く環境(撮る側も観る側も)が激変したこの数年、それだけが実際上主原因かどうかはさておき、付き合い方というか捉え方を見直したい熱にうなされ続けているのは事実。ただ、これまでと違うのは、一般的というか客観的な理想なり答えなりを希求するではなしに、あくまで個人的な在り方を問い直しているという実感。というわけで、今年(こそ)は観賞本数が「自然」に減ることを祈願して(来年は「自然」から括弧が外れるレベルを目指し・・・って、「目指してる」時点で・・・)、一週間強の映画断食を終えた映画ハンガーが向かった戦場は、TOHOシネマズ六本木。東京国際映画祭以外でTOHOシネマズ六本木で映画を観るなど、今や年に一度あるかないかの珍事。そんな私にとっての愚計も新年ならば、ちょっとは粋な椿事に変わる!?
とはいっても、そこにはどうしても合理を求めた思考もあるわけで。終了間近となったサントリー美術館の展覧会(「天上の舞 飛天の美」)を観ておきたいから六本木に行かなくちゃ、わざわざ六本木にまで出て直帰はもったいない、ならばシネマート六本木で何か観る?でも、新年だしパーッと景気よく(場所も作品も)いきたいところ(って、そういうところは柄でもなく、おまけに日頃疎む因習慣習重視型!?)。そういえば年末公開映画を早いところ捕まえなくちゃ。余所見してたら正月洋画の炎は消える。でも、そもそもシネコンでの初日から『ハンガー・ゲーム2』冷遇が焦りを焦らす。ところが、TOHOシネマズ六本木での上映は時間も場所(5番シアター)も最適だ。でも、いくら不入りが噂される『ハンガー・ゲーム2』とはいえ、(土地柄として)六本木だし(作品性質的に)六本木だからこそ、それなりに混んでたりする?と思って、Webで予約状況見てみると、開始3時間前で埋まっているのは実質3席。というわけで、映画ハンター、六本木で映画ハンガーより脱す。の巻。
それにしても、タイトルって難しい。特に、翻訳の必要性がある場合。本作は特別に「訳した」わけではないけれど、アルファベットがカタカナに置き換わるだけで印象が変わる。原題「The Hunger Game : Catching Fire」。カタカナとして日本語に定着した「ハンガー」は「hanger」だから、音で認識する場合はどうしてもそちらに引きずられてしまうわけ。「ハンガー(hunger)・ゲーム」を知らない人にとっては「ハンガー(hanger)を使う遊びかな」程度の認識で通り過ぎてしまうかも。おまけに、キービジュアルの色使い等々が(日本における一般的趨勢的に)切実さよりも遊戯的劇的効果を期待したような見た目だし、「識らない」「特に知ろうと思わない」層に向けての訴求力はとにかく望めない。端から「望んでない」のか、そもそも「望めない」のか、あえて「望まない」のか。実に難度の高い案件ゆえに、宣伝部等の苦労話を聞いてみたくもなる。きっと、好くも悪くも真面目そうな宣伝部。決着をつけとくべき一作目の公開時、ノー・モア・トワイライトの決意もないままに、同一轍を更なる深みや泥濘に。本国大ヒットでも、今の日本で(とりわけ若年層に向けて)洋画は完全アウェイ(って、元来理の当然)。ただ、『TIME/タイム(In Time)』がちょっと前(『ハンガー・ゲーム』公開と同年)に日本でスマッシュヒットとなった好例(例外、かも)があっただけに、もうちょっと「打つ手」をあれこれ思案しても好かったのでは、とも思ったり。
とはいえ、『ハンガー・ゲーム:キャッチング・ファイヤー』(もしくは、『ハンガー・ゲーム:(日本語等の副題)』)という(日本人には一見続編だと認識し難い)タイトルではなく、潔く(?)『ハンガー・ゲーム2』という「続編モロ出し」邦題を選択したところには、誠意を感じる。が、それは新規顧客を見込んでいないことも同時に意味してる。確かにゴールデンタイムに全国ネットで一作目を放映してもらうだけの「後ろ盾」もないだろうし(テレ東で平日の昼間に放映されていた・・・)、原作にしろキャストにしろブレイクの端緒になりそうな要因も見当たらない(そもそも翻訳小説全般、外タレ全般において追い風無風or逆風のなか、ではあると思うけど)。だけど、手薬煉引いて待ってる客に矢を売るだけなら、宣伝は単なるマーケティグの奴隷では?弓すら持ってない人、でもキッカケすらあれば弓を持っちゃうし矢も引いちゃう、そんな人にさりげなく手薬煉塗りつけるくらいの至芸が「映画の宣伝」においてもみてみたい。確かに、『アベンジャーズ』はじめ、『レ・ミゼラブル』やら『テッド』やらの洋画ヒット(予想を上回る規模の)は宣伝の功績だと思う。(特に『テッド』なんかは本当に巧くやったな、と思う。)でも、そもそも一定の潜在需要が見込める潤沢手薬煉組を見事に狙い撃ちしたり、別に映画じゃなくたって面白いものなら手薬煉塗っても構わなくってよ組を強引に口説いたりした結果。新規開拓、そしてそこから生まれる継続や定着。それこそがマーケットの縮小を食い止める、あわよくば拡大再生産的サイクルを指向し得る、本当の金脈なのではないだろうか。
一作目の公開時に何処からともなくやたらと取りあげられた『バトル・ロワイアル』との「酷似」。実際に見てみると、類似こそあれ、両作を観れば浮かび上がる対照性は各作品の個性を際立たせもしそうなもので、なぜそれを巧く使わないのだろう。そんな疑問を感じつつ、邦画ではラノベ的映画群が一定の訴求力を見せていた現実(これを利用したのが『TIME/タイム』だったのかな)を思うと、『ハンガー・ゲーム』の不戦敗が残念でならなかった。『リアル鬼ごっこ』なんて映画が5つ、テレビドラマまで作られてるっていうのに。(と言いつつ、「映画が3つ」くらいまでしか知らなかったけど・・・)
カットニスが放つ矢とは大きく異なって、私の話はまた逸れる。いつもはおちゃらけた印象の留学生(from ドイツ)が先日、「日本の若者は、会話がテレビと彼氏彼女の話題にばかり終始してる」と嘆いていた。それは私にとって「かつて」の印象だったので、「相変わらず」「いまだに」なのか「いま再び」なのか解らないが、そうした傾向が体感レベルで残っている事実に納得しつつもやっぱり焦燥してしまう。確かに、日本人は日常的な会話で真面目な話題を持ち出すことが苦手だし、慣習的にも好まれない。そのくせ、天候ネタのようにする政治おしゃべりは厭わない。だから、いつまでたっても世間的な、極めて具体的(つまり身近な)「社会」に留まろうとしてしまう。そんな日本人にとって社会を考える恰好の素材こそが〈物語〉だったのだろうし、その必要性はいまだに変わらない。と、私は思っているのだが、実際はあまりそれを必要としない人が増え、そのかわりに情報に飢え情報に翻弄され情報に蝕まれ、語らず騙ってばかりいる人間が増殖中。私自身、その渦中にいないとも抜け出したとも言い切れない。いや、渦中にいるのだろうし、これからも居続ける。人の間で生きる人間ならば仕方がない。でも、だからこそ、そんな世界を眺めるために「鏡」が必要になるのだろう。それが歴史であり、物語。そんなの日本でだって太古から伝統だったはず。
私が「ハンガー・ゲーム」シリーズを愛して止まない(のだろうと、この度痛感)のは、たとえそれがどんなにチープだろうが(いや、チープだからこそ)、思索に開放的な「俯瞰した社会」がそこに見えるから。それは娯楽を目的にしているからこそ残される可能性と言ってもいい。『太陽を盗んだ男』とか『新幹線大爆破』とかを熱く語る日本の映画ファンは数も質も根強いながら、「ハンガー・ゲーム」を大真面目に過熱気味に語り合っちゃうシネフィルの根は育つだろうか(とりわけ若年に)。
「映画」とは一体何なのか。そんな途方も無いテーマを掲げるつもりはない。なんてことはなく、気づけば「映画」の独自性を探ってしまっている私。殊に、「映画でなければならない」理由を欲する理由は沢山あるだけに。そんな妄想が新年暴走遂げた今、いよいよ『ハンガー・ゲーム2』を語りだす。(映画本篇に倣った冗長と幕切!)
とはいっても、そこにはどうしても合理を求めた思考もあるわけで。終了間近となったサントリー美術館の展覧会(「天上の舞 飛天の美」)を観ておきたいから六本木に行かなくちゃ、わざわざ六本木にまで出て直帰はもったいない、ならばシネマート六本木で何か観る?でも、新年だしパーッと景気よく(場所も作品も)いきたいところ(って、そういうところは柄でもなく、おまけに日頃疎む因習慣習重視型!?)。そういえば年末公開映画を早いところ捕まえなくちゃ。余所見してたら正月洋画の炎は消える。でも、そもそもシネコンでの初日から『ハンガー・ゲーム2』冷遇が焦りを焦らす。ところが、TOHOシネマズ六本木での上映は時間も場所(5番シアター)も最適だ。でも、いくら不入りが噂される『ハンガー・ゲーム2』とはいえ、(土地柄として)六本木だし(作品性質的に)六本木だからこそ、それなりに混んでたりする?と思って、Webで予約状況見てみると、開始3時間前で埋まっているのは実質3席。というわけで、映画ハンター、六本木で映画ハンガーより脱す。の巻。
それにしても、タイトルって難しい。特に、翻訳の必要性がある場合。本作は特別に「訳した」わけではないけれど、アルファベットがカタカナに置き換わるだけで印象が変わる。原題「The Hunger Game : Catching Fire」。カタカナとして日本語に定着した「ハンガー」は「hanger」だから、音で認識する場合はどうしてもそちらに引きずられてしまうわけ。「ハンガー(hunger)・ゲーム」を知らない人にとっては「ハンガー(hanger)を使う遊びかな」程度の認識で通り過ぎてしまうかも。おまけに、キービジュアルの色使い等々が(日本における一般的趨勢的に)切実さよりも遊戯的劇的効果を期待したような見た目だし、「識らない」「特に知ろうと思わない」層に向けての訴求力はとにかく望めない。端から「望んでない」のか、そもそも「望めない」のか、あえて「望まない」のか。実に難度の高い案件ゆえに、宣伝部等の苦労話を聞いてみたくもなる。きっと、好くも悪くも真面目そうな宣伝部。決着をつけとくべき一作目の公開時、ノー・モア・トワイライトの決意もないままに、同一轍を更なる深みや泥濘に。本国大ヒットでも、今の日本で(とりわけ若年層に向けて)洋画は完全アウェイ(って、元来理の当然)。ただ、『TIME/タイム(In Time)』がちょっと前(『ハンガー・ゲーム』公開と同年)に日本でスマッシュヒットとなった好例(例外、かも)があっただけに、もうちょっと「打つ手」をあれこれ思案しても好かったのでは、とも思ったり。
とはいえ、『ハンガー・ゲーム:キャッチング・ファイヤー』(もしくは、『ハンガー・ゲーム:(日本語等の副題)』)という(日本人には一見続編だと認識し難い)タイトルではなく、潔く(?)『ハンガー・ゲーム2』という「続編モロ出し」邦題を選択したところには、誠意を感じる。が、それは新規顧客を見込んでいないことも同時に意味してる。確かにゴールデンタイムに全国ネットで一作目を放映してもらうだけの「後ろ盾」もないだろうし(テレ東で平日の昼間に放映されていた・・・)、原作にしろキャストにしろブレイクの端緒になりそうな要因も見当たらない(そもそも翻訳小説全般、外タレ全般において追い風無風or逆風のなか、ではあると思うけど)。だけど、手薬煉引いて待ってる客に矢を売るだけなら、宣伝は単なるマーケティグの奴隷では?弓すら持ってない人、でもキッカケすらあれば弓を持っちゃうし矢も引いちゃう、そんな人にさりげなく手薬煉塗りつけるくらいの至芸が「映画の宣伝」においてもみてみたい。確かに、『アベンジャーズ』はじめ、『レ・ミゼラブル』やら『テッド』やらの洋画ヒット(予想を上回る規模の)は宣伝の功績だと思う。(特に『テッド』なんかは本当に巧くやったな、と思う。)でも、そもそも一定の潜在需要が見込める潤沢手薬煉組を見事に狙い撃ちしたり、別に映画じゃなくたって面白いものなら手薬煉塗っても構わなくってよ組を強引に口説いたりした結果。新規開拓、そしてそこから生まれる継続や定着。それこそがマーケットの縮小を食い止める、あわよくば拡大再生産的サイクルを指向し得る、本当の金脈なのではないだろうか。
一作目の公開時に何処からともなくやたらと取りあげられた『バトル・ロワイアル』との「酷似」。実際に見てみると、類似こそあれ、両作を観れば浮かび上がる対照性は各作品の個性を際立たせもしそうなもので、なぜそれを巧く使わないのだろう。そんな疑問を感じつつ、邦画ではラノベ的映画群が一定の訴求力を見せていた現実(これを利用したのが『TIME/タイム』だったのかな)を思うと、『ハンガー・ゲーム』の不戦敗が残念でならなかった。『リアル鬼ごっこ』なんて映画が5つ、テレビドラマまで作られてるっていうのに。(と言いつつ、「映画が3つ」くらいまでしか知らなかったけど・・・)
カットニスが放つ矢とは大きく異なって、私の話はまた逸れる。いつもはおちゃらけた印象の留学生(from ドイツ)が先日、「日本の若者は、会話がテレビと彼氏彼女の話題にばかり終始してる」と嘆いていた。それは私にとって「かつて」の印象だったので、「相変わらず」「いまだに」なのか「いま再び」なのか解らないが、そうした傾向が体感レベルで残っている事実に納得しつつもやっぱり焦燥してしまう。確かに、日本人は日常的な会話で真面目な話題を持ち出すことが苦手だし、慣習的にも好まれない。そのくせ、天候ネタのようにする政治おしゃべりは厭わない。だから、いつまでたっても世間的な、極めて具体的(つまり身近な)「社会」に留まろうとしてしまう。そんな日本人にとって社会を考える恰好の素材こそが〈物語〉だったのだろうし、その必要性はいまだに変わらない。と、私は思っているのだが、実際はあまりそれを必要としない人が増え、そのかわりに情報に飢え情報に翻弄され情報に蝕まれ、語らず騙ってばかりいる人間が増殖中。私自身、その渦中にいないとも抜け出したとも言い切れない。いや、渦中にいるのだろうし、これからも居続ける。人の間で生きる人間ならば仕方がない。でも、だからこそ、そんな世界を眺めるために「鏡」が必要になるのだろう。それが歴史であり、物語。そんなの日本でだって太古から伝統だったはず。
私が「ハンガー・ゲーム」シリーズを愛して止まない(のだろうと、この度痛感)のは、たとえそれがどんなにチープだろうが(いや、チープだからこそ)、思索に開放的な「俯瞰した社会」がそこに見えるから。それは娯楽を目的にしているからこそ残される可能性と言ってもいい。『太陽を盗んだ男』とか『新幹線大爆破』とかを熱く語る日本の映画ファンは数も質も根強いながら、「ハンガー・ゲーム」を大真面目に過熱気味に語り合っちゃうシネフィルの根は育つだろうか(とりわけ若年に)。
「映画」とは一体何なのか。そんな途方も無いテーマを掲げるつもりはない。なんてことはなく、気づけば「映画」の独自性を探ってしまっている私。殊に、「映画でなければならない」理由を欲する理由は沢山あるだけに。そんな妄想が新年暴走遂げた今、いよいよ『ハンガー・ゲーム2』を語りだす。(映画本篇に倣った冗長と幕切!)
2014年1月4日土曜日
アントニオ・サウラ 《大群衆》
国立西洋美術館(上野)で明日まで開催されている「ソフィア王妃芸術センター所蔵 内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」展。出品数14点という小規模さのみならず、テーマや作家の「位置」的にも随分と似合ってしまう皮肉な処遇が展開されていた。私が足を運んだのは年末(後から知ったが、年内開館最終日だったよう)、平日の昼下がりながら美術館前のチケット売り場にはちょっとした行列ができている。が、それは「みんな大好き」モネ展に参詣する人々であり、常設展の一画(とはいえ、「入り口」として置かれ、フィーチャー感はそれなりに十分)でひっそりと佇む本展にまで足を向ける人は半数もいないのでは。(終始閑散として、快適だったのも事実。)
私は端から本展目当てで赴き直行したのだが、たった14点とはいえ、西洋美術館のゆったりとしたスペースでじっくり落ち着いて鑑賞できる環境もあってか、合計小一時間近く留まってしまっていたかもしれない。何しろ、アントニオ・サウラの《大群衆》を目の前にして30分近くさ迷っていた気がするし。
本展は、スペイン出身の四人の作家による作品で構成されている。いずれも、アンフォルメル(不定形)な芸術を志向した作家でありながら、フランコ体制下にあったスペインからアメリカへ亡命したホセ・ゲレーロとエステバン・ビセンテ、スペインに留まったアントニオ・サウラとアントニ・タピエスという、スペインの闇を「内と外」から描いた芸術家たちを対比させつつ(「内」と「外」は必ずしも一定ではないような示唆がある)対話させようという企画。それゆえに、2対2で浮かび上がってくる対照性もあれば、そうしてグループ化してみるからこそ浮かび上がる差異、分けてみたからこそ結びつく共通点等々、作品が具象的抽象表現であるが故に放つ原初の「叫び」が喚起する感動は破壊的に再生を反復して止まない。
ソフィア王妃芸術センター館長のマヌエル・ボルハ=ビリェルも図録に寄せた文章において、次のように語っている。「彼らの絵画については、国内亡命地〔スペイン〕/国外亡命地〔アメリカ合衆国〕の分離を前提に両者の共通項をやたらに求めるのでなく、各作品の表現に国内亡命地/国外亡命地の対話として読み直すべきであろう。というのも、双方(スペイン国内の美術家とアメリカ合衆国で活躍したスペイン美術家)の美術動向は絶えず交流し、未来への展望を共有していたのみならず、それぞれに活路を必死に模索し、地方性を真剣に探求していたからである。」「画家の名前のない本展のタイトルは問題の提起として解読可能になる。誰が内に、誰が外にいたのか?20世紀美術についても尚、地理的な帰属や環境は支配的な要素と考えられるのか?あるいは四人の作品は、美術のみに実現可能な、目に見えない、国境を越えた共同体の所産として捉えられるのであろうか?」

とにかく魅せられて止まなかったアントニオ・サウラの《大群衆》は、彼が繰り返し挑んだ「群衆」のモチーフ(全部で11作品あるらしい)のなかでも最大スケールの一作(3枚のカンヴァスをつなぎ合わせた、横幅515cmという巨大な作品)。向き合う時間、向き合う角度、向き合う位置により、浮かび上がる貌はめくるめく。ジャクソン・ポロックが余白による「奥」の宇宙であるとするならば、アントニオ・サウラは埋め尽くされた蠢く「迫」。しかし、どちらにも共通する刹那に宿った永遠性。
引用されているアントニオ・サウラの言葉には、次のようなものがあった。
「絵画とは、まず何よりも白い表面であり、そこを何かによって埋めなければならないものである。カンヴァスは果てしなき戦場である。画家はそれを前にして、悲劇的であり、官能的なものを格闘しながら作り出し、命泣く横たわる素材を身振りによって激烈なる竜巻に変え、宇宙の果てまで常に光り輝くエネルギーを付与するのである。
色彩、構図、素材は質感、意味、美や醜、バランスが取れているか取れていないか、そうした問題を私は気にしない。必要に応じて、何色であれ要求が生じた時に身近にある色で自分を満足させるのである。素材は使うためならどんな素材であれ―今現在は他の問題を避けるために光と影であるところの白と黒を使うが―用いるだろう。それでもし描くことができないのであれば私自身を表現するためにはどんな手段でも用いる。たとえそれが壁に穴をあけることであれ、単に叫ぶことであれ、チューイングガムをかむことであれ。
具象か抽象か、また純粋主義か狂信主義か、美的か理論的か、そうした芸術に関するあらゆる不毛な議論を超越したところに、叫び、表面を埋め尽くし、足跡を残さんとする押さえがたい必要性がある。それは、精気に満ちた存在の可能性を目覚めさせる表現の必要性であり、それが女性の身体の愛に満ちた、または破壊的なイメージを通じてであれ、無またはすべて、絶望または強烈な空腹、拡張する全体または収斂する力学を通じてであれ、同じである。」
ちなみに、映画監督として現在も活躍するカルロス・サウラは、アントニオ・サウラの弟。図録には、サウラ兄弟とルイス・ブニュエルが一緒に映っている写真も掲載されている。カルロス・サウラの映画は主要なものを全然観られていないのだが、『タンゴ』と『フラメンコ・フラメンコ』では、舞踏のもつ華麗さが精神性から醸造されることを知らしめられて打ちのめされた記憶が未だに鮮明。特に前者は、ル・シネマでの公開中に全く食指が動かぬ青二才であった私の背中を蹴り飛ばしてくれた先輩(バイト先の映画館で一緒だった)のおかげで、何とか劇場で観ることができた思い出深い作品。(ちなみに、私が観たのはル・シネマではなく、開館当初のワーナーマイカル・シネマズみなとみない[当時]。大手配給会社からの制裁によって、封切作品を回してもらえないなどという「大人の事情」があったシネコン黎明期、苦肉の策でかけていたミニシアター作品群の一作。『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』とか『遠い空の向こうに』とか観に行った。どの作品も観客が数名だった。)
アントニオ・サウラの《大群衆》は1963年の作品なのだが、彼は1965年と67年に、クエンカのアトリエで各100点にも及ぶ作品を焼却していたらしい。そしてその後は1969年から1978年にかけて油彩の制作をやめ、紙作品の制作と執筆に専念したという。そうした事実からも、《大群衆》および当時の「群衆」シリーズが放つ魂の叫びが或る意味で「絶頂」にあったことがわかる。今回の展示では、油彩制作中断後の油彩作品(《磔刑》1979年)も展示されており、メタフォリカルな表現がより進化していて興味深い。しかし、私は《大群衆》の剥き出しの絶唱に全身が縛られた。
アントニオ・サウラには《映画 1番》というドローイングにコラージュを組み合わせた作品もあるらしく、画一的に埋め尽くされた映画館の観客席の群衆と、奥のスクリーンにコラージュで貼り付けられた女性の写真が対比的に表されているものなんだとか(図録ではモノクロで参照画像が小さく掲載されている)。最近では「映画」そのものよりも、「映画をみる」という行為(とりわけ「劇場でみる」という行為)について論考したがりな自分にとって、豊かな考察の礎を与えてくれそうなシリーズ(?)ではないか!図録に寄稿された松田健児氏の文章(細やかな調査が親切に整理されていて興味津々しがいがある)によると、日本で個展も開かれ著作の邦訳も出版されたアントニ・タピエスに比べると、アントニオ・サウラ作品の日本への紹介は随分と「まだまだ」なようである。日本の美術館でアントニオ・サウラの作品を所蔵しているのは、長崎県美術館と国立国際美術館のみだとか。(だから、本展は長崎県美術館へ巡回[1月17日~3月9日]するんだね。)本展(は、「日本スペイン交流400周年」事業の一環でもあるらしいし)を足がかりにし、アントニオ・サウラ作品の本格的な日本への紹介が実現してくることを大切望。松田氏の文章でも十全に証明されていたスペイン・アンフォルメルと日本の伝統および前衛芸術の親和性からしても、必然かつ必要な回顧かと。
さて、無知蒙昧にも関わらず「アート語り」から始めてしまうという無謀に出た新年。映画を語ることに自信をなくし、すべてが騙りにしか思えなくなってしまった昨年。まずはリセット、いつでもリセット。そんな気軽さを深遠さとはき違え、今年は行きます、往ってみます。最後に、図録に引用されていたホセ・ゲレーロの言葉を引用。
「思い出せる記憶の初めには、黒がそこにあった。人生の一部として。群衆の、風景の、そして孤独の中に。それは絶え間なく動いている何かであり、死ではなく生を表す叫びのようであった。時には、通り過ぎては消えてゆく黒い衣服の人物であり、またある時は、空の青と灰色を、大地の赤と黄土色を覆う雲の黒さであった。時には黒の不在が、それがそこに在ったことを私たちに思い出させるのだった。」
この「黒」って、映画における闇、映画館における暗闇にも思えてしまう。
私は端から本展目当てで赴き直行したのだが、たった14点とはいえ、西洋美術館のゆったりとしたスペースでじっくり落ち着いて鑑賞できる環境もあってか、合計小一時間近く留まってしまっていたかもしれない。何しろ、アントニオ・サウラの《大群衆》を目の前にして30分近くさ迷っていた気がするし。
本展は、スペイン出身の四人の作家による作品で構成されている。いずれも、アンフォルメル(不定形)な芸術を志向した作家でありながら、フランコ体制下にあったスペインからアメリカへ亡命したホセ・ゲレーロとエステバン・ビセンテ、スペインに留まったアントニオ・サウラとアントニ・タピエスという、スペインの闇を「内と外」から描いた芸術家たちを対比させつつ(「内」と「外」は必ずしも一定ではないような示唆がある)対話させようという企画。それゆえに、2対2で浮かび上がってくる対照性もあれば、そうしてグループ化してみるからこそ浮かび上がる差異、分けてみたからこそ結びつく共通点等々、作品が具象的抽象表現であるが故に放つ原初の「叫び」が喚起する感動は破壊的に再生を反復して止まない。
ソフィア王妃芸術センター館長のマヌエル・ボルハ=ビリェルも図録に寄せた文章において、次のように語っている。「彼らの絵画については、国内亡命地〔スペイン〕/国外亡命地〔アメリカ合衆国〕の分離を前提に両者の共通項をやたらに求めるのでなく、各作品の表現に国内亡命地/国外亡命地の対話として読み直すべきであろう。というのも、双方(スペイン国内の美術家とアメリカ合衆国で活躍したスペイン美術家)の美術動向は絶えず交流し、未来への展望を共有していたのみならず、それぞれに活路を必死に模索し、地方性を真剣に探求していたからである。」「画家の名前のない本展のタイトルは問題の提起として解読可能になる。誰が内に、誰が外にいたのか?20世紀美術についても尚、地理的な帰属や環境は支配的な要素と考えられるのか?あるいは四人の作品は、美術のみに実現可能な、目に見えない、国境を越えた共同体の所産として捉えられるのであろうか?」
とにかく魅せられて止まなかったアントニオ・サウラの《大群衆》は、彼が繰り返し挑んだ「群衆」のモチーフ(全部で11作品あるらしい)のなかでも最大スケールの一作(3枚のカンヴァスをつなぎ合わせた、横幅515cmという巨大な作品)。向き合う時間、向き合う角度、向き合う位置により、浮かび上がる貌はめくるめく。ジャクソン・ポロックが余白による「奥」の宇宙であるとするならば、アントニオ・サウラは埋め尽くされた蠢く「迫」。しかし、どちらにも共通する刹那に宿った永遠性。
引用されているアントニオ・サウラの言葉には、次のようなものがあった。
「絵画とは、まず何よりも白い表面であり、そこを何かによって埋めなければならないものである。カンヴァスは果てしなき戦場である。画家はそれを前にして、悲劇的であり、官能的なものを格闘しながら作り出し、命泣く横たわる素材を身振りによって激烈なる竜巻に変え、宇宙の果てまで常に光り輝くエネルギーを付与するのである。
色彩、構図、素材は質感、意味、美や醜、バランスが取れているか取れていないか、そうした問題を私は気にしない。必要に応じて、何色であれ要求が生じた時に身近にある色で自分を満足させるのである。素材は使うためならどんな素材であれ―今現在は他の問題を避けるために光と影であるところの白と黒を使うが―用いるだろう。それでもし描くことができないのであれば私自身を表現するためにはどんな手段でも用いる。たとえそれが壁に穴をあけることであれ、単に叫ぶことであれ、チューイングガムをかむことであれ。
具象か抽象か、また純粋主義か狂信主義か、美的か理論的か、そうした芸術に関するあらゆる不毛な議論を超越したところに、叫び、表面を埋め尽くし、足跡を残さんとする押さえがたい必要性がある。それは、精気に満ちた存在の可能性を目覚めさせる表現の必要性であり、それが女性の身体の愛に満ちた、または破壊的なイメージを通じてであれ、無またはすべて、絶望または強烈な空腹、拡張する全体または収斂する力学を通じてであれ、同じである。」
ちなみに、映画監督として現在も活躍するカルロス・サウラは、アントニオ・サウラの弟。図録には、サウラ兄弟とルイス・ブニュエルが一緒に映っている写真も掲載されている。カルロス・サウラの映画は主要なものを全然観られていないのだが、『タンゴ』と『フラメンコ・フラメンコ』では、舞踏のもつ華麗さが精神性から醸造されることを知らしめられて打ちのめされた記憶が未だに鮮明。特に前者は、ル・シネマでの公開中に全く食指が動かぬ青二才であった私の背中を蹴り飛ばしてくれた先輩(バイト先の映画館で一緒だった)のおかげで、何とか劇場で観ることができた思い出深い作品。(ちなみに、私が観たのはル・シネマではなく、開館当初のワーナーマイカル・シネマズみなとみない[当時]。大手配給会社からの制裁によって、封切作品を回してもらえないなどという「大人の事情」があったシネコン黎明期、苦肉の策でかけていたミニシアター作品群の一作。『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』とか『遠い空の向こうに』とか観に行った。どの作品も観客が数名だった。)
アントニオ・サウラの《大群衆》は1963年の作品なのだが、彼は1965年と67年に、クエンカのアトリエで各100点にも及ぶ作品を焼却していたらしい。そしてその後は1969年から1978年にかけて油彩の制作をやめ、紙作品の制作と執筆に専念したという。そうした事実からも、《大群衆》および当時の「群衆」シリーズが放つ魂の叫びが或る意味で「絶頂」にあったことがわかる。今回の展示では、油彩制作中断後の油彩作品(《磔刑》1979年)も展示されており、メタフォリカルな表現がより進化していて興味深い。しかし、私は《大群衆》の剥き出しの絶唱に全身が縛られた。
アントニオ・サウラには《映画 1番》というドローイングにコラージュを組み合わせた作品もあるらしく、画一的に埋め尽くされた映画館の観客席の群衆と、奥のスクリーンにコラージュで貼り付けられた女性の写真が対比的に表されているものなんだとか(図録ではモノクロで参照画像が小さく掲載されている)。最近では「映画」そのものよりも、「映画をみる」という行為(とりわけ「劇場でみる」という行為)について論考したがりな自分にとって、豊かな考察の礎を与えてくれそうなシリーズ(?)ではないか!図録に寄稿された松田健児氏の文章(細やかな調査が親切に整理されていて興味津々しがいがある)によると、日本で個展も開かれ著作の邦訳も出版されたアントニ・タピエスに比べると、アントニオ・サウラ作品の日本への紹介は随分と「まだまだ」なようである。日本の美術館でアントニオ・サウラの作品を所蔵しているのは、長崎県美術館と国立国際美術館のみだとか。(だから、本展は長崎県美術館へ巡回[1月17日~3月9日]するんだね。)本展(は、「日本スペイン交流400周年」事業の一環でもあるらしいし)を足がかりにし、アントニオ・サウラ作品の本格的な日本への紹介が実現してくることを大切望。松田氏の文章でも十全に証明されていたスペイン・アンフォルメルと日本の伝統および前衛芸術の親和性からしても、必然かつ必要な回顧かと。
さて、無知蒙昧にも関わらず「アート語り」から始めてしまうという無謀に出た新年。映画を語ることに自信をなくし、すべてが騙りにしか思えなくなってしまった昨年。まずはリセット、いつでもリセット。そんな気軽さを深遠さとはき違え、今年は行きます、往ってみます。最後に、図録に引用されていたホセ・ゲレーロの言葉を引用。
「思い出せる記憶の初めには、黒がそこにあった。人生の一部として。群衆の、風景の、そして孤独の中に。それは絶え間なく動いている何かであり、死ではなく生を表す叫びのようであった。時には、通り過ぎては消えてゆく黒い衣服の人物であり、またある時は、空の青と灰色を、大地の赤と黄土色を覆う雲の黒さであった。時には黒の不在が、それがそこに在ったことを私たちに思い出させるのだった。」
この「黒」って、映画における闇、映画館における暗闇にも思えてしまう。
2013年12月30日月曜日
2013年の映画ベスト10+
昨年末のベスト10記事では、今年はあまり映画観られないかも発言してたくせして、結局それほどのペースダウンもせずに淡々と(実際は眈々!?)映画観てました。強いて減らした方面があるとすれば、劇場公開作のうちの拡大系ものかな。春から仕事内容が(ここ数年と比べて)ガラッと変わったので、仕事の仕方とか姿勢とかに慣れるのに予想通り時間も労力も費やしたけど、その分《映画を観る》という「日常」を軸足にすることで、ブレがち揺れがちな生活方針を時折軌道修正できたりも。そういった意味では、映画祭等の前売購入&日時指定といったフィックス観賞の方が都合好かったりして、映画祭で積極的に「観て(おいて)しまう」ようになったかな。(以前は、公開決まっている作品は後回しか観ないかにしてたけど)
昨年までは洋邦分けたり、劇場公開作と映画祭上映作品を分けたりし、それぞれでランキングつくったりしてたけど、とりあえず今年は全部まとめて「ベスト」を選出。ただ、劇場で初めて観た新作(一般公開が初めてという作品は対象)から。ちなみに、今年の劇場観賞本数は300本強。1日1本弱ってことなんだけど、感慨的には「そんなに観てたっけ?」って印象なので、そこそこ「我ながら適正」の付き合い方ができ始めたのかな、と楽観視。
以下、今年観たマイベストな映画たち。(観賞順)
湖畔の2年間
横道世之介
アントニオ・カルロス・ジョビン
ザ・マスター
Oh Boy
風立ちぬ
マイルストーンズ
エリ
トム・アット・ザ・ファーム
北(ノルテ)―歴史の終わり
42 世界を変えた男
ILO ILO
かぐや姫の物語
オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ
『湖畔の2年間(Two Years At Sea)』は、恵比寿映像祭の上映プログラムの一本。展示にも参加していたベン・リヴァースによる映像叙事詩。恵比寿で二回上映され、二回とも観に行った。貴重なフィルム上映でもあった。今年も二回観た『Playback』の三宅唱監督も観に来ていてゴキゲンだった(ように見えた)。更に、今年の爆音映画祭でも上映され(こちらはデジタル上映)、そちらにも足を運び、海外amazonからDVDを購入し・・・とにかく、はまりまくった1本。
『横道世之介』は、ここ数年何本も映画化されている吉田修一原作もの。とはいえ、それらの群からは見事に逸れ、小説と映画という異なる表現が素敵なめぐり逢い。ラストで流れるアジカンの、イントロ聞こえるドラムの音は、ノスタルジック前のめり。ヒット作に恵まれぬ(特に映画で)高良健吾(すごく好きな俳優だ)に、このうえない代表作が生まれた幸福。『蛇とピアス』の二人が全く頭によぎらない・・・という傑作の証明。記憶は哀ではない。記憶は愛である。(盗作)
『アントニオ・カルロス・ジョビン』は、有楽町で二回観た。ブルーレイも買・・・うつもり。今年は日常(特に仕事)で心身疲れる日々だったゆえ、映画はあくまで「気分転換」「享楽」をモットーに接した一年。左脳停止、右脳開放、身も心も委ねてしまえ。そんな私のお誂え向き。ボサノバの心地好さ、語らず醸し続ける絵巻。
『ザ・マスター』は公開初日に観たものの、終始圧巻で圧倒しきり。何が何だかわからぬままに見終えて茫然自失にさようなら。晩秋、悲願のフィルム上映で再会したマスターピース。つかめないことの正しさが確信できれば、もう何度でも酔う覚悟。
『Oh Boy』は、来年シアターイメージフォーラムで『コーヒーをめぐる冒険』として劇場公開される。とってもファニーで豊かにタイニー、だけど最後はファンキー・シリアス。スイーツ大好きな僕だけど、コーヒーは苦味全開銘柄限定。そんな僕の極上一杯。
『風立ちぬ』は、というか宮﨑駿の映画は、人生のランドマーク的存在。実は、初めて映画というものに圧倒された体験は、地元の市民会館大ホールで観た『風の谷のナウシカ』だったと記憶する。それからもずっと傍にあったけど、大学入学、就職、再就職という人生の節目に決まって公開されてきた宮﨑駿の映画はもはや、やっぱり重大事件。そして、今の仕事に就いて十年目、第二のスタート的な今年に公開された『風立ちぬ』、そして引退宣言。ただの偶然を必然として語りたくなるほどの存在って時点で既に、染みつくというより棲み着いているんだね。
『風立ちぬ』で始まった今年の夏休みは、ジョン・ダグラス&ロバート・クレーマーの『マイルストーンズ』で終わりを告げた。冥界へ「来て」と呟こうとした可憐な祈りが「生きて」に変わって始まった夏。命の誕生に立ち会うラストで手を振った夏。
『エリ』は、ラテンビート映画祭で観たメキシコ映画。監督のアマ・エスカランテは、(本作のプロデューサーにも名を連ねる)カルロス・レイガダスの作品への参加経験もあり、作風も明らかに「傘下」にありながら、単なる賛歌に堕すこともなく、頼もしすぎる師弟関係の垣間見にホクホクゾクゾク。(来年はなんとレイガダス作品初の劇場公開が!ユーロスペースで『闇の後の光』が公開されるみたい。全作品に日本語字幕あることだし[オムニバスで参加した映画もラテンビートで上映されたし]、併せて回顧上映も期待したい。全て再見したい!)
『トム・アット・ザ・ファーム』は、堅実なワクワクやドキドキが多勢を占めた今年の東京国際映画祭にあって、その他の作品全部を足しても叶わぬ華麗なる戦慄。実は、満を持したまま未だ観ぬ『わたしはロランス』。グザヴィエ・ドランのフィルモで唯一のミッシング・ピースとなった同作は、2014ベスト当確一番乗りなことだろう。真にローカルなものこそが、正にユニバーサルだという事実。それをセクシャリティにおいて挑む新たな地平には、きっと豊饒な大地が待ってるはずだ。
『北(ノルテ)―歴史の終わり』は、超長尺作品ばかりな故に映画祭での上映すらままならぬラヴ・ディアス最新作。彼の作品群では短めな250分。休憩なしでの上映だったので、『旅芸人の記録』や『花を摘む少女と虫を殺す少女』の休憩なし上映を上回る自己新記録。という記念も込みではあるけれど、TIFFでの評判が思ったより芳しくない印象ながら(カルロス・レイガダス特集の時にも同様のムードを感じたな)、個人的には未刺激心酔ポイントを連打され続けた4時間超。ラブ・ラヴ・ディアス。
『42 世界を変えた男』は、もしかしたら映画祭疲れに絶好恰好の慰労剤だったからかもしれぬが、それでもここまで厳かで穏やかなブライアン・ヘルゲランドの正攻法には、約束された魅了が確かにあった。黒と白の架け橋が、赤ではなく青であった美しさ。まだまだ青い僕には眩く輝くシルヴァー・ライニング。
『ILO ILO』をフィルメックスで観る直前、同作の監督であるアンソニー・チェンの会見に参加したのだけれど、すぐ目の前でユーモアを交えつつも理路整然と語る好青年な姿は、昨今の日本映画(とりわけインディペンデント)に感じる閉鎖性や閉塞感とは実に対照的で、プロデュースやアピールという外向きな力が見事に前向きで、それでいてどれだけ外を向いても空洞化しない堅牢無比な内面がそこはかとなく滲みもしてる。そんな自信と他信に裏打ちされた慈愛の語りには、衒いからは断じて生まれ得ぬ溌剌とした機微が氾濫してた。
『かぐや姫の物語』の終盤、かぐや姫が月に還ってゆく場面。場内に、女の子の泣き声が響きわたった。声の感じからは小学校低学年くらいだろうか。その哀咽に、悲しみが正しく愛おしさの裏返しであるという事実を改めて知らしめられた大人たち。そんな大人たちに降り積もっていた緊迫や退屈や冗長や興奮は、すべてがやさしさに包まれて、エンドロールが終わるまで、空気すべてが微動だにせず。「映画を観る」とは、どういうことか。とりわけ、自分にとって。そんな問いかけがいつしか常駐テーマとなった今年の後半。おまけに、和の芸術表現にみるみる惹きつけられていった私的文化潮流も今年の大きな変化。そんな私にとって、僥倖が凝縮したかのような邂逅の体験。すべての一瞬が千載一遇であり、すべての一瞬は一期一会。
『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を、クライスマス・イヴの昼下がり、絶妙な寂れ具合の吉祥寺バウスシアターで観た。シアター1の大きなスクリーンとスカスカな客席、今や昔ながら的存在感となった非常口誘導灯。すべてが愛しき今此処感。身を委ねられるものならば、心は当然持ってかれ・・・。目と耳がひたすら吸い寄せられてたゆたい続け、己のオールを掴む気はない。全権委譲の至上の幸福、至福時間はエンドレス。ヴァンパイアにとって人間の一生が一瞬であるように、私にとっての本作は、瞬き忘れた瞬きのとき。
昨年までは区分だとか順位とかを決めてたし、自分以外を意識した「配慮」的な思考も絡んでたように思う年間ベスト。今年は、区分や順位をやめたこともあり、より自由に選出できた気も。(勢い余って本数もちょっと無視したり・・・10本のつもりで10数本になっちゃいました。)そもそも、こうして「発表」とかした瞬間は、他人の眼にさらされるし他人の眼が何か言ってくれたりもするけれど、結局何年も経って振り返ってくれるのは自分だけだろうし(笑)、だったらそんな未来の自分にとって価値ある「ベスト」こそがまさにベストなんではないかな、と。2013年の自分が何を想って生きてたか。そんなことを垣間見せてくれる並びにしようかと。
上記の14本にしぼるまえ、書き出した映画は他に12本。
拡大系では、『クラウド・アトラス』(2回観に行っちゃいました)と『ゼロ・グラビティ』(初日に2回観に行っちゃいましたし、その3日後にも観に行っちゃいましたし、もう1回くらい観に行っちゃいそうです)。
中規模・ミニシアター系では、『汚れなき祈り』、『偽りなき者』、『君と歩く世界』、『コン・ティキ』。どれも観賞直後の感触は確実に年間ベスト級。2013年の自分にとってのスペシャリティがもしかしたら些か不足してたのかもな。
イメージフォーラム・フェスティバルで観たジョナス・メカスの『ウォールデン』、『リヴァイアサン』も是非入れたかったのだけど、何となくはみ出てしまったという無念。
個人的には小粒揃いながらも着実に幸福続きだった東京国際映画祭観賞作品では、コンペで観た『エンプティ・アワーズ』がしみじみと忘れがたき一本に。
東京フィルメックスのコンペでは『ハーモニー・レッスン』に心酔し(後半は個人的に大失速)、『鉄くず拾いの物語』でダニス・タノヴィッチの飽くなき探究心と屈強チャレンジングにただただ感服。
アンスティチュ・フランセ東京で観たアラン・レネの新作『あなたはまだ何も見ていない』が誘う魅惑ラビリンスには、何度となく迷い込みたい気分。豪華キャストにだまされて、勢いで公開決まったりしないかな・・・(岩波ホールでもいいからさ)
今年はブログに全然記事化してなかったこともあるし、備忘録的にももっとしっかり回顧しておきたいところなんだけど、長くなりすぎたので、ここらでグッバイ2013。来年早々気が向いたらプレイバック2013、かも。来年は、気軽に頻繁更新目指します・・・たぶん。正直、今年はブログにしてもツイッターにしても、付き合い方というか向き合い方というか、混迷に混迷って感じで「遠ざかる」ことで暫時解決貪ってた気がします。何事も自分なりのスタイルを見つけたり確立したりするのって難しいものですね。2014年は則天去私のオラシオン。よいお年をお迎え下さい。
昨年までは洋邦分けたり、劇場公開作と映画祭上映作品を分けたりし、それぞれでランキングつくったりしてたけど、とりあえず今年は全部まとめて「ベスト」を選出。ただ、劇場で初めて観た新作(一般公開が初めてという作品は対象)から。ちなみに、今年の劇場観賞本数は300本強。1日1本弱ってことなんだけど、感慨的には「そんなに観てたっけ?」って印象なので、そこそこ「我ながら適正」の付き合い方ができ始めたのかな、と楽観視。
以下、今年観たマイベストな映画たち。(観賞順)
湖畔の2年間
横道世之介
アントニオ・カルロス・ジョビン
ザ・マスター
Oh Boy
風立ちぬ
マイルストーンズ
エリ
トム・アット・ザ・ファーム
北(ノルテ)―歴史の終わり
42 世界を変えた男
ILO ILO
かぐや姫の物語
オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ
『湖畔の2年間(Two Years At Sea)』は、恵比寿映像祭の上映プログラムの一本。展示にも参加していたベン・リヴァースによる映像叙事詩。恵比寿で二回上映され、二回とも観に行った。貴重なフィルム上映でもあった。今年も二回観た『Playback』の三宅唱監督も観に来ていてゴキゲンだった(ように見えた)。更に、今年の爆音映画祭でも上映され(こちらはデジタル上映)、そちらにも足を運び、海外amazonからDVDを購入し・・・とにかく、はまりまくった1本。
『横道世之介』は、ここ数年何本も映画化されている吉田修一原作もの。とはいえ、それらの群からは見事に逸れ、小説と映画という異なる表現が素敵なめぐり逢い。ラストで流れるアジカンの、イントロ聞こえるドラムの音は、ノスタルジック前のめり。ヒット作に恵まれぬ(特に映画で)高良健吾(すごく好きな俳優だ)に、このうえない代表作が生まれた幸福。『蛇とピアス』の二人が全く頭によぎらない・・・という傑作の証明。記憶は哀ではない。記憶は愛である。(盗作)
『アントニオ・カルロス・ジョビン』は、有楽町で二回観た。ブルーレイも買・・・うつもり。今年は日常(特に仕事)で心身疲れる日々だったゆえ、映画はあくまで「気分転換」「享楽」をモットーに接した一年。左脳停止、右脳開放、身も心も委ねてしまえ。そんな私のお誂え向き。ボサノバの心地好さ、語らず醸し続ける絵巻。
『ザ・マスター』は公開初日に観たものの、終始圧巻で圧倒しきり。何が何だかわからぬままに見終えて茫然自失にさようなら。晩秋、悲願のフィルム上映で再会したマスターピース。つかめないことの正しさが確信できれば、もう何度でも酔う覚悟。
『Oh Boy』は、来年シアターイメージフォーラムで『コーヒーをめぐる冒険』として劇場公開される。とってもファニーで豊かにタイニー、だけど最後はファンキー・シリアス。スイーツ大好きな僕だけど、コーヒーは苦味全開銘柄限定。そんな僕の極上一杯。
『風立ちぬ』は、というか宮﨑駿の映画は、人生のランドマーク的存在。実は、初めて映画というものに圧倒された体験は、地元の市民会館大ホールで観た『風の谷のナウシカ』だったと記憶する。それからもずっと傍にあったけど、大学入学、就職、再就職という人生の節目に決まって公開されてきた宮﨑駿の映画はもはや、やっぱり重大事件。そして、今の仕事に就いて十年目、第二のスタート的な今年に公開された『風立ちぬ』、そして引退宣言。ただの偶然を必然として語りたくなるほどの存在って時点で既に、染みつくというより棲み着いているんだね。
『風立ちぬ』で始まった今年の夏休みは、ジョン・ダグラス&ロバート・クレーマーの『マイルストーンズ』で終わりを告げた。冥界へ「来て」と呟こうとした可憐な祈りが「生きて」に変わって始まった夏。命の誕生に立ち会うラストで手を振った夏。
『エリ』は、ラテンビート映画祭で観たメキシコ映画。監督のアマ・エスカランテは、(本作のプロデューサーにも名を連ねる)カルロス・レイガダスの作品への参加経験もあり、作風も明らかに「傘下」にありながら、単なる賛歌に堕すこともなく、頼もしすぎる師弟関係の垣間見にホクホクゾクゾク。(来年はなんとレイガダス作品初の劇場公開が!ユーロスペースで『闇の後の光』が公開されるみたい。全作品に日本語字幕あることだし[オムニバスで参加した映画もラテンビートで上映されたし]、併せて回顧上映も期待したい。全て再見したい!)
『トム・アット・ザ・ファーム』は、堅実なワクワクやドキドキが多勢を占めた今年の東京国際映画祭にあって、その他の作品全部を足しても叶わぬ華麗なる戦慄。実は、満を持したまま未だ観ぬ『わたしはロランス』。グザヴィエ・ドランのフィルモで唯一のミッシング・ピースとなった同作は、2014ベスト当確一番乗りなことだろう。真にローカルなものこそが、正にユニバーサルだという事実。それをセクシャリティにおいて挑む新たな地平には、きっと豊饒な大地が待ってるはずだ。
『北(ノルテ)―歴史の終わり』は、超長尺作品ばかりな故に映画祭での上映すらままならぬラヴ・ディアス最新作。彼の作品群では短めな250分。休憩なしでの上映だったので、『旅芸人の記録』や『花を摘む少女と虫を殺す少女』の休憩なし上映を上回る自己新記録。という記念も込みではあるけれど、TIFFでの評判が思ったより芳しくない印象ながら(カルロス・レイガダス特集の時にも同様のムードを感じたな)、個人的には未刺激心酔ポイントを連打され続けた4時間超。ラブ・ラヴ・ディアス。
『42 世界を変えた男』は、もしかしたら映画祭疲れに絶好恰好の慰労剤だったからかもしれぬが、それでもここまで厳かで穏やかなブライアン・ヘルゲランドの正攻法には、約束された魅了が確かにあった。黒と白の架け橋が、赤ではなく青であった美しさ。まだまだ青い僕には眩く輝くシルヴァー・ライニング。
『ILO ILO』をフィルメックスで観る直前、同作の監督であるアンソニー・チェンの会見に参加したのだけれど、すぐ目の前でユーモアを交えつつも理路整然と語る好青年な姿は、昨今の日本映画(とりわけインディペンデント)に感じる閉鎖性や閉塞感とは実に対照的で、プロデュースやアピールという外向きな力が見事に前向きで、それでいてどれだけ外を向いても空洞化しない堅牢無比な内面がそこはかとなく滲みもしてる。そんな自信と他信に裏打ちされた慈愛の語りには、衒いからは断じて生まれ得ぬ溌剌とした機微が氾濫してた。
『かぐや姫の物語』の終盤、かぐや姫が月に還ってゆく場面。場内に、女の子の泣き声が響きわたった。声の感じからは小学校低学年くらいだろうか。その哀咽に、悲しみが正しく愛おしさの裏返しであるという事実を改めて知らしめられた大人たち。そんな大人たちに降り積もっていた緊迫や退屈や冗長や興奮は、すべてがやさしさに包まれて、エンドロールが終わるまで、空気すべてが微動だにせず。「映画を観る」とは、どういうことか。とりわけ、自分にとって。そんな問いかけがいつしか常駐テーマとなった今年の後半。おまけに、和の芸術表現にみるみる惹きつけられていった私的文化潮流も今年の大きな変化。そんな私にとって、僥倖が凝縮したかのような邂逅の体験。すべての一瞬が千載一遇であり、すべての一瞬は一期一会。
『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』を、クライスマス・イヴの昼下がり、絶妙な寂れ具合の吉祥寺バウスシアターで観た。シアター1の大きなスクリーンとスカスカな客席、今や昔ながら的存在感となった非常口誘導灯。すべてが愛しき今此処感。身を委ねられるものならば、心は当然持ってかれ・・・。目と耳がひたすら吸い寄せられてたゆたい続け、己のオールを掴む気はない。全権委譲の至上の幸福、至福時間はエンドレス。ヴァンパイアにとって人間の一生が一瞬であるように、私にとっての本作は、瞬き忘れた瞬きのとき。
昨年までは区分だとか順位とかを決めてたし、自分以外を意識した「配慮」的な思考も絡んでたように思う年間ベスト。今年は、区分や順位をやめたこともあり、より自由に選出できた気も。(勢い余って本数もちょっと無視したり・・・10本のつもりで10数本になっちゃいました。)そもそも、こうして「発表」とかした瞬間は、他人の眼にさらされるし他人の眼が何か言ってくれたりもするけれど、結局何年も経って振り返ってくれるのは自分だけだろうし(笑)、だったらそんな未来の自分にとって価値ある「ベスト」こそがまさにベストなんではないかな、と。2013年の自分が何を想って生きてたか。そんなことを垣間見せてくれる並びにしようかと。
上記の14本にしぼるまえ、書き出した映画は他に12本。
拡大系では、『クラウド・アトラス』(2回観に行っちゃいました)と『ゼロ・グラビティ』(初日に2回観に行っちゃいましたし、その3日後にも観に行っちゃいましたし、もう1回くらい観に行っちゃいそうです)。
中規模・ミニシアター系では、『汚れなき祈り』、『偽りなき者』、『君と歩く世界』、『コン・ティキ』。どれも観賞直後の感触は確実に年間ベスト級。2013年の自分にとってのスペシャリティがもしかしたら些か不足してたのかもな。
イメージフォーラム・フェスティバルで観たジョナス・メカスの『ウォールデン』、『リヴァイアサン』も是非入れたかったのだけど、何となくはみ出てしまったという無念。
個人的には小粒揃いながらも着実に幸福続きだった東京国際映画祭観賞作品では、コンペで観た『エンプティ・アワーズ』がしみじみと忘れがたき一本に。
東京フィルメックスのコンペでは『ハーモニー・レッスン』に心酔し(後半は個人的に大失速)、『鉄くず拾いの物語』でダニス・タノヴィッチの飽くなき探究心と屈強チャレンジングにただただ感服。
アンスティチュ・フランセ東京で観たアラン・レネの新作『あなたはまだ何も見ていない』が誘う魅惑ラビリンスには、何度となく迷い込みたい気分。豪華キャストにだまされて、勢いで公開決まったりしないかな・・・(岩波ホールでもいいからさ)
今年はブログに全然記事化してなかったこともあるし、備忘録的にももっとしっかり回顧しておきたいところなんだけど、長くなりすぎたので、ここらでグッバイ2013。来年早々気が向いたらプレイバック2013、かも。来年は、気軽に頻繁更新目指します・・・たぶん。正直、今年はブログにしてもツイッターにしても、付き合い方というか向き合い方というか、混迷に混迷って感じで「遠ざかる」ことで暫時解決貪ってた気がします。何事も自分なりのスタイルを見つけたり確立したりするのって難しいものですね。2014年は則天去私のオラシオン。よいお年をお迎え下さい。
2013年11月24日日曜日
スウェーデン映画祭2013の注目作
洋画の興行不振と軌を同じくして(?)、映画祭の濫立に拍車がかかる近年。映画祭の季節は取捨選択と自問自答、そんな往復反復常住坐臥の嬉し恥ずかし悲しき性よ。
今年の11月から12月にかけての数週間は重なりすぎて「犠牲」とかの概念すら吹き飛ぶ感じ。ここまで来るとカラダもココロも一つでありがとう!などと天に感謝を始めてしまいそう(ただの「つよがり」とも呼ぶ)。
そんな中、今年から始まる(で合ってる?)スウェーデン映画祭。「トーキョーノーザンライツフェスティバル」からのスピンオフ(?)みたいだし、別に優先順位あげとかなくても好いかな、などとラインナップを気負いなく覗いてみると・・・
救済は忘れた頃にやってくる。劇場観賞を個人的に願って止まなかった『セッベ』が上映されるではないですか!!! ブログを始め、初めて劇場未公開作について記事を書いてみたのが、その『セッベ』。もう二年半以上まえのこと。この記事がそうなんだけど、物語全篇を追いながら書いているので、観賞予定の方は(もし読んで頂ける場合は)「途中まで」を参考にして頂ければと思います。
閲覧回数など僅少だし、検索して辿り着かれる方など極めて稀だったけど、ノーザンライツに勝手にラブコールしてみたりした甲斐がありました。(全然、無関係です、実際は。)
しかも、3回の上映のうち、2回には監督の舞台挨拶まである(追記:中止になったとのこと。残念・・・)というではないですか!必見!
監督のババク・ナジャフィは、『セッベ』の後に、ヨエル・キナマン主演で『イージー・マネー』の続編を撮っていたりするんだけど、そちらは未見なので、一作目と併せてWOWOWあたりで放映してくれないだろか。『イージー・マネー』一作目はダニエル・エスピノーサ(『デンジャラス・ラン』)が監督を務め、ザック・エフロン主演でのハリウッド・リメイクも決まったらしいし。(もしかしたら、ノーザンライツでの上映があったりする!?)
ついでに、ノーザンライツでの上映希望を勝手につぶやいとくと、個人的に大好きで大注目なヨアキム・トリアーとか紹介してください!今年9月に原宿VACANTで開催されてたイベント「ノルウェージャン・アウトレット」内で「Oslo, 31. august」の日本初上映があったと思うから(行けなかったけど・・・)、日本語字幕もあることだろうし、彼の処女作「Reprise」も絶対紹介しておいて損はない(というか、イベントにも後々箔が付くはず!)。と、今頃、しかもこんな片隅の片隅でつぶやいても意味ないけどね。最近はジャンルものやクラシックなんかも充実させてて興味深いイベントながら、作家性やや強めな新進気鋭監督作なんかの枠も設けて欲しいというのが個人的最重要望。
とりあえずスウェーデン映画祭2013は『セッベ』を上映してくれるとわかった日から、「通う」ことを心に誓ったことだし、なるべく観られるだけ観たいと思う。というわけで、今年もポーランド映画祭とは一切無縁で終わりそう。(だって、中国インディペンデント映画祭2013は絶対に見のがせないからね。本当に大充実な上に映画祭の神髄が宿ってる屈指の映画イベントだと思ってます。前回の感想などはこちら。)
今年の11月から12月にかけての数週間は重なりすぎて「犠牲」とかの概念すら吹き飛ぶ感じ。ここまで来るとカラダもココロも一つでありがとう!などと天に感謝を始めてしまいそう(ただの「つよがり」とも呼ぶ)。
そんな中、今年から始まる(で合ってる?)スウェーデン映画祭。「トーキョーノーザンライツフェスティバル」からのスピンオフ(?)みたいだし、別に優先順位あげとかなくても好いかな、などとラインナップを気負いなく覗いてみると・・・
救済は忘れた頃にやってくる。劇場観賞を個人的に願って止まなかった『セッベ』が上映されるではないですか!!! ブログを始め、初めて劇場未公開作について記事を書いてみたのが、その『セッベ』。もう二年半以上まえのこと。この記事がそうなんだけど、物語全篇を追いながら書いているので、観賞予定の方は(もし読んで頂ける場合は)「途中まで」を参考にして頂ければと思います。
閲覧回数など僅少だし、検索して辿り着かれる方など極めて稀だったけど、ノーザンライツに勝手にラブコールしてみたりした甲斐がありました。(全然、無関係です、実際は。)
しかも、3回の上映のうち、
監督のババク・ナジャフィは、『セッベ』の後に、ヨエル・キナマン主演で『イージー・マネー』の続編を撮っていたりするんだけど、そちらは未見なので、一作目と併せてWOWOWあたりで放映してくれないだろか。『イージー・マネー』一作目はダニエル・エスピノーサ(『デンジャラス・ラン』)が監督を務め、ザック・エフロン主演でのハリウッド・リメイクも決まったらしいし。(もしかしたら、ノーザンライツでの上映があったりする!?)
ついでに、ノーザンライツでの上映希望を勝手につぶやいとくと、個人的に大好きで大注目なヨアキム・トリアーとか紹介してください!今年9月に原宿VACANTで開催されてたイベント「ノルウェージャン・アウトレット」内で「Oslo, 31. august」の日本初上映があったと思うから(行けなかったけど・・・)、日本語字幕もあることだろうし、彼の処女作「Reprise」も絶対紹介しておいて損はない(というか、イベントにも後々箔が付くはず!)。と、今頃、しかもこんな片隅の片隅でつぶやいても意味ないけどね。最近はジャンルものやクラシックなんかも充実させてて興味深いイベントながら、作家性やや強めな新進気鋭監督作なんかの枠も設けて欲しいというのが個人的最重要望。
とりあえずスウェーデン映画祭2013は『セッベ』を上映してくれるとわかった日から、「通う」ことを心に誓ったことだし、なるべく観られるだけ観たいと思う。というわけで、今年もポーランド映画祭とは一切無縁で終わりそう。(だって、中国インディペンデント映画祭2013は絶対に見のがせないからね。本当に大充実な上に映画祭の神髄が宿ってる屈指の映画イベントだと思ってます。前回の感想などはこちら。)
2013年11月18日月曜日
スリー・モンキーズ(21日深夜放映)
先月の東京国際映画祭ではレハ・エルデム2本立という物好きコースに酩酊な夜を味わった映画ファンも少なくなかったことだろう。各国の映画祭で地道に長らく注目を集め続けるトルコ映画。ここ日本の映画祭においても地味ながら根強いファンを獲得して来ている気がする。東京国際映画祭でもSkipシティDシネマ映画祭でも新しいトルコ映画を見せてもらえるし。ただ、一般公開となるとやはりハードルは高く、一昨年のセミフ・カプランオール「ユスフ三部作」(2011年のマイ・ベスト)以来、劇場公開の念願成就はなかなか叶えられることがない。
現代トルコ映画において世界的評価を牽引してきたヌリ・ビルゲ・ジェイラン。カンヌ常連の彼(グランプリ2回、監督賞1回という高実績)は、東京国際映画祭やSkipシティDシネマ映画祭のコンペにも参加(及び受賞)経験があり、日本でも映画祭での作品上映は(コンペ以外でも)そこそこ恵まれてはいるものの、劇場公開作が一本もないのは残念でならない。確かに、作風としては劇場公開には圧倒的に不向きかもしれないが、明らかに「ならでは」の魅力をもつ彼の作品は、「出会う機会を与えてみて、まずはそれから」的アプローチも必要。革新や確信からはやや遠ざかり、核心も曖昧だったりする微かなドラマとドラマチック過ぎる冗長画力は、セミフ・カプランオールがユスフ三部作で見せた深遠なる自然の囁きとは一味も二味も違う、伝統と近代化における内部分裂的デカダンス。デジタル撮影という新たなパレットにより、ヌリ・ビルゲ・ジェイランは自らの世界を一刷毛にまで投影してる。
『昔々、アナトリアで』が一昨年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭オープニング作品として一回限り上映されたものの、その後は彼の作品を(劇場で)観る機会には恵まれなかったが、今夏にアンスティチュ・フランセ東京で開催された地中海映画祭2013で『五月の雲』を観られた喜びも束の間(?)、思いがけず今度はBSスカパー!で『スリー・モンキーズ』が放映されるという奇跡的幸福。しかも、ちゃんとHD画質。デジタル撮影ということもあってか、デジタル放送とも相性の好い「画」な気がしたり。シネスコなので、画面右上に表示される「見事な存在感」のロゴもうまく隠せば(といっても布とか掛けてという意味です)画を邪魔しない。DVDは持っていたけれど、こんな高画質で見せてもらえるとは今年のマイベスト放映かも。
当ブログでも何度か紹介してきた「スカパー!シネマアワー THE PRIZE」は本当に侮れない(どころか注目の)ラインナップで、そのくせボーッとしてるとついつい見逃してしまうという要注意枠。確か先日も(といっても何ヶ月も前だけど)エリア・スレイマンの『D.I.』とか放映してたりしたし。ただ、何故かこの枠は「オリジナル・タイトル」をつける癖(?)があり、『D.I.』も別のタイトルだった気が。おまけに、監督の表記とかもオリジナルだから、気づきにくかったりヒットしなかったりな事例も多数。DVDスルーの作品から放映されることもあれば、映画祭上映作品からの流用的ラインナップもあったり、いずれにしても自力ではHD画質で観られないものがHD画質で観られたりすることも結構あって(SD画質のこともあるけれど)、実に貴重な枠なのです。あのロゴさえなければもっと素敵なんだけど・・・。
『スリー・モンキーズ』(東京国際映画祭では上映されたんだよね、観てないけど・・・)の放映は、あと一回。21日木曜深夜。トルコ映画ファン、必見。
ちなみに、アンスティチュでの『五月の雲』上映は35mmだったんだけど、2000年の地中海映画祭(国際交流基金フォーラムで開かれてて、私もほんの数本だけど観に行った記憶が)で上映されたフィルムで上映されていた。そして、2000年以来上映される機会がほとんどなかったのだろうか、見事に鮮やかなプリントだった。ああいうフィルムを活かせる(そして、出会える)「場」がもっとあれば好いのになぁ、などと切に思ったりもした。
現代トルコ映画において世界的評価を牽引してきたヌリ・ビルゲ・ジェイラン。カンヌ常連の彼(グランプリ2回、監督賞1回という高実績)は、東京国際映画祭やSkipシティDシネマ映画祭のコンペにも参加(及び受賞)経験があり、日本でも映画祭での作品上映は(コンペ以外でも)そこそこ恵まれてはいるものの、劇場公開作が一本もないのは残念でならない。確かに、作風としては劇場公開には圧倒的に不向きかもしれないが、明らかに「ならでは」の魅力をもつ彼の作品は、「出会う機会を与えてみて、まずはそれから」的アプローチも必要。革新や確信からはやや遠ざかり、核心も曖昧だったりする微かなドラマとドラマチック過ぎる冗長画力は、セミフ・カプランオールがユスフ三部作で見せた深遠なる自然の囁きとは一味も二味も違う、伝統と近代化における内部分裂的デカダンス。デジタル撮影という新たなパレットにより、ヌリ・ビルゲ・ジェイランは自らの世界を一刷毛にまで投影してる。
『昔々、アナトリアで』が一昨年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭オープニング作品として一回限り上映されたものの、その後は彼の作品を(劇場で)観る機会には恵まれなかったが、今夏にアンスティチュ・フランセ東京で開催された地中海映画祭2013で『五月の雲』を観られた喜びも束の間(?)、思いがけず今度はBSスカパー!で『スリー・モンキーズ』が放映されるという奇跡的幸福。しかも、ちゃんとHD画質。デジタル撮影ということもあってか、デジタル放送とも相性の好い「画」な気がしたり。シネスコなので、画面右上に表示される「見事な存在感」のロゴもうまく隠せば(といっても布とか掛けてという意味です)画を邪魔しない。DVDは持っていたけれど、こんな高画質で見せてもらえるとは今年のマイベスト放映かも。
当ブログでも何度か紹介してきた「スカパー!シネマアワー THE PRIZE」は本当に侮れない(どころか注目の)ラインナップで、そのくせボーッとしてるとついつい見逃してしまうという要注意枠。確か先日も(といっても何ヶ月も前だけど)エリア・スレイマンの『D.I.』とか放映してたりしたし。ただ、何故かこの枠は「オリジナル・タイトル」をつける癖(?)があり、『D.I.』も別のタイトルだった気が。おまけに、監督の表記とかもオリジナルだから、気づきにくかったりヒットしなかったりな事例も多数。DVDスルーの作品から放映されることもあれば、映画祭上映作品からの流用的ラインナップもあったり、いずれにしても自力ではHD画質で観られないものがHD画質で観られたりすることも結構あって(SD画質のこともあるけれど)、実に貴重な枠なのです。あのロゴさえなければもっと素敵なんだけど・・・。
『スリー・モンキーズ』(東京国際映画祭では上映されたんだよね、観てないけど・・・)の放映は、あと一回。21日木曜深夜。トルコ映画ファン、必見。
ちなみに、アンスティチュでの『五月の雲』上映は35mmだったんだけど、2000年の地中海映画祭(国際交流基金フォーラムで開かれてて、私もほんの数本だけど観に行った記憶が)で上映されたフィルムで上映されていた。そして、2000年以来上映される機会がほとんどなかったのだろうか、見事に鮮やかなプリントだった。ああいうフィルムを活かせる(そして、出会える)「場」がもっとあれば好いのになぁ、などと切に思ったりもした。
2013年10月8日火曜日
アンドレス・バイス
明日から始まるラテンビート映画祭は例年より遅めの開催で、例年より早め(?)開催の東京国際映画祭とのインターバル一週間強。後者は木曜始まりの金曜終わりだし、一般的な休日にあたるたったの二日間(土日)の上映スケジュール見ても微妙だし、もう「一般の映画好き」とか門前払いオーラを放ちまくってて・・・それに比べれば平日夜と三連休をうまい具合にスケジューリング、但し、フライングなゲスト情報で釣っては恒例のキャンセル告知というピンポンダッシュ作戦(?)は相変わらず(ここまで常套だともはや微笑ましい?)なラテンビート映画祭。
いろいろな注目作はあるものの、俄然目下最注目株急浮上なのがアンドレス・バイス監督作。先日WOWOWで初めて観た『ヒドゥン・フェイス』に今更興奮したのが全ての始まり。一年前にシアターN渋谷で劇場公開されたらしいも、迂闊ながらノーチェック。というわけで、事前情報なしで不意に見始めたのも奏功してか、無性に楽しかった90分。AクラスなB級といった如才なさで駆け抜け切るかと思いきや、終盤のある場面ではアントニオ・ロペスの有名な大作『バリェーカスの消防署の塔から見たマドリード』と驚くほどそっくりな「画」が突如現れるという素敵な仕掛け。あれ、同じ場所じゃないよね・・・。でも、「赤い手すり」にしても、その向こうに見える光景にしても、本当そっくり。
そのアンドレス・バイス監督作が何と2作も観られる第10回ラテンビート映画祭。
『ヒドゥン・フェイス』の前に撮った長編一作目『ある殺人者の記録(Satanás)』。
最新作となる『暗殺者と呼ばれた男(Roa)』。
昨年劇場公開された監督二作目の『ヒドゥン・フェイス』に続き、ラテンビート映画祭で一作目と三作目が上映されるアンドレス・バイス監督。奇しくも早くもフィルモ制覇の御膳立て。ちょっと好い機会。彼の監督作は三本とも90分台。それも、好い。
いろいろな注目作はあるものの、俄然目下最注目株急浮上なのがアンドレス・バイス監督作。先日WOWOWで初めて観た『ヒドゥン・フェイス』に今更興奮したのが全ての始まり。一年前にシアターN渋谷で劇場公開されたらしいも、迂闊ながらノーチェック。というわけで、事前情報なしで不意に見始めたのも奏功してか、無性に楽しかった90分。AクラスなB級といった如才なさで駆け抜け切るかと思いきや、終盤のある場面ではアントニオ・ロペスの有名な大作『バリェーカスの消防署の塔から見たマドリード』と驚くほどそっくりな「画」が突如現れるという素敵な仕掛け。あれ、同じ場所じゃないよね・・・。でも、「赤い手すり」にしても、その向こうに見える光景にしても、本当そっくり。
そのアンドレス・バイス監督作が何と2作も観られる第10回ラテンビート映画祭。
『ヒドゥン・フェイス』の前に撮った長編一作目『ある殺人者の記録(Satanás)』。
最新作となる『暗殺者と呼ばれた男(Roa)』。
昨年劇場公開された監督二作目の『ヒドゥン・フェイス』に続き、ラテンビート映画祭で一作目と三作目が上映されるアンドレス・バイス監督。奇しくも早くもフィルモ制覇の御膳立て。ちょっと好い機会。彼の監督作は三本とも90分台。それも、好い。
2013年8月30日金曜日
マン・オブ・スティール
前半のノーラン・コントロールにおける「ザックのこだわりグッとこらえて物語る」チェック&バランス的緊張感はなかなか好ましく、プロデューサーとしてのクリストファー・ノーラン及び監督としてのザック・スナイダーの新境地に邂逅できた幸せいっぱいで帰路に就くのだとばっかり思ってた。しかし、どうやら前半の真っ当さは後半でやりたい放題させてもらうための「取引」によるものだったのか!?
前半にはノーランらしい哲学的・倫理的・社会的テーマが(ややあからさまに)埋め込まれており、この手の作品のそうした「おしつけがましさ」は嫌いでない自分にとって、それらの要素がどのように回収され結実してゆくのかを楽しみに見守っていたのだが、後半(特に終盤)はただひたすらバトルを見せたい(撮りたい)だけの欲求が暴発炸裂状態で、「見方を変えねば・・・」と思っているうちに気持ちの整理はつかぬまま(=アニメ的CG擬似実写アクションを適正に享受することもできずに)、今夏二度目の(まさかの)マイケル・ベイ待望メンタリティに陥るという悲劇。でも、最後の最後ではちゃんと「現実」に戻ってきてくれて、クラーク(ヘンリー・カヴィル)の眼鏡とロイス(エイミー・アダムス)のベタ台詞は、ビギンズのエンディングを適正補正。まぁ、それもこれも厳かさと躍動をたっぷり吸い込んだハンス・ジマーのスコアあっての出来事ではありますが。
ノーランお得意の「人間(社会)を試す」ようなアプローチが序盤に用意されていて、例えば「人間は支配できないものを恐れる」といったクラークの(人間の方の)父(ケヴィン・コスナー)の言葉などを聞けばつい「スーパーマン=原子力」なんて思ったり。そして、それに人間は一体どう対峙するのか(すべきなのか)を物語を通して問いかけるつもりなのかな、とか。カルの(クリプトンの方の)父(ラッセル・クロウ)は、「(操作によって予め新生児の役割が限定されるクリプトンの実態に異を唱え)新しく生まれてくる命には選択(choice)と可能性(chance)が与えられて然るべきだ」と主張。これも、人間による近代文明(秩序・管理・統制を求める社会)に対するアンチテーゼというか警鐘というか。人間の不確定性というか流動性というか獣性(?)みたいなものに可能性や自由を求める着地を目指すのかなぁ、なんて思って見始めたり。
更には、ゾッド将軍(マイケル・シャノン)が「進化した者こそが勝利するというのは歴史が証明している」と言い放つと、「進化とは何か」という揺さぶりからの「歴史の意義」「過去の価値」という考察の深化が始まった!(今までのノーランは同時代的考察が強すぎる気もしていたので)・・・と小躍りするも、せいぜいそこに添えられた答え的なものは情緒的葛藤というハンデ(?)による演出(スーパーマンの刹那の逡巡と直後の雄叫びのみ)で、それとてそれが克服なのか受容なのか創造的葛藤なのかすら示されず、関心の全てはあっさりと戦闘へ(葛藤、即リセット)。
語るより描きたいザックと、描くより語りたいクリス。そんな二人の弁証法は、止揚半ばで墜落しちまった・・・けど、終始鳴り響き続けるハンスの音楽がいつ何時も心を高揚させるから、結局地面に打ち付けられる(ダメージ受ける)ことないまま一気に完走してしまうという映画的力業の勝利。初日初回大スクリーン(勿論、シネスコ!)、周りの観客から醸される待望と緊張と興奮の坩堝の只中、といったアドバンテージも当然ありはしたけれど。
IMAX上映のある作品は必ずIMAXで観るように、3D上映のある作品は必ず3Dで観るように。それが以前の私的慣習だったのだけど、最近では臨機応変で(というか個人的展望というか欲望に応じて)観賞スタイルは流動的。今回も、初日にIMAX3Dで観ようと思ってはいたものの、予約開始即座にベスポジ付近が物凄い勢いで完売してて、ひとまず断念。来週の平日にでもゆっくりまったり観るかと思いつつ、何となく8月中に片付けたい(笑)気がふつふつと。そこで初日初回のUC豊洲10番2D字幕版で観ることに。その後にIMAX撮影なしだと知って内心「だったら別にIMAXじゃなくても好かったかもね」と思いきや、新宿ミラノ1での上映がフィルム上映(撮影もフィルム)と知り、しまった・・・と思ったものの、観てみればCG尽くしの画ばかり故に、まいっか。それため、3Dで観た人よりも楽しさ半減してるかもしれないし、フィルムで観るよりも味わいが減じているかもしれないけれど(でも、ワーナーは字幕のフォントをちゃんと劇場仕様的な旧来の字体にしてくれるから、デジタル上映でも「映画館で観てる感」が減退しないで済むのが好いね)、やりたい放題バトルシーンはやっぱり大スクリーンで観ればその価値は十分あるし、繊細なピアノの音も和太鼓みたいな怒濤のドラミングも大きな空間に大きな音で響くのを聞く価値は十二分。豊洲10番はスクリーン自体はあまり綺麗ではない(汚れがやや目立つ)けれど、フィルム撮影の作品なら(デジタル上映であっても)それが気になりにくい。
3Dで観なかったもう一つの私的な理由(極めて些末)は、IMAXで観た予告での3D演出が「後付」感全開だったり、個人的に最も嫌いなタイプの3D使用(奥の人物が手前の人物の肩越しに見えてる場合、その手前の人物をやたら浮き上がらせるといったパターン)が目についたりしたこともある。そういう手法だと、画面のなかで階層は見事に出来上がるけど、それぞれの階層が異様にのっぺり(2D以上に2D的に)見えてしまう気がしてしまうので、個人的にはそうした使い方が好きではない。まぁ、予告観ただけなので、本編ではもっと面白い3D演出が施されている可能性は十分あるとは思うけど、「画の暗さ(IMAXならだいぶ解消されるけど)」と「速い動きへの対応困難」といった現状への不満と、出尽くした感と見馴れた感による鮮度低下は、個人的3D離れを根強く後押ししてしまう。とはいえ、先日観た『スタトレ』みたいなアトラクション(に徹した)ムービーの場合なんかでは、IMAXにしろ3Dにしろ遺憾なく威力を発揮してくれてたし、3Dという技術がこれからもっと幸せな活用に向かうことを期待したい。(当初はSFやアクションといったダイナミズムに映える技術だと思っていたけれど、実はアート系でこそ新たな地平を切り開けそう。ヴェンダースは期待外れだったけど、ゴダールはどうなるのかな。)
夏休みの宿題を夏休み中に片付けたような達成感。学生時代に決して叶わなかった計画性と余裕な成就。って、たかがねぇ・・・。とはいえ、今夏に毎週公開された(いずれも期待値高めな)大作5本は、好悪は様々ながら各々それなりに見応えあった。ちなみに、そうした大作群のうちローランド・エメリッヒを除く4人はいずれも60年代の生まれ。ゴア・ヴァービンスキーとギレルモ・デル・トロは1964年生まれ、J.J.エイブラムスとザック・スナイダーは1966年生まれ、そしてマーク・フォースターは1969年生まれ。みんな40歳代。まさに働き盛りって感じと同時に、いずれも「不惑」を謳歌している感じが存分に(マークは未遂だったようだけど)。とはいえ、自身の「やりたいこと」と周囲(及び社会[というか観客?])から「求められること」とのバランス感覚に、各々の生き方(生き様)や哲学が明確に出ていた気がして興味深かった。ちなみに、クリストファー・ノーランは彼らの誰よりも若く、1970年生まれ。そんなこといったら、チャニング・テイタムの盟友リード・カロリン(『ホワイトハウス・ダウン』でプロデューサー)なんて1982年生まれなんだよね。彼は『マジック・マイク』では脚本を担当していたり(端役で出演してたけど、役者も向いてそうな印象だった)、面白い存在になりそうな予感。
そういえば、スクールバスの一件とか聖職者に自身の役割を説かれたりとか、『サイモン・バーチ』を勝手に想い出したりもした。「特別」であることに変わりはないね。
2013年8月24日土曜日
ダニス・タノヴィッチの劇場未公開作
現在開催中の第19回サラエボ映画祭。今年のコンペ審査委員長は、ダニス・タノヴィッチ。彼の初長編作品『ノー・マンズ・ランド』はカンヌでの脚本賞を皮切りに、実に多くの賞に輝いたが、批評家と観客の双方から賞賛されるという稀有な結果が作品のもつ普遍性が傑出したものであることを証明しているように思う。オムニバス『セプテンバー11』への参加を経て撮り上げた二作目『美しき運命の傷痕(L'enfer)』は、キェシロフスキによる原案だったが、大河でメロなドラマの華麗なる収斂ぶりに、キェシロフスキ自身が撮るよりもよかったのではないかとさえ思ってしまったものだ。(キェシロフスキ脚本をトム・ティクヴァが監督した『ヘヴン』を観た時も、実は同様の感想を抱いたりもした。)
個人的にも新作を楽しみに(というか絶大な信頼をもって期待)したい監督の一人となったダニス・タノヴィッチだったのだが、その後、新作公開の話が全然入ってこず、今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ&男優賞)に輝いたとの報に驚く。その「An Episode in the Life of an Iron Picker(Epizoda u zivotu beraca zeljeza)」は上映時間も75分と小品のようだが、ロマの家族に起こる悲劇を社会的背景と絡めつつ力強い問題提起がなされていそうでまたもや傑作の予感。
日本での劇場公開は見送られてしまったものの、タノヴィッチはその「An Episode in the Life of an Iron Picker」の前に長編を二作撮っている。そのうちの一本、「Triage」(2009)は『戦場カメラマン 真実の証明』として日本でもDVD発売され、WOWOWでも放映された。録画したまま永らく放置してしまった私だが、ようやく観てみると実に素晴らしい。従来のダノヴィッチ作品に比べると派手さはないし、戦争映画としての声高な主張も回避されており(戦争という事象より、人間という存在に焦点)、確かに地味な作品ながら、複雑な当事者性が錯綜しながら描かれる矛盾と葛藤は、個人の尊厳の根幹に分け入ることを決して辞さぬ。欧米における戦争映画は、自虐と自戒という受け皿以外で受容されることは難しいのかもしれない。つまり、「わからない」ことを「わからない」まま描くことはタブーなのだろう。是非に関わらず、判定、裁定、そして断罪、贖罪。そのいずれにも逃げない語り手と向き合うとなれば、赦しなきまま問題を見つめ続けることが求められてしまう。そして、本作における主人公に迫られた覚悟こそが、まさにそれなのだ。
原題にもなっている「トリアージ」とは、多数の負傷者が発生した際、現場で傷の程度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。主人公のマークと親友のデイビッドは取材で訪れたクルディスタンで、トリアージを日々目の当たりにする。そして、治療のための優先順位から外される「青い札」の存在を知る。青の札が置かれた(ここでは)手の施しようのない負傷者は、「安楽死」ために、銃殺される。医師自身の手によって。そうした現実に対する疑問はやがて、自らの激しい苦悶の日々に重くのしかかる。マーク(コリン・ファレル)が負傷し帰国するまでに、一体何があったのか。何が彼を苦しめ、何が彼を追い詰めるのか。真相を小出しにするようなギミックではなく、主人公の深層に観客が入り込むのを焦ることなく待っている。やがてマークの恋人エレーナ(パス・ベガ)の祖父(クリストファー・リー)が水先案内人として現れると、正面から扉を開ける手助けをしてくれる。しかし、極めて上質な「省筆」が慎重に選択されており、そこにはいくらでも書き込む余地がある。「経験していないことを責める経験者」マークが責めていたのは、結局「経験している自分」だったというパラドクス。経験をもたない外部の者(傍観者)は、当事者に何ができるだろうか。
◆主人公のマーク・ウォルシュは写真集を出版していたことがあり、そのタイトルは「ALONE」。恋人の祖父がそれを捲る場面がある。マークがかつてシンパシーを描いた心象風景にシンクロした現在。孤独に幽閉された彼を救おうとする恋人もその祖父も、あるいは彼の親友もその妻も、皆が皆、孤独であるという事実が刻まれていている。相対的な悲哀も寂寞もそこにはなく、だからこそ主人公だけが悲劇の渦中にいるわけではない。生きている人間は等しく「渦中に生きる」のだ。映画の最後に浮かび上がるプラトンの言葉。It is only the dead who have seen the end of war.
◆マークの恋人エレーナは、彼を救うために祖父ホアキンを呼び寄せる。ホアキンはかつて、フランコ独裁政権の手先となった者たちを「治療」した経験があるようで、エレーナはそのこと自体に耐えられず、祖父のことも赦してはいなかった。ホアキンの仕事をエレーナは「beautify(美化)」と呼び、ホアキン自身は「purify(浄化)」であると弁明する。相手の言い分にも真実が宿っていることに各々気づいている。それが彼らの対話には滲み出ている。祖父の「赦し」を、孫は許せないが、祖父の「赦し」は相手に与えているものではない。同時代を生きた者同士としての自責の共有であり、肩を貸しているに過ぎないのかもしれない。そして、それは自らが背負わずに済んだことに対する罪悪感に対する処方だったのかもしれない。世代間にうまれる歴史認識の齟齬。それは軋轢や不継承に発展させるためのものではなく、それがあってこそ可能になる過去との対話。常に異質であるはず(べき)の過去。互いに許容される範囲で、許容をベースとしながら、対話を始めたところで過去とは向き合えない。それは主人公マークの背負った「過去」にも通じることで、ホアキンはマークに言う。「他人に赦しを求めても、痛みはかかえ続けるしかない。それが生きるということだ。」
◆マークが眠っているベッドの傍らにいたホアキンが、目覚めたマークに言う。「随分と安らかな寝顔をしていたよ。」「それは好い傾向だろ?」というマークに対し、「いや、むしろ悪い兆候だ」と答えるホアキン。平穏(peace)な寝顔は悪い兆候。悲劇からは目を背け、現実には目を瞑り、平和な眠りを貪る者たちは、無自覚のまま犠牲を強いる。
◆終盤の会話のなかで出てくる、カメラをもつことで被写体との間に境界線(「国境」ともかけている)ができるという喩え。そのことで、対象が現実(ファインダーの向こうにだけあるものではなく、自ら実際に働きかけてくる力をもった)であることを忘れ、死にもつながると捉えるマークに対し、ホアキンは「それが身を守る」こともあるのでは?と告げる。いずれにせよ、どちらも自己防衛のための境界線であることを示唆しているように思う。しかし、自己防衛こそが自滅へのシナリオを裏書きしているという真実をも含蓄した言葉にも思えてしまう。
◇ファイン・ヤング・カニバルズの「Johnny Come Home」が流れるのだが、これはもしかして『ジョニーは戦場へ行った(Johnny Got His Gun)』を意識しての選曲だったりする?
◇本作のエンドロールで灯る「アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックに捧ぐ」の文字に胸が熱くなる。つい先日、彼らが製作した不遇の傑作『マーガレット』(存命中に完成せず、訴訟も経ながら一昨年にようやく日の目をみた)を観たこともあり(当然、こちらにも同様の言葉が)、奇しくも同年(2008年)に亡くなった彼らの存在の大きさを噛み締めつつ激しく惜しむ。とりわけ、アンソニー・ミンゲラは享年54歳。監督としての矜持を持ちながら、プロデューサーとしての領分を弁えた二人の仕事はきっともっと傑作を産み出し続けられたはずだろう。
◇役者のアンサンブルが実に好い。主役のコリン・ファレルは例の「流出」で大変な時期だったのだろうか。最近では出演作の質量ともに充実し始め完全復活しているが、この時期の彼もなかなかだ。スキャンダルがなければ本作ももっと世に出ていけたかもしれない等とすら考えてしまう。恋人役のパス・ベガ(ニコール・キッドマンがグレース・ケリーを演じる「Grace of Monaco」ではマリア・カラスを演じる)の抑制の効いた愛情の震動は確かな波動だし、彼女の祖父役クリストファー・リーの説得力たるやまさに神がかり的。親友の妻を演じるケリー・ライリー(「犯罪捜査官アナ・トラヴィス」!最近だと『フライト』でも好演してました)の存在感が適材感。序盤で僅かな出演ながら抜群の存在感を残すクルディスタンの戦場の医師役ブランコ・ジュリッチ。『ノー・マンズ・ランド』で主演した彼は、ロックバンドや劇団も主宰する才人で、もうすぐ公開のアンジェリーナ・ジョリー初監督作『最愛の大地』にも出演していたりする。
◇原作の内容について詳しく描かれた記事があった。是非、読んでみたい内容だ。映画が劇場公開されていたら、日本でも出版されていたかもしれない・・・
個人的にも新作を楽しみに(というか絶大な信頼をもって期待)したい監督の一人となったダニス・タノヴィッチだったのだが、その後、新作公開の話が全然入ってこず、今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ&男優賞)に輝いたとの報に驚く。その「An Episode in the Life of an Iron Picker(Epizoda u zivotu beraca zeljeza)」は上映時間も75分と小品のようだが、ロマの家族に起こる悲劇を社会的背景と絡めつつ力強い問題提起がなされていそうでまたもや傑作の予感。
日本での劇場公開は見送られてしまったものの、タノヴィッチはその「An Episode in the Life of an Iron Picker」の前に長編を二作撮っている。そのうちの一本、「Triage」(2009)は『戦場カメラマン 真実の証明』として日本でもDVD発売され、WOWOWでも放映された。録画したまま永らく放置してしまった私だが、ようやく観てみると実に素晴らしい。従来のダノヴィッチ作品に比べると派手さはないし、戦争映画としての声高な主張も回避されており(戦争という事象より、人間という存在に焦点)、確かに地味な作品ながら、複雑な当事者性が錯綜しながら描かれる矛盾と葛藤は、個人の尊厳の根幹に分け入ることを決して辞さぬ。欧米における戦争映画は、自虐と自戒という受け皿以外で受容されることは難しいのかもしれない。つまり、「わからない」ことを「わからない」まま描くことはタブーなのだろう。是非に関わらず、判定、裁定、そして断罪、贖罪。そのいずれにも逃げない語り手と向き合うとなれば、赦しなきまま問題を見つめ続けることが求められてしまう。そして、本作における主人公に迫られた覚悟こそが、まさにそれなのだ。
原題にもなっている「トリアージ」とは、多数の負傷者が発生した際、現場で傷の程度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。主人公のマークと親友のデイビッドは取材で訪れたクルディスタンで、トリアージを日々目の当たりにする。そして、治療のための優先順位から外される「青い札」の存在を知る。青の札が置かれた(ここでは)手の施しようのない負傷者は、「安楽死」ために、銃殺される。医師自身の手によって。そうした現実に対する疑問はやがて、自らの激しい苦悶の日々に重くのしかかる。マーク(コリン・ファレル)が負傷し帰国するまでに、一体何があったのか。何が彼を苦しめ、何が彼を追い詰めるのか。真相を小出しにするようなギミックではなく、主人公の深層に観客が入り込むのを焦ることなく待っている。やがてマークの恋人エレーナ(パス・ベガ)の祖父(クリストファー・リー)が水先案内人として現れると、正面から扉を開ける手助けをしてくれる。しかし、極めて上質な「省筆」が慎重に選択されており、そこにはいくらでも書き込む余地がある。「経験していないことを責める経験者」マークが責めていたのは、結局「経験している自分」だったというパラドクス。経験をもたない外部の者(傍観者)は、当事者に何ができるだろうか。
◆主人公のマーク・ウォルシュは写真集を出版していたことがあり、そのタイトルは「ALONE」。恋人の祖父がそれを捲る場面がある。マークがかつてシンパシーを描いた心象風景にシンクロした現在。孤独に幽閉された彼を救おうとする恋人もその祖父も、あるいは彼の親友もその妻も、皆が皆、孤独であるという事実が刻まれていている。相対的な悲哀も寂寞もそこにはなく、だからこそ主人公だけが悲劇の渦中にいるわけではない。生きている人間は等しく「渦中に生きる」のだ。映画の最後に浮かび上がるプラトンの言葉。It is only the dead who have seen the end of war.
◆マークの恋人エレーナは、彼を救うために祖父ホアキンを呼び寄せる。ホアキンはかつて、フランコ独裁政権の手先となった者たちを「治療」した経験があるようで、エレーナはそのこと自体に耐えられず、祖父のことも赦してはいなかった。ホアキンの仕事をエレーナは「beautify(美化)」と呼び、ホアキン自身は「purify(浄化)」であると弁明する。相手の言い分にも真実が宿っていることに各々気づいている。それが彼らの対話には滲み出ている。祖父の「赦し」を、孫は許せないが、祖父の「赦し」は相手に与えているものではない。同時代を生きた者同士としての自責の共有であり、肩を貸しているに過ぎないのかもしれない。そして、それは自らが背負わずに済んだことに対する罪悪感に対する処方だったのかもしれない。世代間にうまれる歴史認識の齟齬。それは軋轢や不継承に発展させるためのものではなく、それがあってこそ可能になる過去との対話。常に異質であるはず(べき)の過去。互いに許容される範囲で、許容をベースとしながら、対話を始めたところで過去とは向き合えない。それは主人公マークの背負った「過去」にも通じることで、ホアキンはマークに言う。「他人に赦しを求めても、痛みはかかえ続けるしかない。それが生きるということだ。」
◆マークが眠っているベッドの傍らにいたホアキンが、目覚めたマークに言う。「随分と安らかな寝顔をしていたよ。」「それは好い傾向だろ?」というマークに対し、「いや、むしろ悪い兆候だ」と答えるホアキン。平穏(peace)な寝顔は悪い兆候。悲劇からは目を背け、現実には目を瞑り、平和な眠りを貪る者たちは、無自覚のまま犠牲を強いる。
◆終盤の会話のなかで出てくる、カメラをもつことで被写体との間に境界線(「国境」ともかけている)ができるという喩え。そのことで、対象が現実(ファインダーの向こうにだけあるものではなく、自ら実際に働きかけてくる力をもった)であることを忘れ、死にもつながると捉えるマークに対し、ホアキンは「それが身を守る」こともあるのでは?と告げる。いずれにせよ、どちらも自己防衛のための境界線であることを示唆しているように思う。しかし、自己防衛こそが自滅へのシナリオを裏書きしているという真実をも含蓄した言葉にも思えてしまう。
◇ファイン・ヤング・カニバルズの「Johnny Come Home」が流れるのだが、これはもしかして『ジョニーは戦場へ行った(Johnny Got His Gun)』を意識しての選曲だったりする?
◇本作のエンドロールで灯る「アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックに捧ぐ」の文字に胸が熱くなる。つい先日、彼らが製作した不遇の傑作『マーガレット』(存命中に完成せず、訴訟も経ながら一昨年にようやく日の目をみた)を観たこともあり(当然、こちらにも同様の言葉が)、奇しくも同年(2008年)に亡くなった彼らの存在の大きさを噛み締めつつ激しく惜しむ。とりわけ、アンソニー・ミンゲラは享年54歳。監督としての矜持を持ちながら、プロデューサーとしての領分を弁えた二人の仕事はきっともっと傑作を産み出し続けられたはずだろう。
◇役者のアンサンブルが実に好い。主役のコリン・ファレルは例の「流出」で大変な時期だったのだろうか。最近では出演作の質量ともに充実し始め完全復活しているが、この時期の彼もなかなかだ。スキャンダルがなければ本作ももっと世に出ていけたかもしれない等とすら考えてしまう。恋人役のパス・ベガ(ニコール・キッドマンがグレース・ケリーを演じる「Grace of Monaco」ではマリア・カラスを演じる)の抑制の効いた愛情の震動は確かな波動だし、彼女の祖父役クリストファー・リーの説得力たるやまさに神がかり的。親友の妻を演じるケリー・ライリー(「犯罪捜査官アナ・トラヴィス」!最近だと『フライト』でも好演してました)の存在感が適材感。序盤で僅かな出演ながら抜群の存在感を残すクルディスタンの戦場の医師役ブランコ・ジュリッチ。『ノー・マンズ・ランド』で主演した彼は、ロックバンドや劇団も主宰する才人で、もうすぐ公開のアンジェリーナ・ジョリー初監督作『最愛の大地』にも出演していたりする。
◇原作の内容について詳しく描かれた記事があった。是非、読んでみたい内容だ。映画が劇場公開されていたら、日本でも出版されていたかもしれない・・・
2013年8月18日日曜日
ホワイトハウス・ダウン
The pen is mightier than the sword.
(ペンは剣よりも強し。)
そんな言葉をこの手の映画で決め台詞に持って来ちゃうところが、エメリッヒ&ヴァンダービルトって感じがして、「堅いなぁ~」と苦々しくも微笑ましい。ただの思わせぶりや未回収の伏線もどきも無くは無いけど、むしろ律儀な回収ジョブにいちいち減速しがちなとこも。とはいえ、序盤の「ポリティカル・サスペンス内に何とか留まろうとする」流れから後半の「破れかぶれ」に突入すれば、そこそこ気楽におんぶにだっこ。日曜夜のテレ朝で(勿論、吹替で)観たい気分に充たされながら、それを初日初回に駆けつけて特大スクリーン(シネスコだし!)で観てるという豪快バカの贅沢は、それはそれで醍醐味なのだ。
とか言いながら・・・前日深夜に本作のCMを観て予約してた事実を想い出し、あわてて寝たという曖昧な事前期待。ここのところ、『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』と初日初回観賞で変な達成感をおぼえた(私自身、初日に観ること自体が極めて稀有なので)上に、お盆時期には映画館に足を運ばない習慣もあって、まさか世間的にも夏休みクライマックスの週末に映画を観に行くなどと思いもしなかった・・・って、自分で早々に予約していたくせに。
学生時代、シネコンでアルバイトしてた頃、盆と正月の劇場の混雑具合は凄まじかった。映画の観客動員が上昇を続けていた時期、シネコン飽和になる前で、バイト先のシネコンでも日中は連日全作全回満席の勢い。ネット予約もなければ、そもそも指定席ですらなかった。入場前の行列整理、座席への誘導も重要ミッション。自分が客なら大の苦手状況ながら、接客する側としては双方向ワクワクな夏祭り。そんな中にありながら、スタジオジブリ作品にも関わらず、絶対に満席にならなかった(実際は何度か満席になってバイト一同感嘆の声をあげたこともあった)『ホーホケキョ となりの山田くん』の偉大さ、潔さ。『かぐや姫の物語』は更に壮絶な予感。当時体感し損ねた高畑勲の怪物っぷりを、今年はしっかりと全身震撼。(ちなみに、『ホーホケキョ となりの山田くん』の英題って「My Neighbors The Yamadas」なんだ。『となりのトトロ』の英題が「My Neighbor Totoro」だからね。ジブリの両雄は、本当におもしろい。)
さて、話をWHDに戻して。
本作の本国興行では、莫大な制作費(といっても、VFXのショボさ[随分と没頭を妨げられた]には明らかな節約仕様を感じたけどね)に比して成績不振との情報を耳にした気がしたのだが、怪獣やゾンビが出てくる映画よりもよっぽど手堅い娯楽作だったし、当然キモサベ・ムービーの偏執ぶりには遠く及ばず、日本でお盆真っ只中の公開は奏功なんではなかろうか。新味もなければ、豪快不足な折り目正しき頭の悪さ。弛緩と疲れの夏バテ脳には、まことにやさしく沁みるのだ。目の前でさっきまで全世界秩序崩壊寸前が展開されていたというのに、ハラハラを微塵も残さずに劇場を去れる爽快感。ランチ享受に即スタンバイ。観ながら頭を過ぎった不満のいろいろまでを忘却させる軽薄の妙、軽妙。活かしきれてない要素が散らばりまくっているにもかかわらず、そのへんはセルフ補完ってことだよね的寛容は、夏の魔法のせいかしら?
監督の趣味全開確信犯の『ローン・レンジャー』や『パシフィック・リム』が興行的に苦戦するのは納得できるけど、エメリッヒの趣味全開ってあくまで確信犯的だから、せめてヒットくらいはさせてあげたい気持ちになったりもする。とはいえ、アメリカじゃ不振だったようだけど、確かに自分がアメリカ人(しかも、この時代に)だとしたら、気安く楽しめる設定でもない気がしたし、構造から来る危機にもかかわらず、(表面的には好転したように描かれてるが)実際は何ら構造は変わらぬまま終わりを迎えるために、相克からの解放感を味えることもない。しかも、これまでは「米国史上最悪の危機=世界の終わりカウントダウン」だったのに、本作では「米国史上最悪の危機=米国の終わりの始まり(見ようによっては下克上絶好機)」として描かれているようにも感じられる為、「危機を楽しむ」ことが困難なのだろう。強い人間が自分の強さをアピールするために一旦負け始めると、その後の勝利の味が格別!という従来の手法を無視しているようにも思えたが、その傾向は一つ前の大作『2012』でも同様で(前作『もうひとりのシェイクスピア』では更なる自我の目覚めを経験し)、ドイツ人のローランド・エメリッヒの或る種「面目」躍如の結果かも。とはいえ、劇中での大統領の信条に素直にシンクロできるアメリカ国民はまだまだマイノリティにも思えるし、かといって敵側のロジックも散漫カオスで感情移入は困難だから、当事者としてのアメリカ人の大半は心の置き場を失してしまうのかもね。
『マジック・マイク』観た後だと、チャニングの活躍はついつい「微笑ましく見守る」姿勢で観てしまう。ジェイミー・フォックスも『ジャンゴ』で「リンカーン」やった訳だし、妙なしっくり感をおぼえたり。マギー・ギレンホール(ジレンホールの方が好いのかな・・・というか、ギンレイホールに見えるんだよね)は相変わらず絶対不萌ながら絶対品格が漂うお約束。
主人公ジョン・ケイル(チャニング・テイタム)の娘エミリーを演じるジョーイ・キングの売れっ子ぶりは止まらない。『ラモーナのおきて』で主演済みの彼女は、『ラブ・アゲイン』でスティーヴ・カレルの娘役を、『ダークナイト・ライジング』でマリオン・コティヤールの幼少期を演じてる。でも、早くもちょっと演技が鼻につき始めて来た気がしないでもない。ただ、あの「ドヤ振り」は自身の役割に自信たっぷりな彼女ならではだよね。
個人的に終始好い味出してたと思ったのが、ホワイトハウス見学ツアーのガイドを演じるニコラス・ライト。コメディ要素を一番巧く結実させてた印象。(そういえば、劇場内がもうちょっと自然に笑いがもれる状況だったら、コメディ色がもっと強まって迫ってきたかもな・・・などと思いながら観ていた。)カナダの俳優みたいだけど、これからハリウッド大作なんかにもちょくちょく顔を出しそうな予感。
脇役といえば、ケヴィン・ランキン。人質ルームで調子づいてる敵チームの頭弱そうなアイツです。本作にはテレビドラマでよく見る顔がたくさん出演しているらしいのだけど、海外ドラマ初心者の私には当然把握できる由もなし。ただ、彼はWOWOWで放映されていた『アンフォゲッタブル/完全記憶捜査』でメインキャストの一人だったりもしたので気づけましたよ。でも、だいぶ経ってからだけど(役どころが全然異なっていたからね)。
脚本を担当しているジェームズ・ヴァンダービルト。説明不能の魅力が蠢く私的好物『ゾディアック』の脚本家。毛色は全く異なるが、よくわからないまま気づけば終わってる感はやや近似。
今夏公開の洋画大作観賞もいよいよ大詰め。先鋒(『ローン・レンジャー』)がまさかの連戦連勝。このままでは今夏の主役はロッシーニ。
(ペンは剣よりも強し。)
そんな言葉をこの手の映画で決め台詞に持って来ちゃうところが、エメリッヒ&ヴァンダービルトって感じがして、「堅いなぁ~」と苦々しくも微笑ましい。ただの思わせぶりや未回収の伏線もどきも無くは無いけど、むしろ律儀な回収ジョブにいちいち減速しがちなとこも。とはいえ、序盤の「ポリティカル・サスペンス内に何とか留まろうとする」流れから後半の「破れかぶれ」に突入すれば、そこそこ気楽におんぶにだっこ。日曜夜のテレ朝で(勿論、吹替で)観たい気分に充たされながら、それを初日初回に駆けつけて特大スクリーン(シネスコだし!)で観てるという豪快バカの贅沢は、それはそれで醍醐味なのだ。
とか言いながら・・・前日深夜に本作のCMを観て予約してた事実を想い出し、あわてて寝たという曖昧な事前期待。ここのところ、『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』と初日初回観賞で変な達成感をおぼえた(私自身、初日に観ること自体が極めて稀有なので)上に、お盆時期には映画館に足を運ばない習慣もあって、まさか世間的にも夏休みクライマックスの週末に映画を観に行くなどと思いもしなかった・・・って、自分で早々に予約していたくせに。
学生時代、シネコンでアルバイトしてた頃、盆と正月の劇場の混雑具合は凄まじかった。映画の観客動員が上昇を続けていた時期、シネコン飽和になる前で、バイト先のシネコンでも日中は連日全作全回満席の勢い。ネット予約もなければ、そもそも指定席ですらなかった。入場前の行列整理、座席への誘導も重要ミッション。自分が客なら大の苦手状況ながら、接客する側としては双方向ワクワクな夏祭り。そんな中にありながら、スタジオジブリ作品にも関わらず、絶対に満席にならなかった(実際は何度か満席になってバイト一同感嘆の声をあげたこともあった)『ホーホケキョ となりの山田くん』の偉大さ、潔さ。『かぐや姫の物語』は更に壮絶な予感。当時体感し損ねた高畑勲の怪物っぷりを、今年はしっかりと全身震撼。(ちなみに、『ホーホケキョ となりの山田くん』の英題って「My Neighbors The Yamadas」なんだ。『となりのトトロ』の英題が「My Neighbor Totoro」だからね。ジブリの両雄は、本当におもしろい。)
さて、話をWHDに戻して。
本作の本国興行では、莫大な制作費(といっても、VFXのショボさ[随分と没頭を妨げられた]には明らかな節約仕様を感じたけどね)に比して成績不振との情報を耳にした気がしたのだが、怪獣やゾンビが出てくる映画よりもよっぽど手堅い娯楽作だったし、当然キモサベ・ムービーの偏執ぶりには遠く及ばず、日本でお盆真っ只中の公開は奏功なんではなかろうか。新味もなければ、豪快不足な折り目正しき頭の悪さ。弛緩と疲れの夏バテ脳には、まことにやさしく沁みるのだ。目の前でさっきまで全世界秩序崩壊寸前が展開されていたというのに、ハラハラを微塵も残さずに劇場を去れる爽快感。ランチ享受に即スタンバイ。観ながら頭を過ぎった不満のいろいろまでを忘却させる軽薄の妙、軽妙。活かしきれてない要素が散らばりまくっているにもかかわらず、そのへんはセルフ補完ってことだよね的寛容は、夏の魔法のせいかしら?
監督の趣味全開確信犯の『ローン・レンジャー』や『パシフィック・リム』が興行的に苦戦するのは納得できるけど、エメリッヒの趣味全開ってあくまで確信犯的だから、せめてヒットくらいはさせてあげたい気持ちになったりもする。とはいえ、アメリカじゃ不振だったようだけど、確かに自分がアメリカ人(しかも、この時代に)だとしたら、気安く楽しめる設定でもない気がしたし、構造から来る危機にもかかわらず、(表面的には好転したように描かれてるが)実際は何ら構造は変わらぬまま終わりを迎えるために、相克からの解放感を味えることもない。しかも、これまでは「米国史上最悪の危機=世界の終わりカウントダウン」だったのに、本作では「米国史上最悪の危機=米国の終わりの始まり(見ようによっては下克上絶好機)」として描かれているようにも感じられる為、「危機を楽しむ」ことが困難なのだろう。強い人間が自分の強さをアピールするために一旦負け始めると、その後の勝利の味が格別!という従来の手法を無視しているようにも思えたが、その傾向は一つ前の大作『2012』でも同様で(前作『もうひとりのシェイクスピア』では更なる自我の目覚めを経験し)、ドイツ人のローランド・エメリッヒの或る種「面目」躍如の結果かも。とはいえ、劇中での大統領の信条に素直にシンクロできるアメリカ国民はまだまだマイノリティにも思えるし、かといって敵側のロジックも散漫カオスで感情移入は困難だから、当事者としてのアメリカ人の大半は心の置き場を失してしまうのかもね。
『マジック・マイク』観た後だと、チャニングの活躍はついつい「微笑ましく見守る」姿勢で観てしまう。ジェイミー・フォックスも『ジャンゴ』で「リンカーン」やった訳だし、妙なしっくり感をおぼえたり。マギー・ギレンホール(ジレンホールの方が好いのかな・・・というか、ギンレイホールに見えるんだよね)は相変わらず絶対不萌ながら絶対品格が漂うお約束。
主人公ジョン・ケイル(チャニング・テイタム)の娘エミリーを演じるジョーイ・キングの売れっ子ぶりは止まらない。『ラモーナのおきて』で主演済みの彼女は、『ラブ・アゲイン』でスティーヴ・カレルの娘役を、『ダークナイト・ライジング』でマリオン・コティヤールの幼少期を演じてる。でも、早くもちょっと演技が鼻につき始めて来た気がしないでもない。ただ、あの「ドヤ振り」は自身の役割に自信たっぷりな彼女ならではだよね。
個人的に終始好い味出してたと思ったのが、ホワイトハウス見学ツアーのガイドを演じるニコラス・ライト。コメディ要素を一番巧く結実させてた印象。(そういえば、劇場内がもうちょっと自然に笑いがもれる状況だったら、コメディ色がもっと強まって迫ってきたかもな・・・などと思いながら観ていた。)カナダの俳優みたいだけど、これからハリウッド大作なんかにもちょくちょく顔を出しそうな予感。
脇役といえば、ケヴィン・ランキン。人質ルームで調子づいてる敵チームの頭弱そうなアイツです。本作にはテレビドラマでよく見る顔がたくさん出演しているらしいのだけど、海外ドラマ初心者の私には当然把握できる由もなし。ただ、彼はWOWOWで放映されていた『アンフォゲッタブル/完全記憶捜査』でメインキャストの一人だったりもしたので気づけましたよ。でも、だいぶ経ってからだけど(役どころが全然異なっていたからね)。
脚本を担当しているジェームズ・ヴァンダービルト。説明不能の魅力が蠢く私的好物『ゾディアック』の脚本家。毛色は全く異なるが、よくわからないまま気づけば終わってる感はやや近似。
今夏公開の洋画大作観賞もいよいよ大詰め。先鋒(『ローン・レンジャー』)がまさかの連戦連勝。このままでは今夏の主役はロッシーニ。
2013年8月16日金曜日
チャット~罠に墜ちた美少女~
この邦題じゃ、明らかに微エロB級クライムムービー色。でも、原題は「Trust」。出演はクライヴ・オーウェン、キャスリン・キーナー、ジェイソン・クラーク、ヴィオラ・デイヴィスほか。そう聞けば自ずと明らかに。地に足つけて人間を描くドラマだってこと。
邦題から勝手に想像すると、主人公の「美少女」の堕落ぶりと底無しの悲劇を悪辣な手法も辞さずに大味な展開と勢いで突っ切りそうだけど、実際は違う。そもそも主人公は「美少女」として描かれないし、本人は「美少女」でないことにコンプレックスを抱き、そういった精神状態がドラマの鍵でもある。そして、事件は早々に起こり、あっけなく描かれる。14歳の主人公がチャットで熱を上げていた(同年代だと思っていた)相手は嘘をついており、「実は20歳」「実は25歳」と訂正を重ね、実際に会ってみれば20代でないどころか・・・。しかし、二人は「デート」をし、モーテルで「結ばれる」。本作が語るべきドラマはそこからいよいよ始動する。その事実を知る主人公の親友が学校にそれを報せ、そこから警察へ。似たようなケースがこれまでも発生している(当然州をまたいでいる)のでFBIがやって来て、レイプ事件として捜査を始める。動揺と困惑、絶望に呆然とする両親。「私はレイプされたんじゃない」と、大人に対して反抗し苛立ち続ける主人公の少女。そういった状況を淡々と、抑制の効いた逡巡を積み重ね、信頼(trust)の起源と行方を凝視する。また、信頼の土壌たる自信(confidence)をもそっと掘り下げる。個々のアイデンティティについて分け入りながらも、最終的には家族という形態を通して「信」のありかたを確かめる。(しかし、最後の最後に映し出される「悪戯」は観る者に再審を要求してもいるようなのだが。)ちなみに、「信」という漢字は、「言っていること」と「その人」が違わない状態のことを意味し、それを字で表したものとされる。本作における皮肉と真実を体現する一字でもある。
昨年末にDVDが発売された劇場未公開作。WOWOWにて今月初放映。
監督は、『フレンズ』のロス役でおなじみ(同作では演出を担当することも)のデヴィッド・シュワイマー。テレビドラマの演出を手がける一方、『ラン・ファットボーイ・ラン 走れメタボ (Run Fatboy Run)』で劇場映画初監督。続く二本目が本作ということになる。
クライヴとキャサリンは共に「出演してる映画の気に入る確率が頗る高い」個人的絶大信頼俳優コンビ。さすが役者出身の監督だけあって、彼らを面白おかしく壊したり荒らしたりすることなく、むしろ彼らが培ってきた信頼(実績)を活かした演技設計で直球勝負。(変化球が多めな二人なだけに、むしろ新鮮)
主人公アニーを演じるリアナ・リベラトは、昨年劇場公開されたジョエル・シューマカー監督作『ブレイクアウト』(ニコラス・ケイジ、ニコール・キッドマン)や今年劇場公開されたフィリップ・シュテルツェル監督作『ザ・ターゲット/陰謀のスプレマシー』(アーロン・エッカート、オルガ・キュリレンコ)に出演しているらしいが、私は観ておらず。彼女は本作によって、2010年シカゴ国際映画祭の女優賞を授与されている。(ちなみに同年の同映画祭では、『夏の終止符』がグランプリを、『終わりなき叫び』が脚本賞と男優賞を授与されている。)
出演作(『ゼロ・ダーク・サーティ』『欲望のヴァージニア』『華麗なるギャツビー』そして『ホワイト・ハウス・ダウン』)が今年日本でも立て続けに公開されているジェイソン・クラークも出演しているし、『ダウト』と『ヘルプ』でアカデミー賞(助演女優賞)にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスも安心二重丸。そして、主人公のチャット相手「チャーリー」のキモいじゃ済まされない不気味さは必見。あの「着こなし」(ただのコーディネートだけでなく、重ね方やその見え方)は虫唾が全力疾走。(衣裳はアダム・サンドラー組のEllen Lutter。本領発揮、面目躍如。)
脚本を担当しているアンディ・ベリンは、アマンダ・サイフリッド(セイフライド?)がリンダ・ラブレースを演じることでも話題の「Lovelace」の脚本も書いているらしい。同作の監督は、ジェームズ・フランコがアレン・ギンズバーグを演じた「Howl」の監督コンビ(ロバート・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン)。ロバートは傑作ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』の監督でもある。「Howl」も興味深いアプローチだっただけに、「Lovelace」がどんな仕上がりか今から楽しみ。
ただ、役者が個々にもアンサンブルとしても実に好い味をもっているだけに、脚本が幾分弱いように感じてしまったのも事実。序盤、アニーが「チャーリー」に会ってから「墜ちる」までの流れを、大学入学の晴れやかな飛躍を遂げる兄の様子と交互に見せる編集は、その執拗さが実に好い。精神の破綻を迎えながらもどこか独特な抑制感が漂うドラマは、編集の妙が産んでいるのかも。編集を担当しているダグラス・クライズ(Douglas Crise)は、ソダーバーグ組にも参加経験があり、『21グラム』『バベル』やディエゴ・ルナ監督最新作にも参加。最近では、『スプリング・ブレーカーズ』の編集も担当している。
邦題から勝手に想像すると、主人公の「美少女」の堕落ぶりと底無しの悲劇を悪辣な手法も辞さずに大味な展開と勢いで突っ切りそうだけど、実際は違う。そもそも主人公は「美少女」として描かれないし、本人は「美少女」でないことにコンプレックスを抱き、そういった精神状態がドラマの鍵でもある。そして、事件は早々に起こり、あっけなく描かれる。14歳の主人公がチャットで熱を上げていた(同年代だと思っていた)相手は嘘をついており、「実は20歳」「実は25歳」と訂正を重ね、実際に会ってみれば20代でないどころか・・・。しかし、二人は「デート」をし、モーテルで「結ばれる」。本作が語るべきドラマはそこからいよいよ始動する。その事実を知る主人公の親友が学校にそれを報せ、そこから警察へ。似たようなケースがこれまでも発生している(当然州をまたいでいる)のでFBIがやって来て、レイプ事件として捜査を始める。動揺と困惑、絶望に呆然とする両親。「私はレイプされたんじゃない」と、大人に対して反抗し苛立ち続ける主人公の少女。そういった状況を淡々と、抑制の効いた逡巡を積み重ね、信頼(trust)の起源と行方を凝視する。また、信頼の土壌たる自信(confidence)をもそっと掘り下げる。個々のアイデンティティについて分け入りながらも、最終的には家族という形態を通して「信」のありかたを確かめる。(しかし、最後の最後に映し出される「悪戯」は観る者に再審を要求してもいるようなのだが。)ちなみに、「信」という漢字は、「言っていること」と「その人」が違わない状態のことを意味し、それを字で表したものとされる。本作における皮肉と真実を体現する一字でもある。
昨年末にDVDが発売された劇場未公開作。WOWOWにて今月初放映。
監督は、『フレンズ』のロス役でおなじみ(同作では演出を担当することも)のデヴィッド・シュワイマー。テレビドラマの演出を手がける一方、『ラン・ファットボーイ・ラン 走れメタボ (Run Fatboy Run)』で劇場映画初監督。続く二本目が本作ということになる。
クライヴとキャサリンは共に「出演してる映画の気に入る確率が頗る高い」個人的絶大信頼俳優コンビ。さすが役者出身の監督だけあって、彼らを面白おかしく壊したり荒らしたりすることなく、むしろ彼らが培ってきた信頼(実績)を活かした演技設計で直球勝負。(変化球が多めな二人なだけに、むしろ新鮮)
主人公アニーを演じるリアナ・リベラトは、昨年劇場公開されたジョエル・シューマカー監督作『ブレイクアウト』(ニコラス・ケイジ、ニコール・キッドマン)や今年劇場公開されたフィリップ・シュテルツェル監督作『ザ・ターゲット/陰謀のスプレマシー』(アーロン・エッカート、オルガ・キュリレンコ)に出演しているらしいが、私は観ておらず。彼女は本作によって、2010年シカゴ国際映画祭の女優賞を授与されている。(ちなみに同年の同映画祭では、『夏の終止符』がグランプリを、『終わりなき叫び』が脚本賞と男優賞を授与されている。)
出演作(『ゼロ・ダーク・サーティ』『欲望のヴァージニア』『華麗なるギャツビー』そして『ホワイト・ハウス・ダウン』)が今年日本でも立て続けに公開されているジェイソン・クラークも出演しているし、『ダウト』と『ヘルプ』でアカデミー賞(助演女優賞)にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスも安心二重丸。そして、主人公のチャット相手「チャーリー」のキモいじゃ済まされない不気味さは必見。あの「着こなし」(ただのコーディネートだけでなく、重ね方やその見え方)は虫唾が全力疾走。(衣裳はアダム・サンドラー組のEllen Lutter。本領発揮、面目躍如。)
脚本を担当しているアンディ・ベリンは、アマンダ・サイフリッド(セイフライド?)がリンダ・ラブレースを演じることでも話題の「Lovelace」の脚本も書いているらしい。同作の監督は、ジェームズ・フランコがアレン・ギンズバーグを演じた「Howl」の監督コンビ(ロバート・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン)。ロバートは傑作ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』の監督でもある。「Howl」も興味深いアプローチだっただけに、「Lovelace」がどんな仕上がりか今から楽しみ。
ただ、役者が個々にもアンサンブルとしても実に好い味をもっているだけに、脚本が幾分弱いように感じてしまったのも事実。序盤、アニーが「チャーリー」に会ってから「墜ちる」までの流れを、大学入学の晴れやかな飛躍を遂げる兄の様子と交互に見せる編集は、その執拗さが実に好い。精神の破綻を迎えながらもどこか独特な抑制感が漂うドラマは、編集の妙が産んでいるのかも。編集を担当しているダグラス・クライズ(Douglas Crise)は、ソダーバーグ組にも参加経験があり、『21グラム』『バベル』やディエゴ・ルナ監督最新作にも参加。最近では、『スプリング・ブレーカーズ』の編集も担当している。
2013年8月11日日曜日
ワールド・ウォーZ
人類存亡の危機に直面し、男が家族を守るため命をかけて戦う感動ヒューマンドラマ。として宣伝していることを疑問視・問題視する声も聞こえてくる本作。私も観るまではせこい宣伝と思っていたが、実際に観てみると、ゾンビ映画色は控えめで、配給会社はある程度「正しい」判断だったのかもしれない気さえしてきてしまった。それに、今夏の拡大公開系作品って洋邦共に俗に言う「ヒューマンドラマ」系が皆無に等しい状態で、そうした作品を求める層に対する訴求力も期待した一方、そういった作品が供給されないアンバランスな状況を補完する結果をもたらせることも想定したのかと。でも、結局は作品自体の訴求力こそ大きな鍵を握るのが観客動員。『テッド』で内容とは無関係に集客を成功(私見)させた東宝東和とはいえ、さすがに今回もそう上手くはいかないだろう。多少の夏休み特需には与るだろうが。
事前に事実確認や背景知識の補充が求められる作品は別として、私は観賞前には積極的に情報収集したりしない。むしろシャットアウト傾向にある為(予告はまともに[真剣に]見ない/流し見な感じ)、実は本作の宣伝戦略に関しても指摘が飛び交うのを見かけるまでは全然気づかなかったほど。とはいえ、興行成績と共に大まかな評判なんかは聞こえてくるので、『ローン・レンジャー』が売上・批評共に最悪だとか、本作は売上・批評共に大成功だとかという認識で夏を迎えたわけだけど、やっぱり自分の眼で見るまでは何事もわからんね。百聞は一見に如かず。
『ローン・レンジャー』にシビれまくりアガりまくりモエまくりな2時間半は、潔いほどのジャンル偏愛と様式美に充ちるが故の賜だったのだろう。しかし、だからこそ、そうしたマニア指向はどうしても大衆の賛同は得にくいのが実態。正反対なのが本作で、ジャンルへの偏愛や様式美に唸る準備で胸膨らませるマニアの前を、「ちょっと失礼」と澄まし顔で素通りするスマートさ。その姿勢はあまりにクレバーで、「いえいえ、どうぞどうぞ」と無意識に快諾しながら快く見遣っていれば、「あれ?もしかして終わる?終わった!?」という。見事は見事かもしれないが(2時間弱を何らの負担もなく一息に過ごさせてくれるからね)、その絶妙な匙加減(褒める気にはならないくせに、怒る気にもなれない脱力感)は一体何なんだろう。
「マーク・フォスターが創りたいもの」が私にはよくわからない。監督作を全部観ているわけではないが、適当な(「適度」じゃないのがむしろ厄介)技術と適度な(「適当」じゃないのが残念)想像力。語りたいものがあるようでない、ないようである。ないならないで好いんだけれど、あるふりするのは止めてくんない?みたいな。とはいえ、ラストを巡って主演(のみならずプロデューサー)のブラッド・ピットと正面衝突したらしいから(不仲説が前面に出てくるくらい)、やっぱり信条はあるんだろうね。でも、あるならあるでそれが伝わって来て欲しいし、そこがいつまで経ってもブラックボックスで居心地が悪すぎる。しかも、観ている間は別に気にならないというところも非常に質が悪い。だまされた気が(勝手に)してしまう。いやいや、別にだまされるならだまされるで好い。むしろ、だまされてるとわかっていて益々信じちゃうワンダーを僕らは映画に求めてる。でも、そういうのが、ない。あぁ、その点、本当に『ローン・レンジャー』という大嘘つきの超絶リアリティは心地好すぎて罪深い。(『ローン・レンジャー』『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』を三日連続で観たもので)
作品のトーンというか方向性が急変するラストシークエンスは、撮り終えたものに変更が求められ、まるで異なった展開(場所も話も)で別に撮ってくっつけたらしいのだけど、確かにそれ故のまとまりのなさは吃驚したものの、力業すぎて映画で語られているメッセージ風の内容とやってることの乖離(というかむしろ相反)が余りにヤケクソに満ちていて実はちょっと可笑しみを覚えもした。ところが、本当の驚愕はエンドロールに待っていた。
本作のテレビCMで流れるMuseの「Follow Me」。彼らの曲は最近映画の予告編でよく使われるけど(『ナイト&デイ』や『ツーリスト』)、本編やエンドロールで実際に流れることがないのもこれまた多い(『ツーリスト』ではMuseが流れるが別の曲)。よって、今回もどうせ単なるCM用のタイアップなんだと思っていた。すると本編でMuseの別の曲が使われていたので、「もしや?」と思い始めたり。でも、そもそもMUSEは本作のワールド・プレミアでパフォーマンスしていたり(花道が「Z」!)、今回の参加は普通に話題になっていたみたいで(日本の公式サイトにも監督と同列で紹介されてるという好待遇)、単なる私の情報不足だったみたいだけど。とはいえ、父親が家族のもとを離れて奔走し始めた時点で「フォロー・ミー」じゃないよな・・・と諦めていたら、なんとエンドロールで「Follow Me」が流れ始めるではないですか!しかし!なんと!!カラオケ!!!
ところが、Muse関連(厳密にはMuse絡みではないが)ではもっと恐ろしい出来事がっ!なんと、映画本編上映前(予告の一番最後)に、鉄拳とスガシカオのコラボによるエスカップのCMがフルで流れたのだ(ユナイテッド・シネマ豊洲にて)。検索したらユナイテッド・シネマWebサイトに案内告知がありました・・・。これもやっぱりMuseつながりなのだろうか。(参考:「振り子」/「Follow Me(鉄拳Version)」)
あのパラパラ漫画を巨大スクリーンで見るという「異様」さは、最初こそほんのちょっと面白味を感じたが、如何せん長い。5分弱。『風立ちぬ』の予告も最後の頃は正直ちょっと鬱陶しかったけど、でもあれは映画の予告だし、自分次第では本編前のウォームアップ的高揚促進剤になり得たけれど、何で栄養ドリンクのコマーシャルを5分近くも、それも本編直前に見させられねばならんのか・・・ちなみに、動画にアップされている内容まんまだからね。映画館用に編集されることもなく、終盤のエンドロール仕様の気持ち悪い手書き文まで見せられるし、勿論ロゴやらキャンペーンやらの絵もじっくり、ねっとりと。内容も実に凡庸で、深夜にパソコンの液晶でまったり見る分には好いのかもしれないが、映画館でかけるものではない。ま、鉄拳だって企業側のあれやこれやの要望きかなきゃいけなくて、当たり障りのないつまらないものにしか仕上がらなかったのだろう。本格的な誰得!?コラボ。ま、UC豊洲&としまえんは小遣い稼げてるのかもしれないが。(個人的には、その両劇場には素敵な観賞環境をご提供頂いておりますので感謝はしておりますが・・・)
というわけで、本作同様、個人的な観賞体験もやや場外乱闘気味ですが、以下本編に関する雑感を(ネタバレ含む)。
◆冒頭から前半の過剰なスピーディ展開はなかなか見所濃縮で、この夏『風立ちぬ』に唯一対抗できるモブ!やはり大スクリーンに映える画や動きを大スクリーンで観る快感こそ映画的醍醐味だし、自宅でまったり観てると冷めてしまいそうなご都合主義だって、映画館のスクリーンを眺める群集をグイグイ引っ張っていくようなアドレナリンを存分に大放出。そんな高揚感に安心感(そこが、マーク・フォスターの良くも悪くもなところかも。「大丈夫?」って不安と「やってくれるに違いない」って期待がせめぎ合いながら蛇行する感じが個人的には好み。)
◆警官があっさり職務放棄してたり、市民は守らなくても美術品は守ったりする「人間的」な権力の在り方をさらりと見せたりするところも好き。あと、評価分かれそうだけど、大統領が既にあっけなく死んでいるという事実をいいことに、政治がほとんど無力というか機能不全状態になっているのも話をシンプルにして好かったのかも。但し、その反動としてのアナーキーな無秩序が慄然として描き出されないところには物足りなさも感じたり。そう、総じて助走(合理性)と飛躍(破綻)の往来によって生じる興奮成分が足りなかったな。(観てる間は自然と見入っていたけれど)
◆子供の扱いの投げやり感。娘が喘息だって設定も、序盤のドラッグストアで終了。たまたま匿ってくれた家族の長男がブラピ一家と共に脱出する(ブラピは映画のなかでも養子を引き取る!)感動エピソードも、以後活かされず。(あの少年の活躍を密かに期待してしまったよ・・・なかなか好い眼してたしさ。)というか、映画のなかでは主人公がアメリカを発ってからの家族は物語的に大して機能するわけでもないのだから、むしろラストまで隠しておいた方が存在感が増しただろうに。ちょくちょく挿入されると気が散るし、実際禍因を招いたりもするわけだし。画面に出したとしても、連絡とれないままの方がスリリング。
◆自分たちを匿ってくれた家族にブラピが「Movement is Life」みたいなことを語ってて、「これは映画のテーマに違いない!」と勝手に脳裏に刻んだものの、それはただの期待に過ぎなかったという話。あれだけ頭から動きまくってたんだから、もっと最後まで動きまくって欲しかった。
◆北朝鮮は全国民の歯を抜くことで感染を鎮めた・・・なんて話が確か出てきたと思う。そうか、「噛みつく」っていうのは「革命」的な行為なんだよね。つまり、ゾンビにもそうしたメタファーがあるってことか。例えば、「不死」を憧憬する「反死」(「死」の存在を遠ざける)な人類に対して、「非死(Undead)」による逆襲が展開されるという。虐げられた「死」からの復讐であり、闇雲に貪欲に希求する「生」の反乱でもある。
◆陪審員制度の正当性(「俺は10番目の男だ」)やらシートベルトによる安全性(飛行機墜落前にシートベルト締めるブラピ)、「No Pepsi No Life」というこれ見よがし。とにかく、いろんな宣伝が入りすぎ、しかも見得切り的過ぎる。流れや意識の断絶が起こってしまう、
◆イスラエルで壁の中になるべく人間を入れようとする策の理屈「人間を一人救えば、ゾンビが一体減る」って発想は好いなって思ってたのに、それも大して活かされず。ま、でも、そんな理想にちょっぴりジーンとさせておいて、お祭り騒ぎで浮かれていたら、その音がゾンビたちを呼んだり奮い立たせちゃったりするって「自業自得」感(しかも、悲壮感をむやみに漂わせないところは面白い)は好い。
◆「人類の危機」映画においては、長らく人類(文明)の勝利がお決まりの結末(あるべき結論)とされて来ていたが、最近では『地球が静止する日』や『2012』のように原因が解明できなかったり手の施しようがなかったりして「とにかく逃げる(遠ざかる)」という結論が新たな趨勢となってきていたように思う。それは、大戦から冷戦へと「戦争」こそが平和だった時代から、別の手段を模索する国際社会の情勢と連動するものなのであろうけど。本作が興味深かったのは、「自業自得」感を根底に置きながら(前日公開の『パシフィック・リム』も同じだし、最近は「自戒」モードを前提にすることが多い)、ついに「負けるが勝ち」という方向性に向かい始めたというところ。「生物は、弱さを強さと偽ろうとする。そして、実は弱さこそが強さにもなり得るものなのだ。」これも、もっと活かせる主張だったのに、と私は思う。
◆「自業自得」感といえば、今まで散々命を救い平和を生み出してきたはずの銃が、本作では身を破滅させるものになるというのは興味深い。銃を撃つと、その音で獲物を見つけ出すゾンビ。死という圧倒的絶対的静寂を厭う文明人は、とにかく音のなかに身を置き誤魔化そうとする。そして、静寂によって初めて騒ぎ出す「内なる声」が聞こえ出すことを防ぐ。他方、外からの刺激(音)がないなかでは目的(対象)を失うゾンビたち。彼らには静寂の中で聞こえるはずの「内なる声」がない。つまり、人間の生死(人間であるか否か)を決めるのは、身体が動くか否か、あるいは感覚器官が機能するか否かの問題なのではないということか。人間とは何か。それは数多のゾンビ映画で提示されているテーマでもあると思うが、本作においてもそうした考察は可能。本作を包む静寂の意味は、そういったところにあるのかもしれない。
◆同様の観点からは、病を遠ざけることこそが至上命令であり続けてきた近代文明への批判、革命としての「病の注入」こそ、排除から共存へのシナリオの一部だったりする。そんな主張がこめられているのかも。
あれこれ考えているうちに、色々と面白く振り返られてしまったみたい(笑)
そういえば、本作の音楽はマルコ・ベルトラミが担当しているのだが、実は本作で最も印象に残るのは前述のMuseとThis Will Destroy You。This~の楽曲は、『マネーボール』でも随分と印象的にフィーチャーされてたし、ブラッド・ピットのお気に入りだったりするのかな。ま、俺も好きなので今後もうまく使ってください。(このあたりのチョイスは、 『28日後...』の選曲に通ずるというか重なるものを感じたな。あ、でも、どうやら『ウォーキング・デッド』でもThis~はフィーチャーされてるらしいので、そこ由来という線もあるのかな)
World War Z × Muse
事前に事実確認や背景知識の補充が求められる作品は別として、私は観賞前には積極的に情報収集したりしない。むしろシャットアウト傾向にある為(予告はまともに[真剣に]見ない/流し見な感じ)、実は本作の宣伝戦略に関しても指摘が飛び交うのを見かけるまでは全然気づかなかったほど。とはいえ、興行成績と共に大まかな評判なんかは聞こえてくるので、『ローン・レンジャー』が売上・批評共に最悪だとか、本作は売上・批評共に大成功だとかという認識で夏を迎えたわけだけど、やっぱり自分の眼で見るまでは何事もわからんね。百聞は一見に如かず。
『ローン・レンジャー』にシビれまくりアガりまくりモエまくりな2時間半は、潔いほどのジャンル偏愛と様式美に充ちるが故の賜だったのだろう。しかし、だからこそ、そうしたマニア指向はどうしても大衆の賛同は得にくいのが実態。正反対なのが本作で、ジャンルへの偏愛や様式美に唸る準備で胸膨らませるマニアの前を、「ちょっと失礼」と澄まし顔で素通りするスマートさ。その姿勢はあまりにクレバーで、「いえいえ、どうぞどうぞ」と無意識に快諾しながら快く見遣っていれば、「あれ?もしかして終わる?終わった!?」という。見事は見事かもしれないが(2時間弱を何らの負担もなく一息に過ごさせてくれるからね)、その絶妙な匙加減(褒める気にはならないくせに、怒る気にもなれない脱力感)は一体何なんだろう。
「マーク・フォスターが創りたいもの」が私にはよくわからない。監督作を全部観ているわけではないが、適当な(「適度」じゃないのがむしろ厄介)技術と適度な(「適当」じゃないのが残念)想像力。語りたいものがあるようでない、ないようである。ないならないで好いんだけれど、あるふりするのは止めてくんない?みたいな。とはいえ、ラストを巡って主演(のみならずプロデューサー)のブラッド・ピットと正面衝突したらしいから(不仲説が前面に出てくるくらい)、やっぱり信条はあるんだろうね。でも、あるならあるでそれが伝わって来て欲しいし、そこがいつまで経ってもブラックボックスで居心地が悪すぎる。しかも、観ている間は別に気にならないというところも非常に質が悪い。だまされた気が(勝手に)してしまう。いやいや、別にだまされるならだまされるで好い。むしろ、だまされてるとわかっていて益々信じちゃうワンダーを僕らは映画に求めてる。でも、そういうのが、ない。あぁ、その点、本当に『ローン・レンジャー』という大嘘つきの超絶リアリティは心地好すぎて罪深い。(『ローン・レンジャー』『パシフィック・リム』『ワールド・ウォーZ』を三日連続で観たもので)
作品のトーンというか方向性が急変するラストシークエンスは、撮り終えたものに変更が求められ、まるで異なった展開(場所も話も)で別に撮ってくっつけたらしいのだけど、確かにそれ故のまとまりのなさは吃驚したものの、力業すぎて映画で語られているメッセージ風の内容とやってることの乖離(というかむしろ相反)が余りにヤケクソに満ちていて実はちょっと可笑しみを覚えもした。ところが、本当の驚愕はエンドロールに待っていた。
本作のテレビCMで流れるMuseの「Follow Me」。彼らの曲は最近映画の予告編でよく使われるけど(『ナイト&デイ』や『ツーリスト』)、本編やエンドロールで実際に流れることがないのもこれまた多い(『ツーリスト』ではMuseが流れるが別の曲)。よって、今回もどうせ単なるCM用のタイアップなんだと思っていた。すると本編でMuseの別の曲が使われていたので、「もしや?」と思い始めたり。でも、そもそもMUSEは本作のワールド・プレミアでパフォーマンスしていたり(花道が「Z」!)、今回の参加は普通に話題になっていたみたいで(日本の公式サイトにも監督と同列で紹介されてるという好待遇)、単なる私の情報不足だったみたいだけど。とはいえ、父親が家族のもとを離れて奔走し始めた時点で「フォロー・ミー」じゃないよな・・・と諦めていたら、なんとエンドロールで「Follow Me」が流れ始めるではないですか!しかし!なんと!!カラオケ!!!
ところが、Muse関連(厳密にはMuse絡みではないが)ではもっと恐ろしい出来事がっ!なんと、映画本編上映前(予告の一番最後)に、鉄拳とスガシカオのコラボによるエスカップのCMがフルで流れたのだ(ユナイテッド・シネマ豊洲にて)。検索したらユナイテッド・シネマWebサイトに案内告知がありました・・・。これもやっぱりMuseつながりなのだろうか。(参考:「振り子」/「Follow Me(鉄拳Version)」)
あのパラパラ漫画を巨大スクリーンで見るという「異様」さは、最初こそほんのちょっと面白味を感じたが、如何せん長い。5分弱。『風立ちぬ』の予告も最後の頃は正直ちょっと鬱陶しかったけど、でもあれは映画の予告だし、自分次第では本編前のウォームアップ的高揚促進剤になり得たけれど、何で栄養ドリンクのコマーシャルを5分近くも、それも本編直前に見させられねばならんのか・・・ちなみに、動画にアップされている内容まんまだからね。映画館用に編集されることもなく、終盤のエンドロール仕様の気持ち悪い手書き文まで見せられるし、勿論ロゴやらキャンペーンやらの絵もじっくり、ねっとりと。内容も実に凡庸で、深夜にパソコンの液晶でまったり見る分には好いのかもしれないが、映画館でかけるものではない。ま、鉄拳だって企業側のあれやこれやの要望きかなきゃいけなくて、当たり障りのないつまらないものにしか仕上がらなかったのだろう。本格的な誰得!?コラボ。ま、UC豊洲&としまえんは小遣い稼げてるのかもしれないが。(個人的には、その両劇場には素敵な観賞環境をご提供頂いておりますので感謝はしておりますが・・・)
というわけで、本作同様、個人的な観賞体験もやや場外乱闘気味ですが、以下本編に関する雑感を(ネタバレ含む)。
◆冒頭から前半の過剰なスピーディ展開はなかなか見所濃縮で、この夏『風立ちぬ』に唯一対抗できるモブ!やはり大スクリーンに映える画や動きを大スクリーンで観る快感こそ映画的醍醐味だし、自宅でまったり観てると冷めてしまいそうなご都合主義だって、映画館のスクリーンを眺める群集をグイグイ引っ張っていくようなアドレナリンを存分に大放出。そんな高揚感に安心感(そこが、マーク・フォスターの良くも悪くもなところかも。「大丈夫?」って不安と「やってくれるに違いない」って期待がせめぎ合いながら蛇行する感じが個人的には好み。)
◆警官があっさり職務放棄してたり、市民は守らなくても美術品は守ったりする「人間的」な権力の在り方をさらりと見せたりするところも好き。あと、評価分かれそうだけど、大統領が既にあっけなく死んでいるという事実をいいことに、政治がほとんど無力というか機能不全状態になっているのも話をシンプルにして好かったのかも。但し、その反動としてのアナーキーな無秩序が慄然として描き出されないところには物足りなさも感じたり。そう、総じて助走(合理性)と飛躍(破綻)の往来によって生じる興奮成分が足りなかったな。(観てる間は自然と見入っていたけれど)
◆子供の扱いの投げやり感。娘が喘息だって設定も、序盤のドラッグストアで終了。たまたま匿ってくれた家族の長男がブラピ一家と共に脱出する(ブラピは映画のなかでも養子を引き取る!)感動エピソードも、以後活かされず。(あの少年の活躍を密かに期待してしまったよ・・・なかなか好い眼してたしさ。)というか、映画のなかでは主人公がアメリカを発ってからの家族は物語的に大して機能するわけでもないのだから、むしろラストまで隠しておいた方が存在感が増しただろうに。ちょくちょく挿入されると気が散るし、実際禍因を招いたりもするわけだし。画面に出したとしても、連絡とれないままの方がスリリング。
◆自分たちを匿ってくれた家族にブラピが「Movement is Life」みたいなことを語ってて、「これは映画のテーマに違いない!」と勝手に脳裏に刻んだものの、それはただの期待に過ぎなかったという話。あれだけ頭から動きまくってたんだから、もっと最後まで動きまくって欲しかった。
◆北朝鮮は全国民の歯を抜くことで感染を鎮めた・・・なんて話が確か出てきたと思う。そうか、「噛みつく」っていうのは「革命」的な行為なんだよね。つまり、ゾンビにもそうしたメタファーがあるってことか。例えば、「不死」を憧憬する「反死」(「死」の存在を遠ざける)な人類に対して、「非死(Undead)」による逆襲が展開されるという。虐げられた「死」からの復讐であり、闇雲に貪欲に希求する「生」の反乱でもある。
◆陪審員制度の正当性(「俺は10番目の男だ」)やらシートベルトによる安全性(飛行機墜落前にシートベルト締めるブラピ)、「No Pepsi No Life」というこれ見よがし。とにかく、いろんな宣伝が入りすぎ、しかも見得切り的過ぎる。流れや意識の断絶が起こってしまう、
◆イスラエルで壁の中になるべく人間を入れようとする策の理屈「人間を一人救えば、ゾンビが一体減る」って発想は好いなって思ってたのに、それも大して活かされず。ま、でも、そんな理想にちょっぴりジーンとさせておいて、お祭り騒ぎで浮かれていたら、その音がゾンビたちを呼んだり奮い立たせちゃったりするって「自業自得」感(しかも、悲壮感をむやみに漂わせないところは面白い)は好い。
◆「人類の危機」映画においては、長らく人類(文明)の勝利がお決まりの結末(あるべき結論)とされて来ていたが、最近では『地球が静止する日』や『2012』のように原因が解明できなかったり手の施しようがなかったりして「とにかく逃げる(遠ざかる)」という結論が新たな趨勢となってきていたように思う。それは、大戦から冷戦へと「戦争」こそが平和だった時代から、別の手段を模索する国際社会の情勢と連動するものなのであろうけど。本作が興味深かったのは、「自業自得」感を根底に置きながら(前日公開の『パシフィック・リム』も同じだし、最近は「自戒」モードを前提にすることが多い)、ついに「負けるが勝ち」という方向性に向かい始めたというところ。「生物は、弱さを強さと偽ろうとする。そして、実は弱さこそが強さにもなり得るものなのだ。」これも、もっと活かせる主張だったのに、と私は思う。
◆「自業自得」感といえば、今まで散々命を救い平和を生み出してきたはずの銃が、本作では身を破滅させるものになるというのは興味深い。銃を撃つと、その音で獲物を見つけ出すゾンビ。死という圧倒的絶対的静寂を厭う文明人は、とにかく音のなかに身を置き誤魔化そうとする。そして、静寂によって初めて騒ぎ出す「内なる声」が聞こえ出すことを防ぐ。他方、外からの刺激(音)がないなかでは目的(対象)を失うゾンビたち。彼らには静寂の中で聞こえるはずの「内なる声」がない。つまり、人間の生死(人間であるか否か)を決めるのは、身体が動くか否か、あるいは感覚器官が機能するか否かの問題なのではないということか。人間とは何か。それは数多のゾンビ映画で提示されているテーマでもあると思うが、本作においてもそうした考察は可能。本作を包む静寂の意味は、そういったところにあるのかもしれない。
◆同様の観点からは、病を遠ざけることこそが至上命令であり続けてきた近代文明への批判、革命としての「病の注入」こそ、排除から共存へのシナリオの一部だったりする。そんな主張がこめられているのかも。
あれこれ考えているうちに、色々と面白く振り返られてしまったみたい(笑)
そういえば、本作の音楽はマルコ・ベルトラミが担当しているのだが、実は本作で最も印象に残るのは前述のMuseとThis Will Destroy You。This~の楽曲は、『マネーボール』でも随分と印象的にフィーチャーされてたし、ブラッド・ピットのお気に入りだったりするのかな。ま、俺も好きなので今後もうまく使ってください。(このあたりのチョイスは、 『28日後...』の選曲に通ずるというか重なるものを感じたな。あ、でも、どうやら『ウォーキング・デッド』でもThis~はフィーチャーされてるらしいので、そこ由来という線もあるのかな)
World War Z × Muse
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