2016年12月31日土曜日

2016年の映画ベスト10


評価とかじゃなく、気に入った10本。(観た順)



ザ・ウォーク(ロバート・ゼメキス)

事実が素敵だし、その物語が魅力だし、実際の人たちも愛おしく。

『マン・オン・ワイヤー』も、原作(?…本の方)も繰り返し触れたのは、

きっと憧れとしか言い得ない引きつけられ方をしているからで、

ロバート自身もこれまで「落ちる」恐怖より「浮く」興奮に魅せられてきて、

そんな夢見だけでしっかりとこの映画もつくっちゃってくれたから、好きしかない。


サウルの息子(ネメシュ・ラースロー)

ハンガリーでの氏名はまさに氏・名の順。(日本と同じ)

誰かが書いてたけど、西欧中心主義への抵抗的な歴史の産物とか。

手法の新しさが必ずしも視点の新しさを生むとは限らないけど、

それは作る方の問題であると同時に、観る方の問題でもあると思う。



人生は小説よりも奇なり(アイラ・サックス)

個人的に今年の最も辛い時期に最も救われた作品。

救いとは、上から腕をつかんで引っ張り上げてくれることではない。

そこに居たいだけ居ればいい、痛いだけ痛がればいい、

そこからだって、そこそこ好い景色が見えてるかもしれない。

見てないだけで。見ようとしないだけ。見てみるだけでいい。


さざなみ(アンドリュー・ヘイ)

人生なんて所詮、「まぼろし」に過ぎない。

その「まぼろし」をどれだけ信じ抜けるか。信じる者は救われる。

過去も神も、誰にも見えず、証明できないから、信じた分だけ正しさがある。

と、思いたいだけかもしれない。


シング・ストリート(ジョン・カーニー)

大きくなっても「シング」を忘れない。

「ストリート」だって忘れない。

僕はウキウキ、彼女がウェイク・ミー・アップ。

船出の先には、はじまりのうた。



ハドソン川の奇跡(クリント・イーストウッド)

イーストウッドを「神」とか称する風潮が、実は好き。

言語化に苦慮する専門家の敗北宣言としか思えないから。

そして、それを意図せずやろうとしているクリント爺さんの

悪戯っ子まるだしの腕白感がたまらなく「超人」的だから。



ノクトラマ(ベルトラン・ボネロ)

『サンローラン』から俄然支持しかし得なくなった彼の冗長さが骨身に沁みる。

今のボネロのリズムは、今の自分と共振してて、何をやっても引きずられる。

だから、いつ訣別しても悔いはない。けど、今は好き。



牯嶺街少年殺人事件(エドワード・ヤン)

僕が映画を好きになった頃には既に見られなくなってた幻、

「語られてる」のをいつも指くわえて見てるだけの歴史の1ページ。

ビデオテープも持ってたし、クライテリオンから出たブルーレイも入手した。

のに、そのような形でめくってはいけないような気がした1ページ。

11月3日に寝不足のなか、偶々早く目が覚めて気まぐれクリック、残席チェック。

あっさりと射し込んだ光明。呆気ない幕切れは呆気にとられる幕開け。

フレームの外で膨張し続けた時間が押しつぶすかと思われた236分。

膨張したのは236分の方だった。



リトル・メン(アイラ・サックス)

『牯嶺街少年殺人事件』の後の上映を観る予定だった。

いや、本当は『牯嶺街少年殺人事件』は観られないはずだったから、

そういうオーダーじゃなかったはずなんだけどそうなった、偶然。いや、必然?

観ないで帰ろうとも思った、当然。だけど、やっぱり観てよかった。釈然。

「少年」の多様さを圧して均して凡庸にするのはいつも、大人の方。判然。



この世界の片隅で(片渕須直)

この監督は、前作まで本当に苦手だった。

新海誠も同様で、どちらも新作観るつもりなかったのに、

世間の話題のせいで(おかげで)観ることができた。どちらも確かによかった。

好きかどうかで言ったら一瞬逡巡するけれど、

喉にひっかかった魚の骨のような気になり方が尾を引いてしまう。

とれた途端に、あの違和感が突如愛おしくなる。けど、説明できない。

不要じゃないけど、必要でもない説明。感じると語るのあわいをうめつくす。



今年観た映画のリストをざーっと見ながら、

とりあえず優先的に印をつけてみたらちょうど10本だったので、10本に。

とはいえ、かなり抜けのあるリストなので、

後から『光りの墓』とか『キャロル』とか重要作が抜けてることに気づくも、

抜けてたことに気づけなかったということは、

この度は御縁が無かったということで。

そんなリストなので、記録的にも(ましてや本数的には)あやふやながら、

恐らく今年(劇場で)観た映画は200本いかないくらいかな、と。

年々減り続けて、ようやく最適ラインまでもう一歩というところかも。

二日に一本くらいが、ちょうど好い気がしますが、

現実の生活で充実を図るなら三日に一本くらいにしといた方が好いし、

一週間に一本にしたら、もうちょっと素敵な世界が拓けるかも(笑)


近年は、映画は「観たい時(期)、観たい場所でしか観ない」をモットーに、

好きではない映画館でかかっている場合は迷わず選択肢から外すし、

実生活での想いや流れとミスマッチなうちには観るべき映画も観に行かない。

逆に、理由はどうであれ観たいと思ったら迷わず行くし、その逆もまた然り。

ただ、気が進まぬ時や場所でも、帰り道に「来て好かった」と思うこと少なくなく、

多少の無理はときどき許すという無理のなさが目標。(連鎖する無理という矛盾)

語っている対象の魅力が語っている自分を照らしてくれる年頃はもう過ぎたので、

語っている自分が語っている対象を魅力的にできるような生き方をめざしたい。

途方もなく高尚な目標だけど、なれなくても近づくことはできると思う。


10本以外の映画についても振り返る。


昨年末公開だから、選外をお許し願ったものの、

ファティ・アキンの深刻はやっぱり刺さる、『消えた声が、その名を呼ぶ』。

角川シネマ有楽町は、そんなに行かないけど、行くと必ず私的名作に出会える場所。

(「そんなに行かない」のに「わざわざ行く」のだから、それは必定か。)

『奇蹟がくれた数式』も地味ながら、好かったなぁ。

ラマヌジャンの伝記も頑張って読んだから余計。



最近は、日本でも色んな形で日の目を見るようになった外国映画が増えたせいか、

小さめのイベント系映画祭(特集)上映未公開作が小粒(ニッチ)化の傾向にある。

気がしてしまうのは個人的な好みからの独断かもしれないけれど、

北欧系の作品にはまだまだ未紹介な逸品が眠っているのかもしれない。が、

今年の北欧系映画祭では、あまり出会えなかった。

本数観てないからかもしれないけれど。


ただ、その一方で、今年初参加したイベント「GEORAMA2016」が

極上のラインナップで、連日チップを何枚も弾みまくり(たい気分だった)。

ドン・ハーツフェルトの話を二回も聞けたし、牧野貴の映像と音楽も浴びられたし、

日本未公開の長編(おそるべき傑作ぞろい)を何本も観られたし。

ディエゴ・ゲラ監督の『追放(Banished)』なんか2回も観に行ってしまったし、

韓国で今年大ヒットの『釜山行き』の監督ヨン・サンホによる『フェイク』とか、

まさにアニメの新地平。(アニメであれなら、実写では楽勝だろう・・・)

GEORAMA主宰の土居伸彰さんが起ち上げた「NEW DEER」配給の『父を探して』も

抜群に素晴らしかった。語りたくなる「隙」がないくらいに名作すぎた。

アニメといえば、『レッド・タートル』も見事に素晴らしかったのに、

作品以上に興行が静かすぎたね。残念だ。

『君の名は。』と公開時期かぶってただけに、余計な哀しみが増幅された。


アカデミー賞絡みの作品群(雑な括り)は、やっぱり充実している訳で、

2~5月頃の中・大規模公開作は粒が揃う分、一作ずつが記憶の中で際立ち難い。

『ブリッジ・オブ・スパイ』(1月公開だけど)も本当に素晴らしかったな。

俺ごときがベストとかに選出する必要が全然ないくらい。

『キャロル』、『スティーブ・ジョブズ』、『ヘイトフル・エイト』、

『リリーのために』、『スポットライト』、『ブルックリン』なんかは、

いずれも年間ベスト級の好みだし、

『ボーダーライン』もヨハン・ヨハンソンの存在感がもうすこし小さければ、

もっと映画の方が記憶に残っていたに違いない。

というか、ドゥニ・ヴィルヌーヴは個人的に『渦』と『プリズナーズ』を偏愛し、

そういう個人的ベスト作がある監督は、監督作が軒並み好きでもベスト選出時不利。

今年のパオロ・ソレンティーノとかマッテオ・ガローネとかは、そのタイプ。

ソクーロフは正直消化不良。アルモドバルは未食。ウディ・アレンは拒食(ウソ)。

アトム・エゴヤンは久々に面白かった! 気を吐きまくってる感じ。


アメコミ系やSFアクション系も依然好きなはずなんだけど、

最近なぜかあまり乗り切れない。(見逃す映画も増えがち)

自分が堅くなったからなのか、最近は真面目過ぎかバカ過ぎかの両極端で、

そもそもターゲット照準型の作品群が更なる特化路線に舵切ってる感にやや辟易。

その一方で、或る意味「特化型」だけど、或る意味「開放的」な『ローグ・ワン』。

好きでした。


もともと旧作の上映とかに律儀に(?)通わない自分は、

今年も名画座とかその手の特集上映には足があまり向かなかったものの、

『チリの闘い』は壮絶でした。ベストに入れ損ねたものの、時代超越の記録だし、

単年ベストに入れるには収まり悪いから、存在の大きさ故の選外で勘弁を。

温故に没頭して知新なんて何処吹く風の選民的名画座偏愛衆も少なくないけれど、

そもそも名画座に据わりが良くなっちゃってる作品側の力不足な場合もあるのかも。

川崎市市民ミュージアムでの「ケン・ローチ初期傑作集」はさすがに全作観たけど、

古い分だけ「新しさ」が暴れまくってて、

現代映画の脆弱性に軽く(いや、かなり)凹んだくらい。


映画祭には、今年もそれなりに通いはしたけれど、

ばっちり参加できない映画祭には全く行かないという極端な選択に走る傾向も。

今年は近年では珍しく、イタリア映画祭で一本も観なかったし、

フランス映画祭も昨年に引き続き全く不参加。

SKIPシティDシネマ国際映画祭は今年も快適で、

全作それなりに見応えあったけど、頭抜けた作品には出会えなかった。

ラテンビートは相変わらず好いのをもってきてくれてるという感謝。

昨年の東京国際映画祭で見逃した(というか、いずれどこかでかかるの期待した)

フレデリック・ワイズマンの『ジャクソン・ハイツ』は「予定」通りの充実作だし、

『彼方から』や『名誉市民』という、映画祭などで既に評価済の良作はやはり好い。

久々に映画館での開催となったドイツ映画祭も好かったな。作品は小粒だったけど。


東京国際映画祭で観て気に入ったのは(観た順)、

『サファリ』、『フィクサー』、『アクエリアス』、『シエラネバダ』、

『フロム・ノー・ウェア』、『ザ・ティーチャー』。

『あなた自身とあなたのこと』は実に愉快で実に深い。

ホン・サンスは大好きなはずなんだけど、ベストとかで選ぶとなると外す気分。

コンペでグランプリになった作品は全く好いとは思えなかったし、

大好評だった『ダイ・ビューティフル』も、同監督の前作の方が個人的には好き。

ジョアン・ペドロ・ロドリゲスは興味深いし実力者だと思うけど好きじゃなく、

大好きなラヴ・ディアスは観られなかったのが悔やまれる。

金獅子獲ったのと一緒に、どこかで上映して欲しい。

(二作併せると、上映に半日かかる…。)


フィルメックスは、小さめ(?)に参加。

『マンダレーへの道』は評判通り、『よみがえりの樹』は個人的にもグランプリ。

「山」がついてる映画群では、アミール・ナデリのヘンテコ映画が一番好きだった。

『普通の家族』も望外に好く、フィリピン映画「来まくってる」確認、何度目か。



最後に、日本映画。

自分のベストには『この世界の片隅に』しか入れてないけど、

世の中的には、質的にも動員的にも「大当たり」といわれてる今年の日本映画。

個人的には正直やはり余りパッとせず。

とはいえ、本数見てないから偉そうには言えないはずだけど。

昨今の日本インディペンデント映画特有の「甘え」がありそうな映画は

端から観なくなったので、憂鬱や落胆で劇場を後にすることも少なくなったけど。

実写で一番好かったのは、『風の波紋』かも。映っているもの全てに魅了された。

空気にまでも。まさに、実写の魅力。

(いくら威勢の良いアニメでも太刀打ちできない魅力。)

恥ずかしながら(って形容がかつては似合っていたし、そこがツボだった)大好きな

岩井俊二の『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、巧さに磨きがかかってて、

批評受けするほどに私的なトーンはダウンするタイプの映画作家です。

『ちはやふる』は評判良くて、一気に観られるようになってから行きました。

好きな方のキラキラで、火花散ってもキラキラしてる青春でした。

『海よりもまだ深く』は、ハナレグミの主題歌がしばらく脳内木霊なくらい沁み、

『ダゲレオタイプの女』見逃したままの黒沢清の『クリーピー』、面白かった!

『シン・ゴジラ』も世評に納得の面白さ。庵野監督の喜八リスペクト姿勢にも好感。

日本の実写劇映画で私的ベストは『オーバーフェンス』。

役者の本領が美しく編まれてた。

(『怒り』は、演者の演技の個々が際立ち光りすぎ、解れや綻びが気になった。)

演技の華麗なる飛躍といえば、『ヒメアノ~ル』の森田剛。

演技というより、存在のアンサンブルが心地好かったのは、『何者』。

自己主張大得意系旋律な中田ヤスタカが、好い劇伴つくってた。

でもって主題歌の存在感は、『ちはやふる』の「FLASH」に続いて出色だし。

さすがは『LIAR GAME』成功の立役者、功労者。

批評の潮流に乗り遅れまいと(笑)義務感から観た『溺れるナイフ』、

いやぁ好かったです。たまには素直に他人の声に耳を傾けるべきですね。

と、書いてみると(述懐してみると)、やっぱりあまり観てないのかも。

観賞のカバー領域が「つまらない」という体感を醸造してる気も。

もっとちゃんといろいろ観ないといけないのかもしれません。

ドラマは好きでよく観るんですけど。家で気楽に観られるからね。

日本のインディペンデント映画は、小劇場の演劇観に行く時の覚悟を要する…

的な位置づけが自分のなかにはあるのかもしれない。と書いてて再認識。

それ言うなら、アテネフランセとかシネマヴェーラとか(ラピュタは更に)から

足を遠ざけさせる気持ちも、きっと同根な気がします。

或る種の「コミュニティ」への苦手意識が、我が弊害なのかもしれません。

(これも、或る種の「コミュ障」ってやつなのか?)



振り返りの冒頭で、「映画との付き合い方」みたいなこと書いたけど、

私的な観賞スタイルのみならず、今や映画を観る方法は多様化の一途というか、

発展途上・・・急成長? 配信の勢い(投下量)とかすごいし。

正直、全然追いつけてないし、追いつける自信も全然ない。

けど、今後益々個人レベルじゃカバーしきれないほどの量や選択肢が増えることで、

否が応でも自分自身でスタイルを選択・確立していかざるを得ない気もする。

それは自ずと「量より質」を求める思考を促すかもしれないし、

「どれだけ観るかより、どうやって観るか」に心が配られるようになるのかも。

それは観る側だけの問題でもなく、観せる側の変化にもつながるだろうし、

本当の意味での「民主化」とか「自由化」とかに向かうかもしれない。

自分さえしっかりすれば「できる」状況に、もう既になってはいるのだろうけど。

言葉ばかりが上滑りしてる感は否めなかったけど、

実際レベルでも重要度が否応にも増している、

「個の時代」という意識。

「個」が重要なら、「時代」とかとは縁切るはずなんだけど、

そこのところが現代の特有とも言えるわけで、特長にするべく努めるしかない。

我が未知を行くことを厭わずに、我が道を模索する。

一本道なら楽だったのに・・・。

自由を享受するために、自分から自由にならねばならぬ時代になったのか。

いや、時代のせいじゃない。自分のせい。

って、何の話してるんだ? 映画の話、してたんだ。

そういう話になるんだな、俺の映画の話し方。

映画に限らず、きっと何の話でも。