年々、面白味に欠けるリストになってしまう映画の年間ベスト。
(今年、劇場で観た新作が対象。順番は、観た順序。)
日頃の暮らしにはあまり感じることのない(ただ自覚がないだけかも)落ち着き、というか老いというか、成長はもう難しいとて成熟であってほしい、だけどやっぱりいざなってみると「こんなもんか」でしかない、年をとる。
年々、結構すらすら素直にリストアップできるようになっていて、その結果並んだ映画のタイトルを眺めて「面白味に欠ける」と自ら評するということは、いろいろと披瀝しちゃってる気がしなくもない。
これまでは作為的に「面白味」を演出(捏造)してきたのか?
ただ単に趣味が随分と凡庸へと着地しつつあるだけのか?
いまだに自らの趣味に非凡なる感度を求めてしまっているのか?
きっと、そのどれもが当てはまる。ただ、それだけ。
リストの中身をいじりたくないという今の気持ちを尊重しつつ、往生際の悪い凡庸回避メンタルの足掻きも可愛がってやるとして、今年は見せ方(括り方)で茶を濁す。
「僕の好きな映画監督の新作」部門
*パリ、恋人たちの影(フィリップ・ガレル)
*ブラインド・マッサージ(ロウ・イエ)
*ラビング 愛という名前のふたり(ジェフ・ニコルズ)
*わたしは、ダニエル・ブレイク(ケン・ローチ)
*未来よ こんにちは(ミア・ハンセン=ラブ)
*パーショナル・ショッパー(オリヴィエ・アサイヤス)
*パターソン(ジム・ジャームッシュ)
*グレイン(セミフ・カプランオール)
*希望のかなた(アキ・カウリスマキ)
フィリップ・ガレルはいっつも同じような映画しか撮らない気がするけど、その「同じような」のが同じように好きなので、やっぱりいつ観ても懐かしくて、その懐かしさが好きな者にはたまらない。そうした郷土愛的偏愛は、カウリスマキとかジャームッシュも同様で、この二人は本当に毎回(特に最近)絶対的な普遍のなかに更新を忘れないから感服しかない。別の意味で、とことん誠実に強いケン・ローチは見るたびに鞭撻される。
ミア&オリヴィエも本当、どこまで進化し深化してゆくのだろう。前衛過ぎず、ズレ過ぎない、独立独歩感が唯一無二なのに、親密さを増す作品たち。
ロウ・イエはアップリンクがしっかり見守ってくれているんだけど、ジェフ・ニコルズの『ミッドナイト・スペシャル』が劇場公開ないって、どういうことだよ・・・。それで言うと、劇場未公開&ソフトスルーの女王、ケリー・ライヒャルトの映画って、いつになったら映画館にかかるのか・・・。「Certain Woman(DVDタイトル『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』)」まで劇場未公開って一体・・・。ひと頃に比べれば随分と活況を呈しているように見える外国映画の配給状況だけど、結局本数が増えてるだけな気もする。ビジネスモデルが変わっただけで、それに伴って観客の消費行動も変化し、それを追随した結果本数が増えました、というだけのような気がしてしまう。TIFFで見逃したデプレシャンとボーヴォワは、さすがに劇場での公開あるよね?(特に後者は微妙な気がしてきたので、祈っておく。)
やばい、年の瀬のおだやかな時間(イメージ的にはエンヤ)に愚痴ってしまった。
でも、今年も色々つまらない感をいだきつつもそれなりに参加した東京国際映画祭だったけど、セミフ・カプランオールの新作を観られて、監督の話まで聴けて、グランプリ受賞したから2回目まで(しかもTCXで)観られたので、まだまだ日本における外国映画鑑賞環境も捨てたもんではありません。おそらく。
「みんなも大好き映画」部門
*沈黙-サイレンス-(マーティン・スコセッシ)
*たかが世界の終わり(グザヴィエ・ドラン)
*ラ・ラ・ランド(デミアン・チャゼル)
*T2(ダニー・ボイル)
*マンチェスター・バイ・ザ・シー(ケネス・ロナーガン)
*メッセージ(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
*ダンケルク(クリストファー・ノーラン)
*ブレードランナー2049(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
*スターウォーズ/最後のジェダイ(ライアン・ジョンソン)
なんか、これはこれでなかなか素敵なリストな気がしてきた。
「わたしも結構、映画観たりするんですよ」
「へぇ、たとえば今年はどんな映画がよかった?」
「そうですねぇ・・・」
なんて会話の続きで出てくると、いい感じなリスト。
でもきっと、「あれ?『ムーンライト』は観なかったの?」って流れになる。
『ムーンライト』も好きな映画だったけど、なぜかそんなに残ってないんだよね。
で、意外にも『ラ・ラ・ランド』と『たかが世界の終わり』が妙に残ってる。
両方とも2回観に行ってしまったのだけれど、前者は2回目の方が沁みたけど、後者は1回目の陶酔感が凄すぎたからか2回目はあっさり。
グザヴィエ・ドランは『トム・アット・ザ・ファーム』以外は正直ハマる感じではなかったんだけど、今回は何故かやられてしまいました。ドゥニ・ヴィルヌーヴは実のところ、カナダ時代(って言っていいのか?)の『渦』が一番好きなんだけど、一応あの頃のちょっと癖のある感じはかろうじて保ってて、優等生気味な歪さが垢抜けつつありつつも、まだギリギリ好き。音楽がヨハン・ヨハンソンじゃなくなっちゃったので心配したけど、あれはあれで好かった。
『沈黙』はもう、10年以上前から原作を色んな人に薦めては、「これ、スコセッシが映画化する」と言い放ち続けて来た自分としては、嘘つきにならないで済んだことに、まず安堵。人生で最も長く待つ(本気で)経験をした作品かもしれない。
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の素晴らしさは、『マーガレット』の不遇さを生んだものによる贖罪な気もする。だとしたら、悲しいけれど愛おしい償い。
「最後のジェダイ」は断然支持します。別に否定派とか絶対認めないっていう人に抗議するとかの気持ちには全然ならないけど(論争込みで楽しむような存在になってるからね)、何となく「ミッション・インポッシブル」シリーズの流れと自分のなかでは色々重なった。個人プレーからチームプレーへ。明瞭なる敵の偏在から茫漠たる悪の遍在へ。で、両者ともその流れこそが自分にとっては興味深く、面白い。
「本数観てないけど、日本映画」部門
*息の跡(小森はるか)
*夜明け告げるルーのうた(湯浅政明)
*夜空はいつでも最高密度の青色だ(石井裕也)
*散歩する侵略者(黒沢清)
異様にヒットしてた『人生フルーツ』上映館のポレポレ東中野で観た『息の跡』。あそこは、お金の儲け方と使い方が極めて正しい劇場の一つな気がします。
『夜は短し歩けよ乙女』はまだ観られていないのですが、アジカンは特別好きな訳ではないものの、アジカンが主題歌の映画は好きなので、おそらくかなり好きなはず。
日本映画でも生活のための仕事と、人生のための為事を行き来しながら活動できる「作家」が若手にも増えて来て、若手の方がちゃんと自らの牙城を守りつつ、雇われだってそれなりに楽しんだり挑戦したりして、さすが勢いのなくなって久しい社会を生きてきた人間は違うよね、などと思う。しかも、そういうバイオリズムが役者と見事に融和したりして作品がつくられるから、どんなケミストリーが起こるかワクワク感が充満してる。
黒沢清は今年、SKIPシティDシネマ国際映画祭の審査委員長だったから、連日(といっても、今年は3日間くらいしか行けなかったけど)一緒に映画を観た(笑) アットホーム過ぎる映画祭なので、審査員に座席が特に用意されることなく(以前は用意されてたけど)、移動も皆と一緒にバスで。だから、往きも復りも黒沢清と一緒にバスを待つ・・・。そして、ボランティアのおじちゃんおばちゃんは当然、黒沢清のことなんて知らない・・・。実に快適な鑑賞環境。
「その他」部門
*ありがとう、トニ・エルドマン(マーレン・アデ)
*ライフ・アンド・ナッシング・モア(アントニオ・メンデス・エスパルサ)
*ノクターナル・アニマルズ(トム・フォード)
*ジョニーは行方不明(ホァン・シー)
マーレン・アデが好きな映画作家になるかどうかはわからないけど、この映画は確かに独特な力を持っていて、好きという訳ではないけど絶対無視できないものがあった。そういう映画の方が、評価したくなる感覚はよくわかる。
前作『ヒア・アンド・ゼア』もTIFFで観たアントニオ・メンデス・エスパルサ監督の新作は、前作からの着実な歩みに前進を感じさせるというよりも、新たな旅に出て来た報告。『ヒア・アンド・ゼア』を観た時の記事を読むと、今作にも見事にあてはまることばかりで(同じ人の映画を同じ人が観た感想なんだから、当然かもしれないが)、この監督の誠実は相当なものな気が尚更してくる。かなりの地味さゆえに隠れがちだけど、この監督はものすごく新しいことをしている(というか、果敢に挑むことを真剣にやっている)気がする。ただ、巧い「定義」がみつからない挑み方してるから、そういう扱いは受けないし、だからこそ観る側も素直に自分の心に沈潜させられる。
トム・フォードの服は着られずとも、映画なら観られる。が、映画の方の上質感は服のそれ以上かも。しかも、魅惑のラビリンス度は底抜けに天井知らず。
『牯嶺街少年殺人事件』が劇場公開された今年の終わりに、フィルメックスで観たクー・ユールンが出ている映画。彼はいくつになっても瑞々しさが消えない。ヒロイン役のリマ・ジダンも実に魅力的で、役者もスタッフも若干の不慣れさというか、各要素がややはまり切れてない不安定さというか、その落ち着かなさに気づくと何となく落ち着く感じ。
年々少しずつ映画祭への通い方が減りつつあるものの、劇場公開作よりは積極的に観るようにしてたけど、今年はそこまでガツンと来る映画が少なかったような気がする。観賞作品の選び方のせいかもしれないし、心も身体も疲弊したなかで観てたからかもしれないけれど、映画祭という場の苦手感は相変わらずだし、何となく自分のバイオリズムで「観に行く」という動きが実現できない窮屈さはどうしてもある。(だから、チケット買ってても観に行かなかったり、観ないで帰ったりが増えてしまう。)
正直、最近では、「映画館で映画を観ることにこだわる人間」に自分はとことん向いてない気もしてきたりして。というより、最近ではとにかくお金より何より、「時間」を気にしてしまう。あと、健康も(笑)
やっぱり実人生を充実させるのに必要なのは、その二つな気がして、そう考えると映画館に映画を観に行く(ましてや、映画祭なんかに足を運ぶ)というのは、相当なロスに思えてしまうという、映画ファン失格メンタルに頻繁に襲われ、負けつつあった2017年でした。
上記の作品以外でも、好きな映画はいっぱいありました。
『マリアンヌ』も世間的には何故か不発だったけど、『フライト』『ザ・ウォーク』と来て『マリアンヌ』という傑作群を撮り続けている絶好調名匠の過小認知(日本のみならず本国でも)は、謎。
『はじまりへの旅』のアレックス・サマーズ、『ジャッキー』のミカ・レヴィ、『グッド・タイム』のダニエル・ロパンティン。音楽によって作品の好きさが5割増しの大貢献。『20センチュリー・ウーマン』の選曲も安定の気に入り具合。それらの作品はサントラをよく聴いたから、映画本体以上に音楽の存在感がでかい。
アジア映画には本当に全然手が回らなくて、韓国映画とかも全然観られていないけど、『新感染 ファイナル・エクスプレス』(災厄な邦題)には唸りました。ヨン・サンホ監督のアニメ作品を見せてくれたGEORAMA2016は、本当に素晴らしいイベントだったなぁ。年明け早々にあるニューディアー主催のシアターイメージフォーラムでの上映も、実に楽しみ。
ニューディアーによる世界のアニメーション紹介活動も、いまの日本映画界においては極めて貴重な活動のひとつだと思うけど、今年の映画界で最大の注目すべきイベントはやはり、「ほぼ丸ごと未公開!傑作だらけの合同上映会」だったと思う・・・などと書いておきながら、実際には行けてないんだけど(無念)。ただ、その関連イベント(でいいのかな?)である特集上映:アメリカ映画が描く「真摯な痛み」vol.2に先日、ようやく初めて足を踏み入れました!
・・・そして、あらゆることに感動しました。
久しぶりにブログ更新しちゃおうかと思ったくらい。
上映された2作品(『マイ・ファースト・ミスター』、『ドント・シンク・トワイス』)は本当どちらも素晴らしく、「確かな劇場未公開作」としての両作の良作っぷりに、イベントの唯一無二性を情報としてのみならず全身で体感。「劇場未公開」なのに上映される作品というのは大抵、一部のマニアから偏愛される作家性があったり、何かと新しさをウリにして先物買い達に訴求する話題性があったりすることが多いんだけど、今回上映された二作はそうした「パッケージ」で劇場未公開という「名誉」に与った訳でもなく、かと言って語るも聞くも楽しい「不幸」に見舞われた訳でもなく、芯が良いから見落とされちゃったというか見向きもされなかった感のある、愛しき正しい落ちこぼれ。他人に道を譲り続けてたら、結局自分が通れなくなっちゃった、みたいな感じ。
そんなだから、当然「流通」している作品群では味わえない想いにさせてくれる。しかも、このイベントを岡俊彦さん個人で主催してるという事実はとてつもなく凄いんだけど、その偉業感を微塵も感じさせない上映会の空気が実に実にあたたかいし、優しい。「オーディトリウム渋谷」時代は足を運びつつも払拭できなかった苦手意識の記憶が、嘘のように氷解する日曜の昼下がり。上映前のBGMなんかにまで目配せたっぷりで、ニヤリ。本編の字幕とかも本当に見事に練りに練られているおかげで、劇場公開作同様(いや、それ以上)に何ら違和感もなく作品に没頭して鑑賞できる。ブルーレイ上映だったと思うけど、シネマスコープ作品をシネマスコープサイズのスクリーンにばっちり映写。個人なのに・・・というよりも、まさに「個人だからこそ」何一つ蔑ろにせず、何にでもこだわり抜けるという自由さを謳歌している主催者と、その恩恵を全身で浴びられる参加者。こんなにも互恵なイベントは、そう滅多にあるもんじゃない。それはきっと、ビジネスじゃないからかもしれないが、ビジネスとしての成立を前提としないで出発し、実行し、成功している(上映会に参加した人たちが満足しているということを、ここでは成功とする)という事自体、とんでもなく新しい「映画上映のかたち」が出来つつある瞬間に立ち会った気がしたのです。
映画上映のデジタル化の真価にようやく出会えた気がします。
「デジタル化は民主化」的な言説があらゆる分野で語られつつ、実際にそうした動きも其処此処で生じてはいるのだろうけれど、こと映画に関しては、本当の意味での「民主化」なんて起こっているようには感じられず、在るのはせいぜい大衆化だったり低品質化だったりして、懐疑的かつ懐古的になってしまう気分に支配されつつあった自分こそ、封建社会という安楽椅子から立ち上がれずにいただけの受動人間だったのだという猛省と共に、真に価値ある「活動」とはまさにこういうことなんだ!という理想を現実に見るという極めて稀有なる体験をしたように思います。
『マイ・ファースト・ミスター』も『ドント・シンク・トワイス』も、絶対に忘れられない作品になったのは、そうした唯一無二な体験だったからでもありますが、作品自体が語りかける内容もまた、この素晴らしい体験と見事にシンクロするものでした。
自分に真摯であればあるほど、周囲との違和に悩み傷つくことが絶えることはない。そうして傷つき続ける人間は、自分が決して他の存在になれないことを知っているから、誰かを自分と同化させようとはしないし、同化などという手形のやりとりに何ら価値を見出さない。同化したら、手もつなげないし、抱きしめることだったできない。同じじゃない、違う存在だからこそ、見つめられるし、魅せられる。
恋人だろうと友人だろうと家族だろうと他人だろうと、誰かがいることに感謝する。
すべての芸術の真髄は、そういうところにあるのかもしれない。
大切なことを映画の内でも外でも教えてもらった気がする。
映画をいちばん近くに、そして大きく感じた日だった。
2017年12月31日日曜日
2016年12月31日土曜日
2016年の映画ベスト10
評価とかじゃなく、気に入った10本。(観た順)
ザ・ウォーク(ロバート・ゼメキス)
事実が素敵だし、その物語が魅力だし、実際の人たちも愛おしく。
『マン・オン・ワイヤー』も、原作(?…本の方)も繰り返し触れたのは、
きっと憧れとしか言い得ない引きつけられ方をしているからで、
ロバート自身もこれまで「落ちる」恐怖より「浮く」興奮に魅せられてきて、
そんな夢見だけでしっかりとこの映画もつくっちゃってくれたから、好きしかない。
サウルの息子(ネメシュ・ラースロー)
ハンガリーでの氏名はまさに氏・名の順。(日本と同じ)
誰かが書いてたけど、西欧中心主義への抵抗的な歴史の産物とか。
手法の新しさが必ずしも視点の新しさを生むとは限らないけど、
それは作る方の問題であると同時に、観る方の問題でもあると思う。
人生は小説よりも奇なり(アイラ・サックス)
個人的に今年の最も辛い時期に最も救われた作品。
救いとは、上から腕をつかんで引っ張り上げてくれることではない。
そこに居たいだけ居ればいい、痛いだけ痛がればいい、
そこからだって、そこそこ好い景色が見えてるかもしれない。
見てないだけで。見ようとしないだけ。見てみるだけでいい。
さざなみ(アンドリュー・ヘイ)
人生なんて所詮、「まぼろし」に過ぎない。
その「まぼろし」をどれだけ信じ抜けるか。信じる者は救われる。
過去も神も、誰にも見えず、証明できないから、信じた分だけ正しさがある。
と、思いたいだけかもしれない。
シング・ストリート(ジョン・カーニー)
大きくなっても「シング」を忘れない。
「ストリート」だって忘れない。
僕はウキウキ、彼女がウェイク・ミー・アップ。
船出の先には、はじまりのうた。
ハドソン川の奇跡(クリント・イーストウッド)
イーストウッドを「神」とか称する風潮が、実は好き。
言語化に苦慮する専門家の敗北宣言としか思えないから。
そして、それを意図せずやろうとしているクリント爺さんの
悪戯っ子まるだしの腕白感がたまらなく「超人」的だから。
ノクトラマ(ベルトラン・ボネロ)
『サンローラン』から俄然支持しかし得なくなった彼の冗長さが骨身に沁みる。
今のボネロのリズムは、今の自分と共振してて、何をやっても引きずられる。
だから、いつ訣別しても悔いはない。けど、今は好き。
牯嶺街少年殺人事件(エドワード・ヤン)
僕が映画を好きになった頃には既に見られなくなってた幻、
「語られてる」のをいつも指くわえて見てるだけの歴史の1ページ。
ビデオテープも持ってたし、クライテリオンから出たブルーレイも入手した。
のに、そのような形でめくってはいけないような気がした1ページ。
11月3日に寝不足のなか、偶々早く目が覚めて気まぐれクリック、残席チェック。
あっさりと射し込んだ光明。呆気ない幕切れは呆気にとられる幕開け。
フレームの外で膨張し続けた時間が押しつぶすかと思われた236分。
膨張したのは236分の方だった。
リトル・メン(アイラ・サックス)
『牯嶺街少年殺人事件』の後の上映を観る予定だった。
いや、本当は『牯嶺街少年殺人事件』は観られないはずだったから、
そういうオーダーじゃなかったはずなんだけどそうなった、偶然。いや、必然?
観ないで帰ろうとも思った、当然。だけど、やっぱり観てよかった。釈然。
「少年」の多様さを圧して均して凡庸にするのはいつも、大人の方。判然。
この世界の片隅で(片渕須直)
この監督は、前作まで本当に苦手だった。
新海誠も同様で、どちらも新作観るつもりなかったのに、
世間の話題のせいで(おかげで)観ることができた。どちらも確かによかった。
好きかどうかで言ったら一瞬逡巡するけれど、
喉にひっかかった魚の骨のような気になり方が尾を引いてしまう。
とれた途端に、あの違和感が突如愛おしくなる。けど、説明できない。
不要じゃないけど、必要でもない説明。感じると語るのあわいをうめつくす。
今年観た映画のリストをざーっと見ながら、
とりあえず優先的に印をつけてみたらちょうど10本だったので、10本に。
とはいえ、かなり抜けのあるリストなので、
後から『光りの墓』とか『キャロル』とか重要作が抜けてることに気づくも、
抜けてたことに気づけなかったということは、
この度は御縁が無かったということで。
とはいえ、かなり抜けのあるリストなので、
後から『光りの墓』とか『キャロル』とか重要作が抜けてることに気づくも、
抜けてたことに気づけなかったということは、
この度は御縁が無かったということで。
そんなリストなので、記録的にも(ましてや本数的には)あやふやながら、
恐らく今年(劇場で)観た映画は200本いかないくらいかな、と。
年々減り続けて、ようやく最適ラインまでもう一歩というところかも。
二日に一本くらいが、ちょうど好い気がしますが、
現実の生活で充実を図るなら三日に一本くらいにしといた方が好いし、
一週間に一本にしたら、もうちょっと素敵な世界が拓けるかも(笑)
近年は、映画は「観たい時(期)、観たい場所でしか観ない」をモットーに、
好きではない映画館でかかっている場合は迷わず選択肢から外すし、
実生活での想いや流れとミスマッチなうちには観るべき映画も観に行かない。
逆に、理由はどうであれ観たいと思ったら迷わず行くし、その逆もまた然り。
ただ、気が進まぬ時や場所でも、帰り道に「来て好かった」と思うこと少なくなく、
多少の無理はときどき許すという無理のなさが目標。(連鎖する無理という矛盾)
語っている対象の魅力が語っている自分を照らしてくれる年頃はもう過ぎたので、
語っている自分が語っている対象を魅力的にできるような生き方をめざしたい。
途方もなく高尚な目標だけど、なれなくても近づくことはできると思う。
10本以外の映画についても振り返る。
昨年末公開だから、選外をお許し願ったものの、
ファティ・アキンの深刻はやっぱり刺さる、『消えた声が、その名を呼ぶ』。
角川シネマ有楽町は、そんなに行かないけど、行くと必ず私的名作に出会える場所。
(「そんなに行かない」のに「わざわざ行く」のだから、それは必定か。)
『奇蹟がくれた数式』も地味ながら、好かったなぁ。
ラマヌジャンの伝記も頑張って読んだから余計。
最近は、日本でも色んな形で日の目を見るようになった外国映画が増えたせいか、
小さめのイベント系映画祭(特集)上映未公開作が小粒(ニッチ)化の傾向にある。
気がしてしまうのは個人的な好みからの独断かもしれないけれど、
北欧系の作品にはまだまだ未紹介な逸品が眠っているのかもしれない。が、
今年の北欧系映画祭では、あまり出会えなかった。
本数観てないからかもしれないけれど。
ただ、その一方で、今年初参加したイベント「GEORAMA2016」が
極上のラインナップで、連日チップを何枚も弾みまくり(たい気分だった)。
ドン・ハーツフェルトの話を二回も聞けたし、牧野貴の映像と音楽も浴びられたし、
日本未公開の長編(おそるべき傑作ぞろい)を何本も観られたし。
ディエゴ・ゲラ監督の『追放(Banished)』なんか2回も観に行ってしまったし、
韓国で今年大ヒットの『釜山行き』の監督ヨン・サンホによる『フェイク』とか、
まさにアニメの新地平。(アニメであれなら、実写では楽勝だろう・・・)
GEORAMA主宰の土居伸彰さんが起ち上げた「NEW DEER」配給の『父を探して』も
抜群に素晴らしかった。語りたくなる「隙」がないくらいに名作すぎた。
アニメといえば、『レッド・タートル』も見事に素晴らしかったのに、
作品以上に興行が静かすぎたね。残念だ。
『君の名は。』と公開時期かぶってただけに、余計な哀しみが増幅された。
アカデミー賞絡みの作品群(雑な括り)は、やっぱり充実している訳で、
2~5月頃の中・大規模公開作は粒が揃う分、一作ずつが記憶の中で際立ち難い。
『ブリッジ・オブ・スパイ』(1月公開だけど)も本当に素晴らしかったな。
俺ごときがベストとかに選出する必要が全然ないくらい。
『キャロル』、『スティーブ・ジョブズ』、『ヘイトフル・エイト』、
『リリーのために』、『スポットライト』、『ブルックリン』なんかは、
いずれも年間ベスト級の好みだし、
『ボーダーライン』もヨハン・ヨハンソンの存在感がもうすこし小さければ、
もっと映画の方が記憶に残っていたに違いない。
というか、ドゥニ・ヴィルヌーヴは個人的に『渦』と『プリズナーズ』を偏愛し、
そういう個人的ベスト作がある監督は、監督作が軒並み好きでもベスト選出時不利。
今年のパオロ・ソレンティーノとかマッテオ・ガローネとかは、そのタイプ。
ソクーロフは正直消化不良。アルモドバルは未食。ウディ・アレンは拒食(ウソ)。
アトム・エゴヤンは久々に面白かった! 気を吐きまくってる感じ。
アメコミ系やSFアクション系も依然好きなはずなんだけど、
最近なぜかあまり乗り切れない。(見逃す映画も増えがち)
自分が堅くなったからなのか、最近は真面目過ぎかバカ過ぎかの両極端で、
そもそもターゲット照準型の作品群が更なる特化路線に舵切ってる感にやや辟易。
その一方で、或る意味「特化型」だけど、或る意味「開放的」な『ローグ・ワン』。
好きでした。
もともと旧作の上映とかに律儀に(?)通わない自分は、
今年も名画座とかその手の特集上映には足があまり向かなかったものの、
『チリの闘い』は壮絶でした。ベストに入れ損ねたものの、時代超越の記録だし、
単年ベストに入れるには収まり悪いから、存在の大きさ故の選外で勘弁を。
温故に没頭して知新なんて何処吹く風の選民的名画座偏愛衆も少なくないけれど、
そもそも名画座に据わりが良くなっちゃってる作品側の力不足な場合もあるのかも。
川崎市市民ミュージアムでの「ケン・ローチ初期傑作集」はさすがに全作観たけど、
古い分だけ「新しさ」が暴れまくってて、
現代映画の脆弱性に軽く(いや、かなり)凹んだくらい。
映画祭には、今年もそれなりに通いはしたけれど、
ばっちり参加できない映画祭には全く行かないという極端な選択に走る傾向も。
今年は近年では珍しく、イタリア映画祭で一本も観なかったし、
フランス映画祭も昨年に引き続き全く不参加。
SKIPシティDシネマ国際映画祭は今年も快適で、
全作それなりに見応えあったけど、頭抜けた作品には出会えなかった。
ラテンビートは相変わらず好いのをもってきてくれてるという感謝。
昨年の東京国際映画祭で見逃した(というか、いずれどこかでかかるの期待した)
フレデリック・ワイズマンの『ジャクソン・ハイツ』は「予定」通りの充実作だし、
『彼方から』や『名誉市民』という、映画祭などで既に評価済の良作はやはり好い。
久々に映画館での開催となったドイツ映画祭も好かったな。作品は小粒だったけど。
東京国際映画祭で観て気に入ったのは(観た順)、
『サファリ』、『フィクサー』、『アクエリアス』、『シエラネバダ』、
『フロム・ノー・ウェア』、『ザ・ティーチャー』。
『あなた自身とあなたのこと』は実に愉快で実に深い。
ホン・サンスは大好きなはずなんだけど、ベストとかで選ぶとなると外す気分。
コンペでグランプリになった作品は全く好いとは思えなかったし、
大好評だった『ダイ・ビューティフル』も、同監督の前作の方が個人的には好き。
ジョアン・ペドロ・ロドリゲスは興味深いし実力者だと思うけど好きじゃなく、
大好きなラヴ・ディアスは観られなかったのが悔やまれる。
金獅子獲ったのと一緒に、どこかで上映して欲しい。
(二作併せると、上映に半日かかる…。)
フィルメックスは、小さめ(?)に参加。
『マンダレーへの道』は評判通り、『よみがえりの樹』は個人的にもグランプリ。
「山」がついてる映画群では、アミール・ナデリのヘンテコ映画が一番好きだった。
『普通の家族』も望外に好く、フィリピン映画「来まくってる」確認、何度目か。
最後に、日本映画。
自分のベストには『この世界の片隅に』しか入れてないけど、
世の中的には、質的にも動員的にも「大当たり」といわれてる今年の日本映画。
個人的には正直やはり余りパッとせず。
とはいえ、本数見てないから偉そうには言えないはずだけど。
昨今の日本インディペンデント映画特有の「甘え」がありそうな映画は
端から観なくなったので、憂鬱や落胆で劇場を後にすることも少なくなったけど。
実写で一番好かったのは、『風の波紋』かも。映っているもの全てに魅了された。
空気にまでも。まさに、実写の魅力。
(いくら威勢の良いアニメでも太刀打ちできない魅力。)
恥ずかしながら(って形容がかつては似合っていたし、そこがツボだった)大好きな
岩井俊二の『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、巧さに磨きがかかってて、
批評受けするほどに私的なトーンはダウンするタイプの映画作家です。
『ちはやふる』は評判良くて、一気に観られるようになってから行きました。
好きな方のキラキラで、火花散ってもキラキラしてる青春でした。
『海よりもまだ深く』は、ハナレグミの主題歌がしばらく脳内木霊なくらい沁み、
『ダゲレオタイプの女』見逃したままの黒沢清の『クリーピー』、面白かった!
『シン・ゴジラ』も世評に納得の面白さ。庵野監督の喜八リスペクト姿勢にも好感。
日本の実写劇映画で私的ベストは『オーバーフェンス』。
役者の本領が美しく編まれてた。
(『怒り』は、演者の演技の個々が際立ち光りすぎ、解れや綻びが気になった。)
演技の華麗なる飛躍といえば、『ヒメアノ~ル』の森田剛。
演技というより、存在のアンサンブルが心地好かったのは、『何者』。
自己主張大得意系旋律な中田ヤスタカが、好い劇伴つくってた。
でもって主題歌の存在感は、『ちはやふる』の「FLASH」に続いて出色だし。
さすがは『LIAR GAME』成功の立役者、功労者。
批評の潮流に乗り遅れまいと(笑)義務感から観た『溺れるナイフ』、
いやぁ好かったです。たまには素直に他人の声に耳を傾けるべきですね。
と、書いてみると(述懐してみると)、やっぱりあまり観てないのかも。
観賞のカバー領域が「つまらない」という体感を醸造してる気も。
もっとちゃんといろいろ観ないといけないのかもしれません。
ドラマは好きでよく観るんですけど。家で気楽に観られるからね。
日本のインディペンデント映画は、小劇場の演劇観に行く時の覚悟を要する…
的な位置づけが自分のなかにはあるのかもしれない。と書いてて再認識。
それ言うなら、アテネフランセとかシネマヴェーラとか(ラピュタは更に)から
足を遠ざけさせる気持ちも、きっと同根な気がします。
或る種の「コミュニティ」への苦手意識が、我が弊害なのかもしれません。
(これも、或る種の「コミュ障」ってやつなのか?)
振り返りの冒頭で、「映画との付き合い方」みたいなこと書いたけど、
私的な観賞スタイルのみならず、今や映画を観る方法は多様化の一途というか、
発展途上・・・急成長? 配信の勢い(投下量)とかすごいし。
正直、全然追いつけてないし、追いつける自信も全然ない。
けど、今後益々個人レベルじゃカバーしきれないほどの量や選択肢が増えることで、
否が応でも自分自身でスタイルを選択・確立していかざるを得ない気もする。
それは自ずと「量より質」を求める思考を促すかもしれないし、
「どれだけ観るかより、どうやって観るか」に心が配られるようになるのかも。
それは観る側だけの問題でもなく、観せる側の変化にもつながるだろうし、
本当の意味での「民主化」とか「自由化」とかに向かうかもしれない。
自分さえしっかりすれば「できる」状況に、もう既になってはいるのだろうけど。
言葉ばかりが上滑りしてる感は否めなかったけど、
実際レベルでも重要度が否応にも増している、
「個の時代」という意識。
「個」が重要なら、「時代」とかとは縁切るはずなんだけど、
そこのところが現代の特有とも言えるわけで、特長にするべく努めるしかない。
我が未知を行くことを厭わずに、我が道を模索する。
一本道なら楽だったのに・・・。
自由を享受するために、自分から自由にならねばならぬ時代になったのか。
いや、時代のせいじゃない。自分のせい。
って、何の話してるんだ? 映画の話、してたんだ。
そういう話になるんだな、俺の映画の話し方。
映画に限らず、きっと何の話でも。
2014年12月30日火曜日
2014年のベスト20-
昨年は年間ベストを、順位をつけず、本数の縛りも儲けず、挙げて絞って残った十数本(なので、「ベスト10+(プラス)」と題した)を列挙した。今年も同じ方式でやったら十数本というより二十数本になりそうだったので、ちょっとストイック(か?)になって20本弱にした。よって、今年はベスト20-(マイナス)。2014年に劇場で観た、新作(一応、一般的な劇場公開が初なら新作扱い)を対象に。(ちなみに、今年の劇場公開作でも、昨年観たものは昨年の方に入れてあります。)
まずは、タイトル列挙。観た順。
湖の見知らぬ男 (第17回カイエ・デュ・シネマ週間)
LIFE!
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (イタリア映画祭2014)
グレート・ビューティー/追憶のローマ (イタリア映画祭2014)
プリズナーズ
ウィズネイルと僕
インサイド・ルーウィン・デイヴィス
彼の見つめる先に (SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2014)
ムーンライティング
ジャージー・ボーイズ
ジェラシー
金の鳥籠 (第9回UNHCR難民映画)
ツーリスト (第27回東京国際映画祭)
ワイルド・ライフ (第27回東京国際映画祭)
Living is easy with eyes closed (第11回ラテンビート映画祭)
6才のボクが、大人になるまで。
マップ・トゥ・ザ・スターズ (第15回東京フィルメックス)
ゴーン・ガール
ヴェラの祈り
以下、短評というか寸感。
というより、作品内容そっちのけの単なる思い出のアルバムです。
湖の見知らぬ男 (2013/アラン・ギロディー) L'inconnu du lac
今年のシネマライフは、アンスティチュ・フランセ東京通いから始まった。
実は、本作も上映された「第17回カイエ・デュ・シネマ週間」では、新作よりも「ジャン・グレミヨン特集」が面白く、数本は観られなかったものの、(スニークプレビュー含め)多くのグレミヨン作品を観ることができたことは今年の映画体験における「事件」級。その一本一本が異彩ながらも、どこか通底するグレミヨン的な映画の興奮は、年始という時期に自分なりの映画とのつきあいを原初に還す「詣」な時間。おかげで、しばらく新作映画への興味が減退してしまったのも事実。
そんな中で観る映画においてエキサイトするには当然、普遍的な「新しさ」がスクリーンに充満していなければならない訳で、この人この映画は、それ以外の何ものでもなかった結果。
LIFE! (2013/ベン・スティラー)
きっと今年の拡大系公開作では図抜けて多くの映画好きから愛されてそうな、或る意味異形作。実はかなり正面からジャーナリスティックだったり形而上的なテーマをつきつけてくる衒いの無さは、グレミヨン後遺症的な消極的映画離れに陥っていた自分を、いくらかばかりか健全化させてくれた気もする、ちょっとだけ記念碑。ショーン・ペンが出てくるシーンの、映っている光景、交わされる言葉、そのすべてが今春身の上に起こったささやかな惜別による寂寥を、「くすみ」から「きらめき」へと転化してくれた、人生のミラクル。
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (2013/ジャンフランコ・ロージ)
優れたドキュメンタリーは劇より劇的で、優れたドラマは至ってドキュメンタリー。そして、軸足はどちらの地盤も離れ、もはや壊さず上から眺めるジャンルの「壁」。すべての自然は人為(作為)を内包し、すべての人為も自然から生まれる。今年の私的テーマ(今年最もはまった書物は、『種の起源』)へつながる起点がここにあったかも。
グレート・ビューティー/追憶のローマ (2013/パオロ・ソレンティーノ)
過去とは、服従するまでもなく従わねばならず、支配するまでもなく掌握せずにはいられない。逃れたり手放せればどれだけ楽か。往かず還らず、乗り越えない。朝が来るという事実、河は流れるという現実、とりあえず人生は続くという切実。イタリア映画は芸術を生活(人生)から切り離さずに語るという信頼。『レクイエム・フォー・ドリーム』で背筋を冷ややかになでたクロノス・クァルテットの弦が、十数年後には優しく頬をなぜてくれるという軌跡。追憶の浪漫。
プリズナーズ (2013/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、作家として惹かれるって印象は持てないけれど、一作一作惹かれはする不思議な監督。『複製された男』は、『渦』のごとく執拗(不必要)なこだわりにまみれた小品的仕上がりが好みではあったものの、ジョゼ・サラマーゴの原作が個人的に面白すぎた弊害として(読後直後に観たものだから)印象が薄くなってしまった不幸。しかし、本作は匠が集結し、その各々がけっして打ち消し合わぬ理想的なコラボの教科書。ヨハン・ヨハンソンの音楽、ロジャー・ディーキンスの画、ジョエル・コックスとゲイリー・ローチによるつなぎ。究極の分業、総合の愉しみ。
ウィズネイルと僕 (1987/ブルース・ロビンソン)
今年の悲しい出来事のひとつ、吉祥寺バウスシアターの閉館。電車に乗らずに通ってた唯一の映画館、消失。レイトで観ることが多かったから、ゆったりとした映画時間にくるまれたまま、てくてく歩いたり、自転車で風を感じたり、雑踏経ず余韻にひたったまま帰宅。そうした場所が、そうした場所然とした空気を醸したまま閉じた。悲しかったり寂しかったりするけれど、一方で最後まで「僕の知ってる」場所のままだった証左としての『ウィズネイルと僕』。時代への最大かつ最上の抵抗とは「無視」であり、壮大な雄弁とは「沈黙」なんだろう。矜持で降ろされた幕は、その場にとっても、場を愛する者にとっても、憂愁をつきぬける有終の美。
終盤には満席も続く盛況ぶりのようだったけど、僕が見た五月半ばの平日昼下がりは、場内も場外も本作を観るためにあるかのような貌してた。勝手にそう思えてしまっただけかもしれないけれど、そんなどこまでも「自分にひきつけて見回してしまう」ことが許される場所でもあった。
5月末から6月にかけて大きく体調を崩してしまったり仕事がたてこんだこともあり、ラストの爆音映画祭はチケットの多くを無駄にしてしまったけど、本作をバウスで、フィルムで、シアター1で、観られたことは悔いのない卒業式になりました。
インサイド・ルーウィン・デイヴィス (2013/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
今年、最も観賞本数が少なかった6月。『グランド・ブダペスト・ホテル』と本作を観られたから「いいや」になったのかとも思えるほど、本作の「満たしてくれた」度合いは本当に縦横無尽。しかも、全身を駆け巡る的ではなく、いつまでも体内をたゆたいつづける瑕のよに。
私が映画を見はじめた頃、コーエン兄弟は既にステータス的存在のシンボルだったけど、個人的には素直にハマることもなく、口だけで「好いよね」と強がっていた。だから、ほろ苦くても甘酸っぱさとは無縁な存在で、ずっと門外漢な場違い意識をひきずり新作にかけつけていたという史(私)実。けど、前作『トゥルー・グリット』ではストレートに自分に届き、本作では完全に身を任せ。互いに一周して、互いに年とって。ずっと待ってた場所に辿り着いた、そんな風に思える映画。
ボブ・ディラン、カポーティを歌う。オン・ザ・ストリート。片隅から片隅へ。爪弾くたびに始まる世界。
彼の見つめる先に (2014/ダニエル・ヒベイロ) Hoje Eu Quero Voltar Sozinho
今年も通ったSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。コンペ12作品のうち10本を観た。例年通り(いや、「増して」かも)充実のラインナップだったし、私の嫌いな映画祭臭とは無縁でピースフルに映画と向き合える場なのも変わらずで。グランプリの『約束のマッターホルン』もベスト級に素晴らしい必見作だったけど(公開決まらないかな・・・うまく宣伝すればなかなかなポテンシャルある作品だと思う)、個人的にあえて1本に絞ると本作かな。
今年のIDCFはなぜか、「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」延長戦というか番外編というか、そうした要素が前面・後景・潜在している多様な作品群が並んでた。ただ、そのどれもが、渋谷や青山の喧噪や緊迫のなかで観るよりも、川口でまったりと観る方がしっくりくる面々。映画を観ることが半ば義務化というか日常化し過ぎてしまったウォッチャー(含む自分)たちの集いでは生まれ得ない、映画のなかの物語と誠実に向き合う、まっすぐと直接向き合う観客が醸す包容力。監視でも看視でもない、あたたかい環視。注視の共有。でも、どうみるかを導こうとする〈気〉は漂わず。映画を観るという体験には、やはり場所は重要だ。そして、場所のもつ力が作用する映画体験を、僕はやっぱり信じてる。
ムーンライティング (1982/イエジー・スコリモフスキ)
まさに「隠れた名作」といった存在で、きっと関係各所じゃ既に発掘済みなのだろうけど、こうして広く目に触れる形で公開の運びとなったのも、近年のポーランド映画祭大盛況の賜物だろう。でも、晩秋のイメフォとは大違いで、今夏のシネマート新宿はそれほどの熱狂が立ち籠めてはいなかった気も。その分、フリパ乞食でごった返すイメフォとは違った、一作入魂な観客にきちんと愛されてたスコリモフスキの旧作群。どれも好きだったけど、やっぱり本作は新鮮と納得と意外と意中の厳かな弁証法。だけど、ぜったい止揚はしない。みたいな、心地好い寸止め寸劇、砂上の楼閣。真剣勝負ほど痛く美しいものはない。
ジャージーボーイズ (2014/クリント・イーストウッド)
本作を観る前の月(8月)、丸の内ルーブルの「さよなら興行」で『マディソン郡の橋』を初めて観た。大きめの劇場、しかもフィルム、おまけに観客まばらな平日昼下がり。昼メロ的なイメージをもった我が稚拙な先入見を猛省。映画を知り尽くし、知り尽くせぬ映画の魅力を弁えたイーストウッドの巧みが隈無く遍在。
新作でもそれは健在かつ更新。というよりイーストウッド、方向とか決めない最強さ。テンポやリズム、語りや騙り、そのすべてが風まかせ。よほどの確信と自信がなきゃ出来ない歩み。決して走らぬ、豊かな歩み。テンポを落とすほどに滑らかにすべってゆく不思議。多幸とか書きたくない、量化しない幸福の時間。
余談ながら(といっても、さっきから余談がメイン)、本作を私が観たのは郊外シネコンの400席弱の大箱ながら、なんと観客は私一人。ゆえに、歌い踊りながらの観賞となった(嘘)。申し訳なさや或る種の残念さはありつつも、本作を貸切の大劇場で観られるなどという有り難い体験は、今年の映画生活の一大事。
ジェラシー (2013/フィリップ・ガレル)
ガレルの新作を、映画館で見せてくれる人々に感謝。(イメフォ苦手な自分としては、できればそろそろイメージフォーラム以外でも観たいけど。)
ガレルは、頭使って映画観るようになる(今でもたいして使えてない上に、最近は使わないのが善的な姿勢になりつつあるけど)以前から、何故か相性が好いというか、自然に好きという。いわゆるヌーヴェルヴァーグな作品群とかは、油断してたら「わかんなぁーい」とか「あぁ、眠った眠った」とか言っちゃいそうな自分でも、なぜかガレルは面白がれる。
きっと、語るべき苦しみを描けるのが巨匠なのだろうけど、苦しみから語る作家にこそ寄り添いたい自分の性がそうさせる。
金の鳥籠 (2013/ディエゴ・ケマダ=ディエス) La jaula de oro
毎年のことながら、10月11月における映画祭シーズンは時間のやりくりやスケジュール調整が難儀というか面倒で、ともすると丸投げしたくなる頻度が年々上昇。前売券を購入するタイプはまだ強制力が(自分に)働くからいいものの、そうでない場合は休日に(もしくは、仕事上がりに)わざわざ出かけてゆかねばならぬ大儀を厭わずにはいられぬ我が性情。しかし、そんな無精な自分でも、他では味わえぬ感銘を受けて就く帰路に、やっぱり出向いてよかった肯定感。それが、次なる億劫との対決を生む・・・。(って、年とるごとに映画観に行くのが面倒になっているというただの報告なのですが。)
というわけで、今年の難民映画祭では本作一本のみ観賞。主要人物の年齢が下がる分、『闇の列車、光の旅』(かなり好き)が更に「愚直」になったかのような本作。自分に嘘つく余裕がある者は一人もいない。でも、だからこそ、そこで暴れる排除の力も、そこに立ち現れる不意の温情も、すべてがすべて、迫真ならぬ真の味。世界は語られるべき物語と、語らずにはいられない者たちであふれてる。
ツーリスト (2014/リューベン・オストルンド) Force Majeure
今年も東京国際映画祭では20本ほど映画を観たが、個人的に図抜けた傑作といった出会いがなかった半面、どれもが見応えを感じる充実した一週間だった。
本作は、個人的な好みからすればやや外れる要素を随所に感じつつも、それでいて実は観ながら心のど真ん中を何度も突かれた望外強度。傑作と呼ぶに値する力強さが確実にある。いろいろと語り尽くしたい一作でもある。テーマと手法と美学が、幸福な渾然一体を見せている。
来年、劇場公開もされるとか。
ワイルド・ライフ (2014/セドリック・カーン) Vie sauvage
セドリック・カーンはそんなに好きな作家ではなかったのだけれど、前作(『よりよき人生』)が意外にも個人的に気に入って、その方向性と重なるように本作ではダルデンヌ兄弟がプロデューサー。主演がマチュー・カソヴィッツだったり、撮影がブリュノ・デュモン作品でおなじみのイヴ・カペだったりと、実は好きな要素がつまっていた本作。そんなことも意識にないまま、時間を埋めるように選んだ一作だっただけに、マイハート鷲掴みの不意打ちは同日その後の観賞に支障を来しまくった。
パコ(マチュー・カソヴィッツ)の二人の息子のうち、弟の方(の青年期)を演じる役者の顔に見おぼえがあり、観ながらずっと気になっていたら、ロマン・グーピル監督作『ハンズ・アップ!』に出ていた少年であることが後から判明。グーピルの新作がコンペに入った今年のTIFFでは、もう一つの『ハンズ・アップ!』な再会が待っていた。
ということからも、キャストの魅力は歴然ながら、やっぱりセドリック・カーンの新たな地平をダルデンヌ兄弟がサポートした本作は、その双方が欲する相手を得たような作品。何らかの形で再会の機会を与えて欲しい貴重な秀作。
Living Is Easy with Eyes Closed (2013/ダビド・トルエバ) Vivir es fácil con los ojos cerrados
今年最も泣いた映画。でも、おそらく、本作のなかでは誰も(実際に涙をみせて)泣いてはいない。という記憶(間違ってるかも)。観客は皆、とめどなく涙があふれていただろうけど、何故だかそれはどこまでも静かに流れ、場内を終始埋め尽くす静謐。そんな事実こそが、本作が誘う涙の特別を、顕著に語っているだろう
ラテンビート映画祭でたまにある、本拠地(新宿バルト9)で上映がないタイプの本作を、横浜ブルク13まで足をのばして観に行った。以前も、ラテンビート遠征を敢行したことはあったけど、明らかに新宿よりも好い雰囲気で観られて満足だった記憶、今年も上書き。
映画自体がもつ滋味が場内に伝播したこともあるだろうけど、年間最優秀場内賞と言いたいくらい、言葉にならない(勿論、音なんかを通して伝わることなんかはないんだけれど)映画につつまれ映画をつつむ優しいまなざしが交錯しあう至福の劇場体験だった。
ラテンビートのチラシに「提供:松竹メディア事業部」とあるので、またきっとどこかで観られる機会もあるかと思うけど、大切に公開されることを切に願う一作。
6才のボクが、大人になるまで。 (2014/リチャード・リンクレイター)
オープニング。コールドプレイの「イエロー」のイントロ、ギターの音。Look at the stars・・・空を見上げる少年の顔。学生時代に聴いた「イエロー」、武道館で聴いた「イエロー」、そして本作で聴く「イエロー」。そんな時の重なりだけで、既に本作でこれから重ねられてゆくであろう時の重みと飛躍に全身スタンバイ。
それこそ十年前に本作を観ていたら、情緒的な感動はさほどなかったかもな。なぜなら、本作が描く時間は長かったり重かったりする半面、実はその「短さ」にあると思うから。瞬く内に、というか、瞬く度に。光陰矢の如し。そして、実は軽重など存在しない一つ一つの出会いと別れ。フレームに留まり続けるものだけが実存を支える訳じゃなく、全過去から現在が生まれるように、すべての出会いを呼吸しながら今が在る。
メインはサブやサイドを削るけど、サブやサイドにはメインが宿る。いや、核にあるのはあらゆる些事で、それらが常に離合集散した結果。リンクレイターが得た語りの自由は、僕らに語りの自由を与えてくれた。
マップ・トゥ・ザ・スターズ (2014/デヴィッド・クローネンバーグ)
東京フィルメックスのクロージングで観たときは、何だか緊張と疲れで茫然してた。(クローネンバーグは、朝日ホールで観るもんじゃないな、と実感。でも、ガラガラのなかでまったりと観た初期作『ステレオ/均衡の遺失』『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』は実に実に興味深かった!しかも、どちらもフィルム上映!)後日、郊外シネコンのレイトショーでゆったり観賞。
本作はクローネンバーグ初のアメリカロケ作品とか。従って、今までよりも「風通し」が好いはずだし、実際に映っている画は確かに「風通し」が好い雰囲気・・・なんだけど、それがより一層不気味さを際立たせるという、不穏の神様のようなデヴィッド様。本作における最もスキャンダラスな部分が露見するに従って何故か安堵の道を往くというアンビバレントな倒錯の旅。トリック抜きのトリップ三昧。生者と死者、虚像と実像、幻影と実存・・・すべてが地続きな世界に、微塵の解放感もゆるさずに、それでいて何らの束縛もかけぬ究極並置な全面圧力。トランポリンで飛び跳ねた後の、自力のジャンプのようなエンドの星空。手に届きそうだと思っていたことの方が現実に思えて来る、覚醒。
ゴーン・ガール (2014/デヴィッド・フィンチャー)
こちらのデヴィッドも中毒度高い曲者で、しかもクローネンバーグの中毒性は反復が鮮度を増す一方、フィンチャーはもう初見から反復の只中にいるような錯覚起こすほど、反復帝国展開中。
ドラマとしての面白さの手法や手腕は彼なりの常套ながら、形而上的テーマの具現化は年々上等化している気も。ラスト、ニック(ベン・アフレック)の壁ドンならぬ壁ダン(?)には、観る者もエイミーも見事に震撼。ただし、エイミーは凍った背筋が愛おしくてたまらないという・・・。観念が肥大化した現代人の現実が、観念に支配されてゆく。去りゆくのは少女のみならず。
ヴェラの祈り (2007/アンドレイ・ズビャギンツェフ)
年の瀬にこのような作品(しかも、群!)を公開するの、やめてほしい。あと、こんだけ待たされると、鮮度が落ちるどころか一周回って強烈鮮度が炸裂するし、こんだけ公開されないと既にソフトを取り寄せちゃったりしているし!
本作は一度DVDで観始めたものの、その画力に圧倒されて、「この画をスクリーン以外で観ていいわけがない!」と思い立ち、停止ボタンを押したまま、いつか劇場で観られる日を夢に見てきた一作だけに、悲願中の悲願と呼ぶに値する本作の感傷。
作品のすべてが自らの期待にいちいち応え、凌駕し、裏切り、共振し続ける。画のみならず、音の雄弁さは単なる饒舌のみならず、世界が「言葉」にあふれていることを識る。そして、掬いきれない個人の狭窄した視界に途方に暮れる。識れば識るほど、広がる世界。
惜しむらくは、本作の画質。フィルム撮影による画力をフィルム上映で余すところなく体感したい、などという贅沢は言わないまでも(でも、言いたい!)、せめて(現況における)標準的なデジタル上映画質で観たかった。とはいえ、おそらく2007年制作となると、デジタル上映のマスターが元々存在したわけでもなかったろうし、ソフト発売もDVDだけだから、おそらくそのマスターからDCPをつくったのではないかと思われる。確かに、輸入DVDの画質は、DVDながら健闘したものだったけど、やっぱり『エレナの惑い』の画質と比べると差は歴然。(つまり、二本続けて観るなら、ヴェラの次にエレナという流れが好いかと。ま、制作年的にも、登場人物の世代的にもその順だしね。)
上映のデジタル化は、コストダウンを可能にし、それゆえにミニシアター系作品の公開本数も盛り返してきている(ズビャギンツェフ旧作公開もその恩恵のもとにある気もするが)のは事実だろうけど、作品にとっての明暗はタイミングと共に悲喜こもごもだなぁ、などと痛感したりもしたな。
とはいえ、それでも劇場で必見であるには違いない二本。『ヴェラの祈り』をフィルムで観るなどというのは叶わぬ願いだろうが、いつか『ヴェラの祈り」のちゃんとしたデジタルマスターが出来、万全の画で観られたら・・・と、夢想の更なる更新と二度目の実現に想いを馳せる。
今年は全然ブログも書けず、個人的にもしっかり記すなどあまりできていなかったこともあり、情けないほど(いつも以上に)「内容のない」感想に堕してしまったことをお詫びする。誰に?自分に。
とはいえ、やはり映画を「映画館で」観るという行為においては、その一回性に宿った記憶こそに価値があるという視点だって重要に思えてならない。というか、そう思わないと、面倒くさい劇場観賞にこだわり続けていられない(笑)
20本近くも挙げておいて、それでも「もれてしまった」と言わせてもらう映画たちは・・・
『6才のボク~』のせいで、ついつい忘れがちになってしまう『ビフォア・ミッドナイト』。前二作に比べると、自分が「通ってない」分、まだ身の丈に合ってないことが些か残念。
今年も気を吐きまくったマシューの3本。『ダラス・バイヤーズ・クラブ』、『MUD』、『インターステラー』(でも、正直、『インター~』は個人的にのれない側面も多分にあったけど、クリストファー・ノーランの気狂いっぷりは、水平化する映画界においてやっぱり重要に思えてしまう)。
『エヴァの告白』のラストシーンは目に焼きついてるし、『8月の家族たち』のラストソングはいつまでも心に鳴り響いていたものです。
これまで頭で唸ることはあっても、心が震えることがなかったアスガー・ファルハディ作品で始めて興奮、しかも終始着地を許さぬ昂揚で時間が流れた、『ある過去の行方』。
『鉄西区』で打ちのめされて以来、個人的にも重要な作家だったワン・ビンながら、正直近作は個人的にあまり素直に享受できない状況が続いてた。でも、『収容病棟』は『鉄西区』を観たときのように心をえぐられた。
『プロミスト・ランド』を観たのは、札幌の夜。ディノスシネマズ札幌のレイトショー、たった三人の観客。旅先ではあまり映画を観ないけど、今作は場所と旅の記憶と共にあることでより多くより深く語りかけられた。
『物語る私たち』の仕掛けほど、必要と誠実に満ちた仕掛けを私は知らない。(大袈裟)
東京国際映画祭は前述の通り、充実した観賞体験に溢れていたけれど、なかでも『十字架の道行き』と『白夜と配達人』は己の奥深くまで届いた重要作だった。形式への拘泥や服従が、やがて内容の遙かなる跳躍をうむ。
今年のフィルメックスは随分と粒ぞろいで、恒例の大いなるハズレとは無縁でちょっと寂しかったけど(笑)、なかでも最後に観た『プレジデント』は、「荒削りのよさ」を踏みにじる重厚さが胸にいつまでも残る名作の風格に魅せられた。おかげでコンペで観た良作の数々(『生きる』『ディーブ』『数立方メートルの愛』等)が霞んでしまったほどだったりもして。
フィルメックスの勢い(というか、余力?)で参加したフィンランド映画祭。期待値すら設定していなかったが為か、不意をつかれた好みの一作『コンクリートナイト』。色彩豊かな表現力に充ちたモノクロ的映像美に、女流作家と女流監督による少年期の揺らぎは新鮮な違和感を持続させ、いつまでも見終わらないような世界が展開されていた。
『自由が丘で』は、来年見直します。寝不足と疲労と昼下がりで、幾度も微睡みながら観てしまった初見ゆえ。でも、その微睡みと作品の佇まいが見事に融け合って、第三の作品が生まれたかのような夢現な体験は、特筆に値する・・・自己正当化(笑)
我ながら上記のベスト選出を眺めてみると、偏りや固まりが年々強まってるなぁ、と。
でも、まぁ、それも年を取ることの弊害であり、特権であり、ひとつの知恵かとも。
ただ、気づくのは、日本映画はもとよりアジア映画さえ1本もないということ。
これは、今年、それらに接する機会が少なかったことも影響しているとは思うけど、接することが少ないという事実自体、気持ち的に遠ざかりつつあるという気がしなくもない。
日本映画で好かったのは、『ホームレス理事長』『0.5ミリ』『紙の月』くらいかな。
いやぁ、本当に日本映画観てないのかな、今年。
アジア映画だと、『ドラッグ・ウォー』『昔のはじまり』『メルボルン』『TATSUMI』『西遊』『西遊記』かな。アジア映画は明らかに見逃した良作が多かった気がする。特に韓国映画。
大作系やアクション映画も変わらず好物なんだけど、こういう場で名を出す気分ではなくなりつつある保守化する老いる自我(笑)『ハンガー・ゲーム2』は、シリーズまるごと大好き宣言したくなる素晴らしさだったし、『ラッシュ/プライドと友情』だって興奮の坩堝。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の完成度は期せずしてゆえ受け止めきれなかった気がするし、評判悪かった『トランセンデンス』だってあれこれ考えながら楽しんだ。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』とか『イントゥ・ザ・ストーム』とかの一気呵成は劇場で味わってこそ。『GODZILLA』や『トランスフォーマー/ロスト・エイジ』はちゃんと初日に駆けつけて、IMAXでも再見しましたよ。ただね、今の自分にとって「大きな映画」はどうやらサイドな気分。
触れられなかった映画祭、イメージフォーラム・フェスティバル。今年も私的に充実観賞の連続で、『マナカマナ』『闇を呪う呪文』『ハレー』いずれも全く違うアプローチで全く違う琴線に触れまくり。
旧作を積極的に観ようとしないシネフィル失格な僕ですが、マルコ・ベロッキオ特集は嬉しくて仕方なく、未見だった『エンリコ四世』と『肉体の悪魔』はどちらも最高で、だからこそ『エンリコ四世』の残念すぎるVHS並の画質が悔やまれる。
春にはハル・ハートリー、夏にはダニエル・シュミットにベルイマン、秋にはジョン・フォード。
異才、奇才、名匠、巨匠。初めてだろうが再会だろうが、確実に邂逅がいつでも待ち受けるレトロスペクティヴ。そういえば、今年はビートニク映画祭なる素敵な企画もあった。オーディトリウム渋谷はなくなったけど。ロバート・フランクが撮った映画を二本(『チャパクア』『キャンディ・マウンテン』)を映画館で観られるなんて。『キャンディ・マウンテン』、本当に好きだった。
今年も本当にいろんな映画と出会えた一方で、映画をとりまく環境には今年も色んな「さよなら」つきまとい・・・。新宿ミラノもあと一日か。ミラノ1の大劇場も好きだったけど、シネマスクエアとうきゅうでは濃厚な出会いが幾度もあったっけ。ひとつの文化が消えるときっていうのは、消える運命ゆえに散り際もそれほど華々しくはないんだね。(と言いつつも、ここ数日の歌舞伎町は賑わっているのだろうが。)その一方で来年にはTOHOシネマズが新宿にもできて、恵比寿にはガーデンシネマが復活。容易く映画文化リバイバルになるとは思えないけど、このサバイバルは見守り続けよう。正直、映画から離れたがってる自分もいなくはないんだが(というより、別の方に興味の矛先がいきがち昨今)、産業的な「映画」が分岐点に来ているように、自分なりの「映画生活」もより自由に柔軟に見直してはしなやかに付き合っていきたいと思っています。そんななか、ブログをもうすこし身近にできれば好いんだけど・・・。
※旧ブログは移転しました(単純に移しただけです)。URLは以下の通り。
http://blog.goo.ne.jp/imaginary_possibilities
まずは、タイトル列挙。観た順。
湖の見知らぬ男 (第17回カイエ・デュ・シネマ週間)
LIFE!
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (イタリア映画祭2014)
グレート・ビューティー/追憶のローマ (イタリア映画祭2014)
プリズナーズ
ウィズネイルと僕
インサイド・ルーウィン・デイヴィス
彼の見つめる先に (SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2014)
ムーンライティング
ジャージー・ボーイズ
ジェラシー
金の鳥籠 (第9回UNHCR難民映画)
ツーリスト (第27回東京国際映画祭)
ワイルド・ライフ (第27回東京国際映画祭)
Living is easy with eyes closed (第11回ラテンビート映画祭)
6才のボクが、大人になるまで。
マップ・トゥ・ザ・スターズ (第15回東京フィルメックス)
ゴーン・ガール
ヴェラの祈り
以下、短評というか寸感。
というより、作品内容そっちのけの単なる思い出のアルバムです。
湖の見知らぬ男 (2013/アラン・ギロディー) L'inconnu du lac
今年のシネマライフは、アンスティチュ・フランセ東京通いから始まった。
実は、本作も上映された「第17回カイエ・デュ・シネマ週間」では、新作よりも「ジャン・グレミヨン特集」が面白く、数本は観られなかったものの、(スニークプレビュー含め)多くのグレミヨン作品を観ることができたことは今年の映画体験における「事件」級。その一本一本が異彩ながらも、どこか通底するグレミヨン的な映画の興奮は、年始という時期に自分なりの映画とのつきあいを原初に還す「詣」な時間。おかげで、しばらく新作映画への興味が減退してしまったのも事実。
そんな中で観る映画においてエキサイトするには当然、普遍的な「新しさ」がスクリーンに充満していなければならない訳で、この人この映画は、それ以外の何ものでもなかった結果。
LIFE! (2013/ベン・スティラー)
きっと今年の拡大系公開作では図抜けて多くの映画好きから愛されてそうな、或る意味異形作。実はかなり正面からジャーナリスティックだったり形而上的なテーマをつきつけてくる衒いの無さは、グレミヨン後遺症的な消極的映画離れに陥っていた自分を、いくらかばかりか健全化させてくれた気もする、ちょっとだけ記念碑。ショーン・ペンが出てくるシーンの、映っている光景、交わされる言葉、そのすべてが今春身の上に起こったささやかな惜別による寂寥を、「くすみ」から「きらめき」へと転化してくれた、人生のミラクル。
ローマ環状線、めぐりゆく人生たち (2013/ジャンフランコ・ロージ)
優れたドキュメンタリーは劇より劇的で、優れたドラマは至ってドキュメンタリー。そして、軸足はどちらの地盤も離れ、もはや壊さず上から眺めるジャンルの「壁」。すべての自然は人為(作為)を内包し、すべての人為も自然から生まれる。今年の私的テーマ(今年最もはまった書物は、『種の起源』)へつながる起点がここにあったかも。
グレート・ビューティー/追憶のローマ (2013/パオロ・ソレンティーノ)
過去とは、服従するまでもなく従わねばならず、支配するまでもなく掌握せずにはいられない。逃れたり手放せればどれだけ楽か。往かず還らず、乗り越えない。朝が来るという事実、河は流れるという現実、とりあえず人生は続くという切実。イタリア映画は芸術を生活(人生)から切り離さずに語るという信頼。『レクイエム・フォー・ドリーム』で背筋を冷ややかになでたクロノス・クァルテットの弦が、十数年後には優しく頬をなぜてくれるという軌跡。追憶の浪漫。
プリズナーズ (2013/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
ドゥニ・ヴィルヌーヴは、作家として惹かれるって印象は持てないけれど、一作一作惹かれはする不思議な監督。『複製された男』は、『渦』のごとく執拗(不必要)なこだわりにまみれた小品的仕上がりが好みではあったものの、ジョゼ・サラマーゴの原作が個人的に面白すぎた弊害として(読後直後に観たものだから)印象が薄くなってしまった不幸。しかし、本作は匠が集結し、その各々がけっして打ち消し合わぬ理想的なコラボの教科書。ヨハン・ヨハンソンの音楽、ロジャー・ディーキンスの画、ジョエル・コックスとゲイリー・ローチによるつなぎ。究極の分業、総合の愉しみ。
ウィズネイルと僕 (1987/ブルース・ロビンソン)
今年の悲しい出来事のひとつ、吉祥寺バウスシアターの閉館。電車に乗らずに通ってた唯一の映画館、消失。レイトで観ることが多かったから、ゆったりとした映画時間にくるまれたまま、てくてく歩いたり、自転車で風を感じたり、雑踏経ず余韻にひたったまま帰宅。そうした場所が、そうした場所然とした空気を醸したまま閉じた。悲しかったり寂しかったりするけれど、一方で最後まで「僕の知ってる」場所のままだった証左としての『ウィズネイルと僕』。時代への最大かつ最上の抵抗とは「無視」であり、壮大な雄弁とは「沈黙」なんだろう。矜持で降ろされた幕は、その場にとっても、場を愛する者にとっても、憂愁をつきぬける有終の美。
終盤には満席も続く盛況ぶりのようだったけど、僕が見た五月半ばの平日昼下がりは、場内も場外も本作を観るためにあるかのような貌してた。勝手にそう思えてしまっただけかもしれないけれど、そんなどこまでも「自分にひきつけて見回してしまう」ことが許される場所でもあった。
5月末から6月にかけて大きく体調を崩してしまったり仕事がたてこんだこともあり、ラストの爆音映画祭はチケットの多くを無駄にしてしまったけど、本作をバウスで、フィルムで、シアター1で、観られたことは悔いのない卒業式になりました。
インサイド・ルーウィン・デイヴィス (2013/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
今年、最も観賞本数が少なかった6月。『グランド・ブダペスト・ホテル』と本作を観られたから「いいや」になったのかとも思えるほど、本作の「満たしてくれた」度合いは本当に縦横無尽。しかも、全身を駆け巡る的ではなく、いつまでも体内をたゆたいつづける瑕のよに。
私が映画を見はじめた頃、コーエン兄弟は既にステータス的存在のシンボルだったけど、個人的には素直にハマることもなく、口だけで「好いよね」と強がっていた。だから、ほろ苦くても甘酸っぱさとは無縁な存在で、ずっと門外漢な場違い意識をひきずり新作にかけつけていたという史(私)実。けど、前作『トゥルー・グリット』ではストレートに自分に届き、本作では完全に身を任せ。互いに一周して、互いに年とって。ずっと待ってた場所に辿り着いた、そんな風に思える映画。
ボブ・ディラン、カポーティを歌う。オン・ザ・ストリート。片隅から片隅へ。爪弾くたびに始まる世界。
彼の見つめる先に (2014/ダニエル・ヒベイロ) Hoje Eu Quero Voltar Sozinho
今年も通ったSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。コンペ12作品のうち10本を観た。例年通り(いや、「増して」かも)充実のラインナップだったし、私の嫌いな映画祭臭とは無縁でピースフルに映画と向き合える場なのも変わらずで。グランプリの『約束のマッターホルン』もベスト級に素晴らしい必見作だったけど(公開決まらないかな・・・うまく宣伝すればなかなかなポテンシャルある作品だと思う)、個人的にあえて1本に絞ると本作かな。
今年のIDCFはなぜか、「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」延長戦というか番外編というか、そうした要素が前面・後景・潜在している多様な作品群が並んでた。ただ、そのどれもが、渋谷や青山の喧噪や緊迫のなかで観るよりも、川口でまったりと観る方がしっくりくる面々。映画を観ることが半ば義務化というか日常化し過ぎてしまったウォッチャー(含む自分)たちの集いでは生まれ得ない、映画のなかの物語と誠実に向き合う、まっすぐと直接向き合う観客が醸す包容力。監視でも看視でもない、あたたかい環視。注視の共有。でも、どうみるかを導こうとする〈気〉は漂わず。映画を観るという体験には、やはり場所は重要だ。そして、場所のもつ力が作用する映画体験を、僕はやっぱり信じてる。
ムーンライティング (1982/イエジー・スコリモフスキ)
まさに「隠れた名作」といった存在で、きっと関係各所じゃ既に発掘済みなのだろうけど、こうして広く目に触れる形で公開の運びとなったのも、近年のポーランド映画祭大盛況の賜物だろう。でも、晩秋のイメフォとは大違いで、今夏のシネマート新宿はそれほどの熱狂が立ち籠めてはいなかった気も。その分、フリパ乞食でごった返すイメフォとは違った、一作入魂な観客にきちんと愛されてたスコリモフスキの旧作群。どれも好きだったけど、やっぱり本作は新鮮と納得と意外と意中の厳かな弁証法。だけど、ぜったい止揚はしない。みたいな、心地好い寸止め寸劇、砂上の楼閣。真剣勝負ほど痛く美しいものはない。
ジャージーボーイズ (2014/クリント・イーストウッド)
本作を観る前の月(8月)、丸の内ルーブルの「さよなら興行」で『マディソン郡の橋』を初めて観た。大きめの劇場、しかもフィルム、おまけに観客まばらな平日昼下がり。昼メロ的なイメージをもった我が稚拙な先入見を猛省。映画を知り尽くし、知り尽くせぬ映画の魅力を弁えたイーストウッドの巧みが隈無く遍在。
新作でもそれは健在かつ更新。というよりイーストウッド、方向とか決めない最強さ。テンポやリズム、語りや騙り、そのすべてが風まかせ。よほどの確信と自信がなきゃ出来ない歩み。決して走らぬ、豊かな歩み。テンポを落とすほどに滑らかにすべってゆく不思議。多幸とか書きたくない、量化しない幸福の時間。
余談ながら(といっても、さっきから余談がメイン)、本作を私が観たのは郊外シネコンの400席弱の大箱ながら、なんと観客は私一人。ゆえに、歌い踊りながらの観賞となった(嘘)。申し訳なさや或る種の残念さはありつつも、本作を貸切の大劇場で観られるなどという有り難い体験は、今年の映画生活の一大事。
ジェラシー (2013/フィリップ・ガレル)
ガレルの新作を、映画館で見せてくれる人々に感謝。(イメフォ苦手な自分としては、できればそろそろイメージフォーラム以外でも観たいけど。)
ガレルは、頭使って映画観るようになる(今でもたいして使えてない上に、最近は使わないのが善的な姿勢になりつつあるけど)以前から、何故か相性が好いというか、自然に好きという。いわゆるヌーヴェルヴァーグな作品群とかは、油断してたら「わかんなぁーい」とか「あぁ、眠った眠った」とか言っちゃいそうな自分でも、なぜかガレルは面白がれる。
きっと、語るべき苦しみを描けるのが巨匠なのだろうけど、苦しみから語る作家にこそ寄り添いたい自分の性がそうさせる。
金の鳥籠 (2013/ディエゴ・ケマダ=ディエス) La jaula de oro
毎年のことながら、10月11月における映画祭シーズンは時間のやりくりやスケジュール調整が難儀というか面倒で、ともすると丸投げしたくなる頻度が年々上昇。前売券を購入するタイプはまだ強制力が(自分に)働くからいいものの、そうでない場合は休日に(もしくは、仕事上がりに)わざわざ出かけてゆかねばならぬ大儀を厭わずにはいられぬ我が性情。しかし、そんな無精な自分でも、他では味わえぬ感銘を受けて就く帰路に、やっぱり出向いてよかった肯定感。それが、次なる億劫との対決を生む・・・。(って、年とるごとに映画観に行くのが面倒になっているというただの報告なのですが。)
というわけで、今年の難民映画祭では本作一本のみ観賞。主要人物の年齢が下がる分、『闇の列車、光の旅』(かなり好き)が更に「愚直」になったかのような本作。自分に嘘つく余裕がある者は一人もいない。でも、だからこそ、そこで暴れる排除の力も、そこに立ち現れる不意の温情も、すべてがすべて、迫真ならぬ真の味。世界は語られるべき物語と、語らずにはいられない者たちであふれてる。
ツーリスト (2014/リューベン・オストルンド) Force Majeure
今年も東京国際映画祭では20本ほど映画を観たが、個人的に図抜けた傑作といった出会いがなかった半面、どれもが見応えを感じる充実した一週間だった。
本作は、個人的な好みからすればやや外れる要素を随所に感じつつも、それでいて実は観ながら心のど真ん中を何度も突かれた望外強度。傑作と呼ぶに値する力強さが確実にある。いろいろと語り尽くしたい一作でもある。テーマと手法と美学が、幸福な渾然一体を見せている。
来年、劇場公開もされるとか。
ワイルド・ライフ (2014/セドリック・カーン) Vie sauvage
セドリック・カーンはそんなに好きな作家ではなかったのだけれど、前作(『よりよき人生』)が意外にも個人的に気に入って、その方向性と重なるように本作ではダルデンヌ兄弟がプロデューサー。主演がマチュー・カソヴィッツだったり、撮影がブリュノ・デュモン作品でおなじみのイヴ・カペだったりと、実は好きな要素がつまっていた本作。そんなことも意識にないまま、時間を埋めるように選んだ一作だっただけに、マイハート鷲掴みの不意打ちは同日その後の観賞に支障を来しまくった。
パコ(マチュー・カソヴィッツ)の二人の息子のうち、弟の方(の青年期)を演じる役者の顔に見おぼえがあり、観ながらずっと気になっていたら、ロマン・グーピル監督作『ハンズ・アップ!』に出ていた少年であることが後から判明。グーピルの新作がコンペに入った今年のTIFFでは、もう一つの『ハンズ・アップ!』な再会が待っていた。
ということからも、キャストの魅力は歴然ながら、やっぱりセドリック・カーンの新たな地平をダルデンヌ兄弟がサポートした本作は、その双方が欲する相手を得たような作品。何らかの形で再会の機会を与えて欲しい貴重な秀作。
Living Is Easy with Eyes Closed (2013/ダビド・トルエバ) Vivir es fácil con los ojos cerrados
今年最も泣いた映画。でも、おそらく、本作のなかでは誰も(実際に涙をみせて)泣いてはいない。という記憶(間違ってるかも)。観客は皆、とめどなく涙があふれていただろうけど、何故だかそれはどこまでも静かに流れ、場内を終始埋め尽くす静謐。そんな事実こそが、本作が誘う涙の特別を、顕著に語っているだろう
ラテンビート映画祭でたまにある、本拠地(新宿バルト9)で上映がないタイプの本作を、横浜ブルク13まで足をのばして観に行った。以前も、ラテンビート遠征を敢行したことはあったけど、明らかに新宿よりも好い雰囲気で観られて満足だった記憶、今年も上書き。
映画自体がもつ滋味が場内に伝播したこともあるだろうけど、年間最優秀場内賞と言いたいくらい、言葉にならない(勿論、音なんかを通して伝わることなんかはないんだけれど)映画につつまれ映画をつつむ優しいまなざしが交錯しあう至福の劇場体験だった。
ラテンビートのチラシに「提供:松竹メディア事業部」とあるので、またきっとどこかで観られる機会もあるかと思うけど、大切に公開されることを切に願う一作。
6才のボクが、大人になるまで。 (2014/リチャード・リンクレイター)
オープニング。コールドプレイの「イエロー」のイントロ、ギターの音。Look at the stars・・・空を見上げる少年の顔。学生時代に聴いた「イエロー」、武道館で聴いた「イエロー」、そして本作で聴く「イエロー」。そんな時の重なりだけで、既に本作でこれから重ねられてゆくであろう時の重みと飛躍に全身スタンバイ。
それこそ十年前に本作を観ていたら、情緒的な感動はさほどなかったかもな。なぜなら、本作が描く時間は長かったり重かったりする半面、実はその「短さ」にあると思うから。瞬く内に、というか、瞬く度に。光陰矢の如し。そして、実は軽重など存在しない一つ一つの出会いと別れ。フレームに留まり続けるものだけが実存を支える訳じゃなく、全過去から現在が生まれるように、すべての出会いを呼吸しながら今が在る。
メインはサブやサイドを削るけど、サブやサイドにはメインが宿る。いや、核にあるのはあらゆる些事で、それらが常に離合集散した結果。リンクレイターが得た語りの自由は、僕らに語りの自由を与えてくれた。
マップ・トゥ・ザ・スターズ (2014/デヴィッド・クローネンバーグ)
東京フィルメックスのクロージングで観たときは、何だか緊張と疲れで茫然してた。(クローネンバーグは、朝日ホールで観るもんじゃないな、と実感。でも、ガラガラのなかでまったりと観た初期作『ステレオ/均衡の遺失』『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』は実に実に興味深かった!しかも、どちらもフィルム上映!)後日、郊外シネコンのレイトショーでゆったり観賞。
本作はクローネンバーグ初のアメリカロケ作品とか。従って、今までよりも「風通し」が好いはずだし、実際に映っている画は確かに「風通し」が好い雰囲気・・・なんだけど、それがより一層不気味さを際立たせるという、不穏の神様のようなデヴィッド様。本作における最もスキャンダラスな部分が露見するに従って何故か安堵の道を往くというアンビバレントな倒錯の旅。トリック抜きのトリップ三昧。生者と死者、虚像と実像、幻影と実存・・・すべてが地続きな世界に、微塵の解放感もゆるさずに、それでいて何らの束縛もかけぬ究極並置な全面圧力。トランポリンで飛び跳ねた後の、自力のジャンプのようなエンドの星空。手に届きそうだと思っていたことの方が現実に思えて来る、覚醒。
ゴーン・ガール (2014/デヴィッド・フィンチャー)
こちらのデヴィッドも中毒度高い曲者で、しかもクローネンバーグの中毒性は反復が鮮度を増す一方、フィンチャーはもう初見から反復の只中にいるような錯覚起こすほど、反復帝国展開中。
ドラマとしての面白さの手法や手腕は彼なりの常套ながら、形而上的テーマの具現化は年々上等化している気も。ラスト、ニック(ベン・アフレック)の壁ドンならぬ壁ダン(?)には、観る者もエイミーも見事に震撼。ただし、エイミーは凍った背筋が愛おしくてたまらないという・・・。観念が肥大化した現代人の現実が、観念に支配されてゆく。去りゆくのは少女のみならず。
ヴェラの祈り (2007/アンドレイ・ズビャギンツェフ)
年の瀬にこのような作品(しかも、群!)を公開するの、やめてほしい。あと、こんだけ待たされると、鮮度が落ちるどころか一周回って強烈鮮度が炸裂するし、こんだけ公開されないと既にソフトを取り寄せちゃったりしているし!
本作は一度DVDで観始めたものの、その画力に圧倒されて、「この画をスクリーン以外で観ていいわけがない!」と思い立ち、停止ボタンを押したまま、いつか劇場で観られる日を夢に見てきた一作だけに、悲願中の悲願と呼ぶに値する本作の感傷。
作品のすべてが自らの期待にいちいち応え、凌駕し、裏切り、共振し続ける。画のみならず、音の雄弁さは単なる饒舌のみならず、世界が「言葉」にあふれていることを識る。そして、掬いきれない個人の狭窄した視界に途方に暮れる。識れば識るほど、広がる世界。
惜しむらくは、本作の画質。フィルム撮影による画力をフィルム上映で余すところなく体感したい、などという贅沢は言わないまでも(でも、言いたい!)、せめて(現況における)標準的なデジタル上映画質で観たかった。とはいえ、おそらく2007年制作となると、デジタル上映のマスターが元々存在したわけでもなかったろうし、ソフト発売もDVDだけだから、おそらくそのマスターからDCPをつくったのではないかと思われる。確かに、輸入DVDの画質は、DVDながら健闘したものだったけど、やっぱり『エレナの惑い』の画質と比べると差は歴然。(つまり、二本続けて観るなら、ヴェラの次にエレナという流れが好いかと。ま、制作年的にも、登場人物の世代的にもその順だしね。)
上映のデジタル化は、コストダウンを可能にし、それゆえにミニシアター系作品の公開本数も盛り返してきている(ズビャギンツェフ旧作公開もその恩恵のもとにある気もするが)のは事実だろうけど、作品にとっての明暗はタイミングと共に悲喜こもごもだなぁ、などと痛感したりもしたな。
とはいえ、それでも劇場で必見であるには違いない二本。『ヴェラの祈り』をフィルムで観るなどというのは叶わぬ願いだろうが、いつか『ヴェラの祈り」のちゃんとしたデジタルマスターが出来、万全の画で観られたら・・・と、夢想の更なる更新と二度目の実現に想いを馳せる。
今年は全然ブログも書けず、個人的にもしっかり記すなどあまりできていなかったこともあり、情けないほど(いつも以上に)「内容のない」感想に堕してしまったことをお詫びする。誰に?自分に。
とはいえ、やはり映画を「映画館で」観るという行為においては、その一回性に宿った記憶こそに価値があるという視点だって重要に思えてならない。というか、そう思わないと、面倒くさい劇場観賞にこだわり続けていられない(笑)
20本近くも挙げておいて、それでも「もれてしまった」と言わせてもらう映画たちは・・・
『6才のボク~』のせいで、ついつい忘れがちになってしまう『ビフォア・ミッドナイト』。前二作に比べると、自分が「通ってない」分、まだ身の丈に合ってないことが些か残念。
今年も気を吐きまくったマシューの3本。『ダラス・バイヤーズ・クラブ』、『MUD』、『インターステラー』(でも、正直、『インター~』は個人的にのれない側面も多分にあったけど、クリストファー・ノーランの気狂いっぷりは、水平化する映画界においてやっぱり重要に思えてしまう)。
『エヴァの告白』のラストシーンは目に焼きついてるし、『8月の家族たち』のラストソングはいつまでも心に鳴り響いていたものです。
これまで頭で唸ることはあっても、心が震えることがなかったアスガー・ファルハディ作品で始めて興奮、しかも終始着地を許さぬ昂揚で時間が流れた、『ある過去の行方』。
『鉄西区』で打ちのめされて以来、個人的にも重要な作家だったワン・ビンながら、正直近作は個人的にあまり素直に享受できない状況が続いてた。でも、『収容病棟』は『鉄西区』を観たときのように心をえぐられた。
『プロミスト・ランド』を観たのは、札幌の夜。ディノスシネマズ札幌のレイトショー、たった三人の観客。旅先ではあまり映画を観ないけど、今作は場所と旅の記憶と共にあることでより多くより深く語りかけられた。
『物語る私たち』の仕掛けほど、必要と誠実に満ちた仕掛けを私は知らない。(大袈裟)
東京国際映画祭は前述の通り、充実した観賞体験に溢れていたけれど、なかでも『十字架の道行き』と『白夜と配達人』は己の奥深くまで届いた重要作だった。形式への拘泥や服従が、やがて内容の遙かなる跳躍をうむ。
今年のフィルメックスは随分と粒ぞろいで、恒例の大いなるハズレとは無縁でちょっと寂しかったけど(笑)、なかでも最後に観た『プレジデント』は、「荒削りのよさ」を踏みにじる重厚さが胸にいつまでも残る名作の風格に魅せられた。おかげでコンペで観た良作の数々(『生きる』『ディーブ』『数立方メートルの愛』等)が霞んでしまったほどだったりもして。
フィルメックスの勢い(というか、余力?)で参加したフィンランド映画祭。期待値すら設定していなかったが為か、不意をつかれた好みの一作『コンクリートナイト』。色彩豊かな表現力に充ちたモノクロ的映像美に、女流作家と女流監督による少年期の揺らぎは新鮮な違和感を持続させ、いつまでも見終わらないような世界が展開されていた。
『自由が丘で』は、来年見直します。寝不足と疲労と昼下がりで、幾度も微睡みながら観てしまった初見ゆえ。でも、その微睡みと作品の佇まいが見事に融け合って、第三の作品が生まれたかのような夢現な体験は、特筆に値する・・・自己正当化(笑)
我ながら上記のベスト選出を眺めてみると、偏りや固まりが年々強まってるなぁ、と。
でも、まぁ、それも年を取ることの弊害であり、特権であり、ひとつの知恵かとも。
ただ、気づくのは、日本映画はもとよりアジア映画さえ1本もないということ。
これは、今年、それらに接する機会が少なかったことも影響しているとは思うけど、接することが少ないという事実自体、気持ち的に遠ざかりつつあるという気がしなくもない。
日本映画で好かったのは、『ホームレス理事長』『0.5ミリ』『紙の月』くらいかな。
いやぁ、本当に日本映画観てないのかな、今年。
アジア映画だと、『ドラッグ・ウォー』『昔のはじまり』『メルボルン』『TATSUMI』『西遊』『西遊記』かな。アジア映画は明らかに見逃した良作が多かった気がする。特に韓国映画。
大作系やアクション映画も変わらず好物なんだけど、こういう場で名を出す気分ではなくなりつつある保守化する老いる自我(笑)『ハンガー・ゲーム2』は、シリーズまるごと大好き宣言したくなる素晴らしさだったし、『ラッシュ/プライドと友情』だって興奮の坩堝。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の完成度は期せずしてゆえ受け止めきれなかった気がするし、評判悪かった『トランセンデンス』だってあれこれ考えながら楽しんだ。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』とか『イントゥ・ザ・ストーム』とかの一気呵成は劇場で味わってこそ。『GODZILLA』や『トランスフォーマー/ロスト・エイジ』はちゃんと初日に駆けつけて、IMAXでも再見しましたよ。ただね、今の自分にとって「大きな映画」はどうやらサイドな気分。
触れられなかった映画祭、イメージフォーラム・フェスティバル。今年も私的に充実観賞の連続で、『マナカマナ』『闇を呪う呪文』『ハレー』いずれも全く違うアプローチで全く違う琴線に触れまくり。
旧作を積極的に観ようとしないシネフィル失格な僕ですが、マルコ・ベロッキオ特集は嬉しくて仕方なく、未見だった『エンリコ四世』と『肉体の悪魔』はどちらも最高で、だからこそ『エンリコ四世』の残念すぎるVHS並の画質が悔やまれる。
春にはハル・ハートリー、夏にはダニエル・シュミットにベルイマン、秋にはジョン・フォード。
異才、奇才、名匠、巨匠。初めてだろうが再会だろうが、確実に邂逅がいつでも待ち受けるレトロスペクティヴ。そういえば、今年はビートニク映画祭なる素敵な企画もあった。オーディトリウム渋谷はなくなったけど。ロバート・フランクが撮った映画を二本(『チャパクア』『キャンディ・マウンテン』)を映画館で観られるなんて。『キャンディ・マウンテン』、本当に好きだった。
今年も本当にいろんな映画と出会えた一方で、映画をとりまく環境には今年も色んな「さよなら」つきまとい・・・。新宿ミラノもあと一日か。ミラノ1の大劇場も好きだったけど、シネマスクエアとうきゅうでは濃厚な出会いが幾度もあったっけ。ひとつの文化が消えるときっていうのは、消える運命ゆえに散り際もそれほど華々しくはないんだね。(と言いつつも、ここ数日の歌舞伎町は賑わっているのだろうが。)その一方で来年にはTOHOシネマズが新宿にもできて、恵比寿にはガーデンシネマが復活。容易く映画文化リバイバルになるとは思えないけど、このサバイバルは見守り続けよう。正直、映画から離れたがってる自分もいなくはないんだが(というより、別の方に興味の矛先がいきがち昨今)、産業的な「映画」が分岐点に来ているように、自分なりの「映画生活」もより自由に柔軟に見直してはしなやかに付き合っていきたいと思っています。そんななか、ブログをもうすこし身近にできれば好いんだけど・・・。
※旧ブログは移転しました(単純に移しただけです)。URLは以下の通り。
http://blog.goo.ne.jp/imaginary_possibilities
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