「日本を代表する写真家の一人である」らしい米田知子の個展。東京都写真美術館で開催中(9月23日迄)。
展覧会のタイトル「暗(やみ)なきところで逢えれば」は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の一節(We Shall meet in the place where is no darkness.)から。主人公ウィンストンの夢の中でオブライエンが語った言葉。同作にはちょっとした思い入れもある。大学時代に課題図書だったのだ。しかも、原書で読むことが義務づけられていた・・・はずなのに、大学の生協には大量の訳本が平積みだったけど。今となっては、自分がどの程度原書で読んだかすら忘れてしまっているが(試験前に慌てて読むという不真面目さゆえに)、きちんと原書で読んでおけばよかったという後悔が爾来まとわりついていることだけは確か。そんなやや複雑な想いと共にある作家ジョージ・オーウェル。贖罪(?)からか、彼の著作は古本でかなり買い集めたが、いまや免罪符のための免罪符が欲しいくらいに積読状態。それでもたまに広げる彼の本にはいつも、正しい絶望の在り方がある。
ジョージ・オーウェルの文章はきわめて男性的に思えるが、米田知子の写真はそういうわけでもない。かといって別にフェミニンというわけでもない。込み上げる企図を厳粛に抑圧しながら息をひそめて焼きつける。そんな誠実さがリアルな「客観」をとじこめる。ジャーナリズムがしばしば陥る客観幻想とは別次元の、誰の眼にも与しない私小説のような矛盾の在り方を心得る。
事実(客観的)は記憶に刻まれて、そこから生まれる真実(主観的)が歴史となる。時間をもたぬ写真は現在しか写せぬが、しかし実際のそれは常に過去である。しかし、それを見るものには常に現在が生じ続けるし、人間が持てるものは過去と現在だけである。それさえあれば描ける未来。それからしか描けぬ未来。現在は常に過去へと変換されて、記憶として記録されてゆく。実在の客観性は認知と共に脆くも消滅し、逞しき主観に実存として刻印される。そこに生じる「誤差」を、懐疑するでも制圧するでもなく、「正差」として位置づける。そうした前提がある限り、個人の主観に課せられた責任に言い訳の余地はない。そんな対峙が求められている。私はそう受け取った。
暗なきところで逢えれば。祈りにも近いその願い。永遠に祈り続けるその願い。暗がなければ明もない。闇なきところに光なし。絶望の正しい在り方。オーウェルが語り続けた言葉と共鳴する写真。
◇夜間開館の時間帯、同日に「世界報道写真展」も見たのだが、終了間近のそちらは随分と賑わっており、早々に米田知子の展示へ移動。こちらは展示毎に独りでじっくり見られる余裕の場内。映像作品の上映スペースからもれ聞こえる轟音が、会場全体に不穏の膜を張りめぐらして、日常から遮断する。報道写真展の「センセーショナルなドラマチックを見せつけられては感受を強要されている」場に流れる神妙と義務と慈愛。そこで感じた居心地の悪さが浮力となって、轟音響きわたる過剰な「静寂」に感応できた。ダイジェスト的散漫さと、断続的な断片としての各展示に物足りなさを感じつつ、だからこそ生じる間隙が、能動的な再構築を促しもする。二度目には一度目と別の写真が眼の前にある。現在が過去になった証左。記憶と向き合いながら、眼前を記憶する。円環構造で巡回可能な会場にすべき展示と思うのだけど、そうなっていないのが残念だ。(逆流すれば可能だし、展覧会ではいつもそうする私だが。いや、待てよ。もしかしたらそうした「逆流」こそを求めているのかも。なぜなら、記憶とは常に「遡る」しかできぬのだから。)
2013年8月9日金曜日
2013年8月2日金曜日
都市の無意識
東京国立近代美術館(竹橋)に足を運ぶときのささやかな楽しみは、小企画。現在は「プレイバック・アーティスト・トーク」という壮絶な手抜き企画展がメインとなっているが、同会期で開催中の小企画「都市の無意識」の方がやっぱり断然の見応えだった。とはいっても、やはりあの小スペースなので、扱っている(目指している)テーマに比べて物足りなさは否めぬが、いずれこのテーマで本格的な企画展を開催しようと目論んでのちょっとした実験というか準備の一環なのではないかと勝手な憶測してみたり。
「アンダーグラウンド」「スカイライン」「パランプセスト」という三つのテーマで、写真を中心に構成されている。最初の「アンダーグラウンド」の部屋では、1966年の岩波映画「東京もぐら作戦」(25分)が上映されている。その「実録」的な映像によって喚起され想起する〈都市〉が秘めたるさまざまな貌。溝(どぶ)は表面から消え、地下(裏面)に潜る。人間の営みによって生まれる〈廃〉は地上から姿を消し、地下へと匿われ、私たちがそういった現実を日々の生活で目の当たりにすることはなくなってゆく。都市化とは、現実の空洞化によって得られる虚構の充満化なのだろう。
畠山直哉の「川の連作」。数枚単位で見たことはあったが、今回のように9枚が横に連なっている展示は更に見応えがある。「意識的な自我」と「無意識な自我」に分裂してゆく様と符合するかのように都市が見え始めると語る畠山。各々が「等価」であるかのごとき二等分でありながら、縦の配置によって生じる「天地」「上下」の関係がそこにはある。下(水面)には上(街)の姿が映し出されている。どちらが意識で、どちらが無意識なのか。もはや区別も領分もないのだろうか。いや、それらはちょうど鉄道のように、「相互乗り入れ」があちこちで起こって来ているものなのかもしれない。
「スカイライン」の部屋では、スティーグリッツの小さな写真から始まり、火野葦平『アメリカ探検記』の挿絵として関野準一郎が描いた「墓とニューヨーク」が都市の再考に立ち止まらせる。ロサンゼルスに行ったとき、私はサンタモニカのビーチで、週末のたびに砂浜に並べられる数多の十字架を目撃した。イラクなどで亡くなったアメリカの軍人たちを悼むため、ボランティアがビーチに十字架を並べていたらしい。当初は亡くなった数だけ並べていたが、その数が余りにも厖大になり続けるために、一定の数を並べるように変更したという。週末にだけ砂浜に並べられる十字架は、その都度植えては片付けられる。そのすぐ向こうには観覧車があり、メリーゴーランドがあり(『スティング』に出てくる)、家族連れからカップルまで大勢で賑わい週末を楽しんでいた。そんな光景と余りにも重なり合う画に(しかも、それが東海岸と西海岸という見事な合わせ鏡のように)潜在を顕在化させることで闇を葬り去ろう(駆逐しよう)とする〈都市〉の自虐な自律に自浄な事情を思わせもした。
続く久保田博二(マグナム・フォト正会員でもある)の「ニューヨーク市、ニューヨーク州」(1989)に目を奪われる。黒いシルエットのビル群に差し込む幾筋かの赤色陽光が、まるで地割れによって浮かび上がろうとするマグマを思わせる。夜明け前の都市の静寂がもつ不穏に耳をすますとき、破滅への胎動が聞こえてくる?
勝又公仁彦の「Skyline」シリーズは都市の権威を優しく美しく諫めてくれる。画面の九割超を占める空(そら)。地上のどんなに高いビルでも、ほんの数センチという誤差の世界。映画でも、最近この構図に頻繁に出会う。『風立ちぬ』でも執拗なまでに用いられていた(今までの宮崎作品などで象徴的に用いられたりした記憶が私にはない)「不自然」による自然への回帰。
最後の部屋は「パランプセスト(Palimpsest)」。ここには、普段は常設展にある佐伯祐三の「ガス灯と広告」があり、常設よりも本領発揮の居場所に活き活きして見える。また、高梨豊の写真は、同美術館で2009年に開かれた彼の個展「光のフィールドノート」でも展示されていた「都市のテキスト 新宿」シリーズから。
やはり、扱うテーマに対してこのスペースは、この作品数では物足りない。しかし、そうした飢餓感は、次なる本格展への期待へと高まってゆく。〈都市〉をテーマに絵画・彫刻・写真は勿論、映像の記録や映像作品なども含め、音響などによる演出やコラボまでも駆使し、世界史的な都市と日本史的な都市の変遷と現在を浮かび上がらせる。そんな企画展が近い将来開かれる、そんな期待を秘かに膨らます。
※メイン企画の「プレイバック・アーティスト・トーク」は、大盛況だったベーコン展の反動かのような粗末さながら、入場者は文庫サイズの小冊子(出品者のトークを文章化したものを集めている)をもらえたりする(免罪符なのか!?)ので、650円とお安い設定でもあるし、一応そちらも見てから常設展と小企画を観るって流れもありかと。ちなみに、メイン企画も小企画もあと二日で終了で、最終日の8月4日は常設展と小企画は無料観覧日に当たるとか。
「アンダーグラウンド」「スカイライン」「パランプセスト」という三つのテーマで、写真を中心に構成されている。最初の「アンダーグラウンド」の部屋では、1966年の岩波映画「東京もぐら作戦」(25分)が上映されている。その「実録」的な映像によって喚起され想起する〈都市〉が秘めたるさまざまな貌。溝(どぶ)は表面から消え、地下(裏面)に潜る。人間の営みによって生まれる〈廃〉は地上から姿を消し、地下へと匿われ、私たちがそういった現実を日々の生活で目の当たりにすることはなくなってゆく。都市化とは、現実の空洞化によって得られる虚構の充満化なのだろう。
畠山直哉の「川の連作」。数枚単位で見たことはあったが、今回のように9枚が横に連なっている展示は更に見応えがある。「意識的な自我」と「無意識な自我」に分裂してゆく様と符合するかのように都市が見え始めると語る畠山。各々が「等価」であるかのごとき二等分でありながら、縦の配置によって生じる「天地」「上下」の関係がそこにはある。下(水面)には上(街)の姿が映し出されている。どちらが意識で、どちらが無意識なのか。もはや区別も領分もないのだろうか。いや、それらはちょうど鉄道のように、「相互乗り入れ」があちこちで起こって来ているものなのかもしれない。
「スカイライン」の部屋では、スティーグリッツの小さな写真から始まり、火野葦平『アメリカ探検記』の挿絵として関野準一郎が描いた「墓とニューヨーク」が都市の再考に立ち止まらせる。ロサンゼルスに行ったとき、私はサンタモニカのビーチで、週末のたびに砂浜に並べられる数多の十字架を目撃した。イラクなどで亡くなったアメリカの軍人たちを悼むため、ボランティアがビーチに十字架を並べていたらしい。当初は亡くなった数だけ並べていたが、その数が余りにも厖大になり続けるために、一定の数を並べるように変更したという。週末にだけ砂浜に並べられる十字架は、その都度植えては片付けられる。そのすぐ向こうには観覧車があり、メリーゴーランドがあり(『スティング』に出てくる)、家族連れからカップルまで大勢で賑わい週末を楽しんでいた。そんな光景と余りにも重なり合う画に(しかも、それが東海岸と西海岸という見事な合わせ鏡のように)潜在を顕在化させることで闇を葬り去ろう(駆逐しよう)とする〈都市〉の自虐な自律に自浄な事情を思わせもした。
続く久保田博二(マグナム・フォト正会員でもある)の「ニューヨーク市、ニューヨーク州」(1989)に目を奪われる。黒いシルエットのビル群に差し込む幾筋かの赤色陽光が、まるで地割れによって浮かび上がろうとするマグマを思わせる。夜明け前の都市の静寂がもつ不穏に耳をすますとき、破滅への胎動が聞こえてくる?
勝又公仁彦の「Skyline」シリーズは都市の権威を優しく美しく諫めてくれる。画面の九割超を占める空(そら)。地上のどんなに高いビルでも、ほんの数センチという誤差の世界。映画でも、最近この構図に頻繁に出会う。『風立ちぬ』でも執拗なまでに用いられていた(今までの宮崎作品などで象徴的に用いられたりした記憶が私にはない)「不自然」による自然への回帰。
最後の部屋は「パランプセスト(Palimpsest)」。ここには、普段は常設展にある佐伯祐三の「ガス灯と広告」があり、常設よりも本領発揮の居場所に活き活きして見える。また、高梨豊の写真は、同美術館で2009年に開かれた彼の個展「光のフィールドノート」でも展示されていた「都市のテキスト 新宿」シリーズから。
やはり、扱うテーマに対してこのスペースは、この作品数では物足りない。しかし、そうした飢餓感は、次なる本格展への期待へと高まってゆく。〈都市〉をテーマに絵画・彫刻・写真は勿論、映像の記録や映像作品なども含め、音響などによる演出やコラボまでも駆使し、世界史的な都市と日本史的な都市の変遷と現在を浮かび上がらせる。そんな企画展が近い将来開かれる、そんな期待を秘かに膨らます。
※メイン企画の「プレイバック・アーティスト・トーク」は、大盛況だったベーコン展の反動かのような粗末さながら、入場者は文庫サイズの小冊子(出品者のトークを文章化したものを集めている)をもらえたりする(免罪符なのか!?)ので、650円とお安い設定でもあるし、一応そちらも見てから常設展と小企画を観るって流れもありかと。ちなみに、メイン企画も小企画もあと二日で終了で、最終日の8月4日は常設展と小企画は無料観覧日に当たるとか。
2013年7月5日金曜日
夏目漱石の美術世界展
終了間近(7月7日迄)に駆け込みで観てきた。後悔。二ヶ月近くも開催されていたのに、今頃になってのこのこと・・・あぁ、後悔。隙間の時間で駆けつけたものだから、1時間ちょっとしか観られなかったことも、大後悔。そう、実に面白い。見事に興味深い!
この展覧会は、漱石および漱石作品にまつわる美術のさまざまが一堂に会した玩具箱的漱石芸術祭。最初の展示室で、『坊っちゃん』で語られる「ターナーの画にありそうな松」の画(本物!)に出会ってしまうから驚き。こういった展開で展覧される文学と美術の知的かつ総合芸術的饗宴は、右脳と左脳を横断刺激!テート・モダンから借りてきた画をはじめ、ターナーの絵画はおそらく今秋開催されるターナー展用のものだったのかなとも思うけど、こういう正しき流用こそ知的財産圏。
同じくテート・モダンからのブリトン・リヴィエアー「ガダラの豚の奇跡」は、『夢十夜』「第十夜」のイメージ源泉だとされるだけあって、とんでもない怪力で迫ってくる。そもそも、「漱石が、この画を見た記憶からうまれた作品」に心酔し、その作品の源泉が現前に在るという興奮。時空を超えて地続きにさせる、物質力。そう、これは「データ」「デジタル」の時代ではもたらし得ない質量絵巻。
漱石の興味関心が高かった日本の古美術作品の展示も充実していたが、作品との連動企画のなかには新作まである。『虞美人草』に登場する「銀屏」を甦らせた(?)のだ。作者(酒井抱一)のコメントが粋である。「今は新品の銀屏だが、完成はこれから百年の経年で示されよう。」 素晴らしき哉、時間旅行。
漱石にさほど詳しくなくとも大興奮なのは、日本において最多読了数(推定)を誇る文学長編作品『こころ』にまつわる二つの展示。まずは、渡辺崋山による「邯鄲」の画。崋山が自刃する直前、「この画を描くために死期を繰り延べた」というエピソードを、「先生」は自らの状況と重ねて筆を置こうとしていたのだが、まさにその画が今ここにある・・・。そして、その『こころ』の漱石直筆原稿も展示されている。実際に見られるのは、最後の一枚(「下(先生と遺書)」の最後の最後)だけなのだが、デジタル化の大波に呑まれまくってる昨今だけに、その直筆が放つオーラには心地好い眩暈。
漱石自身による画や書も多数展示されていたりする。丹念に描かれた画には、「憧れ」が溢れている。技術的には丁寧な努力の痕が際立っており、ということは才気横溢な気配は乏しく、それがより一層「言葉による芸術」の創造主としてとんでもない高みへ昇らせたように思えてくる。書もやはり秀作どまり的な印象しか受けないが、漱石の愛した陶淵明「帰去来辞」を揮毫した書は至上の感動。私も「帰去来辞」は隈無く好きな詩で、書の全篇をこの眼で見たかった(巻物の一部のみが見られるようになっていた展示だったので)。
2010年に国立西洋美術館で開かれた「フランク・ブラングィン展」でも紹介されていたが、漱石の『それから』の中でブラングィンの名が言及されている。今回の展覧会でも彼の画が一点展示されていたが、「働く男」を描いた画が特に好きだったという漱石の嗜好が興味深く、今回の展示で漱石の美意識が(あくまで個人的に、自分の中で、ではあるが)より鮮明になりつつあるように思えても来た。明らかに「華美」なものには近寄らず、かといって老荘的な境地に逃げるわけでもなく、時代と対峙する矜持と現実に絡め取られぬ幻夢の世界、それらを自由に行き来する精神で、古今東西有名無名問わず、「共感者」として美の探求に切磋琢磨できる存在との出会いに貪欲であり続けたのだろう。新聞小説という通俗と、長編小説の芸術を、両立させた類い希なる(いや、唯一無二の)真の文豪による真実の眼差しの背景を少しだけ垣間見られた気がした。
尚、東京で終了の後は静岡県立美術館で7月13日から8月25日まで開催されるようだ。図録を隅々まで熟読し、静岡遠征しようかな。
この展覧会は、漱石および漱石作品にまつわる美術のさまざまが一堂に会した玩具箱的漱石芸術祭。最初の展示室で、『坊っちゃん』で語られる「ターナーの画にありそうな松」の画(本物!)に出会ってしまうから驚き。こういった展開で展覧される文学と美術の知的かつ総合芸術的饗宴は、右脳と左脳を横断刺激!テート・モダンから借りてきた画をはじめ、ターナーの絵画はおそらく今秋開催されるターナー展用のものだったのかなとも思うけど、こういう正しき流用こそ知的財産圏。
同じくテート・モダンからのブリトン・リヴィエアー「ガダラの豚の奇跡」は、『夢十夜』「第十夜」のイメージ源泉だとされるだけあって、とんでもない怪力で迫ってくる。そもそも、「漱石が、この画を見た記憶からうまれた作品」に心酔し、その作品の源泉が現前に在るという興奮。時空を超えて地続きにさせる、物質力。そう、これは「データ」「デジタル」の時代ではもたらし得ない質量絵巻。
漱石の興味関心が高かった日本の古美術作品の展示も充実していたが、作品との連動企画のなかには新作まである。『虞美人草』に登場する「銀屏」を甦らせた(?)のだ。作者(酒井抱一)のコメントが粋である。「今は新品の銀屏だが、完成はこれから百年の経年で示されよう。」 素晴らしき哉、時間旅行。
漱石にさほど詳しくなくとも大興奮なのは、日本において最多読了数(推定)を誇る文学長編作品『こころ』にまつわる二つの展示。まずは、渡辺崋山による「邯鄲」の画。崋山が自刃する直前、「この画を描くために死期を繰り延べた」というエピソードを、「先生」は自らの状況と重ねて筆を置こうとしていたのだが、まさにその画が今ここにある・・・。そして、その『こころ』の漱石直筆原稿も展示されている。実際に見られるのは、最後の一枚(「下(先生と遺書)」の最後の最後)だけなのだが、デジタル化の大波に呑まれまくってる昨今だけに、その直筆が放つオーラには心地好い眩暈。
漱石自身による画や書も多数展示されていたりする。丹念に描かれた画には、「憧れ」が溢れている。技術的には丁寧な努力の痕が際立っており、ということは才気横溢な気配は乏しく、それがより一層「言葉による芸術」の創造主としてとんでもない高みへ昇らせたように思えてくる。書もやはり秀作どまり的な印象しか受けないが、漱石の愛した陶淵明「帰去来辞」を揮毫した書は至上の感動。私も「帰去来辞」は隈無く好きな詩で、書の全篇をこの眼で見たかった(巻物の一部のみが見られるようになっていた展示だったので)。
2010年に国立西洋美術館で開かれた「フランク・ブラングィン展」でも紹介されていたが、漱石の『それから』の中でブラングィンの名が言及されている。今回の展覧会でも彼の画が一点展示されていたが、「働く男」を描いた画が特に好きだったという漱石の嗜好が興味深く、今回の展示で漱石の美意識が(あくまで個人的に、自分の中で、ではあるが)より鮮明になりつつあるように思えても来た。明らかに「華美」なものには近寄らず、かといって老荘的な境地に逃げるわけでもなく、時代と対峙する矜持と現実に絡め取られぬ幻夢の世界、それらを自由に行き来する精神で、古今東西有名無名問わず、「共感者」として美の探求に切磋琢磨できる存在との出会いに貪欲であり続けたのだろう。新聞小説という通俗と、長編小説の芸術を、両立させた類い希なる(いや、唯一無二の)真の文豪による真実の眼差しの背景を少しだけ垣間見られた気がした。
尚、東京で終了の後は静岡県立美術館で7月13日から8月25日まで開催されるようだ。図録を隅々まで熟読し、静岡遠征しようかな。
2013年5月10日金曜日
フランシス・ベーコン展
恒常的美術愛好家に限らず、広く注目を集めるような美術展がたまに開かれるが、「べーこんてん」はまさにその類のイベントといった趣、を感じる。そうした感慨は、自身でも覚える。
個人的には「実に興味深い」感覚は抱けても、「心底感応」するタイプの画家ではない、フランシス・ベーコン。とはいえ、まとまった作品を目の当たりにしたことがある訳でもないので、今回の好機は確かに貴重。
その力強さや強烈な個性には激しく揺さぶられる想いを味わいながらも、今回の展示作品数33点という少なさが残念でもある。これから、という佳境な気分の眼前に現れる「出口」の二文字。クレーム回避(といえば大袈裟か)とはいえ、しつこいほどに「ガラス越しの鑑賞を強いるのはベーコン本人の意志」的なエクスキューズ(=だから映り込み激しくて見づらくても我慢してね)の断り書きがしばしば添えられているという無粋仕様にも何だか興醒め。とはいえ、存り難い価値を内包した企画であることは私などでもわかる。(作品の掻き集めには随分苦労したように思われるし。)
16世紀から17世紀にかけて生きたフランシス・ベーコンが「知は力なり」と言って近代の礎を是認したのに対し、20世紀の80年強を生きたフランシス・ベーコンは近代が生み落とした怪物に悶え苦しむ人間の裏面を暴き出し、「血こそ力なり」とでも言いたげだ。人間の理性が世界を切り拓くことを唱道した近代黎明期の哲学者に対し、理性という軛からの解放を叫ばんとする近代終焉への祈り。
少ない点数とはいえ、こうしてまとまってベーコン作品を目の当たりにしてみると、メディア等で接する彼の作品から受ける短絡的なイメージ(あくまで私のなかでそうだった、という話かもしれないが)とは相当に異なる帰結が待っていた。迸る存在感というよりも、喪失直前の叫びのような。横溢する生命力よりも、消失に喘ぐ孤絶な魂。キャンバス全体に比すれば極めて「孤立」として浮かぶ人物。しかも、それはいつも単独なのだ。展示の解説文には、体が透けたスフィンクスに「それでも漲る存在感」というような評があったが、私にはむしろ「スフィンクス(=人類による文明?)の卑小さ(反永遠性?)」こそが迫り来る。画面の半分近くを閉める闇たる虚空が何よりもそれを物語っている。「教皇」シリーズに関しては、「ベーコンは宗教(の崇高さ?)に強い関心を持っていたに違いない」的な解説文もあったと思うが、ベーコンが関心を寄せたのは宗教や信仰そのものというよりも、聖俗の狭間で揺れ動いたり分裂しそうな人間の葛藤にこそ興味があったのではないかと私は思う。もだえ、もがき、もみつぶす。脳の産物である社会の強大な圧力に、心ある人間の不完全さが抗い敗れ、それでも擦れ、違う。緘黙の背景(社会)と、雄弁な身体(人間)。すれ違い続けること、それだけが唯一つの真実。そんな風にベーコンは、私に語りかけてくれていた。
フランシス・ベーコン展は、東京国立近代美術館で5月26日迄。豊田市美術館では、6月8日から。
個人的には「実に興味深い」感覚は抱けても、「心底感応」するタイプの画家ではない、フランシス・ベーコン。とはいえ、まとまった作品を目の当たりにしたことがある訳でもないので、今回の好機は確かに貴重。
その力強さや強烈な個性には激しく揺さぶられる想いを味わいながらも、今回の展示作品数33点という少なさが残念でもある。これから、という佳境な気分の眼前に現れる「出口」の二文字。クレーム回避(といえば大袈裟か)とはいえ、しつこいほどに「ガラス越しの鑑賞を強いるのはベーコン本人の意志」的なエクスキューズ(=だから映り込み激しくて見づらくても我慢してね)の断り書きがしばしば添えられているという無粋仕様にも何だか興醒め。とはいえ、存り難い価値を内包した企画であることは私などでもわかる。(作品の掻き集めには随分苦労したように思われるし。)
16世紀から17世紀にかけて生きたフランシス・ベーコンが「知は力なり」と言って近代の礎を是認したのに対し、20世紀の80年強を生きたフランシス・ベーコンは近代が生み落とした怪物に悶え苦しむ人間の裏面を暴き出し、「血こそ力なり」とでも言いたげだ。人間の理性が世界を切り拓くことを唱道した近代黎明期の哲学者に対し、理性という軛からの解放を叫ばんとする近代終焉への祈り。
少ない点数とはいえ、こうしてまとまってベーコン作品を目の当たりにしてみると、メディア等で接する彼の作品から受ける短絡的なイメージ(あくまで私のなかでそうだった、という話かもしれないが)とは相当に異なる帰結が待っていた。迸る存在感というよりも、喪失直前の叫びのような。横溢する生命力よりも、消失に喘ぐ孤絶な魂。キャンバス全体に比すれば極めて「孤立」として浮かぶ人物。しかも、それはいつも単独なのだ。展示の解説文には、体が透けたスフィンクスに「それでも漲る存在感」というような評があったが、私にはむしろ「スフィンクス(=人類による文明?)の卑小さ(反永遠性?)」こそが迫り来る。画面の半分近くを閉める闇たる虚空が何よりもそれを物語っている。「教皇」シリーズに関しては、「ベーコンは宗教(の崇高さ?)に強い関心を持っていたに違いない」的な解説文もあったと思うが、ベーコンが関心を寄せたのは宗教や信仰そのものというよりも、聖俗の狭間で揺れ動いたり分裂しそうな人間の葛藤にこそ興味があったのではないかと私は思う。もだえ、もがき、もみつぶす。脳の産物である社会の強大な圧力に、心ある人間の不完全さが抗い敗れ、それでも擦れ、違う。緘黙の背景(社会)と、雄弁な身体(人間)。すれ違い続けること、それだけが唯一つの真実。そんな風にベーコンは、私に語りかけてくれていた。
フランシス・ベーコン展は、東京国立近代美術館で5月26日迄。豊田市美術館では、6月8日から。
2013年5月7日火曜日
マリオ・ジャコメッリ写真展
連休中には映画祭の合間を縫って、いくつかの展覧会にも足を運んでみたが、東京都写真美術館で開催中(終了迫る!5/12迄!)のマリオ・ジャコメッリ写真展には打ちのめされるほどの心服の念で全身が畏怖してしまった。
白、それは虚無。黒、それは傷痕。
写真展に添えられたジャコメッリの言葉。実在感を喪失したかのような「白」の背景は、滅亡でも忘却でもない「無」の世界をたたえている。そこに浮かび上がる「黒」は自然、如何ともし難い眼前の頑然堅固な現実を灯しては、佇み続けてる。しかし、その「強すぎる黒」が放つ躍動に私は心掻き乱され、その向こうに見える深遠なる深淵が今にも魂を吸いつくさんばかりに迫ってくる。こんなにも「動いている」モノクロ写真は見たことがない。それが私のジャコメッリの写真に対する、第一かつ最終印象だ。
写真術の発明により、人間の視覚を「遠近法」に閉じ込めた近代。視点は固定され、中心が設定され、世界の無辺際や流動は切り取り切り捨てられて来た。しかし、ジャコメッリの写真を見ていると、「フレーム」による有限・限定・固定・停止がむしろ、無限の起点に思えてしまう。切り取ったからこそ感じられる「切り取られ(取れ)なかったもの」がフレームの〈奥〉に蠢いている。そして、それはむしろ空間的なものよりも、時間的なものとして内包されている。
以下は、写真展でみかけたジャコメッリの言葉だ。
それぞれの映像が一つの瞬間であり
それぞれの瞬間が一つの呼吸の様なものだ。
一つ前の呼吸が次の呼吸より大切だということはない。
呼吸はすべて停止するまで次々と続く。
写真はいわば「停止」の芸術だ。それでは、その「停止」によって写真は呼吸を止めたのだろうか。
呼吸を止めた世界、それは我々が肉眼では実際に見ることのできない世界であり、写真の術であると同時に業でもある。こんなにも愛おしい瞬間が、愛おしい視点(視界)がこの世界にあるという喜び。それを永遠にする術。しかし、死んだからこそ生き続けているという業。ところが、ジャコメッリの「停止」には、息を止めたからこそ感じられる内なる鼓動のような心音が聞こえてくる。固定された中心には息が吹き込まれ、やがてそれは動き出す。封じ込まれた流動は、解放されて躍動し出す。セザンヌの絵をみているときのようなバクつく心臓を感じてしまう。
人が風景であり、風景が人である。肖像画の風景、風景画の肖像。
虚無たる白に刻まれる黒は、白紙に記されゆく言葉でもあるのだろう。
生の証としての黒、死への導きとしての黒。しかし、そのどれもが生をも死をも内包してる。
白、それは虚無。黒、それは傷痕。
写真展に添えられたジャコメッリの言葉。実在感を喪失したかのような「白」の背景は、滅亡でも忘却でもない「無」の世界をたたえている。そこに浮かび上がる「黒」は自然、如何ともし難い眼前の頑然堅固な現実を灯しては、佇み続けてる。しかし、その「強すぎる黒」が放つ躍動に私は心掻き乱され、その向こうに見える深遠なる深淵が今にも魂を吸いつくさんばかりに迫ってくる。こんなにも「動いている」モノクロ写真は見たことがない。それが私のジャコメッリの写真に対する、第一かつ最終印象だ。
写真術の発明により、人間の視覚を「遠近法」に閉じ込めた近代。視点は固定され、中心が設定され、世界の無辺際や流動は切り取り切り捨てられて来た。しかし、ジャコメッリの写真を見ていると、「フレーム」による有限・限定・固定・停止がむしろ、無限の起点に思えてしまう。切り取ったからこそ感じられる「切り取られ(取れ)なかったもの」がフレームの〈奥〉に蠢いている。そして、それはむしろ空間的なものよりも、時間的なものとして内包されている。
以下は、写真展でみかけたジャコメッリの言葉だ。
それぞれの映像が一つの瞬間であり
それぞれの瞬間が一つの呼吸の様なものだ。
一つ前の呼吸が次の呼吸より大切だということはない。
呼吸はすべて停止するまで次々と続く。
写真はいわば「停止」の芸術だ。それでは、その「停止」によって写真は呼吸を止めたのだろうか。
呼吸を止めた世界、それは我々が肉眼では実際に見ることのできない世界であり、写真の術であると同時に業でもある。こんなにも愛おしい瞬間が、愛おしい視点(視界)がこの世界にあるという喜び。それを永遠にする術。しかし、死んだからこそ生き続けているという業。ところが、ジャコメッリの「停止」には、息を止めたからこそ感じられる内なる鼓動のような心音が聞こえてくる。固定された中心には息が吹き込まれ、やがてそれは動き出す。封じ込まれた流動は、解放されて躍動し出す。セザンヌの絵をみているときのようなバクつく心臓を感じてしまう。
人が風景であり、風景が人である。肖像画の風景、風景画の肖像。
虚無たる白に刻まれる黒は、白紙に記されゆく言葉でもあるのだろう。
生の証としての黒、死への導きとしての黒。しかし、そのどれもが生をも死をも内包してる。
2013年4月28日日曜日
LOVE展
六本木ヒルズ・森美術館10周年記念展として一昨日から始まった「LOVE展-アートにみる愛のかたち:シャガールから草間彌生、初音ミクまで」を覗いて来た。今月末までのチケットが手元にあったのと、イタリア映画祭の観賞作品の合間を埋めるため。
基本的に美術館には平日の空いていそうな時間帯を狙って赴き、まったりじっくり徘徊するのが我が慣例ながら、「LOVE展」はむしろ色んな人たちで賑わってる中で観て廻る方が「正しい」気もしたし。
それにしても、「10周年記念」でこの展覧会はないよな。おまけに、9月1日まで開催ってさ・・・夏休み終わるまでやってるんだよ。既視感にとらわれる作品のみならず、実際既視な作品も少なくないし(日本国内の美術館所蔵品もかなりある)、テーマがテーマだけに(大きすぎる故に)、何でもあてはまる=都合好く掻き集められる=とりあえず集められたものにもっともらしい言い訳考える・・・そんな素人パッチワークな失笑展覧会。「ネーム」的な不足感もさることながら、展示されている作品の実に面白くないこと、この上なし。元来、そうした傾向がなくもなかった「展望台に来た人のオプション」的色合が顕著になる一方の、森美術館。
2008年に国立新美術館で開催された「アヴァンギャルド・チャイナ-〈中国当代美術〉二十年-」で観たジャン・シャオガンの画に再会したのは嬉しかったし(その時にはなかったかもしれぬ、沖縄県立博物館・美術館の所蔵作品はよかった)、唐突に心許なく置かれているロダンの「接吻」は「いつもの上野」から出張してきた場違い感が相対化の鮮度をアップ。草間彌生の新作「愛が呼んでいる」は、「撮影可」を謳っているものだから、ここぞとばかりに(観賞よりも)撮影にばかり精を出している観覧者が面白い。
見終わって残るのはLOVEじゃなく、むしろ虚無感、それも0(ラブ)。
基本的に美術館には平日の空いていそうな時間帯を狙って赴き、まったりじっくり徘徊するのが我が慣例ながら、「LOVE展」はむしろ色んな人たちで賑わってる中で観て廻る方が「正しい」気もしたし。
それにしても、「10周年記念」でこの展覧会はないよな。おまけに、9月1日まで開催ってさ・・・夏休み終わるまでやってるんだよ。既視感にとらわれる作品のみならず、実際既視な作品も少なくないし(日本国内の美術館所蔵品もかなりある)、テーマがテーマだけに(大きすぎる故に)、何でもあてはまる=都合好く掻き集められる=とりあえず集められたものにもっともらしい言い訳考える・・・そんな素人パッチワークな失笑展覧会。「ネーム」的な不足感もさることながら、展示されている作品の実に面白くないこと、この上なし。元来、そうした傾向がなくもなかった「展望台に来た人のオプション」的色合が顕著になる一方の、森美術館。
2008年に国立新美術館で開催された「アヴァンギャルド・チャイナ-〈中国当代美術〉二十年-」で観たジャン・シャオガンの画に再会したのは嬉しかったし(その時にはなかったかもしれぬ、沖縄県立博物館・美術館の所蔵作品はよかった)、唐突に心許なく置かれているロダンの「接吻」は「いつもの上野」から出張してきた場違い感が相対化の鮮度をアップ。草間彌生の新作「愛が呼んでいる」は、「撮影可」を謳っているものだから、ここぞとばかりに(観賞よりも)撮影にばかり精を出している観覧者が面白い。
見終わって残るのはLOVEじゃなく、むしろ虚無感、それも0(ラブ)。
登録:
投稿 (Atom)